第一部 沼
プロローグ
月もない漆黒の闇夜であった。
狼の遠吠えがはるか遠くに聞こえる。
黒い森の下生えにはこおろぎが騒がしい楽器を奏でている。
ときおり吹く風に森のこずえがざわつく。
ふと、その音が止まった。
おんっ、おんっ、おんっ、おんっ
無言の掛け声が近づいてくる。
全身を黒衣で覆った集団だ。
みな覆面をし、男か女かもわからない。
先頭の者は茂みをかき分け道を示している。
あとに続く者たちは四名でなにか大きな箱を担いでいる。棺のようだ。
重そうな棺を担いだまま、四名の者は道なき道を少しも速さを落とすことなく一路進んでいる。吐く息の音が乱れることもない。
坂を上りくだり、倒木を軽やかに乗り越え、獣道を踏みしめた。
突然、幕が開いたように森が切れた。
月はないが、なんとなくあたりに薄明かりが立ち込めている。
平地に入って黒衣の集団の足取りは速まった。
もはや小枝を踏み折る音を隠そうともせず、できうる限りの速さで目的地へ着こうとしているようだ。
突然集団は綱を切ったように立ち止った。
沼のほとりで先導者が片手を上げたからだ。
先導者は水辺に用心深く近づくと、片手をその黒い水の中に差し入れ、ひとすくいすくうと仮面を半分あげ、口に含んだ。のどの渇きを癒すというよりは、なにかを調べているようだ。
そのまま後に続く者を振り返るとかすかにうなづいた。
それを合図に彼らは手早く支度をした。箱をあけ、四方の板を取り去り、組み合わせると、中には身動き一つしない人間の身体があった。やはり棺だったようだ。箱は今では祭壇のように見えた。死体も角頭巾を深く引き下げているので、顔が見えない。
四名は手早く準備した。一人が棒を立て、もう一人がその上に点滴器のような器具をつるす。別の者は死者の腕をまくって血色のない肌を出した。
先導者は包みから出した瓶の油を染ませた脱脂綿でゆっくりと死者のうでを拭くと注射針を刺した。ちょっと赤い血が染み出た。
それから先導者は吊るした瓶の中に沼から汲んだ液体を注ぎ始めた。水か。いやこれは油のように真っ黒な液体だ。
それを合図に四名の者の一人が死者の心臓に棒を突き刺した。
あっはーあっ
全員が唱和し、一人はは死者の胸を強く推す。心臓に刺した棒は先を尖らせた管だったようだ。管の端から真っ赤な血がどくどくと噴出した。
あーはっ
唱和は続く、一人が胸を押し、先導者は瓶の中の液体に気を配っている。なんども瓶の中身を注ぎ足した。
半時もすると、とうとう赤い血はすべて搾り取られ、死者の胸から伸びる管の先からは、赤黒交じりの液体があふれるようになった。
よし、というように術者がうなずいた。四人は一斉に死者の周りにむらがった。一人は心臓に刺さった管を抜き、もう一人はあふれる液体を布で押さえた。一人は腕の注射針を抜き、最後の者は死者の衣類の乱れを丁寧に直した。
先導者は額の汗を拭き、死者の胸を数度押してからぴったりと耳を当てて何かを聞くかのうような仕草をした。
押すたびに心音を聞く。あたかも死者が蘇生するかのように。
いや。まさか。
いくたびか心臓をおしては心音を確かめていた施術者はつと顔を上げて同伴者を見た。目に喜びの表情が見える。
死者の胸がかすかに上下している。口からは息が漏れ、そうして全くの静寂の中に確かに心音が聞こえた。
とくとくとくとく
*
小春日和であった。
ここ、倭田家では、元服を控えた半次郎がいるため家内に活気があった。
当主の倭田行徳はその準備か数日前から家を留守にしている。穢土へ上って幕府に倭田家継承の許しを願い出るのだ。
当主の不在を守るのは代々倭田家の家老を務める家系の草間剛鉄である。当年七十歳を超えたはずだが、その皺の多い顔はぴんと伸びた背中に乗っており、弱さを微塵も感じさせない。ただ泰平の世が三百年もの長きにわたって続いているため、草間と言えども戦を経験したことはない。そのとろけるような笑顔がそれを物語っていた。
草間は文机の前にきちんと正座し、手紙を読んでいるところだった。
『……先般日ノ本を脅かさんと蘭国の鉄船、壊土近海まで迫りくるが、神意により嵐によって沈没セリ。これにて日ノ本の安泰は今しばらくは確実のことと思われる……』
草間は目を上げると微笑んだ。庭に撒いた米を食らいに来る雀も泰平の世を楽しんでいるように見える。
ふと、物思いにふけっていた草間の注意を引くように武芸の掛け声が上がった。
えいっ! とう! やあっ!
草間は別の表情で微笑むと手紙を畳み、文机の中にしまった。
*
それまでっ!
師範の声で動きを止めた倭田半次郎は手にした木刀を下げた。すでに全身汗びっしょりであるが、微塵も疲れた様子はない。
「半次郎殿。上達なされたな」たすきをかけた稽古着の師範が言う。「もはやわたくしの教えることはなにもない。後はただ修練を欠かさず、その道にまっすぐ精進めされよ」
半次郎と呼ばれた青年は白い歯をこぼして笑顔を見せた。若干幼さを残す面立ちだが、元服を控えた青年のりりしい顔立ち、涼やかな目元、長く伸びた手足。どこをとっても非の打ちどころのない若武者振りである。
「ほんに、たのもしゅうございます」休憩にと二人分の茶を持って来たのは倭田ゆり。振袖のよく似合う少女。まゆのわずか下で黒髪をまっすぐに切りそろえ、残りは腰に届くほど。真っ白な足袋をすす、と音もなく進め、一挙動も無駄のない作法で茶を淹れる仕草は明らかに良家の子女であった。
「ゆりどの。ほめてもなにもやらぬぞ」ちょっと赤くなった半次郎が意地悪く言う。
「まあ、わたくしの言葉がお追従だとおっしゃいますの?」ゆりはふくれてみせる。「町を歩けば、女中どもが目を離さぬのに、この方ときたら、武芸にしか興味がないのですから」
そでを噛んで見せるゆりの仕草には匂うほどの色香があり、師範はちら、と半次郎を見たが半次郎と言えば、なにも気づいた様子はない。師範はそれを見て軽くため息をついた。
「半次郎様!」
騒々しく入って来たのは三名の小物たち、ヌ、ル、ジである。小物たちは苗字・帯刀を許されない。また由緒ある家系の人間のように漢字の名も名乗ることは許されない。ただ半次郎が幼少時よりともに同じ屋敷で生活した仲である。主君と家来の立場の違いはあれど、なじんだ親しさは抑えようもない。
「明日はいよいよ「小杁狩り」でございますな。ヌが言う。
「え、決まったのか」半次郎は訝しげに問うた。
「はい。小杁衆を見張っている手の者から連絡がありました。明日、小杁の者が単身、黒霧沼に現れる予定とのこと」
「黒霧沼」とは人失森の奥にある底なし沼である。黒い油分の湧き出る場所があり、飲料には適さない。また泥炭が混ざった沼は一度誤って踏み込んだら抜けず、縄などの外からつかまるものの助けがなければ沈んでしまう。そのあたりを常時覆っている霧と相まってその沼を危険地帯にしている。倭田家では家人に対し、決して足を踏み入れぬようにきつく諭している場所だった。
「小杁の連中はあそこを「母沼」と呼んでいるそうでございます。いや、あのような気味の悪い場所を「母沼」とは、やはり小杁の考えることはおかしいですな」ルがあざけるように言った。
「御屋形様のおっしゃられたことですが、「小杁狩り」はあくまでもご禁制の行事ですので、役人には知られないようにとのことでございます」ジが念を押す。
「そのことだがな」半次郎は腕組みをして言った。「わたしにはどうしても納得がいかないのだ。いかに身分の低いものとは言え、なぜ咎もない他家である小杁の者を討たなければならないのか。いやそもそも両家はなぜ争うのか」
「なにをおっしゃいます」ヌがまゆをあげた。「倭田の後継ぎが元服のおりには小杁狩りを行うもの、と決まっておりますぞ」
「いつ、誰がそのようなことを決めたのだ」
「いにしえのしきたりにございます」
「つまりいつ、誰が決めたかもよく分からぬのだろう。そのようなものにずっと縛られていくのか。それで良いのだろうか」
「なにをおっしゃいます」「倭田のご当主になろうというお方の言葉とも思われませぬ」ヌとルが同時に抗弁した。
「しかし」半次郎は考え込むように言った。「小杁も人ではないか」
「いやでございますわ兄様」それまで黙って聞いていたゆりが口をはさんだ。「小杁の者を「人」などとは」大袈裟に身震いしてみせる。
「きけば小杁衆はみな二目と見られぬ醜い顔をしているとのこと。そこで大御所様の命により外に出るときには必ず面をつけるようになったそうでございますよ」
「まさか」半次郎は思わず言った。「そのようなやくたいもない噂を信じられようか。誰か小杁衆の顔を見たものはいるのか」
「出入りしている獣皮商人が申しておりました」
ゆりは得々という。
「また彼らは獣の肉を食すそうでございます。おお穢らわしい」
「ゆり」
「それで彼らの体臭は臭く、眼は血の色をしているそうでございます」
「ゆり。自分の目で確かめもせぬことを言うでない」半次郎はまだ何か言いたそうにしているゆりを遮った。
「どのような相手であろうと、私が当主となるために欠かせないのであれば倒す。それまでだ」半次郎は半眼になった。物憂げに見えるがこれは半次郎がいざ本気になったときの底知れぬ強さを示している。
「それでこそ半次郎様」ヌが場を収めた。「明日はわれら三名が立ち会い致します」
「加勢は要らぬ。わたし一人で十分だ」
「加勢は致しませぬ。小杁衆は半次郎様お一人で討たねばなりませぬ。私どもはあくまでも立ち会いするのみ」
「わたしが逃げ出さぬよう、監視するということだな」
「御意のままに」
「やれやれ」半次郎はため息をついた。武辺を生業とする倭田の剣士として、万が一にも臆すことなどないが、いにしえの儀式に納得がいかないのもまた確かであった。
*
翌朝、霧の立ち込める人失森をついて、高速で移動する四つの影があった。半次郎とヌルジたちである。彼らはほとんど音をたてずしかも高速に移動していた。
半次郎はなにやら考え込む様子だったが、その顔つきと足取りは全く異なり、小物たちの飛ぶような動きにいささかも遅れをとることなく木々の間をついて走っていた。隣村ほどの距離だが、じきに黒霧沼を囲む森にたどり着いた。
「半次郎様。ここからは多少の用心が必要でございます」ヌが言う。「森は入り組んだ沼の上に乗っております。開けたところに出る前でも地面ではない可能性がございます」
「そして底なしか」
「さようで」とヌ。
「ひとたび足を踏み入れれば、逃れることの難しい底なし沼でございます。なに。わたくしどもがついているからには、半次郎様を失うことなどよもやありませぬが、小杁者と行き会わせれば遅れをとるは必至」
「わかっておる」半次郎は難し気に言った。どうも昨日からヌは半次郎の実力を疑っているような言動をする。
「もうしばらく進めば沼のほとりに出ます」ルが割って入った。「中州島が見えましょう」
半次郎と小物たちの計四名は、多少歩みをゆるめたが、それでも十分な速さで人失森の中央部へと近づいて行った。
「あれでございます」ルがささやくような声で叫んだ。「あれが黒霧沼」
ルの指さした方向は森の木々が切れて光が刺しているのがわかった。
「あそこに間違いなく小杁が来るのか」半次郎は振り返った。
「はっ。小杁に忍び込ませている小物の話では、小杁衆は黒霧沼の黒い水を薬用に用いるとのことで、本日それを取りに忍んで来るはずでございます」
「薬とな。どのような薬効があるものか」
「そこまでは小杁の秘伝ゆえ、わかりませぬ」
「ゆりも度々黒い水を汲むためにここに来るというぞ」半次郎はヌを向いて言う。
「やはり小杁もわれらと同じく乱破の秘伝を受け継ぐものではないか。一度胸襟を開いて話してみたいものよ」
「おやめください。半次郎様」ルが嫌そうににらむ。「所詮小杁は小杁。われら倭田家の者とは生まれが違います」
「ふん」
半次郎は答えなかったが、それ以上小杁のことを話題にするのをやめた。どのみち今日は相手を倒さなければならないのだ。剣術の腕試しではない。命のやり取りをする戦いなのだ。
そうしているうちにじきに森は開け、その向こうに黒い水をたたえた黒霧沼が姿を見せた。
「あそこでございます。あの中州島のこちら側」
「うむ」
「あそこにひときわ黒い湧水がございます。小杁の者は必ずそれを汲みにくるはず。半次郎様はあの岩陰にお隠れください」ジが指し示す先には、なるほど黒々と湧き出る泉と、そのかたわらの岩が見えた。そうなるともはや半次郎はじたばたしなかった。これでも倭田家の剣士なのだ。
半次郎は三人の小物の見守る中、縄を投げると高い杉の枝にからませ、振り子のように自らを振ってただの一挙動で中州島で降り立った。足を濡らしもしなかった。
小物たちはそれを見届けると満足したようにそれぞれの持ち場に隠れる。
半次郎は小さな中州島をぐるりと一めぐりして確認すると、一瞬後には岩と同化したかのように見えなくなった。見事な「岩化け」の技だった。
何事もなく一刻が過ぎた。
普段から人の気配がない黒霧沼には、森の動物たちも近寄らず、うっそうとした森を貫くのは、ただアブラゼミのがなる声だけである。
(夜ではないか)
ふと半次郎はそう思った。小杁衆がここにやってくるのはなにも昼間とは限らない。確かに夜の底なし沼は危険だが、倭田衆と同様に乱破の技を修めた小杁衆にできないことではない。
もし小杁の者が来るとの情報が間違いであれば、自分は待ちぼうけだな、と考えながら半次郎は考えた。目をつむっていても周りの様子は手に取るようにわかる。
つばめが一羽、つーと空気を切り裂いて飛んだ。
「来た」
誰にも言われなくてもわかった。倭田衆と同じ、あるいは勝るとも劣らない足取りでどんどん近づいてくる者がいる。里の者ではない。乱破を極めた者の足取りだった。
黒い影は対岸に着いた。しばらくあたりの様子をうかがい、さらに地面に耳を押し当てて待ち伏せがないか確認している。その用心は立派だが、もとよりそんなことで存在を見破られる倭田衆ではなかった。
警戒心の強い鹿のようにためらってから、黒い人影は湖面に数本の小枝を投げるとその上を飛び移って中州島へ渡ってきた。一つ、二つ、三つ。
人影が最後の小枝を飛び、こちら岸に飛び降りる瞬間、半次郎は岩陰から飛び出た。すでに刀の鯉口は切ってある。一瞬で片が付くはずだった。
しゅっ
半次郎の刀は空を切った。相手が空中で体をよじり、向きを変えたからだ。
しかし一太刀が自在に動くのが倭田の剣術。
半次郎はそのまま刀の向きを変えると、返す刀で相手の逃れたところを薙ぎ払った。
かん
乾いた音がして、人影のしている面にひびが入った。
相手が地面に降り立つと、その衝撃でひびの入った面が割れた。
それがゆっくりと左右に分かれるとその下の顔が白昼にさらされた。
時が止まった。
白い顔。青い目。しかし目元は黒々としている。頭巾がはらりとはずれ、その下から黄金色の髪が流れ落ちた。人影は腰の瓢箪をかばうようにして中腰で立っている。
半次郎は動けなかった。小杁の者は醜い、異形の者である、異臭を放つ、獣を喰らう。
様々なことを聞いていはいたが、まさかこれほど意外な容姿をしているとは。
美しい。
人影は正しく女、であった。敵意を込めた視線を半次郎に向け、髪をたなびかせてこちらの出方を見抜こうとしている。
「ま、まて」我知らず、狼狽した声が出た。「そなたは……」
終わりまで言う暇はなかった。小杁の女は草食獣のようにわずかな隙を見つけると飛び退り、後ろ向きに湖面の枝を飛び渡るとたちまち視界の彼方へ去って行った。
呆然としていた半次郎の白昼夢を破ったのは小物たちの気配だった。見るとヌ、ル、ジの三名とも半次郎の周りで片膝をつき、指示を待っている。しかしふとその表情を見ると失望が見て取れた。
「残念ながら取り逃がしてございます」
「もはやこの場所での待ち伏せはできますまい」
「半次郎様とは思えぬうかつさ。もしや小杁の者に情をかけられたのではありますまいな」
「そのような」そう言った半次郎ではあったが、己の心の奥にある「小杁狩り」というものへの疑問が剣先を鈍らせたのではないか、という小物の指摘はあながち間違ってもいないかもしれなかった。半次郎の脳裏にはたった今確認した美しい顔が強烈に焼き付いていたのだから。
*
小杁衆の村は周りを山並に囲まれた低地にあった。古来、この辺りは徒刑場があったそうで、今でも地面を掘り起こすと人骨が出てくることがある。しかし小杁家当主の館は、武士と言っても通用するくらいに立派なものだった。
