第三章
男の娘。
言葉にするのは簡単だが、俺の中ではいまいち実像を捉えることが出来ていない概念である。
ボロを出さないためにも、基本的には兄貴の言うことに従うつもりだった。
男の娘に対する強いこだわりなんて、ない。
確固たるイメージもない。
けれど、「スカート穿いときゃいいんだろ」という考えで事に臨めば、大失敗する。それは理解している。
だから、受け身でいく。
臨機応変に。
親から貰った名の如く、状況に合わせて流水のように立ち回ってみせる。
――受動的とはいえ、変化を試みるのは、いつぶりだろう。
平和に、無難に、冷静に。
そうやって生きていければ、十分。過不足はない。
それが、俺という秋月流哉なのに。
「秋月……お前さ、昨日なんかあったのか?」
「んあ、なんで?」
「目が死んでるぞ」
「……失礼な。いつも通りだよ」
窓際真ん中の、俺の席。
その隣席から、眉を顰めてこちらを覗き込んでくる男子――友人の一人、相田友則。
入学式の日。相田と秋月である俺たちは、「初っ端の席順は、とりあえず五十音順ルール」に導かれて、言葉を交わした。
進級しても、同じクラス。担任の意向で五十音順ルールが撤廃されていた席順表でも、隣席。
なにかしらの縁があるのかもしれない。
相田は俺と同じく無難さを好む男である。
突出することはなく、派手に振る舞うこともない。
俺と違うのは、相田には生来の器用さが備わっている、という点。
器用さと一口にいっても、相田のそれは、兄貴のものとはまたベクトルが異なる。
俺は、テスト前にちゃんと勉強をして、偏差値五十をキープしている。
兄貴は、授業を受けるだけで偏差値六十を下回らない学力を得ている。
相田は、一切の勉強をせずに偏差値五十に到達してしまう。
鳥の巣を連想させる髪型。眠そうな目。抑揚のない話し方。
それらは、欠点ではない。面倒くさいと放置されているだけの、伸び代である。
相田友則は、やれば出来る男なのだ。
天才肌、というべき人種。
だから、こうして俺の変化にも気付く。
顔に出しているつもりはなかった俺の憂鬱を、看破する。
「なら、いいけど」
そして、必要以上に踏み込まず、引き下がる。
俺にとっては、その距離感が心地良い。
接近することだけが、人間関係の全てではない。かといって、ドライな関係を良しとするわけでもない。
なにごとも、適度が一番なのだ。
「りゅーや! 数学の教科書貸して!」
例えば、突然よそのクラスに我が物顔で乗り込んできて、
「……」
「なに、ちょっと、無視しないでよ」
「や、無視はしてないけど」
持ち主の了承を得ずに、机へ手を突っ込み、
「次の休み時間には返しにくるねん♪」
数学の教科書を引きずり出して、
「頼むよ。四限目、俺も数学なんだ」
「わかってるってば!」
人の肩を景気よくひっぱたいて、退場していく。
そういう距離感は、俺の望む適度さとは程遠い。
佐々岡さんが軽やかに廊下へ飛び出して行ったのを見届けて、相田がぽつりと零す。
「……お前、佐々岡と仲良かったっけ」
仲が良いつもりはない。
兄貴が居なければ、俺たちは関わり合うことすらなかった。
少し言葉を交わしただけで、仲が良い?
そこまで厚かましくなれるなら、俺は今、俺をやっていない。
「別に、仲が良いわけじゃ……」
「そういえばさ、りゅーや!」
わざとか、とツッコミたくなるタイミングで、ドアの影から首だけをひょっこりと覗かせる佐々岡さん。
「お昼、一緒に食べない? しゅーやと三人で!」
「あー、ごめん、先約ある」
いつも昼食を共にしている友人の前で、習慣ともいえる暗黙の了解を堂々と反故に出来るはずがない。
「ふーん、そっか。ならしゃーないね!」
俺の中にあった小さな罪悪感を浄化する、無垢な尊い笑み。
清らかさに俺の目が眩んでいるうちに、佐々岡さんは余韻一つ残さずに消えていた。
「お前、すげーな」
いつもより二割増しで平坦な声。
「すげーって、なにが」
「佐々岡から飯に誘われても、マジで嬉しくなさそうなところ」
それのどこが、すごいのか。
「やっぱ、兄貴の彼女だと、どんだけ美人でも恋愛対象にはなんねーの?」
「それなんだけど、俺の勘違いだったっぽくてさ」
「なんだそれ?」
かくかくしかじか。男の娘云々には触れず、兄貴たちがただの友人であるという事のみ、伝える。
「……付き合ってねーのに、あの距離感ってのも、すげーな」
「それには同意」
リア充の感覚は、俺にはよくわからない。
顔が整っていれば。
心が綺麗ならば。
自信があれば。
異性と接することに、触れ合うことに、なんの抵抗もなくなるのだろうか。
りゅーやと、唐突に呼び捨てされることにも、慣れるのだろうか?
