第27話「見覚えのある死地」
最下層の巨大な広場は、たった一撃で圧倒的な蹂躙の痕跡に満たされていた。
石造りの床はクレーターのように砕け散り、壁には巨大な爪痕が無数に刻まれている。天井から落ちてきた大小の岩が散乱し、空気中には濃い土煙とキメラの肉体から立ち昇る獣臭い瘴気が充満していた。
古代の冷たい青白い照明が破壊されたのか、広場の半分は闇に沈み、残り半分だけが壁面の苔の明滅する光でぼんやりと照らされている。
そして、その惨状の中心に『暴食の王』が絶対の支配者として悠然と君臨していた。
三つの頭が低く唸りを上げるたびに、空気そのものが震え、遺跡全体が呻くような地鳴りが走る。
「ガルド! しっかりして! 大いなる癒しの風よ、彼の命を繋ぎ止めて……っ!」
壁際まで弾き飛ばされたガルドの傍らで、リーネが両膝をつき、泣き叫びながら最高位の治癒魔法をかけ続けていた。
ガルドの重鋼鉄の大盾は中央から無惨にひび割れ、左腕はあり得ない方向に垂れ下がり、口の端から赤黒い血が流れ落ちていた。
「へへ……。悪い、リーネ。……俺の腕力より、あのでけえ化け猫の方が……ちょっとばかす重かったみたいだわ……」
「馬鹿なこと言ってないで! 目を閉じないで、起きて……っ」
リーネの瞳から大粒の涙がこぼれ、ガルドの血濡れた胸当てを濡らしていく。
入り口から飛び込んだレイドの網膜に、その光景が五年間忘れたことのなかった一周目の記憶と寸分違わず重なって突き刺さった。
あの日もガルドはこうして俺たちを庇い、盾ごとへし折られ、最後は魔獣の腹に収まったのだ。
キメラが獲物を見下ろすように低く喉を鳴らし、一歩前へ踏み出した。
獅子の頭が大口を開け、鋭い牙の間から『虚無の黒い魔力の炎』が涎のように漏れ出して床を溶かしている。
三つの頭の標的は、動けないガルドと彼を守ろうとするリーネだった。
殺される。
「——させるかアアァァァァァァッ!!」
レイドが声帯が裂けるほどの絶叫を上げて広場の中央へ飛び込んだ。
「レイドッ!?」
「お前……!? なんでここに……!」
突然のレイドの登場に、最期の覚悟を決めていた二人が驚愕に目を見開く。
リーネの涙で歪んだ瞳に、信じられないという光が灯った。ガルドも、壁に背を預けたまま目を大きく見開いている。
だがレイドは二人の無事を確認しただけで一切目もくれず、キメラの死角となる山羊の胴体の側面へ猛スピードで回り込んだ。
振り返る余裕はない。一秒でも遅れれば、一周目と同じ結末が待っている。
「こっちを向け! てめぇのご馳走はここにあるぞ、化け物がッ!」
キメラの脇腹に、レイドの全身のバネを乗せた渾身の斬撃が叩き込まれる。
ガキィィッ! ミスリルの刃ですら鋼のような皮膚に数センチしか食い込まない。
だが、キメラの注意をこちらへ惹きつけるには十分だった。
グルルルルルォォォォォッ!
