前編
私の夫は…多分浮気をしている。
だって、いつも帰りが遅い。
外泊することも少なくない。
それに、外泊する時、連絡をくれない…。
夫が服に、女物の香水の匂いや化粧品の類をつけて帰ってきたことはない。多分私に気づかれないよう注意しているのだろう。だって夫は、出世の為に私と結婚したのだから…。
もしかしたら、結婚前から浮気をし慣れているのかもしれないけれど。
夫と私は見合い結婚だった。
小さい頃から父に言われていた。
「おまえには、お父さんがいい男を見つけてやるからな」
小さい頃は、それが嬉しくて元気に返事をしていた。
けれど大きくなるにつれ、それが私の為ではなく父の為なのだと気づいた。父の会社での基盤を広げる為に、父が気に入った男に嫁がされるのだと。私と、やがて産まれるであろう子どもを楔として利用する為に。
そうと気づいてしまってからは嬉しくなどなくなった。
けれど、姉二人は大人しく父が選んだ人と結婚した。そして私に
「あなたも諦めなさい」
と笑った。
自身の未来を諦めた顔で。
二番目の姉は、夫とそこそこ上手くいっているようだったけれど、一番上の姉は浮気をされていた。
けれど姉は疲れた顔で笑った。
「男なんてそんなものでしょう?」
私たちの父も、昔からずっと浮気をしていたから。
母はそんな父を責めなかった。
母はいつも、まるでデパートの店員のように父に接した。
丁寧に、少し距離を置いて。まるで他人のように。
むしろデパートの店員の方が親しげだったかもしれない。
そんな母や姉を見ていたので、親に決められた相手と結婚などしたくなかった。
けれど他に、結婚したいと思える相手もいなかった。
出会いが全くなかった訳ではない。
ずっと女子校育ちだったけれど、こっそり合コンに参加したことも何度かあった。知り合いの知り合いを紹介されたことも。
けれど「いいな」と思えるような人には出会えなかった。
結局誰とも付き合わないまま大学を卒業した。
その後は就職せずに、お金持ちの子女向けの、いわゆる花嫁修業をさせられた。
やりたいことも特になく、逆らうほどの覇気もなく、姉たちがそうしたように、私も父の指示に従ってしまった。
そしてとうとう、私の番がきた。
父に連れられて、よく行くホテルのレストランでその男性と会った。
プロに着付けされメイクをされた私を見て、その人は真面目な顔で頷いた。
「ああ、この方が…」
真面目そうだけれど、冷たい感じはしない。
そのことにほっとした。
少し庭を二人で歩いた時も特に態度が変わることはなく、時折こちらを見ながら淡々と当たり障りのない話をした。
その後二度ほど儀礼的に会った。
父は
「どうだ?いい男だろう?」
と自慢気に笑った。
私が断るなど露ほども考えていない口ぶり。
…実際、この家で父に逆らうことなどできはしないのだけれど。
それから少しして、父から結婚の日取りが決まったと聞かされた。
あの男性は、断らなかったのだ。
そして私たちは夫婦になった。
彼の態度は、結婚後も大きくは変わらなかった。
怒りはしないけれど大声で笑うこともない。仕事について長々と愚痴る訳でもなく、酒グセが悪い訳でもない。
淡々とした人。
けれど、慣れてくるとその安定感がそれほど嫌ではなくなっていた。
時々、穏やかな眼差しを向けられているような気がしたからかもしれない。
けれどひとつ、不満があった。
夫は度々、黙って外泊をした。
帰らない夫を眠気を我慢してずっと待って、気づけば午前三時。
流石にもう帰らないだろうと、食べる気もなくした夕飯をそのままに、一人ベッドに入り眠る。
そして翌日、結局夫が帰らなかったことを知り、テーブルの上の傷んでしまった夕飯を捨てる。
そんなことが、何度も繰り返された。
夫に文句を言うことはできなかった。
家長に不満を言うなど、私の家ではあり得なかったから。
そして夫は、外泊の翌日、いつも悪びれもせずに帰ってきたから。
…夫にとってはそれが当たり前なのだろうと諦めた。
…諦めた、つもりでいた。
けれどある日、限界がきてしまった。
朝、前日の夕飯を捨てている時に、不意に涙が止まらなくなってしまったのだ。
辛かった。
私がずっと待っているのに帰ってこない夫。連絡ひとつ入れてもらえず、それを当然のこととして振る舞われることが。
私は夫が気を使わなければならない存在ではない。
どう扱おうと構わない存在なのだ。
それが辛かった。
私は、意を決して空き部屋への移動を決めた。
何て言われるだろう。
夫は…怒る、だろうか…。
緊張しながら夫に告げると、夫は多少動揺したように見えたものの淡々と頷いた。
「そうか」
…たったそれだけだった。
その後も、夫の外泊は相変わらずだったし、連絡がないことも変わらなかった。
そして、その日を境に身体を求められることもなくなった。
きっと、外泊の日に他の女性としているから、私とする必要などないのだろう。
そう思うと、何故かうちのめされた。
夫との会話は、どんどん少なくなっていった。
以前は、何か用事を頼まれるかもと思って、夫が朝食をとっている時は近くにいたのだけれど、何も話しかけてこない夫の側にいるのが耐えがたくなってそれもやめた。
…夫はそれにも何も言わなかった。
夫は変わらない。
私が何をしようとも。
夫には私が見えていないのでは、という気さえして悲しかった。けれど何も言えず、ただ家事をこなした。
二人で祝えないのが辛くて、自分の誕生日も夫の誕生日も、クリスマスも結婚記念日も、忘れるように努めた。
お正月以外は普段と同じ食事を出して、何の飾りつけもせずに過ごした。
私はどうして、何の為にここにいるのだろう
虚しかった。