「ってことは、お前が佐々岡と一緒に居ても、なんの問題もねーのか」
「問題はないけど、理由もないぞ」
「一緒に帰ったりすんの?」
「するわけないだろ。これからも、帰る時はお前らと一緒だよ」
適度な距離感とは、適当に扱ってもいい関係というわけではない。
俺は俺なりに、友人へ通すべき筋を理解しているつもりだ。
少し話すようになった程度で、相田たちを放り投げて、佐々岡さんと行動を共にしようなどと、考えるわけがない。
「ふーん。ま、いいけどな。俺は俺で、ちょっと忙しくなりそうだし。早めに帰ることが多くなるかも」
「そうなのか?」
「ああ」
どうして? とは問わない。
言う必要があれば、相田が自分から言うだろう。
ぼかしたということは、俺が踏み込む必要はないということだ。
俺には俺の秘密があるように。
相田には相田の事情がある。
「お互い、大変だな」
「ああ」
一週間ちょっと。
それなりの期間だとは思うが、はたして俺は男の娘へと生まれ変わることができるのだろうか。
無理な気がする。
ベースは同じでも、俺と兄貴では過ごしてきた日々が、心構えが、まったく異なる。
精神性とは顔に出るもので、俺と兄貴を見比べて「どっちがどっちかわかんない」などと言う奴はいない。
陽の兄貴。
陰の俺。
バランスが取れていると思う。今のままで、なんの問題もない。
ただ、兄貴がかわいいからって、俺までかわいくなれるというのは、あまりにも短絡的かつ楽観が過ぎるというものだ。
「流哉さんって、独り言多いんですね」
どうやら、思考が口から漏れていたようだ。
「……軽い現実逃避を」
「まだそんなことを言ってるんですか」
真っ暗な視界。
瞼を、優しく押さえ付けられる感覚。
「まだ?」
「もう少しです」
つけま。つけまつげ。
俺は今、生まれて始めて、つけまつげなるものを装着している。
つい先ほど、ファンデーションを塗ってもらった。お袋の化粧台の匂いを覚悟していたのだが、マコくんが塗ってくれたファンデーションからは、ほとんど匂いがしなかった。安物と高級品の違いなのか。それとも、別の理由があるのか。
服は既に着替えている。
すっきりしたシルエットの、白いトップス。淡いブルーの、ふんわりとしたミニスカート。太ももがスースーして堪らない。さすがに初チャレンジで女物のパンツを穿く勇気はなく、ボクサーパンツを着用している。
ウィッグは、亜麻色のセミロングヘア。首筋が毛先にくすぐられ、どうにも落ち着かない。
「ん、もういいですよ」
瞼への圧力が消え、マコくんからお許しが出る。
瞼にのりで異物を接着する、という体験。
衝撃的だった。いや、考えてみれば、テープやのり(正確にはグルーというらしい)の類を使用しなければ、瞼になにかがくっつくはずはないのだけれど。
粘膜付近になにかを接着するという体験には、恐怖心をなかなかに刺激された。
「本当は、まつげを馴染ませた方がいいんですけど。とりあえず、確認してみてください」
覚悟した。
嘔吐だけは、しないように。
歯を食いしばりながら、ゆっくりと瞼を開ける。
「……へー」
かわいい兄貴と似た俺が、鏡の向こうで、ぽかんと口を開けていた。
整えられた、細い眉。長いまつげ。リップによって瑞々しさを得た唇。ファンデによって、なめらかになった肌。
よく見れば、俺なのだけれど。
よく見なければ、俺には見えないかもしれない。
かわいくなった兄貴と、どことなく似ている。けど、まったく同じというわけではない。
ヘアスタイルやリップの色を変えて、意図的に違いを生んでいる。のだろうか。
「どうです? ボクから見れば、ちゃんとかわいいですけど」
「……すごいね」
自分の容姿に対する感想というよりは、マコくんの技術に対する称賛だった。
「正直、ここまでとは思ってなかっ……ああ、やっぱり喋るとダメだな」
兄貴やマコくんは、声や喋り方まで含めて、ちゃんとかわいらしいのに。
俺が口を開けば、途端に俺が剥き出しになってしまう。
「声はさすがに、数日じゃどうにもならないですけど……でも、大丈夫です。その分、仕草でかわいらしさを演出しちゃいましょう!」
むん、と両手で握り拳を作るマコくん。かわいい。
「売り子なのに声出せないって、けっこう致命的な気がする」
「看板を持って、立っとけばいいんじゃないですか?」
適当なことを言っている、というわけではないらしい。マコくんの目は、真剣そのものだ。
斜め三十度に首を傾げる所作には、いつの間に首を傾げたのかわからないほど、違和がなく。
俺がダメ元で男の娘になるよりも、マコくんが兄貴とオーディションを受けた方がよっぽどマシだと、つくづく思う。
「……」
――でも、口には出さない。
兄貴は、俺と一緒にオーディションを受けることを望んだ。
やると、一度決めた。
だから、責任を放棄して、他人に背負わせるような真似はしない。
「それじゃ、お姉ちゃんとしゅーくんを呼んできますね」
マコくんは静かに立ち上がって、部屋を出て行ってしまう。
途端に手持ち無沙汰になってしまって、なんとなく視線を彷徨わせる。
リビングと同じく、モノトーンの部屋。白い壁紙、黒一色の机、フリルの付いた純白のベッド、黒地に白文字の時計。
徹底した統一感。佐々岡さんの部屋も、似たようなレイアウトになっているのだろうか。あの人は、全体の統一感なんて無視して、気の向くまま自分色に染め上げているような気もする。
「……っ」
そわそわしながら部屋の中を見回している内に、少し離れた位置にある姿見、その中に居る自分と目が合った。
距離を取って見ているせいだろうか。
もちろん、マコくんのおかげというのが大きいのだろうけれど。
そこそこ、まあまあ、なんとかなるのでは。この距離なら、声を出さなければ誤魔化せるかもしれない。そんな出来だった。
あくまで、そこそこ。
俺が、かわいくなれるわけがない。
たとえば、精一杯かわいらしく見えるように、こうして首を傾げてみたって――
「……んっ」
マコくんがやっていたみたいに、両手をきゅっと握ってみるのは、どうか。
いつもみたいに、薄く笑んで。
「ふーむ」
まあ、それなりかもしれない。
他には、どんなポーズがあるだろうか。
SNSでよく見る自撮りポーズといえば、輪郭を隠すように手を添えるポーズ。
裏ピースをキメてみたり。
アヒル口は、さすがにやる気が起きない。
いくつかのポーズを試してみたところで、鏡に映った自分の姿が、不意に兄貴の姿と重なった。
天啓、だったのかもしれない。
兄貴は、かわいい。
本当に、ほんの少しだけ、俺と兄貴は似ている。
兄貴がこうすれば、かわいいんじゃないか、と。そんなポーズを俺が真似れば、少しでも兄貴に近付けるのではないか。
数秒悩んだところで、脳裏に浮かんだのは「流哉、だめでしょ」と言いながら、俺の額を人差し指で小突いて来る兄貴の姿。
実際には「だめでしょ」と言われたことはないし、額を小突かれたこともない。
あくまで、俺のイメージだ。だが、イメージした兄貴は、とてもかわいくて。
「……だめ、でしょ」
掠れ声と、迷いに塗れた人差し指。思いきりの欠片も、かわいらしさの片鱗も、そこにはない。
かわいらしさに照れが加わると、破壊力が増す。
だが、中途半端な存在である俺が照れても、なにも生まない。
かわいくない俺に必要なのは、照れじゃないのだ。
誰も見ていないのだから、照れは必要ない。
踏み出せ、思い切りよく、かわいらしく。
「すぅー……はぁー……」
よし。
「だめでしょ……って、おぇ」
嘔吐しそうになった。
兄貴と違い、俺は声が俺のままであることを忘れていた。
兄貴のイメージに、俺の声を合成したうえで、トレースしなければ。
いいか。声は俺のままだ。
聴覚は切り捨てろ。
こほん、こほん。
よし、リトライ。
「だめでしょ♪」
――セーフ。
耐えることが出来た。
いや、本当はいろいろとやばいけど。
ほんの少しだけ、かわいらしく取り繕えた気がする。
ただ、一つだけ気に入らないことがあった。
「――ウインクした方がいいか?」
あざとさが足りない気がした。
ただでさえ、兄貴よりかわいくない俺だ。
外連味を盛りに持っていかなければ。
「もーっ、だめでしょ☆」
今度もセーフ。
やっぱり、ウインクした方がかわいいな。
かわいいと言っても、兄貴には及ばないけど。
世の一般的なかわいいには、おそらく届いていないけれど。
なにが足りない? 顔の角度が、ダメなのか?
もう少し首を傾げて。体のしなを作った方がいいのか?
ちょっぴり上目遣いにしてみるか。
左手はどうしよう。腰に当ててみたり?
