先輩の力を借りて
「お前は、俺を振ったじゃないか」
刀は氷を崩す手を止めた。そして顔を上げて俺を見遣る。
「そんな積もりではなかったが」
「逃げたし」
俺の言葉に刀の眉が上がる。
「ではあのまま御辺に手籠めにされろと!?」
「声が大きい」
刀ははっと我に返って周りの客を気にした。膨れ上がった感情を遣る方なく、仕方ないので抹茶あずきにぶつける。
しゃくしゃくかき氷がほぐれていく。
「食べたらどうだ」
「……頂戴する」
さっき刀の手元に抹茶あずきが来たとき、あんなに目を輝かせていたのにすっかり空気が変わってしまった。
あれは俺の力じゃない。
お前が逃げてくれて、むしろ俺は助かっている。
「今、御辺は懸想をしているのか?」
「うん」
「何奴じゃ?」
「それが」剣は窓の外を眺めた。「名前すら知らないんだ。消息不明。ネット上では並ぶ者がいないほど有名人なんだがな。世界で最も加工され人々の玩具にされた人間だ。二年ほど捜索しているが何の手がかりもない。
まるでおとぎ話だよ。日本のどこかで……息を潜めているんだろうけどなァ」
指南役は、浪漫主義者なのだな。
「お前はどうなんだ?」
そうして、剣は刀の目をのぞき込んだ。刀は目線をそらす。
「よく……解らぬ」
刀は顔をピクピクさせ、何度も首を振った。
白に淡い藤の花が描かれた浴衣は、木目調の内装にマッチしている。
俺は抹茶を口に含む。ああ苦い。ただ苦い。
「融けるぞ」
と言われて刀はかき氷を口に含んだ。氷の粒が非常に細かく、口に入れた途端にふんわりほぐれる。刀は目を見張った。
食べている場合なのだろうか。でも斯様なかき氷は今まで食べたことがない。刀は混乱しながらも抹茶あずきを平らげていく。
少し、落ち着いた。
好機逸すべからず!
明鏡止水。明鏡止水。
「正直に言えば。何か悔しいのだ」
剣は羊羹を切り刻むサディズムを刺激される遊びを止めて顔を上げ、話し出した刀を見る。
「御辺が、もし誰かと懇ろになったらと考えると。……焦燥するのじゃ」
刀は左斜め下を向いた。
俺は羊羹をひとかけら口に入れ、口ん中を散々甘ったるくしてから抹茶を飲んだ。おお。
「お前さ、俺と初めて会った時のこと、憶えてるか」
「ああ、つい昨日のことのようにな」
わずかに、刀は笑った。
「不思議な心地じゃ。あの時は某を拐かそうとする大男に組み敷かれ、胸の裡で辞世の句まで詠んだというのに」
苦くて、甘い。
「あの時、上から人々を見下ろすお前を見て、はっとしたんだ。うまくは言えないんだけど、お前は俺には見えないものを見ているように思った」
「見てはおらぬ。探していただけだ」
「だろうな」
二人は笑った。
「そもそも、今俺がサッカーやってるのも、お前に出会ったからなんだぞ?」
やはり刀は笑っていた。
冗談、ではない。自分の言葉が真実であることに、剣自身が驚いていた。
店の前に、行列が伸びる。刀に急かされて、仕方なく茶屋を出た。さて、今日は試合だ。もう行かなくちゃ。
家に戻ってきても、まだまだやるべきことがあった。来週にはB級コーチ講習会がある。
もう、警官と鬼ごっこする必要はない。一方で、寂しさも覚えた。
「ヌッ!」
一息つく。
そのときだった。
サッシがガンガン音を立てた。またもや三浦が逃走。
俺は頭を抱えた。
「あのなあ、男の家にホイホイ上がり込むんじゃない」
フランはベランダで靴を脱ぐと黙って入ってきた。
あれ?
「お前、今日試合だろ?」
「しばらく静養しなくちゃいけないって。オーバートレーニング症候群」
息ができない。
フランは遠慮なく、俺の家のすみずみを見て回った。何の意図があるかは判らない。
「……お前、食事はきちんと摂っていたのか?」
「ないわ。疲れてたから」
そうして、俺の前に立つ。
「甘えさせてよ。わたくし、弱ってるの」
「どうして休ませろと言わなかった」
「試合に出たかったのよ。それだけ」
あ。
俺の、せいか?
俺が、お前を干したから。トラウマになって。
「なんかもう駄目になっちゃいそうなの」
フランが俺に抱きついた。
フランは、また少し大人になっていた。




