ストーカー
「君は僕と結婚する運命なんだ。」
そのメールの文章を見て、牧子はため息をついた。
酔った勢いで、気楽にメールアドレスを教えたのが間違いだった…。
そのメールの主は「克男」と言い、バーで知り合った。
牧子がバーで独りで飲んでいると勝手に隣に座られ、話しかけられた。
正直、好みではなかったため、牧子は適当に話を合わせていた。
そして帰ろうとした時、克男にメールアドレスを教えてくれと言われた。
「ここの飲み代払ってくれる?」
牧子がそう言うと、克男が「もちろん!」と答えたので、飲み代と引き換えにメールアドレスを教えた。
…それが間違いだったのだ。
その夜から、メールが届き始めた。
最初は、何かおもしろくて読んでいた。
だが、翌日からエスカレートしてきた。
「どうして返事をくれないんですか?」
「私と一緒にいれば楽しい時間を約束します。」
「四六時中、あなたの顔がちらついて仕事になりません。」
「あなたは私と出会う運命だったんです。」
「結婚しましょう!きっとあなたを幸せにします。」
「あなたのためなら、命も惜しくありません。」
さすがに怖くなってきた牧子は、メールを拒否した。だが向こうが気づいたのか違うメールアドレスで届いた。
…自分のメールアドレスを変えようと思ったが、それをすると親や友人たちにまた連絡しなければならない。
また…というのは、タイミング悪く変えたばかりだったからだ。
牧子は、その克男のメールを迷惑メールフォルダに振り分け読まないようにした。
…だが、それだけでは終わらなかった。
会社の帰りに、何か視線を感じるようになった。
辺りを見渡すが、わからない。…正直、顔もよく覚えていなかった。
自分をじっと見ている男を探すが、どうしても見つからない。
そのうち朝でも、電車の中で視線を感じるようになった。…だが、やはりどこにいるのかわからない。
警察に行こうにも、相手の顔も覚えていないようでは話にならない。
……
そしてとうとう、克男は姿を牧子の前に現した。…克男は牧子のマンションの前で立っていた。
最初はわからなかった。だが、克男は「やっぱり来てしまいました」と牧子に話しかけた。
牧子はぞっとした。
メールが来るようになってから、1カ月が経ったころだった。いつの間にか、克男は牧子の家を調べていたのだ。
だが、牧子は冷静を装い、克男に言った。
「…ごめんなさい。…私、あなたに興味ないの。」
「そんな!…それならそうと返事をくれたらいいじゃないですか!」
「…ごめんなさい。」
「僕のどこが気に入らないんですかっ!?言ってくれれば、僕、直します!」
牧子は困り果てた。通り過ぎる人がくすくすと笑いながら通り過ぎていく。
牧子は、人目のつかないマンションの非常階段のところで克男と話すことにした。
だが、話しているうちに、克男がヒートアップしてきた。
「教えてください!本当に僕、あなたの好みに変わりますから!…背は高くならないけど…、この顔が嫌ながら整形します!痩せろというのなら痩せます!」
牧子は迫るように近づいてくる克男から逃げようとして、階段を上がらざるを得なかった。
克男も階段を上がってくる。そして、牧子も階段を上がる。
牧子は克男に体を向けたまま、階段をゆっくり上がりながら言った。
「顔とかそういうのじゃないの!」
「じゃぁ、僕は牧子さんの好みに合ってるんですね!!」
「…そういう意味じゃ…」
そう言い合いながら階段を上がるうちに、5階まで上がってしまった。それは自分の部屋の階だった。
牧子は自分の部屋を知られるのが嫌なので、また上に上がった。
そしてとうとう7階まで上がった。…そこで行き止まりである。
牧子は追い詰められてしまった。非常階段の柵は自分の背の半分ほどしかない。