ふむ。ふむふむ。
もう一度、試してみるか。
「もーっ、だめって言ってるでしょ♡」
「え、なにが?」
「ぶっふぉおおお⁉」
吐き気を催す間もなく、驚怖の叫びが爆裂した。
「あはは、なにやってんの」
俺を指さして、けたけたと笑う佐々岡さん。
「別に、なにも……」
「え、だって今、鏡に向かって最高にキメたポーズで『もーっ、だめって言ってるでしょはーと』って」
「やめてくれ! 本当に! 切実に!」
死にたくなる!
「だから、そんなに慌てなくてもいいじゃん。今のりゅーや、ちゃんとかわいかったよ?」
「あーはいはい、ありがと」
惨めさで死にたくなっていると、半眼で睨まれた。
「なにそのてきとーな返事」
「兄貴とマコくんは?」
「こら、話を変えるな」
腕を組む佐々岡さんを無視して、捲れ上がっていたスカートを直す。
「覗き見なんて、良い趣味とは言えないね」
「りゅーやが勝手にやってたんじゃんっ!」
正論をスルーして、溜息を吐く。
「お願いします。今のは見なかったことに」
「真顔で卑屈なの、やめてよ。おもしろいから」
土下座してでも、今の光景が世に広まるのを阻止する所存である。
「大丈夫だってば。本当に、冗談抜きで、ちゃんとかわいかったから」
「……慰めてくれて、ありがとう」
「むーっ! 頭かったいなぁ!」
手足をばたつかせる佐々岡さんの背後から、兄貴とマコくんが現れた。
二人の手には、ティートレイと菓子のバスケットが乗せられている。
「なにやってるの、マユ?」
「りゅーやがさぁ!」
「おい、よせ。喋るな」
「はぁー⁉ なにその偉そうな言い方⁉」
「ごめんなさい。お願いだから、喋らないでください」
「内容があんまり変わってないんですケド⁉」
顔を突き合わせて、あーだこーだと言い合う俺と佐々岡さんを、しばらくは黙って見ていた兄貴だったが、
「んーと」
やがて、なにかを察したのか、ティートレイをテーブルに置いて、俺へと向き直った。
「もう、流哉ってば。だめでしょ」
そう言って、指先でつんと俺の額を押す兄貴。
「……」
なにも言えなくなってしまった。
窘められたから、というだけではなく。
兄貴の姿が、俺のイメージしていた兄貴と、あまりに酷似していて。
けれど、俺の想像よりも遥かにかわいかったから。
別に、小首を傾げているわけでも、ウインクしているわけでもない。あざとさを意図している様子もない。
自然体で、かわいい。
このナチュラルなかわいさが、努力の末に会得したものだとしたら。
――だとしたら、ではなく。きっとそうなのだろう。
自分の未熟さと、小手先に頼ろうとした浅はかさを痛感してしまった。
「りゅーや、顔赤いよ」
「うるさい」
冷静になれ。
この程度で取り乱すな。
兄貴がかわいいからって、舞い上がるな。
「……こうして見ていると、しゅーくんと流哉さんって、あんまり似てないですね」
不意に、マコくんがそんな呟きを零した。
似てない。
おそらく悪意はないのだろうが、それはつまり現時点の俺が、兄貴のかわいさには程遠いというのと、同義で。
俺は、ショックを隠すために奥歯を強く噛み締めた。だが、
「ほ、本当に? 私たち、似てないかな?」
なぜか、兄貴はぱっと笑顔を咲かせて、マコくんに問う。
「うん、似てない。しゅーくんから話は聞いてたけど、思ってた以上に似てなかったです」
兄貴から、話を聞いていた。
そのうえで「思っていたよりも似てない」。
どういうことなのだろうか。
「そっか。……そっか」
喜びを反芻するかのように、兄貴は何度も「そっか」と繰り返す。
どういう意図が込められた喜びなのか、俺にはわからない。
佐々岡家でのあれこれが終わり、夜。
風呂から上がり、リビングでくつろごうかとドアを開けると、兄貴が先にソファでくつろいでいた。
当然だが、女装はしていない。
俺が見慣れた兄貴が、スマホを弄りながら、時折テレビに目をやっている。
パンツが見えることを気にする必要のない、ジャージのズボン。
ややくたびれた、部屋着用のTシャツ。
今ここに居る兄貴は、兄貴だ。
こうしていると、これまで俺が見てきた兄貴の、根本的な部分が消失してしまったわけではないとわかる。
「ん、風呂あがったのか、流哉」
「ああ」
俺の方を一瞥して、すぐスマホへ視線を戻す兄貴。
なにか言葉を続けるべきか。
迷ったが、やめた。
今までの俺たちは、沈黙を苦にするような兄弟関係ではなったから。
必要なだけの挨拶を、言葉を交わして、適度に仲が良くて。
それが、俺たち秋月兄弟だった。
一人分のスペースを開けて、俺もソファに腰掛けた。
間違っても、オーディションのことについて、この場で話すことはない。
「あ、流哉。そういえばなんだけど」
「なに?」
「マユが、お前の連絡先知りたい、って。教えていいか?」
「あー、うん。別にいいけど」
「くくっ、めっちゃ嫌そう」
「嫌というか、俺の連絡先なんか知っても、使わないだろうと思って」
「……流哉ってさ。本当にドライだよな」
ドライ、というわけではない。
俺としては、その場その場に即したリアクションをしたいと心掛けているだけなのだ。
「俺よりも、兄貴の方がドライだと思うけど。佐々岡さんとあれだけ親しくて、付き合おうって空気にならないの?」
「ならないならない。そもそものスタートが……だろ」
濁した部分には、おそらく「弟と女装で繋がるクラスメイト」とか、そういうワードが入るのだろう。
そうだろうか。
そこは、あまり問題にならない気がする。
佐々岡さんは、気にしないと思う。
「じゃあ、佐々岡さんが『アリ』だって言えば、付き合う?」
「……珍しいな。こういう話題で、流哉が食い付いてくるの」
佐々岡さんは、兄貴の彼女として好ましい少女だと思う。
二人はお似合いだとも。
もしも芽があるのなら、弟としては全力でフォローしていきたい。
「自分でも、ガラじゃないなとは思うけどさ」
「……ふーん」
訝しむような兄貴の溜息の直後、俺のスマホから通知音が鳴った。
画面には見慣れない「真由佳」という文字と、「いま、しゅーやから教えてもらった! よろしくねー(煌びやかでかわいらしい絵文字複数)」が表示されている。
「この真由佳って、佐々岡さん?」
「そうそう。って、名前知らないのかよ」
「兄貴からは『マユ』としか聞いてなかったし」
佐々岡真由佳、か。
下の名前で呼ぶことなんて、これからもないだろうけど。
一応、ちゃんと覚えておくとしよう。
決戦の日、来たる。
などと大仰に言ってみたが、文字にしてみれば「兄貴と二人で女装して、同人ゲームとやらの売り子さんオーディションを受ける」というだけだ。
「……」
秋月流哉という人間の中で最大のビッグイベントであることは、間違いない。大仰というのは、取り消そう。大事だ。
