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第二章

 思いがけない出来事に遭遇したところで、世界が劇的に変化するわけではない。

 無難に学校生活をこなして。

 静かに帰宅準備を整えて。

 いつも通りにのたのたと帰路に着く。

 そのつもりだったのだが。

「なあ、流哉。今日の放課後ヒマか?」

 いつもとは違う出来事。

 放課後、兄貴が俺の教室へやって来た。

 高校生になってからは、初めてのことだ。

 多忙な放課後を過ごしているはずの兄貴が、他の用事を差し置いて、俺のもとへ来た。

 そうするだけの理由がある。

 その理由は、もちろん決まっている。

「ん、ヒマだよ」

 察して、頷く。断る理由などない。

「なら、行こうか。早く行かないと」

 シリアスな表情で、出発を促す兄貴。

 今の俺は、その横顔に昨夜の少女を――とても、かわいらしかった兄貴の笑みを、重ねてしまう。

 兄貴なのに、兄貴ではない少女。

 俺ですら、注視しなければ兄貴と気付けなかった少女。

 蜃気楼のような、残像。

 兄貴が意図しない限り、昨夜の兄貴は決して表に出てこないのだろう。

 今こうしていても、昨夜の出来事は夢かなにかだったのではないか、と。

 俺は、そう思ってしまっている。



 ヒマか、と問われたからには、なにかしらの用事があるのだろう。

 俺の知らない場所へ連れて行かれるのかもしれない。

 そう考えていた俺の予想に反して、兄貴が向かったのは我が家だった。

 道中、用事とやらを兄貴が口にすることはなく。

 とりとめもない会話だけが、俺たちの間を行き交った。

 夕食の席で交わすような内容。

 たとえば、休み時間のくだらないバカ話の内容だったり。

 佐々岡さんのスキンシップが、少し度を過ぎていることを愚痴っていたり。その口ぶりは、惚気というよりは迷惑がっている響きの方が強くて、二人の関係がどういった距離感なのか、少し気になった。

