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第1節 死ぬのは三月の夜に

死というのは、もっと劇的なものだと思っていた。 たとえば走馬灯。




これまでの人生が走馬灯のように流れる、とよく言う。




テレビドラマでも漫画でも、死の直前というのはそういう演出がつきものだ。




幼い頃の記憶、家族の顔、初めて自転車に乗れた日、あるいは泣いた夜のこと。


そういうものが、スローモーションで瞼の裏に映し出されるはずだった。 




だが九条凛くじょう りんが最後に見たのは、コンビニの明かりだった。 




夜の十一時過ぎ。三月の風はまだ冷たく、春の気配だけが先行して本体を置いてきたような宵だった。




凛は塾の帰りで、肩から鞄を下げ、イヤフォンを片耳だけに突っ込んで、特に何も考えずに歩いていた。




国道沿いの歩道、ファミリーマートの看板が橙色に光っていた。 


次の瞬間、脇腹に熱いものが当たった。 




熱い、とまず思った。痛みより先に熱さがきた。体が勝手に振り返ると、見知らぬ男が立っていた。三十代くらいだろうか。




フードを被った、ただの男。




その手に光るものがあって、凛はそれが何なのか、理解するより前に膝が折れた。 倒れる、と思った瞬間に地面が消えた。 




アスファルトに叩きつけられる衝撃を覚悟したのに、それがなかった。


ファミリーマートの明かりが遠ざかっていき、夜空が見えた。




いや、夜空ではなかった。




暗い何か。光のない何か。 走馬灯はなかった。 ただ、消えた。




────────────────────────────────────




意識が戻ったとき、最初に気づいたのは石の感触だった。 




冷たい、硬い、少し湿った石。




頬がそれに触れていた。




鼻腔に入ってくるのはカビと錆の匂い。




目を開けると視界に広がったのは石造りの壁で、ところどころに松明のような何かがかかっていて、低く揺れる炎が影を踊らせていた。




凛はゆっくりと上体を起こした。 




頭が痛い。脇腹も……いや、脇腹は痛くなかった。




傷があったはずのところを触ると、布の感触がした。




見下ろすと、自分の体は見覚えのない粗い布の服を着ていた。着替えられている。傷口も、乾いた血の跡はあるが、ふさがっているようだった。




(……ここは、どこだ) 


