僕の家に猫が来た理由
毎年の健康診断でメタボと悪玉コレステロールが年々悪化の一途を辿っていた。カウンセリングでも生活改善をすすめられてはいたが、先延ばしにしてきた結果、精密検査をすすめられるに至ってしまった。
あらためて生活スタイル改善の必要性を意識したが、独り身で長年過ごしてきたため、僕にはまともに料理を作る習慣もスキルも無い。
とりあえずできることからとウォーキングを始めて1ケ月が経過した。
アラフォーと呼ばれて久しいこの身体も、歩く距離を少しずつ伸ばして徐々に慣らして肉体への負荷を調節してきたことで、ここまでなんとか続けられた。
最近では身体が軽く感じるようになって、歩くことが少し楽しく思えるようになってきたところだ。
中学高校時代には陸上部に所属していて、短距離より長距離を好んでやっていたこともあり、元々スタミナには自信があったのだが、長年の運動不足による肉体劣化はその自信を粉々に砕いた。
陸上部のトレーニング方法を思い出しながら、ストレッチから念入りに始め、数年後にはマラソン大会出場することを目標にして日々の運動をおこなっていた。
この1ケ月で80キロ近くあった体重も少しではあるが減量できつつあり、ウォーキングの成果を感じていた。
毎日仕事を終えた後に会社のロッカー室で着替え、会社の近くの公園でストレッチをおこなった後、駅までの距離を考えながら歩くようにしている。最終的には電車に乗って帰るのだが、どこの駅まで歩けるか、明日はどこまで歩けるかなどと考えていると時間の経過を忘れてしまう。
今日も会社で着替えたトレーニングウェアに身に包み、まだ新しいランニングシューズを履いて歩いていた。
いつもだいたい同じコースを歩いているのだが、今日はいつもと違う道を歩いてみるかと思いたち、大通りから人通りの少ない路地に入った。
この辺りの地図はほぼ頭に入っており、駅への方角さえ間違わなければ迷うことはない。
人通りが少ない道だが街灯が周囲を明るく照らし、周りの人との距離を気にする必要がないことに解放された気分で歩いていた。
路地に入って少し歩いたところで、道の反対側に黒い猫がいることに気がついた。
その黒い猫は僕のことをじっと見ているように感じた。顔を向けてその黒い猫を見ると、猫は一言「にゃぁ」と鳴いて後ろを向いて歩いて行った。
特に気にもとめずそのまま歩いていると、道の横に児童公園があり、公園の入口に立っている柱の上に茶色いぶち模様の猫がいることに気がついた。
その猫も僕を見ているようで、顔を向けた瞬間に「みゃぁ」と鳴いて走り去って行った。
この辺りには猫が多いのかなと思って歩いていると、前から歩いてきたこげ茶色の猫が僕の顔を見て「にゃぁ~」と鳴いて、後ろを向いて歩いて行った。
その後も猫が現れては一言鳴いて、皆背中を向けて去って行った。
猫に気を取られて周りを良く見ていなかったが、ふと気がつくと周囲は見たことのない景色となっていた。
「あれっ? ここはどこだ?」
立ち止まって周囲を確認するが、先ほど歩いていた道とは雰囲気が違う。
周りには店舗もなく、どのビルもシャッターが閉まっていた。
街灯も少なくなって、街の中は少し薄暗くなっていた。
正面から誰かがやって来ているのが見えた。
手には懐中電灯を持って、前方に明りを向けて歩いてくる。
とりあえず僕は歩いて通り過ぎようとその人物に近づいて行き、すれ違うときにその顔を見て思わず息を飲んだ。
離れて見ていたときには人かと思ったが、近づいてみると人と同じ恰好をしているが、頭や顔は猫だった。
耳がピンと立って、茶色に所々白が交じった長い毛で覆われた頭に、目が大きくて赤い鼻がついている。
その猫人間は僕の方を見てつぶやいた。
「また人間か」
はっきりと言葉をしゃべった。僕は立ちすくんだままでどうすることもできず、口を開いたままでじっとその猫人間を見ていると、猫人間は手招きをしながら話しかけてきた。
「そこのあなた、こちらへ来なさい」
僕はどうするべきか悩んだが、どうしても猫人間のことが知りたくて、手招きされた方へと歩いて行った。
「ときどきいるんですよ。この世界に紛れ込んでくる人間が」
返事もできずに黙っているとその猫人間はそのまま1人でしゃべり続けた。
「ここに来る前に、あなたの世界にいる猫に止められたんじゃないですか?」
これはひょっとして猫が僕を見て鳴いたのは、僕がこの世界へ紛れ込まないように忠告してくれていたのかな?
