モグラになる日
朝のニュースは、今日も気温から始まった。
『本日現在の予想最高気温は四十四・七度です。午後は上昇する見込みですが、帰宅開始命令の発令基準である四十五度を超える可能性があります。熱波運用センターの情報をこまめに確認してください』
それを聞いて、妻は冷蔵庫を開けた。
「牛乳、今日買ってきて」
「うん」
ごくありふれた会話だった。
玄関を出ると、朝の空気はもう熱を含んでいる。日差しはまだ低いのに、アスファルトからは昨夜の熱が逃げきらず、足元からじわりと押し返してくる。
向かいの玄関が開き、老婦人と目が合った。
「おはようございます」
「おはよう。ちょうどよかったの。田舎からオレンジが届いたんだけど、一人じゃ食べ切れなくてね。少し持っていかない?」
差し出された紙袋の中には、鮮やかな橙色の実がいくつも収まっていた。
「良いんですか?」
「腐らせるほうがもったいないもの。奥さんにもどうぞ」
「ありがとうございます」
私は紙袋を受け取ると、一度家へ戻ってダイニングテーブルの上へ置いた。
「お向かいさんから?」
妻は紙袋の中を覗き込み、オレンジなんて久しぶりだと、小さく笑った。母を熱中症で亡くして以来、夏は必要なとき以外ほとんど外へ出なくなった。旬の果物を自分で選ぶこともなくなり、夏らしいものが食卓へ並ぶ機会も、いつしか減っていた。
「田舎から送られてきたんだって」
再び玄関を出ると、向かいの老婦人が「行ってらっしゃい」と手を振っていた。私は会釈を返し、そのまま駅へ向かった。
駅へ向かう人々の歩く速度は、昔より少しだけ速くなった。
誰もが知っているからだ。
四十五度を超えれば、会社も学校も帰宅開始命令が出る。
四十八度を超えれば、外出禁止令。
その三度の差が、街を止める。
昼休みまでに買い物を済ませよう。きっと昼前には混み合う。
そう考えた人は、きっと僕だけではない。
人間は深部体温が四十二度を超えれば生命維持が難しい。それなのに、帰宅開始命令は外気温四十五度からだ。もう少し早く出せないものかと、毎年同じことを思う。
子どもの頃は、外気温が四十度を超えたぐらいで大騒ぎをしていて、学校のプールも暑すぎるから中止になってたっけ。
今じゃプールは春と秋の風物詩だ。
僕は駅までの巡回バスを待った。
教育機関の送迎車が住宅街へ曲がっていき、小さな窓の向こうでは制服姿の子どもたちが笑い合っていた。炎天下を歩く危険から守られる代わりに、季節の匂いや友達との寄り道を知らないまま育つのだろうと思うと、この世界は確かに安全にはなったのだろう。しかし、本当に豊かになったのかだけは、僕にはわからなかった。
子どもの頃に使っていた高架線は、もう残っていない。真夏になるたびレールが歪み、運休を繰り返した末に姿を消した。今では地下鉄と周回バスが、その跡を静かに埋めている。
暑さだけで、本当に子どもと老人が死ぬ時代になったのだ。
学習も仕事も、そのほとんどを自宅でこなせる時代になった。「対人関係が築けない世代になる」と散々言われたけれど、案外そんなことはなかった。
僕らは、学校へ毎日通うという生活を知らない最後の世代ではなく、毎日通う必要がなくなった最初の世代だった。
時代は変わった。だからこそ、人が現場に必要な仕事は最後まで残った。医療、教育、福祉、行政、インフラ――社会を支える仕事ほど、人がそこにいることを前提としていた。
午後の業務をどこまでシステムへ引き継げるかを頭の中で組み立てながら、僕は周回バスを降り、熱気から逃げるように地下通路へ駆け込んだ。
時間が有限になった。
年々暑くなる空の下で、都市は地下へ地下へと潜り続ける。地下街が広がるほど、人類は空を諦めている気がした。
僕たちは、モグラになるんだな。
子どもの頃に読んだ絵本を思い出す。
年老いて、自分では水を吸い上げられなくなった桜の木があった。モグラは毎日土を掘り、水を運ぼうとする。けれど、土を掘ることは得意でも、水を運ぶことはできない。最後には桜の根元へ倒れ込み、その涙だけが乾いた土を濡らし、桜は花を咲かせた。
あの頃は、美しい話だと思っていた。
けれど今は違う。
地下へ潜り、空を避け、子どもたちは送迎車の窓からしか夏を知らず、それでも誰もが「安全になった」と言う世界で、自分の子どもだけはどうしても想像できなかった。
子どもを作らない理由は、それだけで十分だった。
技術はいくらでも進歩する。制度も、人は驚くほど器用に作り替えていく。
けれど、僕には、自分の子どもへこの世界を引き継ぐ勇気がない。
地下へ続くエスカレーターは、朝の通勤客をゆっくりと飲み込んでいく。地上から差し込む光は数十メートルも下るうちに白さを失い、代わりに一定の温度に保たれた人工の空気が肌を撫でた。
地下街は、もうひとつの街だった。食料品店も診療所、保育所、銀行、郵便局もある。地上に窓はなくても、人は十分に暮らしていけるよう設計されていた。
改札を抜けると、ホームには「本日の予測最高気温 四十三・八度」の表示が流れていた。その数字を見ても、誰も立ち止まらない。三十度が暑いと言われていた時代を知る人間は、もう少なくなっていた。
地下鉄は定刻どおり滑り込み、静かに扉を開く。
