初めてのファン
剣は足取り重く、散乱するペットボトルを蹴りながらピッチを出る。
原子時計は。俺がフランを痛めつけたことに対して何も言わなかった。
ああ、くっそ笑える。
誰か俺を罰してくれよ。
辰砂がドレッシングルームに入ろうとすると声を掛けられた。今日の主審だ。
「ごめんなさい。フランのシュートは完全に入っていました。
今日の試合、何度か帳尻あわせのジャッジをしようか迷ったのだけど……」
死刑宣告を受けたような顔。辰砂は却って主審をひどく気の毒に思った。
「ええ、そういうこともあります。またよろしくお願いします」
辰砂は微笑した。
ヴァッフェの選手達はスタジアムを出て。ゲート前に整列。
じきに観客がぞろぞろと出てきた。ほとんどの来場者はざっと見て剣がいないのを察すると素通り。選手達はこわばった笑顔で甲斐甲斐しくお礼の言葉を掛ける。
「これ、剣に渡しといてくれ」
と、おっさんHは軽くてピカピカのラケットを独鈷杵に押しつけた。
「これにサインください」
ランスは下を向いた。小さな女の子が、サッカーボールを抱え、おずおずと油性マジックを差し出す。
「わわ、我が輩でいいのか?」
「うん」
ランスはしゃがみこむ。おどおど、しかし流麗な筆記体でボールに名を刻んだ。
「ありがとう」
そうして両親に手を引かれ。しゃがみ込んだまま姿が見えなくなるまでぼんやり背中を追う。今動いたら涙が零れる。壊れてしまわないように。
しばらくそのままでいた。
今日のプレーの話を振ってくれる人もいた。それは嬉しい時間だった。
人気だったのはマン・ゴーシュだ。男性に次々とプレゼントを渡された。だが終始本人は仏頂面だ。
こんな儀礼すっ飛ばして、フランについていくべきだったか?
剣は機嫌の悪いゴリラのように意味も無く廊下を歩き回っていた。小野が何か書類を持って歩いて行くのが見えた。俺の見てないところで何か仕事をしているのだろうか。
「ありがとう。今日勝てたのはお前のお陰だ」
こういうの、慣れてない。
小野は無表情のまま俺の顔を見ていた。俺はロマンスをびんびんに予感した。ナンパってきっとこんな感じだ!
おっさんAが俺を呼ぶ。なんてこった。記者会見に出なきゃいけない。
俺は現実に引き戻された。俺の心は半分遊離して、フランの病院に付き添う。
「率直なお気持ちをお聞かせください」
「うちの選手にはもう言っていたんだが、この試合に勝たなかったら指導者を辞めるつもりだった。
勝てる見込みがまったくない試合に数字上、勝った。守って守って耐えて耐えて対症療法で勝った。活路エクゾで勝ってもまったく面白くないよ」
「ずいぶんと分の悪い賭けのように思われますが、指導者への未練はなかったのですか? B級コーチを受講中のはずですが」
「正直、俺が指導者に向いているかどうか判らなくなった。未練はあるが、サッカーの神様に訊いてみようと思った」
「フランベルジュのFKは微妙な判定でノーゴールになりました。どうお考えですか」
「うちにだって不利な判定はあった。うちに有利な判定だけああ入ってますね得点を認めてくださいと貧乏くじを引くわけにもいかない。神様視点でさ、一年通した大局で見れば平準化されていて案外公平になってるもんだよ」
気を抜くと不安に駆られる。いらいらした。
フランが後遺症の残る怪我をしていたら。
「ピッチの状態がかなり悪かったように見えました。芝の長さはどんなリクエストをしたのでしょう?」
「13センチぐらい」
記者席がざわざわ。さすがにこれはまずいか。
「1か2……ぐらいですねえ」
「ハルバードをCFにコンバートしましたが、横浜に対してハマっているように見えました。ハルバードにアタッカーの経験は無いようですが、ハルバードはあなたの要求をすんなり受け入れましたか?」
「抵抗はないですよ」
「選手達から、その……熱烈な祝福を受けていたようですが、選手達とは良好な関係を築けているんでしょうか」