裏門を開いてそっと忍び入った影は、そのまま中庭を突っ切って母屋へと急いだが、正面に立った人影に棒立ちとなった。
「ヘレン」
「お母さま」
立ちはだかった母に金髪碧眼の女は逃げることもかなわず対峙した。
「どこへ行っていたのです。忍び働きの衣を着て」
「ちょっと用事で」
「一人でですか。供の者は」
「お母さま。わたくしはもやは子供ではありません」
「まったく。村の下人たちとも平気で付き合って、だから子供扱いされるのですよ」
娘の反抗を平然と受け止めていた母親だったが、ふと不安げな表情をした。
「面はどうしました。大御所様との約定で外出するときは顔を覆わなければならないはず」
「落としました」
「落とした! 面を落としたというの」
「はい」
「どのようにして落としたの」
「割れましてございます」
「わたしをからかっているのかい」
「本当に割れたのです」
「お見せ」
「落としたところへ行けば、まだそこにありましょう」
「まったく生意気になったこと」
母親はそれでも安心したように表情を和らげた。
「母屋にお入り。父上に見つかると面倒になる」
「お父様には黙っていてくださいまし」
「早くお入り」
母屋の裏口の前でヘレンはつと振り返った。
「お母さま」
「なに」
「いいえ……なんでもありません」
ヘレンはそのまま狐につままれたような母を残して母屋へ入った。
*
その夜。
小杁家の当主小杁サルバトーレが食卓についていると、同席しているのは妻だけだった。
「遅いな。ウルはどうした」サルバトーレは妻に聞いた。
「ウィリアムは相変わらず遊び歩いております。夜になれば顔を隠す必要もない、とばかりに面もつけず」
「ふん」サルバトーレは鼻を鳴らした「放っておけ。当主になれば自由などなくなるからな」
そう言うとサルバトーレは首をおおげさに回して見まわしてから問うた。
「それで。ヘレンはどうした」
「あの子は今日は気分が悪いそうです」
「気分が悪い? なにか病気か」
「食事を摂るように再三言ったのですが、部屋から出てきません。今夜はあの子の好物をそろえたのに。そういう年ごろです」
「年ごろ。そうか。まあ、仕方がない。そういうものかもしれんな」
サルバトーレは納得したような言葉を吐いたが後ろめたそうにぎょろりと眼玉を回すと鳥の唐揚げをかみ砕いた」
「年ごろといえばあなた」スープにスプーンを差し込んだまま妻が言った。「そろそろ考えていただけませんこと」
「なにを」サルバトーレはむしゃむしゃと口を動かしながら言った。
「あの子はそろそろ相手が必要な年ごろです」
「相手? なんの」
「結婚ですわ」
サルバトーレは思わず鳥の一片を噴き出した。あわてて口をナプキンで押さえる。
「結婚!?」
「その通りです。今ヘレンは十三歳。あと半年でわたしが嫁いだ年になります」
「しかし。もはや日乃本には蘭人の一族は残っておらんぞ。そして未だ倭人どもは開国する気配すらない。いとことでも結婚させるのか」
「いい加減、同族同士の結婚をやめないと、フォン家のように血の病で滅びてしまいます」
「そうだな」
「新しい血が必要でございます」
「新しい血? 再び蘭人が日乃本を訪れる許可が出るとでもいうのか」
「倭人でございます」
「倭人?」
「ヘレンを倭人に嫁がせてはいかが」
その提案は落雷のような衝撃を小杁家の当主に与えた。サルバトーレはかけていた椅子から滑り落ちそうになり、やっとの思いでとどまった。
「倭人。倭人と申したか。お前」
「すでに小物たちの多くは倭人と縁を結んでおります。わたしども小杁衆も刑死するところを大御所様の慈悲で生き残り、あまつさえ小杁の苗字をいただき、日乃本に住んで三百年。いまさら血の純潔など言ってもせんないこと」
「お前までそんなことを」
「鹿嶋殿の家来などはいかが。今でもわたしどもを気にかけ、おりおり訪問してくださる」
「しかし」
「現実を考えてくださいませ。わたしどもにはまだ「外典」が残されているではありませぬか。これさえあればいつの日か蘭国へ戻ることもできましょう。また日乃本が開国すれば」
「うーむ。そうだな」
「開国などしませんよ」突然夫婦の会話に割って入った者がいる。背の高い髪の茶色い若者だ。
「ウル。ちゃんとノックをするように言っておるだろう。なんと言った」サルバトーレが不快そうな表情をした。
「倭人どもは開国などしない、と言ったのです」当主である父親の感情などものともせず、小杁ウィリアムは言った。「やつらはカメと同じです。おそらく鎖国している間、蘭国では世の進歩にもしのぎを削り、先へ進んでいることでしょう。しかし倭人どもは迫られて国を開かざるを得なくならない限りこのままでいるつもりです。まるで首をひっこめたカメのように。そうしていれば世の中の変化が内側に入ってこないとでもいうように」
「しかし日乃本が蘭国と切り離されてから早三百年。いまだに蘭国からはなんの連絡もないぞ」サルバトーレは言った。
「本国の助けを待っているわけにはいきません。お父さん。蘭人の誇りはどうしました。倭人どもにおれたちの実力を見せてやりましょう」
「実力とは?」
「「ターヘルアナトミア外典」」
「外典とな」
「そうです。外典です。お父さん。おれに外典を継承させてください。きっと小杁家を復興し、再び日乃本が開国するまで蘭人の地位をこの国で確立させてみせます」
「お前は乱を起こそうというのか。馬鹿なことを考えるな」
「このままではすみません。おれたちこそ進歩したもの。将軍家を始め倭人など無知な者。鎖国が終われば渡来人の時代」
「いい加減にせよ」サルバは静かに言ったがそれは怒鳴りつけるよりも強い衝撃を長男に与えた。ウィリアムは黙った。
「お前は軽率だ。将軍家のそしり事を口外するなど。お前を「外典」の継承者にはしない。継承者はあくまでもヘレンだ。たとえお前が小杁家の当主となっても、これとそれとは話が別だ」
ウィリアムはしばらく身を震わせて黙っていたが、長テーブルの上をどん、とこぶしで叩くとものも言わずに食堂を出て行った。
*
一方、ヘレンは二階にある自室にこもるとベッドの上で膝を抱き、物思いにふけった。乱破の者にあるまじきことにノックの音に気付かなかった。
「ヘレン。入るわよ」そう言って返事も待たずに侵入してきた母親は物憂げな様子の娘を見て心配そうに近寄った。
「ヘレン」
「ああ、お母さま」
「気分はどう」
それには答えず、ヘレンは青い瞳を母親にひたとすえると尋ねた。
「お母さまが嫁いだ時は十三歳だったのですよね」
「そう。そうです」
「どんな気持ちでした?」
「どんなって。もちろんどきどきしたわよ」
「自分で望んだ相手だったのですか」
「私たちはね、異国で生き延びるためにあまり相手を選ぶことはできなかったの。それは自然なことだった。でも後悔はしていませんよ」
「お母さま」
「なんです」
「お母さま。わたし今日、男の人を見たのです。小物ではない、武者姿の」
「そう」
「目も髪も黒々としておりました」
「どこで」
「ええ。お父様のために薬湯を取りに母沼へ。ちゃんと面もかぶっていきました」
「それで?」
「そうしたら待ち伏せしていた男が切りかかって」
「切りかかった? 切りかかったというの?」
「ええ。その剣先が面を割ったのです」
「その男はどのような格好をしていました?」
「藍色の打掛けに黄色の帯を巻いておりました」
「倭田の者、倭田の者だわ。それなら「小杁狩り」!」母親は今度は引きつったような表情となった。「それで、けがは、体はなんともないの」
「大丈夫です。二太刀目をかわし切れず、面が割れたのですが、その後は不思議なことにその方は私の顔を見つめるだけで……」
「小杁狩りだ。倭田の者め。あろうことかわたしの娘を」母親は歯噛みせんばかりにこぶしを振り上げて激高した。
「お母さま。大丈夫、大丈夫です」
「大丈夫なものか。「外典」の継承者を失うところだったというのに。あの倭田の連中は私たちからなにもかも奪おうというのね」
ヘレンはちょっともじもじした。
「あの方、いえ、あの男は倭田とおっしゃるのですか」
「ええ、ええ。わたしたち小杁を裏切って今日のような境遇に至らしめ、しかもまだ蘭人をさげすんで、利用しようと図っている卑しい連中ですよ」
「でも」ヘレンはうつむいた。「あの方の目は澄んでおりました」
母親ははっと娘を見つめた。
「見たことのないような……黒々とした目。まるで黒曜石のような」
ヘレンはそれだけ言うとさっと身をひるがえし、部屋を走り出た。
母親は呆然としてそれを止めることすらできなかった。
*
半次郎は帰るなり自室にこもって誰とも会わなかった。すでにヌ、ル、ジの報告は届いている時分。半次郎が後れを取ったことは倭田家の中でひそひそとささやかれているはずだ。
しかし半次郎にはそんなことは興味がなかった。
頭の中には白い顔が浮かび上がって去ろうとしない。ほんのわずか見ただけだったが、それは強烈に半次郎の脳裏にこびりついて、消えようとはしなかった。
青い目をしていた。それに髪は黄金色だった。
染めているのだろうか。あのような色の目も髪も今まで見たことはなかった。乱破の働きに出るとき、戦化粧を施すことはある。しかし目の中まで色を変えることはできない。
あれが……蘭人か。
聞くところによると、かつては日乃本にも蘭人が訪れていたという。彼らは日乃本にはない様々なからくりを持ち、蘭人と手をむすんだ家は抜きんでて栄えたそうだ。
しかしあるとき事件があり、蘭人は日乃本に出入りすることを禁じられた。
それからおよそ三百年。
今では貴重な血筋となった彼らは、いまだ表通りを歩くことを許されない。
「醜い……醜いとな」半次郎は苦笑した。面をかぶることを強いられた彼らは一種隠された秘密の一族だった。そうして秘密を開いてみれば確かに半次郎たち倭人と異なっている。しかし醜いのではない。
「美しい」半次郎は思わずため息をついた。あのような人間がいたとは。
*
半次郎は夜更けに館を出た。誰にも気づかれていないつもりだった。
乱破走りで闇をつく。やがて人失森を抜け、黒霧沼へ着いた。
中州島が見わたせる岸へ着いたとき、半次郎はちょっと気後れした。自分はいったいなにをしにここへ戻って来たのだろう。そう問う自分に対し、もう一人の内なる自分が言い訳じみた仕草で言った。なに、あの割れた面を見てみたくなったのだよ。
半次郎の剣先で真っ二つになった面は、まだそこに落ちているはずであった。
半次郎は再び宙に手を差し伸べる枝に向かって縄を投げると巻き付け、軽やかに対岸へ飛び移った。
(確か黒い水を汲む場所だったはず)
水面が最も黒々としている場所まで近づき、岩陰を回ったところで……
すっと背筋ののびた人影と出くわした。
ただちに全身が緊張する。物思いにふけっていたため、気付くのが遅れたとは倭田衆にあるまじき不覚だ。
しかしこちらを振り向いた顔は、忘れようにも忘れられない白い顔だった。小杁の娘は半次郎と同じように考え事をしていたような顔でいたが、半次郎を見てはっとした。
「待て、今日は争わぬ」半次郎は片手を前に出してあわてて言った。
蘭人の娘はそれでもただちに駆け出す態勢だけは崩さない。
「本当だ。倭田の名にかけて誓う」
倭田の名にかけて誓う、というのは、身分の低い小杁に対しては最大の譲歩であり倭田の名誉をもとにした確約である。それでも娘は走り出しそうにした。
「本当だ。待ってくれ。これ、このように」言いながら半次郎は左手でゆっくりと刀を鞘ごと帯からはずし、地面に転がした。そうして横に移動して十分刀との距離をとった。両手のひらは広げて相手に見えるようにしている。いざとなれば懐には小刀があるが、大刀を捨てるというのは武辺を生業とする者としては最大級の譲歩だ。その意思は伝わったらしく、小杁の娘はいくぶん緊張を解いた。
「今日はそなたがここに来ることは知らなんだ。ここで会ったは偶然だ」
娘はしばらくもの問いたげな視線で半次郎を見つめていたが、やにわに言った。
「なぜ」
半次郎の背骨から衝動が突き上げた。娘の容姿に増して、その声が魂に響いたのだ。
「その」半次郎は娘の足元に転がる割れた面を指さして言った。「面が欲しくなってな」
「うそ」娘は言った。その声の響きが美しかった。ずっと聞いていたかった。
「うむ」半次郎は考え込んだ。自分の言ったのは嘘かもしれん。元来、実直な男なのだ。嘘が上手ではない。
「仮面というか……その……実は……再びそなたに会えるかもしれぬ、と考えていたのかもしれぬ。ううむ。自分の心がよくわからぬ」
娘は半次郎のごくわずかな表情も見逃さぬかのように見つめながら言った。
「それならば……信じましょう」
「え、信じてくれるのか」思わず半次郎は破顔した。
「はい。わたくしも」娘はもじもじした。そのしぐさが大人びた外見に合わず、随分と子供らしく見えた。顔や体つきは二十歳ごろに見えるが、存外幼いのかもしれなかった。
「え?」
「わたくしも、もしやお会いできるかも、と考えて参りました」
「なぜ」なぜ、とは自分はそなたを殺そうとしたのになぜ戻って来たのだ、という意味である。半次郎は混乱した。
「わかりませぬ」
そのまま二人は沈黙したまま対峙したが、大気に満ちた敵意と緊張は徐々になくなっていった。
「申し遅れたがわたしは倭田半次郎」
「小杁ヘレーネでございます」
半次郎はまじまじと娘を見つめた。名前といい、倭人とはっきり異なる目鼻立ち。あの目や髪の色は本物だろうか。しかしそれをぶしつけに尋ねるほど半次郎はやぼではない。
半次郎はゆっくりと岩に腰を下ろした。こうすれば一挙動で相手に切りかかることは難しい。ましてや相手が乱破を修めた者であればなおさらだ。最初に刀を手の届かぬくらい遠くにやり、今度は素早く身動きできない態勢をとる。半次郎は和平を相手にメッセージとして送っているのだった。しかしそのような配慮は必要なかったようだ。ヘレーネと名乗った娘は立ち去る様子はなかった。
「すまぬ」
「なにがでございますか」
「昨日は切りかかって済まなかった」
「それは」娘は目を伏せた。「もちろん……でも」目を開いた。軽い電光のような視線だ。
「なぜでございます」
「家の因習だ」半次郎は吐き捨てるように言った。今となってはこの美しい娘を、生命を一個の肉塊にしかねなかった己の所業が悔やまれる。剣先が鈍って本当に良かった。
「わたしの家では小杁衆を憎むように教えられる。小杁衆は醜く、獣の肉を喰らう、卑しい存在だと。わたしは昨日まで、そなたを目の当たりにするまで、それを信じ込まされていた」
「それならばわたくしも」ヘレンは言いつのった。「わたくしの家でも同じようなものです。倭田衆は野卑で裏切者だと」
「どうやら百聞は一見に如かず、だな。小杁が醜いと。しかし……その……」
「なんでございましょう」ヘレーネの大きな目が半次郎をのぞきこむ。
「そなたは美しい」男らしく半次郎は直截に言った。その生直さにヘレーネはたじろいだ様子だった。今度は口ごもるのはヘレーネの方だった。「その……わたしは殿方をよく知りません。家の者しか」
「ヘレーネ。そなたの美しい目や髪をもっとよく見せてくれぬか」半次郎の視線がヘレーネを見つめるとヘレーネもやがてまっすぐに半次郎の目を見つめた。
「「ヘレン」とお呼びくださってけっこうです」
「ヘレンどの。そなたは……蘭人だと聞いたが」
「はい。その通りでございます」
「蘭人や蘭国について教えてくれぬか」半次郎は両手を組み合わせた。ヘレンはそっと半次郎の隣にわずかな間をおいて座った。
「わたくしもよく知りませぬ。わたしは日乃本で生まれたのですから」
「そうか」
「でもいにしえには日乃本はまだ鎖国しておらず、蘭人が多数行き来していたと聞きます」
「わたしもそう聞いている」
「わたくしが蘭国について知っているとしたら詩編のみです」
「詩編?」
「わたくしは蘭国の詩をいくつも覚えさせられたのです」
「詩を」
「はい。このような」
ヘレンは立ち上がると両手を胸の前に組んだまま唱えた。
フォン・ヘンデル・マ・リンカン・デ・ロッシャト
カンズ・キンデル・カ・シャイアン・パ・ロッテラ
ハン・カイス・デ・ラ・カイバラ・リオユウェオ
シラ・ダイス・カ リ・バイダン・ロームレ
トランセス・レイン・ラム
異国の言葉は美しい旋律に乗って黒霧沼の空へと昇って行った。半次郎は夢心地だった。
「不思議な詩だ」