 話の中で、佐々岡さんの名前が「マユ」であることが判明した。以前に聞いた気もするが、どうだったか。

 俺にとってはそこまで重要ではない情報なので、また忘れてしまうかもしれない。

「あ、佐々岡さんといえばさ。昨日の朝、C組に来て『しゅーやに無視された!』って激怒してたんだけど。大丈夫だった?」

「あー、うん。そこはなんとか。謝ったら、ちゃんと許してくれたし」

「そっか。ならよかった」

 それ以上、余計な口出しはしない。

 そうこうしているうちに、帰宅。

 おとなしくついて来たものの、兄貴がなにをしようとしているのか、わからない。

 尋ねるべきか逡巡しながら玄関に上がろうとしたところで、

「荷物取ってくるから、流哉はここで待ってて」

 兄貴に制されて、俺は脱ぎ掛けた靴を履き直す。

 待ってて。そう言った時の声色は、少し硬くて。

 行き先、目的を明かさないのは、兄貴なりに緊張しているからなのかもしれない。

 荷物とやらにも、今の俺は見当がついてしまう。「それ」を持ってくるなら、目的地もおそらくは「それ」に関係している場所で。

 予測はするが、質問はしない。

 兄貴のペースに合わせて、行動しよう。

 こういう時は、受動的な性格で良かったと思う。

 積極的な質問は、他者の心を開く可能性と同時に、地雷を無遠慮に踏み抜いてしまう危険性も兼ね備えている。

 器用な人間は、それでいいのだ。地雷を爆発させてもフォロー出来る人種というのは、たしかに存在する。

 しかし、俺には無理だ。

 平和な空気が爆発四散した時、回復魔法よろしく何事もなかったかのような関係修復など、出来ない。

 俺は無難さを身上とする男ではあるが、器用ではないのだ。

 君子ではないが、危うきには近寄らず。

 放置した方が危険な要素―たとえば、廊下に落ちているパンツとか―でもない限り、俺が目に見える危険に近付くことはない。

「お待たせ!」

 兄貴の肩に掛かったショルダーバックを見て、一瞬息が詰まってしまった。

 この状況の、根源ともいえる存在。

 覚悟していたはずなのに、やはり身構えてしまう。

 そんな俺を見てなにを思ったのだろう。

「……心配すんなって。今日は確認したし、流哉が二度も同じいたずらするなんて、思ってないから」

 口を尖らせながら、兄貴がそんなことを言った。

 勘違いを訂正しようかと、迷って。

「そう? ならいいけど。落とさないように気を付けなよ」

 軽口を叩くことにした。ほんの少し、いたずら心を加えて。

「……ぐう」

 なにかを言おうとして、口をぱくぱくと開閉させた後、ぐうの音を漏らす兄貴。

 そこにも、昨夜の少女の面影を見てしまう。

 かわいい、などと。

 血迷ったことを考えてしまう。

 血迷ってはいるけれど、兄貴は兄貴で、こんな所作を見せたことはなかったはずだ。

 俺が気にしていなかっただけで、以前の兄貴とは違う部分が滲み出ているのかもしれない。

 もう一人の兄貴が見えてくるのかもしれない。

 兄貴に見えない位置で、自分の太ももを抓って、小さく息を吐いて。

「んで、どこに行くの?」

 強制的に、心と話題の方向転換を図った。

「秘密」

 拗ねて、素っ気なく言い捨てる兄貴。

 他人には絶対に見せない、俺にだけに見せる素の言動。

 それ自体は、昔から存在していた。

 なのに、やはり兄貴から、かわいらしさを感じてしまう。

 幻影は、俺の中に居るのか。

 拗ねた表情にダブってみえる少女は、俺の中から生まれた幻なのか。

 冷静に。

 律しろ、自分を。

 俺の動揺に、変化に、兄貴はきっと気付く。

「じゃ、行こうか」

 今はまだ、静観の時だ。

 俺が立っているのは、おそらく兄貴の秘密の入口に過ぎない。

 本質を見極めて、どうするべきか。

 兄貴を傷付けずに、「勘違い」を「真実」へ持っていくには、どうするべきか。

 嘘を吐いて取り繕った俺には、上手くやる責任があるのだ。

 嘘を本当にする、責任が。



 俺は俺で、いくつかの可能性を、脳内で展開していた。

 付け焼刃だが、LGBTについても調べてみて。

 その結果、人の生き方を他人が定義するのは難しいのだという、当たり前のことに気付いた。

 興味の片手間に踏み込むものではない、という結論も得た。

 ただ、一つ。

 LGBTについて調べる過程で、興味深い概念を発見した。

 シリアスなLGBTという単語に対して、幾分かマイルドでライトな表現。


 男の娘。


 この単語は広義といえば広義で、曖昧な単語ではあるようだ。

 その曖昧さを踏まえたうえで、あえて端的に言うならば「女の子の格好をしている男の子」というのが、男の娘。

 概念を単語として認識したことで、存在の輪郭がはっきりした。

 俺が読んでいるマンガや、プレイしているソシャゲにも、そういったキャラが居た。

 妙なキャラだな、程度の認識で、今までは流していたけれど。

 ゲームやマンガ、そして実際に兄貴のような存在が居るということは、もしかするとこの世には俺の知らぬ「男の娘ファン」もしくは「男の娘コミュニティ」が存在しているのかもしれない。

