P波
色のない夢を見たのじゃ。
頭が重い。
眠いが眠れない。
這うように蓐から起き上がる。
確かに某にも油断があった。
指南役が衆道に血道を上げていると聞いておったからの。
それは。下克上。
生まれて初めて。
男子に懸想をされたのじゃ。
「刀。墨がこぼれてるぞ」
モーニングスターがアルトの声で告げる。刀は慌てて容器を上げた。硯から墨汁が溢れ机に広がる。ため息をつく。
「はいでは次、……梓さん」
弓は背筋を伸ばして立ち上がり前に出て白墨を摘まむと器用に黒板を埋めていく。
「はい、いいですね」
弓殿は某とは違い、英語も器用にこなす。某が得意な教科は古典と日本史……。
某は、黴の生えた女子じゃ。
勲立高校は、ヴァッフェに在籍する生徒が多数通う、進学校だ。有名なのは紺のジャンパースカートにグレーのブレザー、純白のリボンというセーラー服で、これを目当てに受験する女子も多い。
「刀ちゃん、風邪でもひいたぁ?」
昼休み、弓は弁当片手に刀の机に寄りつく。
「あ、いや、少々物思いに耽っておっただけじゃ。至って健常じゃ。ただすこぶる眠いがの」
刀は筆を走らせ、板書を書き取っていく。
「達筆だねえぁ」
「いや、某からするとよくもしゃーぺんとやらで書けるものだと却って感心させられるぞ」
刀がつややかな黒い穂先を和紙に躍らせると、みるみるうちに流麗な英文が描かれていく。小筆を使っているとはいえ、行書体が実に細密に並んでいくのはちょっとしたアートのように弓には思われた。
「弓殿は相変わらず明朗じゃの。健勝そうで何よりじゃ」
「そうだね。恋……のおかげかなぁ」
そうして、弓は晴れ渡る青空を想起させる微笑を湛えた。
恋。
古来の日本には存在しなかった言葉じゃ。
でもおそらく。
概念としては無くても、恋はあったに違いない。
男と云うものはまことに恐ろしい生き物。じゃの。
簡明直截に申せば、某は弓殿に嫉妬しておる。
弓殿は己に正直じゃ。天真爛漫に、思うがままに行動する。
某は。いつから道を真っ直ぐに歩けなくなってしもうたか。
夢の中に、まだおるような心持ちじゃ。
ふと、あの悪辣な指南役の卑劣な笑みが全身をくすぐる。
決してうれしいわけではござらん。
うつつ。
てふてふの羽ばたき。
何処へ。
怪。
某も。
男はけだもの。
そう、母から教えを受けた。
つい昨日。某はそれが事実だと知った。
地に足を着く、その感触が惚けておる。
なんたることじゃ。某は幾分、狼狽しておるようじゃ。
正直、己がこんなに弱いものとは思わなかった。
精進じゃ……。
フランをどう使うか。俺は考えるふりをしながらヴァッフェのクラブハウスに入った。ファスナーを開ける。
考える余地なんてどこにもない。
戦術☆フランベルジュでおっけー。
奴をピッチに放り込んでおけば勝手にボールを奪い勝手に持ち込んで勝手にシュートを決めてくれる。
「ああ、エロス君。今月末、忘年会でもやろうかと思うんだけど、どうだい?」
男には、引力がある。
おっさんAのお誘いを断る理由は見当たらなかった。
「それとね、一月からフランを一軍に引き上げたいってライスさんが言ってるんだ」
「……いや、まだ早いかと」
「それがね。間違いなくなでしこリーグでも通用するだろうって言ってるんだよ。僕もね、彼女の成長のためにも是非と思う」
俺は黙って事務室を出た。
練習場に出るとボールを磨くフランを見つけた。
「お前はここに来るまでどこでサッカーを習ってきたんだ?」
「恥ずかしながら、ヴァッフェが初めてです」
俺はフランの顔をかじりつきそうになるほど見つめた。フランは目をそらす。
フランに何かを教えた実感がまるでない。
彼女はみんな知っていたからだ。
一を教えると十まで理解してしまう。
もしかしたら、教わったことの方が多いぐらいだ。サッカー以外のことを沢山学ばされたような気がする。
いざとなったら、フランがいる。アドバイザーとしても、フランは頼りになった。
フランを起用すれば、俺は容易に名を上げられるだろうと考えていた。本気で、サッカー監督をやってみたいと思ったのだ。




