年期を味わい モカじいさん
「……信じられん。まさか、この若さで『天空の黒真珠』を御せるとはな」
店内の結界が解け、芳醇な香りが表まで漏れ出したその時。雨に濡れたマントを羽織った、一人の老人がふらりと店に入ってきた。
深い皺が刻まれた顔、背中には使い込まれた手挽きのミルを背負っている。その立ち居振る舞いだけで、リーザもカリーナも直感した。この男、タダモノではない。
「……誰だい、おじいさん。今は貸切なんだ」
「人呼んで『モカじい』。……坊主、その一杯、私にも一滴分けてはくれんか?」
クエスは渋々、小さなカップに最後の一滴を注いだ。モカじいはそれを慈しむように口に含むと、ふっと目を細めて笑った。
「なるほど、見事な抽出だ。だが坊主……世界には、もっと凄い豆があることを知っているか?」
「これ以上の豆が……? 嘘だ。これは三十年前に絶滅したはずの……」
「豆の稀少さだけが、コーヒーの全てではないのだよ」
モカじいは、雨の滴を払いながらカウンターに腰を下ろした。
「いいか。どんなに伝説的な豆であっても、それを育てる農家の情熱、運ぶキャラバンの苦労、そして君のようなバリスタの技術……そのすべてが繋がって、初めて『命』が宿る。だが、最も重要なのは何だと思う?」
クエスは黙って老人の言葉を待った。
「それは、**『飲み手』**だ。どんな至高のコーヒーも、それを『幸せだ』と感じて飲む者がいなければ、ただの苦い汁に過ぎん。農家、淹れ手、そして受け取り手……その三つが合わさって初めて、至高のコーヒーは完成する」
モカじいの言葉に、クエスは昨日、地龍を相手に「豆を返せ」と怒鳴り散らした自分を思い出した。
「……僕は、豆が届かないことに腹を立てていた。でも、その豆を届けてくれる人たちのことや、それを一緒に楽しむ仲間のことは……」
「坊主。君がそのティラミスを口元につけ、仲間のカリーナ君やこの店の娘さんと笑いながら飲むその空気こそが、最高の隠し味なのだよ。技術に溺れ、一人で飲むだけでは、この『黒真珠』も真価を発揮せん」
クエスは、自分の隣で空腹そうにコーヒーの香りを嗅いでいるカリーナと、忙しそうに片付けをするリーザを見た。
「……そうだね。僕がこの街でカフェ巡りをしているのは、ただ味が好きだからじゃない。この場所で、みんなとダラダラ過ごす時間が好きだからなんだ」
クエスは、ふっと憑き物が落ちたように笑った。
雨はいつの間にか上がり、雲の隙間から柔らかな陽光が差し込み始めている。
「よし、決めたよ。カリーナ、明日、崖崩れの現場へ行こう。……今度は豆を救うためだけじゃない。あの豆を運んできてくれたキャラバンのみんなに、『お疲れ様』って言いながら、この『銀の匙』のコーヒーを振る舞ってあげたいんだ」
「……へっ、やっとまともな顔になったな。いいだろう、付き合ってやる!」
モカじいは満足そうに頷くと、一杯の対価として、見たこともない小さな緑色の豆を一つ、テーブルに残して店を去っていった。
「また会おう、若きバリスタ。……次は、君が淹れる『日常の一杯』を飲みに来るとしよう」
クエス・ノーランのマッタリライフ。
それは、自分一人の幸せから、誰かと分け合う幸せへと、コーヒーの香りと共に少しずつ広がり始めていた。




