前編
今日、世界が終わる。
朝一にニュースをチェックすると、そんな荒唐無稽な記事がトップを飾っていた。
最初は信じなかった。
当然だろう。そんなものをすぐに信じる奴は阿呆だ。
けれど訂正も続報も入らない。
そもそも俺がチェックしたのは、アングラサイトじゃなくて、真面目な大手のニュースサイトだ。
念のため海外のサイトもチェックしたが、どこも同じような記事が載っていた。
二、三日中に世界は終わる。
フェイクニュースにしても規模が大きすぎる。
SNSをチェックしてみても、その話題一色だった。
…どうするか。
幸い今日は仕事が休みだから「あと二、三日で世界が終わるらしいんですが、出勤しなくちゃいけませんか?」なんて間抜けな連絡を会社に入れなくてもいい。
少し考えた。
もし本当に世界が終わるのなら。
それならこれは、ずっとやらなければと思っていたことを実行に移すいい機会じゃないだろうか。
そう決心して、クローゼットを開けた。
本気の交渉用のスーツを取り出す。ネクタイとタイピンもここ一番の物をつけた。髪を整え鏡を確認する。
よし。
ひとつ頷いてキッチンへと向かった。
キッチンには、いい匂いが漂っていた。妻がいつものように朝メシを作ってくれているのだ。
今日は和食のようで、味噌汁の匂いがしている。
「おはよう」
妻の後ろ姿に声をかけると、ビクリと背中が揺れた後、返事が返ってきた。
「…おはよう」
硬い声。
妻は振り向かない。
「…話がある」
「………何?」
まだ妻は振り向かない。
コンロの前に立って、特に手を動かしている訳でもないのに背を向け続けている。
でも、今はこちらを向いて欲しい。
「大事な話だ」
そう言うと、やっと妻は振り返った。
ややキツそうな顔立ち。
けれど、そこまでキツい性格ではないと知っている。
「座って」
そう促して、自分も席についた。
妻はため息を吐くと、気が進まなそうにやってきて、俺の正面の椅子を引いて腰掛けた。そして両手を組んで、テーブルの上に置いた。
結婚当初から変わらない、緊張している時の妻の癖。
スッと手を伸ばしてその手を握ると、妻は目を見開いて手を引こうとした。
けれどぎゅっと握りしめ引き止める。
大事な…話なのだ…。
大きく息を吸い込む。
ずっと言わなかったことを、ずっと言わなければならなかったことを伝える為に。
妻の顔が歪んだけれど、構わず言葉にした。
「………愛している」
…緊張しすぎて、声が裏返ってしまった。
ポカンと妻の口が開く。
目も大きく見開かれている。
「……………え?」
「愛している」
今度は少し、マシな声が出た。
「何…言ってるの…?」
握った妻の手が震えている。
声も。
仕方ない。
今まで言ってこなかったのだから。
「俺は君を愛している」
結婚して何年も経って、今さらこんなことを言うなんて格好悪いと思っている。何年も一緒に暮らしてきておいて、一度も妻に好意を伝えていなかったなんて。
◇ ◇ ◇
俺と妻は、見合い結婚だった。
よくある話、上司の娘というやつだ。
俺は、結婚とは出世の為にするものだと思っていたし、見合いで見た妻はそう悪くなかった。
だから俺からは断りを入れず、妻からも…妻には断る権利などなかったのかもしれないが、とにかく断られなかったので、俺たちは夫婦になった。式には当然のように会社関係の人間を大勢招いて盛大に。
そうやって俺は、納得して彼女と夫婦になった。
なのにーー
思えばいくつも、後悔する場面はあった。
結婚が決まった後、二人きりで会った時に、人生の伴侶として好意を持ち始めていると伝えればよかった。
花嫁衣装を着た妻を、一言も褒めてやらなかった。綺麗だと、思ったのに。
初夜の時、初めてで震えている妻に、もう少し何か気の利いた言葉をかけてやればよかった。
妻の作る食事が美味いと、いつも楽しみにしていると、そんな一言を言う機会くらい、いくらでもあった筈なのに。
時折見せる、君の笑顔が好きだと言えばよかった。
何度も身体を重ねるたびに君のことが可愛く思えてくると、そう告げていれば。
家に帰ると君が待っていてくれる、そのことがとても嬉しいと、何故一度も言わなかった。
いつも家事をしてくれてありがとうと、一声かけるくらい何でもなかった筈なのに。
俺は、そういったことから逃げてきた。
慣れていなくて恥ずかしいだとか、いきなり言って呆れられたら嫌だとか。
つまらないプライドばかりが先に立って、結局言えずに逃げてきた。
