興奮して、家を飛び出した
誤字脱字などありましたら教えてくださるとうれしいです。
あの人は自分の分身がこれだけネット上に氾濫する世界を眺めて何を思うだろう。一語一句が流布され、すべての姿勢や動作を切り取られて玩具にされるこの世界を。
最後の作品から十四年もの年月が過ぎた。
お日様は、未練を残しつつも覚悟を決めて、落ちかかる。早くも家路を急ぐ人々がぽつぽつと風景に挿入されていく。
この日本のどこかに、彼はいるだろう。
いやもしかしたら国外かもしれない。どこでもいいさ。どこにいようが探し出す。既に死んだとの根も葉も茎もない噂もある。ひでえ冗談だ。
「ぽ~ー~う!」
叫ぶ。走る。
「ああ! 変態になりたいなあ!」
脇役の皆様方が、奇異の目を向ける。ほら、オレは危ない奴だと思われている。
違うんだなあ。俺はお前らの反応を見て嗤っているんだぜ? 俺に騙されているお前らを俺が内心笑っているのだ。俺を深遠とでも呼ぶがいい。ああ、四人の公王との戦闘は楽しかったなあ。いや待てよ。実は狂人のふりをしてる俺を馬鹿な奴だと認識されてはいないか? そいつは恥ずかしい。両手をばたつかせる。よおし、今度は四つ足走行になっちゃうぞ。
「あーあー。手が痛いなあ。どうして人間の体って奴は前足が走るのに不適なんだ! 俺って可哀想でしょ?」
俺も思う。こんな世の中、間違ってるね。俺は間違ってる。
違うんだ。そうじゃない。
ほら。……こんなにも魅力的な、素敵な人たちが新宿には跋扈してるじゃないですか。いやまったくそうは思ってない。自分に嘘をついて。
湧き上がって来るものを抑えて。
俺をこんなにしちまったのはてめえらだ。責任を取ってもらう。
違うんだ。違う。気が狂う。
だから!
「ねえ、あの人、もしかして……」
まずい。俺は二つ足になると駆けだした。
ふとデパートが目に留まった。もう一人の自分がガラスに映り込む。違う。こんなの俺じゃない。俺はもうっと。こう……カッコいいはず。いらっとして殴りかかると反応よく自動ドアは開いて勢い余って入店。
「いらっしゃいませ!」とは誰も言ってくれず、振り上げた拳を遣る方なく振り下ろす。
化粧売り場には美容部員のお姉様方が済ました顔で職務に没頭していた。もちろん不意にむかむかしてきた。右手の四本指が親指を締め上げる音がする。駆け出す。見慣れない女性店員が振り返り、なんだこのお客様はと言う目を向ける。
俺は違う俺は違う俺は違う俺は違う。
低い姿勢で、突き上げるように。
肩を店員の腹部にぶち当て、持ち上げる。押し倒す。すかさずスカートの中に頭を突っ込んだ。
「おはえのことがしゅきだったんはよ」
いや別に噛んで可愛い子ぶろうとしたわけじゃない。口がおパンツに塞がれてうまくしゃべれなかっただけだ。
俺は深く深く息を吸い込んだ。そしてどうしたことかひどく咽せる。スカートの外側で、わたわたと、カツカツと、バタバタと、足音がこだましている。いやな予感がする。参ったなあ。面倒なことになるかもしれない。
これ以上嘲笑の的になるのはごめんだ。畜生! 何も悪いことしてないのに! 飛び上がり猛然と駆けだした。
「錦織圭銅メダルおめでとう!」
靴音が背後を追っている。しかしまさか走力で並の人間に負ける訳にはいかない。そして持久力もだ。
デパートを飛び出す。雑踏に飛び込んだ。
どうやら警備員を振り切った。緊張感から解き放たれ、街灯にもたれ、一息つく。
「おなごの袴を覗こうとするなど不埓千万。直ちに何処ぞに去ね」
荒い息を抑えて、頭を持ち上げる。
街灯に、大きな虫が止まっていた。とても、大きな虫。
違う。近所の高校のセーラー服を着た、女のコが腰掛けていた。
雲にハチミツがふんだんに垂らされて、淡く街を染め上げる。
「そんな所で何やってんだ」
「某か。そうじゃの。稽古で怪我をした故、この機会に心の洗濯をと思うてな。おぬしのような物狂ひを眺めておったのじゃ。今時の言葉で言えば変態観測といったところかの」
少女は首をかしげ首元に手を当て、そうつぶやいた。長い黒髪が風に遊びたなびく。残念ながらスカートの中は見えなかった。
その、どこか寂しそうな表情に、心惹かれる。
「稽古というのは何か、剣でも振るのか」
「いや」
「じゃあ琴とか花とか」
「いや」
「じゃあ何だ」
「おぬしに教えても某には益がござらん」
俺は考えた。よし。ものは試しだ。この変な娘に恋をしてみよう。変か。変かな。
でもそうでもしないと、俺は本当に道を踏み外してしまう。
「待たぬか。やめろ……」
俺は靴を脱ぎ、力を込めて街灯を掴むとよじ登り始めた。
「お前の名前は」
「刀と申す」
刀は学生鞄を開けると何かの容器を取り出しキャップをはずした。真っ黒な液体が街灯を伝い俺の手を濡らす。
「どぐっ!」
俺は滑り落ち、したたかに背中を打った。しかし無理にむくりと起き上がる。なんだこれ? ぬるぬるする。墨汁だ。後ずさり。そして親指に力を込め石畳を蹴り、駆け出す。
「おぬし、まことのもの狂ひか!?」
俺の体は今この時のために鍛え上げられてきたのだ。古びて錆びた街灯は、わずかにたわんだ。そうして俺は刀が落ちてこないか確かめる。そうして、もう一度助走を取るためにそこを離れた。人々の衆目を集める。
ンカっ!
刀は身を翻すと街灯から飛び降りた。走り出す。俺はすかさず追いかけた。
「そこの男! 止まりなさい!」
誰か通報しやがったな! 体格のいい警察官が二人、追ってくる。またかよォ! ……ともかくまずはあの女だ。
俺は感心した。刀は、つま先で石畳を捉えそこからぐいぐいと自分の体を持ち上げ、推進力を増す。ローファーにしては驚くほど速い。
「大した走力だ」
刀は走りながら振り向いた。目が引きつる。
「お前の髪からはいい匂いがするな」
「悪しき心持ちじゃ」
「ほれ、右だ」
追い込み漁だな。俺は左に寄って刀の背後に位置を取った。
「まっすぐ進め」
「そこの林に入れ」
「あそこの植え込みを突っ切れ」
可愛いもんだ。混乱している。警察官の気配はかすかだ。
「ホイ!」
俺は刀の薄い肩を掴み、物陰に向けて突き飛ばした。俺もそこにダイブする。刀に馬乗りになる。
「暴れんな……暴れんなよ」
「何を致す!?」
「静かにしろ。見つかるぞ」
俺は刀の口をふさいだ。「某は追われていない」と涙目が饒舌に訴える。足音が迫ってきて……どこかに去って行く。俺が手を離すと、刀の小さな口はうつろに開いたままだ。目もうつろ。
「無防備な女だな」
我に返ったように刀は唇を結ぶと、カサカサと俺から遠ざかった。
「何の稽古だ」逃すわけがない。ぐいと刀に迫る。
刀は地面を見つめてつぶやいた。
「頃来の蹴鞠じゃ」
「そうか」
俺はすっくと立ち上がり、走り出した。