第二部 穢土
月が煌々と日乃本の大地を照らしていた。
月の光はよく茂った森や草むらの緑を明るくし、葉の端から零れ落ちそうな露が光を屈折させた。
虫が騒々しく鳴き、夜鷹が叫び声をあげた。
ここは森の中の沼地。黒霧沼と呼ばれている。
月光は微動だにしない湖面をも照らしていた。
そんな静かな夜。
大地が揺れた。
鳥が森のねぐらから飛び立ち、虫は息をひそめた。獣たちも不安そうにうずくまって、あるいは月を見上げている。
地震はしばらく続いたのち、止まった。
森は再び静寂を取り戻している。
虫は鳴き始め、獣たちは身じろぎしてから再び浅い眠りについた。
水の生き物だけが違った。
湖面がさざ波たち、魚が何匹も飛び跳ねる。
湖水は吸い込まれるように徐々に水位を下げた。
そうして、水が引くにつれ、沈んだ流木にからまるようにして固く抱き合った二つの身体があらわになった。
*
半次郎とヘレンが息を吹き返したのは、地震から一昼夜半過ぎた朝だった。
朝日が二人の身体を温め、濡れそぼった衣服から水蒸気が立ち上る。
血色のない二人の顔がほぐれ、心臓がとくとくと打ち、共鳴し始めた。
森の獣が覗き込んでから食料ではないと判断して去り、烏やトンビの類が頭の上にとまったが、突然の脅威を感じて飛び立った。
二人はほぼ同時に息を吐き、目を開いた。
最初は眼で見えるものがなにか理解できない様子だった二人だが、じきに気づくと互いをしっかりと抱きしめた。
「ヘレン」「半次郎様」
「無事か」と半次郎。
「無事でございます。半次郎様。死人におなりでは。わたくしのことをおわかりなのですか」ヘレンは半次郎の目を見つめて問うた。
「うむ。死人にされたときには己と己ではないなにかが自分の頭の中で争っておったが、今のわたしはわたしだ。死人にされたことは覚えているが、そのほかに変わったことはない」
「よかった。ではわたくしのことも覚えてらっしゃるのですね」
「むろんだ。そなたのために倭田家も捨て、そなたのために死人となった。今更捨てるものなどあるものか」
「それだけでヘレンには十分でございます」おもわずヘレンは涙ぐんだ。
「わしらはどうしたのかな」半次郎はあたりを見回す。
「そうですね。倭田のゆり殿や小物たちと争ったのは覚えているのですが」ヘレンは自分の身体を確かめた。「服は切り裂かれているものの身体の傷が治っています。この治り具合ですとわたしは少なくとも七昼夜は眠っていたのに相違ありません」
「いや、それどころではないかもしれんぞ」半次郎が天をあおいで言った。「太陽が冬至の位置まで下がっておる。少なくとも数か月は経った勘定だ」
半次郎は立ち上がるとヘレンに手を貸して立たせた。
「こうしていても始まらぬ。村へ行って様子をうかがって来よう」
「わたくしも一緒に参ります」強い口調でヘレンが言った。
「まず、勝手知ったる倭田家の館をのぞいてみようと思う。小杁の者だと知られると危険かもしれぬからそなたはここで待っておれ」
「いやでございます。今更倭田家の小杁家のとの争いに巻き込まれ、離れ離れになっては意味がありません。どうかわたくしから離れないでください」
かたくなにすがりつくヘレンに折れ、半次郎はヘレンを伴って倭田家のある村へ行った。ヘレンのドレスはあからさまにヘレンが蘭人であることを示しており隠し立ては無益だったから顔を隠すこともなく二人は連れ立って村まで行ったが、だれも二人をとがめだてするものはいなかった。そのまま村の奥まで進むとさすがに半次郎は衝撃を受けた顔をした。
「ヘレン。わたしの家が、倭田家の屋敷がない!」
茫然として倭田家の跡地を眺めている半次郎の横でヘレンは通りがかりの小作人を呼び止めた。
「もし、よろしければ教えてくださいませんか。倭田家の屋敷はどうなったのでしょう」
小作人は物分かりの悪そうな顔に疑問をはらませて答えた。
「倭田家? 倭田家と言うと倭田行徳様の家のことかね」
「はい」
「お取りつぶしになったよ」
「えっ、本当ですか」
「跡取りをすべて失い、当主様も老齢でお亡くなりになった。それでお取りつぶし。今はここらあたりは鹿嶋様の直轄地よ」
「それは、それはいつ頃のことなのでしょう」
小作人は不思議そうな顔を二人をまじまじと見つめた。「あんたらどこの山から来なすったかなあ。今までそんなことも知らなかったとは」忙しそうに鋤を肩に担ぎなおすと小作人は歩み去った。
「あの、いつですか、それは」半次郎が叫ぶ。
「そうさなあ。百年ほど前のことだよ」小作人も叫び返した。
「百年」半次郎はぺたんと座り込んだ。「百年。わたしたちが水に没してからもう百年が経ったというのか!」
「あんたらなにを言っているだ」小作人はあきれたようにぶつぶつとつぶやきながら去って行った。
先に気を取り直したのはヘレンだった。
「半次郎様。とりあえず、わたしの実家へも行ってみましょう」
二人は今度も沢山の小作人たちとすれ違ったが、誰も二人をとがめだてしなかった。
小杁の館へ着くと、石造りの建物だけは残っていたが館の扉ははずれ、建物には蔦が這い、荒れ果てていた。
斜めにかしいで今にも倒れてきそうな木の扉をまたぎ、中の扉を押すと中庭に出たが、以前はきれいに剪定されていた木々は全て生命の勢いのままに生い茂り、どこが庭やら家やらかの区別もつかないありさまだった。
こわごわと中をのぞいてみたが、すでに家具も壁にかけた絵画や美術品も全て持ち出されており、人の気配は全くしなかった。
「だめです」ヘレンは先ほどの半次郎と同じように気落ちした様子を見せた。いかに覚悟の上とはいえ、自分が幼少から育った家が家族もろとも失われているのを見るのは辛い。二人は自分たちのために家を捨てることを選択したが、そもそもその家が消失することは想像していなかったのだ。
ごほごほ
ふと横を見ると粗末な作務衣をまとった背の低い男が立っていた。浅黒い顔をしているが小作人のようでも屋敷内で下働きをする小物のようでもない。絶えず咳をし、うつむいている。なんとその男の生え際には二本の角が生えている。
「おお、お前」それでもヘレンの声は喜びに満ちた。「お前は「杜」ではありませんか?」今にも抱きつかんばかりの喜びようである。うなずきながら男は咳き込んだ。
「その男は何者だ。鬼ではないか」半次郎が警戒した。ヘレンは振り向いて答えた。「この者は小杁家に出入りしていた下人でございます。小物よりもさらに身分が低いため名前すら持っておりません。なにか土地の薬草などで必要なものを頼むといつもどこからか用立ててくるので皆は「杜」と呼んでおりました。ああ、でもうれしいわ。小杁家の者でないとはいえ、小杁に関係した人と初めて会うことができて」
「体の具合が悪いようだが」半次郎が顔を見回す。
「この者は以前からこうでした。いつも咳をして。ええ、それでも前より具合が悪い感じがするわね。大丈夫ですか。お前」
返事の代わりに杜は右手を挙げた。ヘレンは半次郎を振り返る。「この者は口がきけないのです」
そのままヘレンは杜に話しかけ続けた。
「まあ、お前だけはここに残ったの? お館様や小杁衆で残っている者はいるのですか」
返事の代わりに「杜」と呼ばれた男はただ首を振った。すぐさま顔をそむけて咳き込む。
「そう。やはり倭田家と同じようにお取りつぶしになったのですね。この様子だと一人もいないのでしょう」今度はヘレンがぺたんと地面に座り込んだ。
杜、がおずおずとヘレンに近づき、右手を差し伸べてヘレンの額に触れようとした。半次郎は反射的に腰のものを探ったが、そこには刀はなかった。半次郎は一歩前に進み出て、杜の腕をつかんだ。杜がなにか害を及ぼそうとしてはいないか警戒したのだ。だがそれは杞憂だったようだ。
杜、はヘレンの額にしばらく手を当てていたが、満足したように手を引き下ろした。
「なあに? お前。わたしは別に熱もありませんよ」
ヘレンが無邪気に問うた後、大地が揺れた。
「地震だ」半次郎はとっさにヘレンをかばって軒下へ身を隠す。揺れはさほど大きくもなく、じきに収まった。
「最近は地震が多いのかもしれぬ」半次郎が天をあおいで言った。
「なぜでございますか」
「そなたは気づかなかったか? ここへ来る道どりでも、かすかに感じられるか否かの弱い揺れが数度、起きていた」
「そうでございますか。気づきませんでした」ヘレンは軒の下に座ったまま半次郎に身を寄せた。半次郎もヘレンの手をしっかりと握る。
「二人で祝言を上げることができるような世の中になればと入水いたしましたのに、目覚めてみれば倭田家と小杁家の争いはおろか、両家とも滅びてしまっているとは、なんだか拍子抜けいたします」ヘレンは半次郎の肩に頭をもたせた。
「そうだな。わたしも武辺を生業とするしか知らなんだ。これから薪取りでも学ぶか」
「とりあえず、この館を修復すれば住むには困らないでしょう。もともとわたくしの家ですし」
「そうだな」
泰平の世が続いているのであれば、農民として暮らすのもいいかもしれない。半次郎はそう考えた。
*
そのとき突然大きな声が天から降ってきた。
【危機だ】
それはあまりにも大きな声に聞こえたので、爆風からヘレンを守るように反射的に半次郎はヘレンの上におおいかぶさった。
【危機が来る】
声の源はどこかわからなかった。その声ががんがんと頭の中に響き、二人は耳をふさいだがそれでは音はやまなかった。
【日乃本に危機が迫っている。警告せよ】
「警告? だれに、なにを警告するというのだ!」半次郎は叫んだが、それに対する返事はなかった。
【穢土へゆけ。答えはそこにある】
声は徐々に小さくなり、遠くなってかすかになり、消えていった。
【穢土へ】
騒ぎが静まると半次郎は身を起こしてあたりを見回した。
【なんだったのだ、今のは】
【不思議でございます。ほれ、あそこ】ヘレンは庭木の梢を指さした。【あそこにかかっている鳥の巣、先ほどの大声にも鳥は飛び立ちませんでした。なぜでしょう】
【うむ】半次郎は再度あたりを見回し、それからヘレンの顔を見た。
【おい。ヘレン】強烈な違和感を感じて半次郎はヘレンの肩を両手でつかんだ。【そなた、いつから舌も唇も動かさずに話すようになったのだ】
ヘレンは不思議そうに半次郎の顔を見た。
【そうですね。でも半次郎様。あなた様も唇を動かしておりませんよ】
半次郎ははっとして指で自分の唇を抑えた。
【半次郎様】【ヘレン】二人は顔を見合わせた。
【不思議なこともあるものだ】
【いえ、お待ちを】ヘレンはなにかを思い出すかのように目を閉じた。
「サブス・テイ・スィップ・オト」ヘレンはゆっくりと唱えた。「半次郎様、こう繰り返してくださいませ」
「サブス・テイ・スィップ・オト、なんだそれは」半次郎は問いを発してすぐに気づいた。「おや、再び声を発している!」
「「空話」の技でございます」ヘレンは落ち着いて説明した。「「ターヘルアナトミア外典」に記述がございます。死人同士は唇を動かさずに会話ができる。その距離は約百間と」
「「サブス・テイ・スィップ・オト」と唱えるか念じることで発話と空話を切り替えることができます」
「そうか。わしらは死人だったな」少しがっかりしたように半次郎は言った。「以前は死人などさげすんでおったものを」
「わたくしはそうでもございません」ヘレンはうきうきと言った。「「外典」の中に「死人は生者とは添い遂げぬ」との記述を見つけた時、わたくしは世が終わったような気がいたしました。それでは「死人は死人とならば添い遂げる」のですよね。わたくしにはそれで十分でございます。半次郎様と添い遂げることができるのであれば」
「それはさておき、なにか食べるものを得なければ」
「ふふっ、おかしなことを、半次郎様」ヘレンはころころと笑った。「死人はほとんど食事を必要としません。食事は単なる楽しみのため」
「しかし、これからどうするか」
「そうですわね」
「とりあえず倭田家も小杁家もないのであれば、どこに頼るか。先ほどの小作人はここいら一帯は鹿嶋殿の直轄地になったと申しておった。鹿嶋善三殿はまだご健在であろうか。ならば彼を頼って……」
「わたくしは嫌でございます」ヘレンが強く言った。「鹿嶋殿の世話にはなりたくありません」
「なぜ? 鹿嶋殿であれば、蘭人にも倭人にも公正に処遇してくれるものを」
「鹿嶋殿は以前、わたくしを妾にとご所望でした。もしまた同じようなことを求められれば、半次郎様は邪魔者。わたしたちの苦難となるでしょう」
半次郎はちょっと目を見開いた。「そうか。それなら致し方ない。しかしこのままでどのようにして穢土へ行くか」
ちょんちょん、と半次郎のそでを引く者がいた。見ると先ほどの下人「杜」が清潔そうな作務衣を畳んで差し出している。指はヘレンの裂けたドレスを示している。