「はい。わたしも意味は知りませぬ。でも子供の時分からこれを暗記させられました」
「これは蘭国の言葉であろう。そなたは蘭国の言葉がわからぬのか」
「わかりません」
「蘭人なのに」
「大事以来多くが失われた、と聞きます」
「うむ」半次郎は黙った。かつて倭田衆と小杁衆が仲たがいする決定的な大事があったという。いまそれをつついて蒸し返すほど半次郎はうかつではなかった。半次郎はそのまま続けた。
「しかし蘭国の文化なのだな。もっと聞かせてくれないか」
ヘレンはまた別のフレーズをひとしきり歌った。
突然、詩編がとぎれ、半次郎はわれに返った。
「あの」ヘレンが心配そうに見ている。
「なんだ」
「お嫌ではありませぬか。なにかうつろなご様子」
「いや、その反対だ。あまりに素晴らしく、聞きほれてしまった」
本当だった。乱破の者としてはいけないのだろうが、半次郎はわれを忘れてしまっていた。
「もっと、ずっと聞いていたいものだ。いや、ヘレン殿。またわたしにその詩を聞かせてくれぬか」
「詩を」
「詩だけではない。蘭国のこと、小杁のことなどもっとよく知りたいのだ。わたしが今まで吹き込まれてきたことが間違いだと分かったから。本当の小杁衆のことを知りたい。もしそなたが良ければ、倭田衆のことを話そう」
ヘレンはしばらく考えていたがやがて答えた。「よろしゅうございます」
そこで半次郎は話した。武士の身分を奪われてはいるが、いつの日か将軍家に武辺で仕えるために日々武道の稽古を怠らぬこと。兄が将軍家のお毒見役として穢土におり、それで倭田家が安泰であること。かつて倭田家と小杁家の祖先は盟友であったらしいことなどを。
「常々われら倭田衆はなぜ小杁衆を憎むのか疑問に思っていた。様々な風評。すべては嘘だった。それならば誤解を解けば両家が手を取り合うことも不可能ではあるまい」
ヘレンは目を伏せて聞いていた。
「わたしは決心した。倭田と小杁の両家を和解させる。倭田の次期当主の弟として、必ず実現してみせる」
「時期当主……のご血縁であらせられるのですか」
「うむ」
「わたくしも小杁の当主の娘でございます」
「そうか。そうだな。苗字を許されているのだからそれなりの身分の者と思っていたが、やはりそうであったか」
ヘレンは黙っていた。
別れ際、半次郎はヘレンに言った。
「では明日も、この時刻にこの場所で」
「承知しました。あの」
「なんだ」
「小杁衆は、いえ、蘭人はしばしの別れで再び会うつもりのとき「トランセス・レイン・ラム」と言います」
「トランセス・レイン・ラム」
「はい」
「美しい響きだ」
「トランセス・レイン・ラム」
「トランセス・レイン・ラム」
半次郎は最後に振り向いて言った。
「いつかそなたと一緒に蘭国へ行ってみたいものだな」
しかしヘレンにその声は届かなかったようだ。見事な身のこなしで飛ぶように去って行った。
後にはかすかにみかんの香りがした。
*
父は突然半次郎の部屋に入ってきた。
そのとき半次郎は文机の前でぼうっとしていた。この頃は毎晩、黒霧沼で出かけてヘレンと会っていた。ヘレンと言葉を交わし、小杁の話や蘭人の文化のことを聞くごとにますます半次郎の心の中には蘭人への親しみが沸き、ヘレンへの愛情が増していった。もはやヘレンなしの人生など考えられなかった。しかし、倭田家の中でそれを口にするのが得策ではないことは、いかに恋に盲目となった半次郎でも分別がついた。だから黙っていた。
突然入ってきた父の顔を半次郎は間抜けな表情で見つめた。
「父上。いつお帰りでしたか」
「半次郎」静かに父は言った。その様子は背筋を正させるのに十分だった。「それへなおれ」
半次郎が正座して待つと父はいらいらした様子を隠そうともせず言った。
「半次郎。いつだ」
「は?」
「次の小杁狩りはいつ行く予定かと聞いておる」
「小杁狩り、でございますか」
半次郎には意外だった。小杁狩りはこの間失敗で終ったばかりではないか。
「さよう。小杁狩りをまっとうしなければそなたの元服を認めるわけにはいかぬ」
ちょっとした衝撃だった。半次郎は今いかにしてヘレンと祝言を上げられるか、倭田と小杁がいかにして和睦を結べるか、という方向で頭をしぼっている。しかし一人前の倭田衆となるためには、まずその相手である小杁衆を殺すことが前提だとは。
半次郎はついたずねた。
「父上。おたずねしたことがあります」
「申してみよ」
「小杁狩りですが、そもそもなぜわれら倭田家は小杁家の者を憎むのでしょうか」
「知れたこと。小杁は卑しい。われらの敵だ」
「敵となったのはいつからでございますか」
「そうだな。お前にはまだ話していなかった」父は当主の顔をした。「だがいずれ当主の座を継ぐお前のこと。話しておかねばなるまい」
それはちょっとした衝撃だった。
「当主。当主とおっしゃられましたか」
「言った」
「当主となるのは善次郎ではないのですか」
「善次郎はな」父は沈痛な面持ちで言った。「もはや長くはない」
「そのような!」
「将軍お毒見役としてのお役目を果たし続けているが、昨今穢土では陰謀が張り巡らされており、将軍暗殺の試みが一度や二度ではなかった。善次郎もいまだ持ちこたえてはいるが、すでに毒が体に回っておる。余命いくばくもあるまい」
「そうですか」半次郎はため息をついた。
「わしも次男だった」父は遠くを見つめるように言った。「わしの兄もお毒見役として死んだ。倭田家がお取りつぶしにならずに存続を許されたのは、代々長男をお毒見役として差し出すことを条件としたからだ」
「なぜ、倭田家が」
「咎のためだ」
「咎」
「大事、つまり「ウンボルト事件」における咎だ」
「半次郎。今から三百年前、日乃本が開国していたおり、われら倭田家は蘭人と親しく交わっておった」父は話し始めた。
その昔、穢土幕府がまだ若々しかったころ、日乃本は那賀埼に通商港を設け、そこでのみ蘭人との交易を許していた。前野家の前野良沢は蘭語を学び、通訳できる数少ない倭人だった。「ターヘルアナトミア」は当時の日乃本にはない知識を網羅した医学の大著で、それを翻訳し「解体新書」として著したことで、前野家の地位は非常に上り、前野良沢は幕府の天文方に任ぜられた。
しかし事件が起こった。
蘭国公使、アーネスト・フォン・ウンボルトが日乃本の地図を持ち出そうとして捕まったのである。
当時の日乃本にとって首都穢土の正確な場所を記した日乃本の地図は国家機密であり、それを外に持ち出すことは大罪であった。アーネスト・フォン・ウンボルトは刑死し、幕府は外国船打払令を発布し、以後日乃本は鎖国して蘭国との国交を絶った。
倭田の子孫は蘭人と親交があった、ということで侍の身分をはく奪された。日乃本に滞在する蘭人の一族のいくつかは存続を許されたが、身分は一番下となり、倭田家や当時那賀埼奉行であり、ウンボルト事件を担当した鹿嶋家の監視下に置かれることとなった。
それからかれこれ三百余年になる。
「小杁をはじめとする蘭人どもは、最初からわれわれ倭人を陥れるために親し気に近づいたのだ。やつらは全て血の中に間者の素質を含んでおる。半次郎。おぬしもくれぐれもやつらを信じて近づいてはならぬ。よいな」
「しかし、父上。過去のことは過去のこと。今こそ和睦の道を探るべきではないでしょうか」
「腰抜けが!」父は一喝した。半次郎は押し黙った。
「それでも武門の生まれか! 倭田の誇りはどうした?」
青筋が立った父の額を見ると、半次郎はなにも言えなくなった。
「まあ、それくらいに」「お館さま」
障子が静かに開き、家老の草間剛鉄とゆりが入ってきた。
「半次郎様は決して腰抜けではござりませぬよ。ただ人よりよく考え、他者への思いやりが強いのでらっしゃる。他者への気配りも当主の素質と拙者は考え申す」相変わらず甘い笑みを浮かべて草間が言った。
「お館さま。半次郎さまの日ごろの鍛錬をゆりはよく存じております。次回の小杁狩りではきっと倭田の長として面目を果たされると思います」ゆりも花のような微笑でお辞儀した。
「ふん。人気だけはあるの。まあ良いわ」二人のとりなしに倭田行徳は立ち上がるとすれ違いざま部屋を後にした。
へたり込んだように座っている半次郎にゆりが優しく話しかけた。
「半次郎様、大丈夫でございますよ。ゆりは信じております。必ずや次回は小杁を討ち、当主として立つと」
「お館様の悲願なのでございます。倭田家を武家として再興することは」草間が重々しく言った。「そのためには大御所さまの特別の要求を満たさなければ」
「大御所様? 将軍が? 特別の要求とはなんだ」
「わかりませぬ」草間はつづけた。「しかしお館様はこのたび穢土にいらした際、大御所様から密命を受けたようでございます」
「それが、小杁衆と関係あるのか」
「はい」
「それはなんだ」
「小杁がなにかの秘密を握っており、そこで穢土からは、もし倭田がこの秘密を手に入れることができれば、過去の咎を許し、身分を復してやろうとの指示があり」
「父上に対してか」
「倭田家に対してでございます。倭田の身分を復すのはお館様の、いや、倭田家の悲願なのでございます。そのためにはなんとしてでも小杁衆の秘密を探らなければ。半次郎殿。小杁衆に対して情けは無用でございますよ」
*
はっ
無言の気合とともに刀は空を切る。
構えに戻ると斜に構えた切っ先はセキレイの尾のように震えた。
中庭に建てた巻き藁から距離を置き、半次郎は何度も構えから回転して刀をふるった。必殺の回転切りである。一瞬敵に背中を見せる隙ができるが、次の瞬間繰り出される刀さばきはよけるしか方法はない。もし受けようとすれば鉄をも絶ち、防御者の胴や首を切断する。
半次郎は真剣を握り何度も試しに空を切ったが、未だ巻き藁を絶つ決心がつなかなった。
巻き藁の顔の部分には単に半紙に筆で描いた丸が張り付けてあるに過ぎない。
しかしその丸の中にヘレンの顔を浮かんできては半次郎を苦しめるのだった。
ヘレンを得るためには自らが倭田家当主となる必要がある。
当主として認められるにはまず元服しなければならない。
そして元服するには「小杁狩り」を完遂しなければならない。
ヘレンの同族を殺さなければならない。
半次郎にはそのあたりを上手に対処して行う方法がわからなかった。
物心ついてから武辺一筋に生きてきた。剣法がうまくなれば褒められた。
それ以外になにも知らぬ。
自らひとりごちて自らを嗤った。
「剣に迷いがございますな」いつの間にやら背後にいたヌが言う。ちらと見た半次郎は答えた。「言われぬまでもわかっておる」
「小杁相手に情が湧きましたかな」ヌの声に皮肉はない。
「言うな」
「小杁衆は人外の者。生命力極めて強く、その動きをとめるには首をはねるか……」ヌは手で首をはねるしぐさをして見せた。「……心の臓を貫くよりほかありませぬ。なお……」
ヌはまじまじと半次郎の目を見た。「この度の半次郎様の小杁狩りにおいては、首をはねてはならぬとの御屋形様からのお達しでございます」
「なに、制約があるのか」
「はい。くれぐれも首と胴を断たず、顔に傷をつけず、心の臓を貫いてとどめをさすこと。つまり半次郎様の必殺技である回転切りは使えませぬ」
「理由は」
「まだ申し上げられませぬ」
「奇妙なことを申すものだな」
「半次郎様なれば、見事この制約を課せられた上で、お役目を果たすことが可能と信じております」
「ふん」
侮られたことでかえって奮い立った。半次郎は頭を振ってヘレンの幻影を消すと、一挙動で間合いを詰め、巻き藁の中心部、ちょうど心臓のあるあたりを刀で貫いた。そしてそのまま体を沈めると立ち上がりざま、体に沿うように引いた刀をぶん、と振り出した。
半紙に丸を描いて張り付けた巻き藁の上部が宙に飛んだ。
*
ことり、と木戸の開く音がして、ゆりは眼を開いた。
丑の刻である。
障子を開いて冷たい廊下に出る。雨戸を締め切った廊下は真っ暗だが、のぞき窓から見るとたった今半次郎の袴のすそが裏木戸をすり抜けてゆくのが見えた。
これでもう五日。
月も登っているというのに、こんな夜更けに半次郎はどこへ行くのだろうか。
ゆりは自室に戻るとはらりと帯を解いた。寝巻を布団の上に落とすとその下にはすでに忍び服を着込んでいた。頭巾をかぶると支度はできた。
ゆりはそのまますべるように廊下を渡ると、先ほど半次郎が出て行った裏木戸をくぐった。
半次郎を追うのはさほど難しくなかった。昼の間に半次郎の忍び服に香袋を忍ばせておいたのだ。冷たい夜風の中に赤い組みひもから漂う香りが残っている。男性にはその存在すらわからない香りであった。ただ半次郎の歩みの速さにはとうてい自分は追い付かない。ゆりは半次郎の残した香りをたどりつつ先を急いだ。
屋敷を出ると空には満天の星と、その輝きを打ち消す満月が煌々とかかっていた。ゆりは満月に見られるのを恐れるように、その輝きから顔を背けて先を急いだ。
暗い人失森を抜けるとそこは黒霧沼だった。真っ暗な森の暗さよりももっと真っ黒になりそうな心を静めてゆりは恐る恐る隠れている岩陰から中洲をのぞいた。
そこには二つの人影が寄り添うように立っていた。
一人は背中を向けているがまごうことのない半次郎の姿だった。そして半次郎に相対しているのは半次郎よりも若干背の低いすがた。月明かりにはっきりと照らし出され、その白い顔が見えた。
小杁衆
恐れていたことが真実となってしまった。この頃の半次郎の言動は全て小杁の者と通じていることを指し示していたが、まさか本当に会っているとは。しかもあんなに親し気に。
ゆりは自分でも気づかぬうちに唇をかみしめていた。二人は近く寄り添い、半次郎は小杁衆の手を握り締めたままなにかを囁いている。
ゆりは「遠耳の術」を用いて二人の会話を聞き取った。
「ヘレン殿。家人はみな小杁を悪く言うのだ。小杁衆はみな人外であるなどと」
「人外」
「首を切るか心の臓を突かねば死なぬそうだ」
「では、わたくしの心の臓を突いて確かめますか」
「いや、馬鹿な話だ。気にせんでくれ」
「半次郎様。今宵、あなたはなにか良い香りがいたします」小杁の女は半次郎のふところに手を入れたが半次郎は別に嫌がらなかった。もし敵であればあまりにもうかつだ。半次郎が相手を完全に信頼しきっていることをあらわしていた。
小杁の女は探った末、赤い組みひもの香袋を取り出した。「これでございます。よい香りのもとは」
「いつの間にこんなものが」
「いい香りがいたします」小杁の女は鼻を近づけた。「このようなたしなみを」
「うん。なにも香りを感じないが」半次郎は不思議そうに香袋に顔を近づけた。思いがけず、小杁の女と顔への距離が近づいた。
「ヘレンどの」
「はい」
「そなたはよい香りがするな」
「お戯れを」
「いや、本当だ。うむ。そうだな、蜜柑のような香りだ」
鼻を近づけた半次郎と女の距離が恐ろしいほど近づいた。そのまま女の両腕は半次郎の背中に回され、ゆりの持たせた香袋はぽとりと背後に落ちた。二人はそうして顔を重ねたまま長い間一つの影になっていた。
二人が離れた後、しばらく会話は途切れたが、再び半次郎が話す声が聞こえた。
「ヘレン殿。倭田だ小杁だと諍うのは愚かなことだ。これまでのわだかまりや誤解を解き、いつか両家が共に歩むようになりたい。いや! そうしてみせる」
「さようでございますか」小杁衆は夢見るような目つきで半次郎を見上げた。これは幻術か。
「わたしが倭田の当主となったあかつきには、必ず両家を和解させ、いにしえより続く争いを終わらせる。そのときには」半次郎は小杁衆の手をとって握り締めた。
「わたしたちは祝言を上げよう。倭田と小杁が一つになるのだ」
「半次郎様」
ぎりっ
異様な音がした。
ゆりは口の中に妙な味を感じてうつむいた。屈みこんでいる草むらの上にゆっくりと二種類のしずくが滴った。一つは真っ赤な血で、これはゆりの唇から流れ落ちている。もう一つはゆりの両ほおを伝って暖かく、味は塩辛かった。
「許せない。お兄様。よりによって小杁の者などと通じ合って」
*
小杁家では宴の準備に大わらわだった。
当主の小杁サルバトーレが小物・下人たちに指示をし、館を飾り付けている一方、妻は厨房で事細かに料理の指示を与えていた。
小杁家の長男ウィリアムが元服を迎えるのだ。それに応じて普段は小杁家の敷居をまたぐことなどない武士が小杁家を訪問する。
「そこをもっと磨きあげるのだ。あと灯には油をちゃんと足しておくのだぞ。鹿嶋殿にそそうがあってはならないからな」