その結果が今の妻だ。
ある日気づけば、寝室が別になっていた。深夜に帰ってくることも多い俺に合わせるのが辛くなってしまったと言われれば、毎朝俺より早く起きてメシを作ってくれる妻に反論はできなかった。
それまで妻は、帰りの遅い俺を律儀に待っていてくれたのに。俺はそうと知りながら連絡も入れずホテルに泊まって帰らない。そんなことを、何の気なしに繰り返してしまった後では。
その時になってようやく気づいた。
俺は妻に甘えていたのだ。
文句を言わない妻に。
…言い訳をさせてもらえるのなら、俺の実家にはずっと通いの家政婦がいて、家のことを全部してくれていた。長年働いている人で、俺は何を言う必要もなかった。
彼女は時間になれば家に帰ったし、俺はそれを不便に思うことも疑問に思うこともなかった。
…ダメだな。
言い訳にならない。
妻と家政婦を同じ目線で見ていたなんて。
妻は俺の為に俺の帰りを待ってくれていたのに。…俺は、確かに嬉しかったのに。少し疲れた顔をした妻が、それでも俺を見て「おかえりなさい」と微かに微笑んでくれるのが。
素っ気なく「ただいま」と返して大急ぎでシャワーを浴びて、彼女が温めなおしてくれたメシを一緒に食うのを楽しみにしていたのに。
なんであんなに自分勝手な真似ができたのだろう。
部屋が別々になった日から、妻は俺の帰りを待たなくなった。
食事は作ってくれる。
けれど一人で食べて、俺の分にはカバーをかけて自分の部屋へと戻ってしまう。
俺は、そうなってからやっと、一人で夕飯を食べる虚しさを思い出した。
度し難いことに、そんなことになった後でさえ、俺は遅くなる日も外泊する日も、妻に連絡を入れなかった。
たった一言メッセージを送る、その程度のことさえしなかった。
「今さら」というバツの悪さがあった。それに、もし俺が態度を改めても妻の態度が変わらなかったら。
それが怖かった。
「もう決して許さない」
そう態度で示されるのが怖かった…。
そうして更に会話は減り、妻と顔を合わせる時間は短くなっていった。
俺は妻に嫌われることを恐れるばかりで、妻がどんな思いでいるのか、そんな簡単なことさえ想像できなかった。
その結果がこれだ。
妻は相変わらず家のことはしてくれる。けれど、俺とは碌に会話もない。
これではまるで住み込みの家政婦だ。
こんなつもりじゃなかった。
後悔と、何とかしなければという焦りは募るのに、それでも情けないことに俺は行動に移せなかった。
自分の気持ちを妻に伝える。
そんな当たり前のことができなかった。
夜遅くに帰ってきて、相変わらず美味い妻のメシを一人で食べる。まだまともな会話があった頃、妻に話した俺の好物も未だによくメニューにのぼる。
あの頃のように、妻と一緒に食べられたらどれだけ…
…俺が悪いのはわかっている。謝って許してくれるのなら、俺はいくらでも…
妻はもう、朝メシにさえ付き合ってくれない。俺を置いて、他の場所の掃除に行ってしまう。
以前は、俺が食べている間は、ずっと近くにいてくれたのに…。
自分の妻に
「一緒に食べよう」
「ここにいてくれ」
そんなことさえ言えない。
言って断られたら。
その言葉をきっかけに別れを切り出されたら。
そんな悪い想像ばかりが膨らんで。
妻のメシを噛みしめて、綺麗に食い切って。せめてこれで旨いと思っていることが伝わればと、そう願って。
…女々しいとわかっている。
俺など無口な硬派の振りをした、ただのヘタレだ。
妻と向き合うことさえできない。
けれど今日、ようやく言えた。
たとえ妻に振られても、最悪あと三日で地球ごと終わる。
そんな保証があってやっと。
情けないにもほどがある。
けれど、やっと言えた。
そのことに安堵して妻をじっと見つめていると、妻がポロリと涙をこぼした。
初めて見る泣き顔に凍りつく。
「今さら」と呆れられるのも怒られるのも当然予想していた。
「あなたなんか大嫌い」と言われることだって。
けれど泣かれるとは思ってもいなかった。
固まる俺を、妻がキツく睨んだ。
「何ですかいきなり!?会社で不祥事でもやらかしたんですか!?それなら別に私にそんなこと言わなくたって、お父様はあなたに力を貸します!あなたは私の夫なんだから…だから…そんな…思ってもいないこと…言わなくたって……」
泣き崩れる妻に呆然とする。
俺は妻に、そんな風に思われていたのか。
妻を、ただ利用するだけの男。
最低じゃないか。
でも妻から見た俺は、きっとそういう男なのだ。
