エリュシオン
そう、ここから物語が始まったんだ。
多くの人にとって仮想世界はいい場所だったのだろう。
「さて、今から仮想世界に...と思ったが顔色が悪いね。今日は休もう。恵、彼を客室にお連れしてくれ。」
確かに疲れた。
知らない情報を一気に詰め込まれたのが原因だろう。
脳が悲鳴を上げている。
「ありがとうございます。助かります。」
今にも意識が暗転しそうなのを何とか押さえつけ、言葉を絞り出した。
「ああ、ゆっくり休みなさい。仕事の話は明日、改めてしよう。」
その後、恵に連れられ、1つの部屋に案内された。
部屋の奥にベッドが見える。
恵と軽くあいさつし、部屋を閉めた後、ベッドに倒れこんだ。
目が覚めたのは夜だった。
むくり、と体を起こし、手探りで電気のスイッチを探す。
壁に突起があるのを感じ、試しにそれを押してみる。
どうやら当たりだったらしい。
橙色の光が部屋の様子を映し出してくれた。
「時間が知りたい」と考え、時計を探していると目の前にホログラフィックが現れた。
ネーソイが自分の起床を確認し、起動したのだろう。
時計機能くらいついているだろう。そう考え、画面を見回していると、左上に時計を確認できた。
時刻は22時10分を示している。
寝る前はまだ日が昇っていたからずいぶん長い間眠っていたようだ。おかげで眠気はすっかり消えている。
ふと尿意を感じた。
しかし、トイレの場所がわからない。
仕方なく、部屋を出て探すことにした。
部屋を出ると、暗い廊下が現れた。
困った。これでは探すことができない。
とりあえず足を踏み出してみる。
暗闇というのはいつになっても慣れないものだ。
無意識に湧き出てくる恐怖に向き合いながら永遠にも思える廊下に足音を響かせていると、一つの部屋に明かりがついているのが見えた。
すこし躊躇いを感じながらもノックをしてみる。
男性の声が聞こえたことから祖父の浩さんの部屋なのだろう。
「失礼します。」
扉を開けると、深い皺を持った老人がいた。
「おはよう、ソウスケ君。よく眠れたかな。」
「はい、とても。ところで、トイレはどこですか?」
「暗くてわかりづらかったか。案内しよう。」
2人で廊下に出て、相川さんの後についていく。
そういえば、と相川さんが話し始める。
「ネーソイにはライト機能があるんだ。黒い背景の懐中電灯のマークを押してごらん。」
そう言われてホログラフの中からそれらしいアイコンを探してみる。
すぐに見つかり、試しに起動してみると、デバイスから光が放たれた。
「これは...すごく便利ですね。」
「そうだろう。体を動かさなくていいのが特に良い。腕を上げるのもつらい老人にはありがたいデバイスだよ。」
どう返せばよいか分からず、愛想笑いで返しておく。
「そういえば、タイムマシンの研究をしているといっていましたね。俺がこの時代に来ているということは成功したってことですか?」
「ああ、ほとんど成功しているよ。ただ、時間の指定ができなくてね。っと、着いたよ。ここがトイレだ。」
「ありがとうございます。あとで話、聞かせてくださいね。」
そう言って俺はトイレに入った。
中にあったのは何の変哲もない水洗式のトイレだった。
何もかもわからない世界で見知ったものを見かけると安心するものだ。
ひとまず用を足し、外に出ると浩さんが待ってくれていた。
「待っていてくれたんですね。ありがとうございます。」
「ああ、1人では部屋に戻れないだろうと思ってね。他に何か足りないものはあるかな?」
「ええと、先ほどまで寝ていたので眠れなそうで...何かありますか?」
「ふむ...では、晩酌に付き合ってはくれるかな。君、お酒は?」
「少しなら飲めます。」
「きっと好きになるよ。さあ、入って。」
扉を開けてもらい、部屋に入る。
部屋の奥は作業スペースになっているようだ。
分厚い本やキーボード、すこし汚れたマグカップなどが確認できる。
まさに研究者、といった様相だ。
「そこのソファにどうぞ。」
そう言われて部屋の左側を確認してみる。
5,6人ほどが座れるであろうL字のソファと長方形のローテーブルが目に入った。
テーブルの上にはグラスが3つと酒瓶が置いてあった。
ソファに座り、少々待っていると浩さんはグラスを1つとアイスペールを持ってきた。
アイストングを使ってそれぞれのグラスに氷を入れ、少しずつお酒を注ぐ。
「あの、今から誰か来るんですか?」
「いや、誰も来ないよ。私たち2人だけだ。」