領主の鹿嶋善三はウンボルト事件以来「身柄お預かり」となった小杁家にも同情的で、たまには訪れてくれる。普段は村人と交わることすら許されぬ小杁家の者たちにとって、数少ない外来者であった。
長い廊下の終わりにある扉を叩き、了解の声を聴いてヘレンが部屋に入ると、そこにはすでに元服の儀に用いる正装を身に着けた小杁ウィリアムが姿見の前に立っていた。ただ、本日は試着のみ。儀式は明日である。
「ウル。素敵です」ヘレンは賛辞を隠さない。「立派なお姿。これなら武士と言っても通用するかもしれません」
「ヘレン。おれには「武士」などというものはどうでもいいのだ」
「またそんなことをおっしゃって。明日は鹿嶋様が参列されます。もしかしたら、小杁の蟄居を解かれるのかもしれぬ、ともっぱらの噂でございます」
「いくら鹿嶋殿がおれたちに同情的でも所詮は幕府の者、小杁の身分を開放する条件としてはあの書を引き換えに、と言うであろうよ」
「あの書、とは?」
「知れたこと。「ターヘルアナトミア外典」だ。親父はおれではなくお前を外典の継承者にすると言っていたぞ。外典の秘密はおれにも明かすことができないのだな」
「そんな。わたくしはなにも聞いていませぬ。「外典」がどのようなものか見たこともございません」
「まあ親孝行なことだ。「外典」はどこにしまってあるのだ。おれは親父以外に立ち入ることを禁じられているあの最奥の部屋だとにらんでいるのだが」
「まあ」ヘレンは眼をみはった。「確かにお父様があそこにこっそりと入るのを見たことがございますが、あそこは単なる物置だと」
「単なる物置に三重の鍵と仕掛けを張るものか。まあ良い。おれが当主になれば、わかることだ。それよりヘレーネ」
ウィリアムは振り返ってヘレンに一歩近づいた。背の高いウィリアムはヘレンを見下ろすようにして目を覗き込んだ。ヘレンを本名で呼ぶときは改まった話をしたいときだ。
「おれたち小杁家は「事件」の咎を受け、幕府の命で蟄居の身だ。親父も鹿嶋どのに取り入り、将軍のお許しが出るのを待つことしか知らん」
ウィリアムは両手をヘレンの肩に置いた。
「だが、おれはそうはいかんぞ。本来我々蘭人は穢土の倭人どもよりもはるかに優れた血統なのだ。聞けば穢土の上殿人は地方人の知らない都言葉を使うが、それは蘭語を借用したものに過ぎないそうだ。やつらの誇るものは何から何まで蘭国から伝来した文化であり、やつらは借り物の文化を猿真似しているだけの存在なのだ」
ウィリアムは見えない天にむけて人差し指を立てた。
「おれが当主となったあかつきには、なんとか蘭国と連絡を取り、黒船を遣わせて日乃本に開国を迫らせるつもりだ」
「お兄様」ヘレンは思わず部屋を見回したが、部屋の隅にウィリアム付きの小物がいるだけだった。「むやみなことをおっしゃると」
「心配するな。ふん。倭田の者でもここには入れぬ。ヘレーネ。開国だ。鎖国を打ち破り、蘭国の優れた文化を呼び込むのだ。さすれば蘭国に最も近いわれら小杁家の地位は再び上がり、この日乃本で大手を振って歩くことができるようになる。ヘレーネ。おれたちはもはや面をかぶって外出する必要はなくなるのだ」
「お兄様。そのようなことをお考えでしたとは」
「ヘレーネ。お前のためでもある。開国すれば蘭人が来る。倭人などではなく、蘭人の中からお前にふさわしい立派な男を見つけ、祝言を上げればよい」
「それは」
「おれはお前に幸せになってほしいのだよ」
ノックの音がした。
「なんだ」ウィリアムの返答にドアは音もなく開いた。入ってきたのはウィリアム付きの小物。黙ったまま一片の紙片を手渡した。受け取ったウィリアムはそれを読むとただちに顔色が変わった。
「ヘレン。お前はとりあえず母の手伝いをしておれ。おれは少し用ができた」
「なんでございましょう」
「いいから。とにかく訳は後で話す」
ヘレンはそのままドアの外に追い出された。
*
半次郎がいつもの道を歩いてゆくと、ちょうど大広場に来たところでカラスが目の前を横切った。
振り仰ぐとただならぬ数の烏が空に舞っている。
半次郎は烏の集まる源を探した。ちょうど大広場からわずかはずれた草むらに黒い塊があった。半次郎が近づくと数羽の烏が飛び立ったが、卑しそうに再び獲物に喰らいつく。
半次郎は刀の鞘を払った。烏は頭が良く、はったりの脅しは通じない。仲間の死骸を見てようやく恐れを感じる。半次郎が物も言わず数羽を切り捨てると、烏どもはようやく恐れをなして飛び立った。なおも名残惜しそうに上空を飛び回っている。
半次郎はかがんでみた。全身黒装束の男の死体一つ。小杁衆の面を付けている。背中から心臓を突いた傷があった。傷口からは血が湧き出していたが、すでに黒く固まっていた。おや。不審に思って半次郎は黒い血を指ですくってみた。指の間でもんでみる。
殺されたのは半刻ばかり前だろうか。
半次郎が死体の検分を行っていると、烏の雰囲気が変わった。
半次郎がつと目を上げると道の向こう側から一つ、人影がかなりの速さで駆けてくる。
半次郎は眼をこらした。漆黒の半纏に赤い帯。小杁衆だ。間違いない。小杁衆のつける面をかぶっている。
人影はあっという間に広場へ着いた。長身の男。赤い帯を巻いているのだから小杁衆の中でも小物ではなく上等衆であろう。面で表情は読めないが肩をいからせ、荒い息を吐いている。半次郎は抜き身を右手に下げたまま立ち上がった。
男は転がっている死体を見ると目を見開いた。
「きさまっ! われらの同胞を殺めたか」
「いや、わたしもたった今ここへ居合わせただけだ」
「たわけっ! たばかれると思うか! その刀はなんだ。血がしたたっておる」
「これは烏の血だ」
「そなたの正体知っておるぞ。倭田の跡取りであろう。「小杁狩り」をやったのだな」
「う」
「小杁狩り」と聞いて半次郎は固まった。じきに小杁狩りをしなければならないことには間違いない。ヘレンに対してもそこは明かしていない。この身分制の世の中では小物の命など家畜とさほど変わらない。主人が死ね、と命じれば小物は従順として死ぬ定めである。半次郎の心の中では、小杁の小物一人を切り捨てて「小杁狩り」を全うし、それからほとぼりを覚まし倭田の当主となった上で倭田と小杁の和平を結ぼうと考えているのだが、それが欺瞞でも矛盾でもないのは今の日乃本の世に人権などは存在しないからである。しかし小杁衆には日乃本の常識は通じないようであった。
半次郎の反応を見て、男は己の言葉に確信を持ったようだった。
「やはり「小杁狩り」か。われら小杁衆を獣のように扱うその所業、許してはおけぬ」
長身の男は剣を抜いた。一度剣を顔の前で立て、それから半次郎に向けた。蘭人仕様の細身の剣はまっすぐに半次郎の心臓を狙っている。
半次郎は乱破の心得として、死体の転がる草むらから土を固めた足場の良い広場へ移ろうとした。その刹那。長身の男の剣が突いてきた。
半次郎は身をかわし、草むらへもどる。草鞋のかかとが転がっている死体を踏みつけた。態勢が崩れる。
すかさず二撃目を浴びせてくるのをわざと後ろに尻もちをつき、後ろに回転して起き上がり、刀を構えた。ゆるく曲線を描く刀身の切っ先がセキレイの尾のように震える。
ふと気づくと自分の胸が真っ赤に染まっていた。気づかないほど早く、わずかに男に剣がささったのだ。少しでも油断すれば「小杁狩り」どころか自分の墓を作ることになる。強敵だった。
長身の男の三撃目。半次郎は再び回り込むようにして下がる。ちょうど長身の男の足元に小杁の小物の死体が置かれた。
こちらに来るには死体を踏み台にして跳ぶか、死体をまたがなければならない。普通の乱破者ならば迷うことなく死体を踏むだろう。しかし長身の男は迷っているようすだった。半次郎は間合いを取り、相手の出方を待つ。
ついに長身の男は飛び上がった。死体を飛び越えることにしたのだ。
その瞬間、半次郎の身体が沈んだ。一瞬相手に背を向けるが刀を自分の身に引きつけて力をためる。
首をはねてはなりませぬ
脳裏に制約の言葉がよぎった。相手を両断するはずの刀身は少しにぶり、それでも十分な殺傷力を持ったまま長身の男の胸を切り裂いた。
「うがあ」思わず出した声とともに赤い血がどっとあふれ出て、男は膝をつく。
「まて。これで終わりにしよう。そなたと争う予定ではなかった」半次郎は言った。
返事の代わりにひゅうひゅうという笛のような音が男の胸から漏れ出た。肺を切り裂いたのだ。それでも男は近づく半次郎を憎しみの目で見るとやにわに剣を突き出してきた。間一髪でそれをかわした半次郎の脇腹に剣先が突き刺さるのと、反射的に半次郎の繰り出した刀の切っ先が男の心臓に深々と刺さるのが同時だった。男はびくびくと体をけいれんさせると仰向けに倒れた。
半次郎は自分の脇腹に刺さった剣を注意深く抜いた。少し血が出たが重要な臓器には刺さらなかったようだ。そのまま立ち上がることができた。
「お見事でございます」
いつの間にか背後にいたヌ、ル、ジの三名が半次郎に近づいた。ヌは死体を改め、ルとジは手早く半次郎の手当てを行う。
ヌが小杁衆の面をはずした。中から現れたのはヘレンと同じように真っ白な肌。だが髪も目も茶色かった。目にはすでに生気がない。傷一つない顔はやはり立派な若武者振りと言えた。
「お館様の命により、この小杁者の身体を持ち帰らねばなりませぬ。ここの後始末はわれらにお任せくださり、半次郎様はいったん屋敷へお戻りください」
なんとはなしにヘレンの面影を思い出しながら、半次郎はうなずいた。
興奮した烏どもが周囲でぎゃあぎゃあと鳴いていた。
*
半次郎が「小杁狩り」を完遂したとのうわさは倭田の屋敷中に広まった。
ゆりは真っ先に半次郎のもとへ来ると、傷を改めた。
「これではだめでございます。これはただ出血を止めただけ」
ゆりが半次郎の傷に軟膏をぬり、包帯を変えていると、中庭にヌ、ル、ジたちが菰に巻いた死体を運んできた。すぐさま家中の者たちが集まってくる。さすがに女どもは遠巻きにしているだけだが、人垣で肝心の死体が半次郎たちの部屋からは見えなかった。
家老の草間が検分に現れると人垣は割れ、多くの者がひざをついて後ろに控えた。
草間は菰を杖で払いのけると、かがみこんだ。にらみつけるようにして死体の顔を改める。
「おお!」草間の声が小物どもの興奮したざわめきに混ざって響いた。「これは小杁の跡取り」
「まことか」いつの間にか姿を現した当主倭田行徳が下問する。
「はい。間違いございませぬ。以前、鹿嶋殿へ拝謁いたしたおり、見かけもうした。これは小杁当主サルバトーレの長子ウィリアムに相違ございませぬ。確か後継者として残っているのは後は長女のヘレーネのみだったはず」
「大物ですな」「半次郎様。大したものでございます」ルやジも称賛の言葉を発する。
「ほんに半次郎様、よくおやりになりました」ゆりが花のように笑顔を見せる。
半次郎は目の前が真っ白だった。中庭の興奮も、傍らのゆりの声も意識の表層を過ぎてゆく。
殺してしまった。こともあろうにヘレンの兄を。
「もっとよく改めよ。顔や首に傷はないか」父の声。
「はい。改めましてございます。一筋たりともございませぬ」草間の声。
「よくやった。これで倭田家の悲願が叶うぞ」父の喜びにあふれた叫び。「今までのような小物ではない。これならば最奥へ入り……」
「ゆり」「はい」父がゆりを呼んだ。
「頼んだぞ。ことは急を要する」
「承知いたしました」深々と礼をするゆり。
なにを言っているのだ。
目の前で何が起きているのだ。父はなにをゆりに命じたのだろう。
絶望する半次郎の目前で、舞台の幕が下りるように障子が閉まり、そのまま景色が遠くなった。
*
半次郎が我に返ったのは夜だった。
気が付いたら自室でうつむいたまま座り込んでいた。服は外出着のまま、夜具も敷いていないところをみると眠ってはいなかったようだ。身動きすると脇腹が刺すように痛み、そこを手で探ると真新しい包帯の感触がした。
決闘の刺し傷。
その一瞬ですべてを思い出した。
昼間、やむを得ない成り行きで小杁家の剣士と戦い、相手を打ち取ったものの、それはヘレンの兄だったのだ。
小物の命などなんとも思っていなかった半次郎にもことの重大さが分かった。相手は小杁の跡取りである。これが小杁衆に知れれば、倭田家と小杁家との全面戦争になるだろう。両家の因縁を終わらせ和解させるなどとんでもないことである。
ヘレンの肉親を殺してしまったのだ。ヘレンは自分のことをなんと思うだろう。
いや、自分の命でなんとかなるのであれば、償おう。自害すればあるいはヘレンは自分を許してくれるだろうか。あるいはヘレンの兄を殺してしまったのは本意ではなく、なりゆきだったのだと説明すれば分かってもらえるだろうか。
頭がかっと熱くなったまま道理の通らない考えがあれやこれや浮かんで半次郎はうろうろと自室の畳の上を歩き回った。
なにかが頭にひっかかっている。
ふと、昼間父の言っていた言葉が気になった。
「これで倭田の悲願がかなう」
あれはどういう意味だったのだろう。小杁家の跡取りを殺し、小杁家を滅ぼすことが倭田家の悲願だったというのだろうか。いや、両家の争いは領主鹿嶋によって禁じられている。倭田は小杁の動向を監視し、謀反を起こさぬように抑える役目はになっていたが、なぜか小杁を滅ぼすことだけは許されなかった。
半次郎は父の居室へ行った。渡り廊下を歩き、障子の外から呼びかける。
「父上」
ただちに返答があった。
「半次郎か。入れ」声にも一種浮かれた様子がある。
半次郎は障子を引いて礼をし、父倭田行徳の部屋へ入った。当主とはいえ、質実剛健一点張りの居室である。壁に飾りなどは一切なく、家具と言えば文机と行灯がぽつんとあるだけである。
父は顔を上げて半次郎を見た。
「そこへ座れ」父の指示のままに半次郎は畳の上に座った。
「半次郎。休んでおった様子なので声をかけなかったが、この度の儀、まことに見事であった」
「父上。恐縮至極でございます」
「わしも鼻が高い。これで名実ともに、おぬしは倭田の当主となる資格がある。来年早々にも鹿嶋殿にお目通りを願い、家督相続の段、申し出るつもりじゃ」
「そうですか」半次郎には自分が家督を継げることなどもはやどうでも良かった。ヘレンの兄を殺してしまったのだ。もはや両家の和解は無理なこと。
半次郎の虚ろな返答に行徳はまゆをひそめた。
「いまだ血が足りぬような顔つきをしておるな。だがおぬしの働きのおかげで倭田の将来に新しい道が開けるやもしれん」
半次郎は目を上げた。そうだ。なにかひっかかることがあったから父に会いに来たのだ。
「「新しい道」でございますか?」
「その通り。われら倭田衆三百年の悲願が叶うやもしれぬのだ」
「「三百年の悲願」?」半次郎は馬鹿のように繰り返した。
「そうだ。半次郎。武士の身分に戻りたくはないか?」父行徳は破顔一笑した。「「ウンボルト事件」に連座して以来、倭田家は武士の身分を召し上げられ、乱破者として日の当たらぬ暮らしを強いられてきた。だが、この度、先代の過ちを一蹴し、幕府に復権を願い出るものを得られる可能性がでてきたのだ」
父行徳は話しているうちに立ち上がって眼を輝かせ、半次郎を上からのぞきこんだ。父が冷静さを欠くほどに逆に半次郎は混乱した心を静め、落ち着いてきた。
「父上。その「もの」とはなんでございましょう」
踊りだしそうにせかせかと室内を歩き回っていた倭田家の当主は振り向いて言った。
「「ターヘルアナトミア外典」じゃ」
「ターヘルアナトミア」
聞いたことだけはある。蘭人が日乃本に足しげく来ていたころ、蘭国の進んだ文化を取り入れるのに幕府は注力していた。いち早く蘭語を習得した前野良沢は蘭国の医学書「ターヘルアナトミア」を訳して「解体新書」を著し日、乃本の医学に多大な貢献をした。人体の仕組みや病に対する具体的な手段を詳細に記した本書に比肩するものは当時なかったのである。前野家やそれに関わる家の者たちは重く用いられ、栄耀栄華を誇った。
しかしあの事件が起きた。
「ウンボルト事件」と呼ばれる事件の真相は幕府によって秘され、実際にはなにが起きたのか歴史書は明らかにしていない。巷の噂や倭田家の伝えるところによれば、当時蘭国の筆頭大使だったアーネスト・フォン・ウンボルトが日乃本の重大な軍事情報を持ち出そうとし、出航寸前で拿捕されたらしい、ということだけである。だれが、なにを、どうしたのか、詳細は今でも霧の中である。ウンボルトは一族郎党みな刑死、日乃本に在住していた蘭人のうち、ウンボルト一族と血縁の薄いノイマン家はその名を小杁家と変え、日乃本に帰化することで存続を許された。前野良沢は蘭人と関係が強かったという理由で刑死した。そして倭田家も、同じような理由で武士の身分をはく奪され、忍び働きのみをそのよりどころとする乱破者となって今日まで生き残っているのである。
