伝説の豆
「三十年前のヴィンテージ……まさか、あの『幻の黒真珠』じゃないだろうね?」
クエスは、老店主が震える手で差し出した小瓶を凝視した。中に入っていたのは、豆というよりは、黒く輝く宝石のような粒だった。
「その通りだ。かつて存在した『天空の浮遊島』。あそこでしか採れなかった、伝説のコーヒー豆だよ。三十年前、島が墜落して絶滅したはずの……」
「……っ!!」
クエスは息を呑んだ。伝説の『天空豆』は、通常の抽出では「苦味の爆弾」でしかないが、適切な魔力と圧力を加えれば、飲む者に**「全知全能の安らぎ」**を与えると言われている。
「マスター、正気かい? これを僕なんかに任せて……」
「今の状況で、これに挑めるだけの精密な魔力制御と、コーヒーへの狂気を持っているのは君しかいない。さあ、やってくれ」
クエスは深く頷くと、真っ白なエプロンを締め直した。その顔は、地龍と対峙した時よりもずっと真剣だ。
「リーザちゃん、店の入り口に最強度の『防音・遮断結界』を張って。これから僕がやるのは、抽出じゃない。……**『原子レベルの味覚再構築』**だ」
クエスは掌を小瓶にかざし、魔力を練り上げる。
通常のコーヒーを淹れるのとはわけが違う。三十年という歳月で凝固した「時間」を、魔法の圧力で解きほぐさなければならない。
「……九天の理、深淵の雫。圧縮せよ、大気の檻……ッ!」
クエスの手の中に、手のひらサイズの極小結界が現れた。その内部は、深海並みの超高圧。その中に伝説の豆と、厳選された湧き水を閉じ込める。
結界の中で、黒い粒が火花を散らすように弾け、漆黒の液体へと変貌していく。
「くっ……反発がすごい……! さすが天空の豆だ、僕の魔力を食って成長しようとしている……!」
「クエスさん、顔色が悪いですよ!」
「黙ってて! 今、最高の香りの『一滴』が生まれようとしているんだ……!」
一時間後。
店内に漂ったのは、これまでの人生で嗅いだことのない、脳を直接震わせるような芳醇な香りだった。
「……できた」
クエスが震える手で、小さなデミタスカップを差し出した。
中に入っているのは、夜の闇を凝縮したような、とろみのある漆黒の液体。
「これが……三十年前の絶滅種……」
店主とリーザ、そしていつの間にか雨宿りに戻ってきたカリーナも、息を呑んでその一杯を見つめる。
クエスは、真っ先にその液体を口に含んだ。
「…………っ!!」
その瞬間、クエスの視界に、今は亡き天空の島の風景が広がった。
雲の上を流れる風、どこまでも高い空、そして……。
「……甘い。苦いのに、果実よりも甘い。そして……全身の魔力が、まるでお風呂に入っているみたいに解けていく……」
それは、スローライフを極めた男が到達した、究極の「報酬」だった。
「カリーナ、悪いけど、街道の豆はもうゆっくりでいいよ……」
「おい、さっきまでの気合はどうしたんだ!」
「だって……これ一杯で、僕はもう、一ヶ月は何もせず、この余韻だけで生きていける……」
クエスは、ドロドロの粘液まみれになった昨日の自分すら、今の幸せのための「スパイス」だったと確信した。
外は相変わらずの土砂降り。
しかし、銀の匙の店内だけは、三十年前の優雅な時間が、コーヒーの香りと共にゆったりと流れていた。




