脱サラで日本脱出
1 出会い
薄暗い居間のソファーに体を横たえて目をつぶっている時は貴重なひとときだ。雨がしとしとと降っている日曜日にはソフトなカンツォーネがバーボンウイスキーの味をひきたてる。ジリオラチンクエッテイのノノレタの歌詞が自然に頭に浮かんでくる人は日本に何人くらいいるだろうか。
イタリアの歌手で日本まで来て新宿厚生年金会館でコンサートを開くほど歌がうまい18歳の女性はきっとジリオラ一人しかいないに違いない。舞台裏で彼女を待ち伏せてイタリア語で「このノートにサインをください」と言えた15歳の日本人の少年は多分日本で一人しかいないに違いない。
その十年後に総合商社日商岩井で勤務中にアメリカ人女性と知り合いスペイン語が話せるためにこの女性との交際が人生を変えた体験は剣一が静寂の中で無の世界に入ると自然に流れ出てくる。
カンツォーネとバーボンウイスキーのミックスは剣一が無の世界に入る扉の鍵となっていた。日商岩井の社員となってからまだ一年くらいしか経っていない。馬の目を引き抜くほど行動が早く決断力があるのが本物の商社マンのはずだ。
剣一が仕事のことはまったく気にしないでも平気でいられるのは気性が生まれつきのんびりとしているからだろう。たったひとつ頭に浮かぶのは人事課によばれて会議室で面会したアメリカ人の女性だ。九階の食品部水産課のデスクから五階の人事課までエレベーターで降りて速足で面会に向かったのは2週間ほど前のことだ。
ドアをノックするのは常識だ。
[プリーズカムイン」
若いショートカットの青い目の女性が片足をもう一方の足に乗せた姿勢で座っている。かなりのミニスカートなことが気になる。腿の部分がかなり太目なことも気になる。目と目が合った。
「ハーイ。ハウアーユー」
英語の面談はめったにないことだが得意の英語は自然に口から出てくる。
「アイアムケンイチアライ」
「ナイストウーミーチュー」
「メイアイアスクユアネーム?」
多分ペギーは25歳にもなっていないだろう。透き通るような青い目が丸顔を一層若作りにしている。英語教師としてタイムライフ社から派遣されてきていた。個人面談をしてタイムライフ英会話コースのために商社マンの英語力の評価をするのが仕事なのだ。15分の面談をカセットテープで録音して帰るのだ。面談の会話はわかりきったような簡単な質問を次から次へとしていくだけの少し退屈なものだった。
ペギーの顔を真剣に見ているうちにかわいらしい青い目が剣一の心に話しかけてきた。外国へ行った経験を話していると彼女の目が急に輝くのに気が付いた。マジックワードはスパニッシュだった。マドリッド大学へ留学した時の経験を口にした瞬間のことだ。
「リアリー?ミートウー」
大学時代にペギーもスペインへ留学した経験を持っていた。剣一の目も大きく開いた。
もともと剣一は自分の顔にはあまり自信がなかった。理想的な顔とは目元がパッチリとしていてモデルによくある白人的な顔なのだ。それに比べると自分の顔はたいしたことがない。太目の眉毛とバランスの取れた顔立ちはまあまあの好青年ではあると勝手に満足していただけのことだ。
ペギーと剣一の面談は楽しく様々なトピックに発展した。予定していた15分の面談が長引いて30分を過ぎていた。
「レッツスピークインスパニッシュネクストタイム」
理由をつけて剣一はペギーの電話番号をもらった。
日曜日にソファーに横たわりバーボンウイスキーとカンツォーネのミックスを楽しんでいると前触れもなくペギーの顔が脳裏を横切った。そうだ。電話をかけることになっていたのだ。財布の中を見ると小さな紙切れにペギーウエッブの名前があった。その横に電話番号が並んでいた。じーっとこの紙を眺めているうちに剣一の顔がひきしまった。何か重大事でもあるかのように体をソファーから起こした。体温が上昇してパニック状態に入ったかのように心拍が速まるのを感じた。今ここで電話をかけるべきか、こんなことはただの事のはずみで言っただけのこととして無視すべきか。もしもペギーがこんな会話は覚えていないとでも言ったらなんというショックだろう。電話をかけても何と切り出せば思い出してもらえるのだろうか。この2週間というもの仕事が忙しくてペギーのことなどまったく頭になかったのは不覚だった。
赤坂見附の駅から霞ヶ関へ向かって歩くとスチールとガラス窓がギラギラと光るメタリックな高層ビルが目立っている。その前の歩道沿いに大きな文字で日商岩井と名前を刻んだメタリックのサインは探さなくても目に入る。その途中にはカフェアマンドがある。他にもカフェはこの近辺にはたくさんあるが大きなガラス窓から中を見ることができる上に大きな文字でアマンドと書いてあるためにその前を歩くだけで印象に残る。待ち合わせのカフェとしては最適だ。
ペギーが本を開いているのが入口から入ったばかりの剣一の目に入った。
「ハーイ。ハウアーユー」
「オラ。コモエスタス」
スペイン語が返ってきた。剣一の口から流れるような速さでスパニッシュの単語が並んだ。マドリッド大学で一年間留学したばかりなので何の躊躇もなくスパニッシュの会話に浸りきった。ペギーが同じ大学で一年間留学したことは偶然だった。スペインの文化、食事、大学でのエピソードなどの話のタネはつきなかった。
ペギーは2年契約でタイムライフ社の教師として雇われていた。どこの総合商社もこのプログラムを利用していたのでペギーは商社マンの生活に関して詳しかった。仕事に追われて家庭のできごとはほぼ全面的に妻に任せることが当たり前だと知っていた。アメリカのサラリーマンとは違い奴隷のように働かされることを商社マンは覚悟していなければならない。ペギーはそんな日本社会のありかたを批判していた
ペギーはコネチカット州で生まれ、大学はイリノイ州の私立大学の寮で生活しスペイン語専攻でトップの成績で卒業した。フランス語、ドイツ語、ロシア語も学び語学が大好きなのは剣一と共通していた。大学を卒業した直後にニューヨークのタイムライフ社のテストを受けて採用されたのだ。
剣一は慶応大学法学部でラテンアメリカ研究ゼミを取っていたのでスペイン語を真剣に学んだ。必修科目のフランス語の他にスペイン語と中国語を取った。大学4年間でできるだけ多くの外国語を身につけることが目標だった。大学2年の夏にはスペイン語がかなり上達していたのでマドリッド大学への留学を決意した。海外で活躍することができる職種を選んだ結果日商岩井に入社することになった。
個人プレーを高く評価するフリーハンドスタイルの経営が売り物の総合商社であった。剣一のフリースピリットの性格にぴったりの環境だと思えた。しかしサラリーマンの一生が幸福に結び付くとは考えておらず起業することを考えていた。何年間サラリーマン生活を続けることができるかは大きな疑問だった。
赤坂のカフェでペギーとスペイン語の会話をすることは剣一にとって最大の楽しみだった。毎週一回必ず会うことにしていた。ペギーは赤坂から近い乃木坂に住む日本人家庭にホームステイしていた。剣一はトヨタセリカでドライブするのが週末に与えられた息抜きだった。黄色のセリカは外見が派手なスポーツカーであるだけでなく座席カバーには大きな目をした黄色の漫画の顔が笑っていた。
仕事は嫌いだった。アフリカ沖で水揚げがあった水産物のリストがスペイン領のラスパルマス島にある日商岩井オフィスから赤坂本社の水産部にテレックスで知らされてきた。それを日本市場に売り出すために価格と数量を記録することが仕事の一部だった。裏価格と表価格とに分けられて毎回二重帳簿を記録させられていた。たいした責任のあることはしていなかった剣一だが何か違法なことをさせられているような気がしていた。何かおかしいとは思ってもこれはこの課の決まった会計システムなので余計なことは口に出せなかった。ペギーとドライブすることで仕事のストレスを解消できた。
2 事業家
サラリーマンの生活が根本的に剣一の性格と合っていないことは就職が決まる前からわかっていた。事業家の息子は事業家になってあたりまえだと信じていたからだ。一定の収入を保証されることで私生活を犠牲にすることなど到底不可能だと思えた。剣一の父親一郎は終戦後事業家として様々な分野に手を出し成功と失敗を繰り返していた。
日本経済の復興は不動産の価格急上昇をもたらした。特に大都市の不動産市場は家を買って5年経てば価格が3倍、4倍となるほどの上昇ぶりだった。一郎は荻窪の高級住宅地に派手な建築の邸宅を購入して剣一の母親、姉、妹、弟が快適な生活ができるようにしていた。しかし一郎は財産の大半を投入して沖縄の新規事業に没頭していた。剣一は長男として父親不在の家庭で6歳年下の妹と7歳年下の弟の親代わりとなっていた。商社マンの給料では家庭を助けることは無理だと思うと事業を起こすことが時間の問題だと感じていた。
エメラルド色の海と強い陽射しが観光客を惹き寄せている沖縄はハワイと似ている。佐藤栄作総理が米国との交渉を実らせて沖縄を日本に返還してもらったことは日米親交の大きなステップとなった。日本の領土となってからは日本の法規が適応されるようになり通貨がドルから円へと移り、車は右側通行から左側通行になった。米軍基地から絶え間なくジェット機が飛び交っている光景だけが歴史を無視しているように見えた。
田中角栄総理は日本列島改造論を掲げて経済高度成長のシンボルとなっていた。新潟出身、建設事業と政治の天才と言われ、現代日本が生み出した政治界のドンとして日本の将来が彼の手に託された。沖縄を舞台とした国際海洋博覧会が開催されることは沖縄の住民だけでなく日本全国が大きな期待を寄せていた。東京から東北地方へ新幹線が走ることも青写真のひとつであった。不動産の価格が上昇一途である中で地主と農業に従事する農家が金持ちの仲間入りをした。
農協の旗を掲げて世界各地へ海外旅行することは成金の団体が自己顕示をしているかのようだった。沖縄出身のタレントが事業家と結婚して多額の投資を行い海洋博覧会の準備に一役買った。沖縄に巨大な投資が行われこの官民共同の事業が大成功となることが約束されていた。それを疑う者は一人もいなかった。
沖縄本部半島が海洋博覧会の舞台とされることを日本政府が発表した。高度成長の自然な流れとして沖縄を日本のハワイとする企画は夢とロマンスを加えて全国を湧き立てた。投資家の目が本部半島近辺の土地の買収に向けられたのは不動産ブームと合わせて単純な発想だった。政府の主催で大企業が続々と巨額の大事業を企画することは個人の事業家にも限られた財産を投入する機会を探す状況を生み出した。
本部半島からフェリーで渡れる小石のような島があった。石垣島は海洋博覧会の敷地が一望に見られる場所であるためにそのビーチは将来は間違いなく地価の高騰があると一郎は見ていた。大企業の投資は本部半島に集中していた。石垣島は穴場だと見た一郎は財産の大半を投入することに決めた。
荻窪の邸宅を購入してから間がない時に家族から離れて長期間一人で石垣島に住みピーナツランドと名をつけた遊園地を建設する事業に没頭した。毎年新年だけは家族と過ごすことが一郎の楽しみだった。個人の限られた資本で土地を買い遊園地を建設することは無謀なアイデアだと剣一は見ていた。父親が事業家であることを誇りにしているが故にいかにこの企画が不可能なものに見えても、反対意見を出すよりも協力的な態度を示すことしか考えられなかった。
慶応大学3年の剣一は夏休みを利用して石垣島で父親の事業を手伝った。ピーナツランドは馬車2台をフェリーの桟橋に置いて観光客を誘っていた。剣一の役割は馬車の運転だ。地元で馬の調教とブリーダーとして商売をしている島袋を雇い十二頭の馬を飼い草競馬をするにも小さすぎると思われる楕円形の乗馬場で観光客に馬のレンタルをしていた。
観光馬車と乗馬レンタルがわずかな収入源となっていた。剣一は島袋の手伝いをする仕事をもらい好きな時に馬に乗り、フェリーが着く時間に観光馬車を運転する毎日が続いた。大学生のアルバイトと言うよりは楽しい長期バケーションだった。一日の仕事が終わり石垣島のビーチから見渡す本部半島の景色は夕焼けの青みがかった赤と灰色のブラシをたくみに混ぜ合わせた壮大なキャンバスのようだった。エメラルド色の海のはるかかなたには建設中の高層ホテルのシルエットが立ち並んでいた。
那覇から東京までのフェリーボートでの食事は普通の町の食堂と同じように販売機でチケットを買って席につき、運ばれてくる食事を待つスタイルだ。テーブルは特別に長い長方形。5名が一方に座りもう一方反対側に5名座る団体専用テーブルだ。たまたま座った席は女子の大学生で埋まっていた。カウボーイハットをかぶり真っ黒に日焼けした剣一は男っぽく逞しい顔つきになっていた。長い髪の毛をしきりにいじっている子が中でも美人だと思いながらどこに行っても必ず食べることにしているカレーライスを口にほおばり水をがぶ飲みしていた。
そろそろ食べ終えて席を立とうかと思っていると美人系の子が声をかけてきた。
「東京の方ですか?」
「学生ですか?」
「沖縄ではどこを周りました?」
と矢継ぎ早に質問してきた。一人旅で女性から声をかけられるときには嬉しいのが当たり前だが剣一の心の中では何か躊躇するものがあった。
東京に戻ると最初に行くところが頭にあった。スペインに留学している時に出会った敦子と日本に戻ってからも付き合っていたことが頭から離れなかった。パリで画家の卵として絵の勉強をしていた時にマドリッドに住む日本人がよく行くオリエンタルの食材を売っているスーパーで買い物をしていた。レジに並んでいる時のほんのわずかのできごとだった。敦子が探していた永谷園のお茶漬けの元が剣一の籠に入っていたのがきっかけだった。
「どこにそのお茶漬けの元があるんですか?」
マドリッドで大学に通っている剣一は敦子に旅行のアドバイスをするほど気分がのっていた。敦子がマドリッドに滞在中は毎日案内を受け持った。
「日本に帰ったら又会えるといいね。」
渋谷に住んでいる敦子は荻窪から出てくる剣一とは毎回新宿で待ち合わせた。カフェで哲学的な深い話をすることが二人の好きな時間の使い方だった。デートをしている二人がコーヒーだけをオーダーして真理とは何かとか幸福とは本当に手に入るものなのかなどと話し込んでいる。楽しい話題がないからではなくて人生に迷いを感じていることが原因だ。剣一は父親の事業が失敗したらどうなるのかを心配していた。
朝日新聞の大きな見出しが剣一の目に入った。「オイルショックが世界を襲う」この記事を読み始めた剣一の顔が少しずつ青ざめていった。原油の供給が急減した結果世界中の石油の価格が高騰した。経済の分析が様々な角度から議論されている中で現在進行している政府の大事業が危機に陥っていると解説されていた。日本列島改造論は高度成長する経済が伴わなければ夢として終わってしまう。連日ガソリンスタンドに並ぶ長い車の列が写真となり、オイルショックが海洋博覧会に及ぼす影響が詳細に報道された。
日本政府がメンツにかけても成功させねばならない大事業が失敗するなどは青天の霹靂だった。原油の価格が跳ね上がりジェット機用のガソリンの価格が高騰した。ガソリンが不足しているために一般市民は生活に欠かせないガソリンを買うために辛抱強く長い車の列に並んだ。
航空会社の販売予測が大幅に下方修正された。オイルショックは世界の経済基盤を揺さぶった。
翌年には国際海洋博が予定どおりに開催された。父親は剣一が手伝いに来てくれることを待ち望んでいた。剣一は夏休みに弟の政弘を連れて那覇へ飛んだ。地方にある小都市によくみられる小さな飛行場で一郎が出迎えていた
政弘は色白の顔をして一見かわいらしい印象を与えていた。外見とは違い不良の友達を多く持って学校をさぼる日が多かった。父親不在の状況が続いていたためにどこか不満が溜まっていたのかもしれない。母親に心配をかけることが多かった。駅前に山のように置いてあるサラリーマンの通勤用自転車から鍵を盗むことのスリルを楽しんでいた。警察の通報で母親は警察暑へ頭を下げて政弘を引き取りに行ったこともあった。
一郎は那覇のホテルで剣一と政弘と一泊してから石垣島へ戻る予定にしていた。国際通りと名がつけられた路地の近くにある安ホテルだった。国際通りでは行き交う通行人が狭い敷地に設けられた露店で売っている展示物を気軽に手に取り試食ができるお店もあった。沖縄へ行く観光客が必ず訪れる那覇の名所であった。
海洋博覧会の盛大なオープニングサラモニーが本部半島で開催された。一郎は石垣島のピーナツランドのオーナーとして様々な企画を生み出す必要があった。観光馬車と乗馬レンタルの他にアーチェリーができる標的を並べた。資金に限りがあったので安上りの施設を付け足して行動派の若者にアピールした。剣一と政弘が楽しく活躍できる場所だった。
剣一は本部半島の沖縄海洋博の会場の入り口から近い場所で民宿に泊まり、数日間かけて巨大な敷地に広がる会場のすべてを見学する機会があった。そこの近くには外国から来た通訳が滞在している小さな宿舎があった。剣一と同じくらいの年齢の外国人がその近辺で集団でみかけられた。土曜日の夜を一人で過ごすことに不満がある。剣一は外国人が多い場所を選んで散歩していた。
宿舎の庭で大きな輪をつくった若者たちが楽しそうに歌を歌っていた。夜間照明がまぶしい。剣一はこの中に交じって大声で歌う仲間になった。横に立っている金髪の小柄の女性がかわいいなと思いながら英語で話しかけた。カナダから来ているスゼットは英語を流暢に話す日本人の剣一に興味を持った。
歌を歌うイベントが終わって若者はバラバラと宿舎へ戻り始めた。スゼットは剣一が仲間の通訳の一人ではないことを知って宿舎で他の通訳に紹介してくれることになった。スゼットと一緒に宿舎に滞在しているのは世界各国から通訳として雇われている有能な若者だった。ウイスキーのボトルとオードブルがカウンターの上に並べてあった。
スゼットは英語圏から来ている通訳の仲間6人と小さな輪を作って話し込んでいる。その隣にはフランスから来ている若者の輪があり、その横にはインドの若者の輪があった。母国語によって小さな輪が自然にできている場所は剣一の心を沸かした。近くでスペイン語の会話が聞こえた。剣一はスゼットに何の断りもなく英語のサークルを出てスペイン語のサークルに入った。
アルゼンチン、コロンビア、チリ、など南米の諸国から来た若者たちだった。いつの間にかスペイン語のサークルに腰を据えてしまった。いいかげん時間が経ってからスゼットの横の席に戻るとスゼットはもう剣一のことなど無関心だった。翌日パイナップル一個を手に持って宿舎に向かった。スゼットに謝るのが目的だった。スゼットは会ってくれなかった。
沖縄海洋博覧会に海外から訪れる観光客の数は予測を大幅に下回った。大赤字のホテルやレストランが閉会後倒産していった。一郎が投資したピーナツランドも閉鎖された。東京に戻っても何も仕事を持っていない一郎は沖縄にそのまま滞在して苦い事業の失敗を味わっていた。東京では剣一の就職が決まり母親の期待は一郎から剣一へ移った。商社マンとなって家庭に明るい将来を持ってきてくれることを願った。15歳の政弘は不良の仲間に影響されて学校を中退してゲームセンターで働いた。
3 商社マン
日商岩井は全世界にオフィスを置く総合商社として高い評価を受けていた。慶応大学を卒業して商社マンとなった剣一は父親の事業が失敗したことを悔やんでいた。通勤地獄を経験してサラリーマンの生活は忍耐と体力が必要だと感じた。幸福を求める人生などはとても期待できない。会社のために一生働くことだけが生命を与えられた理由だなどとは考えたくなかった。
給料をもらい自由な生活ができることを喜ぶ気持ちだけでは満足できない。家庭が危機に陥っている時に毎日通勤するだけの人生なのか。事業をするためには資本が必要だ。いつかどこかで資本金を出してくれる人が現れるのを待つしかなかった。
日商岩井は新入社員の教育に多額の予算をあてた。剣一は500名の全国からの男子新入社員のひとりだ。北海道大学から九州大学まで一流大学の名前が社員名簿に並んでいる。男子は全員タイムライフ社の英会話コースを義務で取らされた。剣一は英会話は完璧と言えるほどマスターしていたので大学では中国語、フランス語、スペイン語をマスターする意欲で語学に集中した。
新入社員は英会話コースの評価を受けてそれが最初の社内評価の基準とされた。剣一はトップとして社内報に写真を入れた記事で掲載された。食品部水産課に有望な社員が入ったことは2000名を超える女性新入社員の目にとまった。剣一の名前が新入社員の間で広まり女子社員の多くがひそかに剣一の目にとまることを望んでいた。
「荒井さんですか?」
「日商岩井の太田ですが今うちで小さなパーティーをしているとこなんですけど。いらっしゃいません?」
女性から電話があった。ソファーに横たわりバーボンウイスキーを口に入れたとこだった。ソフトなカンツォーネを耳にしながら言った。
「ああ太田さんですか。ありがとうございます。今日は一日のんびりしようと思っていたんですが道順を教えていただければじゃあお邪魔させていただきます。」