とにかくその事件以来、穢土幕府は「外国船打払令」を発布した。蘭国との関係を断ち、鎖国を決めたのである。蘭国はたびたび船を送って開国を求めたが、日乃本は神風ともいうべき嵐に守られ、いまだ蘭国の船は一隻も日乃本に到達できないでいる。
「当時幕府に逆らった蘭人は全て刑死した。だが幕府も小杁家には手を付けられなかった」
「小杁家はウンボルト家の本家ではなく傍流だったために恩赦を受けた、と聞いておりますが」半次郎は習ったままを言った。
「違う! それが違うのだ」父行徳は眼をぎらぎらと輝かせて言った。「それはあくまでも表向きの理由。真実は「外典」にある」
「「外典」」
「そうだ。「ターヘルアナトミア外典」こそ、幕府が小杁家を処分したくてもできない理由なのだ」
「それは……どのようなものなのでしょうか。単なる医学書が一家の命運を決めるとは」
「「外典」は単なる医学書ではないらしいのだ。それよりもはるかに重大なことが記されているそうだ。ただその当時の前野良沢は「外典」を読みはしたものの完全に理解することができなかった。したがって訳書もない」
「それでは翻訳者のいない今、「外典」を入手することの意味はなんでしょう」
「わからんのだ」父行徳は鼻を鳴らした。「ただ、幕府はそれの存在をいたく恐れている。ふん。あの小杁衆め。それを知っているから決して「外典」の内容もありかも明かそうとはせぬ。そこでもしわしら倭田家が「外典」を入手することができたなら、それを材料に倭田家の復権を願い出ることも可能」
「跡取り息子は死んでしまったではありませんか。いかにして今更「外典」の秘密を入手しようとお考えなのです」
「それがよ」父は嫌な笑みを浮かべた。「仕掛けはすでに終わった。あとは報せを待つのみなのだ」
「それは?」
父行徳は半次郎をぎろり、と見ると当主の威厳を取り戻していった。
「半次郎。小杁の娘のことはあきらめろ」
半次郎の背中が震えた。手がこわばり、うめき声を必死に抑える。
「父がなにも知らぬと思っていたか」
その後の沈黙は岩よりも重かった。
*
半次郎は再び自室で座り込んでいた。ヘレンと添い遂げられないのであれば、倭田家の当主になるということにも、武辺の面目を立てたということにもなんの魅力もなかった。のども乾かず腹も減らなかった。ただ、どのようにして絶望と相対するか、そればかりを考えていた。
ふと、気づいた。いつも半次郎のことを気にかけて夕餉を運んでくるゆりの姿が見当たらないことを。特に傷を負った半次郎であれば、口うるさくなにかと世話を焼きたがるはずであった。しかし廊下の向こうはひっそりとしたままだった。それは小杁の跡継ぎを殺してしまった、という事態にも勝るほど異常な出来事だった。いつもならつきまとうのはゆりの方で、すげなくするのが半次郎の方だった。
だが、今夜は違う。何かがおかしい。おかしいのは致命的な殺人で十分だ。日常を取り戻すべく、半次郎は立ち上がった。
ゆりの居室に近づくと、廊下にはゆり付きの下女が座って待機していた。半次郎より先に下女は声をかけた。
「おや、お珍しい。半次郎様」
「ゆりは、ゆりはどうしたのか」
「ただいま湯あみ中でございます。そのままでお待ちください」
「湯あみだと。このような時間に? 早くはないか」
「大仕事の後でございますから」
「ふむ」はぐらかされ、狐につままれたように半次郎はそのまま廊下に座り込んでゆりを待った。
しばらくするとゆりの戻る音が聞こえ、部屋の中の緞帳の向こうでは櫛削る音、衣擦れの音が聞こえる。時間のたつのがやけにゆっくりに感じられた。
長く待たされた後、ようやく障子が開き、ゆりが現れた。夜着の上に錦の肩掛けをはおり、濡れ髪が垂れているのは大変美しい。
しかしそれには目もくれず半次郎は尋ねた。
「ゆり殿。今夜は大儀であったそうだな」
「おや、半次郎殿がわたくしの許へみえるとは珍しいこと」そうしなを作ってみせるゆり。
半次郎は自分の焦燥が現れていないかどうかを気にしている余裕はなかった。
「ゆり、昼間のことだが」
「なんでございましょう」対するゆりはいよいよ悠長な様子。
「父上からなにか急ぎの仕事を仰せつかったようだが、なんだ? 小杁狩りとなにか関係のあることなのか」
「おや。一族の猛者がわたくしめにご質問を。まあ中にお入りくださいませ」
ゆりはそのまま部屋に入った。半次郎は躊躇した。妹とはいえ、妙齢の女性の私室に二人きりで入るのは、武家にはあるまじき振る舞いである。ゆりは中から呼んだ。
「かまいませぬ。すぐ外に下女が控えておりますから」
「そうか」なんとも気まずさを感じながら、勧められるままに入った。白粉の香りがした。
「そこへどうぞ」ゆりの指示した座布団の上に腰掛けると、ゆりはまず茶器を準備し、茶をたて始めた。半次郎も不承不承それに付き合った。茶の湯は武家のたしなみである。
永遠ほども長い間に湯が沸き、白い指に優雅に茶筅を握ったゆりが茶を立てていく。半次郎も一応作法は身に着けている。一杯すすったが味はほとんどわからなかった。
矢も楯もたまらず半次郎は身を乗り出した。「で?」
「なんでしたかしら」
「意地悪をせずともよいではないかゆり殿。先ほどの件」
「ああ、お館様から言いつかった大儀のことですわね。ご心配なく、万事つつがなく完了してございます」
「いや、わたしの知りたいのは、そなたがなにをやってそれが小杁や倭田家の悲願となんの関係があるのか、ということだ」
ゆりはうっすらと目を細め、半次郎を見やった。「半次郎様。それをお話しする前に順序立ててご説明する必要がございます」
半次郎は再びどっかと腰を下ろした。ゆりは居住まいを正し、正座して半次郎の正面に座った。
「半次郎様。半次郎様はわたくしの旧姓をご存知ですか」
以外な質問だった。ゆりの母親は父行徳の後添いであり、ゆりはその母親に付いてきた少女であった。妹のように接してきたが、そもそも血はつながらない。それがここでなんの関係があるのだろうか。半次郎はなにも答えられなかった。
「ご存じないようですから申し上げます。わたくしの旧姓は前野、と申します」
「?」
「ウンボルト事件に連座して刑死した前野良沢の家系にございます」
あっ。あまりに意外だった。想像もしたこともなかった。だが、よく考えれば十分ありうることである。
「前野家の血は絶える寸前でしたところ、お館様に拾われ、倭田家に入ったのでございます。その御恩、一生忘れませぬ」ゆりは深々と礼をした。おもわず半次郎も礼を返した。
「それはそれ、お館様には単なるお慈悲ではなく思惑もありました。書物としては日の目を見なかった「ターヘルアナトミア外典」。その一部の内容は前野家に秘伝として伝わり、今も存在しております。そして……」ゆりはいったん言葉を切った。「わたくしが秘伝の継承者でございます」
なんと
想像もつかなかった。この線の細い少女がそれほどの秘密を保持していたとは。
「ただ、わたくしの知る秘伝は「外典」のごく一部。膨大な「外典」をすべて網羅するものではございません。ただそれでもある秘儀を執り行うのには十分なのでございます。お館様はその秘儀を執り行うことができるという理由で私共をお家断絶からお救いくださったのでございます」
「それでその秘儀とは」
「その秘儀とは……死者復活の秘儀」ゆりはすごみのある微笑を浮かべた。「いえ、正確には違います。それは死体から死人を作り出す技なのでございます」
「死人」
「はい。歩く死者。生者のように歩き、話し、笑いますが手足を切られても死なぬ不死身の身体。死人を倒すには首を切断し胴体より切り離すか心の臓を貫くより他に方法はございません」
「それをそなたが作れると」
「はい、詳しい手順は申し上げられませぬが、赤い血をすべて抜きとり、代わりに黒い血を入れることで人は死人になります」
半次郎はぞっとした。このゆりの手。白く細く自分の傷の手当てをしてくれた癒しの手が死体に忌まわしい術を施している姿は想像するのが難しかった。目の前に赤と黒の液体が混ざり合い滴り落ちる情景が浮かんだ。
「黒い血」
「黒霧沼に産する黒い油。あれが死人を産するための黒い血なのでございます。小杁がたびたびあれを採取しに来るのも道理、もともと死者復活の秘儀は「外典」の中にあり、小杁家こそが「外典」の原本を所有している者たちだからです」
「そうだったのか。それでお館様より命じられた大儀とはまさか」
「はい。半次郎様が倒したあの小杁者の死体に復活の秘儀を施しました。今は生者のようなふりをして歩いておりますよ」
「なんのためにそのようなことを」
「知れたことではございませんか。あれは小杁の跡継ぎ。小杁家の中では当主の次に位置する身分の者。あれであれば小杁の館の奥深くに秘蔵されている「外典」を持ち出すことも可能。今まで幾人もの小杁を死人にいたしましたが、みな小物で館の奥に入ることはかないませんでした。今度ばかりは可能かと」
「いや、しかし解せぬぞ。死人とはいえ、あれは小杁衆ではないか。どうやって倭田家のために働くように説得したのだ」
「おや、半次郎様。ご存じないのですね。おほほほほ」手の甲を口にあてがってゆりはおかしそうに笑った。
「死人にするときに暗示をかけることで死人は施術者の意のままに動きます。今はあの小杁者はわたくしの奴隷でございます。何食わぬ顔で小杁の館へ戻るように命じました」
「それで、それで何をさせるのだ」半次郎はゆりにつかみかからんばかりだった。不安が胸の内を一杯にふさいだ。
「小杁館の最奥に入り「外典」を手中にし……」いったん言葉を切ってゆりは流し目で半次郎を見た。そのまま夜着の裾を引きずり、半次郎の膝にしなだれかかった。
「半次郎様」囁くように言う。「ゆりのことをどう思われますか」
「ゆり殿。どうしたのだ」半次郎はゆりの肩に手をかけたが、強い違和感に手が冷たくなるのを感じた。
「この館に来て以来、お慕いもうしております。半次郎様。当主におなりあそばしたあかつきには、ゆりを倭田家の刀自に……」
「ゆり殿」
「わたしではご不満でしょうか」
「いや。そなたに何の不満もないのだが」
「それではどうしてわたくしを見てくださらないのです。半次郎様」
そう言って見上げるゆりの目には涙がたたえられ、半次郎の胸元を握るこぶしは血の気を失うほどきつく握られている。
「ゆり殿。そなたには大変感謝している」
「それで」
「ゆり殿。教えてくれ。死人は小杁の館でなにをしようとしているのだ」
突然、半次郎の上から重さが抜け、ゆりは冷たい表情で立ち上がった。顔を振って涙を跳ばすと、ゆりは傲然と言った。「知れたこと。「外典」を入手すれば小杁の価値はなくなります。残った跡取りを殺めれば小杁家は断絶。もはや将来に禍根を残すこともなくなります。幕府の頭痛の種を完全に取り除いてこそ、倭田家の面目が立つというもの」
「残った跡取り、跡取りと申したか!」半次郎は叫んだ。小杁の長子ウィリアムが死んだ今、小杁家の跡取りとは長女のヘレーネを置いて他にない。半次郎は立ち上がった。
「どこへ行かれます。半次郎殿」氷の声でゆりが問う。「もし小杁家へ行ってこのことを知らせれば、お館様直々の命を破ることになりまする。半次郎殿。裏切り者のそしりを受けられるのですか」
しかし半次郎は障子を開け外に歩き去ろうとした。
顔色を変えたゆりは半次郎の腕にすがる。「いけません。いけません、半次郎様」
半次郎はゆりの腕を振りほどいて部屋を出た。あとからゆりの悲鳴のような声が追ってくる。
「半次郎様!」
半次郎は振り向くことなく走りだした。
*
半次郎は刀を取り、忍び働き用の面をかぶるとそのまま館の外へ走り出た。頭の中にはとにかくヘレンを救わねばならぬ、という思いで一杯だった。己の中の己が半次郎に告げた。
このまま小杁家に乗り込めば、ただでは済まないぞ。小杁の跡継ぎを殺したことがばれ、さらに死人として送り込んだことが明らかになるだろう。それでもお前はゆくのか。おそらく「小杁狩り」を完遂した武勲は帳消しになり、お館様は怒り、半次郎を廃嫡するだろう。倭田家もヘレンも全てを失い、行くことになんの意味がある。
半次郎の足取りは一瞬も緩まなかった。ヘレンの兄を殺してしまったことを大きな過ちとするのなら、このままヘレンを見殺しにすることはさらに取り返しのつかない大きな過ちだった。半次郎には自らの身の破滅よりも、この世からヘレンが存在しなくなる、ということが耐えられなかった。
半次郎は走った。走った。走った。
乱破の技で走っているにもかかわらず、息は切れ、頭が痛くなった。
*
小杁家では、館中の者たちが明日の支度で忙しいときにふらりと現れた者があった。
ウィリアムであった。足取りもしっかりと、みなの前に現れた。
「ウル。遅かったぞ。鹿嶋様はすでに到着されておる。今夜は当家に宿泊され、明日の儀礼に参加されるのだ。一度お目通りをして来い」父サルバトーレが言った。
「全く、明日はあなたの日ですのに、いったいこんな時刻までどこへ行っていたのです」母が咎めたが、ウィリアムはにやりと笑って手を振るだけだった。
「ウル!」母が叫ぶ。
「まあ良い。成年すれば責任があり、今までのように勝手気ままに行動することはかなわぬ。元服の前夜くらい好きにさせてやるがよい」サルバトーレは理解を示すように言った。
「ウル。夕食は?」
「後にします」ウィリアムはそういって快活に笑うとそのまま奥に引っ込んだ。
ヘレンはちょうどそのとき、ウィリアムとすれ違った。妙に胸をかばうような歩き方が気になって、ウィリアムの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。ふと床を見ると、妙なものが落ちている。領主を迎えるために朝からぴかぴかに磨き上げた床にはふさわしくない汚れであった。ヘレンはかがみこむとその汚れを指ですくいとった。それは赤黒く固まった血だった。よく見るとそれはちょうどウィリアムの歩いた足跡の形となってこびりついている。
ヘレンは顔を上げ、館の奥を見つめた。
*
ウィリアムはそのまま館の最奥に進んだ。途中で何人もの下女や小物とすれ違ったが、みな軽く礼をして足早に去ってゆく。今夜小杁家で暇な者はいない。ウィリアムは誰にも邪魔されずに当主のみが入ることを許される書斎のドアを開けた。
(まず「ターヘルアナトミア外典」を入手せよ)
(その上で小杁の跡継ぎを殺せ)
自分の頭の中で囁く者がいる。
書斎には誰もいなかった。部屋の主サルバトーレには先ほど中庭で別れたばかりだ。ウィリアムは巨大な文机を回り込むと、背後のドアに鍵を差し込み開けた。
「おや、ウィリアム様」突然背後で声が聞こえた。ウィリアムはゆっくりと振り返った。
「いけません。ご主人様に叱られます」家政婦をしている小物の女がつかつかと近づき、ウィリアムの手から鍵を取り上げた。「この部屋はたとえウィリアム様といえども入れてはならぬ、とサルバトーレ様直々のお達しでございます。なにか御用ならわたくしめにお言いつけくださいな。あら」
ウィリアムがゆっくりと近づくのを見て小物女の顔を不審げにあげられる。
(その過程で障害となるものがあれば排除せよ)
「ウィリアム様?」
小物女の目は見開いたまま止まった。そのまま下にずり落ちそうになるのを抱き留めたウィリアムは背中から短剣の柄が生えている小物女の身体を引きずり、カーテンの影に横たえた。
ウィリアムは立ち上がり奥の部屋へ入った。小さな部屋には家具と呼べるものは何もない。
奥の壁にかかっている小杁家初代当主の肖像画をはずし、壁に作り付けの隠し棚に触れた。仕掛けが施されているが、やり方さえ知っていれば鍵がなくても開けることができる。同時に三か所を押すのだ。ウィリアムは両手と、口にくわえたペンを使って隠し棚の隅を押した。
かちゃ、と音がして隠し棚が開いた。中には橙色の厚い書物が置かれていた。ウィリアムがそれに手を伸ばしたとき。
「お兄様」後ろからヘレンが声をかけた。
ウィリアムはゆっくりと振り返った。
(その上で小杁の跡継ぎを殺せ)
まだだ。まずこの書物が「ターヘルアナトミア外典」であるかどうかを確認しなければ。
