第28話「盾の前の盾」
レイドの生身の肉体に、キメラの漆黒の黒炎の熱波と桁外れの魔力衝撃波が、一切の減衰を許されず真正面から直撃した。
バヂィィィィンッ!!!
五感の全てが白く焼き切れ、思考が白濁する。
呼吸ができず、胸郭と内臓が巨大なハンマーで直接打たれたような激痛が全身を貫いた。
「ガハッ……ッ!?」
口から大量の赤黒い血が噴き出し、レイドの身体は防具の破片と共に高く舞い上がり、リーネのすぐ横の石畳にドサリと叩きつけられた。
「レ、レイドォォォォォッ!!」
横たわるガルドの絶望の咆哮が広場に木霊した。
折れた左腕の痛みに顔を歪めながら、血走った目から涙を流し、倒れ伏したレイドへ右手を泥を這うように伸ばす。
「レイド、おい嘘だろ……!? なんで……レイドッッ!!」
回復魔法を唱えていたリーネが杖を取り落とし、半狂乱で焼け焦げたレイドの身体にすがりついて泣き叫んだ。
レイドの胸部装甲は砕け散り、焦げた胸と腹からとめどなく鮮血が溢れ出している。
火傷と裂傷は致命的に深く、内臓にまで達しようとしていた。
「リー、ネ……泣くな……よ……お前、すぐ……ピーピー泣くから……」
気管に血の塊を詰まらせ、ゴボリと音を立てながら、レイドはか細い声を絞り出した。
意識が暗い水底へ遠のいていき、ぼやけていく視界の端で、無傷のリーネと絶望に歪むガルドの姿を捉える。
(——守れた。今回は……今度こそ、ちゃんと俺の届く距離で守れた)
五年間、何千回と繰り返し見た悪夢の光景。ガルドの巨体が魔獣の牙の前で崩れ落ち、リーネが血の海で泣き叫ぶ。あの最悪の結末を、俺の命を物理的な壁にして塗り替えた。
一周目の最悪の歴史を、この身体一つで上書きした。
ガルドは死ななかった。リーネも、仲間を失って絶望で終わらなかった。
誰一人、俺の仲間はここに欠けていない。
これで、いいんだ。
自分のこの命なんか、五年間の絶望ですり減って消え失せていたただの余り物だ。
この仲間が笑顔で明日を迎えられるなら、こんな腹の一つや二つ、安い代償だ。
「馬鹿野郎がァァァッ!! なんでお前が前に出るんだよっ! ここは俺の役割だろ!!」
ガルドが砕けた大盾の破片を握り、折れた左腕の激痛を無視して激昂し、血の色の涙をボロボロ流しながら床を叩いた。
「レイド! 絶対に死ぬな! お願いだから私を置いて死なないで!! 大いなる癒やしの光よ——彼の傷を塞いでっ……!」
リーネの震える両手がレイドの胸に当てられ、魔力枯渇の気絶寸前になりながらも治癒魔法の光を紡ぎ続ける。
その凄惨な光景を。
少し離れた瓦礫の陰から、セレナはエルフの長い生涯で一度も感じたことのないほどの、ドス黒く冷たい『極大の怒り』の瞳で見つめていた。
無意識のうちに、三本の白銀の剛矢を引き抜き、弓の弦に番える。
ギギギィィッ……。弓自体が弾け飛ぶ限界まで弦が引き絞られた。
「——ゴミ屑が。絶対に肉の一片たりともこの世に残さない」
セレナの声は、氷の剣で喉を鳴らすような絶対零度の殺意に満ちていた。
パーティーに加わってまだ日が浅いはずの彼女が、なぜここまでの激情を見せるのか——それは、レイドという人間が持つ「不器用な優しさ」が、ティルナノグの森から出てきたばかりの彼女の心に、思いのほか深く根を張っていたからだった。
放たれた三本の矢は注意を引く牽制などではなかった。
音より早く到達した矢は、キメラの獅子と山羊の両目を完全に破壊し、同時に毒蛇の口内の脳髄を後頭部まで貫いて縫い留めた。
ガァァアアアァァァァッ!!!
