第33話「悪党の最期」
ヴェイン伯爵の執務室の豪奢な両開きの扉を、ガルドが渾身の蹴りで蹴り破った。
分厚い樫の板が雷が落ちたような轟音を立てて二つに裂け、蝶番ごと部屋の奥へと吹き飛ぶ。
「失礼するぜ、悪徳貴族様!」
「お邪魔するわ。片付けの時間が終わるまで待てなくて」
土煙を突いて踏み込んだレイドたちの目に映ったのは、部屋の中央で暖炉の前にしゃがみ込み、大量の書類の束を次から次へと炎の中に放り込んでいる初老の男の姿だった。
ヴェイン伯爵。
先日のギルドの応接室で見せた優美で余裕に満ちた大貴族の態度は、もはや微塵も残っていなかった。
白髪交じりの髪を振り乱し、目は血走り、顔面は恐怖と怒りと焦燥で醜く歪んでいる。床には暖炉に入りきらなかった書類が散乱し、部屋中が焦げた羊皮紙の煙で白く霞んでいた。
「き、貴様ら……ッ! なぜ生きている! キメラはどうした!」
書類を握りしめたまま、伯爵が半狂乱の声で叫んだ。
レイドが剣先を床に遊ばせながら、冷たく笑う。
「悪かったな、お前のペットは俺たちが処分した。ついでに言うなら、お前が地下で飼っていた『苗床』の残骸のことも、教団との密書も、全て騎士団に提出済みだ。お前の邸宅の周りを今この瞬間に三百人の騎士が包囲しているのは、もう知ってるだろう?」
「な——っ」
伯爵の顔から、さぁっと血の気が引いていくのが見えた。
足元の高価な絨毯に、彼の額から流れ落ちた脂汗がぽたぽたと染みを作る。
屋敷の外では、今も騎士団と残りの私兵たちの激しい戦闘音が響き、窓の外には松明の炎が無数に揺れている。
もはや言い逃れも武力制圧も逃走も、全てが完全に不可能だ。彼がこの王都で数十年かけて築き上げてきた権力と名声と財産と人脈の全てが、一夜にして砂の城のように崩れ去ろうとしていた。
彼の目の色から、ただの恐怖ではなく、追い詰められた獣特有の「何をしでかすか分からない」狂気が垣間見える。
「貴様らのような……田舎の冒険者風情が! 余の、我々の偉大なる計画を打ち砕くと言うのか!」
伯爵が血走った目でレイドたちを睨みつけ、唾を飛ばして叫んだ。
その声には追い詰められた獣の悲痛さと、それでもなお人を見下すことをやめられない、歪んだ傲慢さが同居していた。
「偉大な計画の割には、こそこそと冒険者を騙して生贄にする小賢しい真似をしていたのね。その偉大な計画とやらで、何人の無辜の命を喰い潰してきたのかしら」
セレナが冷笑を浮かべ、銀 教団の魔力炉の『核』である黒い結晶を自らの胸に突き立て、伯爵は狂気の歩みで前に踏み出した。
その瞬間、彼の目は既に人間のものではなかった。探りのない漆黒と狂信の光が、眼球の全てを埋め尽くしている。
エルフの黄金の瞳は、一切の同情も容赦もなく、ただ害虫を駆除するような冷徹さで伯爵を射抜いている。
「もう逃げ場はねぇぞ。大人しくお縄を頂戴するんだな、クソ親父」
ガルドがずかずかと踏み入り、巨大な右手を伸ばして伯爵の襟首を掴み上げようとした。
リーネも杖を構え、拘束用の魔法陣の展開をいつでも放てるように待機している。
だが、その手が伯爵の喉元に届くコンマ数秒の直前。
「ふ、ふふ……アハハハハハッ!!」
突如、伯爵が壊れた機械のように狂った笑い声を上げた。
ヴェイン伯爵の執務室は、王都で最も豪華と謳われた部屋だった。
床から天井まで尾づく本棚には禇万冊の蔵書が並び、金の枠縁の絵画や古代の魔導器がそこら中に陽っていた。
重厚なマホガニー材の机の上には王家への上奠品と思しき宝石の山。その全てが、教団との裏取引で得られた汚い富の産物だ。