 と、思考がそこまで至ると、兄貴の向かう先に関する予想も、ある程度の方向性が生まれる。

 俺が男の娘に興味があると思っている兄貴。

 そんな兄貴が、俺を連れて行く先。

 たとえば、その場所が男の娘への入口ならば。

 ――もしかすると、兄貴以外の男の娘が現れる可能性もある。

 兄貴は、緊張のせいか口数が減っていて。

 俺たちがどこに向かっているのか、ほぼノーヒント状態である。

 交通機関を利用しないところを見るに、遠出するつもりではないらしい。

 隠しておきたいはずの女装を、徒歩圏内で。

 些かリスキーだが、兄貴はいったいどこまで行くつもりなのだろうか。

「着いたぞ」

「……え」

 間抜けな声を漏らした理由は、二つ。

 一つは、俺の思考を読んだかのような到着タイミングに。

 そしてもう一つは、到着した場所が、なんの変哲もない洋風の一戸建てで――その玄関先の門に「佐々岡」の表札があったこと。

「兄貴、ここって……」

「ん、マユの家」

 器用ではない人間が平静を保つには、物事に対してある程度の予想や推測を立てておくことが重要だ。

 ただ、不器用な予想や推測というものは、えてしてそうそう当たるものではなく。

 どちらかといえば、「外れた時にどう対処するか」まで含めて、心構えのワンセットであるともいえる。

 思考を、予想を裏切られたからといって、俺は取り乱さない。

 顔に無表情を貼り付けて、心の波が凪ぐのを待つ。

 俺の内心を知ってか知らずか、兄貴は間を空けずにインターホンのボタンを押した。

「はいはーい。あ、しゅーやね。上がっていいよ。鍵開いてるから」

 軽い調子での応答に、兄貴もさっさと門を潜ってしまう。

 詮索はしない、と決めていたけど。

 さすがに、少しだけ説明はして欲しいと思ってしまった。



 白と黒。それだけで構成されたリビング。

 無秩序にただ白い壁紙を貼って、モノトーンインテリアを置いた。というわけではないのが、部屋全体の調和から伝わってくる。

 意図的なデザインの気配。いわゆるデザイナーズ住宅、というやつなのだろうか。

「なに、どしたの、りゅーやくん?」

 半袖Tシャツにショートパンツという、俺の目を焼くような恰好の佐々岡さん。

 その手には、黒いティートレイと、四人分のカップが乗せられている。

 ラフな姿からは想像もつかない流麗な動作で、佐々岡さんはテーブル上にカップを並べていく。

 この人のどこに、こんな上品さが隠れていたのか。

「ま、てきとーに飲んどいてよ。よくわかんないけど、このコーヒーたぶん美味しいやつだから。あ、砂糖とミルクいる?」

「……いや、このままいただくよ」

 本当に、わからない。

 深呼吸をすると、芳醇なコーヒーの薫りが脳にまで沁み込んで、少し心が落ち着いた。

 薫りに誘われるままカップに口を付けて、瞠目する。

 ブラックコーヒーは、苦味こそを味わうものだと思っていた。

 香りと苦味は、個別に味わう要素なのだと、思っていた。

 口内に広がる、薫りと酸味。少し遅れてやって来る、淡い苦味。

 それらは後を引かず、嚥下と共に消えていく。

 俺が知っているコーヒーとは、別物だ。

「……美味い」

 浮かんだ言葉の中から言語化できたのは、シンプルでつまらない一言だけだった。

「だしょー? これ、棚の奥に隠してあったやつだかんね。ぜったい美味しいと思ったんだ♪」

「……それ、飲んでいいの?」

「いいのいいの。りゅーやくん、お客さんだし。こういうのは、お客さんに出すもんだし」

 あっけらかんとした佐々岡さんの物言いに、芽生えかけた罪悪感は吹き飛んでしまった。

「あ。やっぱり、笑った感じがしゅーやとそっくりだねぇ」

「え、そう?」

「うんうん、そっくり」

 自宅だから、ということもあるかもしれないが、佐々岡さんの笑みや口調は、学校でのそれよりも幾分か柔らかく感じて。

 勝手に抱いていた印象は、八割方崩壊しつつある。

 平和だ。穏やかだ。素敵である。

 できればこの空気が恒久的に続いて欲しい。

 そう願いつつ、俺の目はテーブルの上の「懸念」から目が離せない。

「あのさ、佐々岡さん」

「なーに?」

「……カップ、四つあるんだけど。誰か来るの?」

 テーブル上に並べられたカップは、四つ。

 俺と兄貴、佐々岡さん。ここから更にもう一人、何者かの参入があることを、カップ数が暗示している。

「誰か来る、っていうか。え、なに。りゅーやくん、なにも聞いてないの?」

「……ぜんぜん聞いてない」

「……ねー、わたしからも一つ聞いていい?」

 疑問が氷解しないまま、佐々岡さんから新たに質問が投げ掛けられる。

「昨日、わたしがC組に行った時さ。りゅーやくんは、本当になにも知らなかったの?」

「……なにも、ってわけじゃない。ごめん」

 核心についてはなにも知らなくとも、パンツとそれに関する兄貴のリアクションは、把握していた。

「んー、そっか。ま、いいけど」

「え、そんなんでいいの? 怒らないの?」

「あははっ。怒らないの、ってなに? 怒られたいの? マゾなの?」