黄色のスポーティーなセリカで青梅街道を新宿へ向けて走ると日曜日の午後だというのに渋滞がある。環状八号線を右に入るとますます渋滞がひどかった。たいして遠いい場所でもないと思って家を出たのだが太田さんの家に着いたのは一時間以上も経ってからだった。玄関に出迎えてくれたのは太田さん夫婦だけでなかった。以前数回デートをしたことがある真美ちゃんがいた。この三人だけのパーティーなのかと不思議に思いながら靴をゆっくりと脱ぎ「お邪魔します」と挨拶をした。
太田さんは30を回っているだろうと思わせる姐御らしい風格をそなえていた。直毛を肩のところでばっさりと切った髪型は厚化粧で目元を大きく見せる顔とバランスを取っていた。横に立っているご主人は小柄でおとなしそうに見えた。真美ちゃんは新入社員の中で目立って可愛らしいと思っていたから意外な登場で剣一の心は躍り始めていた。
鉄鋼部に勤務している真美ちゃんと知り合ったのは剣一の上司の田中さんと真美ちゃんの上司である太田さんが会社の古株女性社員として仲が良かったことがきっかけだった。太田さんが田中さんをとおして真美ちゃんを紹介してくれたのは2か月前のことだ。剣一とほとんど知り合うきっかけがなかった太田さんから招待を受けたことは意外であった。
夕食は餃子を主体にした中華だった。鳥の空揚げは剣一の好物であった。太田さん夫婦が社内結婚だと知らされた。会社の話はたいして面白くもない。食事の後で4人が食卓を囲んでトランプをしている光景はどこか不自然に見えた。何を理由にここで食事をしたりトランプをしているのかと剣一は不自然さを感じていた。壁にかかっている時計を見ると十時を過ぎているのに驚いた。剣一が時間を気にしているのがわかったのか太田夫人が言った。
「そろそろ寝ましょうか」
「二階におふとんが用意してあるのよ」
「階段を上がってすぐの右側の部屋なのよ」
「じゃあおやすみなさい」
二階の右側の部屋は日本間でふとんが2セット用意してあった。寝床のひとつがふくらんでいた。誰かふとんの中にいるのがわかった。真美ちゃんの顔がふとんのはじからのぞいた。
「一緒に寝ましょうね。」
まるで小さな子供のような声がした。ゆっくりと下着になった剣一は真美ちゃんの横にそろそろと足を入れた。真美ちゃんが何も着ていないのがわかった。頭が一瞬混乱した。太田さんは自分は職場結婚だと言っていたのが急に重要事項として頭に浮かんだ。これは太田さんが仕掛けたことだ。剣一が真美ちゃんとの付き合いはセックス抜きにしようと決めていたのには理由があった。心の中で自分の将来を描いていたのはアメリカ人女性ペギーだったからだ。
近い将来結婚して共同で英語学校を開くことを考えていたのだ。ペギーとの交際が始まってから6か月経つというのにキスをしたこともなかった。プラトニックに付き合うことは女性を大事にしている心から生まれるものだと考えていた。真美ちゃんの体は温かかった。胸が大きく振動しているのがわかるほどじっと乳首を見つめていた。
翌朝強い陽射しが部屋の中いっぱいに広がった。目を開けて横を見ると可愛らしい真美ちゃんの小さな顔が見えた。ロミオとジュリエットに出てくるオリビアハッシーを日本人にしたらきっと真美ちゃんの顔になると思わせるほど無垢でかわいい顔立ちに惹かれていた。微笑んでいた。全裸で抱き合いキスをしただけの自分をどう思っているのか心配だった。コンドームを持っていなかったのでセックスはできないとだけは伝えてあった。真美ちゃんの体のすみずみまで指で調べ上げただけの一夜の後で自分の体のように真美ちゃんを知り尽くしていた。
4 共同事業
青山墓地は桜が満開になると公園の美しさを持っている。ペギーとドライブしてスペイン語だけの一日を楽しんでいた。墓石に腰かけて手をつないでいる剣一とペギーは誰の目から見てもデートをしている恋愛中の二人だろう。ギターを背負って墓石に腰かけている剣一の姿はペギーが剣一を「マイボーフレンド」と呼ぶ気持ちにさせていた。スパニッシュで話してギターを弾きながら歌う日本人男性はペギーの心をつかんでいた
。必ず家まで送ってくれるマナーとプラトニックの態度を崩さないことは魅力ではあっても、心の内がわからないもどかしさがあった。別れる時には必ず握手をするのがペギーには物足りなかった。墓石に座って手を握り合う二人はお互いの顔をじっと見つめて相手の心を探っていた。目と目が合ったままで何秒経ったのか何分経ったのかもわからないまま二人の口と口が重なった。初めてのキスは体中の血管がはじけるようなエレクトリックなものだった。
商社マンの生活は学生時代と比べると少しは豪華だった。青山近辺の高級レストランで昼食を取り、手をつないで青山墓地を散歩していた。現実が困惑と希望のミックスであることを実感していた。父親の事業が失敗するのを目の当たりにして動揺している心が困惑。ペギーと共同で事業を起こすこが希望。まだペギーは何も知らない。共同で事業を起こすにはきっと結婚することが必要だろう。商社マンの生活を知り尽くしているペギーが剣一と結婚する気にはならないだろう。しかし父親の失敗をきっかけにして人生の行く先を大幅に変更するためには結婚と起業とのラジカルな方向転換しかない。
赤坂の山王ホテルはアメリカ政府に関係する軍人専用ホテルとして存在していた。ペギーはそこのラウンジでギターを弾いて歌っている友達を持っていた。彼はタイムライフ社の英会話の教師をしているが片手間にアルバイトをしていた。剣一とペギーは常連であった。バーボンウイスキーを飲みながらスペイン語で哲学的な会話をする剣一が日本人男性としては珍しい。ペギーは特別な好意を感じていた。難しい哲学的な話題を会話のタネにしてもペギーは明快な答えを持っていた。
それまでどんな相手でも言葉につまるような話でもペギーは自信を持って自分の考えを伝える能力があった。真理とは何か。生きている理由は何なのか。剣一が哲学の本を読み形而上学の知識を持っていても納得ができる明快な答えにたどり着くことはなかった。
宗教と哲学とがとても似ていると知ったのはペギーとの会話をとおしてだ。ペギーは敬虔なクリスチャンで聖書を毎日勉強していた。原宿にあるファーストクリスチャン教会の会員だった。いつのまにか剣一はペギーと一緒にこの教会に通うことが習慣となっていた。日本語と英語の礼拝が時間をずらして同じ礼拝堂で行われていた。英語の礼拝は青山近辺に住む外人ばかりだった。その中に交じって数名の日本人が英語で礼拝を聞いていた。長老の日本人女性が英語を流暢に話していた。これまで剣一が体験していた東京とはまったく違う世界が原宿にあった
宗教の力は恐ろしい。剣一が真剣にクリスチャンの世界に入って聖書の勉強をはじめたことはペギーにとって恋愛をする相手としての資格を備えているように思えた。ペギーが哲学的な問いを明快に答えられる能力が聖書から出ているのだと理解ができた。得体の知れない神を信じることができる理由はこれまで剣一にはなかった。神は目に見えない。神の存在を5感で確認することができない。それなのにこれほど深くその存在を信じることができるのはなぜなのか。真理を知るには神を知ることから始まるのではないか。剣一はそう思った。
剣一は父親不在の家庭が崩壊に向かうのを見ているうちに現実の厳しさを身に染みて感じた。サラリーマンとしての立場はこれを改善する力に欠けている。事業を起こして父親を家庭に戻すことができれば家庭の崩壊を防ぐことできる。ペギーと結婚して父親を沖縄から戻し、荻窪で父が築いた信用を利用して事業を起こすことは現実的な案として頭に浮かんでいた
5 結婚
タイムライフ社で英語教師をしているペギーはこの2年契約を終えてアメリカへ帰国する日が決まっていた。ビザが切れる日だ。日本での体験は剣一の登場で思いがけなく複雑になってしまった。ビジネスマンに英語を教えることだけが目的であったのだがこれから語学学校のオーナーとなるかも知れないのだ
剣一がデートのたびに事業を起こして新しい生活を築くことを考えていると話し始めることが多かった。語学を学ぶ理想的な環境は机と黒板のある教室の中ではない。心が外国へ行っていなければならない。英語を読んだり聞いたりしている時には心がアメリカに行っていなければならない。言葉は生活の一部として実感しなくてはだめだ。
語学学校を学ぶ場所というよりも社交の場所として考えるのだ。社交クラブとして明るく楽しい雰囲気が大事だ。英語が社交の言葉でそこでは会話を楽しんでいる生徒もいればアメリカから持ってきたゲームをしながら英語を学んでいる生徒もいる。
言葉は集団で同じ内容を同じペースで学べるものではない。個人別に各自が好きな内容をマイペースで学ぶことができるシステムが必要だ。なによりも大事なことは生徒がいつでもどこでも英語に浸る習慣を持つ人間になるようにすることだ。学校ではそんな生徒を養成できない。教室はクラブルームに置き換えられる。一歩そのクラブルームに入るとアメリカに来たのかもしれないと錯覚を起こすような場所だ。
剣一が真剣な顔で説明する英会話クラブの構想はシュリーマンがトロイの遺跡の発掘を夢見たのと似てこれまでになかったものを現実のものとする情熱を持っていた。ペギーと共同事業を起こすためには情熱がなければ説得できるものではない。資金は誰が出すのか。社交クラブは駅前の理想的な場所を見つけて生徒の勧誘と通学に便利でなければならない。ペギーが剣一の構想する英会話クラブの経営を本気で参加するつもりがあるのだろうか。新規にスタートする事業がスポンサーとなってペギーに新しいビザを発行してもらうことはまず不可能だと思われた。
ペギーが日本社会で生きることを希望していないことはわかっていた。生活レベルはアメリカの方がはるかに快適なのはわかっている。大きな家に住み広い芝生の庭で子供と遊び家庭を仕事よりも優先する人が多いことは広く知られている。剣一との恋愛関係は順調に良い方向へ向かっている。結婚を決意することは一体どうすればその意思が固まるのだろうか。二人の深い愛情だけが必要なのだろうか。どうしたら相手に深い愛情を伝えることができるのだろうか。結婚をプロポーズすることは人生のどの時点にいるのかが大きな要素となるだろう。結婚適齢期になっている場合には結婚は身近なことに感じるだろう。結婚など考えたこともない人に深い愛情を持ってもきっと結婚には結びつかないだろう。
ペギーがアメリカへ帰国しなければならない理由ははっきりとしている。ビザが切れるからだ。時間の経過と剣一の共同事業の構想は同時進行している。何から何までお膳立てをしてからならペギーにプロポーズして将来を約束する自信が生まれる。そのためには父親を沖縄から引き戻して事業の準備をしてもらう必要があった。
若干25歳の剣一に銀行はローンを出さないだろう。不動産を探して英会話クラブに最適の場所を見つけてもそこをレンタルしてもらえる信用度はまったく持っていない。現実は夢とは違う。何から何までプランのとおりに進まなければ英会話クラブは夢として終わってしまう。
久しぶりに訪れる石垣島は建設を中断した後のコンクリートの塊だけが異様に目立つ。まったく手入れがされていない野生の植物が背の高さまで育っている場所は乗馬場として使われていた楕円形の敷地だ。馬の厩舎はトタンの屋根だけが昔と同じ形のまま残っている。一郎がひとりで生活している狭いアパートはピーナツランドの敷地から車で30分ほど町の中へ入ったところだった。沖縄の建築は石垣の塀で囲った一軒屋が多い。台風にも負けない大きな瓦が屋根を守っている。
週末を利用して那覇からレンタカーで本部半島へ行きフェリーで石垣島に着いた。帰りのフェリーの時間が決まっているから剣一は時間を気にしながら一郎の前で懐かしい顔を隠さなかった。剣一が今考えている事業の構想を一気に説明した。ペギーと結婚することがこの企画の大きなポイントであることを忘れなかった。一郎が沖縄で財産をほぼ使い果たしている時に提示されたこの事業案は簡単に引き受けて東京へ戻る理由とはならなかった。しかし荻窪の商工会議所で活躍したことがある一郎の名前は不動産のレンタルには有効だろう。
会社を設立して剣一が社長となりエスピーイーアメリカンクラブとする。エスピーイー株式会社が親戚に株を売って起業のための資金を生み出し剣一が社長となった。エスはスピーク、ピーはプレイ、イーはインジョイの頭文字。生徒が英語を学ぶ環境はこの三つの文字で表された。剣一が結婚する意志を固めているのがわかり東京へすぐにでも戻ることを約束した。
一郎が東京へ戻ってまもなくペギーは荻窪の邸宅で剣一と夜中まで将来の構想を練っていた。事業を起こすことは冒険好きなペギーには魅力がある話だった。一郎と剣一が荻窪近辺の不動産屋で適当な物件を探した結果駅前にある9階のビルの最上階の広い部屋がレンタルとして出ていることを知った。空室となっているこの部屋はオフィスとして使われていたらしいが部屋を区切る壁は一切無くカフェとしてでも使えそうな広いスペースだった。
ペギーは英会話の教師のトレイナーとして働きアメリカから数名の若者を雇いアパートに入居させて専属の教師とする案を出した。ペギーと剣一が構想を紙に書いている部屋は明かりがこうこうと光り夜中の静けさにも気が付いていなかった。隣の部屋では一郎と妻の房江が明かりとテレビをつけたまま今後どうなることかと気をもんでいた。静かにドアが開くのに房江は気が付いた。
「二人ともまだ起きていたのね」
剣一とペギーのふたりが手をつないで入口に立っていた。
「おとうさん、おかあさん、僕たち結婚したいんだけど。どう思う?」
一郎の顔が輝いた。
「本当か。良かったなあお前」
内心ペギーが結婚を受け入れるのかを心配していた一郎の心から出た言葉だった。
エスピーイーアメリカンクラブは荻窪の駅前の目立つビルに入ったのでプラットホームで電車を待つ人や電車の窓から表を眺める人の目にとまった。ペギーは旺文社が発行する英語の雑誌の表紙として顔写真が載った。この写真をそのまま使った宣伝のチラシを中央線の電車の中に吊るす広告や駅前ビルの全面を覆う横幕のデザインに使って生徒を勧誘した。
広告を見て見学に来た人は一歩9階の部屋に入ると広々としたスペースに驚き、社交クラブにふさわしい明るいアメリカ的な雰囲気に包まれた。年会費と月謝との支払方法が提示された。入会金を払ってわずかの月謝を払えばいつこの施設を使っても良かった。年会費一括払いのメンバーシップは多額であったが一年間自由に時間制限がなくこの施設を使える権利だ。忙しいサラリーマンには魅力があった。午前中には主婦たちの少人数のクラス制も行われた。英語のレベルに合わせて初級と中級のクラスが作られた。社交クラブの雰囲気を持つ内装は主婦が楽しんで英語を学ぶ場所となった。
会員はラボルームで各自に与えられた教材を予習した後でアメリカ人教師との個人レッスンのサインアップをする。名前を呼ばれるまで好みのグループに入り大人だけの会話に参加しても良いし、子供がゲームをしているグループに参加しても良かった。何時に来て何時に帰っても良いシステムができあがった。生徒たちは教師たちと親しくなり社交クラブができあがった。アメリカから専属教師として採用された若者は2年の契約が終了して帰国する者がいれば日本人と結婚した女性も数名いた。ユニークな英語の社交クラブは中央線沿線に住む人たちには広く知れるようになった。
剣一とペギーは午前10時に出勤する毎日だった。会員があらわれる前に剣一は9階からはるか遠くに見える富士山が浮かぶ荻窪の民家の屋根を見下ろす景色が好きだった。のんびりと新聞を読む時間があった。
朝日新聞の経済欄に目をやると日商岩井に関する記事があった。小さな記事だが顔写真が載っている。見出しは「横領罪で逮捕」。日商岩井食品部本部長はロスにある日商岩井オフィスに入金された会社のお金を荒川健と言う名前の架空個人口座に送金していた。二重帳簿の中に生まれた差額をロスの口座に送金することは自分の仕事の一部だったことを思いだした。入社直後に与えられた業務の中に含まれていたものだ。当時の本部長の顔写真が懐かしかった。食品部に採用された新入社員が本部長の部屋に集められた時に会っただけだがその時の本部長は神のような存在だった。
剣一が退社してまもなく軍用機の購入のために海部副社長が行ってきた違法な行動が表面化して日商岩井に政治家買収容疑がかけられていた。ピーナッツの数で買収金額が計算されていたことが報道された。国会に喚問された海部副社長はホテルに残したピーナツの数のメモ書きが自分の字ではないと言い張った。裁判の公判でその嘘を証明するために検事は海部のサインをその場で求めた。このメモ書きの文字は海部副社長が書いたものであることが決定的な証拠とされる場面だった。テレビのカメラがズームインする海部副社長の手は大きく震えて書いた文字がまったく読めない結果に終わった。
日商岩井は社内監査を厳しくすることが報道され、辻良夫社長はスキャンダルの真っただ中で苦悩していた。それに拍車をかけるように日商岩井の副社長の一人が遺書を残して日商岩井のビルの窓から飛び降り自殺をする事件さえ起こった。食品水産部は消滅したことを同期の社員から聞いた。
経営が安定してきたころペギーは荻窪の狭いアパートから出て空気が良い田舎の生活を望むようになっていた。オープンして4年経ち東京での生活は子供を育てるには向いていないと思い始めた。車で東京から気軽に行き帰りができる距離にある美しい田舎は清里だった。
高速道路が東京から甲府まで建設される政府の計画が発表された。家庭を持ち空気の良い清里で子供を育てることは夢のある将来に見えた。これからアメリカ風の家を建てる土地を物色するために清里へ向かう途中だ。空気がきれいだと感じるのは気のせいではない。高地へ向かうほど空気はきれいになり景色は壮大な南アルプスに近づいていく。
地元の不動産屋の車に乗り換えて手頃な広さの敷地を物色する仕事は遠足を楽しむ子供の心と似ている。初めて訪れる場所の新鮮さは心を洗う効能がある。日当たりが良くわずかに南向きの傾斜がある土地に桃の木が一本生えている。敷地の大きさは一軒家を建てるには丁度良いと思われた。値段も手ごろであった。図面を見ながら敷地の方角を考えて家の正面や裏庭などを想像することができた。
アメリカのスタイルの家を建てて英語の研修所とすることを考えた。滞在中はすべて英語が義務とされる場所だ。清里にある英語研修所で少人数の会社員がホームステイの体験ができるのだ。東京から高速で一時間で行けるようになれば土地の価格が上がるのは目に見えている。投資としても最高の物件だ。剣一はこの土地を今買うことは事業と家庭の両方を繁栄させる起爆剤となると考えた。
清里に住むことになると荻窪の英会話クラブの経営を任せるマネージャーを雇う必要がある。徐々にこの方向で経営を変えていくことにした。ペギーと二人で英会話クラブに顔を出さない日が増えた。教師の一人を責任者として任命した。これまでペギーの存在が売り物であったことは無視できなかった。目に見えて会員の数が減っていった。下降線に入った収入は経営に響いた。事業が簡単に回復してくれるほどの良い企画は生まれなかった。これ以上清里の企画に投資することは大きな危険を含んでいることが明確になった。
ペギーはアメリカで生活することはいつでもできることだと感じていた。剣一はアメリカで何をして生活していけるのかまったく何も思いつかなかった。30の誕生日を迎えようとしていた。アメリカで教育を受けることは絶対条件だと思えた。アメリカ社会で活躍できる人間となるには資格を持って何らかの分野の専門家になることが一番の策だ。夢を描く新しいキャンバスはまったく無色のままだったが清里移転の案がつぶれた今はエスピーイーアメリカンクラブを売って現金を手にしてアメリカに移住することを実現させるしかない。
フェニックスに国際経営学大学院がある。ここのMBAを取れば国際企業から採用されるとアメリカ人の友人から聞いたことがあった。ここに願書を出して入学許可が出るか試してみた。必要書類を揃えてエッセーを書き郵送した。入学を許可する返事が来た後は素早く行動に移した。東京の唯一の英字新聞ジャパンタイムズにエスピーイーアメリカンクラブを売るための広告を掲載した。関心を持った会社や個人が連絡してきた。
6 移住
コネチカット州でのクリスマスは雪に覆われた寒い日が続いていた。気温が低い外とは全く別の空間が家の中に作られていた。24時間全館暖房をどこの家でも持っていた。アメリカの豊かさに驚かされる。家全体の室内気温を日夜一定に保つためには膨大なエネルギーが必要とされる。快適な生活は室内の気温を夏でも冬でも自由に好きなだけコントロールできることから始まる。
ペギーの両親のところで滞在していることは気が楽だった。エスピーイーアメリカンクラブを売って移住して最初にストップした場所だ。親の元を離れて日本で結婚生活をしてきたペギーの親孝行に一役買うことが剣一は嬉しかった。アメリカでの生活を保障するような第一歩がフェニックスで待っていることをペギーの親に知らせた。あっという間にアメリカへ移住できたことはすべてが順調に運んだ結果だった。