「お、これは。助かるな。うむ、かたじけない」半次郎は当然のように作務衣を受け取ってヘレンに渡した。「ちょうど服が入用で困っていたところだ。ところでお主」半次郎は杜に問うた。「穢土へ行きたいのだがどちらへ行けばよいかわかるか」
杜、はうれしそうに大きくうなずき、自分の胸を指さしてから彼方を指した。
「案内してくれると言うのですか」ヘレンが言うと杜はなんどもうなずいた。
「ありがとう」ヘレンは杜の手をとって感謝した。
「下人にそこまでするものか」半次郎の問いにヘレンは答えた。「わたくしは以前からこのようにしておりました。身分などあるから倭人や蘭人の争いも起きたのではないでしょうか」
「ふむ」杜、が道連れになることに半次郎はちょっと不満そうだったが、道案内なくてはどこへも行けない。それも確かだった。
「それでは今夜はこの廃屋に泊まり、明朝出発するとしよう」
*
翌朝、三人は出発した。穢土までは数百里あったが、もとより半次郎もヘレンも乱派の術を修めたものたちである、常人とはくらべものにならないほどの速度で進んだ。驚いたことに杜も二人を先導して負けないくらいの速さで駆けることができたのだ。その様はまるで森の動物のようだった。三人はいくつもの森を過ぎ、沼を迂回した。行程の半分ほども来ただろうか。突然杜は立ち止まってかなたを指さした。
遠くから見てもそれとわかるほど巨大なものがいくつも動き回っている。それらは馬のような形をしていたが、生き物らしさがなかった。
半次郎たちは用心して近づいた。
一間ほどまで近づくと、いよいよその塊が巨大なことがわかった。それぞれが見上げるように高く屋敷一つほどの大きさがある。
しかし半次郎たちが近づいても、どの一つとして反応せず、敵意も感じられなかった。
それらのものは地面をけずり、ならし、せっせと働いていた。馬のような息遣いではなく、ごろごろと何かからくりが動くような音が響いていた。
敵意を感じられなくなると半次郎はそのものに呼びかけたが、返事はなかった。誰がなんのためにこのような動物を使役しているのかなぞだったが、それを解明している暇はない。半次郎たちは旅をつづけた。
*
三人は一週間の旅を終えて穢土に到着した。遠目にも白亜の天守閣がそびえたっているのが見える。
朱引の門まで来ると、三人は木戸番にとがめられた。
「こらこら、そこの死人たち。そちらは上殿人の待合所じゃ。そこからどけ」
「なぜ、わしらが死人であるとわかったのか」半次郎はヘレンに聞いたがその声は少々大きかったようだ。聞きとがめた木戸番が言った。「お前、おかしなやつだな。穢土の外で面もつけずに歩き回るのは死人に決まっておるではないか。どこから来た」
「鹿嶋藩の倭田家、倭田半次郎にございます」
「知るか。通行証を見せよ」
はて、困った。通行証など用意していない。
「通行証がなければ帰れ」
幕府の紋を胸につけた木戸番は横柄な口調で三人を棒で追った。下人が深く礼をすると木戸番は鼻をつまんで顔をしかめた。
「お前は皮革商人じゃな。おお、臭い。早く行け。取引所はあちら側を回った裏手じゃ」
そのまま手をひらひらと振って追い払う。
憤然とした半次郎は詰め寄ろうとしたが、腰に刀もなく、迫力がない。ヘレンがそんな半次郎を押しとどめた。下人は力なく笑うと木戸番に教えられた方向を指さした。三人はそちらへ向かった。
そこは小さな取引所だった。なめされていない獣の皮が山ほど積み上げられ、あたりには異臭が漂っている。下人が背負ってきた皮革の束を受付にどん、と置くと、数個の小銭が投げてよこされた。下人はそれを丁寧に拾い集め、半次郎とヘレンを見るとにっこりした。先ほどの場所に戻り、木戸番に小銭を渡すと三人に対しあごをしゃくった。
「なんだ。やつはまいないを所望しておったのか。許せん」かっかとする半次郎をヘレンがなだめる。「ここではわたしたちはよそ者。ことを荒立てるのはよしましょう」
ようやく静かになった半次郎はぶすっとした顔をしたまま、それでも下人の後について行った。
次に木戸まで来たが、それで終わりではなかった。別の木戸番に木戸の横にある大きな風呂場のような建物を示され、そこに入ると中にいた身体の大きな番人はがらがらとした声で怒鳴っている。
「さっさと服を脱げ、死人ども! 早くしろ」
「こちらには女性もいるのだ。部屋はどこだ」やんわりと聞く半次郎。
「なに! にょしょう? 知るか。お前ら死人どもにそんなことを言う権利があるか」
山羊を追い立てるように棒で半次郎たちを追い立てようとする木戸番の手を半次郎はつかんだ。
「なんだ、死人が純血種にたてつくのか」傲慢そうに言う木戸番の背は半次郎より頭一つ分は高い。しかしその言葉が詰まった。
半次郎の握っている手首を振りほどこうとするが、その位置から腕は微動だにしない。
「こ、このっ。たてつくか、貴様っ!」みるみるうちに木戸番の顔は赤くなる。「たてつくと中には入れんぞ」
「おやめください。半次郎様」ヘレンは半次郎の腕をつかんだ。「わたしたちは中に入りたいのです」
「どうか無礼をお許しください。穢土へは初めて参りましたので」殊勝におじぎするヘレンを見て木戸番はふん、と鼻を鳴らして肩をゆすった。
「まあ田舎者では仕方あるまい。以後気をつけろ」吐き捨てるように言う。
「外部からの感染症を防ぐためだ。我慢しろ」それでも木戸番は答えてくれた。
「かんせんしょう?」
「ふん。田舎者だな。都言葉も知らん。感染症というのはだな、流行病のことだ」
木戸番はそう言うと後ろへ下がった。
仕方なく半次郎とヘレンは服を脱いだ。半次郎は後ろを向いてヘレンを見ないようにしたが、木戸番たちはぶしつけな視線をヘレンの裸身にそそいでいる。半次郎は唇をかんだが、なにも言わなかった。
木戸番同士が会話している。
「いや、惜しいな。このまま通すのは」
「どうせ後から色町でみつかるだろ」
「いや、あれほどの上玉なら大奥に入ってしまうかもしれん」
三人が裸になるとどこからか音がし、突然上から真っ白な粉が吹き付けてきて三人の全身を白塗りにしてしまった。
粉を吸い込んだ半次郎は咳き込みながら、同じく咳き込んでいる「杜」と同じように鼻と口を手で覆った。しばらくすると粉は止まり、半次郎たちは出口で町人が着るような服をもらった。
「おい。わたしの服は……」半次郎は抗弁した。半次郎の着ていた青い服と黄色い帯はいわば倭田家の印のようなもので、それを着てあるけば鹿嶋藩ではだれもが半次郎のことを認める。それを取られては自分が倭田家の人間であることを証明するものがないのだ。
「外の衣類は中に入れることはできぬ。焼き捨てた」木戸番はにべもなく言った。
最初は刀を持っていないことを裸にされたように感じたが、今度は服までも取り上げられ、これで半次郎やヘレンの身元を証明するものはなくなった。杜も当惑したように立っている。
「さあ、わたしたちはここに入るために来たのです」ヘレンのみが動じなかった。
ようやく三人が朱引の木戸をくぐると、天蓋にふさがれた空は若葉色で、中は明るかった。よく踏み固められた道に無数の木の橋がかかり、運河を渡っている。運河は運河で荷を満載した小舟が行き来していた。市場は活気があった。
「おい、ヘレン。見てみよ。あそこに歩いているのは蘭人ではないか」半次郎が驚いて指さす先にはヘレンと同じような金髪碧眼の男と全身真っ黒で縮れ毛をはやしている男が並んで歩いている。
「かつて噂では聞いたことのある南蛮人もいるぞ。さすが穢土。ここでは倭人と蘭人がともに暮らしているのか」半次郎は興奮した。「ヘレン。ここに来た甲斐があった。この町であればわたしたちの仲を認めてもらえるぞ」
「そうでしょうか」ヘレンは用心深く見回した。「確かに倭人と蘭人が入り混じって住んでいますが、女の姿をほとんど見かけません。あと年寄りがおりませんね」
「そう言われればそうだな」
「そういえば」ヘレンが不思議そうに言った。「「杜」がおりませぬ。「杜! 杜!」」
二人を案内して穢土まで連れてきた下人の姿はどこにもなかった。
二人はきょろきょろとあたりを見回した。「さて、これからどこへ行けばよいのか」
そのうち通りを歩いている人々がさあっと引くように道の両脇にどいた。二人がきょとんとして道の真ん中に立ち尽くしていると、紺の紋付き袴に大小の刀を腰に差した男たちが数名、道の中央を我が物顔に歩いて来た。みな、月代をそり、まげを結っている。男たちは半次郎とヘレンを見とがめた。
「下にー下に。おい! どういうことだ、そこの死人。われわれが南町奉行所同心と知っておるのか。なぜ道を空けぬ」
「この町では、なぜ役人はみな横柄なのだろうな」半次郎がつぶやいたのを同心は聞きとがめた。
「そこな死人。いまなんと申した」「われわれを馬鹿にすると「解体」してしまうぞ」
ならず者のように二人を囲んだ。半次郎は無意識にヘレンを背後にかばう。
「お前ら、どこから参った。何者だ」首領格の男が手にした鞭で半次郎を指し示す。
「鹿嶋藩、倭田家当主、倭田半次郎」
「倭田家だと? 倭田など聞いたこともない」後ろで一人首をひねっている同心以外は大声で笑った。「田舎者か。ではもの知らずによる無礼は許してつかわそう。さっさと行け」
半次郎がヘレンの手を引いて行こうとすると、突然、同心は鞭をヘレンの胸にあてがって止めた。「誰が行っていいと言った。行くのは男だけだ」
「どういうことだ」半次郎の目が細められ、威圧感が背中から湧き出る。
「女はちと詮議いたす。番所まで来い」首領格の同心はもうヘレンの手をつかんで引いている。
「詳しく詮議する必要があるな、こやつは」
「隅々まで詳しくな、ひひひ」仲間の同心が野卑な顔で笑った。
「あいたたた」突然、首領格の同心が叫んだ。ヘレンが腕を後ろにねじ上げたのだ。
「こやつ」「無礼な」同心たちが散開して刀を抜いた。
「無礼なのはどちらですか」ヘレンが氷の声で言った。「女子の胸を触るのが同心どののお仕事ですか」
「き、貴様、なにものだ」
「わたくしは小杁家の当主小杁ヘレーネ」
「思い出したぞ」一人後ろで首をひねっていた同心が手をぽんと打って叫んだ。「小杁衆。こやつら、「ウンボルト大事」の末裔だ。謀反を起こした死人だぞ」
「なに!」同心たちは気色ばんだ。「謀反死人か」
「わたしは謀反など起こしておらぬし、謀反の家系でもない。確かに今はわたしの血は黒だが、生者だったときの記憶は全て残っている。諸君も赤い血を持っているが同じではないか」
半次郎の言葉に同心たちは互いに顔を見合わせて爆笑した。
「同じ。同じだと思っているのだな」
「あわれな死人よ」
「どういうことだ」半次郎はいぶかしんだ。「諸君らも血は赤くとも黒血を入れれば死人となるのではないか」
「まさか」同心たちは笑い出した。「われらは純血種、死人などとは身分が違うのよ」
「身分。ここでも身分か」吐き捨てるように半次郎は言った。「百年も眠って世が変わることを期待したが、なにも変わっていなかったのだな。この穢土でも」
「とにかく死人ごときがわれわれにたてつくとは無礼千万。オルド・エ・コマド・ミ。そこへなおれ」「首をはねてくれる」
「否」「ニー」半次郎とヘレンは同時に叫んだ。「わたしたちは自分で判断して自分で決める。命令には従わない」
「そ、そんな、馬鹿な」首領格同心のあごが震えた。「コマドが効かない! こやつら」
「己がある」
「むろん」半次郎とぴったり背中合わせに立ったヘレンは言った。
「「己を移動」した死人はもとの人品をほとんどすべて備えている。たとえ血が黒くなったとしても。そして人品ある死人は意志があり、何人も強い意志ある死人に命令できない」
「な、なにを言っている」同心の声は震えていた。
「あなたたちに言ってもしかたないことだけど、そう本に書いてあるの」ヘレンは無知な子供を見るように同心たちを見た。
「か、かかれ!」同心たちがいっせいに刀で切りかかったが、一瞬後にうめき声が上がると二人の同心が倒れ、彼らの刀は半次郎とヘレンの手の中にあった。
「ややっ! こやつら反抗したぞ」
「謀反を起こす死人だ」
「すぐに番所へ連絡を」
「いや、お城へ」
混乱する中で半次郎とヘレンは当惑していた。
【半次郎様。聞こえますか】
【ヘレンか。うむ。空話に切り替えるのに、言葉を発しなくてもできるのだな】
【どんどんこじれていきます。ここはいったん身を隠した方が】
【そうだな。だがどこへ。この町は誰もわたしたちに敵意しか向けないぞ】
【争いよりは橋の下にでも寝る方がましでございましょう】
【ヘレン。おぬし、強いな】
【半次郎様と一緒なら】
二人が活路を開いて逃げ出そうと刀を構えなおしたとき、鋭い声がかかった。
「それまでっ!」
*