女装するにあたって、着替え場所はいつもの如く佐々岡家。ここ最近はほぼ毎日のように通っていたせいか、ハイセンスなモノトーンデザインにも、だいぶ目が馴染んできた。
兄貴は金髪ロング、黒のワンピース。
俺は茶髪セミロング、白のブラウスと紺のスカート。
この恰好で、これからオーディション会場のある駅前のビル群に出向かなければならない。
駅裏手の南口に面したビル群は、オフィス街というほどの品格も華やかさもない。ただ、人通りはそれなりなので、人目に付かずに目的地へと辿り着くのは、ほぼ不可能だろう。
会場は、とあるビルの四階。レンタル会議室なるものらしく、ネットで調べたら一時間千五百円で六人分のスペース、テーブルなどが借りられるというものだった。
俺たちの為だけに、それなりの体裁を整えてくれたらしい。オーディションを受ける側としては、悪い気はしない。
SNSで簡単に繋がれる、この時代。
わざわざ会うのは、やはり俺たちがどの程度のものなのか、実際に確かめておきたいから。なのかもしれない。
ただ、そうなると今度は「せっかく場を設けてくれたのに、俺を見てがっかりしないだろうか」という不安が湧き上がってくる。
「緊張してるんですか、流哉さん?」
「……顔に出てる?」
「少しだけ」
軽く息を吐いて、肩から力を抜く。
ここまで来たら、行くしかないのだ。
兄貴やマコくんのように、かわいらしい声を出す練習は、その場凌ぎの付け焼刃にもならなかった。俺は俺の声のまま、いくしかない。
所作にはぎこちなさが残っているし、どうしても自分がかわいいとは思えないままだけれど。
「それじゃ、行ってくるね」
俺には、兄貴が居る。
万が一、俺が気に入ってもらえなくても。
兄貴の合格は揺らがないだろう。
緊張する必要はない。
俺は兄貴のおまけなのだから。
マコくんが選んでくれたパンプスは、俺の足によく馴染んでくれた。
おかげで、佐々岡家からここまでの距離を歩いても、靴擦れ一つない。
ただ、隣を歩く兄貴の靴は、ソールが平らな俺のパンプスと違い、ヒールが高い。
それでも兄貴は顔色一つ変えず、歩く動作に違和はない。
また一つ。俺の知らない努力の気配。
人とすれ違う度に、どうしても俯いてしまう俺。
兄貴は、堂々と胸を張ったまま、前だけを見つめている。
男の娘としてのバックボーンがあるかどうかが、歩く姿にも明確な差となって、如実に現れている。
「あの、兄貴」
可能な限り小さな声で、兄貴に向けて囁く。
「なに?」
「俺、たくさんミスするかもしれない……先に謝っとくよ」
「バカね。流哉なら大丈夫よ」
凛とした声に、励まされてしまう。
兄貴の精神力に感嘆していると――ついに、会場のあるビルに着いてしまった。
エレベーターに乗って、四階へ。
自分の動悸が聞こえてきた。
喉が渇く。
冷静にならねばと思う一方で、冷静になったら進めなくなってしまいそうで。
隣の兄貴を見ると、気負った様子はなく、涼しい顔をしていた。
一言も発しないのは、集中しているからかもしれない。
さすが、兄貴。
取り繕うだけの俺とは違う。
兄貴のように、いついかなる時でも発揮できる冷静さこそが、本物だ。
「ここね」
二〇三番会議室。
兄貴から半歩遅れて、ついに先方から指定されていた会議室へ辿り着く。
室内から、会話が聞こえた。
始まってしまう。
俺が大きく息を吸うのと、兄貴がドアをノックしたのは、ほぼ同時だった。
「どうぞ」
ノックに応じた声は、若々しい男性の声だった。
「失礼します」
一言。
甘くて、かわいい声。
――少し震えた声。
寸前までの兄貴にはなかった、動揺の色。
なぜだろう。ドアノブに掛かった兄貴の手を、握りたくなったのは。
嫌な予感を俺が消化する前に、ドアは開け放たれてしまった。
「どうも。今日はありがとうございます。サークルの代表をやってる牧野です」
俺たちが入室した途端、着席していた二人の男性が立ち上がった。
一人は、俺たちよりも一回りは年上であろう、眼鏡の成人男性。ポロシャツにジーパンというラフな格好だったが、刈りあげられた短髪や、はきはきとした声には、清潔感が溢れている。
そして、もう一人。
「……」
相田。相田友則。
クラスメイトの、相田くん。
いつも一緒に帰る、相田。
「ども。イラスト描いてる『受信トレイ』っす」
受信トレイと名乗る、相田。
なにやってんだ、お前。
この場じゃなければ、頭をひっぱたいていた。
ペンネームというやつなのか。その、受信トレイというのは。
冷静に、冷静に、冷静に。
兄貴、頼む。
俺は混乱し過ぎて、まともに喋れそうにない。
兄貴――
「ど、どぉ…………も。れ、れれ、連絡し、てた……『アキナ』です」
たぶん、俺にしか聞こえていない。そんな、蚊の鳴くような声だった。
兄貴は、アキナ。
俺は、ツキナ。
秋月兄弟だから、という安直なネーミングだが、兄貴が考えた名前だから、俺は素直に受け入れた。
二人で、口上も練習していたのだ。
本物の兄弟であることをアピールしようね、と。
「どーもっ☆ 兄のアキナとぉ……」
「弟のツキナ! よろしくですです♪」
ちゃんと練習したのだ。俺が照れるせいで、一度もまともに成功しなかったが。
兄貴をよく見ると、目の焦点が合っていなかった。
まずい状況であることを、認識しているのかどうかも怪しい。
前門の相田。後門の兄貴。ついでに、空気の異様さに気付いて眉を顰める牧野さん。
紙一重だった、と思う。
あと一つか二つ、ストレスにのし掛かられたら、潰れていた。
相田がいて。
兄貴が無表情のまま、固まっていて。
でも、牧野さんの瞳には、理性の輝きがあった。
大人らしく、冷静に状況を見極めようとしていた。
そこに活路を見出し、笑みを取り繕う。
「どうも、弟の『ツキナ』です。今日はよろしくお願いします」
相田の方を見ずに、地声で挨拶した。
バレたかもしれないが、今そこを気にしたら動けなくなる。
「あ、ああ、どうも。今日はわざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。兄弟揃ってオーディションを受けさせていただいて」
ぺこぺこと頭を下げていると、牧野さんが名刺を差し出して来た。
名刺入れで受けるのがマナー、というのは聞いたことがあったが、そんなもの持ってない。
とりあえず両手で恭しく受け取って、礼を述べる。
「一応面接という形式ではありますが……正直、写真を拝見した段階で、アキナさんにお願いしようとは思っていました。今日は、簡単な質問をさせていただければと考えています」
「あ、はい」
質問だけ。
そのために、わざわざ会議室をレンタルしたのか。
