誘拐
正樹は、学校から家に向かう道を必死に走っていた。
今日は海斗が赤ちゃんを連れて、遊びに来る日なのである。
海斗は元同級生で、1年生の時に父親に虐待されて死んだのだった。だが、正樹が海斗を追って死のうとした時に助けてくれた悪魔と天使の力で、海斗は冥界から正樹の部屋に遊びに来られるようになった。
赤ちゃんというのは、最近一家心中で殺された赤ちゃんの世話を海斗がしているのだそうだ。
(赤ちゃん、早く見たいな…。)
正樹はそう思いながら、路地を曲がった。その時、背中が引っ張られるような感覚を覚えた。
「!?」
次の瞬間、正樹はランドセルを剥がしとられていた。
「!?返して!」
正樹はランドセルを持って逃げる男を追いかけた。
「ランドセル返して!」
男が、白い大きな車のスライドドアを開き入ってしまった。
正樹は開いたままのドアに飛び込んだ。
「ランドセル返せ!」
正樹がそう言ったとたん、スライドドアが正樹の背中で閉じた。
正樹が「しまった」と思ったときには、車は走り出していた。
……
「はい!元気な男の子です。内臓も大丈夫だと思いますよ。すぐに連れて行きます。はい!はい!」
運転している男がそう言い、携帯電話を切った。
後部座席にいる正樹は、隣に座っている男にさるぐつわをされ、後ろ手に縛られていた。
正樹を縛った男は、運転している男に言った。
「兄貴、どこまで行くんすか?」
「横浜だ。そこでこいつを引き渡して金をもらうんだ。一億入るぞ。」
「一億!」
「ああ…今子どもの臓器売買が熱いんだよ。生きたまま連れていかなきゃならないってのが、厄介だがな。」
「…この子の臓器を売るんすか。」
「そうだ。腎臓、肝臓、心臓、膵臓…皆、高い金額で売れるんだそうだよ。」
それを聞いた男は、何かぞっとした表情をして正樹を見ながら言った。
「…全部…取っちまうんですか?」
「当たり前だろう。」
「そんな…この子死んじゃうじゃないですか!」
「ああ、死ぬよ。何、今さらバカなことを言ってるんだ?」
「!!…」
隣に座った男が何も言わなくなった。
それを聞いていた正樹は(僕…死ぬんだ。)と思った。だが悲しくも怖くもなかった。
(死んでも独りじゃない。僕には海斗君がいるもん。…それに、誰かの体の一部になれるんだし…。)
正樹はそう思うと、ふと隣の男にもたれて目を閉じた。
「!?」
もたれられた男は驚いて、正樹を見た。
正樹は穏やかな顔をして目を閉じていた。男は、とっさに手を正樹の肩に回した。すると正樹は、こてんと男の膝に倒れてしまった。
「!!」
正樹は男の膝の上で寝息を立て始めた。
…
車は横浜の港についた。
もう暗くなっている。
「…おい、ついたぞ。起きろよ。」
正樹はそう体を揺らされ、目を開いた。目をこすろうとしたが、手を縛られていることに気付いた。
男は、正樹の体をゆっくりと起こさせた。
「歩けるか?」
正樹はうなずくと、開いたスライドドアから両足を下ろして、車から降りた。
寝起きでふらふらしている正樹を、隣にいた男が正樹の腕を掴んでくれていた。
運転席から降りた男が、携帯電話を耳に当てた。
「あれ?何で出ないんだ?」
そう言いながら、また電話を掛け直し、携帯電話を耳に当てた。…しばらくして男の表情が変わった。
「!?…警察っ!?」
男は慌てて電話を切った。
「兄貴!?警察って…」
正樹の腕を持っている男が言った。
運転していた男が、携帯電話を見つめたまま言った。
「…臓器売買の会社が摘発されたんだ…。…電話番号知られちまった…逃げなきゃ…」
「!!」
正樹の腕を持った男は慌てるように、正樹のさるぐつわと後ろ手に縛っていた紐を外し始めた。運転していた男が驚いて言った。
「こらっ!お前何をしているっ!?」
「だって、この子はもういらないんでしょう!?この子を逃がして、俺たちも逃げなきゃ!」
「ばかやろうっ!こいつはもう俺たちの顔を見てるんだぞ!こいつを殺してから逃げるんだっ!」
「!?…そ、そんな!…まだ子どもじゃないですか!無意味に殺すことないっしょ!」
「何を今さら善人ぶってるんだ!そのままそいつを押さえてろっ!」
運転していた男はそう言いながら車の運転席に戻ると、どこに隠していたのか短銃を取り出した。そして正樹にその短銃を向けた。