クリスマスまでにエスピーイーアメリカンクラブの買い手が見つかることを期待して剣一は売買の交渉を続けた。複数の買い手が出てからは交渉の方法として最低価格を設定しそれ以上の価格の出し値を要求した。これは入札で一番高い数字を出した者を買い手として選ぶやり方だ。ペギーと剣一が結婚して5年間で人気のある英語社交クラブを成功させる努力が実った。エスピーイーアメリカンクラブの入口に大きな貼り紙があった。
「ここにエスピーイーアメリカンクラブのオーナーシップが日本ブリタニカ社に委譲されましたことをお知らせします。会員の方々のこれまでの寛大なサポートに感謝申し上げます。教師は今のまま継続して会員の皆様と一緒に楽しく英会話ができる場所として勤務しますので宜しくお願い申し上げます。会員様各自との契約は内容を一切変更せずに契約終了まで新オーナーが責任を持ってお世話させていただきます。」
日本での大冒険を終えてアメリカに移住するステップが既に待っている今の状況は清里に土地を買った時には予測できないことだった。ペギーと出会ってファーストクリスチャン教会に通い、聖書の力を身を持って体験してきた剣一は自分の人生を神に託すことの喜びを感じていた。人間業ではできないことを神は短期間に実現できることが証明されたからだ。誠意を持って事業を運営すれば神の力で人間が予測できない方向へと現実の世界が展開されていくと信じた。
神の力は万能だと聖書に書いてある。奇跡的なできごとを神の力がもたらしてくれるのだ。ペギーと初めてスペイン語で会話をした時には父親が沖縄に行ったままの家庭崩壊に近い状況だった。父親が荻窪の地元企業との間に築いた高い信用とペギーの能力が剣一の事業を実現させた。こうして複数の人間がもたらす総合力を完璧なタイミングで動かす力は一人の人間ができることではない。運が良かったのではなくて神の力がもたらした結果だ。クリスチャンになった剣一は心からそう信じることができた。
7 生活の基盤
アメリカの中西部にあるオハイオ州はミシガン州の南にあり州の首都はコロンブスだがそれを知らないアメリカ人はたくさんいる。オハイオ州の北の方に位置しエリー湖からの風が強いと苦情を言う人が多いところにぺリーズバーグがある。人口3万人弱の小さな町。近くを流れるモーミー川の岸辺にペリー提督の銅像が立っている。日本に黒船で来て大砲で徳川幕府を脅して開国を強いた有名なペリーだ。エリー湖でフランス軍と海戦して勝利をあげたことが銅像の下の文字に刻まれている。
この地域の気候は住み易いとは言い難い。冬は寒く雪が降るが山がなくスキー場はミシガンの山まで行かなければひとつもない。夏は蒸し暑くキャンプをしても冷房がある場所を探してそこから一歩も出る気にならない。高地にあるキャンプ場を求めるとミシガン州まで数時間かけて行かねばならない。
剣一が国際経営学大学院を卒業した後で最初に就職したプリンシプルビジネス社はぺリーズバーグから車で10分高速を走ったところにある。工場の敷地には大きな人口の湖がありそこに隣接して中堅企業が所有するのに適度な広さの工場が建っている。オーナーはファーストクリスチャンの教会の会員だ。60歳くらいの夫婦がピローポーと言う名前の使い捨てのフォームを素材にした病院用スリッパを製造して全国の卸問屋をとおして販売している。
剣一とペギーがミッチェル夫妻と知り合ったのは東京の原宿にあるファーストクリスチャン教会の礼拝に出ている時だった。東京へ観光旅行で来るファーストクリスチャンの信者は日本に一か所しかないこの特定の宗派のファーストクリスチャン教会に足を向ける。立派なヨーロッパ風の建築は表参道から細い路地を通って10分くらい歩いたところにある。商業地区から少し離れた場所にあるためにこの素晴らしい教会を知っている人は少ない。
礼拝の後でミッチェル夫妻が滞在したホテルまで黄色いセリカで送ってあげたことが知り合ったきっかけだった。ホテルのレストランで短い会話をしただけの知り合いに過ぎなかった。夫婦で事業を持っているペギーと剣一は、同じように夫婦で事業を起こしたミッチェル夫妻に強い印象を与えていた。
リーミッチェル婦人はピローポーを発明してパテントを取り全国の病院が使用する商品を発明し、製造販売した実力がある。ダイナマイトレーディーと言われる活発な女社長だ。主人のジムは会長とされていたがリー社長の言うなりの優しい男性だ。
社員教育の一環としてリー社長は経営コンサルタントを雇い新商品発売のためのセミナーを開いた。数年前からヨーロッパのベルギー工場でピローポーの製造を開始していた。海外でのビジネスはリー社長は苦手であった。現地の雇用問題が複雑で製造した製品を販売して利益を上げることができず国際経営の専門家が必要だと感じていた。経営コンサルタントに相談すると国際的な事業の運営を専門に教えている国際経営学大学院には良い人材がいることを知った。
剣一がミッチェル夫妻に出したクリスマスカードにはフェニックスの国際経営学大学院を間もなく卒業すると書いてあった。ミッチェル夫妻はペギーと剣一にオハイオ州にある工場を見学に来ないかと誘った。
剣一は工場の中を見回して熱心にピローポーの製造をしている何十人かの社員の様子を見た。そばをとおるたびにどの社員も愛想が良く「ハーイ」と笑顔を見せてくれた。アメリカ人の陽気な性格が工場の中にも溢れていた。
「素晴らしい工場ですね。」
「これほどきれいな工場で働ける方たちは幸せですね。」
「フェニックスへ明日戻りますがもう私の気持ちは固まっています。」
「ここで私がお手伝いできることは何かまだわかりませんができたらお仕事させてください。」
「給料に関しては会社の規定があると思いますので初任給の額はお任せ致します。」
「私の働き具合を見て逐次昇給していただけるのであればそれで結構です。」
フェニックスに戻る飛行機の中でペギーが剣一のほほに軽くキスをした。ペギーが結婚を大事にして妻の役割を引き受ける気持ちの表れだった。
国際経営学大学院を卒業してぺリーズバーグへ移転してしばらくの間はアパートに入った。オハイオの田舎町に住む日本人は他には一人もいなかった。黒人もまったくみかけない。会社の社員も全員白人だ。ミッチェル夫婦と同じファーストクリスチャン教会の会員となった。ここでも白人以外は一人も見かけない。
剣一の仕事はリー社長が開発した新商品の販売戦略をチャック副社長と協力して作成することだ。ピローポースリッパは会社の主要製品として販売ルートが確立されていた。病院用製品を専門に扱う卸問屋の全国網はアメリカのすみからすみまでカバーしていた。
ダウ・ケミカルはニューヨーク株式市場に上場している大手化学製品のメーカーだ。この工場のひとつがぺリーズバーグから車で高速を1時間ほど南に走ったところにある。そこで生産されているポリマーを新製品の中に使っていることが画期的な水分吸収力があるトランキリティーパッドの秘密だ。
ポリマーの一種に水分を吸収するとそれをゼリー状の個体に水を変化させるものがある。生理用品と似た形のパッドは多量のポリマーを含んでいるために下着の中にこのパッドを入れておけば尿を個体に変えて漏れをなくす力がある。
世界の人口年齢ピラミッドを見るとどこの国でも将来若者が減少し老人が増加する逆三角形状のピラミッドが表れる。ピラミッドの下の部分が細くなっており上部に行くにしたがって太くなるのだ。すなわち一番基礎となる底辺の部分は幼少の人口。年齢が増えるにしたがって徐々に上方に向かって太くなっていき高齢の人口が極端に増加するのがわかる。この形が理解できれば将来は老人社会となって老人介護の事業が発展することを予測できる。
プリンシプルビジネス社は全国の病院に販売網を持っている。健康機器や紙おむつなどの健康商品の分野に積極的に参加することがミッチェル夫妻の希望だ。これまでピローポーブランドだけの単品で会社を運営してきたが将来のためには有望な老人介護の分野で需要が多い成人用紙おむつがターゲットとされた。
しかし新商品トランキリティーは病院や老人ホームで使われる商品ではない。個人の消費者が小売店で買う商品だ。超吸収パッドと漏れを防ぐデザインのパンツを一緒に使えば買い物に出てもお漏れの心配をしなくてすむ。リー社長が高齢の失禁症状に悩む女性の心を理解してデザインしたのだ。
商品のデザインとパテント取得を得意とするリー社長が陣頭指揮を取ってトランキリティーパッドを開発している最中に剣一は採用された。商品のデザインで一番肝心なポイントはパッドを使う老人の膀胱の力が弱くなってお漏らしがある時にでも下着の中にパッドを入れておけば心配がないこと。
剣一とペギーの生活は安定していた。ぺリーズバーグに来て一年以上経っていた。アメリカで一生を過ごすつもりで剣一はアパートでの生活を終えて家を購入したいと思っていた。ペギーは家で好きなことをして過ごせる主婦の立場を初めて体験していた。
「もしかしたら私妊娠しているかも。」
「そろそろじゃないかと思っていたんだよ。予定どおりの計画出産だぞ。やったー」
「このアパートじゃあ子供を育てるには狭すぎるよな。」
「日曜日にちょっとこのあたりの不動産屋を周ってみようか」
「高速の入口から近いところが便利だな。」
「いよいよ新しいスタートかも知れないわよ。」
「いつはっきりとわかるの?」
「明日産婦人科に行く時間ある?」
「もちろんだよ。会社の後でセントマリー病院へ行こうよ。」
妊娠している母親が自分の考えで一番快適な出産の体験を選ぶことができるべきだとペギーは考えていた。妊娠は女性を変える。母親になることは神の子を養育する義務を神から授かること。この大事な役割は自分の人生や欲望を上回って自己を犠牲にするものだ。妊娠したことが確定してからペギーは養育の本を読み始めた。知識をつけることを楽しみとする性格は学生の時から持っていた。
養育と教育とは違いがある。子供が生まれてその子供に幸せな人生を歩む手段と知識を与えることが養育。子供が一般社会で必要とされる知識を身に着けることを親が確認することが教育。
ペギーは養育を教育よりも重んじていた。子供が自分の人生を自分で作る力と知識を蓄える。個性と素養を活かして生きる道を自分の判断で進むことだ。子供が生まれてすぐに親は子供の成長を注意深く観察する必要がある。子供が何をしていることで生き生きとするのか。音楽、スポーツ、芸術、読書、などできるだけ広い体験を幼少の時から与えることで素養がわかる。
アメリカの教育制度は日本と同じく学校での集団教育だ。同じ年齢の子供たちを一か所に集めて全員が同等のレベルの教育課程を同じ速さでマスターさせることを目的としている。社会のルールを教え社交する能力を身に着ける場所にもなる。ペギーはこの学校教育の方法を否定してホームスクーリングをした。
1960年代にホームスクーリングがアメリカ全土で広まった。学校教育が唯一の教育方法であることに疑問を持った男が現れて本を出版した。ジョンホールトと言う名前の教育の専門家だ。子供を一か所に集めて一般社会とはまったくかけ離れた環境を作り大量生産をするかのように同じ知識を同じ速さで学ばせる場所が学校だ。もしも子供が学校に行かないで親のもとで自分の興味に合わせて好きな時間に自分に合った速さで学ぶ環境があったらどんな人生を築くだろうかと考えた。
実際の家庭を使って実験を重ねた。ジョンホールトは子供が自分の人生をデザインするチャンスを与えられることが本物の教育だと信じた。ホームスクーリングと言う名前で紹介された。トーマスエジソンは母親のもとで自分のアイデアを好きな時に試して教育課程とは無関係にレベルの高い本を興味に任せて読んだ。
親が押し付けた内容を親の都合に合わせて親の設定するペースで学ぶ秀才教育とは全く違う。ホームスクーリングでは親が神から子を授かったことで義務と責任が生まれることを認識する。子供にハンドルを握らせて幼少の時から人生と言う名前の車に乗せて自分の人生の行き先を探し求めて車を運転させる。親は後ろの席に座って行き先を間違わないように事故に遭わないように助言をするだけだ。ペギーはホームスクーリングの利点と毎日子供と過ごす時間を大事にする生活に魅力を感じた。
「私たちの子供は学校へ行かせないで家で教育したいは。」
「え、本当に?学校へ行かないで家にずっといたら退屈するんじゃないの?」
「友達は作れるの?」
学校教育は最良の教育方法ではないことには剣一も同意できた。しかし自宅で子供を毎日教育することは想像がつかなかった。ペギーは友達とホームスクーリングの本を読んで同じ考えの主婦たちでグループを作った。ホーム エヂュケーション オブ ペリーズバーグと名前をつけて同じ考えを持つ主婦たちとアイデアを交換して会員を増やした。
グループのリーダーとして新しく参加する主婦たちにジョンホールトの教育哲学を説く集会を図書館の集会室で行っていた。参加した主婦たちは様々な年齢の子供を持っていた。ペギーは教育の本をたくさん読んでいたので知識は溢れるほどあった。興味のあることはとことんまで学ぶ意欲があった。
長女が生まれてカレン真由美と名づけた。カレンが生後数か月の時に剣一とペギーは幼児が胎児の時には母親の胎内の水の世界で生活していたから水に入って自由な気持ちになると学んだ。プールでカレンを水の中に顔までつけてしまっても呼吸を水の中で本能で止めると言う理論を実験した。
父親と母親がプールの中で5メートルくらいの距離をおいて顔と顔を見合うように立つ。母親がカレンを両手で持ち上げてカレンの顔にぷっと息を吹きかける。カレンはその瞬間息を止める。息が止まった瞬間にカレンを水の中に深くいれて父親へ頭を先にしてボールをパスするように突き放す。父親はカレンを両手ですくい上げる。そして父親は同じようにして母親にカレンをパスする。この実験は魚雷と言う名前がつけられけた。
ペギーはホームスクーリングの専門家として月刊新聞を発行してぺリーズバーグだけでなくオハイオ州全域に住むホームスクーリングをしている家庭と、興味を持っている家庭とのコネクションを広げた。学校に行かない子供を毎日どのようにして扱うことが正しいやり方なのかを疑問に思う家庭が多かった。理論と実践とは違っているとホームスクーリングに疑問を持ってあきらめる家庭もあった。
8 潮時
冬が来て湖の表面は完璧に凍結した。一月に入って連日零下十度まで気温が下がった。チャックの子供たちがおそるおそる水が氷結したのを確かめるようにゆっくりと湖の端から真ん中へ向かって歩いている。剣一のオフィスの大きな窓から眺める冬景色は雪に覆われた平坦なとうもろこしの畑が白い布を上からかぶせたように目が届く限り広がっている。アンディーとピーターは2歳違いの兄弟でチャックの能力を分けて持っている。
アンディーは優等生として親が期待する模範少年。年下のピーターは素晴らしい運動神経に恵まれているがいたずらだ。リサは末の娘としてキャロルが甘やかしているのをチャックは気に食わない。三人そろってプリンシプルビジネス社に遊びに来ることが多い。必ず会長のジムが子供が喜びそうなことを考え付いて三人と一緒に行動している。ここ数週間極端に気温が低いのでジムは安心して子供たちに氷の上を歩かせている。
「大丈夫だよ氷にのっても。」
「もし氷が割れて落ちたらすぐに助けてよ。」
ジムと子供たちが大声で話しているのがかすかに聞こえてくる。この湖は会社の敷地にあるので会社の管理職の者しかここで遊ぶことが許されない。一般社員は景色を楽しむだけだ。夏にはチャックのモーターボートで管理職の社員の家族が水上スキーを楽しむ。
チャックとサムの家族は同じファーストクリスチャン教会の会員なので特に仲が良い。剣一とペギーも同じ教会の会員として毎週日曜日の礼拝で一緒に活動している。ペギーは日曜学校の先生をしている。
オハイオ州のエリー湖の近辺には山はまったく存在しない。冬は気温が下がり雪が降る。家に閉じこもるしかない数か月間が来る。この湖を遊び場として使えるチャックの子供たちは恵まれている。多分明日はスケートを持って来るのだろう。
剣一はミッチェル夫妻の家族の一員となっていた。ミッチェル夫妻の長男が大学生の時に洞窟探検の事故で死亡して以来、同じ宗教を信じる剣一は長男が蘇ったような錯覚を与えた。チャックとサムに加えて剣一が経営陣に加わった。
新商品の紙おむつを流通に乗せる努力とピローポースリッパの販売で剣一は奔走していた。クイックトップ社が専門の営業マンを雇うことになった。在庫が増えて積極的に生理用品のメーカーに超吸収紙を販売する必要がある。自社の紙おむつの生産に使うことになっているが紙おむつはまだ生産を開始したばかりでまったく販売量は限られていた。
生産するスピードが速い機械は在庫がどんどん出る時には価値があるが在庫が溢れている時には稼働時間を極端に制限する必要がある。どの商品も在庫ばかり増えて会社の資金繰りが悪くなった。剣一は状況がどんどん悪化するのを見て唖然とした。
今の路線をそのまま突き進むといつかは破綻が来ると剣一は見ていた。社内で剣一に対する社員の態度が冷たいことを感じながら会社の危機が迫っていることを意識していた。ペギーとこの危険な状況を話し合うと思いがけない考えが出た。剣一がプリンシプルビジネス社を退社して西部の州へ引っ越すことを考えようとペギーが提案した。
リー社長は会社の経営が行き詰った状態でストレスが溜まっていた。前向きに考えることができないほど悲観的になっていた。販売企画を得意としていたリー社長だが切り札となるアイデアがなかった。
夏に剣一とペギーは娘二人を連れてコロラドでバケーションをした。東京で英会話クラブを経営していた時に仲が良かったブラドレー夫妻の家を訪れてコロラドの美しい山でキャンピングをする計画だ。
ペギーと剣一はブラッドレー夫妻と一緒にファーストクリスチャン教会に通っていたことがある。この教会でエレンは書記として働いていた。主人のランも会員だった。特にペギーとは普通以上に親しい仲だった。その理由はペギーと一緒にタイムライフ社で二人とも英語の教師をしていたからだ。剣一とペギーの結婚式にも出席したことがある。
剣一とペギーはフェニックスの大学院での体験を終えた後で西部の国立公園を周ったことがある。プリンシプルビジネス社に就職が決まってすぐにトヨタカローラにキャンピングの道具を乗せて西海岸に近い国立公園をすべて訪れた。その素晴らしいキャンピングツアーで西部の乾燥した空気と温暖な気候の良さを実感できた。今回は娘二人を連れて昔の友人のところを訪問するキャンピングツアーだった。
グランドジャンクションの飛行場からレンタカーを借りてブラッドレー夫妻の家までは10分くらいだった。人口が10万人のこの小都市にはメサ州立大学がある。ランはこの大学の付属の語学学校を経営していた。
「この町は秘密の宝石とも言える住み易いところよ。」
「同じコロラドの中でも空気が乾燥していて夏でも快適なところはロッキー山脈の西側だけよ。デンバーは東側だから冬は雪がたくさん積もるし人口が多すぎて住みにくいのよ。」
「ここは大都市ではないけどメサ州立大学があるから娯楽施設やレストランがたくさんあるの。」
「気候が良くて物価が安いからカリフォルニアから移ってくる隠居した高齢者も多いわよ」
「大きな病院や老人ホームがたくさんあってここで老齢者になっても安心して生活ができるのよ。」
「明日はランのオープンカーで近くの見どころを案内してあげるわね。」
エレンは20年ぶりに会った二人を迎えて嬉しそうにグランドジャンクションでの体験を話し続けた。
「私の両親がこの町で隠居生活をしていたから私たちもイリノイ州の仕事を止めてここへ移ったのがまだ6年前よ。」
「ここの町は本当に物価が安いと思うわ。両親のアパートは特に老齢者向きだけれど大学からとても近いしスーパーの買い物も楽なのよ。」
「ランの仕事はどうなの?」
「ランはこの大学で新しい語学学校の部門をスタートしてかなりうまく行ってるわ。私はこの大学でフランス語を教えているのよ。」
「それは理想的なセットアップを見つけましたね。」
「娘さんたちは元気?」
「ええ長女のローラはもう17歳でオレゴンの大学に通っているのよ。次女のロビンは高校でチアーリーダーをしているわ。」
「ペギーはオハイオで何かしているの?」
「私はトレド大学で英語を教えているのよ。」
「それは良かったわね。剣一のお仕事はうまく行ってる?たしか手紙では私たちが行っていた東京の教会で知り合った方ですってね。偶然だわね。」
「フェニックスの大学院を卒業してすぐに就職してからもう10年になるんだよ。」
「でもオハイオ州に10年もいたのはたいしたものね。あの州は本当に田舎のイメージしかないわ。」
「このキャンピングツアーは家族そろって西部の良いところを周るつもりで来たんだよ。」
「このあたりの家は平均いくらぐらいなの?」
「普通の一軒家は大体2千万円くらい。土地の広さと家の広さは勿論色々あるけど町のどのあたりにある不動産かで値段も違うわよ。」