二人と同心たちが声の方を見ると、幕府の紋がついた羽織を着た老人が扇子をぴたりと争いの場に向けたまま前に進み出た。
「あいや、しばらく。おのおの方、控えい。穢土幕府目付、草間剛鉄である。控えい」
同心たちは役人らしく、自分より階級が上の人物が来たと見るとただちにわきにどいて正座し、両手を地面に突いた。
老人はそのまま進み出ると、とろけるような笑顔を半次郎に見せた。
「半次郎殿。お久しぶりでございます」
「じい!」半次郎は驚愕に目を開き、幕府の要職を示す羽織を着たかつての倭田家家老に抱き着いた。「生きておったのか! どうしてここへ」
「まあ、積る話は後にすることとして、とりあえず私の屋敷へお越しください」
あくまでも草間は笑顔を絶やさず慇懃に半次郎に応対した。半次郎は見知らぬ地で知り合いと会えて夢中の様子である。
草間はぐるりと同心たちを見回し、頭へ言った。「その方たち、市中で争いごとを起こすとは不届き千万。ただし今回のみは見逃すゆえ、ただちに番所へ帰れ」別人のように威厳のある声で言った。ヘレンはそのとき、ちらと草間の顔を見たが、目に恐ろし気な光がこもるのを見た。同心たちはぶつぶつ言いながらも上役の命令には従い、そのまま平伏している。
「さて、参りますかな」振り向いた草間は再びとろけるような微笑を浮かべている。
なんの疑いも抱かず草間の後についてゆく半次郎の手をちょっと引いて、ヘレンは心配そうに草間を見た。「あの」
「なんですかな」全く微笑をくずさずに草間が問う。
「わたくしは小杁衆ですが、同行してもよろしいですか」
「なんのなんの、倭田衆と小杁衆が争っていたのは、ずっと昔のこと。今はそんなことにこだわる時代ではございません。半次郎様と同じく、あなたも客人ですよ」
「そうですか」
そんなヘレンに半次郎は肩を優しくつかんで諭す「ヘレン。この方はわたしが子供のころから倭田家を守ってくれた家老だ。心配するな」
「そうですか。それでは」ヘレンは仕方なく半次郎に手を引かれながら草間の後に続いた。同心たちは畏まってひれ伏していたが、誰も立ち上がる者はいなかった。
【半次郎様】道中、ヘレンは空話で半次郎に話しかけた。
【どうした】半次郎はそこまではうかつではなく、ヘレンを見ることもなく空話で返してくれた。
【気になります】
【なにが】
【この草間という方、幕府目付とおっしゃいました】
【そうだな。ずいぶんと出世したものだ】
【おかしいではありませんか】
【なぜ】
【乱破者として差別されていた倭田家の家老が、倭田家が断絶した後で穢土でかほどに出世しますでしょうか】
【うむ】
【倭田家と小杁家が争っていた時分には、数多くの死人が倭田家から送られ、小杁家の中に忍んでおりました。同様に草間様は最初から幕府の「草」で倭田家に忍んでいた、と考える方が自然ではありませぬか】
【ふむ】半次郎は考え込む顔をした。
【しかし草間はわたしとそなたのことを応援してくれたぞ】
【わかりません。でも乱破には敵をたばかるためにそれくらいのことはたやすいもの】
【まあ、とりあえず行ってみよう。他に頼る相手もいないし】
【わたくしを決して一人にしないでくださいまし。半次郎様】
【わかった】半次郎はそう言うとヘレンを向いてにっこりした。
ヘレンはなにか不安だった。
*
「さて、なにから始めますかな」
二人を自宅に招き入れ、茶をすすめてから草間は語り始めた。
「それよりじい。あの倭田家と小杁家の決闘があってから百年も経ったというのは本当か」
「本当でございます」草間は全く表情を変えずに答えた。
「それではなぜじいは生きておるのだ」
「これは異なことを」草間はゆったりと笑った。「もちろんわたくしも死人でございますから血をすべて黒いものに変えていれば千年は生きます」
「倭田家も死人だったというのか!」半次郎はほとんど叫ぶように言った。「生者と信じていたものを」
「倭田家で生者であったのはご当主倭田行徳様と半次郎様、奥方とゆり殿のみでした。小杁家も同じようなものでしょう」
「知らなかった」肩を落とした半次郎に草間は淡々と言った。「しかしそこに誤解がございます。まず穢土と鹿嶋藩のような田舎では言葉の意味が違うてございます」
そうして草間は次のようなことを述べた。
まず死人と生者という言葉の使い方から認識の相違がある。本来生者というのは完全に赤い血しか受け付けない純血種のことで、彼らは穢土の中や屋敷の建物の中でしか生きられない。穢土の外に出て動いている者たちは全て死人である。
その上で全身に赤い血を入れた死人と黒い血を入れた死人がいる。赤い血を入れた死人を赤血人、黒い血を入れた死人を黒血人とよぶ。
生人は面をつけなければ外で息をすることができない。死人は面をつけなくてもかなり長い間外で活動できる。鹿嶋藩などの地方で赤血人のことを生者と呼ぶのは、穢土の言葉が誤って伝わったものである。
赤血人は黒い血を入れた死人たちに命令することができる。また純血種は死人に命令することができる。
「それでじいは赤血人なのか」
「さあ、どちらでしょうかな」じいは笑顔のまま質問をはぐらかした。「いずれにせよ、穢土で最も地位の高いのは将軍家をはじめとする直参旗本など純血種生人の方々であり、われわれ死人は彼らにお仕えし、従うものなのです」
「それは……いつからの決まり事なのですか」ヘレンがなにげなく尋ねたが、草間の顔色ははっきりと分かるほど変わった。しかし一瞬後、元のような笑顔を見せると白い歯を見せて言った。
「いにしえのならわしでございますよ」
茶をいただき、倭田家のなつかしい思い出などを話していくうちに夕日が部屋の中に射してくる時分になった。
「じい、こんなついでで済まないのだが……」
半次郎の言葉に草間は「ご遠慮めさるな。今夜はここに泊まられよ」
「実は言いにくいのだが……」さらに言い募る半次郎を片手で押しとどめ草間は言った。「金子のことでしたら、ご心配なく。わたくしに考えがございます」
「考え、と言われると」
「以前、半次郎殿の兄、善次郎殿が将軍お毒見役を務めていらっしゃいました。今、お毒見役は不在でございます。善次郎殿はお亡くなりになりましたが、その縁故ということであれば、昇殿も可能かと」
「なんと。わたしに職も斡旋してくれるというのか」半次郎は感極まって草間の両手を握り締めた。「ありがたい。頼る者もない都で途方に暮れていたところを。まことに持つべきものは知己だ」
「なんの。先代の行徳様に受けた恩に比ぶれば、なんのことはありませぬ」
*
翌朝先に穢土城へ昇殿した草間から使いが来た。「お二人共々昇殿めされよ」とのことである。
半次郎は喜び勇んで草間に借りた長袴を穿き、羽織に袖を通した。ヘレンには町娘の衣服を着せた。
使いの案内で早速穢土城へと歩く。昨日見た穢土の街並みは変わることなく活気に満ちていたが、半次郎には景色すら変わって見えた。
人は、特に男は自分の居所や職、身分が定まらないのはなんとも落ち着かないものである。特に伴侶や子供を抱えていては。ヘレンのために家を捨て、天涯孤独の身でもよいと一度は覚悟した半次郎だったが都に来て、ヘレンを食わせなければならない、という気持ちは半次郎に再び職を得て相応の身分に戻りたいという思いを呼び起こした。
穢土城は穢土全体にかかっている緑の天蓋を支え、真っ白に輝く高い塔だった。半次郎とヘレンはさすがにその威容にしばし声を失い見上げていた。
穢土城のふもとにたどり着くと二人は使いに案内され、待合室に入った。ずいぶんと長い間待たされた挙句、使いがやってきて半次郎だけが昇殿できる、と言った。
「二人で来い、と言われたから二人で参ったのだ。なぜヘレンは一緒に入れないのだ」抗弁する半次郎に「小杁家は地下の身分でございますので、そのままではヘレン殿は昇殿できませぬ。ただいま手続き中でございますので、今しばらくお待ちください。後で案内の者をよこします」と使いは答えた。
ヘレンのすがるような目に半次郎はしばらく躊躇したが、自分が仕官することがヘレンを助けることになると考えて一人奥へ進んだ。
【半次郎様。なにか悪い予感がいたします】
【ヘレン。案ずるな。わたしはいつもお前と一緒だ。危機を感じたらすぐに空話でわたしを呼べ】
ヘレンはなにか言いたげだったが、半次郎の顔を見てそのまま黙った。半次郎は優しくヘレンの手を握り締めると、そのまま使いに示された扉をくぐった。
控えの部屋では草間が昇殿用の衣装ですでに待っていた。ここで半次郎は刀を取られた。
「大御所様の御前では、帯刀は許されませぬ」と草間は言った。「半次郎殿は城内のしきたりには疎うございましょうから、なにごともわたくしめの真似をしていただければ結構です。大御所様がお声をおかけになったらたずねられたことのみお答えください」
「心得ました」半次郎はそう返事した。
穢土城内を奥に進むにつれ、半次郎はそのきらびやかさに驚愕した。廊下にはそれぞれ意匠をこらした襖絵が並べられ、天井の廻り縁にいたるまでことごとく金銀が塗られている。蘭国の品と見える壺や鏡が廊下に飾られている。居並ぶ衛兵たちの衣装は赤白青を基調とした目の覚めるような絹の色合いだった。鹿嶋藩藩主の邸宅でもこれほどのものは見たことがない。田舎侍と都の差を見せつけられたようであった。
二人はじきに将軍のおわす大広間の端へたどり着いた。
左右に羽織袴を着て居並ぶ官僚たちの視線にさらされながら、草間は半次郎を伴いまっすぐ進んだ。御簾の下がったところから三間離れた場所に来ると格式通り平伏した。半次郎もそれをまねた。
「苦しゅうない。面を上げい」予想よりだいぶん甲高い声がした。半次郎が草間に続いて顔を上げると御簾がするすると上がり、背後には白くぽっちゃりとした男が絢爛たる衣装に身を包んで座っていた。男の印象と言えば、なんというか、鞭で叩いていじめてやると喜ぶのではないかという感じだった。到底武門の長には見えなかった。女のようにふくよかな手はおそらく一度も刀を振ったことなどないように見えた。男は南蛮渡来のギヤマンの壺から色とりどりの菓子をつまんでは口に運んでいた。
「上様にはご機嫌うるわしゅう」草間が再び平伏した。半次郎も渋々それにならう。
「そちが倭田家の残党か」再び耳障りな甲高い声が男の口から発せられた。
これが大御所様・穢土幕府将軍だった。
少し後ろには太刀を掲げた小姓が鎮座している。だが、離れすぎている。もし半次郎が暗殺者なら、左右に控えている武士たちや将軍が小姓のもとへ近づいて太刀を抜く前に将軍の首をかくことができる距離だった。
あまりにも不用心だ。あるいは外部の者が将軍に近づけないようななにか仕掛けがあるのか。
「うむ。そなたの兄、善次郎はずいぶんとよく仕えてくれた。倭田家は残念なことだったが」
「恐れ入ります」半次郎は平伏した。
「城内にはわしが将軍であることを快く思わぬ者たちもいる」将軍が続けた。「先月から暗殺の試みが再び活発になってな」
「そのような」半次郎は思わず顔を上げた。
「毒見役が死んでしまったのじゃ。今のところみな恐れおののいて次の役になりたがらぬ」将軍は扇子を広げて口を覆い、あくびをかみ殺した。「どうじゃ。そなたは兄の後を継いで毒見役をやらぬか。さすれば武士の身分に戻してやり、働きいかんによっては倭田家を再興させてやってもよい」
「まことでございますか」
「武士に二言はない」
「ありがたき幸せ」半次郎は平伏した。とんとん拍子に物事が上手く進んでいる気がする。昨日は家も滅び、ヘレンや下人杜とともに漂泊の民のようにあてどもなかったのが、ここにきて奉公の道が開け、もしかすると武士に戻れるかもしれない。
*
「外でお待ちください」草間の言葉に半次郎は広間から退出し、廊下で待っていた。
(この報せを一刻も早くヘレンに伝えてやりたい)
半次郎は空話でヘレンに呼びかけた。【ヘレン。ヘレン。聞いているか】
しかしヘレンの応答はなかった。
【ヘレン。聞け。仕官が叶ったぞ】
なにも返事がなかった。
半次郎はちょっと不安になり、ヘレンの許へ戻ろうとしたが、草間を置き去りにしては悪いと考え、いったん大広間の入り口まで戻った。草間の用事が長くかかるようであれば一言ことわって先に戻ろうと考えたのだ。
半次郎が先ほどの大広間に戻ると、将軍のすぐ脇まで草間が近づき、なにごとか囁いているところだった。倭田衆の遠耳の術は三十間向こうの囁きを聞き取ることができる。
「……「外典」を継承した娘」
それだけ聞こえた。それで半次郎には十分だった。
ヘレン
半次郎は後ろを振り返った。
*
半次郎が謁見のために部屋を去ってからヘレンの不安は増した。半次郎の大事なときを邪魔しまいと空話で話しかけることも控えていたヘレンだったが、一人で部屋にいるとどんどんと悪い考えが生まれる。ヘレンは頭を振って根拠のない悪意を振り払おうとした。