僕は乗り込むと、手すりにもたれながら端末を開いた。熱波運用センターから送られてきた午前中の気象データは、すでにAIが解析を終えている。午前の予測最高気温は四十三・八度。帰宅開始命令の基準である四十五度には届かない見込みだった。
——見込み、か。
この言葉を、僕はもう信用していなかった。
ここ数年、熱波は予測を嘲笑うように現れる。積乱雲がひとつ崩れただけで、地表温度は一時間も経たずに二度、三度と跳ね上がることがある。そのたびに街は慌ただしく動き出し、僕らは「予測どおりでした」とは書けない報告書を何枚も作ってきた。
それでも、最後に判断するのは人間だ。
数駅先で降りると、「中央熱波運用センター」と書かれた案内表示に従って歩き始めた。
システムが九割九分まで組み上げた計画に、人間が最後の承認ボタンを押す。
結局、誰かが目を通さなければならない。
精度の問題じゃない。何か起きたとき、「承認したのは誰か」と問われるためだけの仕事だ。
熱波運用センターへ入ると、すでに何人かの職員が出勤していた。
「おはようございます」
「おはよう」
軽く言葉を交わし、それぞれが自分の席へ向かう。モニター越しに顔を合わせることは毎日のようにある。それでも、こうして同じ空間で交わす挨拶には、画面越しにはない温度があった。
人と人とが直接会う機会は、年々減っている。それを不便だと思うことは少なくなった。それでも、ときどき思う。誰かの声が少し近くで聞こえるだけで、人は案外安心できる生き物なのだと。
「午前データ、更新入った?」
「さっき。地表温度は予測どおりだけど、上空の乾燥域が少し南に寄ってる」
「また跳ねるか」
「予定より早くなりそう」
システムが組み上げた解析データと運用プログラムを照合する。数値に矛盾がないことを確かめ、上長へ承認を依頼した。
上長は表示された気象シミュレーションを見つめたまま、小さく息を吐く。
「予測は四十三・八度か……いや、違うな」
数秒の沈黙のあと、画面の風向きデータへ視線を移した。
「この状態だと、昼前には四十五度を超える可能性がある。帰宅開始命令の準備を進めてくれ。みんな急いで」
センターの空気が少しだけ変わった。
四十五度を超えれば、何万人もの人が職場を離れる。経済的損失は避けられない。だが、発令を遅らせれば、その損失は救急車のサイレンへ姿を変えるだけだった。数字の向こう側には、いつも人がいた。
僕は端末を閉じながら、妻に牛乳を頼まれていたことを思い出す。
帰りに買って帰らなきゃ。
同僚と互いに労いの言葉を交わし、次の当番が火曜日であることを確認する。数日後にはまた顔を合わせる。それだけの約束を残して、センターをあとにした。
来た道を戻るだけなのに、地下の空気は朝とは違っていた。空調は変わらないはずなのに、熱がコンクリートの向こう側からゆっくりと滲み込んできているような気がした。
「ただいま」
家に着く直前、腕の端末が短く震えた。
〈外出禁止命令 発令〉
ギリギリ間に合った。
「牛乳は?」
「買ってきたよ。それと、ヨーグルトも。オートミールも少なくなってただろ?」
「ありがとう。助かる。オレンジ食べる?」
僕は、返事をしながら、仕事用の端末を開いた。
数件のメールに目を通し、システムから新しい通知が届いていないことを確認する。
「ねえ」
妻が、少し言いづらそうに声をかけてきた。
「お向かいのおばあさんなんだけど……帰宅していないみたいなの」
僕は端末から顔を上げる。
「ランプの故障じゃ……。もう五十度を超えてるんだぞ」
「そうだといいんだけど」
僕は地域管理アプリを開き、お向かいの居住情報が「外出中」のまま変わっていないことを確かめると、ランプの故障かもしれないという妻の言葉を何度も頭の中で繰り返したものの、その可能性だけにすがって何もしないまま朝を迎える自分を想像することができない。
気づけば玄関まで歩き、ドアノブへ手を伸ばしていた。
その瞬間、腕の端末が甲高い警報音を鳴らした。
〈外出禁止命令発令中 生命の危険があります〉
〈外出禁止命令発令中 生命の危険があります〉
「だめ! あなたが一番知ってるでしょう。外出禁止命令が出たあとの個人の救助活動は禁止されているのよ」
ドアノブまであと数センチというところで妻の手が僕の腕をつかみ、その力は細い指からは想像できないほど強く、振り払おうと思えばできたはずなのに、その温もりだけはどうしても振り払えなかった。
「でも……」
「平均余命が残り数年の人のために、あなたの生存確率を下げるつもりなの?」
妻は怒ってもいなければ、悲しんでもいなかった。ただ、感情を切り離したような無表情のまま、僕を見つめていた。その静けさは、怒鳴り声よりも僕の足を止めた。
僕は何も言えなかった。
ドアノブを握っていた手を離すこともできず、かといって開くこともできず、警戒アラームだけが僕たちの間を埋め尽くした。
〈外出禁止命令発令中 生命の危険があります〉
〈外出禁止命令発令中 生命の危険が……
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は「暑さ」の話ではなく、極限の環境の中で、人が何を守り、何を手放していくのかを考えながら書きました。
少しでも心に残るものがあれば、とても嬉しいです。




