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良い記憶は持たないのに、嫌な記憶は凄く持つ


最近になって、よく外食する様になった。


チェーン店だ個人店だ、和洋中だインドだなんだ。


特に何か拘りが有る訳でも無く、気になったら店に入る。


最初のうちは中々注文が出来なかったり、思ったのと違うのが来て『しまったな』と感じる時もあった。


或るインド料理屋ではカレーを頼んだ際、話をよく聞いていなかったせいでナンもライスも無い、単にルーだけが机に出されて困惑した事もあった。


今となってはそれも良い思い出ではあるのだが、世の中にはどう足掻いても覆しようの無い、辛い記憶という物もある。


個人的な話だと何の前情報も持たず、辛いという事で有名なラーメンを食べた時などがそうだったと言えるだろう。


辛い、というより痛い。


味覚よりも痛覚の方が圧倒的な割合を占める食事体験。


喉に溶岩の様なスープを流し込むと、咽せて咽せて仕方が無い。麺を啜るたびに灼熱の太陽が舌の上で転がり、棘があるかの如き辛味という暴力が身体のあちこちを刺し貫く。


堪らず水を飲もうとするがこれがまさかの罠であり、飲んだが最後、痛覚が口内全体へと拡がり、真っ当に考える力をも奪い去ってしまう。


事程左様に辛い、痛い記憶は頭の中によく残る物だ。


しかし、世の中にはこれ以上に強く印象に残る記憶という物がある。


『不味い』という記憶だ。


という訳で今回はそんな不味い記憶についての感想、私が未だに思い出す曰く付きのラーメンについて話そうと思う。


 --------------------


それを食べたのは或る暑い夏の日、昼休みの事だった。


仕事が一段落し、腹もそれなりに空いてきた時分、同僚の一人が『今日は外食にしないか』と誘ってきたのだ。


毎度毎度コンビニで飯を買って食うのも少し飽きていた私は、その誘いに二つ返事で応じた。今考えれば、それが全ての過ちだったのだと思う。


さて。外食をしようと決めたは良いが、普段から食べ慣れている訳でも無い私とその同僚は、何処で飯を食べようかと悩んでいた。


近くに何か店は無いだろうかと見回していると、信号を渡った先に『らーめん』の文字が見えた。


丁度いい、あそこにしよう。ラーメンなら割と好物だしと、二人して腹をさすり、唾液を口に含ませながら向かっていったのを覚えている。


それがまさか、地獄の始まりだとは微塵も考えもせずに。


店の前に着く。寂れた雰囲気に、客を呼び込もうという気持ちが微塵も感じられないのぼり旗の位置に今ならば危機感を抱くものの、未だ無垢で疑う事を知らない外食ど素人の当時の自分は、特に疑問に思わずに中へと入っていく。