正樹の腕を持っていた男が驚いて、正樹の体を自分の後ろに回した。正樹は目を見開いて、自分をかばう男を見上げた。
「兄貴っ!いつの間にそんなもの…」
「そいつを前に出せ!」
「あ、兄貴っ兄貴、こうしましょう!海に放り込むんですよ!それでいいじゃないですか!…わざわざ足がつくような…そんなもので殺さなくても…」
「だめだっ!海に放り込んだって死ぬとは限らん!」
正樹は2人が言い合うのを聞きながら、自分が今どうするべきかわからなかった。正樹を後ろに隠していた男は両手を広げると、首だけを正樹に向けて言った。
「逃げろっ!俺が兄貴を何とかするからっ!」
「おじさんも一緒に逃げてっ!」
「いいから、先に逃げろっ!」
「いやだっ!」
正樹が男の服を掴んで言った。銃を向けている男がいらいらしたように言った。
「何やってるんだっ!そこをどけっ!どかないとお前を先に撃つぞ!」
「い、いいですよ…撃てるものなら、撃って下さいよ!」
「おじさんっ!!」
正樹は男の服を掴んで揺すった。その時「いい度胸だな!」と言う声と共に、撃鉄が起こされた音がした。
「おじさん!!」
正樹がそう叫んだ途端、発砲音がした。男は弾かれるようにして背中から倒れた。
正樹は「おじさん!」と叫びながら、倒れた男にしがみついた。
「おじさん、おじさん…しっかりして!」
「ばか…逃げろ…早く…」
「おじさん、起きて…一緒に…」
「いいから…早く…逃げろ…」
男は息を弾ませながらそう言った後、動かなくなった。
「おじさん?…いやだ…おじさん!おじさん!」
正樹は男の体を揺らしたが、男は動かなかった。
「さぁ…坊や…目をつむれ。一瞬でおわる」
銃を向けている男が、ゆっくりと正樹に近づきながら言った。撃鉄がまた「カチリ」という音と共に起こされた。
正樹は怒りに満ちた目で、銃を自分に向けながら近づいてくる男を睨みつけた。
男は、正樹が怖がらない事に逆に恐れを感じ、思わず引き金から指を離した。
「…赦さない…絶対に赦さない…!」
正樹はそう呟いてから、立ち上がって叫んだ。
「ザリアベル!!」
突然、銃を向けていた男の前に黒い人型の炎が立ち上った。そしてその黒い炎は、手を広げて立つ男の姿となった。男の目は燃えるように赤く、両頬には長短2本ずつ傷がある。
「!!」
銃を向けていた男が、咄嗟に引き金を引いた。弾丸はザリアベルの体の手前で弾かれた。
「!?…うわ…うわぁ!」
男は銃を落として、背を向けて逃げ出した。
ザリアベルが、逃げる男の背に片手を差し出し、首を掴む様な所作をした。
「!!…っ!」
逃げようとしていた男が自分の首を掴み立ち止まった。ザリアベルが手を上にゆっくりとあげると、男の体も一緒に宙に浮き始めた。
「やめろ…苦しい…!…離してくれ…!」
宙に浮いた男は、自分の首を両手で掴んだまま、足をばたつかせている。
ザリアベルはそのまま、正樹に顔だけを向けて言った。
「探したんだぞ、正樹。どうして意識を塞いだりしたんだ。」
「ごめんなさい…。自分でなんとかしようって思って…」
正樹がうつむきながら言った。死ぬつもりだったことは言えなかった。ザリアベルがため息をついて言った。
「こういう時に頼りにしてくれなきゃ、友達になった意味がないじゃないか。」
「…うん…。」
正樹は、はにかむように微笑んでから「ごめんなさい」と言った。
その時、撃たれた男が呻いた。
「!!おじさんっ!!しっかりして!」
正樹がそう言って男にかがみ込んだ時、ザリアベルが前に向いて言った。
「アルシェを呼べ。ひがむから。」
「!…わかった。」
正樹は笑いながら「アルシェ!」と叫んだ。
光の塊がザリアベルの背中に現れた。そしてその光の塊は、白い羽根を背に広げた銀髪の男に変わった。
「呼ばれて、飛び出てじゃじゃじゃ…」
「なんとか大魔王、その怪我人をなんとかしろ。」
ザリアベルが、アルシェに最後まで言わせないように言った。
「任せるある!」
アルシェはそう言いながら敬礼すると、呻いている男の体を起こして言った。
「正樹君、羽根につかまって!」
正樹は笑いながらうなずいて、アルシェの背中に回り羽根にしがみついた。
アルシェがザリアベルの背に言った。
「後はよろしく、アクビ姫!」
「誰が姫だ。」
「えっそこ!?」
