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流したのは悲しみの涙じゃないのよと、しばらくしてからミチカは笑ってみせた。
「ありがとう。あなたがいたから祖父のメッセージが聞けたわ。106日遅れだったけど、ちょうど20歳の年にね」
拡張自体はそんなつもりでやったわけではないが、結果として彼女を喜ばせることができて良かったとスグルは思う。同時に、彼女の祖父が残した言葉の意味を、自身も少し考えていた。
愛する誰かと共に寄り添い生きていくことこそ本当の幸せなのだと、年老いたアルフレッドの声が語っていた。その1時間半前に自分はヴォイドに向かって、愛なんて感じたこともないし理解もできないと言い放ったばかりだった。
「どうすれば人を愛することができるんだろう......」
エリア内の駐車場に停めてあるミチカのバイクを点検しながら、ボソリとつぶやいた。傍で、アシモが良き話し相手になってくれている。
『分からない。でも愛し方は人それぞれ』
それはロボットにできる、限界の応答かもしれなかった。
スグルは作業の手を休めて地面に座り込んだ。
「そういえば......ヴォイドさんて本名じゃないんだね。ファイさんもかな。2人とも、いかにも空虚なネーミングだとは思っていたけれど」
それには、メモリーチップに記憶されたデータを検出して、適当な返事が返ってくる。
『空虚を意味するヴォイド。空集合を表す記号ファイ。そう。それは彼らの本名ではない』
「どうして名前を隠しているの?」
『スグルもミチカに言われているだろう。『スグル』までならいいけど『アカツキ』は出さない方がいいと。本名がばれてしまえば面倒なことになる。だから仮の名を付けている』
「名が名乗れないほど、2人はそんなに後ろめたいことでもしたの?」
『アトミックブライトの開発ほどではないだろうけどね』
「メモリーの拡張でとうとう嫌味までマスターしたか」
ボヤくように言ってから、立てた膝に腕を乗せその上に顎を乗せて、蛍光灯の明かりに寄り集まっている小さな羽虫を見つめた。
世界を破滅の危機へと導いた、史上最悪の物理学者スグルアカツキ────それがこの自分だなどとはとても信じられないが、フルネームが一致する偶然は妙なシンパシーを感じさせる。おそらく彼も、愛などという極めて抽象的で非科学的なものには見向きもせずに、人類最終兵器の研究開発に全てを注ぎ込んでいたのだろう。
人の命などは今そこを飛んでいる羽虫のそれくらいにしか思っていなかったのではないか。あの要塞の司令官のように。そして兵士が切り殺されるのを、さほど驚きもせず眺めていた自分のように。
地上の人間をすべて滅ぼす目的で作られたアトミックブライト────それを開発した者の気持ちがなんとなく理解できるのは、単に名前の一致がそんな気にさせているのかそれとも本当に......
作業に戻り、ケースからスパナを取り出してホイールボルトを一つひとつ丁寧に締め直していく。
「ミチカさんの両親は亡くなったの?」
他人のことには無頓着なスグルだが、彼女のことなら知りたい欲求も湧いてくる。
『父親はミチカが5歳の時に母親はそれから1年後に亡くなった。ミチカは16歳までアルフレッド祖父さんに育てられた。アルフレッド祖父さんが亡くなった後、2年間ここの首領の世話になってゲストハウスに住んでいた。それからファイが迎えに来てヴォイドと一緒に3人で奇形種調査の旅に出た』
「ふうん......ファイさんて、ミチカさんとどういう関係?」
『驚きだ。スグルがそこまで人間関係に興味を示すなんて』
「その驚き方、2度目だとパターン化してるのがよく分かるね」
『ファイはミチカの父親の友人でミチカのことは生まれた時から知っている。アルフレッド祖父さんが亡くなってからファイはずっとミチカを探していた。今ではミチカの父親代わり』
パターン化どうこうは無視して、アシモは訊かれたことに関する情報だけをスグルに伝える。
「父親代わりか......確かにファイさんは、ミチカさんに最も信頼されている人のようだ。一風変わった人だけれど、ミチカさんを陰でしっかり支えてるようだし」
『驚きだ。スグルがそこまで人間関係を考察するなんて』
抑揚に欠けた音声が、味をしめたようにまた驚きの感情を擬似表現した。
スグルは、やれやれとアシモの頭を撫でて言った。
「その人工知能にバリエーションの幅を持たせることが、当面の課題かもしれないね」
翌朝。それはもはや出発前の恒例となってしまったのか、この日も去り行く人に高価な物資が贈られた。貯蔵の利く缶詰や干し肉、小麦粉、香辛料、砂糖、塩などの食料品から、毛布やタオルまで。次々と運び込まれる物品を見て、
「ユーウィン総督には断りを入れたはずなんだけど」
ミチカが訝しがると、
「ユーウィン〈司令官〉からです」
と、運んできた兵士が告げた。アルトゥール=ユーウィン────総督の息子の方からだった。
「どういう風の吹き回しかしらね。雪でも降りそうで怖いわ」
ミチカの様子から察して、昨晩のことは何も知らされていないようだ。
「もらえる物はもらっておこう。今更返すのも面倒だ」
ジープの荷台に入りきらない荷物を後部座席の左半分に載せながら、ヴォイドはいつもと変わらず、坦々と出発の準備を整えている。
これが「大人」ということだろうか────と、それを見てスグルは思う。
人に余計な懸念を抱かせる言動をしなければ物事は円滑に進む。本来非難されるべき人物をかくまってくれさえしているような、これが大人の思慮というものなのか。
「それじゃ、せっかくだからもらっておきましょう。この砂糖と小麦粉でスグルに美味しいおやつを作ってあげる。楽しみにしててね」
昨夜点検後に専属エンジニアが丹精込めて磨き上げたシャドウファントムに、ミチカが笑顔で跨った。
本日も快晴。充電チャージメーターもフルチャージの5段階を指し示している。
「行くわよ」
乾いた大地に痺れる爆音を擦りつけながら、漆黒の弾丸メタルがヨーク要塞の正門を疾風のごとく駆け抜けた。
100㎞先には、グローバル屈指の主要都市パドルスクへと続く、険しい山道が待っていた。