「じゃあ、このグラスは何のために。」
「ああ、これは...」懐からとある画像を取り出した。
そこには20代くらいの男性が3人ほど写っている。
「彼らの分だよ。」
「この人たちは...?」
「私の若い時の友人、かな。一番右が私だ。」
よく見ると、確かに目元が似ている。
3人の中で唯一、服装が崩れておらず、まじめな印象を受けた。
「今日、こいつらの命日なんだ。この酒は、あの2人とよく飲んだものなんだ。」
少ししんみりした空気になったのを振り切るように「さあ」と浩さんが声を発した。
「氷が解けてしまう。グラスを持って。岩本弘三尉、友永譲技術士官に。」
そう言った浩さんとグラスを合わせ、酒を口に運んだ。
芳醇なオークの香りが鼻を抜ける。
アルコール度数はかなり強いが飲みやすいお酒だと感じた。
ふと浩さんの方を見るとあまりにも悲しそうな顔をしていたので思わず聞いてしまった。
「ご友人の話、聞いてもいいですか?」
「ああ...いいとも。2人と出会ったのはもう40年以上前のことだ。彼らとは自衛隊の幹部候補生学校で出会ってね。どこか馬が合ってね。」
「3人は自衛官だったのですか?」
「ああ、こいつらがいなくなるまでは就任していたよ。」
「いなくなるまで、というと?」
「事故が起きたんだ。新しい戦車の実験に行ったとき、エンジン部に引火してね。実験場にいた5人が死亡、私を含めた12人が負傷した。」
「負傷って、もしかしてその足を...」
「ああ、実はそうなんだ。両足やられてね。」
そう言って浩さんはズボンの裾をちらりとめくると、機械の脚が見えた。
鈍く光るゴールドに赤いラインが蠢いており、それが人間のものではないと否応なく理解させられた。
「私はこいつらともう一度だけ話がしたい。そう思ってタイムマシンの開発をしているんだ。」
「そう...だったんですね。でも、よかったじゃないですか。もう完成しているんでしょう?」
「ああ...そうだね。昔話に付き合ってくれてありがとう。もう少し話していくかね、それか、もう寝るかね?」
「もう寝ようかと。おやすみなさい。」
「ああ、ゆっくり休みなさい。」
俺はそう言って浩さんの部屋を出て与えられた部屋に向かった。
彼のことはまだ完全には信じられないが、その笑顔から優しさは本物だ。
これだけは自信を持って言える。
今日起きたことを反芻しながら部屋に戻り、そのまま眠りについた。
次に目覚めは朝8時、恵に起こされてだった。
寝ぼけ眼で着替えを行い、部屋を出る。
部屋の外には恵が待っていた。
「今日はエリュシオンに行くわよ。午前中に軽く案内、午後からあなたの仕事場所を案内するから、そのつもりでいてね。」
「はい、分かりました。」
「よし、じゃあまずは朝ごはん、食べに行こうか。居間に行くからついてきて。」
そう言われ、恵の後についていくと大きめの部屋についた。
そこには既に浩さんがおり、虚空を...いや、自身のAGで何かを見ているようだった。
「おじいちゃん、ソウスケ君来たよ。朝ごはん食べよう。」
「おお、おはよう、ソウスケ君。さあ、座って。」
言われて席に着くと、恵が食事を持ってきてくれた。
食パンに目玉焼き、それにウインナーが一つのプレートに乗っていた。
「ありがとう、すごくおいしそうだ。」
「簡単なものだけどね。さ、食べましょう。」
朝食を取り終えると、とある部屋に案内された。
昨日案内された、アンティークな内装の部屋だ。
部屋の奥にあるポッドに入るよう促される。
「入ったらまず、ヘルメットと手首にバンドを装着して。ネーソイに黄緑のアイコンが現れるはずだからそれを起動してね。」
入ってみるとポッドの中は思いのほか広かった。
恵に言われたとおりにヘルメットとバンドを装着する。
まるで囚人のような姿だ、と考えながらネーソイを起動する。
一番手前に現れた水色のアイコンをつかむと頭の中にノイズが流れ込み、視界が、世界が暗転した。
───エリュシオンへようこそ
そんな声が聞こえ、目を開く。
建物があり、人がいる。
人が活動している都市と言って差し支えない様相を示していた。
しかし、同時に違和感も感じていた。
風景がどこかのっぺりしている。
頬をなでる風も一定でどこか人工的だ。
「ちゃんと来れたみたいね。」
「恵」
彼女と合流し、街を歩き始める。
「聞いてなかったけど、どこを案内してくれるの?」
「とりあえず、ショッピングモールを案内しようかな。とりあえず、着いてきて。」