妻の父親の力で出世して。
妻に家事を全てやらせて。
ねぎらいの言葉一つかけない…。
ああ、その通りの人間じゃないか。
心当たりがありすぎて、普段なら言い返せずに黙り込むところだ。
けれど何故か、口が勝手に動いた。
「いや、俺は本当に君のことが…」
さっきよりも強く睨まれた。
「なんですか!?じゃあ浮気でもお父様にバレそうなんですか!?そうですよね!あなたはいつも帰りが遅くて…帰ってこないことだって珍しくなくて…っ…他に女がいることくらいわかってます!どうせ若くて可愛い人なんでしょう!?私なんかと違って……。別にお父様は浮気くらい気にしません!どうせ自分だって何人も愛人を取り替えているんですから…だから…私のとりなしなんて必要ありません…どうせ…どうせ…「これでおまえも一人前の男だな」くらい言うに決まってます!」
怒鳴りながらも、彼女は席を立とうとしない。いや、俺が手を握っている所為で立てないだけか。
けれど、どれだけ罵られても今この手を離す訳にはいかない。
誤解を…解かなくては…彼女に誤解されたまま死ぬなんて絶対に嫌だ。
「俺は君が好きだ」
「っ…!馬鹿にしないでっ…!」
妻の金切声。
必死に手を振り解こうとしているけれど、今それを許す訳にはいかない。
「今まで言わなくてすまなかった」
「嘘なんて聞きたくない!」
「本当だ。本当に愛している」
「信じない!」
「信じてくれ。頼むっ…」
握った手に力を込める。
「別に私が信じなくたって、あなたは何も困らなーー」
「困る。君に信じてもらえなければ俺は…」
妻の顔が歪んだ。
「何!?私が信じなければ何!?」
俺は…………
「俺は………とても悲しい」
一瞬言葉に詰まって出てきたのは、そんな子どもじみた理由だった。
妻が再びポカンと口を開けた。
「な…によ…それ…私が今まで…どんな思いを………」
妻の瞳から、涙がとめどなく零れ落ちる。悔しそうに俺を睨みつけて泣く。
それを見て俺は……最低なことに、ほっとしてしまった。
ああ、俺はまだ、彼女にとってどうでもいい存在ではなかったのだと。
そう思ったらほっとして…
涙が出てきた。
「すまない…本当に……」
泣きながら妻を見つめる。
「今さら…こんな…すまない…」
妻がしゃくりあげる。
「本当…よ…一体…何年…私が…っ…」
「ああ…すまない…でも愛している…ずっと君が大事だった…」
「今さら…今さらっ…」
「わかってる。でも俺は君がーー」
「わかってないっ…!」
妻はキッと睨んで俺の言葉を遮った。
そうだな。あんな態度を取り続けて、今さら愛していると信じて欲しいだなんて虫がよすぎる。だけど繰り返し伝えることしか今の俺にはできない。
「……確かにわかっていないのかもしれない…だが俺は君が好きだ」
「そんな…何で…今……」
その妻の様子に、もしかしたら今朝のニュースをまだ知らないのかもしれないと気づいた。
今朝のニュース。
飛んできた彗星で地球が木っ端微塵になるという。
どこにも逃げ場などない。
絶望的な結末。
…少し考えて、それは伝えないことにした。…もし知ったら、妻には行きたいところが、やりたいことがあるかもしれない。けれど…
こんな日に外に出るのは危険だ。
どうせ何をしようとも生き延びられないのだから。
恐怖に怯えて過ごすのは可哀想だ。
それに……………俺は妻と一緒にいたい。
優しい妻は、俺が「頼むから今日一日だけでも一緒に過ごしてくれ」と懇願すれば、きっと折れてくれるだろう。
狡いとわかっている。
けれど、もし予想が外れて地球が無事だったら、その時こそ妻に罵られ軽蔑されればいい。
今日は…今は…世界が終わるからとか、そういうことは抜きにして、俺のことを見て欲しい。
俺と…やり直そうと、そう思えるかどうか考えて欲しい。
つくづく身勝手な男だと嫌になる。
たとえ妻がやり直そうと思ってくれたとしても、そんな時間などもう残されていないのに。そうわかっていて彼女の時間を奪う。
人生最後の時を、そうと知らせず俺に縛りつける。
横暴もいいところだ。
けれど
「すまない。だが君を愛している」
これは本当だから。
しばらくして、妻が泣きやんだ。
「本気…なの…?」
「ああ」
泣きはらした目を見つめる。
この言葉に嘘はない。
だからはっきりと頷いた。
「なら…」
妻がスッと立ち上がった。
「私も朝ごはんを食べるわ」
キリッとしたその表情に、思わず手の力が抜けた。