「大学の近くはかなり商店が多いですね。大きな公園やゴルフ場、陸上競技場、公共プールなどほとんどの大きな施設が大学に隣接しているんですね。」
「この町は大学を中心に発展してきたのよ。でも夏には観光地としてホテルやレストランが繁盛しているらしいわ。」
剣一はこの町の観光案内所に行って観光案内のパンフレットをたくさん集めた。商工会議所で町の経済を説明する情報を手に入れた。主な雇用主は大学、公立学校、病院、市町村のオフィスであった。大きな会社がなく農業と小売店が主な産業であった。
この町で生活している人たちはほとんどが先生か看護婦のようだった。サラリーマンをオハイオ州で10年していたので剣一の心の中には事業欲が溜まってうずうずしていた。もしもどこか西部で生活を始める機会があれば自営業に限ると考えていた。
しかし何をすれは食べていけるのかまったくアイデアがなかった。この町で仕事を探してもまず何もないことはわかっていた。商工会議所でもらった情報では人口の99パーセントが白人だった。一番大きなモールはメサモールとよばれて100店入っている室内モールだ。この中を散歩してみると黒人も東洋人もまったくいない。ダウンタウンはレストランとブティークが多い。観光客が押し寄せる夏にはにぎわうらしい。
ブラッドレー夫婦の家は典型的な中流の家庭が住む住宅地の中にあった。大学から車で5分。町の中心から近くて便利だった。15分あれば町の端から端まで行けるほど短い距離の2本の主要道路が町を東西に走っていた。
9 新天地
コロラドナショナルモニュメントはグランドジャンクションの南側を走っている赤土の渓谷だ。この辺りは恐竜の骨が1950年代に発掘されて以来観光業が盛んになった。映画ジュラシックパークで恐竜がブームになった頃と比べると観光客の数が減っていた。ブドウ畑を栽培してワインを製造するところが増えてワインの産地になっていた。桃ととうもろこしの生産が多く主体は農業の町である。
フルータは隣の町でコロラドナショナルモニュメントの西側の入口がある。東側の入口はグランドジャンクションのダウンタウンから近いところにある。剣一の家族は西側入り口から入った。5分近く急坂を上るとキャンプ場入口のサインを見かける。テントを張るスペース、車を駐車するスペース、バーベキューグリルが一区画の大きなスペースに設けられている。大きな木と背の高い藪の木がうまいぐあいにそれぞれの区画を分けているのでプライバシーを持てるようにしてある。
テントを張ってから眺めの良い方向へ散歩をすると展望台があった。目がくらむような高さから崖下を目で追うと崖の底の木や岩石がまるで楊枝と米粒がころがっているように見える。丸型の木はブロッコリーがころがっているように見える。グランドキャニオンを見たときの景色と似ている。スケールは小さいが渓谷から見るフルータの街並みがコロラド川と重なって作るパノラマは雄大だ。
ここは素晴らしい観光地の舞台として最適だ。デズニーランドにあるスプラッシュマウンテンの本物がここにある。ライムストーンの山を切り開いて舗装道路を建設したのは1930年のルーズベルト政策で公共事業を全国的に展開した時だ。無職の若者を政府が採用して国土を開発し、国の財産となる観光地を指定した。途中とおるトンネルは荒削りのままで彫刻したような芸術的な表面だ。舗装をした急傾斜の道はガードレールがない。危険とわかっていても素晴らしい自然の美をスチールのガードレールで汚すことはしていない。
町から東に向かって高速を走るとグランドメサと言う世界最大の台地がある。メサはスペイン語で机と言う意味だ。山の頂上が平面なことから大きなテーブルの形である。この頂上にはパウダーホーンと言うスキー場がある。スキーロッジの近辺にはモダンな建築のリゾートマンションが並んでいる。マンションを囲むように白い肌をしてセクシーなくらい魅力がある白樺と似たアスペンの森がある。標高3千メートルあるので冬はスキー場として、夏は結婚式などのイベントを開く場とされている。
町からスキー場まで50分だ。ブッククリフ山脈が北の地平線全体をカバーしており、町から西方へこの山脈を追っていくとユタ州の国立公園へと繋がっている。この山の頂上まで馬をトレーラーで連れて行って森の中を馬で散策すると野生の馬と出会うことがある。
グランドジャンクションは標高1400メートルの高原。冬にはスキーとテニスを同じ日にできるほど町に注ぐ直射日光が強い。テニスが盛んな町であちこちの公園に必ずテニスコートが6面以上用意されている。冬でも雪があまり降らないのでアウトドアが楽しめる。夏の乾燥した空気はスポーツに向いている。理想的な気候と清潔感のある街並みは観光業を盛んにした。メサ大学があるために人口の10パーセントが大学生。交通渋滞がなくテニスコートをいつでも無料で使えるところだ。
乗馬場が多く一般の家庭が乗馬用の馬を裏庭で飼っている。アメリカで馬を飼って好きな時に乗馬ができることを剣一は夢見ていた。コロラド川が町の東側を流れている。グランドメサの雪解け水はコロラド川へと流れて西側に向かって流れるからユタ州やネバダ州をとおってカリフォルニアで太平洋と合流する。フルータには乗馬と川下りを商売としている会社がある。地元のカウボーイたちは夏にはこの会社が開催するロデオで賞金稼ぎをしている。
剣一はコロラドが気に入った。このファミリーバケーションをしたためにたどり着いた新天地だと感じた。この町で何ができるだろうか。家庭を持って生活の保障がないところへ引っ越すことは無謀過ぎる。ここでの生活をスタートするための事業は頭に浮かばなかった。ランとエレンが勤務しているメサ州立大学では日本語の教師が必要ではないだろうか。ペギーはランの語学学校で英語の教師ができるだろうか。
近辺の不動産を物色している時に町から西へ30分ほど走ったところに牧場があった。1万坪の広大な敷地には湖があり、自然保護地区となっている地域も含まれていた。大きな建物は10年前にゴルフ場のロッジとしてデザインされ、高級建築木材をふんだんに使った二階建ての家だった。壁一面の大きなガラス窓からは湖が見えた。テレビ番組ボナンザに出てくる大きな家を思い出させた。西部の金持ちが住むのにふさわしい風格があった。
剣一はこの物件が英語研修所として使われる家としたらそれを維持するのにどの程度の収入が必要かを考えた。清里で英語研修所を建てる企画を捨ててアメリカへ渡ったことが頭に浮かんだ。この立派な敷地と家を手に入れることができたら日本のサリーマンの英語研修所を運営する事業ができるのではないだろうか。
ブラッドレー一家はエレンの両親が住む町で大学付属の語学学校を経営して日本や韓国などのアジア諸国、ヨーロッパの諸国、ラテンアメリカの諸国から生徒を募集した。大学の施設を使い150名くらいの生徒数を持って経営は安定していた。ボートを牽引するための大型バンとオープンカーを持っていた。家族で夏にはモーターボートで近くの州立公園の湖でボートを楽しみ、冬には生徒を引率してアスペンやベールのスキー場で楽しんだ。
バケーションが終わり剣一はオハイオ州へ戻った。剣一の心は決まっていた。英語研修所をコロラドで運営する。お客さんがいない期間はアメリカ人が使えるベッドエンドブラックファーストとして収入を上げる。プリンシプルビジネス社に戻った剣一はリー社長のオフィスをノックした。リー社長はヨーロッパから戻ったばかりでまだ疲れが残っているとなげいていた。会社の業績が悪い時にヨーロッパへの長旅は精神的に大きな負担だったようだ。
「ちょっとお願いしたいことがあるのですが。」
「何でも良いわよ。遠慮しないでいいのよ。」
「コロラドに行ってきたところなんですけど。とても素晴らしい自然にペギーも私も惚れてしまったんです。」
「でも何か生活ができるような環境が見つかるの?」
「グランドジャンクションと言う町なんですが東京に住んでいた時から親しい夫婦が住んでいるんです。今回の旅行ではずいぶんお世話になってきました」
「それは楽しかったわね。どんなお仕事をしている方なの?」
「メサ州立大学の付属の語学学校を経営してます。この学校をゼロからスタートしてうまく行っているようです。」
「大体想像がついてきたわよ。そこへ移る気持ちはもう固まったの?」
「ええ。そこの町から近いところに広い敷地で大きな家が見つかったのです。そこで日本からくるビジネスマンの英語の研修所を開きたいと思っています。」
「今日本の経済はかなり不況だと報告されているけど大丈夫?」
「大きな冒険ですけど日本へ行ってこの企画をプロモートすることができれば娘たちを私の両親や兄弟と会わせてそこで短期間ですけど滞在できると思います。」
「それは親が喜ぶことよね。ペギーは何て言っているの?」
「ペギーは私が決断してすることならサポートすると言ってくれました。」
「それじゃあここを辞めるのはいつになるの?」
「会社の都合に合わせます。退社した後は一度3か月ほど家族を連れて日本へ行きます。まだ両親が健在ですから少しは親を喜ばして上げたいと思っています。特に時間制限はありませんから引き継ぎの方を採用して仕事を教えてからにしたいと思っています。」
入社して10年経ちリー社長が剣一の助けが必要だった時とは状況が大きく変わったので会社にとっても剣一にとっても潮時だった。リー社長が創立した会社が大きく成長し今後の運営をしっかりと管理できる体制さえあれば会社は飛躍する土台がある。剣一も新天地で飛躍することができる。
リー社長はヨーロッパの工場長が難問を抱えていたのでまだ頭の中はそのことで一杯だった。ベルギーにピローポースリッパの工場を設立してから7年以上経つが病院に商品を販売する卸問屋はアメリカのように単純ではない。ベルギーだけでなくヨーロッパ諸国を対象にして販売をしたのだが各国の法律や習慣が違うために英語が共通語とは言ってもアメリカ市場のように簡単に販売網を作ることは困難であった。トランキリティーをヨーロッパで販売するにはパーケージを各国の言葉に置き換える必要がある。リー社長は事業家として才能を持っているがアイデアが現実的ではないことで思わぬ難問にぶつかることが多い。
剣一の後釜となる女性が採用された。販売と営業を兼ねることができるバックグラウンドを持っている。デビーは髪の毛を短くした50歳くらいの女性だ。顔つきがどこかイギリス的で品がある。かなり教養があるタイプだ。この会社で長期的に働くことは一般の会社とは少し違う。リー社長のアイデアを速いテンポで実行することが要求される。同意できない時でもうまくアイデアをサポートする態度を取りながら少しずつ方向を修正していく忍耐が必要だ。
チャックはこうした忍耐に欠けていたのでリーと衝突することが多かった。社内のファイルのシステムをより効率が良いようにしたり、販売データを分析する事務能力にたけていたがリー社長と企画を立てるアイデアをどれだけ実効に移す能力があるのかはこれからわかることだ。
剣一がコロラドへ移転した後でリー社長はチャックの協力が必要になった。コンサルタントとしてデトロイトで働いた結果思ったほどフリーハンドな会社ではなかった。チャックはその不満をキャロルに話していた。リー社長は現在の状況をチャックに話したところチャックはリーと再度協力することを了承した。
剣一は千葉の親の家で新年を迎えた。一郎は荻窪の邸宅を手放し相当の額の現金を手にした。地価が安い千葉県の八街市に一般家庭の倍の広さがある土地を買い、日本風の瓦屋根の茶室のようなデザインで貴重な木材を豊富に取り入れた家を建てた。同時にその隣にモダンな洋風スタイルの二階家を建てて余生をそこで終わらせる気持ちでいた。事業家が最後の財産を投げ打った邸宅が建築された。
日本の冬は寒かった。小学生の娘二人が一郎の家でピアノを弾く時には指がかじかんでいた。旅館のように長い廊下が二軒を繋げていた。部屋数が多いが各部屋別々に暖房する日本の冬は極端に寒い部屋が何部屋もあった。ピアノは板張りの洋風の居間にあったのでカレンとステイシーは滅多に使わない場所にあるピアノに向かって手をこすりながら指を動かした。
八街市は車がなければ身動きが取れないほど田舎にある。家の近くにバス停があるが本数が限られているので不便だ。しかし部屋数が多い邸宅は剣一の一家が滞在する場所としては最適だった。この場所を一郎が選んで移転した理由は剣一の家族が日本を訪問するときには成田飛行場まですぐに迎えに行けるからだった。
成田は八街から車で30分もかからない。ペギーが日本の田舎の美しさを体験する良い機会となった。成田山はお土産物屋が並ぶ街道の突き当りの自然が美しいお寺だ。娘二人はホームスクーリングをしてきたので学校へ通う必要はなかった。親元で親の協力で学びたい時に好きなことを学ぶ習慣がついていた。日本の文化を学ぶ最高の機会であった。日本語を学び日本の習慣に従って生活した。長女のカレンは9歳、次女のステイシーは5歳だった。
剣一はコロラドの研修所を紹介するパンフレットを作り、名刺を手に大手の語学学校や旅行雑誌を発行している会社へ毎日足を運んだ。日本の経済が停滞していたことは担当者の言葉ではっきりとわかった。会社が経費をかけて社員教育をする時代は終わっていた。利益が出ない会社が海外へ社員を派遣して英語の教育をすることなど不可能だった。
日本の3か月間の滞在を終えてコロラドの新居での生活が始まった。日本で作ったコンタクトからの連絡を待つだけでなくアメリカ人の旅行者が滞在できるベッドエンドブラックファストをスタートした。時間はどんどん過ぎていくが施設を利用するお客さんはなかなか現れなかった。できるだけの手をつくしたが大きな家を維持して牧場を経営するには資金がかかり過ぎた。夢を実現することはできなかった。不可能なことに執着していては完全に行き詰ると判断して牧場から去った。
アメリカには不動産を買う時にレンタルをした後で気に入れば購入できるリースパーチェスと言うやり方がある。剣一のプロジェクトはこれを利用したのでダメージが抑えられた。しかし時間とお金をかけてトライした事業が失敗したために家庭を抱えた剣一は危機を迎えた。
これまで一度も失敗したことがない剣一が初めて失敗の苦い経験をした。グランドジャンクションの安いアパートに入ってこの次のステップを模索していた。田舎町でどんな収入があるのか。大学で何かポジションがあるか。ペギーと二人で大学での就職を求めたが何もポジションがなかった。収入がない状態が3か月続いた。履歴書を作り日本の現地採用をしている会社に問い合わせた。返事はなかった。
デンバーにオフィスを置いていた日本の会社は撤退した。日本食レストランがデンバーの日本人町にあったが閉店した。アメリカの経済も日本の経済も冷えていた。職業紹介所に出ている雇用案内は小売店の店員、レストランのウエイター、小さな会社のセールス。剣一が持っている能力を発揮できる場所はまったく見当たらなかった。
人生で成功するチャンスを全く見失ったのはこれが初めてだった。一日一日が何もしないで過ぎてゆく。これからどうなるのかまったく予想がつかない不安な毎日が続いた。グランドジャンクションにヒルトンホテルがある。そこのマネージャーは商工会議所のメンバーだ。この町の経済状態や商売の動向、会社の評判などに詳しい。剣一は情報源として定期的に彼と会って情報をつかむことにしていた。
「カリフォルニアの会社に決まったね。この町は新しい国際企業が必要なんだ。産業がないから町が発展しないと誰でもわかっていても良い産業誘致政策を出さなければここに移転する会社はないからね。」
「そうですか。その誘致政策を作る団体があるんですか?」
「かなり前から市長が先頭に立って商工会議所と連携して経済振興団を結成してカリフォルニアで誘致政策を様々なメディアをとうして宣伝しているんだよ。」
「その誘致政策で良い結果が出たんですか?」
「つい最近のことだけどサンタアナにある国際企業が強い関心を示したそうだ。」
「デズニーランドから近いとこですね。私はそこに一時住んだことがありますよ。とても良い気候ですが交通渋滞がひどいし人口が多すぎて長期的に住みたいとは思いませんでしたけど」
「そこなんだよ大事なのは。グランドジャンクションは空気がきれいで気候が良いから生活の質が高いと宣伝しているそうだ。」
「たしかにそれは私も同感ですよ。」
「今世界中で大型水族館がブームになっているのを知ってるかい?」
「いや知らないな。ここにも水族館ができるんですか?」
「そうじゃなくて大型水族館を建設する会社なんだ。」
「じゃあ建設会社ですか?」
「まあそうとも言えるけどもこの会社はレノルズポリマーと言って水族館で使う大型のアクリル製の窓ガラスを製造しているメーカーだ。」
「ああメーカーですか。その会社の移転計画はどの程度進んでいるんですか?」
「すでにパターソン通り沿いに工場を建設中だよ。そこの幹部たちがうちのホテルで滞在することがよくあるよ。」
「それなら一度その建設現場へ行って様子を見てみますよ。」
「この会社はあなたのように国際的な営業経験を持っている人間は何かさせてもらえるかもしれないね。」
剣一は自分の履歴書を見直した。これまでプリンシプルビジネス社で10年間経験した販売能力を明確に提示できているかを考えながら。2年前にアメリカに帰化したことをもっとはっきりと記入すれば現在アメリカ市民であることがわかる。アメリカの企業で販売企画や営業を担当する販売部長であったことも履歴書の頭に持って来る必要がある。アメリカ社会で活躍できる能力があることが一番大事なポイントとなるはずだ。
「ここの建設の担当者とお会いしたいんですが。」
「あそこにいるのが副社長のマークだよ。」
「ちょっとすみません。マーク副社長ですか?」
ヘルメットを被って大工仕事をしているので副社長には見えない。仮小屋のようなところを出入りしている。建設中のオフィスとして使っているのだろう。
「入っていいよ。何か用事があるのですか?」
「はじめまして。私は最近この町にオハイオ州から引っ越してきたばかりですがこの建設現場はレナルズポリマー社だとお聞きしたのですが。副社長の方でしょうか?」
「ええ。マークと言います。何でしょうか?」
「私は履歴書を持ってきましたがご覧になっていただけますか?」
「ええとね。従業員の採用は人事がやることになってるからなあ。まあどんなポジションが可能か見てあげようか。」
剣一は二つ折りにした履歴書を手渡した。マークは忙しいところでやっかいなことを頼まれて迷惑そうな顔つきで履歴書に目をやった。
「ずいぶんしょっちゅう職を変えたみたいだね。」
「ええ?オハイオ州では過去10年間同じ会社で働きましたので転職は一回もありません。」
「じゃあこの2、3年ごとに違う肩書があるのはどうして?」
「ああそれは同じ会社の中で昇進されましたので肩書がその都度変わりました。」
「ふーん。それでどんな仕事をオハイオでしてたの?」
「ポリマーを使った超吸収紙を製造するメーカーで販売部長をしていました。」
「そのブランドの名前は?」
「トランキリティーと言う失禁者用のパッドや紙おむつ製品です。」
「聞いたことないね。全国で販売しているの?」
「いえまだ商品が開発してたいした時間が経っていませんのでオハイオ州近辺で販売されているだけです。」
「まあポリマーのことを少しは知っているようだね。」
「ええポリマーに関しては深い知識があります。特に日本のポリマーを輸入して製品に取り入れていましたから。」
「そうなの。うちの会社は兄のロジャーが社長だから後2週間もしたらここへ来ることになってるし一度会ってみたらどうかな。」
「宜しくお願いします。私は近くに住んでいますからご都合が良い時に又お寄りします。今日は突然お忙しいところお時間を取らせて申し訳ありませんでした。」
「結婚はしてるの?」
「はい。妻はアメリカ人です。ここで娘二人と住んでいます。」
「わかった。それじゃあ時間がある時に電話をして奥さんも一緒に会ってお茶でも飲もうか。」
「ありがとうございます。失礼します。」
ペギーと剣一は小さなアパートで今後のことを考えていた。この町にいてもたいした職は見つからないからどこか大都市へ移った方が良いだろうと話していた。ヒルトンホテルのマネージャーから聞いた話と建設現場へ行ってきたことも付け加えた。
「ところでさ、今朝履歴書を持って行ってきたところがあるんだよ。パターソンで工場を建設している会社があるんだ。」
「ああ通りから見える大きな建設現場ね。あれは工場だったのね。グランドジャンクションであんな大きな建物が建つなんてどんな会社なの?」
「まだあまりよく知らないんだけど水族館の大型の窓をポリマーで作るメーカーだそうだよ。この町の経済振興団体が大金を出して誘致したそうだよ。」
「この町には工場がないから珍しいわね。」
「町がこの会社の雇用能力とか町に払う税金の収入など相当なことを期待しているらしいよ。」
「でもこの場所へわざわざ移転するのは何故かしらね?」
「町の誘致政策の成功談になっているくらいだから優良企業であることは間違いがないな。」