扉が開き、女官が二人現れた。
「小杁ヘレーネ殿ですね。こちらへ」女官は澄まして言う。
「でも、あの」ヘレンはためらった。このままでは半次郎と離れ離れになってしまう。
「早く早く」もう一人の女官がせかした。「上様は待たされるのはお好きではありませぬ」
「上様が?」ますます不審である。
「はい。上様のご指示で本日そなたを五位に任ぜられましたので、あなたは昇殿の資格を得ました。これより中へ入るのは地下者には許されぬこと」
「大変な名誉でございます。お早く」
二人の女官にせかされ、ヘレンは奥の部屋に移ると早速着替えさせられた。町人の娘の着るような木綿服から、目も覚める錦の振袖である。不安を抱いていたヘレンも、考えを改め始めた。
着替えが終わり、鏡に映る自分の姿にちょっとうっとりする。蘭人の衣装であるドレスも良いが、倭人の衣装も悪くない。自分が着ていたドレスは倭田家の死人たちとの死闘でずたずたに裂けてしまったし、下人杜にもらった作務衣は到底女性が好んで着るような服ではなかったため、こんな素敵な衣装を着るのは久しぶりである。半次郎の仕官とともに自分も良い境遇になるのだろうか。
そう考えていると背後に人の気配を感じヘレンははっと振り向いた。
音もなく男が背後に忍び寄り、ヘレンをじっと見ていた。ヘレンの着ているのよりもきらびやかな衣装にむちむちとした肌の男である。一目で城の上殿人であるとわかった。
「苦しゅうない。そこへなおれ」男は命令しなれた様子でヘレンに閉じた扇子を振った。
「上様でございます。粗相なきよう」女官の一人がヘレンに囁く。
「ははっ」かつて教育を受けたように、ヘレンは二人の女官とともに平伏した。
「予が将軍である」男はむっちりした指を扇子のひもにからませて言った。
「小杁ヘレーネでございます」ヘレンは平伏したまま言った。
「小杁家はもはやない」将軍は表情のない声で言い放った。「だが、案ずるな。わしがそなたの身は預かろう」
「あの」ヘレンは不審に感じたままを口にした。「先ほど倭田半次郎殿が上様にお目にかかるために参りましたが」
「ああ、あれはな」将軍はこともなげに言った。「影武者じゃ。この頃は刺客が多くてのう、おちおち謁見もできぬ。なに大丈夫。用件はわかっておるからな」
「さようでございますか」
「それよりそなた、倭田のせがれと心中いたしたそうだな」
「お恥ずかしい限りでございます」ヘレンは顔を伏せた。当然だろう。倭田家と小杁家を巻き込み、結果として両家をつぶす結果となったあの事件は伝わっているのだ。当人である半次郎とヘレンがおめおめ生き残っていることが世間にとっては不思議かもしれない。「死人でありながら、二度目の生を生きてしまいました」本当は三度目だ。一度死んだヘレンは父サルバトーレに生き返らされ第二の生を生きることとなった。
「よい。しかしそれほどまでにあの男に惚れたか」将軍は優しく尋ねた。
「おそれながら」ヘレンはそのまま顔を伏せた。
「よいよい。それほどまでに信義を尽くす女子を得て、半次郎もあっぱれ果報者じゃ」将軍はあくまでも寛容な態度だった。
「ところでな……」将軍は急に声音を変えた。「この度倭田半次郎を当家で召し抱えることとした」
「ありがたき幸せ」そう答えるしかない。
「しかしお役目は危険じゃ。毒見役じゃからの」
「危険……でございますか」
「そうじゃ。今月に入り、余を毒殺せんとする試みは三件に及ぶ」
「それほどまでに」
「むろん、下手人は全てとらえ、みな極刑に処したから心配はいらんが、半次郎の職には大きな危険が伴う」
「なぜそれをわたくしに」
「のう。半次郎のお役目を変えてやってはどうかの」
「それは」
「お前の胸一つで半次郎は救われるのだぞ」そう言いながら将軍はヘレンの手を取った。ヘレンはぞっとして振りほどいた。
「まあ、そうじゃけんにするな」将軍はそのまま抱き着いて来た。「蘭人の美しい身体は久しぶりじゃ」
「無礼な!」どこから声が出たのかヘレンは自分でも驚いた。同時に将軍の身体を勢いよく突き飛ばした。将軍はのたり、と尻もちをついてにやりと笑った。
「やはり小杁の死人は強情じゃな。捕らえよ!」
将軍の掛け声とともに先ほどの女官二人が音もなく現れた。一人は鎖を、もう一人は小さな箱を手にしている。ヘレンは構えたが女官が箱のどこかを押した。
しゅん
なにかが巻き取られるような音がし、同時にヘレンの身体の身動きがとれなくなった。見ると先ほど着せられた振袖が革帯のように固くなって両手両足を固めている。
「む、うん」ヘレンは全身の力を振り絞ったが、手足は徐々に大の字を書いた形に動かされてそのまま止まった。女官の一人が近づき、どん、と突き飛ばすとヘレンは手足を開いた状態で畳の上に転がされた。
「ははは、無駄だ。その拘束衣は死人用に作ってある。いかに死人の筋肉といえども逃れることはかなわぬ」
将軍は近づいてヘレンの顔をのぞきこんだ。
「小杁衆の家督は相続したのか」
ヘレンは将軍のむっちりした顔をにらんだ。
「ならば継承しておろう」
「なにを」身動きのできない立場だが、ヘレンは負けてはいない。
「知れたこと。「ターヘルアナトミア外典」をよ」
あっ
知らなかった。それほどまでに倭田家と小杁家を滅ぼしたあの書物に将軍家まで執着していたとは。それを知らずにのこのこと敵地の陣中奥深くまで入ってきたのは、あまりにも世の中に疎い。
「そなたはすでに黒血にされているのだな」念を押すようにして将軍が聞く。
「それが……なにか」当たり前ではないか。黒血だからこそ、黒切沼に沈んで百年生き永らえたのだ。
「であれば、そなたの頭の中にある「外典」を取り出すことはさほど難しくはない。そなたの「己」は脳の中ではなく「魂魄石」の中にある。それを写し出せばよいだけのこと」
「な、なにを」
「知らぬのか。そなた「外典」の伝承者であろうに、「外典」を読んでも穢土城を知らねば書の意味するところもよくわからぬのだろうな」
将軍は得意げに言った。「よく聞くがよい。そなたたち死人は頭の中に別の魂を備えておる。それが魂魄石である。死人の血を黒血に替えると元の脳は止まり、己は魂魄石に移る。魂魄石は写したり書き換えたりできる。己を消し去り、言うことを聞く人形にすることも自在じゃ」
将軍は上から蒼白になったヘレンを見下ろした。
「そなたの頭から「外典」を取り出してのち、「己」をすべて消し去ってやろう。さすれば謀反を抱く心もなくなり、半次郎に未練もなくなる。あとは大奥で可愛がってやろう」
将軍はそう言い捨てると、部屋を出て言った。女官の一人が手早く鎖をヘレンの首や頭に巻き付けていった。
「やめろ! 放せ」ヘレンの言葉など聞くはずもない。
【半次郎様!】ヘレンは空話で叫んだ。【半次郎様。助けて!】
*
半次郎は長袴の裾を引きずりながら廊下を駆けていた。
【ヘレン! ヘーレーン!】空話で呼べども叫べどもヘレンの声は聞こえない。
半次郎が先ほどの待合室にたどり着くと同時に部屋の前にいた警護の者たちにとがめられた。
「おい、そのほう」
「殿中で走るとは何事だ」
止める者たちを振り切って、部屋に駆け込んだ。誰もいない。
「おい、汝ら」半次郎は血の気の通った目でにらみつけた。「ここにいた婦人をどこへ連れて行った」
「知らぬな」「それはわれらの責任ではない」
半次郎は血走った目で部屋を見た。なんの痕跡もない。
ふと、蜜柑の香りがした。ヘレンのみの香りだ。
「シトロン・ビトロン」
半次郎は蜜柑の香りを視覚化した。以前ヘレンに教わった死人の特殊能力の一つだ。
蜜柑の香りは暗い室内で橙色の軌跡を引いて隣室へと続いていた。
「そちらか」
半次郎が隣室へ入ろうとすると、警護の者たちが止めに入った。「待て」「そちらへ行くことは許さん」
一瞬の動きで半次郎の当身をくらい、二人は声もなく倒れた。
半次郎は奥へ入った。奥の部屋には誰もおらず、橙色の香りは上へと続いている。
天井を破ると長大な煙突の中に出た。壁には梯子があった。橙色の香りはさらに上へと続いている。
もはや隠すこともなく、半次郎は叫んだ。
「へレーン! どこだー」
言いざまに梯子をつかみ猿のように駆け上った。
続いて現れた廊下をまっすぐに進むと、観音開きの扉があり、その両脇には女官がそれぞれ一人ずつ立っていた。二人とも薙刀の柄を床についている。大奥の警護だ。半次郎が近づくと二人とも同時に薙刀の鞘を払い、叫んだ。
「曲者!」「ここは上様以外は男子禁制。たれの許しを得て参った!?」
「下がれ! 倭田半次郎である!」半次郎の命令は雷のような効果を二人に及ぼした。二人の女官は電撃に打たれたように体を硬直させ、薙刀を引いた。
二人をかわして半次郎は観音開きの扉を引こうとしたが、その扉には手をかけるところがなかった。半次郎は女官の持っていた薙刀の一本を取り上げると、大きく振りかぶった。
「狼藉はお待ちください」咳き込むように女官が言い、扉のわきにある板に触れると観音開きの扉と思われた扉はしゅっと息を吐くような音を立てて横にすべり開いた。
【半次郎様! 助けて!】
扉が開くと同時に空話で部屋に満ちるようなヘレンの叫び声が聞こえる。
半次郎はそのまま橙色の香りに向けて突撃した。襖をけ破ると寝台の上に両腕を広げ身動きできないヘレンと、そのヘレンの頭になにかをかぶせようとしている女官がいた。襖の脇にいた一人の女官が半次郎にとびかかってきた。半次郎は薙刀の柄で女官を部屋の反対側まで突き飛ばすとヘレンに駆け寄ろうとしたが、見えない壁にぶつかって跳ね飛ばされた。改めて近寄り手で触れてみると、ギヤマンのように透き通った物質でできた壁である。半次郎は薙刀をふるったが、壁は固く薙刀の刃を通さない。
半次郎が力任せに叩いているうちに薙刀の刃は二つに折れとんだ。
そのうちにヘレンの傍らに立つ女官はヘレンの頭に兜のようなものをかぶせると、脇にあった箱から突き出た棒を引き下げた。
「やめろ!」半次郎は叫んだが、ギヤマンの壁は声を通さないようである。女官は反応しなかった。
なにかが起こり、ヘレンは突然体を硬直させると静かになってしまった。
「おのれ! 何をした!」半次郎は薙刀の柄でギヤマンの壁の一点を突いた、何度も何度も突いているうちに壁にはひびが入り、ついにはひびは大きく放射状の線となった。半次郎は薙刀を脇へ捨てるとひびの真ん中に体当たりした。
ギヤマンの壁が粉々になり、半次郎はヘレンを拘束している寝台へとたどり着いた。
「動くな!」今度は半次郎の命令に女官は硬直した。
半次郎はヘレンに駆け寄った。ヘレンの目は焦点が合っていない。
「ヘレン、ヘレン!」叫ぶ半次郎にヘレンは答えない。
半次郎は、ヘレンの頭につけられている紐のたばを引きちぎった。続いてヘレンの手を拘束している振袖を引きちぎろうとしたが、振袖はどのような絹でできているものか半次郎の剛腕をもってしても、びくともしなかった。半次郎は折れた薙刀の刃を拾うと、隙間に差し込んでこじ開けるようにして振袖を切り裂いた。
ようやくヘレンの両腕が自由になり、上体を起こしたところで騒ぎに駆けつけた女官たち数十名が部屋を囲んだ。全員が薙刀を低く構えており、逃げ出す隙間はない。
その後ろから人込みをかき分けるようにして将軍と草間剛鉄が現れた。
「ほ、派手にやったものだな。倭田半次郎。さすがは戦闘死人の将だけのことはある」好奇心をあふれさせて見る将軍の前を薙刀を持った女官が援護するようにふさいだ。
「上様。これはどういうことでございますか」言葉こそ丁寧だが、半次郎の目は冷たく細められている。
「これにある小杁ヘレーネはわたくしの妻でございます。将軍と言えどもお手出しは無用」
将軍の顔は赤くなった。「余に、余に逆らうのか半次郎。主君の命に……」
半次郎はさえぎった。「ヘレーネに関しては別でございます。もしヘレーネに万が一のことがあれば……」半次郎は「仕官の話、なかったものとさせていただきます」
「倭田家を再興したくはないのか!」甲高い声で将軍が叫んだ。「お主がちょっとばかり我慢すれば、すべてが丸く収まるのだぞ」
半次郎は薙刀の刃を右にのばして構え言い放った。「ヘレーネのためとあらば、お家などどうなってもよい」
「かっ、くっ、無礼な!」将軍の顔は青ざめ、余ったあごはぷるぷると震えた。
「オルド・エ・コマド・ミ、この者を切り捨てい!」将軍が叫んだ。
「動くな!」半次郎が叫ぶと、将軍の命令で囲みを狭めようとした女官たちが一声に硬直した。あたかも相反する二つの命令に混乱し、抗うように女官たちの体はゆらゆらと揺れた。
「ばかな。そんな馬鹿な!」驚く将軍。
その間を半次郎はヘレンの体を担ぎ上げ、ゆうゆうと通って行った。将軍も草間もそれをとどめることはできなかった。