キメラが激昂して、獅子の頭がレイドの方へ振り向く。
同時に、蛇の尾がレイドの首筋を正確に狙って襲いかかってきた。
「シッ!」
闇を切り裂く銀光。
入り口から滑り込んだセレナが、着地と同時に放った三本の矢が、蛇の頭の両目と鼻先を同時に射抜いた。
遺跡の入り口からここまで全力疾走してきたはずのエルフの射手は、息ひとつ乱していなかった。
蛇が激痛に身悶え、レイドの首を狙った凶牙が虚空へと逸れる。
「遅れてごめんなさい、二人とも!」
セレナが瓦礫の陰へ滑り込み、三本の矢を番えながら叫んだ。
「セレナさんも……っ! どうしてお二人がここに!?」
「あなたたちが大貴族にまんまと騙されて殺されそうになってるのを、この野生の勘だけが取り柄のリーダーが全力で止めに走ってきたのよ!」
セレナの言葉に、リーネの震えていた体に一筋の希望の火が灯った。
レイドは圧倒的な質量のキメラと真っ向から対峙した。
(冷静になれ。焦るな。心臓の動悸を抑えろ)
長剣を中段に構え、肺の空気を深く吐き出した。
この魔獣の基本ステータスと攻撃パターンは、一周目の記憶と教団拠点での資料収集で完全に叩き込んでいる。
右前脚の物理攻撃、獅子の黒炎の魔力弾、蛇の尾の拘束。
唯一の隙は、魔力弾を吐いた直後の『首元の逆鱗』の一点。
「セレナ! 獅子の左目と鼻を狙い続けろ! 視界の処理能力を塞げ!」
「任せて!」
「リーネ!!」
「れ、レイド……」
「泣くのをやめろ!! ガルドの止血と回復を最優先で急げ! あいつの頑丈な盾が再び立ち上がらなきゃ、俺たち全員ここで死ぬぞ!!」
レイドの容赦のない檄に、リーネはビクッと肩を震わせ、強く唇を噛み締めて涙を袖で拭い去った。
「……分かったわ……! 多重障壁と最高位の治癒、同時に全開で回すわ!」
よし、とレイドは口内で血の味を感じながら呟いた。
陣形の役割は立て直せる。まだ誰も死んでいない。
キメラが深く前傾し、山のような右前肢を高く振り上げた。
馬車一台分の剛腕が、レイドを叩き潰そうと落ちてくる。
(モーションがデカすぎる。全部読めてる——!)
最小限のバックステップで必殺の落下地点から右へ逃れる。
ドゴォォォンッ!!
石畳が爆散し、破片がレイドの頬と肩を掠めるが致命傷にはならない。
体勢を崩したキメラの懐に潜り込み、前肢の関節の柔らかい皮膚を狙って長剣を深く突き立てた。
グギャアアアッ!
怒り狂った獅子の頭が横から食らいついてきた。
だがその凶牙が届くコンマ数秒前に、セレナの銀の矢が獅子の左目に深々と突き刺さった。
獅子が狂乱して空を仰け反り、喉の奥に黒い魔力が凄まじい勢いで収束していく。
(来る! 全方位の魔力弾爆撃だ!)
「セレナ、瓦礫に隠れて完全回避だ!!」
キメラの口から漆黒の火炎弾が全方位に乱れ飛んだ。
レイドは長剣を盾に躱し、セレナも石柱の瓦礫の裏へ飛び込む。
火炎弾が闘技場の床や壁に直撃し、巨大な爆発を連続して起こしていく。
回避は完璧だった。二人ともかすり傷一つない。
——だがその直後。
レイドの瞳孔が極限まで収縮した。
最も巨大で高密度の暗黒の塊が、真っ直ぐに——身動きが取れないガルドと、治癒を強行しているリーネの二人の頭上に向かって、音もなく落ちていたのだ。
「しまっ——!!」
距離が離れすぎている。セレナの矢でも間に合わない。リーネの結界ではあの魔力塊を防ぎきれない。
このままでは二人が確実に灰になって死ぬ。
——その瞬間。未来の知識も計算も、レイドの頭から消し飛んだ。
ただ「俺の仲間を二度と失わせない」という五年間で純化された『絶対防衛の本能』だけが、レイドの身体を弾丸の落下地点へ猛烈な速度で弾き飛ばしていた。
黒い火炎弾が、リーネに着弾するコンマ一秒前。
レイドは、絶望の目を見開くリーネとガルドの真正面に——。
防御魔法も大盾も何一つ持たない生身の身体で。
二人を覆い隠すように、両手を大きく広げて壁のように立ち塞がった。
「——レイドッ!?!?」
背後でリーネの絶望の悲鳴が聞こえた。
直後。
全てを焼き尽くす黒い劫火と桁外れの魔力爆発が、レイドの無防備な全身を、真正面から無慈悲に殴りつけた。