「今日会ったのは副社長だよ。ヘルメットを被って仕事着を着て現場監督をしていたからまさか副社長だとは思わなかったよ。そこで働いている人に聞いて驚いたんだ。
「あと2週間で社長が来るのでその時にまた会う機会を作ってくれるそうだよ。ああそれから副社長のマークが夫婦で一緒に会うと言ってくれたよ。そのうち一緒にお茶でも飲もうと言ってるよ。」
「このクルーザーと言うレストランで会うことになってるんだよ。」
「時間丁度に着いたわね。渋滞がないことはいいわよね。」
ペギーと剣一がレストランの中を見渡すとマークが窓の横に座って新聞を読んでいるのが目に入った。
「こんにちは。先日はお仕事中にお時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。今日は妻のペギーと一緒です。」
マークは一人で現場監督をしているので家族はカリフォルニアに残したままだった。ペギーに集中的に質問を浴びせた。
「いつからこの町へ来たの? ここへ住んでみてここの環境をどう思う? うちの会社の人間が家族を育てるのにとても良い環境だと聞いたけどもそう? オハイオはここと比べて住み心地はどうだった? ここへ移転してきた理由は何なの?」
コーヒーを飲みながら親しげに笑顔で会話をしてくれるマークの人柄はこの会社のイメージが良いことをペギーにも印象づけた。
「うちの会社のことを少し話すけどもメーカーだから製品の質が高くないと他社と競争できないんだ。特に日本のメーカーはうちの最大の競争相手だよ。ポリマーを素材とする大型パネルを作る技術を持っているのはうちがアメリカで唯一の会社だ。日本には同じような製品を製造している会社が2社ある」
「私がオハイオで勤めていた会社もポリマーを日本から輸入していましたよ。ダウ・ケミカルのポリマーよりもはるかに性能が良かったですね。」
マークから電話がありロジャーがヒルトンに滞在する日程がわかったそうだ。剣一はロジャーとの面談のための準備としてポリマーに関して調査することにした。現在ポリマーを生産しているアメリカの会社の経営内容、商品の種類と名前、最近発売されたばかりのポリマーの名前と特徴、レノルズポリマー社に関する地元の新聞の記事を読んでこの工場の移転がこの町に与えるインパクトを知った。
ヒルトンホテルのラウンジでロジャーが現れるのを待った。初めての面会で緊張していた。入口に近い席で履歴書を片手に持って高級ホテルの内装はセンスがいいと思っていた。待ち合わせの時間を5分くらい過ぎて一人の背が低いアメリカ人が入ってきた。すぐに目が合うと同じテーブルの席に座るつもりで近づいて来た。
「アーユーケンイチ?」
マークと同じくらいの背丈で顔つきも似ていた。兄らしい貫録が感じられた。ブロンドの髪の毛はマークと同じだ。愛想の良い笑顔も似ている。年はまだ40代と思われた。
「マークから君のことを聞いたけども日本からアメリカに帰化したんだね。何年くらいアメリカに住んだの?この町にはいつからいるの?今は毎日何をしてるの?子供はいるの? もし採用されたらどんな仕事ができるの? 日本へ帰ることはあるの? この町は気に入っているの? 何をしにこの町へ来たの?」
ロジャーはとても頭の回転が速いのがわかる。会話のペースが普通よりも速い。剣一がこの町に来た理由は語学研修所を開いて日本から来るビジネスマンに英語を教えることだと言うとロジャーは急に明るい顔になって新聞の記事を見たことがあると言う。地元の新聞にかなり大きな写真入りの牧場の紹介が掲載されたのがまだ3か月前だからロジャーの目にとまったのを思い出したらしい。
「あの牧場はどうなったの?」
「日本の経済が悪くて語学研修に社員を外国へ送るなどは現実には無理なのがわかってあの牧場から出ました。」
「それは残念だったね。今はこの町で働く場所を探しているの?」
「ええそうです。」
レノルズポリマー社の販売と営業について説明した。剣一がもし入社したらどんな仕事ができるかが話題になったところで剣一は販売企画と将来の会社の展望の社長のアイデアを実行に移す大きな助けができることを強調した。オハイオの会社では販売部長として社長のアイデアを実行することが主な仕事だった。
ロジャーのアイデアを最大限に効率よく実現することを約束できる。ポリマーに関しては深い知識があるので会社の製品向上のためのリサーチもできる。販売部長としての戦略の立て方や競合会社に対する効果のある対抗方法を生み出すことができる。日本の会社が主な競合会社であっても日本市場にレノルズポリマー社の製品を積極的的に売り込む自信がある。
「この次には君の給料の話をしような。」
ロジャーが別れ際に言った言葉だった。
ヒルトンホテルでの面談から一か月経ってレノルズポリマー社からファックスが来た。ロジャーからだった。短い内容で社内メモ用紙に初任給の額だけが書いてあった。これを了承すれば入社が決まるようだが何を担当するのかも肩書も書いてなかった。給料はこれで引き受けるが肩書と何の仕事を期待しているのかと返事した。その返事はすぐに戻って来た。肩書は販売部長だった。
「やったよ。ロジャーからのファックスで採用決定だそうだよ。」
「本当に? それでどんな仕事をするの? 給料も知らせてくれた?」
「販売部長だよ。給料もまあまだよ。」
「いつから働くの?」
「詳細は人事部から知らせてくるんだそうだよ。」
「まだ工場ができていないのに何かすることなんてあるのかしら?」
「そうだね。でも現地採用の最初の社員なのかも知れないな。 まあ後は時間にまかせるしかないな」。
人事部のマージョリーと言う女性からのファックスで現地採用の社員は本社の仕事をして会社の内容を把握する必要があり、会社から近いニューポートビーチのマンションに近いうちに会社の経費で移転することになったと伝えられた。ペギーはニューポートビーチに住む友達を持っていた。金持ちの若い夫婦で海から近い場所で結婚して間がなく二人だけで生活をしていた。
剣一とペギーはアメリカに移住してまもなくデズニーランドに近いブエナビスタに住んだことがあったから気候が素晴らしいが交通渋滞がひどいことを知っていた。その時の思い出は剣一も懐かしく心が弾んだ。
「やっぱり交通渋滞はひどいな。」
オハイオ州から長距離をドライブして、やっとカリフォルニアに入ってしばらくしてロスの渋滞につかまった。ペギーと娘たちはオールズモビールのステーションワゴンに荷物を積んで剣一が運転する引っ越し用のユーホールレンタルトラックを先導した。
ユーホールと言う名前の引っ越し用トラックのレンタルは全国どこの町でも見かけられる人気のある会社だ。大型の長距離用商業用トラックの大きさと同じくらいのサイズだ。普通免許でもこの大型サイズを運転できる理由は多分老人に人気があるモーターホームと言う大型バスの大きさのものがアメリカ全国を普通免許で走っている交通法規だからだろう。道路幅が広く高速道路が全国いたるところで無料で使える国だ。老人でさえ運転できるのだから同じ大きさのトラックを普通の成人が運転することに問題がないのだろう。
ロスの渋滞はあまりにもひどかった。5車線もある高速道路だが完全に止まったまま動きが取れない。先導しているペギーが急にカープールレーンに入った。レンタルトラックの剣一は一人で運転している。助手席にはオハイオで飼っていた白い大きなウサギが入っている檻を乗せているだけだ。
カープールレーンは二人以上乗っている車だけが使える車線で高速道路の一番端にある車線だ。ペギーの後ろをついてカープールレーンに入るしかない。行く先と道順が書いてある紙はペギーが持っているからだ。
反対側を走る逆方向は空いている。パトカーが逆方向に走って通り過ぎるのに気が付いた。一人だけのトラックがカープールレーンを走っているのは車高が高いからすぐに見られた。バックミラーで走り去るパトカーを目で追った。Uターンしている。サイレンを鳴らしてピカピカと光っている警告灯が剣一の方に向かって来るのがわかった。ユーホールトラックの真後ろにぴったりつけている。路肩にトラックを寄せた。パトカーから警官が降りてこちらへ向かっているのがサイドミラーに写った。
「カープールレーンは一人では入っては違法なことを知らないのか。」
「オハイオから引っ越しをするところなので知りませんでした。一番空いているレーンに乗ってしまいました。すみません。」
「このまま運転はさせるけどもここでカープールレーンは出て一般レーンに入りなさい。」
ペギーの車はどこにも見当たらない。車の流れに押されて目的地まで直行しているに違いない。レノルズポリマー社の人事部のマージョリーに電話をして目的地のマンションまでの道順を聞いた。ペギーに高速道路でパトカーに止められたので到着はずっと遅くなることを伝えてくれるように頼んだ。
レークサイドマンションはプールとテニスコートがある高級マンションだった。ニューポートビーチの海からほんの15分しかかからない。高級ホテルのような入口を入るとフロントの受付が詳しくマンションのルールを説明してくれた。部屋に入るとペギーも娘たちも嬉しそうに夕飯を食べていた。素晴らしい眺めだった。
遠くの海を眺めながら剣一はひとり感動にふけっていた。あの絶対絶命の事業失敗の経験から3か月しか経っていない。まったく自分が計画した結果でもなければ自分の努力が実ったわけでもない。このロジャーとの出会いは奇跡としかいいようがない。
レノルズポリマー社がグランドジャンクションに引っ越してきたタイミングは剣一がオハイオから移転したのと同じなのだ。偶然にしてはできすぎていると思える。ペギーがスペインに留学した経験があったことも同じような偶然であった。奇跡的な出会いは神が導いた道を歩むことで当然のように現れる。
到着した翌日から剣一は出社した。マージョリーが案内してくれた。
「ウエルカム!ここがあなたの席よ。」
ロジャーと背丈が変わらない小ぶりの男性が勢いよく入ってきた。副社長営業担当のスチーブ。
「どうもはじめまして。剣一です。」
「このデスクとファイル入れや筆記具は好きなように使ってくれね。」
「ありがとうございます」。
「まずは俺が工場を案内してあげよう。」
スチーブは速足でオフィスを出て別の建物へと向かった。青空がまぶしく陽射しが強いのはオハイオの会社とは違っていた。工場のにおいは独特のポリマーを加工しているにおいだ。化学製品に熱を入れると発生するにおいは鼻をつく強いにおいだ。工場の中にはクリスタル状の厚ガラスと同じ外見の平板が重ねられている。社員が忙しそうに作業をしている。ポリマーを大量に使って大型透明パネルを製造する過程をスチーブが説明した。高い天井まである円形の超大型のオブンを指した。
[これには今大型パネルの製造中のものが入っている。液状のポリマーを個体にして均一な透明度を持つパネルにするには独自の技術が必要だ。厚さがあるものを完璧なものにするのに長時間かかる。製造過程で少しでもミスがあると完璧な透明度を要求される水族館のパネルとして納品できない。うちの独自の技術は日本の会社でも持っていなんだよ。ロジャーが開発したものだから世界でうちの会社しか持ってない技術だ。」
「このところ世界中で大型水族館に使う超大型パネルの需要がある。君は販売企画をするようにロジャーが言ってたよ。営業と製造を良く学んでからになるよ。」
「ええ。事業の内容を徹底的に理解しないと企画はできませんから。」
「こうした透明のチューブや丸棒があるだろう。これらは水族館とはまったく違う市場に売っている。アクリルはポリマーを加工してできた商品の名前だ。大型パネルもこういう小さな棒状のものもすべてアクリル製品として販売される。」
「まずは丸棒の営業をしているロイドが君に営業の仕事を依頼するだろう。彼は俺の下でカスタマーからくるこういう小物のオーダーを電話で取って在庫を見てからカスタマーに価格と在庫の具合を知らせる。この商品には同じような商品を製造している競合会社がアメリカにある。価格と商品を納品するタイミングでうちが勝つか負けるかの勝負になる。」
「どんな規模の市場を持っているのかを調べてみます。競合会社の内容も調べてお知らせします。」
「それはいいアイデアだな。俺は売ることに時間をかけてそんな情報を探そうと思ったこともないから。そんな時間などまったくないよ。とにかく営業は商品の売り上げを増やすことが仕事だから。」
人事の社員が来た。コンピューターを一台販売部長に買うことを社長から依頼されているので好みのものを選んで欲しいと言う。
「スチーブと相談してから返事をするよ。」
スチーブの部屋に行きデスクのむかえにあるソファーに座った。今社内にあるコンピューターはどの程度のレベルのものなのかを知りたかった。営業が使っているものは会社が生産している商品すべての在庫と価格がすぐに計算できるプログラムが入っている。デスクトップだけでラップトップは一台もない。スチーブがアメリカ中の水族館とシーワールドを訪れることが多い。ラップトップがないのは不思議だ。
「スチーブ、ロジャーが新しくコンピューターを俺に買うらしいが最新のラップトップをスチーブが持たないと仕事にならないだろう。俺は外で動く人間ではないから今会社にあるデスクトップを一つもらえれば十分だ。ロジャーには最新のラップトップをひとつ営業に入れるように頼むよ。」
「それはいい考えだな。ありがとう。」
「ロイド、このオーダーはいつものよりもかなり大きいけど在庫はあるの?」
「まだ見てきてないよ。俺のコンピューターではあることになってるけどな。必ず在庫を見てこないとあてにならない。」
「時間があるから俺が見てくるよ。」
剣一は営業の仕事をしていて改良するべき点が目についた。会社は水族館ブームでこれまでにない大きな利益を上げているが社内の効率を改善するほど時間の余裕がない。新入社員はフレッシュな目で現状を分析できる利点がある。
社内の幹部の会議に剣一は参加するように言われた。毎週月曜の朝10時に会議室に幹部が集まり大きなプロジェクトを中心に製造の進み具合や新しい注文に関して報告がある。何か問題が起こると誰でも自由にその解決策を提案する。社長のロジャーは問題が起こるとすぐに怒り出す。社員はこのロジャーの反応を恐れて沈黙が続く。
「ロジャーが会議室でよんでるぞ。」
スチーブが大声で壁が破けるかのように怒鳴った。
「今至急工場にいる日本人のカスタマーと会ってきてくれ。商品検査が目的で訪問しているんだ。」
ロジャーからの命令だ。
「はじめまして。販売部長の荒井です。どちらの会社の方かお聞きしてよろしいでしょうか?」
ロジャーは何も詳しい話をしてくれなかったので相手のことは何も知らない。
「伊藤忠です。」
言葉が続かないぶっきらぼうな返事だ。
「わざわざお越し下さりありがとうございます。」
二人の日本人は大型パネルの縦、横、厚さを慎重にはかった後で小型の水平度を測る器具を取り出した。検査に使うためのチャートが入ったフォームに情報を詳細に書き込んでいる。一段落して仕事が一応終わったところで話しかけてきた。
「貴方はレノルズに最近入社されたのですか?」
「ええ。オハイオの会社で勤務した後でグランドジャンクションへ移りましてそこでロジャーと会わせていただきました。」
「日本のどこからの方ですか?」
「東京出身です。」
訪問者の一人がリーダーでもう一人はその部下であることが態度に表れていた。リーダーの人は背が高く貫録があった。背広とネクタイとの趣味が良くかなりダンディーである。日本のビジネスマンの優秀なタイプだ。顔は普通より眉が濃く目が大きくハンサムな男とみられることが多いだろう。じっと彼の顔を見ていた剣一が急に驚いた顔になった。
「もしかすると有田さんじゃあないですか?」
この瞬間目と目が合い、じっと剣一の顔を見ていた。不思議そうな顔になった。
「どこかでお会いしたことがありますか?」
「慶応大卓の国際関係会で活躍なさりませんでしたか?」
「ええ。あなたの名前は何ですか?」
「荒井です。当時の仲間に斉藤や中井がいましたよ」
「ああ思い出しました。もう20年になりますからすっかり記憶から消えていましたよ。」
「会議室に戻ってロジャーや他の幹部と話をしますのでゆっくりとその後で昔を思い出しましょう。」
名刺を交換して相手の立場がはっきりとわかった。ロジャーは剣一が有田氏と大学のクラスメートであったことがあまりの偶然だったので唖然としていた。
「本当に世の中は狭いなあ。」
有田氏は日本語で大学時代の同期生の名前を次々に出して今彼らはどんな生活をしているかなあと言いながら笑いがとまらなかった。有田氏は会議の後で剣一のオフィスに来てこれまでの伊藤忠とレノルズの会社関係を説明した。ロジャーは高級レストランでの夕食を伊藤忠と剣一のために手配した。
過去の伊藤忠の業績はレノルズポリマーがまだ大型アクリルパネルの製造技術が劣っていて日本の競合会社と競争する力がない時に伊藤忠が大きな投資をして世界一の製造技術のある会社にまで導いたことだった。伊藤忠は大阪市が中心となって建設する海遊館の建設計画が出た時に建設プロジェクトの株主のリストに名前を出していた。株主としての立場はプロジェクトの建設用の大型アクリルパネルの調達をどこからするかを決定するための発言権を持っていた。日本には既に必要な大型パネルを製造できる会社が2社あった。しかし両社とも伊藤忠の競合する商社の息がかかっていた。
有田氏がアメリカのサプライヤーを探していた時にレノルズポリマーの技術は日本のメーカーよりも優れた技術であることを見抜いた。日本のメーカーは薄いアクリルパネルを数枚重ねて水圧に耐えられる厚みにする重合プロセスを使っていた。レノルズポリマーの技術だけがどんなに厚いパネルでも一本取りで型に入れて製造ができた。重合プロセスが必要ないものは重合を省く分だけ製造コストが下がった。唯一の問題はパネルの縦と横の長さに制限があって一番価格がはる超大型のパネルを製造するための大きい窯がなかったことだ。
「有田氏が海遊館のプロジェクトに伊藤忠とレノルズが共同で参加できるところまで持っていってくれたんだよ。」
ロジャーは当時の苦労を思い出すかのようにレストランで剣一に説明した。
「海遊館はジンベイザメと言う巨大なサメかクジラかわからないような生き物を水族館に入れることを目玉としていたんだ。これは長さが10メートルもあるから水深が普通以上にないと生きていけないんだ。これを入れる巨大な水槽を設計して海をそのまま水族館の中に作るような構想が実現されるかどうかの時にレノルズの工場に超大型の窯を導入する資金を伊藤忠が出したのは有田氏の功績なんだ。」
ロジャーが楽しそうに剣一にこれまでのいきさつを説明するのを見て有田氏は照れたように笑い顔を作った。
「ロジャー、俺たちはあのおかげでベストフレンドになったなあ。」
有田氏が冗談を言うような顔で目をわざと見開いておどけてみせた。有田氏が去って剣一の仕事はいつものアクリル棒の営業に戻った。副社長のスチーブは水族館関係の仕事も剣一と話すようになった。世界各地から送られてくる水族館建設プロジェクトの青写真が届くたびにそのアクリルパネルの見積もりを出す作業を剣一に与えた。デスクトップのコンピューターには水深に合わせてアクリルパネルの厚さを計算してはじき出し、縦と横の数字を入れると価格が出るプログラムを使う仕事はエンジニアではない剣一にとってもやりがいがあった。
「明日はサンディエゴにあるシーワールドと会議があるから一緒についてきてくれ。車で行ける距離だから。」
建設予定の水族館の青写真は南米の国から来ることもあった。アルゼンチンやチリの場合には電話でカスタマーとスペイン語で話す機会もあり剣一は能力が発揮できる場所が見つかり楽しい体験が増えた。シーワールドでは飼育担当者がアクリルパネルに傷がついたのでそれを修理するオーダーが多かった。アクリルパネルはガラスと違って傷を除去する方法がある。
アクリルパネルを日本市場に売り込むチャンスが回ってきた。伊藤忠が参加するプロジェクトは必ずレノルズポリマーの名前が入札に加わった。
博多の海ノ中道に納品するパネルが伊藤忠の手配で輸送船に乗せられた。枚数は限られていたが金額は合計で1千万円を超えていた。一つの注文の処理にしては多額だった。予定のとおりにパネルは博多港に着き大型のフラットベッドに乗せて建設現場まで輸送が終わった。コンクリートの建物の壁が邪魔して大型パネルを建物の入口から入れることはできない。クレーンを使って屋根を取り付ける前に上部から吊るして窓の枠の中にはめて施工する。
一枚一枚窓の枠に当てはめて施工をしていく作業には時間がかかる。この枠にぴったりはまるのが当然だ。何かの理由でパネルの大きさが合わないとそこで施工作業は中止されてしまう。建設に遅れが出る。順番に計画どおりに進めないと無駄な人件費が予算超過の原因になる。伊藤忠がレノルズに緊急手配を依頼してきた。