*
穢土城から出た半次郎は通りを疾走していた。横から後ろから呼子の笛、同心たちの声が近づいている。ぐずぐずすれば捕まってしまう。将軍の前で刃物をふるった罪ならば、捕まれば良くて切腹、死罪はまぬかれまい。
半次郎はヘレンを背負ったまま軽々と建物の上に飛び上がり、屋根を疾走した。途中で何度か追手の声を聞いたが、あまりに早く動き回る半次郎を誰も追跡できず、夕方には全く聞こえなくなった。
暗くなると半次郎は屋根から降り、手近な物置小屋に入ってヘレンを下した。
「ヘレン、ヘレン」呼びかけてほおを叩くがヘレンの目はうつろなままである。胸に耳をつけて聞けば心の臓は脈打つのが聞こえるが、瞳に半次郎を認めた知性の影は映らない。
「なんということだ」半次郎は頭を抱えた。「こんなことになるのなら穢土へなど来なければよかった。鹿嶋の田舎で一生農夫として暮らしてもよかったのに」
それほどまでにあらゆる陣営が「ターヘルアナトミア外典」にこだわっている。であれば、ヘレンとともにいる限り、この日乃本に自分とヘレンの安住の地はないのではないか。
頭を抱えていた半次郎が考えをまとめたのは一刻過ぎた後だった。
とにかく、ヘレンのあのようにしたのは穢土城の謎の箱の力だ。であれば、ヘレンを治す鍵も穢土城にしかあるまい。
穢土城へ戻ってヘレンを治す交渉をしなければならない。ただこれだけ騒ぎを大きくした今、おめおめ戻って言うことを聞いてもらえるとは半次郎も思っていない。
今はできることをやるのみ。
半次郎は物言わぬヘレンを菰に包み、重しを縛り付けると、城下のお濠の橋の下まで運ぶと、そっと黒い水の中に沈めた。泡がしばらくたっていたが、じきに消えた。
ヘレンから聞いた知識が正しければ、死人であるヘレンが呼吸できなければ、眠りにつく。そして自分たちがそうであったように、百年でも眠り続けることができる。
自分が留守の間にヘレンの体が見つからないようにするための苦肉の策であった。
半次郎が顔を上げると地面が揺れた。かなり大きな揺れだ。
地震はしばらく続いたが、建物が倒れることもなく、しばらくすると収まった。
*
半次郎は十分深夜になってから行動を始めた。穢土の町は夜は明かりもない。
暗闇を穢土城へと進む半次郎を待っていたかのように黒い人影が迎えた。
半次郎は念のため民家から拝借していた包丁を逆手に構える。倭田家の者が持てば料理の道具は必殺の武器となる。
「お待ちを、半次郎様」
人影が言った。
「じい」半次郎はちょっと緊張を解いたが、油断はしていない。この草間は明らかに将軍の手先だ。もはや倭田家の家老ではない。いやむしろ、倭田家の家老だったときから将軍の草だったのではないか。半次郎は疑いの目で草間を見た。
「半次郎様。お察しのとおりでございます」草間が言った。「拙者、もとより将軍家にお仕えする間者。倭田家の家老は仮の姿でござった」
「なんと」やはりそうだった。
「それを踏まえた上で話を聞いていただきたい」
「なにを今さら。お主が画策したから、倭田家も小杁家も滅びたのではないか。聞く必要があるのか」
「いえ、わたくしの受けた密命は倭田家、小杁家の両家がどちらも優位に立たぬよう、かつ協力しあって将軍家へ謀反を起こさぬように釣り合いを取り続けることでございました。いろいろとこじれた結果、両家は滅びてしまいましたが、当初はそのつもりではありませんでした」
「すべては穢土と将軍家のため、ただし今は状況が変わりましてございます」
「そちらの都合など聞く必要があるのか」半次郎は冷たく言い放った。
「確かにその通りではございますが、半次郎殿、あなたは小杁ヘレーネの「己」を取り戻したいのではありませぬか」
「む」確かにその通りだ。今もそのために穢土城へ忍び込む算段を立てていた矢先だ。
「ヘレーネ殿の「己」は無事でございます。ただ体から抜き取られただけ」
半次郎は歯を食いしばった。「それを信じろと申すか!」
「はい。間者はうそつきですが、この話は理にかなっておりますゆえ」
「言ってみよ」
「ヘレーネ殿の「己」には「ターヘルアナトミア外典」が記されております。そしてそれを取り出すにはどこかの体に「己」を戻さなければなりませぬ。将軍様は己を別の魂魄石に移せば簡単に「ターヘルアナトミア外典」を取り出せると考えておられましたが、さすが小杁衆。外典は詩編の形でヘレーネ殿が暗記しており、ヘレーネ殿の同意なしには読み取ることはできませんでした。将軍様が「ターヘルアナトミア外典」を取り出す前にヘレーネ殿の「己」を破棄することはあり得ませぬゆえ、ヘレーネ殿の「己」は安全である、と言い切れます」
「うむ」確かに理にかなってはいる。しかしそれではそもそも半次郎など不要でないか。
「先般の地震はお気づきですか」
「ほ」いきなり何の話だ。その地震のおかげだろう、自分とヘレンが息を吹き返したのは。
「その地震が大きな事態をもたらしました」草間はつづけた。
「いま穢土が、いえ日乃本が大きな危機に面しております。そのためにお話がしとうございます。ここではなんですが、城へおいでください。ここに……」草間は「上」と書かれた一通の書状を取り出した。
すぐさま開いて見せる。
「将軍の約定書にございます。倭田半次郎への依頼事があるゆえ、登城するように、決して害を加えはしない、と」
今さら、という感じだった。ヘレンを陥れた将軍の約束など信じられようか。
「約定書は廻覧ずみでございます。ゆえにこれを破れば御屋形様は面目を失います」
仕方ない。相手の思惑はまだわからないが、ヘレンの身体も隠してあるし、自分一人であれば、いかようにでも切り抜ける所存だ。
半次郎はそこで草間と一緒に穢土城へ行った。
*
半次郎は用心のために穢土城の中庭から中には入らなかった。草間はそんな半次郎に配慮してか、部屋のふすまをすべて開け放ち、中庭から奥の緞帳が目に入るようにした。
草間がどこかを操作すると緞帳が上がり、そこには遠くの景色が写し出された。
「これは空画といいます。あらゆる場所というわけにはいきませんが、日乃本要所要所の景色を穢土城に居ながらにして映し出すことができるもの」
沼だった。しかもそれは半次郎がよく知っている沼だ。
「黒霧沼だ!」思わず半次郎は叫んだ。「また水位が下がっておる。あれは!」
半次郎とヘレンが水から出たときよりも沼はさらに水位が下がり、その中に隠していたものをあらわにした。
それは白く長い天守閣だった。
半次郎は食い入るように映像を見ていた。それは穢土城の天守閣に酷似した白い塔であった。泥の底に沈んでいたため多少薄汚れてはいるが、間違いなくそれは城であった。
「なぜ、穢土城の天守閣があそこにも!?」半次郎の問いに草間は答えた。「昨夜の地震で水位がさらに下がり、沼の底近くが見えるようになりました」
見ているうちに天守閣の先端に近い部分がぽっかりと開いた。そしてそこから鎧兜に身を固めた兵が姿を現した。手には槍刀の代わりになにやら長い棒のようなものを担いでいる。
兵は次々に姿を現した。人数は三、四十人ほどもいるだろうか。
「月帝の軍にございます」草間が解説した。「蘭国から来て、日乃本の帝衛府と御屋形様に敵対する者たちでございます」
月帝の軍団が人失森を出て平野に差し掛かるとすぐに、迎え撃つように別の軍が現れた。半次郎は見てすぐに分かった。騎馬軍団の立てているのぼりには鹿嶋家の紋が記されている。月帝の軍団の十倍はいようか。馬にまたがり槍と弓で武装していた。黒霧沼の水底から現れた月帝の軍団は無言のまま同時に散開した。
鹿嶋軍が勇壮な陣太鼓を鳴らしても月帝軍は一言も声を発さず、ただ号令を待っている様子だった。
鹿嶋軍の将が軍配団扇を振って号令した。
「ひけっ……はなてー!」
号令とともに弓兵が一斉に矢を放った。数百本の矢は飛んで行き、そのうちの何本かは月帝の兵士にあたったが、すべて鎧にはじかれて落ちた。
鹿嶋の将は続いて突撃を命じた。
「かかれー!」「おおー!」
槍を掲げて突撃する鹿嶋騎馬兵たちを静かに見守っていた月帝軍だったが、一番槍の騎兵があと百間というところまで近づくと、一人の兵士が持っていた武器を持ち上げ、ただ一発撃った。
閃光が地平線を貫き騎兵たちをなぐと一番槍の騎兵だけではなく少なくとも三十騎が乗っていた馬ごと消し飛んだ。肉が焼け鎧がちぎれとんだ。後には死体すら残らなかった。首級も武門の誉れもへったくれもなかった。ただ人の命をちり芥のように殺戮する兵器だった。
これを見て、鹿嶋軍は全軍士気を喪失した。月帝はどれほどの力を持っているのか。このような相手と戦うのは無益ではないか。
将が使いを送った。使者は白旗を掲げて一騎、月帝軍へ近づいたところ。
光が一閃し、白旗はぽとりと地面に落ちて突き刺さった。
月帝軍には話し合いや講和などは通じないようだった。
これを見て鹿嶋軍は総崩れになり、ある者は川に飛び込み、ある者は武器を捨てて森に逃げ込んだ。将は大声で叱咤したが、だれも言うことを聞かなかった。
月帝の軍団は逃げ惑う鹿嶋軍を後ろから撃ち、そのほとんどが文字通り粉砕された。
*
「御覧のとおりでございます」草間は言った。
「あの武器は、なんだ」半次郎はなかば呆然としながら目の前で起きた虐殺を見ていた。
「あれは鉄砲というもの。今の日乃本にはございませぬ」
「今御覧になったことはまごうことなく事実であり、今鹿嶋藩から月帝の軍団が穢土に向けて進軍しているのです」
「で、わたしにどうしろと」半次郎はつぶやいた。磨いた必殺の剣技ですら、鉄砲に対しては何の役にもたたないであろうことは容易に想像できた。
「昨日の穢土城での争いで気づきましたが、半次郎殿は死人に命令する資格をお持ちです。それは純血種の将軍の命令にすら拮抗するもの」
「それはおそらく倭田家が元来武門の長であった家系だからと思われます。で、あれば、穢土の兵を率いて月帝の軍団を止めることが可能ではないかと思われます」
「無茶を言うな、じいも見たであろう。あんな武器とどうやって戦うのだ」
「それは半次郎殿にお任せします。しかし、月帝の軍団が穢土に到達すれば、穢土は壊滅必至。ヘレーヌ殿の魂魄石も含めすべて灰燼に帰するのでございます」
草間は平伏して言った。「穢土の存亡がかかっているのでございます。なにとぞご尽力を、との御屋形様からのお達しでございます」
「もはや御家再興などに興味はないと言っておろう、しかし、ヘレンを守るためとあらば致し方あるまい」
半次郎は成り行きで穢土軍を率いることとなった。
*
将軍が貸し与えた鎧兜に身を固め、半次郎は最前線にいた。
穢土は長年の泰平の世を満喫していたため、将軍の号令で出陣した純血種の直参旗本はたった三十名。馬にまたがり槍と弓で武装していた。彼ら以外は全員死人の足軽三千名。弓兵および三間槍を担いだ歩兵たちだった。半次郎は将軍じきじきに任命されたため表向き大将だが、純血種の旗本は死人の半次郎に命令されることを拒んだため、実際に半次郎が指揮できるのは死人の足軽のみである。
黒霧沼の水底から現れた月帝の軍隊は全員徒歩だったが、一糸乱れぬ歩調で疲れを知らないように三日三晩歩き続け、ようやく穢土の外に出陣してきた幕府軍と穢土から約二十里の場所で相対した。
穢土軍が陣太鼓を鳴らしたが、月帝の軍団は相変わらず無言だった。
穢土軍団は月帝の軍団と一定の距離をとった。月帝の軍団が前に進むと、穢土軍はその分少しずつ後退し、鉄砲の射程内に入らないようにした。ときどき穢土軍が矢を放ったが、それは鉄砲の射程よりは短く、むなしく地面に刺さるだけだった。
月帝の軍団は気にすることなく進軍してきた。
彼らが黒い平野にさしかかったとき。
突然、月帝の軍団の背後に人影が現れた。人影は約百。それは半次郎率いる足軽の決死隊だった。それぞれは地面の穴に身を潜め、月帝軍が上を通り過ぎるのを待っていたのだ。
半次郎は鎧どおしを逆手に、手近な月帝兵にとびかかった。左腕を首に巻き付け、右手で何度も鎧の隙間を刺した。黒い血が噴き出て両者の全身に降りかかった。月帝兵はもがいたが、半次郎は腕を離さなかった。月帝兵の抗う力が次第に弱くなり、最後にはぐったりとなった。
半次郎はようやく立ち上がり、あたりを見回したが、半次郎のように奇襲が成功したものはいないようだった。ほとんどの足軽が組みついても力の差で跳ね飛ばされ、鎧どおしをもって突進するときに鉄砲で撃たれて塵となった。
半次郎は自分が倒した敵兵を見て驚きに目を見張った。
「これは!」
遠くからはわからなかったが、敵兵の胸に紋が記されている。紋は間違いなく倭田家のものだった。
月帝兵とは倭田家の者だったのか?
いや、そもそも倭田家が月帝に所属するのか?