「僕と結婚して下さい!同棲から始めましょう!それなら僕の事をわかってもらえると思います!」
「もう、はっきり言うわね。…私、しつこい人が嫌いなの!」
「こうさせているのはあなたです!あなたが僕を認めてくれたら…」
「もういい加減にしてっ!!」
牧子はとうとう大声を上げた。マンションに反響しているのを感じながら、牧子は必死に迫ってくる克男を近づけないように、両手を前に伸ばしたまま言った。
「絶対に無理なの!本当に嫌いなのよ!」
「だから、僕と一緒に暮らせばわかります!」
「…あなたと一緒に暮らすくらいなら、死んだ方がましよ!!」
「ひどいじゃないですか!僕の事をわかっていないくせにっ!」
克男がとうとう牧子に抱きつくように両手を広げて迫った。牧子が体を思わず反らした途端、そのまま柵を越えて落ちた。
牧子の悲鳴が遠のいていく。
「!!牧子さん!」
克男が柵から下を覗いた時はもう、牧子の体は下に群生している木の葉の群れに吸い込まれていた。
克男は慌てて階段を下りた。だが7階なので、なかなか1階までつかない。
克男は息を切らして、牧子が落ちた辺りに駆け寄った。
「牧子さんっ!大丈夫ですかっ!?」
牧子は、地面に横たわっていた。
傍には大きな白い羽を背に持った、銀髪の男がかがんでいた。
「!?」
克男が思わず目をこすると、男は消えていた。
克男は、はっとして牧子に駆け寄った。
「牧子さんっ!牧子さんっ!しっかり!」
克男は牧子の肩に手を乗せ揺らした。
牧子が目を覚ましたが、克男の顔を見て悲鳴を上げた。
克男は驚いて、思わずその場を走り去った。
……
「どうしてだ…どうしてだよ…?」
克男がそう言いながらふらふらと歩いていると、いつの間にか路地に入りこんでいた。ラブホテルや廃ビルが並んでいる。
「あれ?どこだ?ここ…」
克男は目を拭い、辺りを見渡した。
「…とにかく大通りに出よう…。出たら…また牧子さんにメールしよう…」
克男はきょろきょろしながら歩き始めた。
「…振られたようだな。」
そんな声が背中から聞こえた。
ぎくりとして振り返ると、紅い目の男が立っていた。両頬に長短2本ずつ傷がある。
「!!…悪魔っ!?」
「そう…「ザリアベル」だよろしく。」
ザリアベルが口の端をいがめるようにして言った。克男はおびえながら言った。
「な、なんで悪魔が僕に…」
「お前の今までの行動を見ていた。…悪魔は仲間の臭いに引かれる習性があってね…。」
「お、俺は悪魔の仲間になるような人間じゃないっ!!」
「謙遜するな。お前には素質がある。」
ザリアベルは、そう言って克男の肩を叩いた。
叩かれた克男は、ぞっとして叩かれた肩を見た。…何か気持ち悪かった。
「あの牧子って女にに迫るやり方など、悪魔そのものだったよ。私も参考にさせてもらおうと思ったほどだ。」
「!!」
「お前を気に入った。…どうだ、一緒に地獄へ行かないか?仲間を紹介したい。」
「い、嫌だっ!!」
克男は思わず傍にあった廃ビルに入り、階段に足をかけた。ザリアベルはゆっくりと克男に近づきながら言った。
「なぜ逃げる?俺が気に入ったんだぞ。」
克男は上へと上がった。そしてとうとう背を向けて駆け上がった。…ザリアベルは、カツーン、カツーン、という不気味な足音を響かせて階段をゆっくり上がりながら言った。
克男はぜいぜいと息を切らしながら、階段を上がった。上がっても逃げ切れない事はわかっていたが、下から終われているため、上がるしかなかった。
克男はとうとう最上階についた。「非常口」とある鉄製の扉を押し開け、屋上に飛び出した。
強い風にさらされながら、克男は息を切らしながら、振り返った。
ザリアベルは息も切らさずゆっくりと克男に近づいてきている。
