ときめいて
「ちょ、まだコーチいるよぉおおおお?」
弓が素っ頓狂な声を上げた。ランスがシャツを脱いでいる。スポーツブラだけのマッチョな上半身が露わになる。
「問題ない。コーチはゲイなのだろう?」
東京は五月も過ぎればほとんど夏だ。そして20日は30度を超えていた。まだクーラーの効いてない練習後のドレッシングルームは蒸し暑かった。
そう言われてみると男扱いされていないようで、剣も少しは不愉快だった。
「それもそうね」
と、レイピアもシャツを上げる。刀も慌てた。細く白い肌が覗く。剣は急いで退散した。
廊下を、スタッフが歩いてきた。
「その姿勢はやめろと言ってるだろ」
スタッフはピッチに立っているとき以外、いつも猫背だ。どうも天然ではなく、意図的にそうしているようだ。しかしスタッフは俺の言うことを聞きやしない。
「仕方ないのよ」スタッフは虚空を見上げてつぶやく。「妾が闇を貪るものを背負っていないと、たちどころに皆に取り憑いて悉く譫妄になるのだけれど。貴方それでもよくって?」
「あー、じゃあお前はその大変な激務に励んでくれ」
俺はミーティングルームに入った。
男に求愛される。
それがいい男だったらもちろんうれしいが、ブサくてもまあ少しはうれしい。
ヴァッフェU-18の面々だって女の子だ。例外ではなかった。
剣は少しずつ、コーチとしての風格を身につけていった。
「なるほど!」
と思うことが増えてくる。信頼感が増す。
こんなに若い指導者は珍しい。190cmオーバーなんて、滅多にお目にかかれないしまあそりゃ、好意を抱いてしまう者が現れるのも仕方ないだろう。年頃の女の子が恋愛禁止を言い渡されるなんて半分殺されるようなものだ。
そして、この男を狙う者もどうやら一人ではないようだった。
ところが、この男、もしかしたらホモかもしれない。
ホモに恋愛感情を抱くほど滑稽なこともない。
だからといって簡単に諦められるものでもない。いや、むしろ障害があるほど燃えるものだ。
しかしどうやら、どんなに待っていても剣が告白してくれるなんてイベントは起こりそうにない。シンデレラ症候群の彼女たちは苦悶する。
そして諦めようと努力してみると、アスリートである彼女たちの別の側面がむくむくと立ち上がってきた。
日本で育つと日本の文化を吸収する。ああ、女という生き物は男にプロポーズされてそれにOKを出して男とお付き合いするのだ。女はスケベな男達から追われる、待ってればいい立場だ。女は消極的に受動的に男に愛されて生きるのだ。なんて、TVドラマ、アニメ、書籍から学ぶ。時に花束を手に追いかけてくる男達をはにかみながらもしくは申し訳なさそうにお断りするのだ。
しかし今回の恋は待つだけでは叶いそうもない。
彼女たちは自分の意思でサッカーをしようと決めた、前向きな性質の人間だった。
ボールを追いかけるように、奪うように、思い切り蹴っ飛ばすように、欲しいものは自分で勝ち獲ろう。
普段はサッカーに向けられている情熱が、剣に向かう。
そんな雰囲気を、弓はチームメートからびんびん感じていた。
ノックの音がした。
そんなことをする奴はフランしかいない。
でも待てよ。あいつは移籍している。まさか俺の話を聞くため横浜からお礼参りにヴァッフェの本拠地まで攻め上るなんてことがあるだろうか。
「入って、どうぞ」
「失礼、する」
モーニングスターだ。
黒と金が入り交じった洗い髪を右に束ねて下ろしている。体つきはがっしりとしていて肉感的。目つきが鋭く、若干、そばかすが目立つ。
キャスター付きの事務椅子に座って、剣は机に手を掛けると思い切り押す。その反動で剣はくるくる回りながら言った。
「悔い改めて」
モーニングスターは目を見開いた。胸元のロザリオを握る。
もしや、自分が日頃抱いている邪な部分を、見透かされている?
モーニングスターは生唾を飲み込んだ。息も絶え絶えに口を開く。
「このへんが痛むんだけど診てくれない?」
苦しそうだ。仕方がない。剣はモーニングスターを座らせ、ふくらはぎを診てやった。
「筋肉の酷使かな」
「だと思う」
俺は給湯室から氷嚢を取ってきて裾を上げさせ、患部に当てる。そうして乳酸を除去してからお湯で温める。それからゆっくりと筋肉を伸ばしてやる。本来、こういう仕事はフィジカルトレーナーの仕事だが今日はトップチームについている。
「おい気持ちいいか木村ぁ」
剣は請われるがままにマッサージをしてやった。一応、それなりの知識はもっている。可哀想に、モーニングスターは荒く息をついた。
「今日はゆっくりと風呂に浸かれ」
「ここも……」
むう。
俺はモーニングスターをうつ伏せに寝かせ、膝立ちになってのしかかるようにして、腰方形筋をほぐすように揉み始めた。我ながらよくここまで鍛えたものだ。筋繊維はぱんぱんに肥大化してはち切れそうだ。実際に頑張ったのはモーニングスターだがね。
「もっと下……」
「臀筋は嫌だぞ。セクハラになる」
「私がいいって言ってるんだからいいでしょ」
モーニングスターは眉を曇らせる。
剣はため息をついて手のひらでぐりぐりと押してやる。大きな手に押されてモーニングスターは呻いた。
そんなにきつくはしてないつもりだが。剣は唇を結ぶ。
ドアがわずかに開いた。俺は立ち上がって駆け出した。
「ようこそポルターガイストく~ん! 初めましてだね! こんばんはぁぁぁぁ」
悲鳴を上げて刀、弓、ククリ、ティンベー、ショーテル、スタッフがぱたぱた廊下を駆けていく。ああ、その向こうにも、もっといた。