その豪華な部屋の中央で、伯爵は両膝をつき、ガタガタと震えていた。、部屋の空気を一瞬にして歪ませている。
レイドの脳裏に、一周目では見たことのない強烈な「予感」が走った。
「ガルド、下がれッ!!」
「えっ」
ガルドがレイドの絶叫に反応して後ろへ大きく跳んだ瞬間——伯爵の体が、まるで内側から別の何かが膨れ上がるように、異形の質量へと急速に膨張し始めた。
「余は……余は選ばれた存在だ! 『虚無の教団』の導師として、五柱の皆様にこの世界を捧げる栄誉を授かったのだッ!」
狂気の笑みと共に、伯爵の顔面から無数の黒い触手がぞぶりと突き出していく。
高級な絹の服が裂け、その下から人間のものではない灰色のぬめりとした皮膚が剥き出しになり、骨格が軋みながら人外の形に組み変わっていく。
人間の限界を超えた魔力の圧力が、執務室の空間そのものを物理的に歪め、壁に亀裂が走り天井から石の破片がバラバラと落ちてきた。
「……自分自身を教団の禁忌の秘術の生贄にして、魔力を暴走させる気か!?」
リーネが青ざめ、思わず一歩後退った。
「儀式は、すでに始まっている……! キメラなど単なる前座に過ぎんのだ! あの方々が、この愚かな世界を完全なる『無』に還すのだ! ハハハハハハ!!」
伯爵の絶叫と同時に、彼の人だった身体が限界まで膨れ上がり——。
閃光。
内側から弾け飛ぶような爆発が起きた。
鼓膜を破るような轟音が屋敷全体を揺るがし、執務室の壁が四方に吹き飛んで、衝撃波が夜空に向かって垂直に噴き上がった。
「……くっ、防御陣形!」
レイドの指示で、三人がガルドの大盾の背後に身を寄せる。
リーネの風の結界が、飛び散る肉片と黒い魔力の波動を弾き飛ばした。
結界に叩きつけられる衝撃で、リーネの腕がビリビリと痺れる。
「……何よ、あれ。死に際にしては、あまりにも……」
爆発が収まり、セレナが顔を上げて眉をひそめた。
執務室は跡形もなく吹き飛び、天井にはぽっかりと王都の夜空が見える大穴が開いていた。
伯爵の身体は、黒い肉片と瘴気の残滓だけを残して完全に消滅している。
だが、真の異変は伯爵の自爆そのものではなかった。
それは始まりに過ぎなかった。
レイドが天井の穴から夜空を見上げた時、背筋に特大の氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
五年間の地獄を生き抜いてきた戦士の本能が、全身の毛穴を逆立たせて絶叫している。
「おい、レイド。あれ……何だ?」
ガルドが震える指で空を指差した。
王都アロリアの美しい星空。
その中央に、まるで空間そのものを引き裂いたように、巨大な「黒い亀裂」が出現していた。
亀裂の縁からは、見る者の正気を削り取るような濃密な瘴気がチロチロと漏れ出し、周囲の星々の光を飲み込んでいる。
『——儀式は、すでに始まっている』
伯爵の最期の言葉が、レイドの脳裏で嫌な響きを持って木霊した。
一周目。
黒幕である『虚無の教団』の最高幹部たち「五柱」が本格的に動き出したのは、王都の罠からさらに半年以上も後のことだった。
(歴史が、変わった代償……!)
レイドの歯の根が合わなくなる。
亀裂から漏れ出す魔力は、周囲の空気を物理的に凍りつかせるほどの絶望的な密度を持っていた。
ドクン、ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
ガルドの死を強引に回避し、歴史を大きく捻じ曲げた結果。
最悪の敵が、最悪のタイミングで、前倒しで顕現しようとしていた。