やりすぎな気もする。
少し引っ掛かったが、口には出さず。
促されて、ひとまず着席する。
「……兄貴、ほら」
「あ、うん」
俺の隣に、兄貴が着席して。
――俺の正面に、相田が座る。
そこでようやく、相田の目を見た。
「っ」
いつも通りの眠そうな目が、俺を見ていた。
高校では、一番言葉を交わし、共に時間を過ごしてきた友人。
互いに適度な距離を保っていたとはいえ、こいつの考えならばある程度はわかると、そう思っていた。
なのに。
今、俺の前にいる相田がなにを考えているのか、わからない。
声まで聞かせたのだ。
おそらく、俺が俺であることには、気付いているはず。
懸念は相田だけではない。
隣で背筋を伸ばして真っ直ぐに前を――牧野さんではなく、どこか遠い場所を見ている兄貴。
なにが、どうなるのか。
「えー、では、さっそくですが話を始めますね」
もはや嫌な予感という言葉では生温い、様々なものが麻痺した空間。
あるいは、既に悪寒が骨の髄まで沁み込んでいるのか。
わからない。
わからないが、逃げ場はない。
どんな結末を迎えようと――やりきるしか、ない。
「えーと、ツキナさん」
「は、はい」
「普段から女装を?」
「いえ……始めたのは、つい最近なんです」
「最近……始めたばかりでそんなにかわいいのは、すごいですね」
「……あ、ありがとうございます」
「ちなみに、Twitterは?」
「やってないです……あまり自信がないというか、誰かに見せるには値しないから」
「僕はそう思いませんけどね」
「……はぁ」
「男の娘は、好きですか? なる側としてではなく、たとえば男の娘のゲームをプレイしたりは?」
「好き……ですよ。ゲームをプレイしたりとかは、まだないですけど」
「ふむ。では、うちのサークルがどういうゲームを作っているかも、ご存じないと。ああ、いえ。これはただの確認で、プレイしていないからといってお願いを取り下げたりはしませんから」
「そうしていただけると助かります……」
「ツキナさんたちほどの男の娘さんが申し出てくださることなんて、滅多にありませんからね。どちらかといえば、むしろこちらがお願いする側というか」
いまだかつて見たことのないほど真剣な表情と早口で、質問を繰り出してくる相田。
俺にばかり問い掛けてくるので、最初は俺への嫌がらせだと思った。
俺が秋月流哉だとわかったうえで、弄っているのだと。
しかし、どうにも質問内容がガチ臭いというか、俺を弄っているにしては、質問があまりに真面目すぎる。
まさかとは思うが、こいつ俺に気付いてないのか。
この距離で、目を合わせて、こんなに言葉を交わしておいて。
そんなことが、ありえるのか。
牧野さんは、そんな相田をなんともいえない微表情で見つめていて。
兄貴は、ようやく少し落ち着いてきたのか、俺へ質問を浴びせる相田へ、困惑の視線を向けている。
もう少し。
もう少しで、場が落ち着く。
室内が和やかな空気に満たされるところまで持っていけば、俺の勝ちだ。
本調子さえ取り戻せば、兄貴なら大丈夫。
俺なんかより、よっぽど明るく、楽しく、トーク力のある兄貴。
俺みたいな紛い物とは違う。兄貴は本物の男の娘だ。
牧野さんとも、相田とも、話は合うはずで。
俺が目を白黒させる必要もなくなるのだ。
「あい……じゅ、受信トレイさん? は……男の娘が、本当に好きなんですね。気持ちというか……熱意が、すごく伝わってきます」
わざとらしく、媚を売ってみる。
相田がちゃんと吐き気を催すように、俺が習得しているシンプルムーブその一「小首を傾げる」を炸裂させてみる。
声も、気持ち猫撫で声にしてみた。
相田なら、絶対に耐えられないはず。
俺と相田は、互いに適度な距離感で付き合っている、普通の友達だ。
密接ではない。
けど、決して打算的な付き合いでもない。
相田は、きっと気付いている。
気付いたうえで、しらばっくれているのだ。
牧野さんの手前、気を遣って気付かないフリをしてくれているだけなのだろう。
――確認しなければ。
こいつがどういうスタンスでこの場に居るのかを把握しておかなければ、俺がどう立ち回るべきかも定まらない。
「熱意……そう、ですか?」
「ええ」
「ちなみに、どのあたりが……もしかして、喋りすぎました?」
だいぶ早口だったゾ☆
とは言わず、一呼吸の間、思考する。
俺が口にすべき言葉を。
媚を売れて、なおかつ、相田の真意を確かめることが出来る無難な言葉を。
「……目、です」
「目?」
「はい。あなたの目、とてもまっすぐです。お……僕にも、熱意が伝わってきました」
くねくねしながら媚びるのは、こっ恥ずかしくて、声が震えた。頬が熱を持つ。瞳が潤む。
相田が噴き出す、もしくは嘔吐しないか心配だったが、
「……ありがとうございます、ツキナさん」
相田は神妙な顔で、なにやら感慨深そうに視線を机の上に落としてしまった。
そのリアクションは、なんなんだ。
にやけた口元を隠しているのか。
まさか、本気で俺の言葉に喜んでいたり?
僅かな空白。
俺が硬直していると、
「アキナさん、よろしいでしょうか?」
「ひゃいっ」
牧野さんから不意打ちで名指しされ、兄貴が尻尾を踏まれた子犬みたいな声を上げた。かわいい。
「アキナさんは、どうして当サークルの募集に応募してくださったのですか?」
「わ、私は……」
艶やかな唇が、もにょもにょと蠢く。触れたらとても柔らかそうで、思わず息を呑む。
「SNSで、受信トレイさんのイラストを見たんです。ぷにぷにしてて、とてもかわいくて……十八禁指定だったから、プレイはしてないんですけど……」
「ふむ。ちなみに、そのイラストはどんな子でした?」
「金沢ユノちゃんです。『俺の親友(♂)が体育教師に寝取られてメス堕ちさせられていた件』に出ていた、金髪ロングの……」
なにやらドギツいタイトルがさらりと飛び出したが、牧野さんは「あー! あの子か!」などと言いながら、何度も頷いている。
「もしかして、金髪なのはその影響で?」
「っ」
顔を真っ赤にして、小さく頷く兄貴。
「初めてユノちゃんのイラストを見て以来、ずっと憧れてるんです」
「……え、なに。兄……アキナはもしかして、体育教師にメス堕ち? とかいうのをさせられたいへっヴぉ⁉」
「そんなわけないでしょ⁉」
座った状態から繰り出されたとは思えない肘打ちが、俺の脇腹を抉り取った。
「金髪! 金髪で、かわいい男の娘に憧れてるの!」
「あ、ああ。そっちね」
「……ツキナのおバカっぷりが、近ごろ深刻な気がする」
「そうは言うけど、さっきのタイトル聞いたら想像するでしょ、普通」
脇腹をさすりながら、兄貴へジト目を向ける。
――今の会話で、わかった。
好きなことを話す時、人は饒舌になる。