部屋は石で作られていた。




四方の壁、天井、床、すべてが灰色の石。




二段ベッドが片方の壁に沿って並んでいる——


木製で、年季の入った、こすれた跡だらけのもの。




反対側の壁には鉄格子があった。


錆が浮いて、太さは大人の親指ほどある。




その向こうは薄暗い廊下が続いていた。 


独房、ではなかった。 


部屋の広さはおよそ六畳ほどで、二段ベッドが二組ある。




つまり四人分。




凛がいたのは床だったが、ベッドのうち一つには毛布の膨らみがあった。誰かが寝ている。 凛は立ち上がろうとして、足元がふらついた。




膝をついて、一度深呼吸する。 (落ち着け。整理しろ) これは凛の癖だった。




パニックになりそうな場面で、まず頭の中に「箱」を作る。感情を箱に入れて、蓋をする。


分析から始める。




それが九条凛という人間のやり方だった。 既知の情報。




自分は通り魔に刺された。




意識が途切れた。




気づいたら石造りの、明らかに現代日本ではない場所にいた。




体の傷はふさがっている。 不明な情報。




ここがどこなのか。




なぜ自分がここにいるのか。




外の世界がどうなっているのか。 (最悪の場合を想定して動け) まず言語だ、と凛は考えた。ここが日本でないなら、言葉が通じない可能性がある。




いや、それより先に—— 




「よかった、起きた」 




声がした。 日本語だった。 




凛は弾かれたように顔を上げた。




上段のベッドから、頭が下りてきた。十六、七歳くらいの少年。




黒髪を少し長めに垂らして、目が大きく、笑うと犬歯が見える。




凛を見てにっこりと笑った。 




「三日寝てたよ。心配したんだけど」




「……日本人、か?」 




「そう。橘蒼汰たちばな そうた。よろしく。まあ、こんな状況で言うのも変な気するけど」 




少年——蒼汰は上段から器用に飛び降りて、凛の前にしゃがんだ。


顔をのぞき込んでくる。 




「名前、聞いていい?」 




「……九条凛」 




「くじょうりん。リン、か。いい名前」 




蒼汰は立ち上がり、ベッドの下から水の入った木椀を持ってきた。凛に差し出す。 




「飲める? 味はないけど、水は清潔にしてもらってるから」 




凛は受け取って、一口飲んだ。確かに味はしないが、清潔な水だった。飲みながら、部屋を改めて見回す。 




「……ここは?」 「牢屋」 「わかってる、そういう意味じゃなくて」 




「わかってる、俺もそういう意味で答えたわけじゃない」 




蒼汰はベッドの端に腰を下ろして、少し表情を変えた。笑顔は消えないが、目の奥が少し真剣になった。 




「ここは"黒鉄宮こくてつきゅう"って呼ばれてる刑務所。王都の中心にある。この世界で一番でかくて一番厳しい監獄で——建ってから二千年、脱獄者ゼロの絶対牢獄」




「…………」 




「俺らは二人とも、冤罪で入れられてる」 




凛は水椀を膝の上に置いた。頭の中の「箱」が、ぎりりと軋んだ気がした。




────────────────────────────────────




凛が「言語習得の魔法」について気づいたのは、蒼汰が教えてくれたからだった。


 


「転生したてのとき、頭の中に何かすごい圧力かかった感じしなかった?」




「……した」




「あれ、この世界の言語を自動でインストールされる魔法らしい。


転生者にかかる特殊な術式で、目覚めたら現地語が話せる状態になってる。


俺もそうだったし、そういう仕組みっぽい」




確かに、と凛は思った。




今こうして蒼汰と話しているのは日本語だが、さっき廊下の向こうから聞こえてきた衛兵らしき人間の声は、明らかに日本語ではなかった。




だが内容は理解できていた。




「交代まであと一刻」と言っていた、はずだ。




「どのくらいいる、ここに」




「俺は四日。凛が来たのが三日前で、その前日に俺が連行されてきた」




「転生前の記憶は?」




「……ある。ちゃんとある」




蒼汰の目が一瞬、何かを隠すような動きをした。凛はそれを見逃さなかったが、今は追わなかった。




「俺は三月の夜に刺された。通り魔に」




「俺も」




「同じ夜か?」




「……わかんない。俺は三月十四日の夜」




「俺も十四日だ」




蒼汰が少し黙った。




「じゃあ、同じ夜だな」




「同じ通り魔かもしれない」




「……かもね」




その答えは軽かったが、声のトーンは軽くなかった。凛は追及しなかった。今は情報収集が先だ。




「冤罪の内容を教えてくれ」




蒼汰が話した内容は、凛が起きて十分後には「これは完璧な罠だ」と認識するのに十分なものだった。




────────────────────────────────────




三日前——凛が転生した日の話だ。




意識が戻った直後、凛はすでに王宮の外縁部にいたらしい。


「らしい」というのは、凛自身はその前後の記憶が曖昧だからだ。




言語の「インストール」が終わった直後で、頭がひどく痛かった。気づいたら人の声がして、自分は廊下を歩いていた。




騒ぎがあった。王宮内の中庭に近いエリアで、人が倒れているという声。


凛は近づいてしまった。




なぜ近づいたのか、自分でも説明がつかない。野次馬根性だったのか、それとも助けようとしたのか。




いずれにせよ、倒れていた少年


——後に第三王子と知った、十歳前後の子ども——のそばに膝をついた。




そのとき、手の中に何かが「あった」。




握らされた、というより、気づいたら持っていた。小さな瓶。液体が入っている。




振り返っても誰もいなかった。一秒前まで何もなかった手の中に、その瓶があった。




次の瞬間、周囲から声が上がった。


 


「あの男が毒を持っている!」




騎士が三人。


侍女が二人。


貴族と思しき男が一人。


六人全員が凛を指さした。


そして凛の体から、光が漏れ始めた。




転生時に体に刻まれた魔法陣が——感情の昂りに反応して——発光した。


 


その紋章が、「無名ノーネーム」の刻印に酷似していた。


 


王国最凶の暗殺者集団。その証と同じ紋を持ち、毒薬瓶を手に持ち、第三王子のそばに膝をついた少年。




どこから見ても、暗殺犯だった。




「特例法が適用されたんだって」


蒼汰が続けた。




 


「王族暗殺未遂は、疑いの段階で即時収監できる特例がある。


裁判は後でいいから、とにかく先に閉じ込める。


普通の犯罪者とは扱いが違う。


弁明の機会もない、証人も呼べない。


ただぶち込まれて、審理待ち。


俺が聞いた話では、その"審理待ち"が五年以上かかってる囚人もいるらしい」




 「お前は?」


 


「俺はもっと単純。


凛が連行された三十分後に、城壁外で見知らぬ騎士に殴りかかったとか言われた。俺の魔力が無許可で発動したって——


俺、あのとき怖くて混乱してたんだけど。


それが暴行と魔力不法使用で、共犯者扱いにされた」




「お前が凛を知っているはずがない、その時点では初対面だったんだろ」


 