視界と脳神経を奪われたキメラが狂乱し、壁にぶつかりながら醜くのたうち回る。
その一瞬の決定的な「隙」を。前衛の盾と後衛の魔術師は逃さなかった。
「てめぇえええええええええ狂獣ッ!!」
ガルドが、折れた左腕の激痛をアドレナリンでねじ伏せ、砕けた大盾の残骸を右手一本で持ち直した。
全身の筋肉が異様にパンプアップし、のたうつキメラを悪鬼のように睨みつける。
「俺の大事なダチの前でデカい顔してんじゃねぇ!! ぶち殺してやるッ!!」
渾身のシールドバッシュ。命そのもの、全生命力の突進だった。
隕石衝突のような爆音と共に、割れた大盾の先端がキメラの右前脚の関節に激突し、太い大腿骨を粉砕した。
支えを失ったキメラが横向きに倒れ込む。
「大いなる風よッ! その首を断ち斬れェェッ!!」
リーネが杖すら持たない両手で、無詠唱の極大の真空刃を放った。
怒りと絶望で暴走寸前まで膨れ上がった魔力回路が紡ぎ出した風の大刃は、大気の摩擦で緑のプラズマ色に輝き、数メートルもの断頭台の凶刃となって現出した。
ズパァァァァンッッ!!!
極大の風の刃は、横転して無防備になったキメラの山羊と獅子の巨大な首を、胴体の根本から二つまとめて綺麗に切断した。
断末魔と共に首を失った胴体が痙攣し、切断面から黒い血と瘴気を噴き出す。
そこへセレナが無慈悲にトドメの矢を二本撃ち込み、脳幹を完全に消滅させた。
魔獣が沈黙した。
教団の黒い魔力が霧散し、遺跡の最下層に静寂が戻る。
「レイドッ……!」
キメラの絶命を確認するより早く、 ガルドが焼け爛れた大盾をガタンと下ろし、血と汗にまみれた傷だらけの顔で、それでも豪快に歯を見せて笑った。
セレナが弓の弦を緩め、酸欠のように肺の底から長い息を吐き出し、崩れるようにしゃがみ込んだ。弓を持つ手がまだ微かに震えている。
リーネがボロボロの杖を取り落とし、膝が折れてその場にへたり込んで、安堵の涙を袖でぐしゃぐしゃに拭った。
三人は、それぞれのやり方で、死闘の終わりと、そしてレイドの無事(ではないが、まだ生きていること)を噛み締めていた。
しかし、安堵は一瞬で打ち破られる。
「酷い傷だわ……。リーネ、治癒の魔力をレイドの胸の傷口だけに集中させなさい!」
「分かってる……でも! 黒い炎の呪いのせいで、傷口が回復魔力を弾いてしまうのよ……!」
キメラの魔力弾に含まれる教団の『虚無の呪い』が、通常の治癒を妨害していたのだ。
「——そこを退いて」
セレナが震えるリーネを押しのけ、レイドの胸の傷口に両手を当てた。
掌の奥から、ティルナノグの聖樹から授かった純白の精霊の光が発せられた。エルフの王族に近い者だけが操れる浄化魔法。
ジュウウ、と黒い魔力の残滓が白煙を上げて浄化されていく。
傷口が綺麗な血の色に戻り、リーネの治癒魔法が浸透し始め、出血が弱まった。
「よしっ! でも血を流しすぎてるし内臓もマズいわ! ガルド、レイドを背負って! 王都の治癒院に入れなきゃ長持ちしない!」
「おうっ!!」
ガルドが折れた腕の痛みに堪えながら、レイドを広い背中に力強く担ぎ上げた。
「……ガ、ルド……おもてぇぞ、お前……」
意識の混濁の中で、虫の息でレイドが呟く。
「喋んなこの大馬鹿野郎!! お前が盾の前に出てくんじゃねぇ! 死ぬなよ、絶対に間に合わせるから!!」
「俺、の……代わりに、死ぬなよ……お前ら……」
一周目で言い残せなかった言葉を吐き出すように。
レイドはそれだけを言い残し、ガクンと全身の力を抜いて深い暗闇へ意識を手放した。
「レイドォォォォッ!! 目を開けろォォッ!!」
夜明け前の遺跡に、ガルドの涙声の魂の咆哮が、どこまでも高く響き渡っていった。