輸送したパネルの中でわずかに歪みがあるものが出て施工ができずに困っている。この処理の仕方あるいは修正の仕方を一刻も早く知らせて欲しいとの依頼だ。これは社内のエンジニアリングの部門に情報が入った。メーカーとしてこの処理をどうすべきかを指示してくれと伊藤忠が相談してきた。社内の意見は一度レノルズの工場から出荷された商品はすべて保険会社と輸送会社の責任となるとして処理することに決定された。メーカーの責任はまったくないとの意見にまとまった。何が理由でパネルに歪みが出たのかを検討する必要があった。
伊藤忠の担当者は輸送会社からパネルの搬送に使った記録を詳細に検討した。ロングビーチの港で輸送船に乗せる時に一番大きいものを先に乗せて一番下になるようにする。大きさに合わせてその上に重ねていき一番小型のパネルが最上部になるようにしたかが調査された。最後に乗せた二枚のパネルの大きさの順番が間違っていた。大きいパネルをそれよりも小さいパネルの上に乗せるとはみ出る部分がある。重力でそのはみ出た部分に歪みが出る。
海ノ中道の2期工事でレノルズ社の商品の中に歪みがあるパネルがあったことが理由でその後のプロジェクトで建設業者はレノルズ社の商品を避けていた。剣一の仕事はやりづらくなった。
10 水族館
世界中で大型水族館の建設予定が目白押しだった。ヨーロッパではフランス、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツが同時に大型水族館の建設を企画して見積もりを出すためにレノルズポリマー社に青写真を送ってきた。見積もりを出すことは営業部の仕事だ。ロイドも見積もり計算の作業に参加した。スチーブは営業のトップとしてすべての見積もりを見直して間違いがないように監督した。アラブ諸国からも見積もり依頼が入るようになり大きな束の青写真が山のようにスチーブのオフィスに積んであった。
剣一が日本市場で競合2社と戦うためには日本の水族館のニーズを学び伊藤忠との連携プレーをより強いものにする必要があった。ロジャーの指示で東京の伊藤忠のオフィスを一緒に訪問することが予定された。ロジャーは韓国とサウジアラビアの大きなプロジェクトの交渉をしてから東京で剣一と落ち合い伊藤忠を訪問した。
「どうですか韓国の様子は?近頃韓国の経済は急速に回復しているようですね。」
「アメリカの購買力を期待して車やテレビなどの電気器具業界が政府と一緒に輸出に力を入れているね。」
「伊藤忠から水族館の建設の話がたまに入ってきているようで感謝していますよ。」
「あの歪んだパネルが問題を起こしてから評判が落ちたのが困りますね。」
有田は会議室のソファーにゆったりと座りながらお茶をすすった。
「この水族館の建設ブームはいつまで続いてくれるのか知りませんがこの頃特にアラブからの見積もり依頼が増えていますよ。」
「あそこは何をしないでもキャッシュが溜まっているところだから支払いの心配はないでしょうね。」
「近いうちに国際水族館会議が東京でありますね。レノルズからも誰か参加するんですか?」
「そうだな。剣一が来ればいいと思ってるよ。その時に何か水族館の仕事が入っていれば一朝一夕だがね。」
伊藤忠は競合の商社2社が日本のパネルのメーカーと合体して水族館の入札に出てくることを常に意識して情報を集めている。水族館の建設材料の中で一番高価な商品であるから枚数が多い大型プロジェクトは入札に成功すれば見返りが大きい。
「日本経済の立ち直りが遅いのは総合商社の責任もあると思っているよ。」
有田氏は自社が水族館の分野で他社に後れを取っている責任を感じているのがわかる。パネルが歪んだのは輸送の途中だから明らかに責任は伊藤忠にある。有田氏はロジャーに見せる顔がない立場だ。部下の失敗を聞くと怒りで爆発するロジャーだが有田氏に対しては落ち着いた態度で話を進めている。
「問題は今後の対策だ。何かレノルズができることがあるかね。」
「四国パネルが最近技術を改良してレノルズにしか製造できなかった超大型のアクリルパネルを作り始めたよ。」
「しかしレノルズが持っている一本取りで製造するのとは違うはずだ。重合してサイズを大きくするだけのことだろ。厚みがないと水圧に耐えられないからただ縦と横を長くすればいいと言うものではないし。」
ロジャーは有田氏の眉毛を下げたしかめっつらを見ながら技術力で他社を抑えるポイントを強調した。
「重合するとその重合した貼りあわせのところが線となって一定の角度から目に入る。うちのパネルにはそれがないだろう。」
「確かに一本取りはコストも安いし見かけも優れている。今伊藤忠が売り込みをかけているプロジェクトの青写真はレノルズに郵送した。この見積もりの金額は利益を出すぎりぎりの低い価格でないと発注はないと思いますよ。」
「価格の低いことが一番大きい要素となるような商品を日本の会社は作っている。うちのパネルは品質が一目でわかるものだろ。重合の線が入っているパネルに負けたら困るよ。うちの商品は品質で勝負なんだ。」
「ロジャー、それはわかっているよ。商品の紹介用パンフレットを日本語で作る必要が出てきている。英語のものはもう古びて見えるからね。一本取りのパネルの優秀さを明確に表すことが必要だ。」
「本社に戻ってすぐに日本語のパンフの作成をしますのでご協力お願いします。カラー写真をふんだんに使って伊藤忠さんのセールの方が誇りに思う立派なパンフにしますよ。」
「日本語のパンフは伊藤忠さんの専用のものですから申し訳ありませんが作成費は出していただけますでしょうか。」
「その程度の出費は大丈夫ですよ。英語のものは水族館に郵送することはなかったけれど日本語のもので窓口が伊藤忠となっているなら口で説明しなくても郵送で済みますから長い目で見れば経費削減にも繋がりますしね。」
「ああここでうちの課で水族館以外の仕事もしていますが私の指示で動いてくれている中川をご紹介しましょう。」
有田は年齢にしては出世が速かったことを示す部長代理の名刺を使っていた。会議室に入ってきた中川は課長と書いてある名刺を差し出して有田氏の横に立って深々とお辞儀をした。
「中川君近いうちにレノルズの荒井氏から君に連絡があって新しい日本語のパンフの作成の資料が届くからそれを担当してくれ。」
「はい。わかりました。できましたらこの機会に荒井氏とその下準備をしたいと思うのですがお時間がありますでしょうか。」
「明日もう一度御社へお伺いしますよ。」
一日が終わってホテルへ戻った剣一とロジャーは今後の日本市場での計画を話し合った。有田氏が剣一と力を合わせて競合他社に積極的にチャレンジする態勢を見て期待をしているのがロジャーの嬉しそうな目に読み取れた。
国際水族館会議は青木都知事の開始宣言でオープンされた。常陸宮陛下の参列で盛大な雰囲気が生まれた。日本全国の水族館館長が出席した。モンテレーベイ水族館の館長は日本の会社の技術力が高いことを褒め上げた。長い茶色の髪の毛をしきりに触って顔がカメラに写るように意識しているのは女性特有の癖だ。世界の水族館を代表してモンテレーベイ水族館をスライドで紹介した。
この水族館のパネルはすべて日本製だ。アメリカの水族館の中でレノルズが一枚のパネルさえ受注できなかったのはここだけだ。この女性はよほど日本びいきなのだろう。
ヨーロッパ、アラブ、メキシコを含む南米の水族館や日本の建築業界の幹部たちで会場は埋まった。各種のセミナーが開催されて水族館の運営に必要な魚類の飼育の新しい方法、餌の確保、水槽メンテナンスの新技術、水族館同士のサメや魚の売り買いなど貴重な情報が流れた。水族館の運営に携わる参加者が専門的な情報を持ち帰ることができた。
剣一は水族館会議が閉会した後で日本各地の水族館を見学する機会があった。大型水族館はどこもまだオープンして間がないところが多かった。名古屋港水族館の一番大きい水槽のパネルはレノルズ社がカリフォルニアの工場で製造したものであった。大型マグロが餌を食べるところを見ることができ、部屋を暗くして水槽の中だけがはっきりと見える照明効果が迫力を見せていた。
館長と面談したあとで開館する前に水中トンネルの中をとおった。水中トンネルに使われている半円形のパネルは日本の会社が製造したものであった。時間をかけてパネルの品質を検査する目的でトンネルのパネルに目を近づけてゆっくりと歩いた。ある一定の角度から見るとほこりのように小さな文字が黒くうっすらとパネルの中に埋め込まれていた。多分重合をした時に二枚のパネルの間にはさまってしまったのだろう。
水族館は一度水を水槽に入れてオペレーションの段階に入ってしまうとそこで使用されたパネルが不良品であったらそれを入れ替えて修理することは可能ではあっても極端な費用がかかる。ほとんど誰もこの黒い点があることには気が付かないだろう。しかしきっと館長はこの施工については心にしみがついた気持ちでいるに違いない。日本全国の水族館をあちこち周り館長と面談してレノルズ社の技術力と世界中の大型水族館に納品して好評なことを宣伝した。拡張や改修工事が計画されたら伊藤忠に連絡をいただけるようにお願いした。
有田氏が日本の水族館市場にレノルズ社のアクリルパネルを初めて大量に納品した海遊館を訪れた。ジンベエザメの潜水艦のようなゆっくりとした動きは生き物と言うよりも怪物だった。水族館は水槽の上部から餌をあたえる。ジンベイザメに与える餌の量は毎日いくらぐらいのコストなのだろうか。水族館の維持費は一日いくらぐらいなのだろうか。巨額の予算で生き物の世話をする義務がある施設の最高責任者が館長だ。水族館の収入のほぼすべてが入場料だ。シーズンがある観光業の一つであるから年間予算を調整することは難しいことがわかる。
館長と会った時には剣一に大型水族館の建設が世界的なブームになることを十年前から予測出来たと言う。その時に一番懸念していたことは数が増えた水族館同士の観光客の取り合いで経営難となるところが出る事だった。
「剣一、こんな大型のプロジェクトが本当に沖縄で実現する可能性があるのか?」エンジニア部門のトップのテイブが大声で叫んでいる。
剣一は沖縄水族館を訪問して西川館長とあったことがあった。まだその時はプロジェクトの名前は新沖縄水族館と言われていた。大阪海遊館よりも大きな水槽を建設してジンベエザメが水中で垂直に立って餌を食べる深さにする。ジンベエザメは海の底を泳ぐだけでなく浅目の場所では水面に近く泳ぐ魚を食べるために口を水面に近づけて垂直の姿勢を取るのだ。
高さが十メートルあるパネルが必要になる。水深が十メートルあると水圧は極端に強くなりパネルの厚さは1メートルになる。この大きさのパネルはレノルズも日本の競合2社も製造した経験がない。
「このプロジェクトは日本政府が中心だから多分本物だろうな。」
「あの十メートルのパネル一枚でもえらい高価の商品だからな。あの価格は家が一軒建つ金額だろ?」
「水族館トータルの建設費は予想もつかないな。」
「日本政府は昔から沖縄を観光地として開発する強い希望があるんだ。俺が学生時代に政府が中心になって国際海洋博を企画したんだ。その時には俺のオヤジもその気になって大金をはたいたよ。」
「それじゃあこのプロジェクトも実現するのかも知れないな。」
「とにかく見積もりだけはしっかり出して有田氏に頑張ってもらおう。剣一見積もりはいつ頃出せるの?」
「今週中に終わらせるつもりだよ・」
「とにかくこの青写真の分厚いこと。パネルの枚数からすればこれは日本で一番大型の水族館になるな。」
「日本の水族館ブームはずいぶん長続きするな。鹿児島水族館も見積もり依頼が入ったとこだから。」
スチーブ副社長がこの会話を聞いていて口をはさんだ。
「日本のプロジェクトは伊藤忠だけに任せてるが本当に受注する力があるのかよ。あの海ノ中道2期工事のパネルが歪んでたことで相当苦戦しているらしいから。」
「有田氏は政治家だよ。経済界の実力者との繋がりを持ってるんだ。」
剣一は有田氏の実力をわかっている。伊藤忠は巨大商社だからだ。
スチーブは日本市場をヨーロッパや南米と比較して話をすることが多い。競合2社の本拠地がある国で受注することがいかに至難の業か知っている。
「アメリカ市場でさえ油断できないんだから相手もかなりのものだよ。」
バルセロナ水族館の見積もり依頼が入ってきた。スチーブ副社長のオフィスに建設用の青写真が届いた。会議室の大型テーブルの上に持って行ってエンジニアのスタッフが眺めている。縦一メートル、横2メートル、厚み20センチの青写真は水族館の各セクションに区切られ、各ページにはそれぞれの水槽の名前が書いてある。
「この水族館は絶対にうちが取らなきゃ営業のスチーブ副社長は首だな。」
「ヨーロッパのプロジェクトは日本の2社と公平な対決ができるからな。」
「やはりサメの水槽と水中トンネルが目玉となるみたいだな。」
「バルセロナはガリの建物が観光客を集めているからそれを見に来る時に水族館にも立ち寄るように宣伝するのかな。」
「バルセロナはスペイン語だな。剣一に担当させてもいいんじゃないか。」
ロジャー社長とスチーブ副社長が青写真を見に会議室へ入ってきた。エンジニアのスタッフは一瞬緊張した顔つきになった。
「どうだいこの物件は。大型アクリルパネルをかなり使っているのか?」
「小さいパネルは日本のメーカーに取らせてうちは数枚大型パネルさえ受注できればたくさんだ、ロジャー。」
「スチーブ、営業の人間がそんな弱気な言い方をするなよ。」「
「現実的に考えてうちの今の生産スケジュールを見ると生産が間に合っていないよ。受注しても納品が期限内にできないと評判にかかわるさ。」
「製造の問題は工場長のマークに任せてあるから大丈夫だ。営業は取れるプロジェクトを全部取る意気込みで動いてくれよ。」
「わかった。」
「このプロジェクトはスチーブが担当するんだろうな。」
「スペイン語ができる剣一に担当させても大丈夫じゃないかな。俺は今大型プロジェクトをたくさん抱えていてこれに手が回らないよ。」
「剣一には日本のプロジェクトを確保させる方がいいんだがな。」
「受注は伊藤忠の責任だから剣一にスペインのプロジェクトを持たせてもやれると思うよ。」
ロジャー社長とスチーブ副社長は青写真を前にこの大きなプロジェクトの担当者を誰にするかを決める必要があった。担当者が青写真から見積もりを計算してスペインの設計技師と連絡を取る。スペインの設計事務所が建設プロジェクト全般を監督する。建物を建造する建築会社と共同で予算をたてタイムラインを決める。日本の商社は関与していない。
「剣一、ちょっと会議室へ来てくれ。」
会議室にはロジャー社長、スチーブ副社長、エンジニアリングのトップのデイブ、エンジニアのスタッフが青写真を囲んで、立ったままの姿勢で一斉に会議室の入口に目をやった。
「この青写真を見てみろよ、剣一。」
「これはスペインのプロジェクトだが剣一に担当してもらおうか話しているところだ。」
「日本のプロジェクトはどの程度進んでる?」
「忙しいですけどスペインのプロジェクトには興味がありますよ。できたらやらしてもらいたいですね。時間は作りますよ。」」
「スチーブが決めるか。どうするスチーブ?」
「アラブからのプロジェクトで今は手がいっぱいだから剣一ができればそれに越したことはないな。」
「よし、決まりだ。」
剣一はスペインへの旅行を心待ちにしていた。マドリッドを去ってから20年も経っていた。留学中にバルセロナへ行ったことがあった。地中海の梅の水が透明だった記憶がある。海岸で海辺を歩いた時に打ち寄せる波が透明で素足がはっきりと見えたことが印象に残ったのだ。
「ええ、本当にスペインに仕事で行くの?」
「そうだよ。会社命令だよ、経費を会社が負担するから嬉しいよな。」
「私も一緒に行けるかしら?」
「それは無理だよ。家族を連れて出張なんてできるわけがない。」
ペギーは家に籠って育児だけをしていても毎日が退屈になってきたようだ。フレッシュな気持ちにしてくれる何かを求めているのが剣一にもよくわかる。この頃コンピューターに向かって家でプロジェクトをしていることが多い。夜中遅くまで電話で話していることが剣一には心配のタネとなっていた。インターネットでニューヨークの会社と仕事をしているのは剣一も知っている。
「今のウエッブサイトを作る仕事は家でもできるけど会社が本格的に動き始めたらニューヨークへ行く必要が出てくるわ。」
「どんな仕事をしてるの?俺には何も詳しいことを話してくれないから少し気になってたんだ。」
「この会社はロシア人の天才的に頭のいい人が考え出した共同購買の会社なの。会員制だから特定の人数の人たちの必要な商品のまとめがいをして安く会員に販売するのよ」。
「そういうシステムを既に運営している会社があるだろ。天才でなくてもそんなことは誰でも思いつくから。」
「これをネットでするのよ。コストコみたいな大型小売店とは違うからお店の近くの消費者が買い物に来るのを待たないのよ。ネットで買い物をする人がうちのサイトを使えば何でも安く手に入るわけよ。」
「それはアマゾンじゃあないの?」
「ちがうわ。私たちが考えているのは個人が買うときに同じ商品を買う人を他にも探してまとめ買いをするのよ。」
「なんとなくわかるけど、複雑な買い物の仕方とし思えないけどね。」
「ニューヨークへ観光がてら行って来るのもいいかもね。」
ペギーはニューヨークのエンパイアステートビルの中にオフィスを持つポラダ社の社長といつも夜中まで話していたのだ。ニューポートビーチで生まれた末女レイチェルがまだ5歳でママに本を読んでもらうのを楽しみにしていたのにそれを無視してまで電話でグレッグと楽しそうに真夜中まで会話をしていたのは剣一が悩んでいたことだった。ペギーは自分の人生を築くためのやりがいのある仕事を見つけたと感じていた。幸せになる基本は充実感が生まれる仕事を見つけて、母親としてではなく、一人の人間としての人生を歩むことだと信じていた。
11 あやまち
マンハッタンの43階から見下ろすと緑の楕円形をしたセントラルパークが小さく見える。地平線と交わるところに小さな置き物のような自由の女神が見える。建築されて半世紀以上経つエンパイアステートビルはまだニューヨークの高層建築の生みの親のように貫録を持っている。ペギーはグレッグの横で窓の外を感慨深く眺めていた。
自分の父親ブルースがこのビルで40年前に勤務していたことを聞いていた。カシミアのセーターに使う素材をイギリスから輸入してアメリカの繊維会社へ商品を卸していたと父から聞いたことがあった。イギリスから移住した祖父がしていた商売を受け継いだのだ。輸入商は20世紀初頭に財産を築けるもうかる事業だった。
ペギーの叔父はイギリスでタイタニックの一等航海士として働いたが船と共に沈んだ。ペギーの母親ジェーンは秘書としてニューヨークで働いていた時に父と知り合って結婚した。ペギーが英語教師として日本へ行った時にはブルースはニューヨークの空港からお客を乗せるリムジンの運転手をしていた。ジェーンはコネチカット州でタイピストとして働いていた。
ジェーンが亡くなったのはペギーと剣一がオハイオ州にいる時だった。その後でブルースはフロリダに隠居して友人の女性と知り合い再婚した。再婚後はブルースは二人の娘と次第に縁が離れて行った。フロリダに住んで一気に年が老けた。娘ペギーとデビーとはほとんど数年会うことがなかった。ブルースが再婚した相手は独身を62歳まで続けた金髪のジュエリーデザイナーだった。優しいタイプの女性であったがとても嫉妬心が強かった。ブルースがペギーやデビーと電話で話をするだけでもやきもちを焼いてブルースは嫌な思いをさせられていた。再婚後一年ほどしてブルースは交通事故で急死した。
エンパイアステートビルの会議室は大型の楕円形のテーブルが真ん中に置いてあり、その周囲には15個の高い背もたれが着いた木製の椅子がテーブルを囲んでいた。部屋には3人しかいなかった。ペギー、グレッグ、トニーが初めてポラダ社の企画のために会議をしていた。
「ウエッブを新しくしてくれて助かったよ。会社のイメージはウエッブを見ただけで判断される場合が多いからね。」
「これまでは長距離で会社のプロジェクトをどうにかやってきたけどニューヨークで最初のポラダ店を出すことは絶対に必要だとおもうわ。」
「コロラドで商品をまとめ買いしてそれを個人的に会員に安くわけるだけではポラダの理論を実践したことにはならないのよ。」
「マンハッタンは様々な人種が集まっているから商品の種類がとても多いんだよ。在庫をたくさん持っていないと会員のニーズに合わなくなるのが悩みだ。」
「単にネットで売るのではなくて倉庫と兼ねたお店を出すのよ。棚に商品を並べるのではなくて会員が普段使う商品が保管してある場所を明確に示すマップをもとにして自分で商品を見つけるのよ。言い換えれば会員は商品を受け取るに来るのが目的でお店に来るわけ。値段が半額だからそれでも会員は満足できる。こうすればスペースの効率がいいわよね。」
「スペースのレンタルが高い土地だから在庫をどんどん回転しないと商売にならないと思う。」
「まずは私がどのくらいの期間ここで仕事ができるかわからないけど夫が応援してくれているから子供たちは夫に任せたままでも大丈夫なのよ。」
「それは助かるね。」
「グレッグの家族はどういう状態?お子さんがいるの?