「それ俺も言ったよ。


でも関係ないって。


"事件との関連が疑われる"だけで十分なんだって、この国の法律は」




凛は目を閉じた。




(落ち着いて考えろ。感情は箱に入れろ)




箱が、また軋んだ。




────────────────────────────────────




名前がわかったのは最初の夜だった。




衛兵が食事を運んできたとき、ついでのように言った。


現地語で、だが凛には理解できた。




「34758番と34759番、規則を読んでおけ」




壁に貼られた羊皮紙に、監獄の規則が書かれていた。




蒼汰は34759番。凛は34758番。番号で呼ばれる世界に、名前はいらないらしかった。




その夜、凛は眠れなかった。




ベッドの板は硬く、毛布は薄かった。天井の石を見上げながら、凛は脳内で状況を整理し続けた。




俺は死んだ。刺されて、死んだ。


異世界に転生した。


転生直後に冤罪をかけられた。


王都最大の監獄に入れられた。


建設から二千年、脱獄者ゼロ。


弁明の機会はない。


この国に俺を知っている人間はいない。


俺の存在を証明できるものは何もない。




(最悪だ)




感情を箱に入れようとして、入りきらなかった。


怒り、恐怖、困惑。混乱。




だが不思議なことに、その奥底に——何か別のものもあった。




凛は高校二年間、「優等生」を演じてきた。




それが何のためだったのか、自分でもよくわかっていなかった。




親のためか、教師への処世術か、あるいはただの習慣か。




礼儀正しく、問題を起こさず、常に模範的で、怒らず、弱音を吐かず、頼まれたことをこなす。




それが「九条凛」だった。




だがここには、その仮面を必要とする理由が何もなかった。




優等生を見せる相手がいない。成績を気にする必要がない。「いい子」でいることに意味がない。




その気づきが、なぜか——奇妙に、すっきりとした。




────────────────────────────────────




二日目の朝に、蒼汰は「見せたいものがある」と言った。




部屋の奥の壁。入口の鉄格子から一番遠い、照明も届きにくい暗い隅。松明の明かりを手で遮って、目を凝らすと——




文字があった。




壁の石に、細い何かで刻まれた文字。深さはさほどないが、確かに刻まれている。




凛は顔を近づけた。指でなぞった。




日本語だった。




横書きで、縦に三行。


細かい字で、丁寧に、しかし急いで書いたような走り書きで。




 ─────────────


│子の壁を読める者へ。   │


│お前たちは呼ばれた。   │


│まず「沈黙の間」を探せ。 │


 ─────────────




凛は三秒、その文字を見つめた。




「俺が来た次の朝に気づいた」




蒼汰が背後から言った。声が少し低くなっていた。




「最初は見えなかったんだよ。暗いし、石の色と同化してるし。でも二日目に、なんか光の角度が変わった時間帯に、急に浮き上がって見えた」




「他に書いてある場所は?」




「まだ探してない。……一人でいるの、怖かった」




蒼汰が言った。陽気な声のトーンのまま言ったが、凛は聞き流さなかった。




「そうか」




短く答えて、凛は立ち上がった。




部屋の隅から隅まで、丁寧に見ていく。


光の当て方を変えながら、手でなぞりながら。


天井、床、鉄格子の枠、ベッドの側面。




二つ目の文字は床にあった。


石と石の継ぎ目に沿って、ほとんど溝に見えるくらい細く刻んであった。




 ─────────────


│時計塔の影が北を向くとき │


│第七棟の壁は薄くなる   │


 ─────────────




 「時計塔?」




「王宮の近くにあるらしい。囚人同士の話で聞いた」




「第七棟は?」




「ここは第三棟。第七はだいぶ離れてる。女の囚人が主に入ってる」


凛は立ち上がった。




「この日本語を書いた人間がいる。この監獄に、あるいはかつてこの監獄に。日本人か、日本語を知る者が」




「俺もそう思った」




「それは偶然じゃない」




凛は言った。


声は静かだった。


感情は箱に入っていたが、思考は明確だった。




「俺たちが同じ夜に刺されて、同じ監獄に入れられて、同室に配置されて、日本語の暗号を読める状態にあった。この偶然の重なりは、偶然ではない」




「……だよな」




蒼汰の声がわずかに変わった。笑顔の仮面が、少し剥がれた。




「俺もずっとそう思ってた。でも誰かに言うのが怖かったから、黙ってた」


凛は蒼汰を見た。




十六歳。自分より一つ年下。知らない世界で、四日間一人で考え続けていた。




「これを仕組んだ者がいる」


凛は言った。




「そいつが誰なのか、目的が何なのか、今はわからない。だが一つだけ確かなことがある」




「何?」




「俺たちを殺したかったなら、あの場で殺せたはずだ」




夜の廊下で、毒薬瓶を握らされたあの瞬間。第三王子のそばで膝をついたあの場面。




そこで殺そうと思えば、何でもできたはずだ。