改めて2人で歩き出す。
周りをきょろきょろと見回すと、4足やキャタピラなどが見える。あれはロボットだろうか。
気になったので聞いてみることにした。
「あそこにいるのは人?それともロボット?」
「あれは...荷物持ち用のロボットかな。」
「そんなのがいるんだ。」
「あれだけじゃなく、この世界を管理してるのは半分以上AIロボットだよ。」
「仮想世界だから当たり前じゃない」と彼女は笑った。
確かにそうだね、と俺も笑みを返す。
その後もいくつか他愛のない会話をした。
どんな服が流行ってるのか、この配信者が好きなんだ、などなど。
俺が元居た時代の動画投稿者がまだ有名だということには大変驚かされた。
配信界隈では神様のように扱われているのだとか。
「そうなんだよ。昔の過激な動画が好きな人も多いからね。っと、着いたよ。ここが案内したかった場所。」
存外、小さな建物だった。
ショッピングモールにしては小さい。
これではせいぜい田舎の電気屋といったところだ。
しかし、その考え方は店に入った瞬間に覆された。
明らかに店の中が広いのだ。
目をこすってみてもそれは変わらない。
目を瞬かせているのを見て恵がくすくすと笑っているのが聞こえた。
「驚いたでしょ。仮想世界では空間拡張もお手の物。これを見せたくてここに連れてきたんだ。なんと、現実世界の4階建てくらいの広さはあるんだよ。」
「さすが電脳世界。何でもありだな...」
「そういうこと。さあ、買い物に行こう。」
始めに入ったのは男性物の服を売っている店だった。
俺のための服をコーディネイトしたい、と恵が言っていた。
店内はモダンな雰囲気を感じる、いわゆる”おしゃれな店”だった。
なんとなく躊躇している俺を気にするそぶりもなく、恵はズンズンと奥に行く。
どうやら青年向けの服は奥にあるようだ。
「うーん、ソウスケ君、スタイルいいからジャケットとか似合うと思うんだよね。これ、着てみない?」
そう言われて渡されたのは冬物のジャケットであった。
なんとなくミリタリーを感じる。
MA-1というやつだろう。
「ちょっと着てみてよ。あっちに試着室あるからさ。」
「わ、分かった。」
押し込まれるように試着室に入ると、試着室内のタッチパネルが目に入った。
パネルには先程持たされたジャケットが表示されており、サイズや色などが選べるようだった。
サイズは自分の伸長に合わせたものを選び、色はカーキを選択する。
右下にある『試着する』のアイコンをタップすると、選択したサイズ、色の服が着用された。
「どう?試着できた?」
「一応、どうかな?」
そう言ってカーテンを開く。
服を選んでくれた彼女は目をキラキラと輝かせている。
「うんうん、やっぱり、すごく似合うね。私の見立てに間違いはなかったな。」
どうやらお気に召したらしい。
その後もあれやこれやと頭の上から靴の先までコーディネイトされた。
「最高だよ。じゃあ、早速買っちゃおうか。」
「待って、こんなにお金持ってないよ。」
「いいのいいの、ここもおごってあげるから。」
結局押し切られてしまった。
レジに行くと、ロボットが接客をしていた。
どうやら、ロボットがこの世界を管理しているというのは本当らしい。
「そういえばこれ、現実だとどういう扱いになるの?」
「郵送で送られてくるよ。大体3日後くらいかな。」
チャリン、と小気味いい音を立てて恵は決済を完了した。
時刻は11時半を過ぎたころだ。
午後からの約束は12時半から。そろそろ準備しなければ。
恵にそれを伝えると、「じゃあ、少し早いけどご飯にしようか。」
と言ってくれた。
「この世界でご飯を食べて意味あるの?」
「一応、満腹感はとれるかな。ただ、三食以上連続では食べられないようになってるの。」
「それはどうして?」
「現実世界でものを食べないで餓死する人が多かったの。ばかよね。この世界でものを食べても何にもならないのに。」
フードコートはショッピングモールの4階にあった。
昼前ということでまだ人はまばらにしかいない。
ファストフードの店でハンバーガーを購入し、窓の近くに座った。
外から見える景色は壮大で、気を抜くとここが仮想世界だと忘れてしまいそうだ。
仕事までまだ時間がある。
仮想世界で作られたハンバーガーのどこか偽物のような味を感じながら俺は決意を固めるのだった。
筆者はロングコートが好きです。
MA-1なんて買ったことありません。