「俺と一緒に地獄へ行こう。」
ザリアベルは上に向けた手のひらを、克男に差し出しながら言った。
「嫌だ…」
「どうして?俺が一緒なんだぞ?…俺と一緒にいたら楽しく過ごせる…。」
この悪魔のような男は、自分が牧子に言った言葉とほとんど同じ意味の事を言っていることに気付いた。
全く気のない相手に言われてもうれしくないどころか、恐怖しか感じられない…。
克男は、自分が牧子にしてきた事が、いかに自分勝手だったかをやっと悟った。
「わかった…もうあいつにはつきまとわないから…だから、見逃してくれ!」
「そんなことは関係ない。…俺がお前を気に入ったと言ってるんだ。」
「!!」
克男はいつの間にか柵に背を乗せていた。もう逃げ切れない。
悪魔は手を伸ばしたまま、克男に近づいてきている。
「さぁ、俺と行こう。…地獄へ。…さぁ…」
「嫌だっ!!お前と一緒に地獄へ行くくらいなら…独りで死んだ方がましだ!」
…そう言ってから、はっとした。非常階段から落ちる直前、彼女も同じような言葉を言っていたことを思い出した。
悪魔は不気味な笑みを見せながら近づいてくる。
克男は強く柵に背を押さえ付けるようにした。
…その時、突然背中が軽くなったのを感じた。
「!!!」
克男は悲鳴を上げて、ビルから落ちた。
……
(僕は死ぬんだ…)
落ちていく中、克男はそう思う余裕があった。
(死ぬ前に彼女に謝りたかったけど、もう無理か。そもそも僕の言葉なんて、もう聞いてくれないよな…)
そう思ったとたん克男は逆さになったまま、体が止まったのを感じた。
いや体が止まったというより、時間が止まったような感じだった。
自分が落ちていく時に聞こえていた風の音がなくなり、周囲も動きが止まっている。
「????」
「…はい、ここまでね。」
いつの間にか、背中に白い羽のある男が、同じように逆さになって目の前にいた。
克男は目を見開いた。
「!?…お前はさっき…牧子さんの傍にいた…」
「そう。一応天使やってるアルシェだ。よろしく!」
さっきの悪魔とは違う優しい声だった。克男は思わず「よろしく」と答えていた。
天使があきれたように腕を組んで言った。
「さっきのレディーは危なかったよ。…やりすぎだったんじゃない?あの悪魔に魅入られて、ちょっとは反省した?」
「…した…」
「もう彼女にはあんなことしない?」
「…しない…」
「天使の俺に誓える?」
克男は一瞬迷った表情をした。すると天使が口に手をかざして叫んだ。
「悪魔さーん!出番…」
「わかった!誓うっ!誓うよっ!」
克男が慌てて言った。天使はにっこりと微笑んだ。
「よろしい。じゃぁ、ついでに助けてあげる。」
天使はそう言い、そのまま消えた。
「えっ!?おいっ!」
また風の音が戻り、体が落ちていく。
次の瞬間には、体に衝撃を感じた。
……
「…おいっ!大丈夫かっ!?」
そんな声に、克男は目を覚ました。
「あっ!目を覚ました!大丈夫か!?」
克男は目の前の光景に驚いた。たくさんの人が自分を見上げている。
自分の体をよく見ると、大きな木の枝に洗濯物のようにひっかかっていた。
「わっ!」
そう言って体を起こそうとした時「動くな!」「動いちゃだめだっ!」と人々が口々に叫んだ。
「動くと落ちるぞ!今レスキューの人、呼んだからっ!そのままでいろよ!」
1人の男がそう言った。その男の顔を見て、何故かさっきの天使の顔を思い出した。
「浅野さんっ!来ました!」
そんな若い男の声がした。レスキューを呼んでくれたという男が駆けだして行き、レスキュー車に両手を振っている。
…克男は、ほどなく木から降ろされた。レスキュー車の梯子を下りていく時、拍手が聞こえた。
「ビルから落ちて、木に引っ掛かるなんて…君は強運の持ち主だね。」