「なのに、生かして閉じ込めた。つまり——」




「俺たちを、ここに入れることが目的だった、ってこと?」




「そうだ」




凛は壁の文字を、もう一度見た。




「"呼ばれた"と書いてある。俺たちは、ここに呼ばれた」




────────────────────────────────────




 三日目——


つまり凛が起きた日の夕方に、廊下に人影が立った。


衛兵ではなかった。




背が高い、痩せた老人。




白髪を短く刈り込んで、顔に深い皺が刻まれていた。


囚人服を着ているが、その立ち方はどこか衛兵より堂々としていた。




老人は鉄格子の向こうに立ち、しばらく二人を眺めた。




「新入り」




現地語で言った。低い声。




「礼儀正しく聞け。俺の名前はガドル=ハンという。


囚人歴二十三年、囚人番号00049だ」




蒼汰が小声で凛に言った。




「この人、古参の囚人。めちゃくちゃ顔が広い」


 凛は立ち上がって、鉄格子に近づいた。




「九条凛。囚人番号34758です」




「礼儀を知ってるな。名前は聞いてない」




「失礼しました」




「聞いてはいないが、悪い印象は与えない」




ガドルは腕を組んで、凛を値踏みするように見た。目が鋭い。七十代に見えるが、目だけは三十代の男のような光がある。




「お前たち、異国の言葉で話しているな」




凛は表情を変えなかった。




「俺たちに聞こえる言葉は現地語だけです」




「嘘をつくのが上手い。それは良いことだ、ここでは」




ガドルは一歩下がった。




「俺はただ挨拶に来た。


新入りには最初の一週間、色々な者が近づいてくる。


取引を持ちかける者、情報を売ろうとする者、あるいはお前たちを利用しようとする者。誰も信用するな」




「あなたも含めて?」




「特に俺を含めて」




老人は薄く笑って、去っていった。


靴音が消えてから、蒼汰が言った。




「あの人が信用できるかどうか、まだわかんないんだよな」




「時間をかけて見る。急がない」




「でもさ——」




蒼汰が立ち上がった。


体が少し緊張している。




「凛、ひとつ聞いていい」




「何だ」




「脱獄、する気ある?」




凛は答えなかった。しばらく、天井を見た。


建設から二千年。脱獄者ゼロ。




(できるわけがない、とは言わない)




優等生の仮面を被っていた頃の凛なら、まず「可能性を考えましょう」と冷静に言っただろう。


波風を立てず、現実的に、慎重に。




でも今は、その仮面がない。




「まず情報を集める」




凛は言った。




「この監獄の構造、人間関係、魔法の仕組み、その"暗号"の意味。全部把握してから、方法を考える。順番を間違えるな」




「じゃあ、する気はある?」




「…………」




凛は蒼汰を見た。




一つ年下の、知らない相棒。明るくて、直感型で、秘密を持っている少年。


「二千年破られていないなら」




凛はゆっくりと言った。




「最初に破るのが俺たちでも、おかしくはない」




蒼汰が笑った。今日初めて、本当に笑った顔を見た気がした。犬歯が見えた。




「それでいい。それで十分だ」




────────────────────────────────────




その夜、凛はもう一度壁の文字を確認しに行った。




 松明の光が届かない隅で、膝をついて、指で文字をなぞる。




 ─────────────


│子の壁を読める者へ。   │


│お前たちは呼ばれた。   │


│まず「沈黙の間」を探せ。 │


 ─────────────




誰が書いた。




いつ書いた。




何のために書いた。




問いは三つある。




今のところ答えは一つもない。




(それでいい。始まりはいつでも、問いだけだ)


凛は立ち上がった。




部屋の反対側で、蒼汰がすでに眠っていた。


寝顔は年相応に幼かった。




牢の鉄格子の向こう、廊下の端に松明が揺れている。




その向こうに、この監獄がある。


地下五階、地上七階。




二千年間、誰も出られなかった場所。




そして壁のどこかに、日本語で書かれた暗号が、まだ隠れているはずだった。


九条凛は、ここで「優等生」をやめた。




演じる必要がなくなったのではなく、ここでまで演じる気がなかった。




本当の自分——冷静で、反骨で、追い詰められると逆に研ぎ澄まされる


何か——が、静かに目を覚ましていた。




「まず"沈黙の間"を探す」




誰に言うでもなく、凛は呟いた。




それが、すべての始まりだった。




────────────────────────────────────


囚人番号34758、九条凛。冤罪。王族暗殺未遂および国家反逆罪。


刑期:審理待ち。黒鉄宮・第三棟・第十四号房。


建設から2001年目の、三月の夜明けのこと。


────────────────────────────────────

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