お別れの日
わたしにとっての『その日』
その日、わたしたちの家族が冷たくなりました。
ミーコ、享年十六歳。猫だけどわたしのお姉ちゃんです。三歳ほどわたしより年上。
日曜日の朝、起きるとミーコは亡くなっていました。このところ体調が良くないのは知っていたけど、あまりにあっさりしたお別れでしょう。
昨日の夜、寝る前にかけた「おやすみ」が、最後の言葉となって、しまいました。
たくさん、たくさん泣きました。
冷たくなった彼女を抱きしめてワンワン泣きました。
人は中学生にもなって恥ずかしいと言うかもしれませんが、なんてことはありません。わたしの姉も――高校三年生になる姉も――一緒になって泣いたのです。
その騒ぎを聞きつけたのか、珍しいことに兄まで起きてきました。この人は高校一年生で姉にとっては弟にあたります。
普段、休日は平気で昼過ぎまで寝ている兄です。煩わしそうに私たちを一瞥して台所の方へ向って行きました。
あの人の目の下にはクマがありました。大方、夜遅くまでゲームでもしていたのでしょう。
わたしは薄情な兄に腹が立ちましたが、ミーコのことで一杯で、何か言ってやろうという気にはなれませんでした。横で一緒に泣いている姉も同様のようです。
しばらくすると、兄が段ボールを持って戻って来ました。中にはタオルが敷いてあり、その下には新聞紙、ビニール、そして氷が敷き詰めてあると言います。
兄曰く、「腐った肉を抱きしめたくはないだろ? 死後硬直と腐敗に備えてミーコをこの中に置け」とのことです。
――なんてひどい言い草でしょう。
ミーコは兄が生まれたのとほぼ同時期に家族になったはずで、ミーコも兄に懐いていました。なのに! なんて事務的で淡々とした対処でしょうか!
なんとか気持ちを落ち着けて、兄を糾弾してやろうと思ったのですが、あいつはそそくさ着替え、上着を羽織って外に出かけてしまいました。
お姉ちゃんは「あいつにもあいつなりに思うところがあるんだよ」なんて言いますが、わたしにはそうは思えません。わたしたちがうるさく目障りだから、自称「避難」でもしているのでしょう。
わたしたちは言われた通りに(お姉ちゃんが「そうすべき」と言うからしかたなく)、段ボールのなかにミーコを寝かせ、お別れの挨拶を続けました。
小一時間もすると兄が帰って来ました。出る時着ていたはずの上着を手に持ち、鼻に汗を浮かべています。外は寒いはずなのに、どうして汗をかくのかは分かりませんでした。すると「土葬の準備は出来てるから、そっちが済んだら声をかけろ」と言い、また何処かに行こうとしました。どうにも、外で穴を掘っていたらしいです。
そんな兄を呼びとめます。わたしは土葬なんて聞いていません。しかし、兄はもう父や母との話はつけてあると言います。
そしてぶっきらぼうに「お前はゆっくりお別れをしてろ。細々したことはお前には期待しちゃいねーから」なんてぬかす兄。
わたしは何も言えなくなっていました。文句を言うべきなのか、感謝すべきなのかまるで分からなくなってしまったのです。
お姉ちゃんは兄に「ありがとう」と告げます。それに対して兄は、何も言わずに、そっぽを向いて去って行きました。姉は「あれはあれで私たちに気をつかってるのよ」と溢します。
わたしは兄のことも姉のことも、分からなくなってしまいました。
混乱の最中、縋るような気持ちでミーコを見るわたし。昨日までのわたしの癖です。落ち着きたい時はいつもミーコを見ていました。
彼女の顔は穏やかでした。安心しきって旅立ったのでしょう。
――それは兄のおかげなのかもしれない。
ふと、そんな考えが頭を過りました。
わたしは涙を拭き、最後にミーコを一撫でして、兄を呼びに行きました。
俺にとっての『その日』
初めて飼い猫の「死」を意識したのは、ちょうど今の妹と同じ年齢のときだった。
ふとしたきっかけで調べてみて分かった猫の平均寿命は、およそ十五歳。
そのときのミーコの年齢は十三歳。平均まで、あと二年。自分にとっては、もう二年しかない、という印象だった。
同じように猫を飼っている友人に飼い猫の年齢を聞いてみる。「十七歳のおじいちゃん」という返事が返って来た。
いわゆるポジティブな人間は「ミーコも同じくらい生きるだろう」と思うのだろうが、俺は「平均より二年長生きするのもいれば、当然二年早く死ぬやつもいるよな」なんて考えてしまう。
備えあれば憂いなし。そう考えて、俺は飼い猫が死んだ時どうすればいいのかを調べ始めた。思えば、俺は猫を飼っているくせに、ペットが死んだときどうすればいいのかなんて全く知らなかったのだ。
調べているうちに、知らず知らずのうちに涙を零していた。