「や、そういうわけじゃなくて」

 真剣な問いに対して、俺は嘘を返したのだ。

 もっと糾弾されるべきだと思う。

「どうせ、しゅーやのためなんでしょ? なんとなくだけど、わかるよ」

「……」

 ぐうの音も出ない。完敗だ。

「怒って欲しいなら、怒ってあげようか?」

「遠慮しとくよ」

 苦笑しながら手を振ると、佐々岡さんは無邪気に笑った。

「てゆーか、悪いのはしゅーやでしょ。りゅーやくんにも、わたしにも説明してないこと、いっぱいあると思う」

 そうなのだ。

 今の会話でわかったのは、俺と佐々岡さんは、それぞれ兄貴の違う側面を知っていたという事。

 そして、俺たち二人の視点を合わせてなお、すっぽりと抜け落ちているピースがある。

 俺も、佐々岡さんも知らない。

 ――パンツを落としたあの日、兄貴はどこへ向かったのか。

 なにもわからないまま進んで、更に状況をややこしくしないためにも、尋ねなければならないのかもしれない。

 そう思い始めたところで、リビングのドアが開く。

「ごめんね。ちょっと時間掛かっちゃった」

 昨夜ぶりの、鼓膜がとろけそうな声。

 昨夜とは違う、白のブラウスと紺のミニスカート。

 剥き出しになった脚の眩しさに、歪みや違和は欠片も存在しない。

 金髪は、相変わらず淡く輝いていて。

 こうして見ていても、目の前の人物が兄貴なのか、惑ってしまう。

 そして、

「お待たせ、お姉ちゃん」

 兄貴の後ろから現れた、もう一人の少女。

 前髪は切り揃えられており、後ろ髪は腰付近で揺れている。色は漆黒。兄貴の金髪とは対照的に、光を受けてなお、純黒を保っている。

 モノトーン調の部屋と親和性の高い、黒を基調として白のフリルで飾ったドレス。ゴシックドレス、というのか。ゴスロリになるのかもしれない。俺には、はっきりと判別が付かないが。

 佐々岡さんを「お姉ちゃん」と呼んだことから、通常ならば佐々岡さんの妹だと考えるべきなのだろうけれど。

 今の俺は、兄貴を見ている。知っている。

 だから、僅かな違和を察知することが出来る。

 甘く、耳をくすぐるような響きを含む声。――兄貴の声と同じ系統の、声だ。

 慎重を期して、言葉を選び、口にする。

「佐々岡さんの…………妹さん、だよね?」

「……くすっ。気を遣ってくださって、ありがとうございます、流哉さん」

 両手を口元に当てた後、

「はじめまして。佐々岡麻琴……マユお姉ちゃんの、弟です。ボクのことは、マコって呼んでください♪」

 少女は――麻琴くん、ちゃん? は、ぺこりと頭を下げた。

 だいぶ、ピースが揃ったように思える。

 どこか楽しげな兄貴。

 思いきり楽しそうな佐々岡さん。

 くすくすと笑い続ける麻琴もとい、マコくん。

 平和に、無難に、冷静に。

 混沌とした状況の中で大切なことは、自分を見失わないこと。

 事情や状況の糸が、どんなに複雑な絡まり方をしていても。

 俺という自分だけは、確かに俺だから。

 そこだけは、手放してはならない。



 四人でテーブルに掛けたところで、自分が華やかなオーラに囲まれていることに気付く。

 俺を除く三人が、偏差値上位は堅い容姿の持ち主。

 容姿に対してコンプレックスを抱えているわけではないので、息苦しさは感じないけれど。

 ここがはたして本当に俺の居場所なのかと問われれば、首を捻ってしまう。

「んーと、なにから話すの?」

 口火を切ったのは、佐々岡さんだった。

 その言葉は、特定の誰かに向けられたものというわけではなく。

 兄貴とマコくんは、どちらかといえば質問に答える側だろう。

 ならば。

「俺から、いいかな?」

 切り出した言葉は、三人から首肯された。

 四人が状況を整理し、理解できるように。

 そういう場合には、時系列順に物事を明らかにしていくべきだろう。

 まずは共通認識を。それぞれの持つ情報を共有すべきなのだ。

「えーと、まずは三人がどういう繋がりなのか、教えて欲しい」

 この四人の中で、俺だけが欠如している認識。

 会話をするためにも、まずはそこから教えてもらわなければならない。

 反応したのは、兄貴だった。

「えっとね、最初に知り合ったのは……私と、マコ」

「……え、マコくん? 佐々岡さんじゃなくて?」

「うん。私が……その、なんていうんだろ。……『変わりたい』と思った時に、SNSでマコと知り合って。私から『会ってみたい』ってお願いしてみたの」

「連絡を取り合ってるうちに、住んでる場所がかなり近いってわかったから、オフ会したんです♪」

 変わりたい、とはどういうことなのか。兄貴の心境に、どんな変化があったのか。

 言葉を差し挟む空気ではなかったので、疑問は押し殺す。

「わたしは、弟がこういう趣味だっていうのは、前から知ってたから。マコがしゅーやを連れて来た時も、別にふーんって感じだったんだけど。そしたらさ、隣のクラスにしゅーやが居て! めっちゃビビったの! 同じ学校だったんだ、って! 言われてみれば、居たわってなって! しかも二年になったら、同じクラスだし! めっちゃウケるよね!」