「出来の悪い子供を3人持っているんだ。ニューヨークは子供を育てるのには向いていないよ。」
「奥さんは専業主婦なの?」
「いや他界してから5年経つよ。病気で数か月床についたがダメだった。」
「それは残念ね。一人で育児までするのは大変なことよね。でも中学生とか高校生の年でしょ?」
「一番上が16歳で一番下が9歳だ。」
「難しい年ね。」
グレッグとペギーが雑談するのにあきれてトニーが口を挟んだ。
「そろそろ仕事の話に移そうか。ポラダが成功するためには最初のお店を何が何でもモデル店にして会員にこのコンセプトをわかっててもらうことだよ。お店を持つことは大きな冒険だけどもそれは事業を成功させるためには仕方のないことだから。」
「トニーは税金対策とか経理が得意なのよね。既に投資してくれた人たちがいるからこれからどのように予算を立て、会社のお金を有効に使うかを決める役割ね。」
「グレッグはポラダの社長として成功するまでリードしてくれるのよね。」
「ようやくウエッブサイトがほぼ完成したから会員を勧誘するときにやりやすいな。このサイトから直接に注文が入ってきたらすぐに商品を郵送する必要がある。」
「明日は不動産屋と良さそうな物件を何か所か見てみよう。」
グレッグはトニーとポラダ社を2年前に設立した。ロシアに既に存在する共同体の運営をアメリカに持ってきて実現するのがグレッグの考えだ。一人の人間が自分だけが消費する量の商品を買うとすべてが高くつく。多数の会員が定期的に使う商品は決まった在庫を会員のために保管しておく。単価が半額以下になる。こうしたシステムを作ることに成功させれば一般の小売店で買う消費者が減る。
ペギーはこのシステムは経済を消費者主体にする画期的なものだと考えた。このチャンスは幸福を探していたペギーの心を強く惹いた。電話とコンピューターでの連絡でペギーはグレッグのインテリジェントなアプローチを高く評価していた。
ペギーがニューヨークへ発つ予定だった朝、飛行機の切符を手にして家の玄関を出る直前に、隣人のフレッドが剣一に家の前で声をかけた。
「ヘイ、グッドモーニング。今朝のニュース見てるかい?」
「今からペギーを飛行場へ送るとこだよ。」
「どこへ行くの?」
「仕事でニューヨークへ行くんだ。」
「その旅行は取りやめになるぞ。テレビをつけてご覧、驚くよ。」
剣一は何の事かわからずテレビをつけた。飛行機がワールドトレードセンターに突入して煙がもうもうと出ている。ペギーに大変なことが起きているから早くテレビを見るように言うとシャワーの中から声がした。
「ちょっと待ってよ。今すぐ行くから。」
ニューヨークの飛行場は十日間閉鎖となった。
「今はニューヨークほど安全なところはないわ。同じところを2度アタックすることは絶対にないから。」
娘3人は母親不在の家庭で各自が年齢にふさわしい活動を自由にしていた。2001年9月11日から十日後に家を出た後ペギーは一年半以上経たっても一度も家へ戻って来なかった。ニューヨークでグレッグの家に滞在し愛人とビジネスパートナーを兼ねてグランドジャンクションの家庭の母親の立場とのダブルライフをしていた。
剣一は新沖縄水族館のプロジェクトが日本のライバル会社に完全に取られてレノルズポリマー社を退社した。その後でグランドジャンクションにある国際企業クアーズセラミック社のアジア戦略のアドバイザーとして働き家にいながら仕事をしていた。
料理が好きな剣一は母親がわりとなっていた。娘3人は19歳、15歳、10歳だった。レイチェルはニューポートビーチで10年前に生まれた。ホームスクーリングをしていたので友達は特に仲が良いホームスクーリングをしている家庭の娘たちであった。母親不在が一番苦しめたのはレイチェルだった。友達の家に行って夜は母親を慕って泣いているとその母親から聞いた。娘たちのためにどうにかして妻を家庭に戻す策を考えた。
「カレン、パパが思うにはママはこのままではいつ帰って来るかわからないよ。どうしたらいいと思う?近頃考えているんだがこの家はママにあげて4人で違う家へ引っ越してはどうかと思うんだ。ママは家族から見放されたと思って帰って来るかも知れないよ。それにローンを払っているのはパパだからママが帰って来てここに住むことを条件に出来るよ。住まなかったらママはこの家を手放すことになってしまうんだ。パパはこのローンの支払いをやめるから。」
「もしパパがそうするなら全面協力するわ。」
剣一は娘3人を連れて同じ町の中で転居し、借家を借りた。母親が不在の家庭でも剣一は娘たちとできるだけ活発に生活した。馬2頭を飼ってカレンとブッククリフ山脈へ馬を連れて散策へ行ったり、娘三人と一緒にダンスの練習に通ったりと娘たちとの絆を強くすることができた。ペギーはニューヨークでの事業が失敗して、会員からの訴訟問題でグレッグと衝突し、ニューヨークで生活したあやまちを思い知らされた。
「明日ママが飛行場へ着くよ。どうにか引っ越しが間に合ったな。ママがこの家で生活ができるように最低限度の家具やキッチンのものは置いてあるから心配しないでいいよ。」
剣一と娘3人と犬2匹はレンタルの家への引っ越しを終わらして夕食をレストランで取っていた。
「今どこにいるのよ?私は今着いたところよ。誰も迎えに来ないの?」
「レストランで夕食を食べてるんだよ。飛行場から家まで近いから一人で戻ってくれる?」
ペギーに迎えに出ないとは言ってなかった。迎えに出るとも言ってなかった。剣一の冷たい態度は意外であったようだ。母親が家庭を放棄する心はどこから出たのだろうか。夢を追う気持ちで家庭を犠牲にしたのか?事業に成功して一生楽に暮らせると思ったのだろうか?自分の能力を発揮することが楽しかったのだろうか?それとも剣一に対する愛情はまったくなくなったのだろうか。
「もうグレッグとは別れたの?」
「今別れようとしている最中よ。」
「完全に別れたら知らせてくれよ。今は顔を見たくないからこの家に入らないでくれよな」
ペギーはようやく剣一と娘たちがレンタルしている家を探して、ドアを開けて剣一の顔を一年半ぶりに見た。剣一の心は固まっている。これだけ勝手なことをしてこれから又結婚生活が続けられはずがない。ペギーはそんなこともわからないのか。自己中心の人間は自分の都合とやりたいことしか頭に浮かばないのか。これは一種の精神障害だと剣一は思った。普通の人間がこれほど家族に冷たいことができるわけがないからだ。
剣一とペギーは離婚した。協議離婚であった。弁護士は必要なかった。カレンとステイシーは剣一の家に住んだ。レイチェルだけは母親と住んだ。ペギーは間もなく家を売りオレンジカウンティーにあるサンクレメンテと言う海辺の町へレイチェルを連れて移転した。夏になるとレイチェルは必ずグランドジャンクションへ行って剣一や姉たちと過ごした。サンクレメンテの高校では日本語、スペイン語、フランス語を教えている。レイチェルは毎年交代に3か国語を学んだ。家庭を放棄するあやまちを犯してペギーの心には後悔の念が深く根付いた。
12 ニューライフ
「今年の夏休みにはレイチェルはグランドジャンクションでどんなことがしたい?」
「テニスがしたいわ。今の高校で一番仲が良い子がテニスの選手なの。この夏で少しはテニスがうまくなったら嬉しいわ、」
「ステイシーとパパと3人でテニスのレッスンを受けて思いっきりテニス漬けになろうか。」
次女のステイシーはニューポートビーチのマンションに住んでいた時にテニスクラブのレッスンを受けたことがある。剣一もへたながらテニスは好きだった。
ペギーはカリフォルニアの気候が気に入っていた。生計を立てるためにホームスクーリングをする家庭を対象としたウエッブサイトを作成した。世界中のホームスクーラーが会員として登録した。
剣一は離婚後すぐに事業をするために家を買った。この家は部屋数が多かったので日本からグランドジャンクションへ来る日本人留学生を宿泊させて世話をする仕事をした。日本から高校生が留学する場合には現地での生活を剣一に任せることができた。日本の留学を斡旋するエージェントが定期的に生徒を剣一のもとに留学させた。
離婚後の剣一の生活は充実していた。生徒と一緒に次女のステイシーが剣一と住み、夏が終わった後も剣一とステイシーはテニスを続けた。グランドジャンクションは軽井沢と空気が似ている。
夏は高原の空気が乾燥していて気持ちが良い。冬でも陽射しが強いのでテニスをしている人が多い。剣一の家は町で一番大きな公園に隣接しており、家から歩いて3分で12面ある公共のテニスコートへ出られる。家の窓からは東にはグランドメサが一望に見え、南にはどの部屋からもコロラドナショナルモニュメントが見える。
冬にはパウダーホーンで午後スキーをして、同じ日の午前にテニスをすることができる陽射しが強い日もあった。年間をとおしてテニスをするグループがあった。活発な老人たちのテニスサークルだった。いつでも自由にテニスができるのは仕事がない隠居した老人たちだ。剣一は高校で午後週に2回日本語のクラスとスペイン語のクラスを受け持った。クリスチャンの小さな私立高校だった。
「このテニスサークルでよく見かけるけどどこのアジアの国から来たの?」
「もともと日本だけど今は帰化してアメリカ国籍だよ。」
「うちのチームで一人けがして試合に出れないのがいるんだけど、うちのチームに入らない?」
「ええ?試合なんか出たことがないよ。下手だから迷惑になると思うよ。」
「いや、うちのチームは足の速い選手が欲しいんだ。君は足は速いね。」
「まあ年にしては素早いかも知れないな。」
「次の月曜日にチームの練習があるからちょっと来てくれる?」
「もちろんいいですよ。」
毎日テニスをして腕が上達した。夏には朝試合をして同じ日に夜にも試合をすることが普通であった。デンバーでアメリカテニス協会のリーグに入っていた人が剣一と毎週定期的にシングルでテニスをしてコーチをしてくれた。毎回個人レッスンを受けているようにテニスのこつとルールを教えてくれた。短期間でテニスが上達してチームの試合でもダブルスならどうにか勝てる時もあった。
この試合に限って剣一は初めてシングルをすることになった。キャプテンが選手に誰がシングルをするかチームの決定を伝える。コートに出るとウオームアップが始まる。剣一の相手はかなり若い選手だ。サーブの球がかなり速く球が地面に当たると跳ね上がるキックサーブだ。試合が始まった。
「剣一は勝ってるのか、負けてるのか?」
「一セットずつ取ったからタイブレークさ。剣一は3点差をつけられている。」
チームの全員と相手チームがこの試合を見ている。他の試合は全部終わって剣一の試合だけが残っているのだ。思いがけなく剣一は逆転勝ちをした。
「うちのチームは今シーズンデンバーでの地域戦に出る出場権を取ったよ。ローカルのトップだったんだ。」
剣一はこのチームに入ってアメリカテニス協会の会員となった。
毎日必ずテニスをすることが日課となった。生徒を学校へ送った後は午後の日本語かスペイン語のクラスが始まるまで自由に時間を取ることができた。
日本からの生徒たちを世話する仕事は剣一に向いていた。料理が好きなので食事の用意は気が楽だった。主に日本の食事を用意した。町に日本の食材を売っている店があり、ほぼ何でも必要な食材が手に入った。
この事業を拡張してスペイン語を話す生徒を世話してみたくなった。コスタリカの国は中米や南米の中では飛びぬけて教育程度が高い。1987年にオスカーアリアス大統領が隣国と平和協定を結び戦争の脅威をまったくなくして軍隊を廃止した。この大統領はノーベル平和賞を授かった。国家予算は国民の教育と福祉とで大きく占めていた。私立の学校はどこも英語とスペイン語の二か国語で授業をしていた。
剣一はコスタリカの私立高校へ行ってコロラド留学を勧めた。グランドジャンクションの案内パンフレットを持って私立学校をいくつも訪れた。
「グランドジャンクションは素晴らしいところですよ。空気が乾燥していて夏でもすがすがしいのですよ。」
「アメリカへ留学する希望があるお子さんには是非私のプログラムをご紹介ください。私が保護者となって親身になってお世話します。」
剣一はスペイン語の社会に入って楽しい体験をした。ただ景色や食べ物が剣一の好みに合っただけではなかった。自分の能力を発揮できる場所だと感じていた。
私立高等学校の小さなゲストルームでプレゼンテーションをしている時に会ってくれた若い女性はカウンセラーだった。剣一のプログラムをとても気に入ってくれた。丁度休憩時間になり、カフェテリアでさらに詳しい話をすることになった。丸いカフェテリアのテーブルにもう一人女性が増えた。名前はマリベルだと紹介された。
カウンセラーの友達で一緒にコーヒーを飲むことになった。この女性はダウンタウンで宝石店を二軒持っている事業家だった。剣一はコスタリカのお店の経営や一般的な経済環境を聞くことができた。剣一のグランドジャンクションの仕事はこの女性にとても魅力があるように聞こえたらしい。
「私も一度行ってみたいような素敵な町のようね。」
「ええ、私は部屋がたくさんある家に住んでいますから是非一度遊びに来てください。」
「本当に?泊めてくれるの?」
「ええ、空いた部屋があって専用のバスルームがついているスイートですよ。生徒はそこには泊まらせませんから客室として使っています。」
翌年の春にマリベルが遊びに来た。7歳の女の子を一緒に連れてきた。夫はガンで4年前に他界して後に残った娘のブリサだった。コスタリカを出てダラスで乗り換えてデンバーまで来た。剣一はデンバー国際飛行場まで4時間かけて迎えに行った。
マリベルはとても心が優しいタイプの女性だった。英語は話せなかった。ブリサは陽気で活発なタイプで常に何か遊ぶ種を見つけるのが上手だった。まるでアメリカで育ったかのように流暢に英語を使うことができた。マリベルは薄化粧の美人。ブリサは長髪の丸顔で目が大きかった。
「ここがロッキー山脈なのね。本当に渓谷の岩肌は壮大な景色ね。」
「これを境にしてデンバーの東側の気候と西側のグランドジャンクションの気候はとても違うんだよ。デンバー飛行場が雪で閉鎖されてもグランドジャンクションではテニスをしている時がよくあるよ。」
「早くグランドジャンクションに着くのが楽しみだわ、」
「あと2時間くらいでつくよ。」
ブリサは熟睡している。マリベルとブリサが一緒にバンの後ろの席に座ったのが少しがっかりだった。前の席は眺めが良いし剣一がマリベルと話がしやすいからだ。初めて訪れるコロラドの印象はとても良いようだ。
「グランドジャンクションの人口はどのくらいなの?」
「大きな谷の中心でその周辺には小さな町がある。その人口も全部含めると10万人を少し超えたくらいだ。」
「大学があるんでしょう?きっと若者が多いんでしょうね。私はその方が活気があって好きだわ。」
「そうだよ。いい町だよ。でもサンホセと比べるとどこへ行っても人口が少なく感じると思うよ。モールもテニスコートもいつもがらがらだから。」
「じゃあお店を経営してもあまりもうからないわね。私はサンホセのモールの中にお店を持ってるのよ。夫の仕事をそのまま引き継いでやってるだけだけど。」
「ブリサの面倒を見ることが一番大事なことだからお店を経営するのは大変だろうね。」
「私の両親は二人とも時間を持て余しているからブリサの世話をしてくれているのよ。助かってるわ。でもブリサは両親がいないと生きていけない人になりそうよ。」
あっと言う間に一週間が経ってデンバー飛行場までマリベルとブリサを送って行った。グランドジャンクションの生活を体験した後で何を考えて帰国するのだろう。
マリベルは剣一よりも20歳年下だ。年齢の差が大きいと人生観が違うので心が触れ合うことが難しいはずだが剣一は年の差をまったく感じていなかった。二人が帰国した後はまた静かな生活に戻った。テニス中心の毎日だった。
サンクレメンテに住むペギーはビーチへ散歩ができる家をレンタルしていた。レイチェルと二人で住んでいた。高校生が親から独立する時期は親子関係が一番難しい。母親を慕っていたのは10歳前後の頃だった。高校では友達との社交が一番生活の中心となる。外出して帰りが遅くなることもたびたびあった。そのたびに母親から親に心配をかけ過ぎると文句を言われるのが面倒だった。学校の成績が良く友達にも恵まれていたので母親に文句を言われることは不満だった。
母親が男性と付き合っているのを知っていた。レイチェルは母親が自己中心な考えでレイチェルの行動を批判しているとしか考えられなかった。母親が家庭を放棄した事が思い出された。母親と二人だけで住んでみて初めて母親のわがままがわかった気がした。
13 遺伝子
コスタリカは熱帯気候で雨が多い。ほぼ毎日小雨が一度は降る。レインフォレストがあり映画にしか出てこないような大きい葉の植物が地面を覆っている所があちこちに見られる。サーフィンに最適な大波が打ち寄せる海岸もある。火山のクレーターが作った湖もある。大胆な火山の景色と繊細な植物がお互いに譲歩して創った自然の美しさがある。
「また雨みたいね。」
「きっと今日はたいしてお客さんが来ないわね。」
「ブリサ、早く起きてよ、学校よ、」
マリベルは学校へブリサを連れて行き、一度家に戻ってからお店に出る支度をする。フアンが四年前にガンで他界してから宝石店2店をひとりでどうにか経営していた。