そのアルシェの声を残して、3人は消えた。
ザリアベルは苦笑しながら、更に自分の手に力を込めた。
「うああああぁ…」
足をばたつかせていた男の力が無くなっていく。そのうちに、だらりと体中の力が抜けたように動かなくなった。
「だらしのない奴だ。」
ザリアベルはそう呟くと、ぱっと手を開いた。
男の体が、地面に音を立てて落ちた。
ザリアベルは地面に落ちた男にゆっくりと歩み寄り、傍に落ちている携帯電話を拾い上げた。
そしてある番号をプッシュすると、電話を耳に当てた。
「もしもし。ここに銃を持った男が倒れているから、捕まえに来い。…え?ここはどこだって?…そんなこと知るか。携帯切らないでおくから、そっちで調べろ。」
ザリアベルはそう言うと、そのまま倒れた男の傍に携帯電話を置いた。
『もしもしっ!もしもしっ!!』
警察官の慌てた声を背に、ザリアベルは姿を消した。
……
「臓器売買会社…摘発か…。」
ハクション大魔王…ではなく、銀髪の天使「アルシェ」の人間形「浅野俊介」は、自宅のソファーで新聞を広げてそう呟いた。
「正樹君、間に合って良かったですね…。もし摘発がもう少し遅れてたら、危なかったんじゃないですか?」
天使「アルシェ」の主人「北条圭一」が、浅野の前にコーヒーの入ったカップを置きながら言った。浅野は新聞を畳みながら言った。
「ああ。正樹君自身も、逃げる気なかったみたいだからな。」
「正樹君って…気丈な子ですね。自分が誘拐されたことを気付かれないように、意識を塞いだなんて…」
「ん。しかし、ザリアベルが正樹君に怒ってたよ。…親を悲しませるつもりかってさ。」
「…そうですよね。確かに。」
圭一がそう微笑みながら言って、浅野の隣に座った。
「今日はザリアベルさん、来ないんですか?」
「ああ。今、海斗君が赤ちゃん連れて、正樹君の家に来てるんだそうだよ。ザリアベルも赤ちゃん見に行くってさ。」
「そうですか。ザリアベルさんって、本当に子どもが好きなんですね。」
「ん。顔に似合わずな。」
『やかましい。』
突然、向かいのソファーにザリアベルが現れて、浅野は飲んでいたコーヒーを吹き出した。
「ザリアベルさん!」
圭一が嬉しそうに声を上げた。浅野はむせるのに精いっぱいだ。圭一が笑って、浅野の背を撫でながらザリアベルに言った。
「紅茶飲みます?」
「ん。」
「今日は「レディグレイ」があるんですけど、いかがですか?」
「それはいい。「レディグレイ」ならストレートのままで頼む。濃いめにな。」
「わかりました!」
圭一はそう言うと、立ち上がってキッチンに向かった。
「ザ、ザリアベル…ごきげんよう…」
浅野がまだむせながら言った。
「ごきげんよう。」
ザリアベルが無表情のまま言った。
「海斗君とたっちゃんは元気でしたか?」
「ああ…途中でこっちが疲れて逃げてきた。」
「そんなに元気だったんだ…」
浅野はそう言うと、コーヒーを口に含んだ。
「あー…びっくりした。」
「ショーの構成は決まったのか?」
「ええ!ほとんど決まりました。台本も明日にはできあがりますよ。」
「…台本読まなきゃいけない程、セリフがあるのか?」
ザリアベルが不安そうに言った。浅野は自分の顔の前で手を振りながら言った。
「ああいえ。ザリアベルは二言三言くらいです。後は、逃げ回ってもらえれば。」
「そうか…」
ザリアベルがほっとしたように言った。すると浅野が突然思い出したように言った。
「あ、それから、今週中に副社長に挨拶に行っていただきたいんですよ。ザリアベルは、悪魔役のフリー役者ということになっているので…」
「わかった。」
ザリアベルがそう答えると、フルーティーな香りが漂ってきた。
圭一が「レディグレイ」の入ったカップを盆に乗せて、ザリアベルの横に座った。
「はい、どうぞ。ザリアベルさん。」
「ありがとう。…さすが、いい香りだな。」
「スコーンも今温めているんです。もうちょっと待って下さいね。」
「そうか。」
ザリアベルが嬉しそうにした。浅野が圭一に慌てて言った。
「えー!?圭一君、僕のはー?」
「ちゃんとありますよ。」
「やった!」
浅野が両手を上げて喜んだ。圭一が笑った。ザリアベルも苦笑している。
…だが、この穏やかな時間は、さほど長くは続かなかった…。
(終)