第4話「最初の蝶の羽ばたき」
辺境樹海・第三区画。四日間にわたる生態調査依頼の、最終日の遅い朝。
この区画は、他のエリアとは明らかに異質な、まとわりつくような重い空気を纏っている。数百年は余裕で生きているであろう巨大な古代樹が天を覆い尽くすように密集して生え誇り、その太い枝葉が太陽の光を完全に遮断しているため、真昼であっても不気味な薄暗さと、ひんやりとした冷気が常に支配していた。
「よし、あとこの付近にある三つのポイントで指定の薬草を採取できれば、無事に任務完了だ」
レイドが羊皮紙の地図に羽ペンで印をつけながら、大きく背伸びをして言った。
「おっしゃぁ! あとはさっさとこのカビ臭い陰気な森での作業を終わらせて、真っ直ぐに街の飯屋に直行だ! 帰ったら絶対に酒場の特大の『オーク肉のハンバーグ』を三つ食ってやるぜ!」
「あんたの頭打ちした人生と全ての思考は、最終的に食べ物と暴力にしか帰結しないのね。少しくらい森の自然の美しさとかを感じなさいよ」
リーネが呆れてため息をつきながらも、その口元には依頼達成間近の穏やかな笑みを浮かべている。
レイドは前を歩く、肩の力の抜けた二人の背中を静かに見つめた。絶対に守り抜きたい、大切で愛おしい日常が目の前で息づいている。
だが今日は、この「平和なギルド依頼の達成」というただ日常のイベントだけで、大人しく終わらせるわけにはいかなかった。
◇
調査は驚くほど順調に終わった。
それもそのはずだ。凶暴で危険な魔物たちの巣引きのパターンや、この森特有の不規則な天候の変化の全てを、レイドが『未来の五年間の知識』で完全に把握し、三人にとって絶対に安全な迂回ルートだけを選ばせて歩かせた完璧な結果なのだから。
全ての薬草を採取し、ガルドが「腹減ったー」と文句を言いながら、無事にブレンハイムへの帰路に着こうとした、まさにその時。
「……少し、予定を変更して寄り道するぞ」
先頭を歩いていたレイドの声が、まるで周囲の温度を数度下げたかのような、冷たい刃のような響きに唐突に変わった。
「寄り道ぃ? こんな暗くて何もねぇ森の奥で? それとも、金になる希少なキノコのエキスでも見つけたのか?」
ガルドがのんきに首を傾げる。
「いや、キノコ採りとかの生易しい話じゃない。どうしてもこの足で俺自身の目で確認して、見つけ次第ここで絶対に『潰しておきたい』ものがある。三十分、いや、長くても一時間で必ず済む」
「確認したいものってなんなのよ? あなた、朝からずっとその一点だけを気にして、わざとこの深い第三区画の奥の方へ誘導してきたわよね?」
「……この森のもっと奥、一番の最深部の方向から。ただの魔物の生息地とは明らかに違う、根源的にヤバくて、おぞましい『魔力の異常な気配』がプンプンするんだ」
「あなたねぇ……あなたは私と違って精霊術師でもないし、ただの剣士で魔力感知のスキル持ちでもないじゃない。そんな直感で適当なこと言って何言ってるの?」
「俺の、今まで一度も外れたことのない命を懸けた戦士の勘だ。……リーネ、事実として、この四日間の依頼中、俺が口にした指示と危険予測が外れたことは、ただの一度もなかっただろ?」
レイドの漆黒の瞳に宿る、決して妥協を許さない真剣な光に、リーネは反論の言葉を呑み込んだ。
ガルドが「まあ、今まであいつの言う通りにして全部上手くいってんだから、いいじゃねぇか、三十分くらい付き合ってやろうぜ」と大雑把に割って入り、リーネが深くため息をつきながら「はぁ……分かったわよ。でも、予定外の残業の罰として、今日の夕飯代のハンバーグの奢りはレイド、あんたの財布から三倍払ってもらうからね」と渋々妥協した。
レイドは未開拓の森の最深部へと、一切の迷いのない確固たる足取りで進み始めた。心臓が、ひどく嫌な冷や汗と共に危険を告げるように速く高鳴っていく。
