第1話「終わりと始まり」
空が、物理的に割れていた。
世界の天井そのものに巨大な亀裂が幾筋も走り、その無数のひび割れから、暗紫色のどろりとした淀んだ光が、まるで腐り落ちた神の血液のように滝となって大地へと溢れ出ている。
大地そのものがおぞましい悲鳴を上げて軋み、視界の果てに見えるはずだった雄大な山脈は、ドロドロに溶解して原型を留めずに崩れ落ちていた。
この星そのものが完全に死を迎える、最後の断末魔の振動が大気を凶暴に震わせている。
レイド・アシュフォードは、根元から無惨に折れた愛剣の柄を握りしめたまま、泥と愛する仲間の血に塗れた荒野にひざまずいていた。
かつて栄光の白銀に輝いていた騎士の鎧は粉々に砕け散り、右腕の感覚はとうの昔に完全に消失している。
視界は、額から絶え間なく流れ落ちる自身の血で赤黒く染め上げられていた。
彼のすぐ背後には、見慣れた岩のような巨体が、物言わぬただの冷たい肉塊となって横たわっている。
一番の幼馴染であり、パーティーの絶対的な盾であったガルドだ。どんな凶悪な魔物の攻撃も必ず弾き返すと豪語していた無敵の鋼鉄の大盾は、中央から紙切れのように無惨に引き裂かれていた。
絶望的な数の異形の大群に完全に包囲された時。ガルドはたった一人で絶望の殿を務め、レイドたちをわずかでも遠くへ逃がすために自身の命を笑って投げ打ったのだ。
『お前らは絶対に先に行け! ここは俺の盾が持つ! ……俺の背中しか見えねぇうちに、さっさとズラかれ!』
その血を吐くような最後の言葉を遺し、彼は化け物の大群の黒い波に飲み込まれ——巨大な盾を構えた立った姿勢のまま、一歩も退かずに絶命していた。
そこから十数メートル先には、もう一人の大切な幼馴染——リーネが、いつも大切に磨いていた白樺の杖を手放して力なく倒れ伏していた。
星の光を集めたように美しかった銀髪は泥と黒い魔血で汚れきり、その細い腹部には、背後まで完全に貫通する致命的な大穴が穿たれている。
「……ごめん、ね。もう……魔力、一滴も残らず空っぽになっちゃった」
「喋るな。傷口が開く。頼むから喋らないでくれ」
レイドは動かない右腕を引きずり、左腕だけを這わせて彼女のそばに寄った。血に濡れた白い頬にそっと触れるが、その体温は恐ろしい速度で指先から失われていく。
「俺が……もっと早く敵の伏兵に気づいていれば……ッ!」
「……ばか。あなたは……立派な最高のリーダーだったわ。五年も……私たちを、ここまでずっと引っ張ってきてくれたじゃない」
リーネの青ざめた唇が微かに弧を描き、どうしようもなく優しく、愛に満ちた笑顔を向けた。
「——また、どこかの平和な世界で……もう一度会えたら……いいね」
その儚い声は静かな吐息へと変わり、最後まで紡がれることはなかった。
美しい銀色の瞳から確かな生命の光が失われ、レイドの頬に触れようと伸ばされたその手から、パタリと力が抜け落ちた。
「…………っ、あああああぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
世界が終わるような、声にならない絶叫がレイドの喉で破裂した。
故郷の森と共に誇り高く散ったエルフの戦士セレナ。難民の子供たちを逃がすため単騎で敵陣に突撃した老剣士アーロン。大切な仲間たちが、一人また一人と、理不尽な死の渦に飲み込まれていったのだ。
「——これが、無知なる人間が足掻き、選んだ選択の、必然たる結末だ」
氷のように冷酷で絶対的な声が、崩壊する天の裂け目から降ってきた。
亀裂の中心に浮かぶ、顔のない黒衣の男——『虚無の王』。五年間、人間の世界を執拗に削り取り、レイドから全てを奪い去った絶対的な元凶。
「この美しい世界は、大いなる計画の礎として、これより『完全なる終焉』を迎える」
「……黙れ」
レイドは折れた剣を力づくで地面に突き立て、全身の激痛を気力だけで押さえ込み、ゆっくりと立ち上がった。
「こんな理不尽な終わりが……俺たちの削り合った五年間の結末が、これで終わってたまるか……ッ!」
走馬灯のように、五年間の重い記憶の破片が脳裏を激しく押し寄せる。
ガルドの酒場での大仰な笑い声。リーネの新しい魔法を覚えた時の誇らしげな笑顔。セレナが焚き火のそばで語ってくれた古いエルフの伝承。
あの愛しかった時間のすべてが、この絶対的な無の力の前に無意味だったというのか。
「やり直せるなら……今度こそ……絶対に……俺が、全部……!!」
限界だった。酷使され続けた両足の骨が限界を迎えて砕け、身体が泥の中へと崩れ落ちる。
天空から世界全体を飲み込む『虚無』の白い光が、視界のすべてを真っ白に染め上げた。
そして——レイドの意識は、絶対の無へと静かに還っていった。
◇
——柔らかい。
最初に知覚したのは、死と血の臭いが充満する荒野の戦場とはかけ離れた、ひどく穏やかな感触だった。