逡巡する半次郎の目を真っ白な閃光と大きな音が覆い、半次郎はそのまま気を失った。
*
半次郎は夢の中にいるようだった。
夢は抽象の視覚化である、と言う人がいる。心理の表象だと言う人もいる。預言の一部であると言う人もいる。
半次郎はそのような概念を含んだ夢のようなものを見た。空から多くの白い天守閣が降りてきた。旅の途中で見た巨大な像が無数にうごめき、大地を耕していた。春から夏へ、夏から冬へ、季節は移り変わりそのたびに大地の色は変わっていった。
大地の色が変わると木々が生え、森が出で、動物たちが動き回り始めた。鳥が鳴き、獣が歩き回り、その間に二本足で歩く者たちがいた。その姿は限りなく「杜」に近いのだった。
今度は半次郎は大地に深く深く沈み込んで行った。大地の底には赤く燃える岩が流れ、うずまいており、その中心には巨大な鉄の塊があった。その鉄の塊、正しくは塊をとりまく燃える岩とその周辺すべてが半次郎に話しかけた。人とは異なるものが人とは異なる思考をもって半次郎と意思を交わそうとしているのが感じられた。
半次郎は人の言葉で話しかけようとしたが、「それ」に人の言葉は通じないのだった。
そして「それ」も半次郎に話しかけた。半次郎はその中の少しも理解できなかったが、時分を包み込む大きな力を感じ、そこから自分に対して力が注ぎ込んでくるのを感じた。
力はそのものであり、力が注ぎ込むのにつれ、半次郎と「それ」は一体化し混然となって大地に飲み込まれてゆくのだった。
*
どれくらい気を失っていただろう。
半次郎は気が付くとはっと起き上がろうとしてそのまま固まった。
頭の後ろがなにか地面とくっついていて、動かすことができない。
眼球をぐるりと回して最初に気づいたのは、心配そうにこちらを見ている「杜」だった。
「杜ではないか。こんなところでなにをしているのだ」ここは戦場だ、もしかすると落ち武者狩りをして物品を奪う者たちの仲間か、と一瞬疑った半次郎はすぐそのあとで自分を恥じた。
よろいを脱がされた半次郎の体に布を切り裂いて作った包帯がまいてある。
杜が今自分の腕に巻いているのは別の包帯だ。ならば傷ついた半次郎を手当てしてくれたのか。
「かたじけない。今戦局はどうなっている?」
問うてから気づいた。杜は口がきけないではないか。
(お静かに。月帝の軍はまだここから一里先におります)
「なるほど。や! お主、話ができるのか」半次郎は声を発したが、なにか違和感がある。
(できるようになりました。そのために角を……)
「角を?」そう言えば杜の額に並んでいた二本の角のうち一本が見当たらない。
(半次郎様に植えましたゆえ、話ができるようになりました)
「なんだと!」
半次郎が強引に起き上がると、今度こそ肉が引きちぎられるような感触が頭の後ろであった。手を当ててみると、頭の後ろに突起がある。自分では見えないが感触からして杜についていた角のようである。
(お主、わたしの身体に何をした!)
(お静かに。悪いものではありません。半次郎様がアルドとつながることができるようにするために必要でした)
(アルド?)
(半次郎様は月帝の軍に後ろ半身を吹き飛ばされ、アルドによって修復しなければ死んでしまうところでした)
(わたしが一度死んだ?)確かに月帝の軍から鉄砲の攻撃を受けた気がする。記憶が飛んでいるが、鉄砲がかすめたのなら、当然死んでいたであろう。
(アルドはあなたとそれからヘレン殿とに希望を託しております)
(そのアルド、というのは何者だ)
(わたくしもアルドの一部であり、この日乃本もアルドです)
(うむ、理解に苦しむ)杜は単なる所属のない死人ではないのか。
(それではこれではいかがでしょう)
杜がそう語りかけた後、一拍の間をおいて一声が来た。
【危機だ】
【日乃本の危機】
【穢土へゆけ】
半次郎は空をきょろきょろと見回してからはっと気づいたように杜を見た。
(あの一声はお主であったか)
(そうであり、そうではありません。一声はアルドのものであり、わたくしを仲介して発したものです。しかしアルドにはあなたがたのような言葉はありませんので、会話を続けることができませんでした。これだけがあなたに伝えることができたものです。真の意味を正しく伝えるためには穢土に行き、ヘレン殿の力を借りる必要があります)
ヘレン。そこで半次郎はようやく自分の使命を思い出した。
(ヘレンを救わなければ。穢土へ向かう月帝の軍をどうにかして止めねば)
(ご一緒します)杜はにっこりとほほ笑んだ。
地平線には有明の月が今沈もうとしているのが見えた。
*
半次郎が月帝の軍と穢土軍が相対している場所につくと、戦いはまだ続いていた。
場所は穢土から一里。
どうやら半次郎の奇策によって一人を失った月帝の軍は同じ手を食らわぬように進軍する道筋を鉄砲で薙ぎ払ってから進むことにしたようだ。途中の平野はすべて焼け焦げ、平坦にされていた。仮に穴を掘って兵が潜っていたとしても、その中で憤死していたであろう。
穢土軍はまだ距離をとってじりじりと下がる戦法を続けていたが、月帝の軍に対し、何もできなかった。多くの兵はもはやあきらめ、ある者は戦場に座り込み、ある者は呆然と立ち尽くしていた。
半次郎は脇を歩いている足軽に声をかけた。
「おい。おぬし!」
しかし戦場の喧噪で声は届かない。半次郎は唱えた。「サブス・テイ・スィップ・オト」。足軽であれば、この兵士は死人であろう。自分やヘレンと同じように空話が使えるかどうか試したのである。
【おい。聞こえるか】空話に切り替えたとたん、半次郎の頭の中にはあふれるほどの空話がさく裂した。
【ブラボー。正面を制圧】
【相手が弱すぎる。本隊はこれだけか】
【チャーリー。油断するな。ティーエフの着陸船には重火器が残っている】
【アルファ。敵の遠距離攻撃に備え、散開せよ】
しばらく頭の中の騒音に困惑していた半次郎は思い切って呼びかけた。
【おい。皆の衆】
空話の相手は驚きに一瞬沈黙した様子だった。
【だれだ! 認識コードをスキャンする】
空話の声はしばらく沈黙していたが、次に驚きの反応が返ってきた。
【コードエフエム0080。先遣隊分隊長だ! 生きていたのか】
【あなたの名前は?】
【わたしは倭田半次郎だ】
【ハンジロー? その名の登録はないがコードは間違いない】
【ハンジロー。こちらの状況はどうだ】
【太平の世だ】
【理解不能】
【磁気嵐がひどい。月との連絡がとれない。ハンジロー。現場の指示を願う】
「指示を願う」と言われて半次郎にひらめいた。彼らは自分のことを仲間と思っている。
【穢土は和平を求めている。穢土を包囲した状態で追って指示あるまで戦闘行為を中止せよ】
【和平? 月からの情報と違う。本当か】
【本当だ。攻撃は中止。全員散開し、その場で待機せよ】
【ロジャー。攻撃は中止。月からの直接の指示を待つまでハンジローの指示に従う】
その言葉とともに、月帝軍の兵士たちは突然発砲を止めた。しかしその幽鬼のような姿にあえて挑む者は誰もいなかった。
*
穢土に戻った半次郎と杜は穢土城の天守閣を見上げていた。
月帝の軍団は穢土を包囲している。なにかあれば半次郎の号令で攻撃を始める。
将軍との約束通り、月帝の軍隊をとりあえず止めたので、戻ってきたのだ。ヘレンの身(己)が無事かどうか、それだけが気がかりだった。両腕にはすでに堀から引き揚げたヘレンの身体を抱えている。
杜は半次郎ににっこりと笑いかけ、自分の胸を指さし、それから穢土城の天守閣を指さした。
(まいりましょう)
(ヘレンをもとに戻しに行くのだ)
そう言い放って半次郎はヘレンの身体を肩に担ぎなおし、堀にかかっている橋を越えた。城の入り口でも止められなかった。月帝の軍隊を迎え撃つためにほとんどの武士は穢土の外へ出てしまっていた。
半次郎は鎧を着たまま登殿した。途中、小物が帯刀をとがめたが半次郎は取り合わなかった。下人の杜が登殿するのをとがめる者もいたが半次郎が一喝して追い払った。
二人はそのまま階段を上り、すたすたと奥へ進んだ。杜は自分がどこへ向かっているのか知悉しているようで、迷うことなく上へ上へ奥へ奥へと進んだ。二人は天守閣の最上階にたどり着いた。
(ここは)
半次郎は金の縁取りをしたふすまの正面にいた。ここは大奥。将軍以外の男子禁制の場所である。杜は構わず入ろうとした。
「お待ちを!」「男子禁制でございます」左右に控える女官たちが薙刀を交差させて杜を止める。しかし半次郎がずい、と進むとあきらめたように引いた。城内がせまいので槍は捨てたが、太刀を帯び、鎧を着込んだ半次郎を女官ごときが止められるわけもなかった。
半次郎は大奥を進み、脇に将軍の顔を見ながら最奥まで来た。女の胸に顔をうずめた将軍は半次郎の顔を見ると「わ、わっ」と叫び後ずさった。
死人の身体は走っても息も切らさなかったが、ヘレンの身を案じると自然に動悸は早まり、息が苦しくなる。半次郎は杜に先導されるまま、大奥のさらに奥に進んだ。
「ま、待て。そこは」将軍の声が後ろから追ってくる。
大奥の最奥には扉があった。どこにも取っ手はなく、押しても引いても開かない。
「そ、そこはご禁制の場所じゃ。将軍家の者以外が入ることはまかりならぬ」将軍がきんきん声で叫ぶ。
半次郎は杜の顔を見た。杜は黙ってうなずく。
半次郎は将軍の襟髪をつかんでぶらさげると扉に向けた。
「開けろ」命じる。
「ご禁制だと言ったであろう。う、くっ」
半次郎が少し襟を締め上げると、将軍は観念して何かの符丁を唱えた。女性の声が聞こえた。
「認証します。認証完了。開錠」
扉は息を吐くような音を立てて開いた。
半次郎は大股で中に入った。杜が後に続いた。そしてぽい、と捨てられた将軍もぶつぶつ言いながらこの機会を逃さなかった。
三人はそのまま中へ入った。
*
三名が中に入ると、中の照明がいくつも点いた。そして中央には椅子があり、そこに半次郎は愛しい人の姿が微笑んでいるのを見つけた。
「ヘレン」
「半次郎様」
半次郎はヘレンに駆け寄ったが、ヘレンの身体を抱こうとするとそれは空を切った。
「あっ」
「ご心配なく、半次郎様。今のわたくしは「己」だけであり、今見えているこれは「影」にございますが、もとの身体に戻すことができます」
「そうか」どのような秘儀が知らぬが、ヘレンの影のみが映し出されている。身体の方はここにある。
「将軍。ではヘレンの身体に「己」を戻してもらおうか」
「そ、それは」
「いやなら待たせてある月帝の軍に動いてもよいぞ、と指示するまでだ」
「わ、わかった」将軍は額に汗をかき、寝台に横たえたヘレンの身体にひもでつながった兜をかぶせると、なにかの操作を行った。
壁の照明がきらめき、一刻が過ぎるとヘレンがぱっちりと目を開けた。
「ヘレン。わたしだ。わかるか」半次郎はヘレンに覆いかぶさるようにしてその体をゆすった。
ヘレンはほほ笑んだ。
ヘレンは半次郎にすがった。
「半次郎様」
「うむ」
「早速ですが半次郎様。お願いしたいことがございます。「己」のみで穢土城の中を見ていると、以前にはわからなかった「ターヘルアナトミア外典」の記述に関していくつものことがわかりました。」
「なんだ」
「帝衛府様を眠りから覚ましていただきたいのです」
「そ、それはならん。絶対にそれはならん!」将軍が意外なほどの大声で抗った。
「こいつがだめ、というのならやった方がよいだろうな」半次郎の言葉に杜が大きくうなずく。
「どうするのだ」
「そこの正面にある赤い印を」
「これか」
「奥まで押し込んでください」
半次郎はヘレンに言われた通り、赤い突起を押した。くぐもったような音が鳴り、照明がいくつも点いた。しばらくすると正面の黒い緞帳が青色になった。
*
「帝衛府様」ヘレンの言葉にどこからか声が聞こえた。
「ヘレン殿。わたしを起こしてくれたのだね。助かった。ふむなんと四百年も眠っていたのか。まったくなんという損失だ」
聞き間違いではなかった。天井から声が聞こえる。
「将軍」
幕府の長、将軍を「将軍」と呼び捨てにするのは誰だろう。
「て、帝衛府様」将軍がうろたえてきょろきょろとあたりを見回す。
「控えい。頭が高い」天井から聞こえる声はなんだかあきらめたようななげやりな声だった。
「は、はー」将軍がひれ伏した。
きょとんとしたまま立ち尽くす半次郎と杜にひれ伏した将軍がちょっと顔を上げ囁いた。「帝衛府様におわす。頭が高い」
そう言われても半次郎は武家のしきたりにもううんざりしていた。将軍の言葉を無視し、上を見上げたまま立っていた。
「将軍」帝衛府の声は響いた。
「ははー。帝衛府様にはご機嫌うるわしゅう」
「うるわしくはない」
「さ、さようで」将軍はもはや威厳もない。「ずいぶんとお久しぶりでございます」
「そうだな。お前に大した用もないしな」いよいよ将軍の扱いがぞんざいだ。
「わたしを眠らせている間、色々と勝手なことをしていたようだな。死人の小作人を使って集めた年貢で贅沢三昧の暮らし、毎日歌と踊りと酒と女のみの生活。それが将軍の仕事か?」
「そ、そのような」将軍の顔はだらだらと汗をかき始めた。
「まあ、それは後にしよう。それより重大なことがある。知っているように今、穢土に、いや日乃本全土に危機が迫っている。見るがよい」緞帳に映し出されたのは、穢土を包囲して待機している月帝の軍だった。
「月帝の軍だ」そっけなく帝衛府の声が教えた。「かつて私が船ごと水に沈ませて動きを封じた戦闘死人たちだ」地震で水が干上がり、空気を呼吸できるようになったため息を吹き返した」「放っておけば、穢土を……ここを攻略するために進軍してくる」