向かう先にある「それ」の正体を、レイドは誰よりも深く、憎悪と共に知っている。
教団が極秘裏に大地の奥深くに仕掛けた、大地のマナを根こそぎ吸い上げる呪いの装置——『精霊汚染の苗床』だ。
もしこの巨大な悪意の塊をこの場で見逃し放置すれば、数ヶ月後にはエルフの隠れ里はマナの枯渇により完全に壊滅し、数え切れないほどのエルフが死に絶える。後の大切なレイドの仲間となるエルフの戦士・セレナとの、奇跡の出会いの場を守るためにも。今この瞬間に、誰の目にも触れない最速のタイミングで破壊しなければならない絶対の理由があった。
足元の泥が腐臭を帯びてきた二十分後。三人は視界が開けた、すり鉢状の不気味な巨大な窪地に出た。
かつて古代の神殿だったのか、朽ち果てて倒壊した石柱の中心に。直径三十センチほどの、漆黒に淀んだ球体が、何の手品もなくぽつんと空中に浮遊していた。
まるで巨大な魔物の心臓のようにドクン、ドクンと気味悪く脈動し、その球体を中心とした半径五メートルの地面の植生だけが、まるでそこだけ砂漠か地獄の入り口のように一瞬で枯れ果てて灰になっている。
大いなる大地の豊穣なマナを、ただ息をするように貪欲に吸い取って泥水へと変換する、まさに地獄を凝縮したような光景だった。
「なん、だこれ……すっげぇ気持ち悪い……見てるだけで吐き気がする……」
いつも強気なガルドの声が、本能的な恐怖でかすれた。
「凄いなんて次元じゃないわ……大地の魔力を直接強制的に食い殺して、猛毒の瘴気に変換してる……! これは自然発生のものじゃない、誰かが明確な悪意を持って作った『呪われた魔力兵器』よ!」
リーネが一歩後退り、その美しい顔を真っ青にして蒼白になる。
「——下がってろ。俺が今ここで、完全にぶっ壊すぞ」
「はぁッ!? 壊すってあんた、あんな得体のしれない呪いの塊、触れたら即死する罠が何重にも仕掛けられてあるかも分からないのに⁉」
「このまま誰にも気づかれずに放っておけば、この森全体の精霊が完全に死滅して、明日の朝には見渡す限りの死の灰の荒野に変わる。大丈夫だ、俺の剣を信じてくれ」
レイドは静止を振り切り、真っ向から黒い球体へと肉薄した。
死の枯渇領域に踏み込んだ瞬間、自身の体内の生命力が削り取られ吸い出されるような強烈な悪寒と喪失感に襲われる。だがレイドは、五年間で脳髄まで染み付いた痛みと恐怖への耐性でそれを完全に無視し、渾身の力を込めた上段からの剣の一撃を、球体の中心へ叩き込んだ。
ガガァァァァァァァァンッッ!!!
凄まじい金属の反発音。レイドの腕の骨が折れんばかりの衝撃で弾き返されるが、球体の表面には微かな白刃のかすり傷一つすらついていない。
「リーネ!! お前の風の魔法を巨大に練るな! 極小の針のように極限まで圧縮して一点突破の『風刃』を作れ! そして今、俺の剣が弾かれたのと全く同じ一点を正確に狙い撃て!! コンマ一秒もずらすな!」
「そんな高度な魔力操作、無茶言わないで……! でも、やってやるわよ!!『貫く風の牙』!!」
リーネの杖から放たれた、極限まで圧縮された高密度の見えない風の刃が、空気を切り裂いて球体を正確に直撃する。
レイドの物理的打撃の衝撃が残る地点と、リーネの風魔法によるミクロの切断の魔力が、全く同じ一点の座標に重なったその瞬間——ピシッ。
絶対に壊れないはずの黒い完璧な表面に、ごく微かな蜘蛛の巣のような白い亀裂がピキピキと走った。
「そこだガルドォッ! 今魔法が当たったその亀裂の中心に、お前のバカ力で大剣の腹を叩き落とせ!!」
「任せろォォッ!! 粉々に砕け散れェェェッ!!」
ガルドの百キロを超える全体重と、空高く跳躍した重力の全てを乗せた必殺の唐竹割りの一撃が、亀裂のピンポイントに向けて容赦なく叩き落とされた。
パァァァァァァァァァァンッ!!!