「やはりお兄様、なにか隠してらっしゃいますね」ヘレンはいたずらっ子を見つけたときのような表情をした。肩越しに隠し棚を覗き込むと事もなげに言った。「それですか? 「ターヘルアナトミア外典」というのは。お父様の許可なしに持ち出してもいいのですか」
とは言うもののヘレンは書物には興味ない様子である。
「それより」ヘレンはウィリアムの上着に手をかけた。「ちょっと改めさせてください」
止める間もなくヘレンはウィリアムの上着の前をはだけた。胸から肩にかけて分厚く包帯が巻いてある。
「やっぱり。けがをされていたのですね。元服の前夜だというのに、本当に無茶をして」
止める間もあらば、ヘレンは胸の包帯をほどいていった。ヘレンがこういうときは誰にも止められない。
「だめですよ。自分で手当てなどして悪化しては」そう言いながら包帯をほどく手がふと止まった。目はまじまじとウィリアムの胸のあたりを見つめている。包帯の下は黒々とした血に染まっていた。「お兄様。これはなに?」見上げるヘレンの顔。
(まず「ターヘルアナトミア外典」を入手せよ)
(その上で小杁の跡継ぎを殺せ)
心の中に命じる者がいる。
ウィリアムはゆっくりと両手を上げ、突然ヘレンを突き飛ばした。振り返ると橙色の書を左手で鷲掴みにして開く。中は蘭語でびっしりと埋められていた。これが「外典」だろう。
ウィリアムは橙色の書をふところにしまうと右手でゆっくりと剣を抜いた。
尻もちをついたヘレンは抜き身の剣を手にゆっくりと近づくウィリアムを信じられない、という表情で見ている。
「ウル。冗談はやめて」
振りかぶることもなく、ウィリアムは一挙動で剣を突き出した。ヘレンはかろうじて身をかわし、彼女の心臓を貫くはずの切っ先は彼女の左手のひらを床に縫い留めた。
ウィリアムが剣を引き抜くとヘレンは転がって次の一撃をかわした。たった今ヘレンのいたところに容赦ない攻撃が行われる。ヘレンは何度も横転し、流れるような挙動で立ち上がるとそのまま後転し、立ち上がった。すかさずウィリアムは小部屋のドアへ行き、ヘレンの退路をふさいだ。
ヘレンは左右を見回すが、武器になるようなものはなにもない。両手を前につきだした。黒い木の葉が噴き出して視界をふさぐ。その隙になにかが目の前を通り過ぎた。ウィリアムはすかさず剣をふるった。
しゃっ
軽い手ごたえとともにヘレンが投げた上着が真っ二つに切れて落ちた。ヘレンは足元を駆け抜け書斎に入った。
ただちにウィリアムは追う。書斎の出口までたどりついたヘレンに向けて剣を投げつけた。
ヘレンは絶妙な勘で背後に迫る剣を横に跳んで避けた。剣は書斎の扉に突き刺さった。
尻もちをついたヘレンはそのまま後退り、ちょうどカーテンの陰に横たわっている小物女の死体にぶつかった。
ウィリアムは書斎の扉に近づき、ゆっくりと扉にささった剣を抜いた。
「ウル?」ヘレンは顔をいやいやと振り、恐怖の視線でウィリアムを見つめた。「ウル!」
ウィリアムは黙って前へ進み出た。
「助けて! 助けて!」突然ヘレンが大声で叫び始めた。まずい。家人がやってくる。
ウィリアムが急いで進み出たところをヘレンが帽子掛けを蹴飛ばし、それにつまづいてウィリアムはよろけた。
すかさず立ち上がったヘレンが文机の上にあったインク壺を取り上げて投げつけてきた。インク壺が頭に当たった。それ自体は大したことがないが、中のインクがこぼれて両目をふさいだ。
その瞬間、ヘレンは宙を跳んだ。ウィリアムは宙を薙ぎ払ったが、剣先は空を切った。
そのままヘレンは書斎の扉をあけると外に走り出た。
抜き身の剣を手にしたまま、ウィリアムもその後を追う。
正面から戦えばヘレンはウィリアムにはかなわない。ヘレンは逃げる途中で廊下に飾ってある鎧を引き倒した。ウィリアムはそれにつまづき、一瞬攻撃が止まる。ヘレンはそのすきに再び逃げた。
ウィリアムは鎧を跳ね飛ばすと再び追ってきた。鎧はばらばらになり床に跳ね返った。廊下に轟音が響いた。小物たちが何事かと顔を出す。その間をヘレンは走っていった。そのすぐ後をウィリアムが追う。
最初の角を曲がったとき、遠くから聞き覚えのある叫び声が聞こえてきた。
*
半次郎は刀を左に下げたまま小杁家の館にたどり着いた。急に駆けつけたこともあり、倭田家を示す藍色の打掛けも黄色の帯も着ていない平服であったが、門番はいちおう誰何した。
「なにものであるか」木戸の窓から目だけ出して問う。
倭田家の者である、と名乗らないくらいは半次郎は冷静だった。明日は小杁家の元服の儀が行われる。来客もいるだろう。
「鹿嶋様家来、空名氷雪である」
「入られよ」木戸が開いて、半次郎は中にまねかれた。やはり今夜だけは警備が甘い。
普段着の半次郎を見て、初めて不審を感じた門番が問う。
「これは。そなた何者だ」
返事の代わりに半次郎は門番を突き飛ばして奥へ向かって走り出した。二重扉の奥に控えている門番を刀の鞘でぶちのめし、そのまま扉を開いて奥に駆け込んだ。出たところは中庭だった。
「ヘレーン!」半次郎が叫ぶと中庭に数名いた小物たちが全員こちらを見た。さらに扉が開き数多く出てくる。
「なにものだ!」「曲者!」
「へレーン!」構わず半次郎は叫んだ。小物たちは半次郎の腕を両側からつかみ、取り押さえようとする。
その時、白兎のような姿が走り出してきた。
その姿は半次郎へ向かってくるとその胸にすがった。
「ヘレン!」ヘレンの身体を一瞬抱き留め、半次郎とヘレンは視線を見交わした。
その後からなにかまがまがしいものが追ってくる。
半次郎は本能的にヘレンを自らの背後にまわすと刀を鞘走らせた。
ジャッ!
ウィリアムの必殺の突きを半次郎は鍔元ではじく。両者の武器が闇に光る。
小物たちは恐れ、みな二人を遠巻きにした。
半次郎はヘレンを背後に下がらせ前へ進み出た。こうなれば死人と化したヘレンの兄を再び討つより他ない。
稲妻の輝きが襲ってきた。刀の切っ先ではじくが攻撃は息をつく暇もなく連続して襲ってくる。昼間対峙したときとは格段に強くなっているような気がした。
はっ
半次郎は右に跳んだ。小杁家の屋敷はみな石造りの壁である。その壁を蹴って逆方向に跳んだ。ウィリアムの上に出たつもりだったが、背後に殺気を感じた。空中で背中に向けて刀を振ると半次郎よりも高く跳んだウィリアムの斬撃とぶつかった。
ジン!
ウィリアムの剣先は半次郎の腕を突く。辛うじて致命傷となる箇所をかわした。
取り巻いた小物たちに混ざって叱咤する声が聞こえる。「加勢せよ!」
小物たちの幾人かがくないを投げたが、逆にそれを半次郎は空中で捕まえ、ウィリアムに向かって投げ返した。ウィリアムはそれを剣ではじき返し半次郎に飛ばす。
ぼん!
小さな爆発が起こり、白煙が上がった。くないに爆薬が仕掛けてあったのだ。
すかさず顔を伏せていた半次郎の他はみな目がくらんでいる様子だがウィリアムは違った。血走った眼をさらに大きく開いて迫ってくる。気が付いたときには半次郎のすぐ間近だった。
斬撃のくる場所から飛びのく。次、また次。半次郎は防戦一方になった。とにかくウィリアムの動きが速い。
さらに来る突撃をかわし切れず、半次郎はももに刺傷を受けた。すかさず斬撃を返すがウィリアムは飛び上がってかわした。このままでは失血し、遅れをとってしまう。
半次郎は中庭の中央に立って待ち受けた。刀を身体に沿わすように構え、相手を待つ。
空気が動いたと感じた瞬間、半次郎の身体が沈み、ウィリアムの一撃は額をかすめてはずれた。同時に半次郎は伸びあがりながら全身の体重をかけて身体をひねった。
回転切り。
一瞬後、遅れて太刀が重い空気を伴い、横なぎに切った。ウィリアムは剣を立てることでそれを受けたが、受けた剣は枯れ枝のように折れ飛び、重い斬撃はそのままウィリアムの首を両断した。
首が宙を跳び、直立したままの身体から油のように黒々とした血が上へ向かって噴き出した。同時に半次郎のかぶっていた面が割れて落ちた。ウィリアムも俊敏な斬撃を半次郎に与えていたのだ。半次郎が死ななかったのはただの幸運であった。
「ウィリアム!」叫んだのはいつの間にか騒ぎを聞きつけ出てきた男。当主の着る飾りを首からかけている。男はヘレンに駆け寄り、その体を抱き留めた。「ヘレーネ。大丈夫か!」
「なにごとじゃ」寝巻姿の男が館から出てきた。寝巻にも幕府の紋がついている。これは領主の鹿嶋善三に相違なかった。鹿嶋はその場の事態をすぐさま見て取った。
「おぬしは倭田の子せがれじゃな! 小杁の館になにをしに入ってきた! そしてこれは。おお、なんということじゃ」足元に転がっている首を見る。「これは! ウィリアムではないか」
小杁サルバトーレの妻とおぼしき貴婦人が卒倒し、両側から小物に支えられた。
半次郎は周りを見回すと刀を血振りした。遠巻きにしている者たちがまた少し下がった。
そのすきをついて、半次郎は走り出した。ここは言い訳をしてのがれられる場合ではない。前をふさごうとした小物に体当たりを食わせると無我夢中で扉を破り、惨劇の場所から逃げ出した。
「待て! 倭田衆め! 待て!」ののしり声を後に半次郎は走り続けた。
*
「倭田衆め。わしの跡取りを。小杁の将来を!」狂ったように叫び小物たちに取り押さえられた小杁サルバトーレを静めたのは鹿嶋善三の落ち着いた声だった。
「小杁殿。確かに小杁衆の身分は倭田衆の下に位置する。されどわしは蘭人が日乃本に通っていたときのことを知っておる。いかに身分が違うといえども、今宵の狼藉は許しがたいことである」
サルバトーレは鹿嶋善三を見上げた。
「この目で倭田のこせがれが所業を見届けたからにはわし自らが証人じゃ。言い訳は無用。倭田衆には必ずこの代償を払わせてみせますぞ。小杁殿」
「ははっ」小杁サルバトーレは鹿嶋善三の前に平服した。それをそのわきでヘレンは茫然と見ていた。
*
翌日、元服の儀は葬送の儀にとって代わられた。全ての用意がただ悲しみを増すために用いられた。真っ黒のドレスを着てベールに顔を隠したヘレンと母親は、儀式が終わると早々に自室に引きこもった。
とにかく来賓を送り出して痛む頭を抱え書斎に戻ったサルバトーレが一息入れる前にドアをノックするものがいた。
サルバトーレが促すとまだ喪服を着たままのヘレンが入ってきた。
ヘレンは橙色の書物を抱えていた。
「それは」目を見張るサルバトーレ。
「お兄様が持ち出したものでございます」ヘレンは書物を文机の上に置いた。
「中身を見たか」との父の問いにヘレンは黙って首を振った。
「持ってゆくがよい。それはもうお前のものだ」
ヘレンは書物には興味がなかった。父に確かめたいことがあってきたのだ。
「お兄様の身体でございますが……血がことごとく黒うございました」
「ウルは殺されたのだ。倭田の手の者に。おそらく昨日のことであろう」
「わたくしは兄と言葉を交わしましたが」
「そう……死人とな」
「死人?」
「黒い血で動く、生ける死者だ」
「それでは」ヘレンは静かに言った。「お父様にお尋ねしたいことがございます」
「なんだ」
ヘレンは黙って左手にはめていた手袋を脱いだ。ウィリアムの剣に貫かれた手のひらの傷は、今やほとんど治りかけていたが、その中心部はなお黒々とした血がこびりついていた。ヘレンは腰に付けた飾り短剣を引き抜くと自分の左手のひらを深く切った。
切り口から油のように黒い血があふれ出し、ゆっくりと流れて床に滴った。みかんの香りが部屋に漂った。
「これは、なんですか」
サルバトーレは真っ青になって黙っていた。
両者の見守る中、ヘレンの左手の血はみるみるうちに固まり傷をふさいだ。ヘレンは言い詰めた。
「これはなんですか」
サルバトーレは答えなかった。ただあごがひくひくと動いた。
ヘレンは白い顔をさらに蒼白にしてつぶやいた。
「私は……何者なのです」
「わたしは人外の者なのでしょうか」
「ちがう!」サルバトーレのひげが震えた。「死人は決して人外の者ではない。ただ死者に「復活の秘儀」を施しただけ」
「「復活の秘儀」」
「「ターヘルアナトミア外典」に記された死者を再生する技法よ。わしらは原典を所有しておるが、倭田衆、おそらく前野の生き残りが秘儀を継承しておるのだろう。
「「外典」、「外典」がすべてのことの起こりなのですか?」
「そうだ。倭田のやつらの望みは完全な「外典」を手中にすることだろう。それがあれば日乃本を支配できるやもしれぬからな」
ヘレンが黙っているので、サルバトーレは言葉を継いだ。
「穢土幕府も「外典」を喉から手が出るほど欲しがっておる。おそらく倭田の野望はそこにある」
ヘレンは蒼白なままだった。ふとつぶやいた。「こんな書物のためにウルは死んだのですか」
サルバトーレは無造作に手で橙色の本をはたいた。「これは「外典」ではない。これは単なる辞書だ」
「え、では「外典」は?」
サルバトーレは優しくヘレンの両肩に手を乗せると言った。「お前だ。ヘレーネ。お前こそが「外典」なのだよ」
ヘレンはぞくっと身を震わせて父の手を振りほどき、後ずさった。
「わたくしは、わたくしは本などではありません」
「お前は幼少から覚えた八千節にも及ぶ蘭詩をその心に所持している。それこそが「ターヘルアナトミア外典」の原本なのだ。そしてこの橙色の書は、それを読み解く文法書と辞書に過ぎない」
サルバトーレは話し出した。
ヘレンが幼少の頃、事故があった。それまではヘレンも赤い血を持つ者だったが、その事故で大量の血を失った。瀕死のヘレンを蘇生させるには「復活の秘儀」を用いるより他に方法がなかった。術はサルバトーレ自らが行い、ヘレンは全ての赤い血を黒い血に入れ替えられ生き返った。
「しかし「復活の秘儀」を施すとそれまでの記憶全てを失ってしまう。ただ、生まれたばかりの子供と異なり、言葉を話すことはできる。そのとき暗示によって偽りの記憶を与えることもできる。お前がみかけはずっと大人なのに自分を十三歳と思っているのは、「復活の秘儀」を施して再生したのが十三年前だからだ」
「わたくしを、わたくしを死人としてまで残したかったのですか。「外典」のために」
「それは違う」サルバトーレはむしろ叫ぶように言った。「わしはお前をただ利用したわけではない」
「小杁家の存続はとても微妙なのだ。「外典」を渡してしまえば幕府はただちに小杁家をお取りつぶしになるだろう。われわれ日乃本に残る最後の蘭人が根絶やしになるのだ。「外典」を決して幕府にも幕府の犬である倭田にも奪われないように保持し続けることのみが、今の状態で小杁家を存続させる唯一の方法なのだ。だから「外典」を所有している者が最も生命の安全を保障される」
「わしはお前を失いたくなかった。だから「外典」の継承者にお前を選んだのだ。この橙色の辞書を持ってゆき読みなさい。「ターヘルアナトミア外典」に何が書かれているのか分かったとき、お前は日乃本で最も重要な存在となる。誰もお前に手を触れることはできない」
*
ヘレンは自室に戻り、テーブルの上に飾ってある花を見つめた。花の美しさに触れると心躍るのは昔からだ。この気持ちは誰に植え付けられたものでもないはず。そして半次郎のことを思い出すと胸が一杯になり苦しくなるのも誰からの暗示でもないはずだった。
自分は死人かもしれない。でも血が黒い以外は普通の人間と変わりない。父も言っていたではないか。死人は決して人外の者ではないと。
ヘレンは気を取り直して橙色の書物を開いた。書物は正しく蘭語の文法書と辞書だった。最初の部分に簡単な文法が述べてあり、それに続いて単語やイディオムの意味が書いてあった。アルファベットの読み方に最初はまごついたが、じきにヘレンは蘭語の文法を理解した。ヘレンは辞書をひいてみた。
コギト(新鮮な)・エラスタ(空気)・ヤリ(あななたち)・イ(へ)
コギト・エラスタ・ヤリ・イ(あなたたちに新鮮な空気を)
へーえ。普段何の気なしに交わしている挨拶にはこんな意味があったんだ。でもなぜ「新鮮な空気」? その挨拶の由来はわからなかった。
面白くなって、次々と辞書を引いてみた。自分が意味も分からずに暗記していた詩が実は全て内容のあるものだったとは。それは知的な発見だった。「ターヘルアナトミア外典」の内容のほとんどは死人とその用法に関わることだった。それならば辻褄が合う。「ターヘルアナトミア」の正典の方は生者の医学書であり、「外典」は死人の医学書なのだろう。でも医学書がどうして日乃本の命運を握っているのだろう?