相田も、兄貴も。
適切な話題をふれば、話してくれる。
考えてみれば、当たり前のことだ。
牧野さんは、大丈夫だ。この人は崩れない。
兄貴と相田を繋げるべきなのだ。
そのことが、よくわかった。
考え込むまでもない。
相田は、兄貴が憧れた男の娘の絵を描いていて。
兄貴は、相田の描いた絵に憧れている。
ならば、話題の中心にするべきは、決まっている。
「ちなみに、その金沢ユノちゃんって、どんなキャラなの?」
下調べもせず、この場に臨んだことがバレる発言ではあったが、兄貴のコアさで打ち消してしまえばいい。
「この子」
兄貴がスマホで、金沢ユノちゃんの画像を見せてくれた。
腰まで届く金髪と、濃紺のフレアワンピース。
華奢な骨格、折れてしまいそうなほど細い脚。
マシュマロのように柔らかそうなほっぺたと、微笑み。
一瞬で得心してしまった。
男の娘としての兄貴は、この子をモデルにしている。
「……かわいい」
「でしょ? ユノちゃんはちょーかわいいんだよ!」
「これは文句ない」
もちろん、本心ではあるけれど。
これを、あの相田が描いたのだ、と。別の驚きと、感嘆もあった。
ほんの少しだけ、声を飛ばす方向を前方へ――相田を、意識してみる。
相田は僅かに顔を上げて、俺たちの様子を見ていた。
俺の薄っぺらい褒め言葉では、ダメだ。
兄貴の、心からの言葉でなければ。
「ちなみに、この子はヒロインなの?」
「うん、そうなの。……正確には、そうらしい、の。私、プレイはしてないから」
「あ、そっか。なら、十八歳になったら、すぐプレイしなきゃだね!」
「……えっと」
「?」
なんでだ。どうしてそこで口ごもるんだ、兄貴。
「プレイするかは、ちょっと迷ってて……」
「え、なんで?」
なにを言ってるんだ、兄貴。
せっかく好印象を持ってもらえるチャンスなのに。
「ユノちゃんに憧れてるんだろ? ユノちゃんみたいになりたいんだろ? なら、ゲームはプレイしなきゃ」
「っ……ツキナ」
「なに?」
「――このゲームのタイトル、忘れてるでしょ?」
ゲームの、タイトル。
逡巡した俺を見て、
「『俺の親友(♂)が体育教師に寝取られてメス堕ちさせられていた件』です」
牧野さんが、電光石火のカバーリングを見せた。
そういえば、そんなタイトルだったなと、思う。
「ちなみに、ユノはメインヒロインなので、体育教師に寝取られてメス堕ちします」
淡々とゲーム内容を説明してくださる牧野さん。
なにを言おうが眉一つ動かさないところをみるに、この人も実はやべー人なんじゃないかと思い始めている俺である。
「……ユノちゃんには憧れてるけど、メス堕ちとか寝取られとか、そういうのには興味ないもん……っ! 勘違いされるようなこと、言わないで!」
ぷるぷる震えて俺を睨みつける兄貴。かわいい。
「ちなみに、ツキナさんは興味あるんですか?」
わけのわからんタイミングで、わけのわからん食い付きをみせる相田。
んなわけねーだろ。と叫びたかったが、理性で本音を攪拌して、可能な限り柔和に笑う。
「ないです☆」
「そうですか」
なに残念そうな顔してんだ、こいつ。
「まあでも、安心してください。次回作は全年齢対象になる予定ですので」
「そうなんですか?」
「ええ、ライターが純愛ラブコメを書きたいと言い出したので、今回はその希望に合わせようという話になりまして」
実は、十八禁指定という単語を聞いてからずっと、法律的な意味でセーフなのかどうか気になっていたので、小さく安堵の溜息を吐く。
アダルトカテゴリに属するアイテムを未成年が販売するとどうなるか、わからないけれど。
女装して男の娘モノエロゲーの売り子をやった挙句に補導されて、秋月兄弟の名が不名誉な形で広まってしまうのは避けたい。
「そもそも、エロを入れるなら募集要項にちゃんと明記しますからね」
「あ、そっか」
それもそうだ。
俺たちはまだ、十七歳。
未成年に十八禁作品の売り子を任せるなんて、サークル側にとってもリスクであるはず。
そこを疑うのは、牧野さんたちの常識を疑うようなもので。
とても失礼なことのかもしれない。
「思うがままに好きな作品を作りたいからこそ、他人に迷惑を掛けないように、配慮しているつもりです」
相田が、凛々しい声と表情でそう述べた。
「ちなみに、なんですけど」
「なんでしょう?」
「受信トレイさんは、何歳ですか?」
「十七ですけど」
相田は、堂々と答えてくれた。
だよな。同い年だもんな。
気にはなるけど、気にし過ぎない方がいいのかも、と逃避する。
もしかしたら、未成年がエロい絵を描くのは問題がないのかもしれない。
俺には、よくわからないけど。
相田の目には、微塵も負い目がない。
だから、きっと問題ないのだろう、と。
そう思い込むことにした。
「確認なのですが。売り子をお願いする予定のイベントは、来月末の日曜日です。お二人のご都合はよろしいですか?」
スマホを確認するまでもない。
俺の日曜日が、なにかしらの用事で埋まることはないから。
間髪を入れずに「僕は大丈夫です」と返す。
問題は兄貴だ。
まあ、このオーディション自体、兄貴が自発的に申し込んだもので。
そのあたりのスケジュール調整をしていないわけがないだろうけど。
「はい、もちろん大丈夫です」
兄弟二人が了承したのを見て、牧野さんは手帳になにかを書き込んだ。
「わかりました。お二人から、なにかご質問はございますか?」
「僕は、特に……」
「私も、特にありません」
「では後日、最終的なご連絡をいたします。連絡先はアキナさんでよろしいでしょうか?」
「はい」
ひとまずここまで、という空気が生まれたところで、相田が立ち上がった。
何事かと、場の視線が間に集中する。
「あの、これ……俺の名刺です」
よくわからないタイミングで、名刺を差し出してくる相田。
なぜか、俺だけに。
「あ、どうも」
意図が読めないまま、とりあえず受け取る。
相田の視線は、俺の瞳に固定されていて。
薄気味が悪いまま、疑問を口に出来ないまま。
気まずさを払拭しないまま、相田から目を逸らした。
相田たちと別れて、三十分後。
俺と兄貴はファミレスの椅子に沈んでいた。
会話、というよりも俺の声を聞かれないように、最奥の隅の席を選んだ。
テーブルの上のコーヒーは、ほとんど減っていない。
互いになにも言わず、視線を交わすこともなく。
俺はただ、反省点を脳内で反芻している。
おそらくは、兄貴も。
いろいろと拙い点が、多かった。
けれど、実は大丈夫だろうなとも思っている。
牧野さんは、とても友好的で。相田は、よくわからない食い付きを見せていた。
兄貴以上の男の娘がそうそう居るとは思えない。ならば「男の娘に売り子をお願いしたい」という牧野さんたちの目的に最も適しているのは、兄貴だ。