 記憶を掘り返す。

 兄貴と佐々岡さんが一緒に居るのを初めて見たのは、たしか昨年の十一月か、十二月。

 ということは兄貴とマコくんが知り合ったのは、十月か十一月ごろ、か?

「マユとマコには、いろいろ教えてもらったの。服とか、お化粧の仕方とか……本当に、感謝しかない」

「まー、うちのでよければ、いくらでもって感じ」

 その言葉に俺が首を傾げると、

「マユたちのご両親、化粧品メーカーで働いてるの」

「そーそー。サンプルいっぱいあるよ。りゅーやくんも持ってく?」

「お、俺はいいかな」

 苦笑でごまかしながら、なるほどと言う。

「兄貴と佐々岡さんは、その縁で付き合い始めたのか。正直、二人の接点がわかんなかったんだけど、やっと納得できたよ」

 得心する俺へ向けて、

「「付き合う? 誰と誰が?」」

 完璧なハモりで、疑問が跳ね返ってきた。

「え、いや、誰と誰って。兄貴と、佐々岡さん」

「……うちら、別に付き合ってないんですケド」

「そうなの⁉」

 今日一番の驚愕だった。

「しゅーやはおもしろい友達だけど、カレシって感じゃないもん」

「私も。マユのことは好きだけど、彼女って感じじゃない」

 マジか。

「私、流哉に『マユと付き合ってる』なんて言ったことあったっけ?」

「それは……ない」

 ただ、校内では一緒に居るところを何度も目撃していたし、かなりの頻度で連絡を取っているのも、知っていた。

 俺の目には、二人の様子が友人という枠組みを超えているように見えたから。

 てっきり、二人は付き合っているものだと、思い込んでいた。

「あー……そっか。なるほど。そうなのか」

 わかっているようで、わかっていないことが、この世にはたくさんある。

 そのことを、今まさに痛感している俺だった。

「なになに。りゅーやくんってば、お兄ちゃん取られてヤキモチ妬いてたとか? それで、わたしのことあんまり好きじゃない感じだったの?」

「ヤキモチって、なんだよ」

 兄貴と佐々岡さんは似合ってない、とは思っていたが、幼稚な嫉妬は欠片もなかった。

「ふんふん」

 勝手にわかったようなつもりになって、ニヤつく佐々岡さん。

 昨日までだったら、間違いなくイラついていただろう。

 しかし、ここ数時間で俺の佐々岡さんに対する印象は百五十度引っくり返っていたので、お好きなように、としか思わなかった。

「つまり、マコくんは兄貴にとって『かわいい』の師匠的な存在で。佐々岡さんは、それを手伝ってくれてた友人、ってことでオッケーなのかな」

 三人から首肯される。

 まず、人間関係の整理が出来た。

 出遅れていた俺が、ようやく三人に並び立てたといえる。

 いよいよ本題だ。

「実は、俺が『このこと』を知ったのは、昨日の夜なんだ。厳密に言えば、一昨日、兄貴のパンブォッ⁉」

 脇腹が爆発した。

 そう錯覚するほど鋭いボディブローが、俺の左脇腹に突き刺さっていた。

「あ、兄貴? なにを?」

「な、なにをじゃないでしょ⁉ パ、パン……とか、みんなの前で言うの、やめて! デリカシーなさすぎ! っていうか、言っちゃダメでしょ!」

 ぽかぽかと追撃を肩に喰らいながら、俺は咳払いをして、仕切り直す。

「こほん。一昨日、俺が兄貴の下着を痛い痛い⁉」

「なんで言い直すの⁉ わざとやってるの⁉」

「なにが⁉」

 ちゃんとマイルドな表現にしただろ!