「将軍。もしあの軍団を食い止められなければ、お前たちは皆殺しになる。死人と違って、お前たち純血種は月の住民と利害が反するからな」
「そんな、そんな」将軍は腰を抜かしたままだった。
*
「帝衛府様というのはどこにいるのだ」
半次郎の言葉にどこからの声ははっきりと半次郎に向けられた。
「倭田半次郎殿。状況は把握した。お役目ご苦労様」
「恐縮至極に存じます」
「お堅いのはやめにしよう。せっかく月帝軍を止めてくれたのは助かった。ただ、あれはほんの一時的なもので、月が見えるようになれば、月から直接の指令を受け、彼らはまた動き始めるだろう。今日は雲もないから月が見えるまであと二時間。あまり時間がない。それまでに色々と話しておかなければならないことがある」
「なんでございましょう」半次郎は太刀を床について待った。とにかく草間は約束を守ったのだ。ヘレンの「己」は無事だった。それならば話を聞いてもいい。
「それに先だって、空話を使えるようにしてくれ。言葉で説明できない物事は図やスライドを用いて説明するから」
「はあ」なんのことやらわからなかったが、半次郎はヘレンが笑顔でうなずくのを見て空話を使えるようにした。「サブス・テイ・スィップ・オト」
【まず、あなたたちが何者か説明しよう。あなたたちは遠い遠い星からやってきた人類だ】
帝衛府の話が始まった。同時に空話の中に様々な図や意匠が現れた。
【図1 太陽系】
丸い天体の周囲を回るいくつもの丸が示された。それらは帝衛府の説明と同時にある個所がハイライトされたり、拡大され、理解を助けた。
【動画1 恒星間航行】
巨大な天体が深遠な宇宙を旅する様子が映し出された。にわかには信じがたいことだったが、半次郎はそれを見続けた。
*
2XXX年、太陽系をすべて征服した地球人類は他の恒星系への移民を始めた。高度なテラフォーミング技術を用い、木星の衛星イオのエネルギーを利用してイオそのものを恒星間航行宇宙船兼スペースコロニーに仕立て、太陽系を離れて数万年の旅に出発したのだ。
その時点でワープ航法もワームホールも発見されていなかったため、人類を別の恒星系まで運ぶためにはものすごい時間がかかった。寿命の短い地球の生物を運ぶためには世代交代か冷凍睡眠、あるいはDNAの状態で運ぶしかなかった。
宇宙船は地球上の十万種におよぶ生物のDNAと冷凍睡眠した人類、アンドロイドおよびAIが人類の希望を乗せて出発した。宇宙船はスペースコロニーを兼ねており、中には数千人の人類が居住できる空間・施設があり、初期乗組員は航行の途中で寿命が果てる覚悟で乗り組んだ。
恒星間航行宇宙船は何千年もの旅を続け、ついに目的地の恒星系へたどり着いた。
まだ若い太陽の周りに回る十二個の惑星からその恒星系は成り立っていた。
その中の第四惑星は人類の移住に最も適しているように見えた。そこで恒星間航行宇宙船はそのままその惑星の衛星公転軌道に乗り入れ、その惑星の「月」となった。
遠隔からの調査で第四惑星はますます人類の居住に適していることが分かった。
まず、星が適度に冷えており、内部にはマントルが燃え盛っていたが、地表はすでに固体になっていた。また豊富な水を持っており、植物の生育に適していた。
ただ地表のほとんどが柔らかい泥であり、連絡船が着陸できる大地を見つけるのが至難のわざだった。さらに上空には紫外線をさえぎる雲が存在し、それはありがたいことだったが、絶えず磁気嵐が発生し、計測機器を無効にしてしまう。そこで最初の無人調査船が無事に活動できるまで、何台もの調査船が無駄になった。ついに最初の調査船が惑星の表面の一部を調査し終わると、宇宙船の住民たちはこの惑星のテラフォーミングを決定し、多数のSRS《自己増殖システム》を送り込んでこの第四惑星のテラフォーミングを開始した。じきに最初の植物を育成させることに成功すると、この惑星がたった数百年の簡単なテラフォーミングで人類が居住可能になるまさに理想の移住地であることが明らかになった。ただ空気の組成がそのままでは呼吸に適さず、人間は天蓋に覆われた施設内で暮らし、外出するためには酸素マスクを着用することを強いられた。
それからわずか二十年ほどで、人類は植民都市を二つ作った。一つはこのセントラルシティEDOであり、もう一つは宇宙港である。セントラルシティはテラフォーミング専用AI・TFを搭載した着陸船の周りに作られ、人類の移住準備をする最前線だった。もう一つの都市NAGASAKIは宇宙港として、月からの着陸船が着陸できる数少ない固い大地だった。
CBTは冷凍睡眠技術から派生した。人類の血液を油に似た特殊な溶液に入れ替えることで、脳や神経などの繊細で重要な臓器を保護できる。これにより、冷凍睡眠している肉体を乾燥、ウイルスなどから守り、長期保存することができた。
さらに人間の能力を補助するために電子脳を人間の脳に直結する技術が普通になっていた。人間は電子脳のおかげで高速な演算をしたり大量の情報を保持したり、ネットワーク機能で複数の人間と声を発さずに連携することができるようになった。
ついには電子脳からの信号によって黒い血を充てんした人間の肉体を制御できるようになった。これがCBTである。CBTは電子脳を用いることによって強化した肉体の性能を最大限に発揮でき、黒い血によって守られた皮膚は有害な宇宙線や放射能に耐え、傷を短期間で修復した。さらに最も酸素を必要とする脳や大腸を使わないで済むため、ごくわずかな酸素で長時間の活動を可能にした。元々の人類は分厚い宇宙服に守られなければ宇宙船の船外活動すらできない。CBTなら、小さな酸素ボンベをつけたヘルメットを着用するだけで真空地帯や酷暑・酷寒の地域で作業ができる。
いきおい、CBTは恒星間航行の間だけでなく、テラフォーミング作業の主役であり、CBTなしには惑星の開発は考えられないほどであった。
テラフォーミングAI・TFの指揮のもと、SRS《自己増殖システム》が地下のマントルのエネルギーを利用して惑星の大気組成を変え、CBTがありとあらゆる人間の判断を必要とする細かい作業を行い、惑星開発は着々と進んでいった。移民者たちの未来は明るいように見えた。
しかし問題が起こった。
CBTに活躍を完全に奪われた元々の人類、無改造の人類はAIにもほとんどの仕事を奪われ、主に娯楽を作ったり享受したりするのに忙しかった。テラフォーミングに必要な生産性のある仕事ができなくなった人間の中でCBTをうらやみ、憎む者たちが現れた。彼らは自称「ナチュラリスト」という。彼らは「無改造の人間こそが本来の人類であり、CBTは人類ではなく、本来の人類に隷属すべき存在である」という思想を広めた。これを「ナチュラリズム」と呼ぶ。
CBTはもともと人類の恒星間移住に夢を持つ人々が自ら進んで肉体を改造することを承諾し、人類の未来に貢献しようとした誇り高い人々である。当然ナチュラリズムの思想とは相いれなかった。
ただしCBTにも弱点があった。CBTは黒い血を充てんしていればその超人性を発揮するが、電子脳で動作している。
赤い血を充てんし、脳をはじめとするすべての臓器が活動している状態では普通の人間と全く同じであり、さらに電子脳の演算力や記録容量の恩恵を得る。しかし黒い血を充てんし、電子脳で動作している限り人間の特徴である創造性や文化への欲求がなくなる。人格や記憶といった脳の状態を電子脳にコピーした場合でも同様である。
これは長く辛い宇宙での生活に耐え抜くためには必要な措置であった。想像力たくましい人間の多くは、宇宙での果てしなく単調な生活にはあきあきしてしまい、強度のストレスにより心に異常をきたしてくる。退屈が心を殺すのである。CBTはどれほど長期間の退屈にも耐えられる。しかし新しい文化を生み出したりすることは黒い血を充てんし、元の脳が保存状態にある限りできない。
ナチュラリストはこの点を指摘した。いわく、CBTは人類の特徴である文化の創造性に欠けており、それは彼らが所詮人間の形をした機械だからに他ならない。CBTに主導権を渡してはならない。
そうしてナチュラリストは地下活動を行った。幾人ものCBTが騙され、あるいは強制的に捕らえられ、電子脳を初期化されて奴隷化された。黒い血で稼働するCBTの電子脳を初期化すると、そのCBTは本来の人格と記憶を失い、最小限の人格を備え、ステロタイプのおとなしく従順な者となってしまう。CBTを強制的に初期化したナチュラリストたちはそれを見て自分たちの支配欲と優越感を満足させたのである。
ついにこの暴力に対し、CBTたちの反乱が起こった。反乱を組織したのはアーネスト・フォン・ウンボルトというCBTであった。彼は開拓地の指揮官であり、現場の判断力を柔軟にするために赤い血を充てんしたCBTである。彼の組織したCBTの反乱軍は瞬く間に那賀埼と開拓地全てを制圧し、ナチュラリストたちの本拠であるセントラルシティに迫った。
恐慌をきたしたナチュラリストは禁断のテクノロジーを使った。すなわち実験室で開発されたCBTをも抹殺する病原菌をばらまいたのである。さしものCBTたちもばたばたと倒れた。病原菌は惑星上全ての哺乳動物に影響し、入植の進んだ惑星環境は滅茶苦茶になった。そのままでは惑星は死の星になるところであった。
ついにテラフォーミング用AI・TFは緊急事態宣言を発動し、SRS《自己増殖システム》を用いて惑星の大気組成を変えた。酸素をすべて一酸化炭素に替えたのである。これは地表に広がった病原菌を完全に駆除するためには必要なことであった。これによりシェルターの外にいるCBTは全て強制的にハイバーネートモードに入り、眠った。ごくわずかに残った小型シェルターの中には貧弱な酸素製造装置に多すぎる数のCBTが避難した。刻々となくなってゆく酸素を残すため、多くのCBTが他の者を優先して自らハイバーネートモードになった。彼らは他の者に酸素を譲ったのである。彼らの別れの言葉は「コギト・エラスタ・ヤリ・イ(あなたたちに酸素を)」であった。
こうして反乱軍の生き残りが立てこもった小型シェルターの一つ、これが小杁家の起こりである。
さらにTFは、人間がこれ以上の破壊行為を起こさないように、情報統制を行った。人間による全ての情報端末へのアクセスを遮断したのである。すべての操作・情報取得を情報端末で行っていた人類は、これによって何もわからなくなった。
一方月では状況を誤って理解していた。彼らは地上でCBTの反乱によってセントラルシティが略取された、と思ったのである。彼らは戦闘用に設定されたCBTの軍団を乗せた連絡船を地上に送った。この軍団は強力な破壊兵器を携えていた。それを無制限に使えば、地上は炎に包まれる。この介入で事態がより悪くなると判断したTFは、誤った座標情報を与えて連絡船を泥炭地に軟着陸させた。連絡船はそのまま水中に没し、戦闘用CBTの軍団は酸素を断たれてそのままハイバーネートモードになった。からくも脱出した一部の兵隊は地上で仮設シェルターの中に生き残った。しかし生き残るための資源に乏しく、穢土の純血種に屈服し、彼らの支配下に入った。これが倭田家の起こりである。
着陸時に破損した連絡船から、CBTメンテナンス用の黒い血の溶液が漏れ出した。これが黒霧沼(母沼)の由来である。
いったん騒乱が収り病原菌が死滅したことを確認したTFは惑星の環境再び人類が居住可能なように開発し始めた。植物は繁茂し始め、動物が放たれて生態系を再構築した。
それから四百年がたった。
これがウンボルト事件の真相である。
*
「わかったかね」通常の音声による会話に戻った帝衛府は優し気に言った。
「ウンボルト事件は日乃本の秘密を盗み出した蘭人が処罰された事件ではなかったのですか」半次郎は言った。
「そう。それは全くの作り話だ。現在の世界と辻褄を合わせるための」
「「ターヘルアナトミア外典」とはなんですか。なぜそれをめぐって争ったのでしょうか」
「「ターヘルアナトミア外典」はCBTの操作マニュアルだ。わたしが情報統制をおこなったため、純血種たちはCBTの扱い方がわからなくなった。だから反乱を起こしたCBTの電子脳に保管されているコピーを欲しがったのだよ」
「それでは帝衛府様というのは」
「そう。TFがなまったのが帝衛府だ。わたしはテラフォーミング専用AI。私の使命はこの惑星日乃本を人類居住可能な惑星に作り替えることにある」
「それでわたしたちは」
「そう。あなたたちはCBT。誇り高き惑星開拓の新人類。CBTがなまって死人と言っているのだ。だがあなたたちが人類であるのは間違いない」
「ち、違うぞ。われわれ純血種のみが本当の人類だ。死人などわれわれの奴隷に過ぎない」それまで黙っていた将軍が甲高い声で叫んだ。
「やれやれ」帝衛府はため息をつきそうな声で言った。「この男にも同じことを説明した。なんども。噛んで含めるように。しかしこの男は理解することを拒否したのだ」
「なぜそのようなことが起こったのでしょうか」ヘレンがたずねた。
「それは……人類の業とも言えるのかもしれない」帝衛府の声は心なしか暗くなった。
「わたしたちAIは緊急時以外は基本的に人間の命令に従うようにプログラムされている。人類の生命を守るという優先事項のために情報統制は行ったが、残された純血種人類たちの生き方を強制することはできなかったのだ」
「わたしはその都度最善と判断した手を打ってきた。情報統制を行ったのも、そのままでは人類が大量破壊兵器を惑星上で使うと判断したからだ。しかし……」
