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スグルがいなくなったのを見て、ミチカが腹に溜め込んでいたものを一気に吐き出した。
「それにしても、ますますあなたが分からなくなったわ。人の趣味に口を出すのは好きじゃないけど、はっきり言ってあれは最悪ね」
「────」
ヴォイドは昨夜と同じ位置に腰を下ろし、黙々と干し肉を齧っている。
「わたしがヨークのエロジジイの猥談を我慢して聞かされている時に、あなたはそのエロ息子とちゃっかり実践までこなしていたのね。わざわざわたしのパソコンにあんな卑猥なメールを送りつけるあいつの捻じ曲がった性格にも反吐が出るけど、そういうことを平然とやっていたあなたの顔を見ると、もっと気分が悪いわ」
ミチカの怒りは収まらない。どうしようもないくらいに心が掻き乱されているのは────相手が、この男だから。
「人ってどうしてこうも哀しい生き物なの? キヌア=キャリエル=ブラッド────あなたがその名を捨てることになった訳を忘れてしまったの? あんなに愛した人をどうして簡単に裏切ることができるの? わたしはあなたを買いかぶり過ぎていたのかしら」
険しい目つきは徐々に悲しみの色を帯びてゆく。ヴォイドの美しい顔を見つめれば見つめるほど、心の中はやるせない思いで満たされていく。
「何とか言ったらどうなの。言葉にしないと伝わらないことだってあるのよ。まさか本気じゃないでしょうけど、あのエロ息子が好きなら今すぐヨークへ帰ってくれて構わないわ。あなたの探し求めているものだって、あいつの命令一つで万全の協力体制が得られるんじゃないかしら」
深海の色をした瞳は、今にも泣いてしまいそうに揺らいでいた。封印していた一人の女としての思いが喉元まで込み上げている。それをぐっと押し留めて男の言葉を待つが......
ヴォイドは黙ったまま一切の弁解をしない。彼が何を考えているのかは、ミチカならずとも多くの女性が常に知りたがっていることだ。
沈黙が2人の間に充満して数分後、出入り口のシートを開けてスグルがテントから出てきた。
ミチカの様子が気になってテント越しに2人の会話に聞き耳を立てていたのだが、喧嘩の原因が要塞のアルトゥールとの一件だと分かるといてもたってもいられず、自分から真相を話すことにしたのだ。
「あの、ミチカさん......実は」
「お前はあっちに行ってろ」
ヴォイドが一蹴する。
スグルはそれには従わない。ミチカを苦しませているこの状況を打破することが先決だった。
「それは、僕のせいなんです」
「あなたのせい?」
首を傾げた彼女の飾らない真っ直ぐな瞳は、今は大波に翻弄されるかのように失意に揺らめいていた。それを見て、こんなことになるなら最初から伝えておくべきだったと後悔が募る。
「あの日、僕が勝手に要塞の格納庫に忍び込んで......兵士に捕まって地下牢に入れられる寸前に、ヴォイドさんが助けに来てくれて......」
「なんですって?」
「司令官が僕の釈放と引き換えに無理やりヴォイドさんを......」
パチン────!
ミチカの右手が手加減無しに小さな頰を打った。口紅を施さなくても赤みを帯びた肉厚の唇は、怒りで震えていた。
「ごめんなさい」とスグルが謝るより先に、彼女は小走りでテントの中へ入ってしまった。
妙に時間を経てから左頬を手で摩ったスグルは、何が起きたのか、あっけに取られてしばらく理解できずにいた。
「だからあっちに行ってろと言ったんだ」
ヴォイドが疲れたように言葉をこぼし、重い腰を上げる。この世で最も厄介なのは女の涙なんだぞとでも言いたげな顔で。
それもいつの時代でも変わらないものであったが────スグルには理解不能だった。何しろ女心が生み出す摩訶不思議な現象など、初めて目の当たりにするものであったから。
山の木々がざわつき始めた。風が出てきたようだ。
キャンプを張った中腹から麓までは、下りの方が低速を強いられる。正午過ぎに出発してギリギリ夕方に下りられるかどうかだった。
ミチカは私情を挟んで予定をオーバーしたことも、スグルを叩いてしまったことも、テントでひとしきり泣いた後にはもう後悔していた。傍でヴォイドが優しく見守ってくれ、ファイはオヤジギャグで元気付けてくれ、そのうち悩んでいることがバカらしくなってきて、いつまでもグズグズとここに留まっているわけにもいかないと吹っ切れた。
「スグル」
テントから出て、スグルを呼ぶ。
膝を抱えた格好で、焚き火の跡の灰を細い木の棒で突いている少年の姿があった。
この子のせいでヴォイドがアルトゥールと寝なければならなくなったのだと、そう思った一瞬、咄嗟に手が出てしまった。せっかく勇気を出して自らの非を申し出てくれたのに、それを問答無用で打つなどわたしこそどうかしていた......そんな反省を抱きつつ、
「ごめんね、ス......」
言いかけて、息を飲む。
小さな身体の背後に、体長3mはあろうかと思われる大型の獣が忍び寄っていたのだ。形は山犬のようで毛色は白く、目が合った人間を警戒しながらゆっくりと標的に近づいている。
「危ない!」
獣の口がぱっくり開いたのを見て、ミチカは叫んだ。巨大な山犬はスグルの胴体を口に咥えて跳躍すると、ミチカを視界に据えたまま、ウゥゥと低く唸って後退さる。
叫び声を聞いてファイとヴォイドもテントから出てきた。
山犬は────おそらく、これがバミラ山で目撃された奇形種なのであろう────木々の合間まで後退すると、スグルを咥えたまま獣道に逃げ込んだ。
ヴォイドは大剣を、ファイは銃を2丁テントから持ち出して、すぐさま山犬の後を追う。
「ミチカはキャンプにいろ。スグルが自力で戻ってくるかもしれない」
ヴォイドの声が聞こえた時、彼はすでに獣が姿を消した森の奥へ分け入っていた。
「心配すんな。例のおやつとやらを作って待ってりゃいいんだ」
愛用のマカロフPMMをミチカに放り投げて、ファイも獣道へ入っていった。
銃を受け取り、両手で顔を覆ったミチカ────祖父がよく作ってくれた素朴な味のパンケーキのレシピを思い出すには、まだしばらく時間がかかりそうだ。




