第29話「代償」
王都アロリアの空は、三日三晩、重い鉛色の雲に覆われ続けていた。
窓の外では冷たい雨が止むことなく石畳を叩き、王都のいつもは賑やかな街並みも、どこか息を潜めるように静まり返っている。
王城の最も奥深くに位置する「王宮第一治癒院」の特別監視室。
大理石の壁と天井に囲まれた広大な個室には、王族の紋章が刻まれた高級な調度品が並んでいるが、今はただ消毒液と薬草の匂いだけが空気を支配していた。
セレナが異端審問機関に提出した『教団の密書』の重要性と、アーロン支部長のコネクションを行使し、特例でこの国家最高峰の施設に担ぎ込まれたレイドは、部屋の中央の純白のベッドに枯れ木のように横たわっていた。
裂けた胸と腹の致命傷からは、セレナの決死の浄化魔法で教団の黒い呪いは完全に抜けきっており、十人以上の最高位の治癒術師たちの文字通り不眠不休の交代制の魔力注入処置によって、かろうじて薄氷を踏むようなバランスで一命を取り留めていた。
だが、三日が経った今もレイドの意識は深い泥の底に沈んだまま、戻る気配を見せなかった。
病室の壁際で太い腕を組んで目を閉じるガルド。首と折れた左腕には分厚い包帯と石膏が巻かれている。三日間、食事もほとんど摂らず、この場を一歩も離れようとしない。
窓辺にはセレナが一睡もせずに椅子に座り、外の雨の景色を金色の瞳で静かに睨みつけていた。エルフの長い寿命を持つ彼女でさえ、この三日間の長さは永遠に感じられたに違いない。
レイドのベッドの傍らでは、リーネが彼のかすかに温かい右手を両手で包み込んで額に押し当て、無言の祈りを捧げ続けていた。彼女の白い魔術師のローブには三日前の血の染みがまだ落としきれずに残っている。
「——……」
レイドの意識が、冷たく暗い深海の底から、微かな光に引かれるようにゆっくりと浮上してきた。
全身が溶けた鉛のように重い。ひと息吸うたびに、胸の奥で焦け火笸のような痛みが走る。
指先の感覚がほとんどない。耳の奥で遠い波のような音が響き、意識がまだ泥水の中を泳いでいるかのようだ。
だが、それでも重い瞼はゆっくりと開いた。
「……ん」
「っ、レイド!?」
掠れた声と同時に、リーネが弾かれたように顔を上げた。
三日間泣き続けた瞳は真っ赤に腫れ、目の下に濃い隈ができていた。
リーネの声に反応し、ガルドとセレナもすぐにベッドを囲んだ。
「レイド! 気がついたのかお前! 俺の声が分かるか!?」
「ちょっとガルド、大声出さないで! まだ混濁してるかもしれないんだから!」
「お、おお、そうだな……すまん」
ガルドが巨体を小さく縮め、申し訳なさそうに謝った。
いつもと変わらない声と、リーネの手の温かさが、レイドを「現実の今日」へと引き戻した。
「……ここは、どこだ。……何日経った」
「王宮の第一治癒院よ。三日間も眠りっぱなし。あなたが英雄気取りで無茶苦茶な死に方をしたせいで、教団絡みの大事件として王都中の騎士団やギルドが巻き込まれて、とんでもない大騒ぎになったんだから。感謝しなさい」
セレナがいつも通りの皮肉めいたトーンで説明した。だが、その金色の瞳には安堵の光が揺れていた。
レイドは首だけを動かし、三人の顔と身体を順番に確認した。
ガルドは重いギプスをしているが顔色は悪くない。リーネもセレナも、かすり傷一つない。
誰も、一人の欠損も死者もいない。
「……お前たち、無事だったのか。よかった……」
「無事なわけないでしょ!!」
唐突に、リーネがレイドの胸ぐらを掴もうとして——その下の包帯に気付き思いとどまり、代わりにシーツをちぎれるほど強く握りしめた。