声を上げるようなことはなかったが、まるで目だけが自分のものじゃないかのように、たらたらと涙が流れ続ける。
俺は自分のことを、どちらかと言えば無感動な人間だと思っていた。それは周囲の人間も同じように思っていたらしく、この現場にたまたま出くわした姉が、目をひん剥いていた。
姉はパソコンの画面を覗き見て、得心が行ったとばかりに頷き、「ミーコも、もう結構に年がいってるもんねー」なんて言いやがる。
俺は、この姉の発言に、無性に腹が立ってしまった。自分のことを棚に上げて「縁起でもねえこと言ってんじゃねえ!」なんて怒鳴り散らした。我ながらひどい話である。
姉は俺が怒ることなんて全く予想していなかったのだろう。実際、姉と喧嘩したのなんてこれが初めてであった。まあ、仲がいいから喧嘩がなかったというよりは、お互いに何処か苦手意識を持っていて距離を置きがちだったためではある。
とにかく、姉がしゃくりを上げ始めてしまい、両親がどうしたとやって来る事態となった。
姉は俺より年上なくせに、泣いてばかりで使い物になりやしない。仕方なしに、俺が事態を一から説明した。その後、何故か俺と両親の三人で、ミーコが亡くなったときにどうするのかを話し合った。弔い方は土葬にすると、この時に決めた。
俺は調べたことはプリントアウトして、封筒に入れ、机の引き出しの奥に仕舞い込み、必要になるその日まで忘れることにした。
話は横に逸れるが、この事件以降、姉とは以前より会話をするようになった。同時に喧嘩の回数も増えたが、その度にミーコが楽しげにしていたことを覚えている。
幸いにして、仕舞い込んだプリントを使う機会がないままにミーコは猫の平均寿命を越えた。
ただ、老いは確実にやってきていたようで、ミーコは一階から上がって来ることがなくなった。昔は、二階にある俺の部屋までよくやって来ていたのに、だ。
けれど、ミーコにとって最後の夜、彼女は俺の部屋までやって来た。
俺は無意識に「ああ、そうなんだ」と溢していた。自分で自分の言ったことにショックを受ける。
俺のところに来てくれたのが、嬉しかったし、何故か、悲しかった。
俺はベットから降りて、床の上で胡坐をかき、ミーコを招きいれた。ミーコは俺の足の上で丸くなり、小さな声で「なー」とないた。俺もないた。久々に。
朝日が部屋を染めるまで、俺はミーコのことを撫でていた。
積る話はたくさんあったけど、何故か声が出なかった。
前とは違って、目だけではなくて口も自分のものじゃないかのようだった。
しかたないから、とにかく手を動かし続けた。
ミーコは、起きているのか、寝ているのか。生きているのか、それとも……。
目も馬鹿になっているせいで判断がつかなかった。
そんなとき、
――みゃー。
ミーコの鳴き声が聞こえた気がした。
俺は、なんとか声を絞り出す。
――今まで、ありがとう。
口が動いたことで、呪縛が取れたとでもいうべきか、涙は徐々に止まっていった。
視界がはっきりするころには、ミーコは息を引き取っていた。
ミーコをそっとベットに横たえ、机の引き出しから、例のプリントを取り出した。プリントを見れば、まず段ボールに氷や新聞紙、タオルなどを入れた棺を作らなければならないらしい。
ミーコを抱き上げ、静かに階段を降りて行く。
ふと、姉と妹の顔が浮かんだ。
結果的に、ミーコとの別れを自分が独占した形になっていた。姉の方はともかく、妹はミーコが最後に俺のところに来たと知ったら、悲しむだろう。少なくとも、俺が逆の立場だったら多分そう思う。
今の季節は冬。もうすぐ妹は起きてくるはずだ。
この気温なら少しくらいそのままでも平気か、と判断し、ミーコを普段居る場所にそっと横にした。
俺は顔を冷たい水で一洗いして、部屋に戻ることにした。
私にとっての『その日』
――正直に言ってしまえば、私はミーコのことをそんなに好いてはいなかった。
私が二歳の頃に、二人は――弟とミーコは――やって来た。まあ、二歳のときのことなんか覚えているはずもなく、私にとって二人は「物心ついた時にはいた」ぐらいの感覚。
私の最も古い記憶の中でも、弟とミーコはいつも一緒に遊んでいた。
ところで、当然のことではあるけれど、猫の成長は早い。例えば、同じ二歳でも人間の二歳と猫の二歳は全然違う。具体的には、二歳の猫はすでに人間がいう二十歳を越えているらしい。
つまり何が言いたいかというと、私が気付いた時には、弟とミーコは同級生として遊ぶのではなく、ミーコがすっかりお姉さんとして弟と遊んであげていたのだ。