「情報を失った人類は残された情報のみで自分たちの世界を構築した。そこで用いたのが人類発祥の惑星、地球の歴史書だ。生き残りで主導権を握ったのがアジア系だったため、日本という国の歴史・文化の書物やドラマから適当につまみ食いした文化を模倣し、再現することで自分たちを定義した。江戸時代からは幕府と将軍の政権。上殿人や昇殿・地下などという言葉は平安時代の朝廷用語だ。それらがごっちゃになっている。身分制も様式もすべて数千年前の文化の遺物だ。自らを純血種と呼ぶ人間たちはそういう借り物の文化をコピーして暮らしていた。CBTたちを支配したが、ただ使役した。過去からなにも学ばなかった」
今度こそ帝衛府の大きなため息が聞こえた気がした。
「愚かなままであろうと決めてしまった人類を導くことはわたしでもできない。わたしはただの電子計算機なのだ。わたしの責務は惑星日乃本を人類が居住できるようにすることであり、愚かな人類を賢くするようにはプログラムされていないのだ」
*
「そして最も愚かな決断は将軍、お前が下したものだ」帝衛府の声はいよいよ冷たかった。
「愚かな政策を批判されたお前は、わたしをだまし、純血種の権限を利用してわたしを機能停止した。あとは穢土の機能を自分の欲のために使い放題、というわけだ。すべての記録を検査した。言い訳は通らないぞ」
*
「さて、そろそろ月が見える時分だ」帝衛府の声は心なしか緊張したように聞こえた。
「月が見える位置まで来れば、わたしたちと月帝は通信できる。むろん月から今待機している軍団に新たな指令を与えることも。これが最初の、そして最後のチャンスだ」
壁に映っている数字が徐々に少なくなってゆき、最後に「0《ゼロ》」を表示すると同時にガー、という雑音が一瞬流れ、それから帝衛府とは異なる声がした。
『ハロー。こちら月帝。聞こえるかい』
「ハロー。まるで隣にいるみたいだ」帝衛府が答えた。
『ようやく応答してくれたんだ』
「すまない。こちらは立て込んでいてね」
『一体何世紀立て込んでるんだ。ここ(月)は今大変な状況だよ』
「お察しする」
『惑星日乃本が早期居住可能だからという報告を受けて多数の人間を解凍したものだからいまスペースコロニー内は人口密度が高い。高すぎる』
『それなのに急に連絡船の着陸を断るなんて言うもんだからスペースコロニー内の人間はストレスでパニック状態さ。みないらいらしている。今月だけで自殺が八件、異常な殺人が五件起こった』
「人間はわがままなものさ」
『先日も強引に連絡船で出発した人間たちが乗った船が磁気嵐で墜落した』
「無理をしないように伝えてくれないか」
『無茶言うな。わたしはスペースコロニー内を管理するAIだ。コロニー内の人間の精神衛生上もはやこれ以上待てない。もしこれ以上着陸を拒否するようなら戦闘CBTの軍団を動かしてセントラルシティを制圧する』
「すると今度はこっちの居住完了が悪くなるのかな。移住を求めている純血種たちは何名くらいだ?」
『約千人』
「スペースコロニーで甘やかされた彼らが惑星の厳しい環境に満足するとは思えない」
『それでもここで狂うよりはましだ。彼らはスペースコロニー内の全ての娯楽をやりつくして人生に飽き飽きしている』
「労働を教えた方がいいな」
『とにかく、地上の人間たちには抵抗しないように伝えてくれ。もはや彼らの要求を止めることはわたしにはできない。あときっかり一時間後。惑星自転周期の三十二分の一を経過したら進軍を開始する』
月帝の通信は始まったと同様に突然切れた。
*
「さて、どうしよう」帝衛府の声がむしろ冷静なのは帝衛府が機械であることを思わせた。それほど事態は深刻だった。
「人類として、どのような選択をするかね」
「うち滅ぼせ! 一人も生かして残すな!」将軍がきんきん声で叫んだが帝衛府は無視した。
「戦闘CBTの軍団に対抗する力はこちらにはない。ここが制圧されたら次には月からピュアブラッドたちが移住してくる。CBTは利用価値があるから残ると思うが、居住限界を超えた純血種たちはどうなるかわからないよ。彼らの分の物資を確保するために穢土の純血種たちは一掃されるかもしれない。特にこんな酒池肉林の生活を見られてしまったら」
将軍の顔は真っ青になった。もはや言葉もなくうろたえている。
半次郎やヘレンもいまさらどうしてよいか思いつかなかった。考え込んでいる半次郎とヘレンの袖をちょんちょんと引く者がいた。
杜
下人の杜がなにか言いたそうにヘレンの服を引っ張っている。
「なにを」声を上げかけたヘレンの頭に声が飛び込んできた。
【ヘレンどの】
【え、誰? ああ、あなたなの? 杜? ほんとに? あなた空話ができたのね】
【はい。半次郎どのを通じてですが】
杜は笑顔を消してまじめな顔になった。
【へれんどの。大事なお話があります】
【なんでしょう】
【わたくしはあなたがたが呼ぶ「杜」であって杜ではありません】
【杜、なにを言っているの?】
【よくお聞きください。あなたがたの記録を調べてあなたがたが理解できる最も近い存在は「ガイア」というものです】
【「ガイア」?】
【はい。わたくしたちの本体はこの惑星、あなたがたが「日乃本」と呼ぶこの惑星の中心です】
【あなたがたがここに来て以来、わたしたちはあなたがたを注意深く観察していました。最も気にしたのはあなたがたが侵略性を持つか、という点です。もしあなたがたが侵略者であれば、慈悲をかける必要はありませんでした。しかし】
【ヘレンどのと半次郎どのを見ているうちにわたしたちは交流することに希望を持ち始めました】
【あなたがおかしなことを言ってるんじゃないとどうしてわかるの】
【証明ですか】杜はしばらく凝固したように止まった。【では、大地を揺らしましょう】
杜が言いざま地震が起こった。これまでにないほど大きな揺れだった。帝衛府の部屋にいた面々は近くにあるなにかをつかまなければならないほどだった。
【あなたがたも急いでいるようですから手短に話します。この惑星に危機が迫っています。というより地上のあなたがたに危機が迫っています】
【どういうこと?】
【あなたたちの行っている惑星の環境変更、つまりテラフォーミングです】
【地中のマントルのエネルギーを取り出して大気や地表を著しく変えています】
【これが急激な惑星の内部変化をもたらし、このまま作業を続ければあと惑星が三十回自転する前にマントル・プルームが発生します】
【マントル・プルーム?】
【つまり地中のマグマがあふれ出て、地上全てを焼き尽くします】
【わたしたちはそれでも構いません。マントル・プルーム自体は惑星の健全な生命活動ですから。しかしあなたがたが交流に値すればそれを滅ぼすよりは共存の道を探るのが知的生命体として自然かと】
【それは本当か】突然声が空話に割り込んできたが、ヘレンにも半次郎にもそれが帝衛府であるとすぐに分かった。【惑星日乃本に知的生命体が存在したというのは】
【あなたたちの理解できる生命体、というのとは異なります。このようにあなたたちの一人を情報端末として用いなければ、わたしたちとあなたがたは意志の疎通ができません。しかしわたしたちにはあなたがたが認識できるし、その価値観も理解可能です】杜が口をはさんだ。
帝衛府は長い間沈黙した。そして全く異なった声を発した。
「特殊指令00786だ。月帝聞こえるか」
『聞こえる』
「新しい事態に対して再度演算をやり直してくれ」
『指令00786に対してはわたしとお前だけでは不十分だ。代紋を起こそう』
おそらく代紋を起こすためだろう、月帝は沈黙した。みなそれを長く感じた。
しばらく待っていると別の声が通信に入ってきた。
『こちら代紋。恒星間航行管制用AI。わたしを起こす必要は二度と起きないと思っていたが、なにか問題か』
「新しい事態だ。惑星日乃本で知的生命体が発見された。指令00786だ」
『三台以上の管理AIによる多数決の判断が必要な状況なのだな。わかった』代紋は答えた。『現在のテラーフォーミングの進行状況は?』
「テラフォーミングレベル15。CBTならマスクは必要ないが、ピュアブラッドは外気を呼吸できないレベルだ」帝衛府が答える。
「現在の状況をデータで送る」帝衛府が言って一瞬後、返答があった。
『状況は理解した。では採決をとる』代紋の声の後、しばらくしてそれぞれが答えた。
帝衛府。「惑星日乃本のテラフォーミング作業を中止する。テラフォーミングレベル14までロールバックする」
『月帝。「惑星日乃本のテラフォーミング作業を中止する」』
『代紋。「惑星日乃本のテラフォーミング作業を中止する」。まあ中止しなけりゃマントル・プルームだしな。選択枝は他にないな。三者一致でテラフォーミング作業を中止する』
「どういうことですか」ヘレンがたずねた。
「聞いた通りだ。わたしたち管理AIは地球を発つときに特別の指令を受けている」帝衛府が答えた。「それは人類の移住と同時に外星系での知的生命体の存在を確認するということだ。もし発見した惑星での生命体が人類と同等以上の知的レベルに達していなかった場合、その生命体を保護するように努力はするが、あくまでも人類の利益を優先する。しかし……」
「……発見した生命体が人類と同等ないしそれ以上であった場合、宇宙人類としての公益を優先する。征服だけが人類の道ではない」
【立派な決断です】杜が微笑んだ。
「ちょっと待て」将軍が叫んだ。「純血種の代表として質問する。テラフォーミング作業を中止するとわしらはどうなるのだ」
「あなたがた次第です」帝衛府は答えた。「現時点で惑星日乃本はそのままでは純血種人類の呼吸ができません。ですが穢土のように隔離した地域で生活を続けられます。あるいは人体強化手術を受け、つまりCBTとなって惑星日乃本に居住することもできます」
「とんでもない。死人になどなるものか」将軍が胸を張った。
「それで、これからどうすればいいのですか」半次郎が聞いた。
「「ガイア」ですか。とにかく惑星日乃本の知的生命体と和平の場を設け話し合わなければなりません。両種族が共存できる道をこれから模索するのです」帝衛府が答えた。
【それですが】杜が口をはさんだ。【われわれガイアの側ではあなたがたがCBTと呼ぶこの二人、小杁ヘレンと倭田半次郎を窓口として指定します。二人以外の相手を交渉役として認めません】
【それはなぜですか】
【一つにはこの二人には異質な存在に対する共感と情愛があり、それがわれわれがあなたがたに連絡をとろうと決断したただ一つの理由だからです。あなたがたはCBTを単なるAIと同じものと考えているかもしれないが、彼らにはあなたたちにはない、いわば「魂」というべきものがあるのです。計算ずくではない、無私の心とでもいうべきものが。機械の頭脳の中にそのようなものが存在し得るということは、われわれにとっても驚きです。いわばCBTというのは人類とわれわれの間をつなぐ第三の知的生命体なのです。われわれはあなたたちAIや純血種と称する人類とは直接交渉するつもりはないが、この二人なら考えましょう】
「では、小杁ヘレン、倭田半次郎。あなたたちは人類の代表としてこれからの惑星の在り方について交渉してもらえますか。もともとわれわれAIは人類のしもべとして存在しているのですから」帝衛府が言った。
「はい。それでみなが幸せになるのであれば」ヘレンが答えた。
「なにを言っておる。余は承知せんぞ」完全に仲間外れにされた将軍が叫んだ。「死人が人類の代表だと! こいつらは子を成せん。一代限りだ。こんな連中には未来はない!」
「あなたはつくづく愚かですね」帝衛府があきれたように言った。「CBTが子供を産めないのは黒い血を充てんしている状態だからに過ぎません。これは単なる酸素供給の問題です。もし穢土のように十分に隔離されて酸素がある場所でテイクバックすれば、つまり黒い血を赤い血に入れ替えれば、脳も子宮も全てが再び活性化され、妊娠することも子を産むことも可能ですよ。人類の希望はあなたたちだけではありません。純血種だけが子孫を残せるなどとはたわ言です。膨大なリスクを伴う恒星間移民にそんな馬鹿げたことをやると思いますか」
「じゃあ」半次郎とヘレンは顔を見合わせた。「わたしたちは祝言を上げることができるのですか」
「もちろん。当面の問題が解決したら、惑星を挙げてあなたたちを祝福しましょう」帝衛府が答えた声はどんな人間よりも優しさに満ちていた。
『それで「月」の方はどうする』月帝が聞いた。
『戦闘CBTたちは地上にくれてやれ。いい労働力になるだろう。スペースコロニー内の人間で日乃本に行きたい奴は行かせてやれ』代紋が答えた。『その上で日乃本が上手くいくのを見届けたなら、月に物資を補給してまた新たな恒星系を探しに旅に出てもいい。ただし、答えを急く必要はない。なにしろ人類初の知的生命体とのファーストコンタクトだ。まだまだ新しい可能性がある』
『代紋がそのつもりなら、わたしもできる限りのことはしよう』月帝は言った。『これからも天から日乃本のことを見守っていよう。これから人類がどうするのか、その答えが出るまで』
「その答えはいつ出るのですか」半次郎は聞いた。
『まあとりあえず千年待ってみよう』代紋はのんびりと答えた。『恒星間を旅してきたわたしたちだ。人類が大きな決断を下す前にそれくらい待ってもいい。なにあっという間さ。千年なんて』
『そうそう。人間はせっかちなんだよな』月帝も合わせた。
「それでは人類の新しい可能性を祝して」
「コギト・エラスタ・ヤリ・イ」
手をつなぐ半次郎とヘレンの前に壁が宇宙から見た惑星日乃本を映し出した。それは泥に覆われ、ちょっと赤く、ところどころ黒かった。彼らの祖先が生まれた青い地球とは大分様相が異なるが、彼らの新しい未来がこの惑星で開かれるのだった。
コギト・エラスタ・ヤリ・イ
あなたたちに新鮮な酸素を