黒い球体が、薄い安物のガラスのように甲高い音を立てて完全に四散し、内部から圧縮されていたドロドロの暗紫色の瘴気が一気に噴き出す。
「すぐにそこから下がれ! 二人とも絶対に紫の粉を吸い込むな!」
三人が地面を転がるように飛び退き、マントで口元を覆い隠す。空気中に大量に拡散した瘴気は、上空へと漏れ出し、直射日光の太陽光の浄化の力を受けてジュワジュワと音を立てながら完全に消滅した。
「……ハァ、ハァ……終わった、のか。なんだよアレ、マジで生きた心地がしなかったぜ……」
ガルドが尻餅をつき、大汗をかきながら深い安堵の息を吐き出す。
すると、膝をついて肩で息をしていたリーネが。
ふいに立ち上がり、凍てつくような氷の追求の視線を、剣を鞘に収める背を向けたレイドへと真っ直ぐに向けた。
「レイド。あなた誤魔化したって無駄よ。最初から、あの気味の悪い呪いの装置が『ここにある』と、確信して知っていたわね。広大な森の中で迷いなく最短距離で辿り着き、絶対に初見では有り得ない完璧な迎撃の指示を出し、一歩間違えば全滅する防衛システムの突破方法まで完全にノータイムで把握していた。……私の中の全ての辻褄が合うわ。今度こそ、つまらない嘘だけは絶対につかないで」
嘘はつきたくない。俺はこいつらを心から信じている。
だが、教団の真の目的と、この世界の狂った破滅の未来の真実を今ここでそのまま話せば。まだ十七歳の、希望に満ちた未熟な彼らの善良な精神は、必ず恐怖で重く押し潰され、確実に壊れてしまう。
今はまだ、五年前の『ただの冒険者』の器でしかないのだから。
「……ああ、嘘はつかない。お前の言う通りだ。俺はあらかじめ、ここにある極秘の兵器の情報を独自のルートで掴んでいたし、絶対に俺たち三人なら手出し無用で壊せると、事前の壊し方も知っていた。……だが、その組織の背後関係の全貌は、まだお前たちを無用な大きな危険に巻き込むから話せない。今言えるたった一つの真実は、今日あのふざけた爆弾を壊さなければ、数万の『罪のない大勢の命』が確実に奪われていた。それだけだ。どうか、俺のことを信じてほしい」
リーネは瞬きもせずに、静かに熱く見つめ返すレイドの黒い瞳の奥を長く見つめていた。その瞳の中に、一切の私欲も嘘もない真実の響きを感じ取ったのか、やがて小さく、だが力強く頷いた。
「分かったわ。これ以上は今は追及しない。あなたが私に、安全に全て話せる日が来るまで、ちゃんと待っててあげる。私たちのリーダーだもの!
……ただし! 私たちの寿命をゴリゴリ削った迷惑料として、今日の夕飯の肉の奢りは、三倍じゃなくて『五倍』払ってもらうからね、覚悟しなさいよ!」
「ご、五倍⁉ いくらなんでもそんなの、俺の少ない財布の中身が今日で完全に破産して消滅するぞ!」
「ガハハハハッ! 街を救った英雄の飯は、英雄サイズの特大って相場が決まってんだろ、腹くくれレイド!」
いつもの、変わらない温かい日常の空気が戻った。二人が笑顔で小突いてくる。
だが、レイドの胸の奥には、決して彼らには見せることのできない、重く冷たい真っ黒な不安が大きく広がっていた。
——一周目の本来の歴史の歯車を、俺はこれで五年も前倒しで無理やりへし折ったのだ。
大いなる教団が今日のこの一つの『計画の致命的なほころび』に気づき、動き出せば。俺の五年間の過去の知識が全く通用しなくなる、血を吐くような『バタフライ・エフェクト』が確実に回り始める。
そのレイドの黒い懸念が、ただの杞憂などではなく。
すぐに現実の血に濡れた強大な刃の絶望となって現れることを——レイドが思い知るのは、帰り道の街道での数時間後に迫った、間もなくのことだった。




