第2話「もう一度、この道を」
冒険者ギルド・ブレンハイム支部は、朝一番から独特のむせ返るような熱気に満ちていた。
太い丸太の柱で支えられた広大な木造りのホールには、安宿から出てきた若い冒険者たちの汗の匂いと、朝から飲まれる安いエール酒のツンとした匂いが混ざり合って充満している。横長の分厚いオーク材のカウンターの前には、少しでも割の良い安全な依頼を我先にと奪い合う血気盛んな冒険者たちが、怒号を飛ばしながら何重もの人だかりを作っていた。
レイドは、軋むギルドの重い木製の扉を両手で押し開けて内部へ足を踏み入れながら、その喧しいほど活気に満ちた光景を、まるであふれ出る宝物を一つ一つ確認するように、深く噛み締めるように見つめていた。
五年後。世界を飲み込む絶望の大侵攻が始まった際、ここにいる彼ら名もなき冒険者たちは皆、愛する街を守る最後の防波堤となって誇り高く武器を取り、圧倒的なレベル差の化け物たちの前に次々と惨たらしく命を散らすことになる。レイドの手の届かないところで、永遠に失われたと思っていた眩しい日常の景色が、今、息遣いと共に目の前にあった。
「おっす! レイドにガルド! おはよう! 今日は昨日に比べてずいぶん早かったわね!」
むさ苦しい男たちの喧騒を心地よく切り裂くように、鈴を転がすような明るく澄んだ声が響いた。カウンターの一番はずれから、銀の髪飾りを揺らした小柄な少女が、満面の笑みでこちらに大きく手を振っている。
リーネ・ファルシア。レイドとガルドの大切な幼馴染であり、天性の緻密な魔力コントロール術を持つ優秀な魔法使い。大雑把なレイドたちに代わり、パーティーの細かな依頼管理や厳しい家計のやりくりを一手に引き受けてくれる、俺たちの本物の生命線だ。
彼女の屈託のない笑顔を直接見た瞬間。レイドの脳裏に、五年後の最期の戦場で見たリーネの顔が残酷にフラッシュバックした。泥と黒い魔血に沈み、本来の輝きを失った銀髪。腹部に致命傷となる大穴を穿たれ、大量の血を吐きながらも、泣き顔のレイドに向けて最後まで優しく微笑んだ『また、平和な世界で会えたら——』という最期の言葉。
目の前で手を振る「生きた彼女」と、記憶の中の「死にゆく彼女」が二重のレイヤーのように重なり合い、レイドの呼吸が発作のように浅く、荒くなる。
「レイド? 急に立ち止まって、ぼんやりしてどうかしたの? まさか立ったまま寝ぼけてるんじゃないでしょうね?」
「いや——なんでもない。おはよう、リーネ。今日も元気そうでよかった」
レイドは胸の奥から激しくせり上がる熱い塊を必死に飲み込み、五年間の死線で身につけた完璧なポーカーフェイスで平静を装った。
「顔色すごく悪いわよ。目の下にも薄っすらクマがあるし。さては朝ご飯、ちゃんと食べてこなかったわね? 胃袋が空っぽだと魔法も剣も力が入らないわよ」
「俺が顔を洗って着替えてる隙に、横にいるこのデカい馬鹿が、俺の分のベーコンと卵までペロリと平らげたからな」
「食ったんじゃねぇって! お前がいつまでも窓の外見てぼーっとしてたから、冷める前に俺の温かい胃袋の中で休ませてやっただけだ! 感謝しろ!」
ガルドが両手を広げて胸を張りながら憤慨し、リーネが「あんたの胃袋は無限に吸い込む底なし沼ね。食費がいくらあっても足りないわ」と深く呆れる。
いつもの、取るに足らない、全く変わらない日常のやり取りだった。
たったそれだけのことが、今のレイドにとっては奇跡のように愛おしく感じられた。
◇