そうしてヘレンが自分の頭の中の本の意味を調べているうちに次の行にあたってしまった。
シビト・ラ・マイラ・アベ・ウマン(死人は生者と婚姻できない)。
死人は生者と添い遂げない
知的好奇心を満たすことで夢中になっていたヘレンは突然、暗闇に突き落とされたような気がした。
わたしは半次郎様と添い遂げることはできない。わたしは。死人であるわたしは。もはやどんなに恋焦がれても生者である半次郎様にはふさわしくない存在なのだ。
出会いのときから全く相いれない両家の者として、逢瀬も秘密にし、多々障害があることはわかっていたが、それでもどこかで希望を持っていた。二人の気持ちが同じであればいつか障害を乗り越え、結ばれる日が来ると。しかし希望は「外典」の明白な言葉によって断たれた。
橙色の本がヘレンの手から滑り落ちた。ヘレンは自らの黒い血がついた手のひらを恨むように見て、顔を覆った。
わたしは半次郎様にふさわしくない。
わたしはしびと。生者と相いれない者。
*
倭田家、小杁家の両家が領主鹿嶋善三の館に出頭したのは、葬送の儀の翌日であった。
裃に身を固めた判事は領主から完全に採決の権限を受けていた。
半次郎が小杁家に乱入し、長男の小杁ウィリアムを討った事件に対する採決権を持っているということである。
「では詮議を始める」始まりを告げる判事に対し、倭田家の筆頭である倭田行徳や半次郎、小杁家の筆頭である小杁サルバトーレやヘレンもみな中庭に膝をついて畏まった。
判事は甲高い声で言った。「この度の沙汰、誠に遺憾である。小杁家長男ウィリアムが殺害された。たまたま居合わせた鹿嶋善三殿の目前で殺害は行われたゆえ、下手人は倭田家次男半次郎であることに相違ない、との領主鹿嶋善三殿の言質をいただいておる。したがって殺害の下手人は半次郎であると……」
「恐れながら判事殿」倭田行徳が頭を上げて言った。「これは殺人かと言えば、ウィリアムも剣を抜いていたとのこと。さすればこれは私闘である、と思われます」
判事は言った。「私闘は領主によって禁じられ、禁を破るものには処罰を与えることとなっておる。ウィリアムはすでに死んでおるゆえ、残る半次郎を私闘の罪にて処するべきか」
「恐れながら判事殿」小杁サルバトーレが頭を上げて言った。「私闘であれば屋外で行うもの。倭田半次郎はあくまで当屋敷に害意を抱いて侵入したものです。侵入をウィリアムに見破られたかあるいはウィリアムそのものに害意を抱いていたためやむなくウィリアムも剣を抜き、戦いとなりましたが、殺害現場は小杁の敷地内であり、ウィリアムには非はございませぬ。なにとぞ倭田家そのものの咎を追求し、倭田家当主に改易あるいは切腹の責を取らせていただくようお願い申し上げます」
「恐れながら判事殿」凛とした声が上がり、みな一同ヘレンを驚きの表情で見た。
「小杁の長女ヘレーネか。よい。申してみよ」
「兄ウィリアムは正気を失っておりました。父の書斎に忍び入り、盗みを働こうとしておりました。小物女の死体が証拠でございます。ちょうど見咎めたわたくしを殺害せむ、と追って来たところを、駆けつけた半次郎殿と戦いになりました」
どよめきが場を包んだ。サルバトーレはヘレンをかっと見開いた目でにらんだがヘレンは続けた。
「半次郎殿はわたくしを守ろうとして兄と戦ったのでございます。わたくしを殺そうとした兄の剣がわたくしの左手を貫きました。半次郎殿に害意はございません」
「ちと疑問だが、そもそも半次郎はなぜ小杁ヘレーネが危機にあると察知したのであろうかな」
「それは」口ごもるヘレン。
「それこそこの一件が倭田衆の謀であるなによりの証拠」
「どこに証拠が」
「ええい。黙れ黙れぃ!」突然判事は怒鳴りだした。「この死人使いどもめが」吐き捨てるように言う。
「その方ら、常日頃から互いにいがみ合い、隙あらば殺し合っていたことを領主様が知らぬとでも思っておったか」
両家は黙り込んだ。判事は続けた。
「倭田衆に小杁衆。両家とも領主預かりの身でありながらたびたび騒乱を巻き起こし、領内を乱すこと著しき。この一件、両家ともに瑕疵あると見る。よって喧嘩両成敗。ただしこのままで仕置きなしでは収まらなぬであろう故、両家の最終的な決着をつけることにする」
みな、何が申し渡されるのかと黙って待った。
「両家の面目と正当性の証に両家の代表として家督者が御前にて決闘し、どちらかの死をもって判決と成す。なお、現在の家督者は双方ともに老齢ゆえ、この場合は次期家督者として倭田家からは倭田半次郎。小杁家からは小杁ヘレーネを代表とする。両者殺し合い、勝者がこの件の勝者となること」
「そんな!」「あんまりです!」叫び声がいくつか上がったが、判事はそれを聞いても微動だにしなかった。
「決闘は明日午の正刻、大広場にて。以上!」
*
「こんなことになるとは」
小杁サルバトーレはヘレンの部屋でせかせかと歩き回りながら、唾を飛ばしてしゃべっていた。「予想外、予想外だ。なんということだ」
突然、ヘレンを向き、手を握る。
「できることならわしが代わってやりたい」
「もうよいのです」ヘレンはなげやりな目を上げて答えた。
「まだ希望はある。ヘレーネ。この度の決定は決して小杁の不利とは限らんぞ」
サルバトーレはヘレンの様子には気づかないようだった。
「鹿嶋殿から密使が来た。今回の沙汰を急いだのは、ウィリアムとの決闘で傷を負っている半次郎が回復する前の今なら女手でも討てるだろうとの配慮だそうだ。もしかすれば鹿嶋殿の影なる支援があるやもしれぬ。明日の決闘、小杁のためにも必ず勝つのだぞ」
ヘレンは眼をつぶった。目を閉じると中庭での半次郎の雄姿が目に浮かぶ。あのとき一瞬だけ半次郎様はわたしの身体を掻き抱いてくださった。あのときの必死の呼び声、確かに私の身を案じて館へ侵入したのだ。わたしを案じて気も狂わんばかりのあの表情。あの表情だけで全てが報われる気がする。どのみち死人は生者とは添い遂げないのだ。死人は死すことも大変だが、ヘレンは半次郎の必殺技を覚えていた。不死身の死人となったウィリアムの首をとばしたあの斬撃を。
あの技なら安らかに死ねる気がする。
ヘレンは瞑目した。
*
夕刻の木漏れ日が半次郎の居室を照らしている。照らされた半次郎の横顔は憂えていた。
ゆりはせっせと半次郎の上半身を裸にし、膏薬を塗り込んでいた。
「半次郎様。前野家に伝わる霊薬でございます。これを塗れば傷はたちどころにふさがり、この丸薬を飲めば力がみなぎります。今日はもうお休みください。わたしどもみな、半次郎様の勝利を確信しております。なに、あんな小杁衆には負けません。明日は憎き小杁衆の禍根を断ち、倭田に朝日をもたらしてくださいませ」
それに対し半次郎は虚ろなまなざしをゆりに向けた。
「なあ、人はなぜ生きるのかな」
深々とため息をつく。
「お家のためとか、倭田の面目とか、自分の好きなように生きることもできずなにが武士であろうか」
ゆりは黙っていた。
「死人は暗示をかけられたままに行動し、自らの意思を持たぬと言う。しかし自らの意思を持っていながら自らの意思通りに生きられぬとあらばただ苦しいのみ。死人よりも悪いではないか」
半次郎はゆりの目を見た。
「ゆり殿。倭田衆のみなには悪いが、わたしは明日負けるつもりだ。家督を継げなくても良い。お家が断絶して済まないとは思う。しかしわたしはあの娘を手にかけることはできん」
半次郎はふらりと立ち上がると部屋を出て行こうとした。
「お兄様。お待ちを!」すがるゆりの手を半次郎は払った。それこそ、倒れてきた箒の柄を払うかのような無造作なしぐさだった。
そのまま半次郎は去った。
「お兄様!」ゆりの悲痛な声は半次郎の心には届かなかった。
「それほどまでに! それほどまでにあの小杁の女を求むというのですか」
ゆりがうつむくと磨き上げられた廊下に涙がぽろぽろと散った。そうしてしばらくの間。ただ耐えていたゆりは、正面から近づく人影にはっと顔を上げた。
*
真昼の太陽は中天高く昇り、町の中央にある大広場をわずかな陰も許さぬように隅々まで照らしていた。冷たい一陣の風が吹きすさび、踏み固めた土からわずかにほこりを掻きとって飛ばす。
領主の見守る中、半次郎とヘレンは十間ほどの距離をとって対峙した。観衆は倭田衆および小杁衆、審判役の鹿嶋家からの数名だけであり、村人はいない。
両名共に顔色は深く青ざめている。特に半次郎の調子が悪いようだ。肩で息をしている。さすればウィリアムと戦ったときの傷はゆりの心を込めた手当てが効かないほど深かったのか。
「両者始めっ!」審判役の武士が鞭を振って決闘の開始を宣言した。
ヘレンは深くうつむいていたが、やがて面を上げると別人のように冷ややかな顔つきになっていた。突き放すような表情にあごまでとがっているかのように見える。
「ふん。調子が悪そうだこと。これならあまり手がかからないようね」
別人のような口調に半次郎が不審げにまゆをひそめた。そんな半次郎をヘレンはあざ笑うように見据える。
「ほほ。わたしの色香に迷って自ら墓穴を掘るとは本当に馬鹿な男」
半次郎の目が驚愕に見開かれた。「そなた!」
ヘレンは自らの身体を守るように自分の腕で掻い抱きながら流し目で半次郎を見た。「最初からお前のことなど何とも思っていなかったのよ。全ては小杁のため。わたしを誰だと思っているの。小杁の次期当主にして「外典」の後継者。わたしがお前のような無知な者のことを気にかけると本気にしていたの?」
「きさまきさま」半次郎は顔を赤くして歯噛みした。「すべては偽りだったと」
「そのとおりよ」
「許せぬ!」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるわ。兄を謀殺し、死人として送り込む汚いやり方。裏切者前野家のともがららしいわ」
二人は同時に得物を抜いた。
半次郎の刀は二尺三寸の日本刀。無銘だが業物である。斜に構えると切っ先がセキレイの尾のように震えた。
対してヘレンの剣は細身の直剣。鍔に唐草模様の紋章がにぶく銀色に光る。ヘレンは剣を顔の前で直立させてからゆっくりと切っ先を半次郎の心臓へ向けた。
一瞬の間をおいて、二人は駆けだした。すれ違いざま、獲物を繰り出す。
キン、という音が一度してからすれ違い走り去った。
再度振り返り、構える。両者の服がすこし裂けた。
半次郎が二撃目を加えるべく突進したとき、立ち止まったヘレンは左手を大きく広げた。真っ黒な木の葉が噴き出し、みるみるうちに視界をさえぎる。
「これほど多量の木の葉が生まれるはずが……幻術か」つぶやきざま半次郎は上着を脱ぎ、膨らませて宙に放った。
木の葉の中から斬撃が襲い、上着が真っ二つになった。同時にこもったような音が聞こえ、あたりはもうもうとした煙に包まれた。上着の中に煙玉が仕込んであったのだ。
「乱破術は小杁衆のみのお家芸ではないぞ」不敵に笑う半次郎は飛び込んだ「そこだっ!」
煙の中でジン、と金属のぶつかり合う音がして、なにかが飛んで行った。
飛んで行ったなにかは、昼光にきらきらと光り、地面に突き立った。ヘレンの剣の折れた剣先だ。
ヘレンはウサギのような俊敏さで回転し、半次郎の顔を蹴った。半次郎は顔をそむけたがただちに体制を整え刀を振る。しかし半次郎の大振りはヘレンには当たらない。
短くなった剣でヘレンは突進してきた。半次郎はそれをかわすと足払いをかけた。同時にヘレンの手袋をつかみ、投げ飛ばす。
ヘレンは背中から落ちた。ただちに立ち上がろうとするが、右足を痛めたのか引きずり、立ち上がることができない。そのまま膝をついた。
半次郎が抜き身の刀をぶら下げ、近づくとヘレンはきっとまなざしを上げ、叫んだ。
「倭田衆。殺せ! この身地獄へ行くともわが呪いは永遠なり」
そうして目を閉じた。両手を下ろし、無防備な首が丁度半次郎の腰の高さにさらされている。
半次郎は刀を身に引き寄せた。かつては想いをかけた女である。痛みを感じないほど一瞬で決着をつけてやりたい。そうして間合いを図ったとき、気が付いた。
ヘレンの閉じた目から涙がこぼれている。
「どうした倭田衆。臆したか」憎々し気に言うその声と涙があまりに釣り合いがとれなくて半次郎は躊躇した。「たばかられた」という思いによる怒りが急速に静まってゆき、冷静に考える時間が持てる。
(もしや、ヘレンはわざと負けようとしているのではないか)
ひとたびその考えが浮かぶとそれは毒のように全身を駆け巡り、半次郎の身体はこわばって動けなくなった。
(なぜ? わたしを助けるために?)