背中には干したての藁の弾弾力のあるマットレス。肌に優しく触れるのは、太陽の匂いがする洗濯された麻のシーツ。鼻をくすぐるのは、古い木材の安心する香りと、ミントの石鹸の匂い。
重い瞼を押し上げると、見えたのは少し煤けた見慣れた木組みの天井だった。天井の隅にある二つの水染みと、不格好な小さな蜘蛛の巣——その全く変わらない配置に、レイドの頭の奥で大きな雷が落ちたように何かがスパークした。
バッと音を立てて跳ね起きた。身体が嘘のように羽のように軽い。
無くなっていたはずの右腕が指先まで完全に動く。全身を苛んでいた骨の砕ける激痛も完全に消え失せている。
そして震えながら顔の前に翳した両手は、剣ダコと無数の傷跡に覆われた歴戦の戦士の手ではなく、冒険に出たばかりの少年の、ひどく柔らかく華奢な手だった。
部屋の隅にある小さな姿見の鏡に映っていたのは、五年前の自分——まだ世界の残酷さを何も知らなかった、十七歳の少年の幼い顔だった。
「——は、ははっ……嘘だろ」
開け放たれた窓の外から飛び込んでくる、冷たく澄んだ朝の空気。活気に満ちた朝市の商人たちの怒鳴り声。下の階にあるパン屋から漂ってくる、焼きたてのパンの甘香ばしい匂い。
五感で確認できるすべての情報が、幻覚ではない紛れもない「現実の今」を強く告げていた。
「——んぅ……うるせぇな……まだ朝の六時だろ……寝かせろ、バカレイド……」
背後の隣のベッドから聞こえた、低く掠れた不機嫌な声。
レイドの心臓が、肋骨を突き破るほど大きく、激しく跳ね上がった。
赤毛の大柄な青年が、毛布を蹴飛ばしながら目をこすり、不機嫌そうに大口を開けてうめいている。
——ガルド。腹に風穴を開けられ、立ったまま絶命したはずの俺の大切な親友が、寝ぼけ眼で豪快なあくびをしていた。
「……ガルド」
呼ぶ声は情けなく裏返り、酷く震えていた。
「んお? おい、レイド? なんでお前、朝っぱらからそんなボロボロ大泣きしてんだ⁉」
ガルドの声で初めて、自分の両目からとめどなく大粒の涙が流れ落ち、シーツを濡らしていることにレイドは気づいた。
「腹でも痛てぇのか? それともすっげぇ怖い夢でも見ておねしょでもしたのか?」
そうだ。五年間の出口のない生き地獄という、人間が正気でいられる限界を超えた最悪の悪夢。
慌ててベッドから飛び起きたガルドが近づき、レイドの華奢な肩をガシガシと遠慮なく揺する。その手はバカみたいに力強く——そして、生きている人間のひどく温かい体温に満ちていた。
生きている。世界が終わっていない。時間が、間違いなく五年前のあの平和な朝へと『完全に巻き戻っている』。
「——悪い。ひどい悪夢を見たせいで、すごい寝ぼけ方をしたみたいだ」
レイドは乱暴に袖で涙を拭い、平和な朝の空気を肺が痛くなるほど深く、何度もしっかりと吸い込んだ。
「大丈夫だ、ガルド。俺は元気だ。腹も減りまくってる」
「全然大丈夫に見えねぇよ! 大の男が朝っぱらからボロ泣きしやがって、気色悪いな!」
レイドはふらつく足で窓際に歩み寄り、外の景色を食い入るように見下ろした。
青く澄み渡る美しい空の下、レンガ造りの屋根が並ぶ活気に満ちた国境の街ブレンハイムの平和な街並みが広がっている。
この美しい街が、魔物の大群の黒い炎に包まれ完全に灰になるのは三年先。空が裂け、世界が終焉を迎えるのは五年先の話だ。
ありえない奇跡が起きたのだ。誰が、いつ、どこで、どうやって惨たらしく死ぬのかという全ての『絶対的な未来のシナリオ』が、この頭の奥底に血塗られた確かな実体験の記憶として深く刻み込まれたままで。
「なあガルド。今日ギルドで受ける予定の依頼。何時からだっけ」
「はあ? 朝九時からに決まってんだろ。昨日リーネと三人で決めた、東の森のゴブリン五匹のしょぼい討伐依頼だって言ってたじゃねぇか。寝ぼけて忘れたのか?」
「……いや。その子供のおつかいみたいなゴブリン退治は、今日からやめだ」
振り返ったレイドの黒い瞳には、好奇心に満ちた十七歳の少年の純粋な光などは微塵もなかった。
そこにあるのは、五年間地獄の最前線で血反吐を吐きながら戦い抜いてきた、敵を本気で殺す歴戦の戦士の、冷たく燃え盛る異常な熱だけが宿っていた。
「今日から。少しばかり『本気』出すぞ、ガルド」
「はぁ⁉ お前、今まで本気出してなかったのかよ⁉ ふざけんな、俺の昨日の大苦戦を返せ!」
ガルドの元気な怒鳴り声を背に、レイドは口元に誰にも見えない獰猛な笑みをこぼした。
まだ全てが間に合う。俺の大切な仲間は全員が五体満足で生きている。
今度こそ、どんな泥臭い手を使ってでも、この血に塗れた未来の圧倒的な知識を駆使して、あいつら神々の用意したふざけた絶望の盤面を根本からひっくり返してやる。
絶対に、今回は誰一人として死なせはしない。
たった一人の、全てを知る『死に戻りの剣士』による、世界と神への壮大な反逆と下剋上の幕が、今この静かな朝陽の中で上がった。