今日の出来がいまいちだったとしても、きっと大丈夫。
兄貴のかわいさが、曇ったわけではない。
あとは、学校で相田とどう接するかだが、それは俺の問題だ。
そう考えると、だいぶ気が楽になった。
少し冷えたコーヒーを一口啜って、小さく息を吐く。
「……ねえ、流哉」
「ん、なに?」
呼ばれて、何気なく兄貴と目を合わせた――その虚ろさに、息が詰まる。
「さっきは、ありがとね。流哉のおかげで、なんとか良い感じに終われたと思う」
声には抑揚がなく、絞り出したようにか細い。口の端が僅かに上がってはいるものの、とても笑みとは呼べない表情だった。
「俺は、別に……どちらかといえば、邪魔しちゃった気がして、本当に申し訳なくて」
「んーん、そんなことないよ。流哉のおかげで、ちゃんと話し合いが始まったんだもん。わざとふざけてくれたから、私もリラックス出来たし」
「……」
わざとふざけたつもりはなかったんだが。
「やっぱり流哉はすごいね~」
ふにゃりと。
それまで痛々しかった兄貴の表情が、本当に一瞬だけ、柔らかく蕩けた。
「それに比べて、私は本当にダメだなぁ」
「兄貴がダメだったら、俺なんてダメダメだよ」
「さっきの私を見ても、まだそんなこと言える? ちょっとしたプレッシャーで、すぐ動揺して……流哉にばかり大変な思いをさせちゃったのに?」
「兄貴がプレッシャーを感じるのは、当然でしょ。俺は別に入れ込む気持ちとかないから、あまり緊張しなかっただけで。俺は大したことしてない」
逆の立場だったら、きっと俺だってぐずぐずになって、平常心なんか保てなかっただろう。
「……相田君が居たのに、平然としてたじゃん」
「あ、そうそう! あいつが絵を描いてるって、知らなくてさ! あれは流石にびっくりした!」
「……ぜんぜん動揺してなかったじゃん」
「いや、してたよ」
あの場は、相田への動揺よりも、兄貴のために話し合いを進めることを選んだだけだ。
心揺れなかったわけじゃない。
ちゃんと動揺していたし、今だってどう対処するべきか、頭を痛めている。
「流哉はいつもそうやって……」
「え?」
いつもそうやって。
そこから先が聞きたいのに、兄貴は口をへの字に曲げて、俺を睨みつけている。
睨むといっても、憎悪や敵意の籠ったものではない。
拗ねたような、むくれたような、とても愛らしいいじけ方。
ナチュラルにかわいい。
兄貴の体に、かわいらしさが浸透しているのが、よくわかる。
「……ねぇ、流哉」
「……なに?」
「…………今日は、ありがとね」
むくれたままの顔で、お礼を言う兄貴。
いろいろとつっこみたいことはあるが、俺は無難さを身上とする秋月流哉だから。
「どういたしまして」
余計なことを言わずに、兄貴の言葉をただ受け取る。
兄貴と、すれ違ってはいるけれど。
なにか、大切なことを聞けていない気がするけれど。
決定的な破綻はせずに、ここまで来れていると思う。
だから、大丈夫。
俺たち兄弟は、上手くやれている。
その結果があるから、俺はまだ頑張れる。
「うーす」
登校して来た相田は、いつもと同じぶっきらぼうな挨拶だけを寄こした後、のそのそと着席した。
「あ、うん。おはよう」
まるで俺にはまったく興味ないと言わんばかりの、その態度。
普段とまったく同じ振る舞いから、こいつの思考を読み取ることは出来ない。
探るべきか、放置するべきか。どう動くべきか、結局は決めきれずに居る。
どちらにもリスクがあるから。
平和に、無難に、冷静に。
リスクという単語は、俺の信条からもっとも遠いもので。
俺という秋月流哉は、可能な限りリスクを避けたいと望んでいる。
どうするべきか迷って、結局は口を噤む。
相田についてのリスクは、俺だけのものではない。兄貴を巻き込んでしまう危険性がある。
踏み込むにしても、準備をしなければ。
俺がリスクに触れる時は、この件でなにかが爆発した時に、その被害をなるべく緩衝する準備をしてからだ。
「なー、秋月」
気怠そうな声が、こちらへ向いた。
「ん、なに?」
「お前さ、佐々岡以外に女子の友達とか居る?」
妙な質問だった。
けれど、俺たち兄弟とは縁遠そうな問いだった。
安堵して、気楽に答える。
「居ないよ。居るわけないだろ」
「だよなぁ……この際、お前でもいいか」
「俺でもいいか、って。なにが?」
訝しむ俺へ、相田は盛大に溜息を吐く。
「秋月じゃ頼りにならねーんだよなぁ」
「……うるせーよ。なら最初から言うな」
相田のノリにめんどくさいものを感じ取った俺は、そっけなく言い捨てる。
「でも、他に頼れる奴も居ないんだよなぁ」
「おい、めんどくさいぞ」
辛辣な言葉を叩きつけると、相田は再び溜息を吐く。
「だよなぁ」
「自覚あるのかよ」
「ある」
「……聞くだけ聞くぞ。言ってみろよ」
一応は友人なので、本当に困っているのなら、ちゃんと話は聞く。力になれるかは別として、だが。
「……絶対に、他の奴に言うなよ?」
「お前の秘密なんか、誰に言うんだよ」
「……こほん」
警戒するように周囲を見回した後、相田は椅子ごとこちらへ近付いてきた。
「あのさ、実はな」
「うん」
「昨日、クッソかわいい子と知り合ってさ」
「うん?」
「どういう風に距離詰めればいいかわかんなくて、ほとんど話できなかったんだけど」
「……うん」
「連絡先は知ってるんだが……これからどうしようか、迷ってて」
「……」
昨日、か。
「その子と、どういう繋がり?」
「……バイト、的な」
お前、バイトしてねーだろ。
「連絡先って、どんな? LINE交換したのか?」
「んーと……まあ、こっちのメールアドレス教えといた、感じ」
それ名刺のこと言ってるんじゃないよな?
「年上? 年下?」
「同い年」
「……ちなみに、その子の名前は?」
まさか。
まさかな。
そんなわけないと思いつつ、念のために確認をしておく。
絶対に、そんなわけはないはずなのだ。
「名前は、ツキナさん」
「……」
待て。
これはもしかして、遠回しな脅迫なのか。
教室だから。人の目があるから、決定的な言葉を口にしないだけで。
昨日のアレがお前だとわかっているぞ、と。圧力を掛けてきているのか。
「一目惚れとか、生まれて初めてでさ~。俺、そういうのないタイプだと思ってたんだけどなぁ。あまりにも好み過ぎて、やばかったんだよ。マジで」
「……え、それは、その……冗談、とか、脅迫?」
「はぁ? なに言ってんだ、秋月。マジな相談してんのに、茶化すなよ」
マジ。
本気と書いて、マジ。
相田の声に滲んだ苛立ちは、本物だった。
ということは、アレか。
こいつ、俺に一目惚れしたのか。
俺の拙い女装を見て、一目惚れ? 俺が、ツキナが男だとわかった上で?
