後編
妻が夕飯の支度を始めた。
本当なら出前でも取って、もっと妻と話していたいところだが、流石にあと二、三日で世界が終わるのに開いている店はほぼないだろう。
それに
「今日は油淋鶏にしようと思うのだけれど」
妻のその言葉に負けた。
俺の好物の一つ。
結婚してから、妻が覚えてくれたメニューの一つ。
「俺の好物だ」
「知ってるわ」
妻は穏やかに微笑んだ。
キッチンに移動して、妻の背中を眺める。
自慢じゃないが、料理なんてまともにしたことがない。手伝おうとしても邪魔になるだけだし、何なら皿を洗おうとすれば割る自信まである。
坊ちゃん育ちを舐めるな。
ただ眺めるだけの俺を、妻が落ちつかなそうに振り返った。
「お風呂にでも入ってきたらどうです?」
「ああ、そうだな」
生返事をして、妻の背中を眺め続ける。
俺の為に、愛する妻が好物を作ってくれている。これが「尊い」という感情なのだろうか。
だいぶ前に女子社員が騒いでいた感覚が、ようやく理解できた気がした。
結局、夕飯が出来上がるまで、俺は妻の後ろ姿を眺めて過ごした。
妻が手際よく皿を並べて、食事の準備が整った。
「食べましょう」
「ああ」
妻が、当たり前のように正面の席についてくれたことが嬉しい。
妻の前にも同じ食事。
「いただきます」
箸で一切れ肉片をつまんで口に運んだ。
美味い。
ニンニクの効いたネギダレが、サクサクの衣に絡んで美味い。
「君のメシは美味いな」
しみじみ呟くと、妻が顔を赤くした。
「そんな…普通ですよ」
視線を逸らしてもごもご呟く妻。
「いや、君のメシが食える俺は幸せだよ」
世界の終わりが近づいていると思うと、もう伝えられる時間がほとんどないのだと思うと、スラスラと言葉が出てくる。
やはり俺はヘタレなポンコツだな。ここまで追いつめられなければ、妻との会話さえままならない。
言われ慣れていない所為か、妻は戸惑った顔をしながらも嬉しそうに見えた。
「晩酌に付き合ってくれないか?」
夕飯を食べ終わって一息ついて、妻は疲れているかもしれないと思いつつも誘った。
早ければ今夜、世界は終わるのだ。
それまで、一秒でも長く妻と一緒にいたかった。
妻は、頷いてくれた。
◇ ◇ ◇
「ああもう、風邪を引いてしまうじゃないの…」
困ったような声の妻が、目を閉じてソファにもたれる俺の身体に毛布をかけてくれた。
その妻の身体を引き寄せて、酔った振りをして抱きしめた。いや、実際多少酔ってはいるのだけれど。
「えっ…」
妻は驚いて硬直し、その後俺の腕から逃れようともがきだした。けれど離したくない。
「…側にいてくれ」
耳元でそう囁くと、妻はもがくのをやめた。
「君が好きなんだ」
そういえば、朝以来言ってなかったような気がして言葉にした。
やはり俺はポンコツだ。
こんな大事な言葉さえ、すぐに言うのを忘れてしまう。
「愛している」
大事な言葉は、何度でも言わなければいけないのに。
妻の身体が震えている。
寒いのなら温めてやらないと。
そう思って、腕に力を込め肩を撫でた。
「俺は君を愛している」
少し躊躇う気配がした後、妻の腕がそっと俺の背中に回された。
ああ、俺は本当にこの女性をーー
「愛している」
その時、外が真昼のように明るくなった気がした。
そして、妻が何かを囁いたような気も…
「私も…」
そう聞こえたのが、俺の願望が作り出した幻聴でないといい…。




