S波 ②
西武新宿線に乗る。下りだったためか座席は空いていた。
……どこを見ていいかわからねえ。サングラスとはいえ露骨に見ていたら気付かれるかもしれん。
向かいの男を見て……ホモがバレたらどうしよう。
向かいの女を見て……惚れてると思われたらどうしよう。
電車でのスマホはペースメーカー使ってる人に気がとがめるので無理。
風景なんぞ見ても何も楽しくはない。
仕方がないから見たくもない広告に目を這わせるしかない。ああ、うまくできている。
電車は、ちょっとした拷問だ。
ああ、連中は俺を見て、こいつはきっと頭がおかしいと思っているに違いないのだ。
何かを心に留めていないと、駄目になっちまう。
そうして引っかかった。
罪悪感。
早稲田大学東伏見キャンパス。
着くや否や指導員らしき男がダッシュで俺に向かってきた。
「あなた、降魔剣さんですよね?」
「……ええ」
「オリンピック金メダリストの」
「そうだ」
男は視線を下げた。俺は股間でもチェックしているのかとどぎまぎする。さすがに今日は開けてない。
「剣さん、テニスに戻った方がいいよ。あなたのそれは才能だ。天賦の才だ。誰もがあなたのように強いバックハンドを打てるわけじゃない。あなたのようにサービスエースの山を築ける日本人なんていないんだ」
「俺がテニスを止めたきっかけは知ってるかい? あの日、俺の背に重い楔がくくりつけられ、鍵のない錠前が嵌められた。俺は弱い人間だ。そんな状態じゃ繊細なコントロールなんてできない。ほんのわずかなラケットの角度でインとアウトの差が生まれ、天国と地獄を分かつのだよ」
「どうしてサッカーを?」
「テニスはどうしても件の失態のイメージが俺にまとわりついて離れない。サッカーはおそらく少しばかり離れられるだろう」
「もったいないねえ……」
「やめてくれ。俺は同情されるために生きてるわけじゃない」
別の指導員から指摘を受け、俺は伊達メガネを買いに走った。サングラスでは受講できないようだ。
「仮名で構わないよな?」
「無理です」
公認C級コーチ養成講習会は始まった。
ジャージに着替え、自己紹介していく。受講者は大学生から初老まで様々な年代が並んだ。
「降魔剣。サッカーを始めた理由は何となくだ」
皆の顔色が変わった。ああ、眼鏡ごときじゃ何の意味もなかった。
「ご存知の通り、剣さんはテニスプレイヤーでした。しかし、ここでは一人のコーチ志望者に過ぎません」
「願わくば、俺がここに来ていることは誰にも話さないでいて欲しい」
無色になりてえ。
初日からいきなり実践練習になった。受講者三十余名は小学生役。インストラクターの指導を受ける。
「あのさ……君は指導者というより現役でサッカーやって欲しいぐらいなんだが」
キーパーの練習をやっていたらこんなことを言われた。ずいずいと俺の胸が躍る。
でもたぶん、サッカーはそんなに甘くない。
「うん! そうだ! うまいね!」
「そこはダイレクトじゃなくていい。ミスしそうだと思ったら一旦ボールを止めよう」
そういえば(錦織)圭君も、サッカー上手かったな。俺も負けていられない。
リヴィアのゲラルトみたいなおっさんとお手々繋いで一つのボールをドリブルする練習は興奮した。どっくんどっくん心臓が高鳴り俺の体が総力を結集し精子を生産しているのが判った。サッカーボールを使ったテニスやカーリングも慣れ親しんだところだったので異様に燃えた。受講者の中にはすげえ上手い奴がいて羨ましくなった。だからフランにサッカーを教わりたかったのに!
楽しい!
懐かしい。この感覚。
何より指導者の指摘がいちいち的確だった。自分の技術がみるみるうちに磨かれていく。もちろんコーチングの面でも得るものがあった。
「やはり、体力、すごいね」
ゲラルトがぜえぜえ言いながら俺に話す。
「いや、もう、足にきてるよ。昔はこんなのウォーミングアップだったんだが」
寂しかった。俺のアスリートとしての人生は終わっている。
「どうか、しましたか?」
ゲラルトが俺の顔をのぞき込む。
暖かいものが、頬をつたう。
祖国に住んでいた頃、パーティに行くときドレスを着たことを思い出した。
「それでわあ! 今日の主役の登場だあ!」
フランは苦笑を湛えながら食堂に姿を現した。
真紅の波打つ一連のフリルが薔薇の花弁を模したドレス、小さな王冠型のティアラがひょいと乗っかり頭を彩る。
歓声が上がった。
「きれいだよ」
ヴェンティラトゥールのエスコートで主賓席に着いたフランはまた苦笑いを浮かべる。
夢みたいだ。
手造りの飾り付けが部屋のそこかしこを埋めていて胸がいっぱいになる。日本人は器用でこの手の細工に対する想像力が本当に豊かだ。
やがて部屋の奥をステージに見立て、即興劇が始まった。かぐや姫がドラゴンボールを集めるため、偉大なる航路を進み鬼退治をする展開になった。激闘と殺陣、プリキュアや名探偵コナンや大型巨人和田アキ子が乱舞する喜劇にフランも吹き出した。
「どう? 楽しんでる?」
プラチナブロンドの髪がフランの目の前を泳いだ。フランは振り向き、まばたきをした。
二次元から飛び出してきたような子がよく焼けた七面鳥とテリーヌをのせた皿を手に、微笑んでいた。そこだけ、一幅の絵画が掛けられているように錯覚する。
「わたしはクラウンエーテル。よろしくね」
そう言って口角を上げ、皿を置いて、フランのコップにシャンパンを注ぎ、そばに座る。この人、さっきまで司会をしてた。サッカーをやってるとは思えないほど華奢だ。
なんて可愛い人だろう。
昨日の夕食も豪勢だったけれど、今日は更にごちそうが並んでいる。調理場では今もおばさんやおじさんが奮闘している。昨日まで毎日食べるものに苦慮していたことを考えると頭がおかしくなりそうだった。
フランは何度も時計を見遣る。うん。と決心して立ち上がった。
「私、まだアパートの荷物が残ってるんで、取りに行かなきゃ」
「ああん。……残念。早く戻ってきてね」
フランは今日買ってきたカバンを抱えると玄関に向かった。寮母さんが不思議そうな顔でフランを見送る中、スカートの裾をつまんでもう真っ暗になった外に飛び出す。