「あなた……自分が何をしたか分かってるの……? 王宮の先生たちが言っていたわよ! 普通なら即死の傷だったって! 胸の骨が全部砕けて、内臓まで灼かれて……浄化が少しでも遅れたら絶対に死んでたって……っ!!」
リーネの声が震え、抑えきれない嗚咽と共に大粒の涙がレイドの手の甲に落ちる。
「そうだぞレイド……。俺の前にしゃしゃり出て、俺を庇うなんて……お前らしくねぇ真似しやがって。俺のパーティーでの役割は、お前の前で絶対に抜かれない『盾』になることだろ……なんでお前が血塗れになってんだよ!!」
ガルドの低い震え声にも、レイドの無茶への怒りと自分の無力感への悔しさが滲んでいた。
「……あそこで俺が飛び込まなきゃ、お前は確実に魔力弾の直撃で盾ごと粉々に吹き飛んで死んでた。それだけのことだ」
「結果論だろ! もしそうだったとして、あんな一瞬の迷いもなく生身で死の弾丸に飛び込むなんて、いつも冷静で策士ぶりやがってたお前の行動パターンからは絶対に考えられねぇんだよ!」
ガルドの怒声は、秘密を隠された怒りよりも、「なぜ自分の代わりに死のうとするのか」という、レイドへの純粋な悲痛さが滲んでいた。
——直感や勘ではない。
俺は「最悪の結果」を完璧に知っていたからこそ飛び込んだのだ。
あの一万分の一秒の先で、ガルドが確実に死ぬという『五年前の絶対の記憶』があったから。
「……それにあなたの不自然な行動は、それだけじゃないわ」
セレナが氷のように冷たく口を開いた。
「レイド。あなたは伯爵の屋敷に潜入する前に『証拠を見つけて依頼を白紙化する』と言っていたわね。なのに、宿の部屋で二人が遺跡に向かったメモを見た時……一切の状況確認もせず、遺跡の最下層へ一直線に向かえたのはなぜ?」
「えっ?」リーネが涙声のまま振り返る。
「あなたはあの偽の伝令の存在すら知らなかったはず。にも関わらず、メモを見た時『やっぱり前倒しになったか』というような……最下層でガルドたちが教団の罠で死ぬ危険があることを、初めから知っていたかのような顔をしたわ。そうでしょう?」
セレナの鋭い指摘が、病室の空気を絶対零度へ凍りつかせた。
「レイド、あんた……最初から、遺跡の奥にどんなバケモノの罠があるか全て知ってて黙ってたってのか?」ガルドが太い眉根を寄せる。
「……」
「答えなさい、レイド」リーネの声が氷の剣のように冷たくなった。「あなたの場当たり的な『勘』とか『直感が冴えてた』なんていう三流の嘘にはもう絶対に騙されない。あなた、本当は何者なの? どうしていつも『私たちの危機という未来』を完璧に知っているの?」
逃げ場は、もうどこにもなかった。
ここで「俺の勘が冴えすぎていた」などと同じ三流の嘘で誤魔化せば、あの五年間よりも深く決定的に、パーティーの信頼関係が根底から崩壊してしまう。
彼らはもう明確に気付いている。レイドが何か絶望的な秘密を抱え、いつでも一人で死のうとしている破綻した人間であることに。
レイドは白い天井を見上げ、長い諦めの息を吐き出した。
「……分かった。お前たちには、ある程度の全てを、正直に話す」
嘘だった。
五年間の死闘の記憶、自分だけが過去へ『死に戻り』を果たしたという真実など、絶対に全てを語るわけにはいかない。
それでも、彼らが納得しこの先も共闘できるだけの「都合の良い嘘の真実」を、今ここで完璧に構築しなければならない。
レイドは激痛の走る身体を少しだけ起こし、覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。