「よし、今日の依頼はこれにしよう。『辺境樹海 第一層の生態調査依頼』。推奨ランクはD級以上で、三種類の指定の薬草の採取と、魔物の生息分布の簡単な報告ね。報酬もゴブリン退治よりずっといいわ」
ギルドの端にある丸テーブルで、三人が羊皮紙の依頼書を覗き込んでいた。
レイドはこの依頼の顛末のことを、嫌というほど鮮明に覚えている。森の中でどのポイントでどんな魔物に遭遇するのか、急な天候の変化のタイミング、帰り道で犯す致命的な怪我の失敗さえも。
「よし、受けよう。だが……目的地への進行ルートを大幅に変更する。南の整備された正規ルートじゃなく、大きく迂回して北回りの荒れた獣道から入るぞ」
指で地図をなぞったレイドの言葉に、ガルドとリーネが面食らった顔で顔を見合わせた。
「北回りの獣道なんて、道も足元も全然整備されてなくて歩きにくいのに。なんでわざわざそんな遠回りを?」
「南側の街道沿いには、今のこの初夏の時期、強烈な麻痺の猛毒を持つ『ツタバチ』が大量にコロニーを作って巣を張っている。あいつらの見えない縄張りに不用意に突っ込んだら、動きの遅いガルドのデカい図体なんか、数分で鎧の隙間を刺されて蜂の巣だぞ」
一周目の歴史では、何の知識もない俺たちは実際に南側のルートに意気揚々と突っ込み、怒り狂ったツタバチの大群の急襲を受けた。その結果、レイドを庇ったガルドの顔がパンパンに人間辞めたレベルに腫れ上がり、三日三晩高熱とのたうち回る最悪の事態になったのだ。
「ツタバチ⁉ おいおい、そんな危険な情報、ギルドの受付嬢からも他の先輩の誰からも聞いてねぇぞ!」
「俺は知ってるんだ。お前が毒蜂に顔のあちこちを刺されて、誰か分からないくらい顔の原型がなくなる情けない姿は見たくないからな」
「なんでお前、すでにその俺の無惨な顔を間近で見たことがあるみたいにリアルに言うんだよ⁉ 怖いだろ!」
レイドは蜂の異常繁殖の生態パターンと、今年の季節の異常な湿度の変化を絡めた極めて専門的で説得力のある説明で、なんとか強引に二人を丸め込みルート変更に承諾させた。
「あともう一つ。ガルド。お前のその大盾の裏側にある、左腕を固定して通す太い皮のベルト。一番下の根本の金具の付け根部分が、激しく摩耗して深くひび割れてる。出発前に鍛冶屋に寄って必ず新品に交換してこい。戦闘中に敵の重い一撃を受けてベルトが切れたら、大盾が顔面に跳ね返ってきて大怪我するぞ」
一周目では実際に、ウルフとの戦闘中にその劣化したベルトがブチ切れ、バランスを崩したガルドが脇腹にウルフの爪の深手を負ってしまい、一ヶ月近くもパーティーの活動が停滞する羽目になった。
「え? 確かに昨日、盾の手入れしてた時にちょっと亀裂が気になったんだけど……俺の盾の裏側なんて、お前いつそんな細かく確認したんだ?」
「レイド……あなた、昨日までと全然雰囲気が違うし、大雑把だったのに言うことがいちいち的確すぎるわ。寝てる間に預言の神様でも降りてきたの? それとも頭打った?」
「……今日はやけに頭が冴え渡ってるだけだ。ベルトの交換が終わったら、十時に西門集合だ。遅れるなよ」
◇
辺境樹海。北回りの未整備の獣道。
深い緑の厚い苔と、巨大なシダ植物に覆われた薄暗い原生林の中を、三人はレイドを先頭にして油断なく列を乱さず進んでいた。
「確かにこっちは歩きにくいが、恐ろしく静かだな。蜂の嫌な羽音一つしねぇ」
「だろう。俺の言った通りだ。足元のぬかるみにだけ気をつけろ」
「いつの間にそんな森に詳しい博識キャラになったんだよ、お前」