そんなこと、あるわけがない。
兄貴が隣に居たんだぞ。
わざわざ俺なんかに一目惚れする理由がないだろ。
相田の様子は、どう見ても本気だけど。
俺にはどうしても、相田の言葉をそのまま受け取ることが出来ない。
「一目惚れって、あんまり誠実じゃない感じがして、好きじゃないんだけどさ。そんなにかわいいのか? 見間違えたりしてないか?」
「見間違えってなんだよ」
「いや、あの……たとえば、近くに居た別の子と、名前を間違えたりとか」
「ピンポイントすぎるうえに、わけわかんねーぞ」
「……どんな子なの?」
「大人っぽくて、お淑やかで、かわいくて、真面目っぽくて、すっげー優しそうな子」
「……金髪?」
「や、茶髪」
俺だなぁ!
いよいよこいつがなにを考えてるのか、わからなくなってきた。
「お前、さっきからなんかいろいろとピンポイントなんだけど……もしかして」
「っ」
「――ツキナさんのこと、知ってるのか?」
「……いや、知らないけど。そんな人」
「だよなぁ。まあ、お前がツキナさんと接点あるわけないしな……」
「……そうそう。ないない」
これまでの俺の人生には、男の娘との接点なんてなかったから。
その嘘は、自然に吐き出せた。
「この間の、俺と佐々岡さんの話じゃないけど……相田がそうやって色恋沙汰で悩むの、珍しいな」
意趣返しでのイジりではなく、率直な感想だった。
「俺も、こんな日が来るとは思わなかった」
伏し目がちな相田の声は、切実で。
はじめは「なに言ってんだ、こいつ」くらいにか考えていなかったのに、少しずつ、友人として真剣に相田の話を聞きたくなっていた。
「居ないと思ってたんだよなぁ、あんな人。絶対に居ないと思ってて……万が一居たとしても、俺なんかの前には、絶対に現れないと思ってた。だから……」
「だから?」
「ん、なんでもない」
言い掛けた言葉は、苦笑に掻き消されてしまった。
「……悪いな、相田。そういう話なら、俺じゃ力になれないっぽい」
「ははっ、期待はしてなかったっつーの。……それはそれでいいんだけどさ。誰か相談に乗ってくれねーかなぁ」
自分の席に戻り、物憂げに頬杖を突く相田。
その横顔に、俺はなにも言うことが出来なかった。
「マジで⁉ あはははっ! りゅーやすごいじゃん!」
佐々岡邸にて。
俺、兄貴、佐々岡さん、マコくんの四人で、優雅にお茶をしながらの報告会兼雑談。
マコくんは、いつも通りのドレス姿。
だが、兄貴は秋月秀哉のまま。
この家で、この四人が集うというのに、兄貴が女装をしていないのは珍しい。
俺も兄貴も、触れたくない部分があった報告会は、そこそこに終えて。
嘘みたいな相田の一目惚れ発言について、みんなに相談していた。のだが。
「ほら言ったじゃん! りゅーやはかわいいんだってば!」
「茶化さないで、真面目に聞いてくれよ……割と死活問題だぞ」
友人に一目惚れされることがあるなんて。そんなイベントが起きるだなんて想定してなかった。
万が一、俺が女装していることが広まってしまったら、俺の生活から平和や無難さは永久に失われてしまう。
「えー、でもさ。ある意味好都合じゃん? りゅーやのこと好きなら、不合格になることないでしょ」
「まあ、それについては、その通りなんだけど」
そういう意味では、兄貴の役には立っているのかもしれないが。
「流哉さん、すごいです」
なぜか嬉しそうなマコくん。
その横で、佐々岡さんはおかしそうに口元を押さえ続けている。
「笑ってばかりいないで、アドバイスをくれ」
「恋愛相談的な?」
「んなわけないだろ」
むくれる俺へ、マコ君が、
「お姉ちゃんには、恋愛相談なんて無理ですよ」
と耳打ちして来た。
「ちょっと、マコ。聞こえてるんですけど」
「あはは。ごめんね、お姉ちゃん」
ジト目の佐々岡さんをスルーして、マコ君へ「無理って?」と尋ねる。
「だってお姉ちゃん、誰かと付き合ったことないですし」
「……え、本当に?」
「はい」
にこやかなマコ君から佐々岡さんへ視線を移すと、
「いやいや。たしかに付き合ったこととかはないけどね。相談に乗るくらいは出来るよ?」
マコ君の言葉を、佐々岡さんが肯定した。
「……意外だ」
「それってどういう意味?」
「あー、ごめん。取り消す」
「はああっ⁉」
「そうじゃない。冗談とかじゃなくて……今なら、それも可能性としてはゼロじゃないのかも、って思うから」
「……えと、ごめん。どういう意味かわかんない」
「適当に誰かと付き合うような遊び方、キミはしないよねって話」
まともに話をしたことがない頃の偏見は、ちゃんと捨ててしまおう。
今の俺にとって、佐々岡真由佳は誰とでも適当に付き合うような女の子じゃない。
「き、急にマジなテンションで褒めないでよ」
「別に褒めてはないけど」
「……素で言うの、なんかムカつく……!」
「……」
めんどくさいなぁ。
「でも、マユたちの言う通りだと思う。相田君がそこまで言うってことは、ちゃんと流哉がかわいいってことだよ」
兄貴の口調には、からかうような色が見えない。
ただ、喜んでいるというわけでもないらしく、どことなく事務的な硬さの滲む声だった。
「しゅーやの弟だもんね。当然って感じじゃない?」
「……当然なんかじゃないさ。俺と流哉は違う。兄とか弟とか、関係ない。流哉がかわいいのは、流哉の素質だ」
褒められているが、あまり嬉しくない気もする。
「そのうち、ちゃんとかわいい声を出せるようになったら……俺なんかよりも、流哉の方が完全にかわいくなるかもな」
「俺が兄貴よりかわいくなる日なんて、来ないって」
そもそも、俺はそんな高みを目指してない。
「……そんなこと、ないさ」
兄貴の妙に真剣な声に圧されて、音が消える。
佐々岡さんたちが、注意深くこちらを見ているのが、わかる。
俺は俺で、兄貴がそこまで真剣になる理由がわからなくて、困惑していた。
「流哉なら、きっとなれるよ」
いつもと違う、兄貴の声。
この声を、俺は知らない。
だから、兄貴がどんなことを考えているのか、わからない。
踏み込めば、兄貴との間に感じたズレ、その根本を知ることが出来るのかもしれないけれど。
「だといいけど」
そのズレに、気付かない風に、装う。
気付いていることに気付かれたら、なにかが破綻してしまう気がするから。
このままでも、きっと大丈夫。
目を瞑っていても、進めているじゃないか。
このまま、やり遂げなければならない。その責任が、俺にはある。
嘘を吐いて、兄貴を肯定すると決めたから。
相田にも、嘘を吐いて。
佐々岡さんたちに、迷惑を掛けて。
そうして、俺は進んでいるのだ。
今さら、すべてを引っ繰り返すことなんて出来る訳がない。
だから。
そんな、見たことがない表情で俺を見るのは、やめてくれよ。兄貴。