中は思った以上に広い……客が自分達がそう感じただけかも知れないが、ともかくだだっ広く感じたのを覚えている。


(人が少ないのだから当然なのだが)静かな店内、テレビで流れる甲子園の音がけたたましく流れる中、二人してメニューを眺める。思った以上に、麺の種類が少ない。


まあ、良いか。少ないのは自信の表れだって、前なにかの本で見たし。


そう思い、取り敢えず普通のラーメンを頼んでみた。


店主はテレビを見ながら、気の無い返事で答えた…この時になって、漸くと嫌な予感が働く。


なにせ客である此方を全く見ずに、テレビばかりをじいっと見つめているのだ。そりゃ不安な気持ちになりもする。


口をぽかんと開けたままの姿を見ていると大丈夫かな、と不安が襲ってきたが、もうどうしようも無い。もう頼んでしまったのだから、来るのを待つしかない。


なので待った。だいぶ待った。結構な時間を待った。


そして気付いた。全く料理が来ない。気配すらしねえ。


鍋振ってる音も、野菜切ってる音すらしない。何かがグツグツと煮える音すらしないのは、明らかにおかしい。


厨房の方を見るも、客席からでは様子がよく分からないが、碌でもない事態が進行している事だけは分かる。


もしかして下準備も何もしていなかったのでは…そんな狂気的な考えすらも浮かび、一刻、また一刻と時間が進んでいく度、その考えの信憑性がどんどんと高まっていく。


気付けば時間は四十分を当に過ぎていた。昼休みもそろそろ終わりの頃合い、にも関わらず料理は全く来やしない。


不味った。完全にしくじった。此処に来て漸く、私達二人は己らが過ちを犯したという事に気が付いた。


しかし、最早止まる事は出来なかった。此処まで待ってしまったのである、他の所で飯を食う選択肢は当に潰えていた。


待つ。待つ。ひたすらに、待つ。


もう昼休みが終わるまで料理は来ないのではないだろうか、そう考えていると、漸くラーメンが卓に運ばれてきた。


ああ、やっとか。もう腹が空き過ぎて、何でも良いから足しになる物をかっ喰らいたくなっていた。今の状況なら多少、味が変だとしても美味しく食べられるだろう。


さて。空腹は最高のスパイスとの言葉が世にはある。


それは事実だと私も思うのだが、限度がある事をこの時に知った。無理な物は無理という事だ。


先ず私の視線を釘付けにしたのはラーメンの野菜であった。


浮いている。スープの上に確かに野菜が浮いているのだ。


そんなの普通だろと思われるかも知れない、しかし個人的には普通のラーメンに入っている野菜は浸っているという表現が正しく、浮いている訳ではないと断言したい。


なんなら重力に逆らって外側に跳ねてさえいる。野菜自身が新鮮さを全身で表している。俺は瑞々しいブツなのだと。


恐る恐る野菜を取って食べてみると、バリッとした音と共に青臭い匂いと味が口中に広がっていく。


何の調理もされず、味も染み込んでいない青物を食べたのはこれが初めてだったが、なんというか、食事の喜びを微塵も感じない『餌』って言葉が頭上へと浮かんだ。


というか、これはキャベツじゃないだろうか。ラーメンにキャベツってありなのか、しかも新鮮極まりない生の奴。


まあ、そういうのって個人的な趣向だろうし、もしかしたら好きな人もいるかもしれないし、そう思い、今度はスープを飲んでみる事にした。


えっ…水?


いや、一応温かい事は温かい。ぬるいと言うべきか。


そうでは無い。そこが問題では無い。味が全然しない。


これは…これはスープなのか?湯をそのまんま入れたのか?


頭の中で未知の経験がぐるぐると回り、混乱となって思考を包んでいく。不味い、という言葉が浮かんでは消えていく。


ラーメンの命であろうスープがこの調子なのだから、他の物が期待出来よう筈も無い。そして、実際にそれ以外も散々な出来であった。


焼豚は水分全部飛んだんじゃねえかって位のパッサパサで、噛みごたえの無い食感は、歯に纏わりつく肉と合わさって不快極まる。


麺はダマになっている所が多く、コシの欠片も感じない。


ぬるぬるどろどろと、泥土の様な感触が口に広がる。当然ながら味もしないので、不味いという感想すら浮かばない。


というか麺、汁、具材全てに味がしないというのはどういう事なのだろう。本当に料理なのか、これ?


二、三口食べた位で食事をする限界を迎え、箸を置く。


茹だる様な暑さ。やたら煩い蝉の声。そして不味い拉麺。


これまでの人生でした事の無い切ない顔をしながら、ふと店主の方を見ると、やはり呆けた感じでテレビを眺めていた。


それを見た自分は諦観というか、何と言うか、何処か優しい気分になったのを覚えている。


すっと席を立ち上り、勘定を願う自分と同僚の二人組。


ラーメンのお値段、1020円。財布に優しくない値段。


それを払って外に出た自分達の気分は晴れ晴れ、なんて事はなく、快晴の外には似つかわしくないどんより曇り気分であった。


重苦しい足取りで職場へと戻る道中を気温と、空腹と、そして何ともやるせない気分が襲う。


時間はもう一時手前。昼休みの終わりが、すぐそこに迫っていた。


-----------------


なぜ、こうも不味い記憶というのは頭に残るのだろう。


上記の文章を書いている途中、そんな事を考えた。


たった1日、しかも数十分程度の記憶にも関わらず、その印象の強烈さたるや凄まじく、一時は外食そのものにトラウマを植え付ける程に印象深い。


どうしてだろう、そう考えている内に一つの結論が導き出される。


即ち、普段から美味しい物を食べているから不味い物を殊更強く覚えているのではないか、という物だ。


飽食の時代と呼ばれる現代、美食や甘味、珍味には事欠かず、スーパーなどに行くだけでも簡単にそれらの品物が手に入る程に溢れ返っている状況。


農家や漁師、企業の方々や運送業など、様々な人の尽力によって日々美味しい物を食べていたんだなぁと記憶を思い出すに連れ、感謝の気持ちが芽生えてきた。


そういう意味では不味い物を食べると言うのは貴重な経験に他ならないのかも知れない。


と言う訳で偶には外食をして、痛い目を見るのも良い肥やしとなるというので話の締めとしよう。


…別に煮ても焼いても食えない思い出を、無理矢理にでも使える物にしたいとか、そんな訳では無いのだ。

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