密室のガーディアン‐ディーイティ
また一つの星で、案件が発生する。
淡い灰色の密室。上下と四方、ぴちっと壁で囲まれる、音のない空間。
宙に浮く止まり木の枝に、揚羽が一つ、明るい碧色に輝く翅を背に納め、じっとしている。
安楽椅子から老技師が眺めたまま、こうして、たとい堅牢な壁で閉ざされていなくとも、永く寄り添ってきたこと。
八千代にも渡る蝶の羽化が繰り返し、重い扉が外から開かれ、若者が入る。
足取りは落ち着いているけれど、表情に焦燥の気色がある。
「長官」
若者が呼び掛けても、返答はない。
「えっと、お休みのところを申し訳ありません」
椅子の間近に若者が立ち、老技師は面倒そうに顔を上げる。
音のない憩いの空間を乱され、少なからず不機嫌な渋面をしている。
「我は既に、長官ではない」
「は、失礼致しました。では元長官と、お呼びしましょう」
「うむ」
「あ、それで早速、相談に乗って頂きたい案件があります」
「申せ」
技師助手の拙い説明が始まる。安楽椅子に沈んだままの老技師は、揚羽から目を離さず、黙って耳を傾けている。
話は、識別番号‐百二十八万六千四百二十の惑星で進化の頂点にある生物がもたらす、新たな不具合について。
第六天銀河で、水準としては十等級の下から三つ目の文明を持つ猿系統動物が、蝶を殺傷する効能を有する薬剤の開発を始めている。
「虫退治が必要な案件なのですが」
「その惑星に、蝶の種類と個体数はどれほどか」
「およそ二万種、個体数は三千億です」
「害を及ぼす猿系統動物は」
「一種のみ、ざっと百億の個体数です」
「そうか。お前では、まだ無理じゃろうな」
技師助手の口元が、苦いものを噛んだかのように歪む。瞬時に精確な判断を下せる老技師に、熟練の威力を感じ気圧されるのは、当然のこと。
この偉大な老技師、蝶の守護神が、ようやく重い腰を上げる。横から技師助手が窺ったところ、顔にはあろうことか笑みが浮かんでいる。
傍で、静かに眠っていたような蝶の翅が、微かに揺れる。
「あ、元長官。私の気のせいかもしれませんが、嬉しそうですね」
「久しぶりの虫退治じゃよ」
「そっ、ですか」
害虫駆除対応経験の浅い技師助手には、大先達の心境が理解できず、決して口には出せないけれど、少しばかりの不快感を抱く。
若者の胸中を察している老技師が、口を結び引き締め、止まり木の枝に視線を注ぐと、突如、揚羽に吸収される。
蝶が翅を広げ静かに舞い、碧色に煌めく粉を僅かに散らして、すっと消える。
また一つの星で、蝶は守られる。
《守護神》guardian deity(ガーディアン‐ディーイティ)