「大丈夫でしょ」
「あの……キスは少々過激、というか行き過ぎかと思うんですが」
「ま、多少はね? イキスギィ!」
唐突に剣は叫んだ。おっさんAが卒倒して倒れた。バタバタと上手が騒がしい。
(なんだか情緒不安定だね)
(やっぱりトラウマかなんかになってるんだろうか)
(まあそれは現役のときからだったらしいけど)
記者がヒソヒソ話をしている。
「反省会を始めます」
ドレッシングルーム。シャワーを浴び着替えを終え軽食を摂って落ち着いたところで、辰砂が切り出した。
金閣寺が珍しくお怒りながら手を挙げる。
「今日のピッチ、ひどいもんやったわ。水も撒かへんからボールも止まってまうし。どうにかできひんかったん?」
続いて原子時計が手を挙げる。
「試合前に審判団に強く抗議すべきでした。僕の落ち度です。申し訳ありません」
陽子は頭を下げる原子時計をにらむ。そんなことを言いながらこの男が冷静なことが気にくわなかった。もしかしたら、わざとあのピッチを看過したのかもしれない。選手に進んで困難を課す。この男のやりそうなことだ。
そしてオー・ド・ヴィ。
「今日の敗戦は私の責任だ。私が、ハルバードを抑えられなかった」
原子時計が再び。
「いえ、こう言ってはなんですが190cm弱のハルバードはあなたには荷が重すぎました。うちの弱点が露呈した形です。今後、選手編成を再考します」
金閣寺が再び。
「それやったらうちの責任も大きいわ……」
辰砂。
「ここんとこ、余裕で勝っていたから……。うちは接戦《crossgame》の戦い方を忘れていたかもしれない。最下位のヴァッフェ相手というのも油断の原因だった」
鐵。
「どうにも腑に落ちねえ。今日の試合、終始ヴァッフェに走り負けたと思う。ずっと向こうに余裕があった。どうしてだ」
辰砂の細い腕はぴんと伸びる。
「単純な話。走り負けたのではなく、ヴァッフェは走らなかった。極力プレスに来なかったのよ。
リトリートしてうちが攻めてくるのを待った。ボールを取ったときだけ、前線がスプリントしてカウンター。基本的に守備って攻撃側より多くの人数を掛けて行うものだから、うちの方がたくさん走る羽目になる。アウェーで行われたW杯予選UAE戦、サウジ戦、相手はリトリートしてプレッシングをほとんどしなかった。日本は走りまくったあげくガス欠」
硫黄泉。
「でも、攻撃側、ボール保持側が体力的に有利なんでしょう?」
再び辰砂。
「普通は。でも今回は違う。あのピッチだ。普段だったらうちはロンドができる。さっきも言ったけど守備は数的有利で行うのがセオリー。パスを回す技術が高ければこっちはほとんど動かず、相手は複数がボールを追い回すといううちが目指すサッカーができる。バイタルエリアに迫れば相手はさすがにプレスをかけざるを得ないからね。しかしこのピッチではロンドもままならなかった。
おまけにこのスタジアムはピッチも狭かった。狭いとどうしてもフィジカルコンタクトが増える。そして深く乾燥した芝が足に絡みついて筋力の劣るうちらの体力を徐々に奪っていった。東京はコンセプトを徹底していた。加えて言えばヴァッフェは先週試合がなく、体力的に有利だった」
ヴェンティラトゥール。
「攻めすぎたってのもある。確かに娯楽性に乏しいサッカーになるかもしれないけど。こんな環境ではともかく勝利を優先するべきだった。勝ってたんだからもっと向こうに無理をさせなきゃ。結構暑かったし」
クラウンエーテル。
「確かに、審判のミスもあった。でも絶対にミスしない審判なんていない。審判への抗議に固執してしまったのが今日一番の反省材料だと思う。
基本的に判定は覆らないと考えるべき。判定は運命だと受け入れた方がいい。たびたび判定を覆していたら選手は審判へ今以上に抗議するようになる。抗議したもん勝ちにするわけにはいかないでしょ」