半次郎は構えたまま動きを止めた。
「なにをしている半次郎! とどめを、早く必殺の一撃を!」遠くで父倭田行徳が叫んでいるのがぼんやりと聞こえる。
ぐふ、と咳こむと口からなにか出てきた。
手で押さえ、よく見てみるとそれは赤い血だった。
気が付かないうちに攻撃を受けたのだろうか。それとも昨夜の傷口が開いたのか。
なにか変だった。
めまいがする。体が動かない。
観衆も異変に気付いたようだった。遠くで父の必死に叫ぶ声が聞こえる。
*
ヘレンは死を覚悟した。半次郎様に勝利と名誉を与えられるのならそれで満足だ。わたしは死人。生者とは添い遂げられないから。
けれども涙があふれるのを止めることができなかった。いけない。泣いては半次郎様にわたしの真意を悟られてしまう。そうなれば半次郎様の剣が鈍るだろう。ヘレンは瞑目して自分を永遠の闇に誘う斬撃を待った。
なにか変だった。
観衆が騒いでいる。老人の大声が聞こえる。
ヘレンは眼を開いた。
まぶしい陽光の中に苦悶の表情をした半次郎が立っていた。抜き身の刀を必殺技の形に構えたまま動きを止めている。わたしを殺すことを気に病んで苦しんでいるのとは違う。本当に体がおかしいのだ。
そのときヘレンの父小杁サルバトーレが進み出た。
「ヘレーネ。倭田衆を討て!」
ヘレンは父を悲しそうに見て首を振った。サルバトーレは唱えた。
「オルド・エ・コマド・ミ。ヘレーネ。その男を討つのだ」
ヘレンの腕が自分の意思と関係なく持ち上がるのを見た。中途で折れた剣を構え、目の前で苦悶の表情をしている半次郎の心臓にまっすぐ向けている。そのまま力をためるようにひじを引いた。
「だめ。いけない」ヘレンは早口で口走ったが、ヘレンの身体は言うことをきかなかった。
「だめ。いや。いやー!」
ヘレンの悲痛な叫び声と同時にヘレンの右手はまっすぐに剣を半次郎の胸に突き立てた。
ぐるり、と一回転こじってから引き抜く。半次郎の心臓からどくどくと赤い血があふれ出るのをヘレンは茫然と眺めていた。
「ヘレン」声に見上げる。
半次郎の顔に理解の色が浮かんでいた。死の直前、ヘレンの半次郎に対する気持ちに偽りがないことを悟ったのだ。半次郎は微笑もうとした。
「トランセス・レイン・ラム」
そう囁き、そして半次郎の身体は木偶のように転がった。
「いやー!」ヘレンの叫びは観衆の怒号によってかき消された。
「それまでっ! 勝者小杁ヘレーネ!」
喧噪と混乱の中にヘレンの意識は遠くなっていった。
*
小杁家の館は戦勝祝いもかくや、と思われるほどの騒ぎに満ちていた。つい先日長男のウィリアムを喪ったのがうそのような喜びぶりである。服喪を示す大幕はそのままに邸内の飾り付けが行われていた。
ヘレンはベッドの上に座り込んでぼうとしていた。決闘で負った傷は大したことはなかったが、今は身動きするのも嫌だった。外の喧噪を不思議と感じたがわざわざ起き上がってそれを確かめることもしなかった。食べることにも生きることにも興味がわかなかった。
母親が入ってきたがヘレンはそちらを向こうともしなかった。
母親は一人うきうきしていた。ヘレンの熱を測ったり、ふとんを叩いて直したり一通りしながら話しかけてきたがヘレンは黙っていた。
「ヘレン。疲れたでしょうけれど、明日にはもう少ししゃんとしなさいね。なにしろ領主鹿嶋善三様がじきじきに祝いの言葉を述べにいらっしゃるのですから」
「明日……なにがあるのですか」
「ヘレン。お前の当主相続の願いが受理されたのですよ。明日は相続式です」
「でも、わたしはまだ元服もしていない」
「例外があります。領主の妻として、妃としてならただちに成人とみなされます」
ヘレンは理解できずに目を上げた。
「鹿嶋さまはお前をいたくお気に入りでね。妻にとご所望なのです。あの方は倭人だけれど蘭人に対する偏見もないし、これで鹿嶋家と小杁家が結ばれればわたしたちも身分が上がり、もはや面をつけずとも外を堂々と歩くことができるようになるのですよ。ああ、どんなにこの日を待ちわびていたことか」
母の顔は初めて見るように明るかった。それでヘレンは母の言葉が意味することを理解したが怒りも抗弁も沸いてこなかった。所詮死人は生者のいいなりになるしかないのだ。
母が出てゆくと今度は父が入ってきた。父はすまなそうな表情を繕ってはいたが、内心の喜びは隠しおおせなかった。父もこの度の決闘の結果を喜んでいるのだ。
「ヘレン。疲れたろう。大儀であったな」
ヘレンは黙っていた。
「なんだ、その、判事殿も重ね重ね双方に恨みを残さぬように申し付けられておった。これでお前の望んでいた倭田衆と小杁衆の争いもなくなるだろう」
(違う。わたしの望んでいたのはこんなことではない)
倭田衆と小杁衆は和解したのではない。一方が他方をねじ伏せたのみ。恨みは残っているだろう。しかし今ヘレンにとってお家の隆盛はどうでも良いことだった。
「お父様」
父ははっと表情を変えた。
「なんだ」
「決闘の最後のとどめ。あれはお父様が指示されたのですね」
「その」
「「外典」に記されていました」
父小杁サルバトーレが決闘時に唱えた文言は「オルド・エ・コマド・ミ」。「外典」の記述によれば「生者はこの文言を用いることで死人に命じることができる。ただし……」
「当主を相続したとて、己を持たぬ死人であればなんの意味があるのです」
「そのようなことはないぞ。これで小杁の身分は上がる。お前の苦労で小杁衆一族郎党はみな恩恵を受けるのだ。まことに見事であった」
ヘレンは父親を恨みのこもった目で見るのみだった。
*
翌日の戦勝祝賀会兼相続の儀では小杁衆の全てが着飾り、領主鹿嶋善三を迎えた。ヘレンは純白のドレスを着せられ、上座に座る鹿嶋善三の隣に座らせられ、あたかも婚姻の儀かと思われるように見えた。
鹿嶋善三は機嫌よくときおりヘレンに話しかけ、酌をしているヘレンは無表情でそれに答えていたが、決して笑顔を見せなかった。わきに控えたヘレンの両親はそんなヘレンの態度をはらはらするような様子で見守っていた。
祝賀会が終わり、場が崩れみなの気がゆるんだわずかな時にヘレンは小杁の館を出た。面もかぶらず、白いドレスをまとったまま。誰もヘレンが出て行ったのを気づかなかった。
コギト・エラスタ・ヤリ・イ(あなたがたに新鮮な空気を)
エラスタ、エラスタ。どうして空気がそんなに大事なの。
ヘレンは「ターヘルアナトミア外典」の原典を口ずさみながら歩いて行った。
「もし、死人がエラスタを断たれれば……」
もしわたしが空気を断たれれば。
「……死人は長き眠りにつく。再びエラスタを得る日まで」
死人は死ぬことは難しい。半次郎の刀にかかって死ぬことができないのであれば、少なくともこの気持ちをずっと抱いたまま生きるより、長き眠りについた方がいい。
ヘレンの足取りはしっかりしていた。行先は決まっていた。森にたどり着くとかかとの高い靴を脱ぎ棄て、森の中に入った。
昼間でも暗い人失森を抜け、下に転がる倒木の上を跳んで、ヘレンはまっすぐに母沼へと向かった。半次郎との逢瀬に毎晩通った道である。迷うはずはなかった。
ヘレンが森の終端に着き、中洲島を見渡せる湖岸に立った時、中洲の真ん中に人影が一つ、あった。
*
ヘレンは思った。あれはわたしの知っている人にとてもよく似ている。でもそんなはずはない。わたしは焦がれるあまり幻影を見ているのに違いない。
風が吹き、霧を吹き飛ばしたがその人影は消えなかった。
まさか。半次郎様?
ヘレンは倒木を沼に投げ込み、ドレスのすそを両手で持ち上げると流木の上を器用に跳んで渡った。中洲に膝をつき、見上げた。
「半次郎、様」
見間違えようもなかった。それは愛しい恋人の姿だった。
「生きておられたのですか」ヘレンは立ち上がり一歩近づいた。
「ゴ、ゴゴゴゴゴ」異様な声ともつかない声が半次郎の形をした者の口から漏れ出た。ヘレンはさっと手を引いた。
「ア、アグ。エ、エレン」手をわずかにヘレンへ差し伸べる。ヘレンは自分の顔が引きつるのを感じた。
そのとき、森の奥から叫び声が聞こえた。
「半次郎さまー」
「待って。半次郎さまー。行かないでー」
じきに声の主が現れた。倭田ゆりだった。ゆりは髪を振り乱し、室内着を急いで着たままやってきた様子だった。ゆりはヘレンと半次郎の姿を見ると雷に打たれたように立ち止まった。しかし躊躇せずそのまま流木を渡って中洲島へたどり着くと、まだためらっているヘレンから奪うように半次郎の身体に抱きついた。
「あなたが」ヘレンは言った。「半次郎様を死人にしたのですね」
ゆりは敵意をむき出しにしてヘレンを見た。「小杁衆め! 半次郎様はわたくしのもの。もはやお前には渡しません」
ゆりは半次郎の顔を両手で抱えた。「ねえ。そうよねえ。半次郎様。あなたがいけないのですよ。この小杁の女などに現を抜かして、わたしのことなど全然見てくれないのだから」
「グ、グウ」
「辛いの? 辛いのね。ごめんなさい。まだ毒がまわっているのね。でもこうするより仕方がなかったの。あなたがわたしのものになろうとしないからいけないのよ」
ヘレンは詰め寄った。「毒? 毒とはどういう意味?」答えを聞くまでもなかった。決闘時の半次郎のおかしな様子が脳裏にひらめいた。
「あなたが半次郎様に毒を盛ったというの? 倭田衆のあなたが倭田の当主となる半次郎様に?」
「そうよ!」悲鳴のように叫んでゆりは半次郎を手元に寄せた。「そうしなければ、そうしなければ半次郎様はわざとあなたに負けるつもりだとおっしゃった。あなたのために倭田家の名誉を捨てるつもりだと。許せない。そんなの許せない。半次郎様は倭田衆たるわたしの、わたしだけのもの。蘭人め! お前なんかに渡しはしない」
ゆりはすっくと立ちあがり鹿笛を取り出して吹いた。音は聞こえなかったが、ただちに背後の藪を踏み越える音がぱきぱきと響いた。
「ヌ、ル、ジ、出でよ!」ゆりの命令で三人の小物たちが姿を現した。みな乱破服に身を固め、武装している。
「やれやれ。ゆり様のわがままに付き合うのも大変ですな」とヌ。
「半次郎様を死人にしてしまうとは。お館様はなんと思われるか」とル。
「わしらは倭田家の家来であって、前野家のではありませぬからな」とジ。
そんな小物たちを女王のような顔で見つめたゆりは静かに言った。
「オルド・エ・コマド・ミ。ヌ、ル、ジよ。この小杁の女を殺しなさい」
ただちに三人の小物たちの表情が消え、短刀を逆手に抜いて構えた。
ヘレンは目を見開いた。「そんな! 彼らも死人だったの?」
「知らなかったの? ほほ。小杁の次期当主がそんなことも知らなかったの。「外典」を持っているくせに。倭田家も小杁家も小物たち小作人たちはすべて死人よ。邸内に住まうわずかな者たちだけが生者であり、赤血人。家を継ぐことができ、死人を操ることができる」
ヘレンの周りで天地が揺れ、時が止まった。今まで見てきた全ては死人が生者の真似事をしているようなものだったとは。しかし自分は死人でありながら人を愛し、花の美しさを愛で、詩歌を楽しんでいる。それはなぜだろう。死人と生者の違いとはなんだろう。
疑問を感じている暇はなかった。三方向から同時に死が襲ってきた。ヌ、ル、ジの短刀が身体をかすめ、純白のドレスを切り裂いた。ヘレンは後転して攻撃をかわし、同時に両てのひらをかざした。黒い木の葉が吹雪のように舞い散り、視界をはばんだ。
「小癪な」「やらいでか」ヌ、ルは跳び退って距離を取り、小型の竜巻のような木の葉を見通すようににらんだ。木の葉の雲の中で打撃音が聞こえ、どさり、と思いものが落ちるような音が聞こえた。一瞬後にジの短刀を奪ったヘレンが飛び出してきた。ドレスのすそが大きく裂けている。ヘレンは左右に分かれたヌ、ルを見て取り、ヌへとびかかったが、突然足をつかまれたかのようにどさりと落ちた。自由になろうともがく。
「かかったわ」ヌがうそぶく。「ジが隙を見せ、鉄線をからめたのよ。もはや逃げることはかなわぬ」
ヘレンはそれでも立ち回ったが、足にからまった糸をどうしても切ることができなかった。木の葉の雲からジが現れ、三人の小物たちの間にはさまれたヘレンはどの方向に跳んでも動きを阻まれた。三人はヘレンに少しずつ斬撃を浴びせた。ヘレンの身体に切り傷がいくつもつき、黒い血がじっとりと染み出した。容赦なく三人は交互に切り付け、ヘレンをなぶり殺しにしていった。
ヘレンの動きはだんだん鈍くなり、もはやとどめを刺されるのは時間の問題であった。
「オオオーン!」突然半次郎が獣のような雄たけびを上げた。三名の小物たちはぴたりと動きを止めた。
「なに? どうしたの? ヌ、ル、ジ! 早くとどめを刺しなさい。オルド・エ・コマド・ミ。殺れ!」ゆりが追加で命令したが、三名は動かなかった。
「ヘレン。ヘレン」のどの渇きに苦しむ者のように半次郎は声を出した。
「半次郎様! 意識があるのですか」ヘレンは黒く血で汚れた顔を上げて見た。
半次郎はヘレンに歩み寄った。ゆりが狂おしい表情で半次郎のそでをつかんだが、半次郎はそれを払って前へ進み出た。「ヘレン」
「半次郎様!」
半次郎はようやくヘレンの手をつかむと苦しいのどの奥から声をしぼりだした。「ヘレン。忘れたくない。そなたのことを」
「オルド・エ・コマド・ミ。半次郎様。わたしの許へ戻るのです。ゆりの許へ」
「オーオーオー」半次郎は頭を振って叫んだ。なにかが彼の身体の中であらがっているようだった。苦し気に膝をつく。
「ああ、自分が自分でありたいのですね」ヘレンは半次郎の頭を抱きしめた。「できます。半次郎様。あなたならできます」
「なぜ! 死人は生者の命令を聞くはずなのに」ゆりが問う。ヘレンは傲然と顔を上げて答えた。
「「オルド・エ・コマド・ミ。生者はこの文言を用いることで死人に命じることができる。ただし死人の強い意志、あるいは感情によってこれが効かない場合がある」あなたのところにあるのは不完全な「外典」なのですね。だからわからなかった」
「小杁者め! 獣喰いの異人! 化け物!」ゆりはヒステリックに叫んだ。ヘレンは冷静だった。「倭田ゆり殿。人はその姿かたちや血の色で評価されるものではありません。人はその心根と行いによって測られるのです。半次郎様に対してなしたあなたの所業こそ、化け物そのものと思いますが」そう言うと後はゆりを一顧だにしなかった。
ヘレンは半次郎の顔を撫でて優しく言った。「半次郎様。この時代はわたしたちを認めてくれないようです。いつの日か倭人や蘭人の争いがない世界になったら、もう一度やり直しませんか」
半次郎は黙ってうなずいた。
*
半次郎が立ち上がり、右手を振り下ろすとジが進み出てヘレンの足にからまっていた鉄線をほどいた。そうして立ち上がる力もないヘレンを両手で抱き上げた。
それからヘレンは半次郎の胸に頭を寄り添わせたまま湖面へといざなった。
「どこへ、どこへ行くのです」ゆりが絶望的に問う。
「「もし、死人が空気を断たれれば、死人は長き眠りにつく。再び空気を得る日まで」」ヘレンは唱えた。
「許しません。許しませんったら! 半次郎様! お願い。わたしを見て!」
ゆりの悲痛な叫びを背後に、三人の小物たちの見守る中で、固く身を寄せ合った半次郎とヘレンはゆっくりと水に足を浸し、黒霧沼の深みへと歩いて行った。水は優しく二人をなぶり、腰から胸、そして首を覆った。最後のとぷん、という音を立てて二つの頭は水の中に没した。長い間、泡が水面に上ってきたが、それも最後には消えた。
いつか、身分などない世界になったら、再び蘇るかもしれない。
二人の消えた湖面を霧が覆った。
「半次郎さまー!」
後に残ったのは啼き叫ぶゆりの声だけだった。
*
小春日和であった。
倭田家の自室で草間剛鉄は文机の前に正座し、手紙を書いていた。とろけるような微笑はそのままである。
『……先般、死人たちの長、倭田衆と小杁衆、思惑通り互いに相争い、倭田衆は跡継ぎ半次郎、小杁衆は長男ウィリアムおよび長女ヘレーネを失う。前野の末裔たる倭田ゆりは乱心し回復の見込みなし。後に残る「ターヘルアナトミア外典」の継承者は小杁サルバトーレのみとなる。両家とも家督相続者を失い、勢力は弱まる。近々お家断絶となる模様。これで死人が謀反を起こす心配は当面なく「ウンボルト事件」の再来はないものと思われ、日乃本の安泰は今しばらくは確実のことと思われる……』
草間は手紙を小さく小さくたたむと巻いてひも状にした。ふところから一羽の鳩を取り出すとその足に手紙を結んだ。ちょっと鳩に餌と水を与えると「では頼むぞ」と囁いてから縁側に進み出、宙に鳩を放った。鳩は心得たようにまっすぐ飛び立ち、東の方へ飛んで行った。
早ければ明日には穢土に届くだろう。
草間は微笑んだまま鳩が遠く遠く点のようになり、かすんで見えなくなるまで見送った。
鳩の消えた空には有明の月が中天にかかっていた。