無事に地面に降りてからレスキュー隊員にそう言われ、克男は申し訳なさそうに頭を下げて言った。
「…天使と悪魔のおかげです。」
「え?」
「…あ、いえ…」
克男は咳払いをして言った。
「生まれ変わったつもりで…人生やり直します。」
レスキュー隊員が笑った。
……
『最後のメールです。』
3日後- 克男から牧子にメールが届いた。牧子はためらったが、その件名にメールを開いてみた。
『これまで本当に申し訳ありませんでした。あれからいろいろ考える事があり、本当に反省いたしました。心からお詫びいたします。
それで、タイミング良くというか…大阪に転勤が決まりました。明日出発します。もうあなたには物理的に会うこともありませんから、どうぞ安心して下さい。
これからは今までのことを悔い改め、また新天地で人生をやり直そうと思います。このメールを読まれましたら、メールアドレス共々削除をお願いいたします。どうぞお元気で。さようなら。』
牧子は何故か涙が溢れ出てきたのを感じた。
慌てて目を拭うと、返信ボタンを押し、
『新天地で、あなたに幸せが訪れますように。』
と打ち、送信した。
その後…返事が返って来ることはなかった。
……
「あー…どうするかなぁ…」
天使「アルシェ」の人間形であり「イリュージョニスト」の浅野俊介は、自分の所属するタレント事務所「相澤プロダクション」の会議室で両目をこすりながら言った。
前には、同じプロダクションのアイドルであり「清廉な歌声を持つ魂」と悪魔たちに恐れられている、北条圭一が苦笑しながら向かいに座っている。
「久しぶりの日本公演ですから、派手に行きましょうって話でしたよね。」
「ん…そうなんだが…。派手にって何をどう派手にすりゃいいんだか…」
「…そうですよね…。」
圭一が真っ白な紙を前にして、ため息をついた。浅野が腕を組み、天井を見上げながら言った。
「オーソドックスな、火と水のイリュージョンはいつも通りやるとして…。何か目新しい物ってないかなぁ…」
「ねぇ、浅野さん…。ザリアベルさんを誘いませんか?」
「ザリアベルを?」
「ええ。天使と悪魔のショーをするんですよ。」
「天使と悪魔のショー!?」
「浅野さんもアルシェの姿で出るんです。…その姿で、客席の上を飛び回るんですよ。」
「うーーん…悪くないかも…。で、ザリアベルは?」
「ザリアベルさんも飛べるんでしょ?」
「ん、まぁ。」
「お2人で追っかけあいっこってのはどうです?」
「あのねー…圭一君…子どもの遊びじゃないんだから…」
圭一がくすくすと笑った。どこまで本気で言っているのかわからない。
「圭一君!ふざけないで、真面目に考えましょうっ!!」
浅野が怒った風を見せて言った。圭一は笑いながら言った。
「ふざけてないですよ。天使と悪魔のショーってのはなかなかいいと思いませんか?」
「うーん…。確かに…。だけど、ザリアベルが承知するかどうか…。」
「そこですよねぇ…」
圭一が机に顎を乗せて、ふっと紙を吹いた。紙は浅野の前にひらりと落ちた。
浅野が「こら!」と言って、紙を吹き返す。
圭一が笑いながら、またその紙を浅野に吹き返した。
「…おもしろいなこれ…」
浅野がそう言うと、その紙を吹いた。
紙が床に落ちた。
「ぶー…浅野さんの負けー!」
圭一がそう笑いながら言い、紙を拾った。
「なんでっ!?なんでよ!そんなルール聞いてないもん!」
「じゃぁもう1回勝負します?」
「よーし!」
浅野が両そでをめくり上げ、圭一が紙を吹くのを待っている。
2人はそのまま、紙吹き遊びで時間を潰した。
…いつもこんな感じで、イリュージョンショーの演目が決まらないのである。
日本公演は本当にできるのか…不安は募るばかりである。
(終)