他界したフアンは喉に腫瘍ができて医者に診察してもらった直後ガンの宣告を受けて入院した。マリベルは幼女を親に預けてお店の経営とフアンの看病に追われた。8カ月後にはフアンの葬式を済ませ宝石店の経営に追われた。剣一と会ったのはその4年後だった。剣一は毎年一回はマリベルを訪れた。普段はスカイプで会話するだけの長距離交際をしていた。
「ダウンタウンにあるお店はもう閉めるは。お店のレンタルが高すぎてまったく利益をだせないのよ。」
「コスタリカの景気はあまりよくないの?」
「アメリカの景気が悪いから観光客が減ってしまったのよ。どこのお店もあまりもうかっていないと思うわ、」
「ひとりで2店見るのはちょっと無理だよね。ブリサの世話もあるし。」
「今ブリサは自分の部屋で絵を描いてるわ。ほとんど毎晩絵を描いてるのよ。」
「好きなものがあるのはいいことだよ、」
「まだこの間のお礼を言ってなかったわね。とっても楽しかったわ。グランドジャンクションはきれいな町ね。この次には両親も一緒に連れて行きたいわ。」
「それはいいね。来年の夏には生徒たちが日本へ夏休みで帰るから何か楽しいことをしたいと思ってるんだ。」
「ここへ来たら?」
「それもいいけど7月はブリサの誕生日だね。一緒にフロリダのデズニーワールドへ行こうと思ってるんだけど、どうかな。」
「本当に?ブリサが喜ぶわ。まだ話さないけど。いつ頃に行くことがわかる?」
「3月ころに具体的にプランを立ててみようか。切符を手配するのは早めのほうがいいからね。」
「それまでは秘密にしておくわ。」
翌年のバレンタインの日に剣一はマリベルを訪れた。一月に急に思い立って切符を買い、勝手におしかけた。マリベルのサンペドロモールにあるお店は繁盛していた。お店には雇いの店員が二人働いていた。
「何かお気に入りのもの見つかりました?」
「今日はマリベルはお店に出るの?」
「午後から来ますよ。何か用事でもあるのですか?」
「いいえ、特には。又午後に来てみます。」
前触れもなくお店に現れた剣一を見て抱きついた。
「わあ、いつ着いたの?何にも言わずに来るなんてびっくりするじゃない。」
「きょうは何の日か知ってるだろ?」
お店の中に入るとハートの形の風船があちこちのショーケースに付けられて人の目を誘っている。カウンターの後ろには笑顔がきれいな黒人の女性がお客の相手をしていた。朝挨拶した店員とは違う。きっと午後から出勤したのだろう。
「ダウンタウンのお店にも行ってみようかと思ってるんだ。」
「あそこはもう閉めたわ。家賃が高すぎたし一人で2店をきりもりするのはとても無理なことがわかったわ。」
「今日はお店を閉めた後で時間ある?」
「もちろんよ、今日が終われば忙しかったバレンタインのセールが終わるから。」
「たった一週間だけしか滞在できないから一緒に何かしたいんだけど。」
「実を言うと昔仲が良かった友達が遊びに来てるのよ。海の近くのリゾートの会員なのよ。明日は一緒にドライブしてこのリゾートへ母親を連れて行こうかと思っていたのよ。」
「僕も一緒に行ってもいいのかな。」
「多分大丈夫よ。聞いてみるわ。」
首都サンホセから車で4時間町の渋滞を抜けて田舎道を南へ向けて走ると海が見えてくる。ブリサはいびきをかいて寝ている。マリベルの運転はかなり荒い。スティックシフトの日産のベージュの車だ。田舎道で遅い車が前にあると次々と追い抜いて行く。助手席に剣一が座り、マリベルの母親はブリサの横に座ってブリサの頭をひざの上に乗せて愛情が溢れる目でブリサの寝顔を話の合間に見ている。マリベルの友達ナオミは窮屈そうにその横に座っていた。おしゃべりが好きでひとりでしゃべっている。
「夫がリゾートのメンバーだったので離婚してからも私はここを使えるのよ。」
「あの男は最低だったけどお金だけは持っていたわ。平気な顔して浮気してたんだから。彼女といるところを偶然見つけたのよ。車に乗っていて主人の車らしい車をみかけたの。注意して見ていたら主人が女を横に乗せてるのよ。見つからないようにして後をつけたの。行先はホテルよ。それも高級の。」
「偶然はよくあることだわね。私は結婚して2年で夫を亡くしたからそんなことは全くなかったわ。」
「ここがリゾートの入口よ。」
パームツリーが道の両側に並んでいる。巨大な葉の植物がうっそうと茂っている。これから先に大きなホテルが建っていることを想像させるような手入れが行き届いた道を進んで行く。右側には大きなプールがあった。その横に子供用の小さなプールもある。左手にはテニスコートが5面並んでいる。
「ビールはどのブランドが好きなの?」
「メキシコで見たことがあるダブルエキスにしようかな。」
「それはいいわね。コップの口がつくところに少しお塩を指でつけて飲むとおいしいわ
よ。」
「マルガリータを飲む時はそうするけどビールをそうして飲むのは初めてだよ。」
「あまり人がいないね。ここは一年中開いているの?」
「そうだと思うわ。会員だけしか使えないからいつも空いているけど。」
「贅沢なところだね。サービスもいいし。」
「ブリサがプールで遊びたいらしいわよ。」
ブリサは活発だ。剣一は子供が好きだ。仲の良い友達のようにブリサは剣一の肩の上にまたがったり、水に一緒に潜って小銭拾いをしたりする。プールから見えるところにビーチがあった。
全員でビーチへ向かおうと話しているとウエイターが海は最近くらげが増えて刺された人がいたから気を付けるようにと注意した。海岸で貝拾いをした。ブリサと剣一が楽しそうに手を繋いで歩いているのを遠くから見ていたマリベルは剣一に心を惹かれていた。
「今年の夏休みには何がしたい?」
「カリフォルニアの高校が5月末から夏休みに入るからすぐにでもパパのところへ遊びに来たいわ。」
「レイチェルは海が好きだからスクーバダイビングをしに行こうか。」
「ええ、本当?ライセンスを取るのを目標にするわ。」
「スクーバで有名なコスタリカのハコビーチヘ行くのもいいと思うんだけど。」
「もちろんよ。今スペイン語の授業取っているからその勉強にもなるし。」
剣一は海があまり好きじゃなかった。すぐに船酔いするからだ。剣一が子供の頃フェリーボートで家族旅行した時に海が大荒れになって大変な一夜を過ごした。寝ようとしても体が跳ね上がるほど船が上下に揺れて極端にひどい船酔いをしたのだ。耐えかねて船から海に飛び降りたくなったのを覚えている。スクーバダイビングは剣一が好きでするのではなかった。コスタリカへ行く理由をつけただけだった。
ハコビーチまではセスナがサンホセから出ていた。セスナが着陸して滑走路の端に止まった。トタン屋根の建物の中に待合室があった。壁もドアもない仮小屋のようなところにスナックや飲み物を売っているカウンターがある。セスナのドアが開いて短い階段を下りる時にレイチェルは周りを見回した。
「ここが飛行場なの?小さいわね。」
レイチェルと剣一はブルーモンキーと言うホテルに予約を取っていた。4人が入れる部屋、2人が入れる部屋、それに剣一とレイチェルの部屋だ。土曜日にマリベルは車一台に6人乗せてハコビーチヘ向かった。姉と姪2人と母親に一部屋、マリベルとブリサに一部屋を用意しておいた。
「女性に囲まれて楽しそうですね。」
「サンホセから皆車で今着いたところですよ。」
「昨日は一日曇り空だったけども今日はもう陽が出ているので海へ行くのにはいいですね。」
「ここから海まではどのくらいあるんですか?」
「この前の道を出て右へ行くと下り坂ですからそこを10分も行けば海が見えますよ。」
この辺りには青い色の猿が出たことが伝説にある。リス猿とクモ猿がコスタリカの代表的な猿だ。他の国にはあまり見られないこの2種類の猿をテーマとした伝説がたくさんある。車で30分ほどの海岸にスクーバダイビングを教える会社がある。レイチェルと剣一は午前中にここで数名の参加者とクラスに出て教科書とビデオを中心とした教育を受けた。午後にはテストがあり、すぐに合格発表がある。クラスの全員がこれに合格して翌日はプールで体力テストがあった。
マリベルの家族と一緒に夕食を取ってからブルーモンキーの大部屋を借りてカラオケをした。マリベルの家族と一緒に楽しいバケーションを過ごしたことで剣一は家族のひとりとして受け入れられた気がして嬉しかった。日曜日の昼からマリベルたちはサンホセに戻った。スクーバダイビングのライセンスを取ってグランドジャンクションへ戻ったのは一週間後だった。
夏休みが終わりレイチェルはサンクレメンテの高校へ戻った。剣一は日本人高校生の世話とテニスで忙しかった。9月は剣一の誕生日の月だ。マリベルから携帯電話へメッセージが入ったのは初めてだった。携帯同士でメッセージのやり取りが始まった。
マリベルがこれまでになく長いメッセージを流してくることが多かった。新しい携帯を買ったのでメッセージを書いて出すことが簡単なのだそうだ。時にはラブレターのような内容だった。こんなメッセージが来た時には剣一も黙っているわけにはいかなかった。
「サンホセの飛行場の官制タワーからのお知らせです。一機の愛情と言う名前の飛行機がグランドジャンクションに向けて飛び立つところです。着陸する時には必ずオーケーの合図をして下さい。」
これを読んですぐに剣一はお礼の電話を入れてマリベルの声を聞いた。
「素晴らしいメッセージをありがとう。君とすぐにでも会いたいんだよ。」
「本当に?グランドジャンクションにいつでも行けるわよ。」
「でもお店があるからすぐには無理でしょ。」
「そんなことないわよ。兄がお店を手伝ってくれてるのよ。従業員を雇っているから私がいなくても大丈夫なの。」
「どのくらいここへ滞在できるの?「
「無期限よ。」
「でもここで何ができるかなあ。」
「あなたのお仕事を手伝うわ。」
「ブリサの転校とかマリベルの家のメインテナンスのことがあるから簡単には話を進められないでしょ。」
「兄が離婚をするところで私の家に引っ越してきたわ。娘がひとりいるのだけど別れた妻がいじわるで兄は娘と会うチャンスがないのよ。」
「でもブリサがおじいちゃんやおばあちゃんとは離れられないからここへ住むことにしたらご両親も一緒にここへ来ないとだめなんじゃない?」
「親に聞かないとわからないけど私たちと一緒にグランドジャンクションで生活したいと言うと思うわ。」
「本気で言ってるの?」
「そうよ。私はグランドジャンクションへ行きっぱなしでもいいわ。」
「それなら結婚する気があるの?」
「ええ、結婚してもいいと思ってるの」
「本当に?」
「ええ、剣一はどう思う?」
「急にこんな話になったけど僕は結婚できたら素晴らしいと思っていたよ。君がお店を持ってるし家もあるから僕がそっちへ行かない限り結婚はありえないと思っていたんだ。」
「そんなことないわよ。」
「じゃあどこで結婚式を挙げたらいいと思う?」
「少し調べてみるよ。時期はできるだけ早い方がいいんだけどな。十一月は早すぎるかな。」
「あと二か月あるから大丈夫よ。」
ラスベガスの教会の予約を取った。剣一は3人の娘に結婚をするつもりだと伝えた。結婚式を十一月十五日にするつもりであることを伝えて娘たちの都合を聞いた。3人の娘も一緒にラスベガスで結婚式とバケーションを兼ねて楽しむことになった。剣一は婚約指輪と結婚指輪を買った。
十一月七日にマリベルとブリサをデンバーへ迎えに行った。雨が降っていた。昼食を取った後でグランドジャンクションへ向かった。剣一はマリベルにプレゼントがあった。グランドジャンクションへ向かう途中にどこか景色が素晴らしいところで片足を膝まずいてプロポーズをしてマリベルの指に婚約指輪をはめたかった。こうしたフォーマルな形でプロポーズしてこれを写真に撮っておきたかった。デンバーの郊外の見晴がいい高台でブリサにカメラを渡した。
「ブリサ、あそこでマリベルと僕が立つからこのカメラで写真を撮ってくれる。」
剣一は膝まずいて婚約指輪を両手で差し出してプロポーズの決まり文句となっている文章を早口に言った。マリベルは驚いたようだったが笑い顔で答えた。結婚する話は既についていたが将来の記念として剣一はこの場面を作って記録に残しておきたかった。
「あと五日経ったら車でラスベガスへ出発だよ。それまでにウエデョイングドレスを用意しよう。」
結婚の準備をしている期間はマリベルとブリサは剣一の家のスイートに滞在していた。カレンはシアトルのダンスのイベントへ行っていたのでそこからラスベガス経由でデンバーへ戻ることにしていた。レイチェルはロスから飛行機で行った。ステイシーはグランドジャンクションから同じ飛行機で剣一、マリベル、ブリサと一緒に行った。
「あの白い小さい教会が私たちの教会ね。」
「大きなホテルが軒並みに建っているラスベガス街に面してるんだ。」
「ぴったりのウエディングドレスがすぐに見つかってよかったね。時間がぎりぎりなのにすべて順調に行ったよ。」
「結婚式はまだ明日だから今日はホテルでゆっくりしよう。」
「ブリサはカジノに入れないからホテルのプールで僕と遊ぶよね。」
カレンとレイチェルを迎えに飛行場へ行った後ですぐに剣一の部屋で全員がドレスの試着をした。ステイシーは真っ赤なドレスをマリベルの白いウエディングドレスと一緒に買って持って行った。カレンとレイチェルはそれぞれ赤いドレスを各自で調達した。娘たちのドレスは全員が赤で統一したのだが並べて同系統の赤であることを確かめることが必要だった。
「結婚なさるお二人ですね。」
「はいそうです。」
「あちらの祭壇に牧師さんがお立ちになります。ご列席の方々にはあちらにお席がもうけてあります。
「リハーサルはするのですか?」
「いいえ、牧師さんが簡単に手順をご説明差し上げてから式を始めます。」
「何か知っておくべきことがありますか?」
「ここでは結婚証明書を発行いたしますが式の後でそれを持ってシティーホールへ行ってください。法律で決められている手順がありますので婚姻登録をしていただければ後程郵便で婚姻届証明書がご自宅に郵送されます。」
結婚した翌年にはマリベルの両親と弟がグランドジャンクションへ遊びに来た。秋だった。ロッキーを超えてデンバーからグランドジャンクションへ続いている高速道路からの景色は紅葉が黄色と緑と赤の絨毯の模様のように美しかった。
グランドジャンクションから近いグランドメサのスキー場へドライブすると白いアスペンの森が紅葉で飾られていた。一〇月の初頭だと言うのに初雪が天から落ちてきた。雪が降る景色はマリベルの家族が生まれて初めて体験したことだった。
結婚三年後にマリベルとブリサはサンホセへ戻っていた。年に一度マリベルはお店をホセに任せているのを心配して帰国してお店の状況を自分の目で見ることにしていた。コスタリカの経済はアメリカや南米の落ち込んだ経済に影響されていた。
「お店はどお?うまく行ってる?」
「ホセはうまくお店を経営してるの?」
「お客さんを惹きつけるのがあまり上手ではないわ。」
「それじゃあ毎年一度は帰る必要があるね。」
「でもグランドジャンクションは本当にいいとこね。帰るのが楽しみだわ。」
「飛行機の切符はもう買ってあるんだから来月会うのを楽しみにしているよ。」
「嬉しいわ。これからが楽しみね。」
「ブリサはうちの近くに出来たチャータースクールに通わせようと思ってるのよ。歩いて行けるのは楽よね。」
ブリサが喉が痛いとマリベルに言うので左側のほほの下のあたりを手で触ると小さなこぶがあった。マリベルの顔色が青白くなった。九年前にフアンがガンと宣告された時のことを思い出した。
フアンは首の下の付け根のところに小さなこぶができた。医者に行って精密検査を受けた結果ガンが既に相当進んでいたので急遽入院した。セラピーを受けて一〇か月後に息を引き取った。その一〇か月間の苦労は頭から離れることはなかった。
「ブリサの喉に何かできたみたいよ。」
「痛いって言ってるの?」
「そうなの。心配だわ。」
「今からすぐに病院へ連れて行かないとだめだろ。」
「ブリサが泣いてるよ。」
コスタリカの福祉は世界の豊かな国でも比較にならないほど充実している。軍隊を廃止したおかげで国の全予算が国民の福祉と教育に充てられている。人口400万人が無料で入院できる医療システムがある。高度の教育レベルを持っている。そして戦争をしないことが保障されている。
遺伝子が人間の生死を決める場合がある。マリベルはフアンから事業を引き継いだ。ブリサは父親の遺伝子を受け継いだ。ガンの宣告を受けたが今日も無料で治療を受けている。マリベルの家族が周囲で愛情を持ってブリサの回復を願っている。
剣一はグランドジャンクションで学生の世話をして毎日を過ごしている。娘が不治の病を患ってコスタリカでの生活を強いられている。そのストレスをテニスで解消している。
マリベルと剣一がグランドジャンクションで再度生活を共にする日が来る保障はない。二人の愛情が試されている。この悲劇が結婚をさらに強くするか、結婚を破綻へと向かわせるのかは神の導きによって決まる。
宗教は人間の歴史に欠かせない。昔も今も戦争が起こる原因となる場合が多い。神は愚かな人間によって殺人の理由とされることがある。本当に神を理解している人間は神が愛であることを知っている。真実を知ることは神を知ることだ。
神を信じることで難関を乗り越えることができる。自分の力を信じるよりも、神が全能であることを信じることができれば幸福な気持ちになれる。人間の能力に限界があるのは間違いがないからだ。
人間はただの物体ではない。精神が宿っている。精神が体に及ぼす影響は医学では解明できない。
生きる意志がなくなった者は早く死を迎える。生きる意志を強く持つ者は難病に打ち勝つことができる。
終わり