コーヒーが為に…
路地裏にひっそりと佇む『黒猫亭』。ここは、喧騒を嫌うクエスにとって最高の隠れ家だった。
店主の気まぐれで作られるアレンジメニューは、この街の食通たちの間でも「伝説」と称されるほどだ。
「……信じられない。この苦み、そしてこの口溶け……完璧だ」
クエスの前には、深煎りのエスプレッソを贅沢に染み込ませた『極上ビターティラミス』が置かれていた。マスカルポーネの甘みと、ガツンとくるココアパウダーの苦みの調和。彼は今、まさに至福の絶頂にいた。
そこへ、店の重い扉が勢いよく弾け飛ぶような音を立てて開いた。
「クエス! クエス・ノーランはいるか!」
「……げぇっ、カリーナ」
クエスは思わずティラミスを喉に詰まらせそうになった。カリーナは肩で息をしながら、彼のテーブルに詰め寄る。その顔は、先日の戦いよりもずっと悲壮感に満ちていた。
「クエス、大変だ……!!」
クエスは口元を黒いココアパウダーで真っ黒に汚したまま、ゆっくりと立ち上がった。
「大変だ……」
その言葉を、彼は静かに、だが重く繰り返した。
「……クエス?」
カリーナが戸惑うのを余所に、クエスは拳を固く握りしめた。その肩は小刻みに震え、瞳には今までに見たこともないような「怒り」の炎が宿っている。
「許せない……。絶対に、許せない……!」
「そ、そうか! やはりお前も、街が危機に瀕していると聞いて、冒険者の血が騒いだんだな!?」
カリーナが感極まったように声を張り上げた。だが、クエスの口から飛び出したのは、予想だにしない言葉だった。
「地龍のせいで、街道のキャラバンが足止めを食らっているんだろう!? ということは……来週入荷予定だった『南方の最高級コーヒー豆』と『限定発酵バター』が、この街に届かないっていうことじゃないか!」
「えっ……あ、ああ、確かにキャラバンは足止めされているが……」
「そんなの、死活問題だ! カフェが営業できない! 豆が届かない! 新メニューが開発されない! そんな世界に、生きてる価値なんてあるもんか!」
クエスは鼻息荒く、椅子の背にかけていたコートをひったくるように手に取った。
「僕がキャラバンを守る。……今すぐ行くぞ、カリーナ!」
「お、おおお! よし、その意気だクエス! さあ、街の防衛戦に参加するぞ!」
勇ましく駆け出そうとするカリーナの背中に、クエスが鋭いツッコミを入れた。
「待て待て、なんで街なんだい!? 僕はキャラバンを助けに行くって言ったんだ! 街の防衛なんて三十人もいれば十分だろう? 重要なのは、物流だ! 豆を、僕のコーヒー豆を救い出すんだよ!」
「……えっ、そっち!? 街じゃなくて、荷物の心配なの!?」
「当たり前だろ! 街は誰かが守るけど、僕のコーヒー豆は僕が守らなきゃ誰が守るんだ! さあ早く、前衛のポンコツ三人組を叩き起こしてこい! 『ソロはしない』、ただし『豆のためなら無理もする』! これが今の僕のルールだ!」
口元を真っ黒にしたまま、クエスは恐ろしい剣幕で店を飛び出した。
彼のスローライフを脅かすものは、魔王でも龍でもない。「コーヒーの欠乏」こそが、この男を真の魔道士から魔導師へと変える唯一の引き金だった。