母による、知りたくもなかった補足によれば、私は「最初はお姉ちゃんらしく振舞ってたのに、いつの間にか、そんな風にはしなくなっていた」らしい。端的に言ってしまえば、私は飼い猫に「姉」のポジションを奪われたのだ。
そんなわけで、私は弟とその姉役のミーコとはあまり仲が良くなかった。ミーコは時々私に気を使うような素振りをしてきたけれど、そんなことをされるということ自体が、私が姉失格ということを示しているようで、面白くなく突っぱねた。
転機が訪れたのは、たった三年前のことだった。
我が家にはパソコンは一台しかなく、それは両親の寝室に置いてあった。家で調べ物をする時は、自然とそこに行くことになる。私が宿題の調べ物をしようと思い、部屋に入ると弟がいた。そのこと自体は珍しいことではないが、あいつは声こそ上げていないものの、号泣していたのである。何事かと思いパソコンを覗いてみると、猫の平均寿命についてや、死んでしまったときにどうすべきか等のサイトが開いてあった。
さもありなん。猫はたしかに早く成長する。そしてそれは、早く寿命が来ることを意味している。
――全く、今思い出しても、私は本当に姉失格だったと思う。飼い猫にポジションを奪われるのも必然だろう。
私は無神経にも、「ミーコも、もう結構に年がいってるもんねー」なんて声をかけてしまった。ミーコを思って涙してる弟に向かって、だ。
当然弟はキレた。縁起でもないことを言うな、と。
恥ずかしいことに、弟を避けてきた私にとって、弟からこんな怒りの感情を向けられたのは初めてのことだった。そのせいか、私まで泣き出してしまった。
弟は飼い猫のことを思って泣いていたというのに、私はなんて浅ましいことだろうか。
私は大声を上げて泣いてしまったので、両親がやって来てしまった。私たちが何かを言う前に、弟は父に「経緯は知らんが、たとえ姉弟だとしても、女の子を泣かせるのは男として最低だ」と怒られていた。
――違う。悪いのは私で、弟は悪くない。
そう伝えたいのに、しゃくり上げるばかりで言葉が出なかった。
結局、両親と弟で話をすることになり、私は除け者にされた。まあ、未だ泣いていて使い物にならないのだからしかたない。正直、妹は遊びに行っていて助かった。
一人で泣く私のところに来てくれたのはミーコだった。
彼女は一言だけ「みゃー」と鳴いて、私の横で丸くなった。
私が「ごめ、んね。……私、ミーコのこと、で……酷いこと、言っちゃった」と言っても、彼女は何でもないとばかりに「みゃーおー」と言って、側から離れずにいてくれた。
私が泣き止むまでずっと、側にいてくれた。
この事件がきっかけで、私とミーコは親友になり、弟とは喧嘩仲間になった。
ミーコに学校のくだらない愚痴を溢したこともあったし、弟とたくさん喧嘩して、ミーコに呆れられたり、励まされたりもした。
けれど楽しい日々はあっという間に過ぎ去り、ミーコとお別れの日がやって来た。
高校三年生、つまり一応は受験生である私は、そろそろ受験も目前で、その日も一階のリビングで夜遅くまで勉強していた。リビングでするのは、妹と私の部屋は共有で、先に寝てしまう妹の横で明かりをつけて勉強するのは悪いと思うから。
そろそろ寝ようと自室の二階に行こうとすると、ミーコが階段の下で恨めしげに、二階を見上げていた。このところ、ミーコはすっかり弱っていて昔は登れた階段も登れなくなっていた。
彼女に「二階に行きたいの?」と尋ねると、短く「にゃあ」と返ってきた。
できるだけ優しく持ち上げて二階に向かう。
二階に到着し彼女をそっと下ろすと、ゆっくりと弟の部屋の方に向かった。私たち兄弟の部屋のドアの下部にはミーコ用の入り口がある。
その手前まで行くと、彼女は振り返った。きっと――そういうことなのだろう。
私は近づき頭を撫でて、「今まで、ありがとう」と告げた。
彼女は「なーおー」と返してくれた。もう十分だ。最後の時間を、私が奪いすぎてはいけない。
昔――たった三年前まで――泣き虫だった自分はもういない。
泣いちゃいけない時は、泣かない。
頑張って、頑張って、笑いながら、「ほら、あいつのところに行ってやって。あいつは私と違って泣き虫だから」と、促した。
本当にミーコは良い子だった。私が泣き出す前に行ってくれた。
――最後の最後まで、気を使わせちゃった。
早足にベットに入りこみ、布団を頭まで被って涙を流した。
翌朝、やっぱりミーコは息を引き取っていた。いろいろな段取りは弟がちゃんとやってくれた。私も弟の手伝いをするべきだったのだけど、泣いてばかりで何もできなかった。
三人で、庭につくったミーコのお墓に向かい、手を合わせる。
――ミーコに心配をかけない私たちになれたかな?
みゃーお、と鳴き声が聞こえた気がした。