後編
ある朝、食堂で向かいに座ったアルバートが、皿の上のパンを指した。
「食べていないですね」
「朝は弱いだけです」
「では、少しだけでも」
「……あなたに関係ありません」
「関係を作りました。昨日、あなたが」
そう言って、アルバートは自分のパンを半分に割り、何も言わずに皿を寄せた。
エレノアは視線を逸らした。頬が熱い。苛立ちではない熱だ。
まずい。これは、私の方が——
その頃から、学院の空気も変わった。
廊下ですれ違うたびに刺さる視線。ひそひそ話。噂は、あっという間に広まった。
「クレスト公爵令息が、アシュフォード嬢を口説き落としたらしい」
「三年間ずっと、議論で絡んでたって」
「つまり、趣味が悪いのでは?」
笑い声に混じる嫉妬が、鋭い。
夜会の日。秋の風が冷たい。
アルバートは、当たり前のようにエレノアの手を取った。指先が、落ち着いた温度で包み込む。
「今日のあなたは、よく眠れましたか」
「……いつも通りです」
「嘘ですね」
「なぜ」
「あなたの嘘は、目がほんの少しだけ泳ぎます」
心臓が跳ねた。
踊り始める。音楽に合わせて足が動く。顔が近い。翠の瞳が、逃げ道を塞ぐ。
曲の終わり際、アルバートが低く言った。
「エレノア嬢。そろそろ、終わりにしませんか」
「……何を」
「あなたの『逆襲』です」
エレノアの足が、ほんの一瞬止まった。
「……気づいていたのですか」
「最初から」
「なら、なぜ」
「面白かったから、ではありません」
アルバートは踊りの輪の端で、そっとエレノアを壁際へ導いた。
人の視線から少し外れた影。そこでも彼は、決して触れすぎない距離を保つ。
「あなたが告白を嘘だと思ったこと」
「……」
「あなたが、私を叩き潰す気で『条件』を出したこと」
「……!」
エレノアは唇を噛んだ。恥ずかしい。情けない。自分だけが馬鹿みたいだ。
「それでも、嬉しかった」
「何が」
「あなたが私を見てくれたことが」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
「三年間、ずっと見てきました。あなたが本を読む横顔も、議論で勝った時の目も、勝ったのに悔しそうな口元も」
「……そんなの」
「あなたに嫌われていると、思っていました」
「思っていたなら、なぜ絡むのです」
「絡まないと、あなたは私を見ないからです」
一瞬、息が詰まった。
最初の授業。窓際で本を読んでいた自分。先生が来ても顔を上げなかった。
あの頃、世界は本の中の方が静かで、安全だった。
アルバートは、続けた。
「私は、うまく告白できませんでした」
「……それで、からかうように?」
「はい。最低です」
「自覚があるのですね」
「あります。あなたの逆襲の方が、まだ上品です」
エレノアは、思わず笑いそうになって——こらえた。
「では、私の作戦は失敗ですか」
「作戦の目的が『私を困らせる』なら、失敗です」
「……」
「でも、目的が『本気かどうか確かめる』なら、成功です」
胸が、痛いほど熱くなった。
エレノアは視線を落とし、扇もない指先でドレスの布をつまむ。
「……もう一つ、質問です」
「どうぞ」
「今も、私をからかいますか」
「必要なら」
「やめてください」
「努力します」
「努力ではなく、やめてください」
「……代わりに、違う形で伝えます」
アルバートは一歩だけ近づき、囁いた。
「好きです。今度は、嘘ではありません」
エレノアの喉が鳴った。言葉が出ない。けれど、逃げたくない。
「……少し、時間を」
「いりません」
即答が、ずるい。
エレノアは顔を上げ、翠の瞳を真正面から見た。
「私の条件は、変わりません」
「はい」
「これからは、私のわがままは『逆襲』ではなく、『甘えるため』に使います」
「光栄です」
アルバートが、初めて本当に困った顔をした。
嬉しさを隠そうとして、隠し切れない顔。
それが、たまらなく腹立たしくて——同時に、胸が満たされた。
「……論破して叩き潰すはずでしたのに」
「私の方が、先に降参しました」
「いつも通りですね」
「違います」
アルバートは、ほんの少し声を低くした。
「今回は、逃げません」
噴水の音が遠くで鳴っている。音楽が次の曲へ移り、誰かが笑う声が弾む。
エレノアは、ようやく小さく息を吐いた。
「では、逃げない証明を」
「何をすれば」
「今夜の最後の一曲。逃げずに、私の手を取り続けてください」
「はい。最後まで」
アルバートは、真面目に頷いた。
エレノアは、それだけで十分だと思ってしまった自分に腹が立った。
だから、最後に一つだけ、言ってやることにした。
「……次の議論で私に負けたら、悔しがってください」
「難しい条件です」
「なぜ」
「あなたが賢いので」
ずるい。
本当に、ずるい。
エレノアは扇の代わりに本を胸に抱え直し、わざとらしくそっぽを向いた。
「では、もっと賢くなって差し上げます」
「楽しみにしています」
アルバートの声が、いつもより少しだけ柔らかかった。
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