「心当たりがあるようですね」
僕が考えていることが分かったかのように猫人間は言った。
「この世界に人間が入り込んだ場合、この世界での裁判をうけないといけないのです。裁判を受けて無罪となれば、元の世界に戻ることができますよ」
僕は恐る恐る声を出した。
「無罪じゃなかったらどうなるんですか?」
「罪を償わねばなりません」
「罪?」
「はい、罪です」
そう話しているうちに目的の場所に着いたようで、道の真ん中に二階建てほどの大きさのドーム状の建物があった。
その入口は自動ドアとなっており、そこから中に通された。
なかには同じような猫人間がたくさんいて、みんな身体の模様が違っていた。
ざわざわと騒いでいた猫人間たちが僕を見て、皆黙ってしまった。
所々でひそひそとしゃべっているのが聞こえた。
最初に出会った猫人間が他の猫人間の前に進み、他の猫人間たちに声をかけた。
「26年ぶりにこの町に人間がやって来たぞ」
それを聞いて、他の猫人間たちが騒ぎ出した。
「人間だ、人間だ」
「どこから来たのだ?」
「またやって来たのか」
「追い出せ!」
「裁判だ!」
「有罪だ、有罪だ!」
あちこちで叫び出した。
「静かに!」
最初に出会った猫人間が他の猫人間の騒ぎを止めた。
「この人間をここに連れてきたのは、裁判を受けさせるためだ。有罪にするかどうかは裁判によって決まる」
他の猫人間たちが黙って聞いていた。
「さぁ人間よ、こちらに」
僕は促されるままに猫人間たちの前に立った。
「さて、この人間は猫にとって有害か?」
「おい人間、お前は猫をいじめたことがあるか?」
「えっ? い、いや、無いです」
「おい人間! お前は猫を飼ったことがあるか?」
「あっ、いや、えっと、昔、兄が飼っていました」
「おい人間! その猫をお前はかわいがったか?」
「は、はい。時々相手をして遊んでいました」
「おい人間! お前は野良猫に餌をあげたことがあるか?」
「い、いえ。あげたことはありません」
かわるがわるいろんな猫人間から質問が出て、僕は1つづつ答えていった。
その後もしばらく質問が続き、質問が途絶えたところで最初の猫人間が他の猫人間たちに対して声を出した。
「それでは判決に移る。皆の意見を聞かせてくれ」
「有罪だ!」「無罪だ!」「どちらとも言えない」などと猫人間たちは口々に言っていた。
「静かに! それでは判決を言い渡す」
最初の猫人間が僕に向かって言った。
「様子見です」
「えっ? どういうことですか?」
「あなたのこれからの行動を見て判断します」
「は、はぁ。どうすれば良いのですか?」
「あなたはこの町から出たときに1匹の子猫を拾うでしょう。その子猫をちゃんと育てられるか私たちが見ています」
「はい」
「もし、その子猫が不幸だと判断した場合は、あなたは有罪となり罰を受けてもらいます」
「えっ?」
気がつくとまわりにあれだけいた猫人間は誰もいなくなっていた。
「ここから帰るには、出口を出て左に曲がったら、そのまままっすぐ歩いてください」
猫人間に言われるままに歩いて行った。
途中で霧の中にいるような感覚になったが、気がつくと見慣れた景色になっていた。
後ろを振り向いても、いつもと同じ道が見えた。
「一体今のは何だったんだろうな?」
歩きながら考えていると、どこからか子猫の鳴き声が聞こえた。
周りをよく見てみると、ビルとビルの間に白い子猫がいるのを見つけた。
これがもしかするとさっき猫人間が言っていた子猫かと思い、しゃがんで手を伸ばすとその子猫は顔を近づけてて、僕の手にすり寄ってきた。
僕はその子猫を抱き上げ、連れて帰ることにした。
猫を連れたままで電車に乗るわけにもいかず、結局その日はタクシーで家まで帰ることになった。タクシーの運転手との交渉は必要であったけど。
家に帰って冷蔵庫にあったミルクを少し温めて皿に入れると、子猫はお腹が減っていたみたいでおいしそうにミルクを飲んでいた。
あの日の出来事が本当にあったことなのか僕には確信が持てないが、家に来た子猫は大事に育てようと思った。
あの猫人間がいつ現れても良いように。