くだらない軽口を叩き合っていた、まさにその時だった。レイドの全身が一瞬にして極限の警戒態勢を取り、足がピタリと止まった。
前方二十メートル先の、日の当たらない深く暗い茂みの奥から。微かな、だが確かな地を這うような低い獣の唸り声。
「——来るぞ。武器を構えろ」
レイドの冷ややかな氷の声と同時に、腰の長剣がチリッという微かな音と共に音もなく鞘走る。
巨大なシダの群生を強引に押し割って、人間ほどの大きさを持つ凶暴な森の獣——『フォレストウルフ』が牙を剥き出しにして飛び出してきた。
ウルフは前衛で盾を構えたガルドをあえて大きく飛び越え、明らかに防御の薄い後衛のリーネに向かって大口を開けて一直線に襲いかかる。
だが——レイドの五年間の地獄で極限まで研ぎ澄まされた目は、ウルフの着地地点から跳躍の軌道に至るまで、全てを完全に先読みしていた。教団の放つ異形のバケモノたちとの狂った死線に比べれば、ただ本能のままに動く森の狼の動きなど、彼にとっては空中で完全に静止して見えるほど遅く、単調だった。
「ガルド、右に三歩退がって俺の射線を空けろ! リーネ、俺の背中越しにお前のその場で『風刃』を敵の着地点に撃ち放て!」
「は、はいっ!」
リーネの放った不可視の風の刃がウルフの着地点の泥を鋭く削り取り、驚いて空中で不自然に体勢を崩した獣の完全な死角——首の真後ろへ。レイドの姿は風のように音もなく滑り込んでいた。
一切の無駄な力みのない、流れるような一閃。ウルフは悲鳴を上げる間もなく、一瞬にして首の急所の骨ごと両断され、ズシンと重い音を立てて崩れ落ちた。
敵の強襲の戦闘開始から、わずか十秒足らずの完璧な制圧。
「…………は?」
ガルドが大盾を構えたマヌケな姿勢のまま、開いた口が塞がらずに完全に固まっている。
「……え、嘘。もう終わりなの?」
リーネも杖を構えたまま、自分の放った風刃の土煙の向こうの光景に呆然と呟いた。
「ちょっと待てよ! お前、ついこの前まで剣の素振り五十回で息切らして倒れてたヒョロガリが、なんであんな歴戦の暗殺者みたいな、血も涙もねぇ冷徹な剣さばきしてんだ⁉ おかしいだろ!」
「……だから、今日は特別に調子がいいんだって言ってるだろ」
「調子がいいとか悪いとかの次元のレベルじゃねぇんだよ! 中身別の百戦錬磨の親父でも入ってんのか!」
ガルドがギャーギャーと大袈裟に騒ぎ立てる中、リーネは無言で、一切の無駄なく切断されたウルフの綺麗すぎる傷口と、剣の血振るいをするレイドの冷静な横顔を深い観察眼でジッと見つめていた。その無言の沈黙の視線の方が、レイドにはガルドの騒ぎよりもよほど冷や汗が出るほど恐ろしかった。
「……後で野営地に着いて火を囲んだら、今の動きについて、たーっぷり言い訳を説明してもらうからね、レイド」
「ああ——機会と、納得のいく適当な嘘が思いついたらな」
レイドははぐらかすように、苦笑して先へ歩き出した。五年分も骨の髄まで染み付いた戦場の狂った癖は、そう簡単に一日で抜けるものではない。新米冒険者のポンコツな演技で、勘のいい彼らの目を最後まで完全に誤魔化しきれるはずもなかった。
それでもいい。今はこうして、間違いなく生きた仲間たちと一緒に、他愛のない文句を言い合いながら同じ森を歩いている。
もう誰も欠けることなく。誰も、明日死ぬかもしれないという理不尽な恐怖に怯えることなく。
その事実だけで、レイドの胸の中は、言葉にできないほどに温かく確かな幸福感で満たされていた。