「むーっ!」

 口をへの字に曲げる兄貴。かわいい。

「え、と。とにかく、それが切っ掛けで、兄貴と話し合って……」

 一昨日から今日までの流れを、佐々岡姉弟へと、かいつまんで聞かせる。

「そして、佐々岡さんたちも一昨日の放課後は、兄貴と会ってない。だよね?」

「うん」

 佐々岡さんに続いて、

「うん。ボクも、一昨日はしゅーくんに会ってないよ」

 マコくんも、頷く。

 俺、佐々岡さん、マコくんの視線が、兄貴へ集中する。

 兄貴はしおらしく項垂れ、しばらく沈黙した後。

 小さな声で言った。

「……今日は、そのことで話があって。だからみんなに集まってもらったの」

 俺たちは沈黙し、兄貴に続きを促す。

「一昨日、なんだけどね。実は――オーディションを受けようとしてたの」

「……マジか」

 まったく想像していなかった単語だった。

 オーディション。

 縁遠すぎて、まったく馴染みのない言葉。

 目を見開く俺に向けて、兄貴はわたわたと両手を振る。

「そんなに大げさなものじゃないの! オーディションって言っても、芸能人とかそういうのじゃなくて。えーっと、みんなに伝わるか、わかんないんだけど……同人ゲームって、知ってる?」

 どうじんげーむ。聞いたことのない単語だった。

 佐々岡さんの頭上にも「?」が浮かんでいたが、

「あ、ボクはわかるよ」

 マコくんだけには通じていた。

「どう説明すればいいのかな……インディーズのゲーム、というか。私もまだ詳しくはないんだけど……企業じゃなくて、サークルっていう形でゲームを作ってる人達が居るの」

 インディーズのゲーム制作サークル。ニュアンスはだいぶ伝わってきた。気がする。

「そのサークルってね。男の娘を題材にしたゲームばっかり作ってるんだけど、イベントの売り子さんも男の娘にお願いしたい! って告知を出してたの」

「ふむふむ」

 ニュアンスだけで、なんとなく理解しながら、とりあえず頷き続ける。

「……一昨日が、そのオーディションだったんだけど。オーディションって言っても、サークルの人たちと面接するだけだったんだけど……」

 そこまで言って、兄貴は突然、瞳に涙を貯め始めた。

「パ……ツ、忘れちゃったから。『私』になれなくて。……逃げちゃったの」

「……」

 なにも言えなかった。

 正確には、「パンツだけなら外見は誤魔化せたんじゃ?」という疑問が胸中にはあったが、口に出すべきではないと、空気を読んだ。

「……それは、仕方なかったね。よりによって、パンツを忘れちゃうなんて」

 マコくんが、深く頷きながら、兄貴に同意していた。

「パンツがないと、気持ちが切り替えられないもんね」

「そうなの」

 絶対にリアクションをしないと、決めていた。

 マコくんと同じことを俺が口にしたら、たぶんまた腹を抉られる。そんな気がした。

 口を固く結んで、真剣な表情のまま、俺は黙り続ける。

「へー。パンツがないと、大変なんだね」

 あっけらかんとした調子で、佐々岡さんが言い放った言葉に、

「お姉ちゃんには、わからないと思う」

 マコくんが、シリアスな口調で言うと、

「んー、ぜんぜんわかんない」

 俺の背筋が冷えるほど軽い口調で、佐々岡さんが返す。

 兄貴が怒りださないか不安だったが、

「……うん。たぶん、わからないと思う」

 兄貴は、佐々岡さんに対して、沈痛な呟きを落としただけだった。

「でも、少し安心したよ。兄貴が落ち込んでたのは、俺が……アレをアレしたせいで、だから落ち込んでたのかと思ってた」

「それもあったに決まってるでしょ!」

「あ、やっぱりそーなの⁉」

「ただでさえ落ち込んでたのに、流哉がパ…………っ」

 流哉が。俺のせいだと言わんばかりの、その言葉で思い出す。

 ――俺は、兄貴のパンツを盗んだ後になぜか普通に返却した変態弟、ということになっているのだった。

 冤罪というものは、身に馴染まない。罪悪感もないから、後悔として心に刺さらない。

 気を付けなければ、兄貴にとって俺がどう見えているのか、忘れてしまいそうになる。

 先ほど、事の顛末を語った時も、だいぶ危なかった。

 今にして思うと、兄貴のボディブローがなければ、俺は兄貴にとって「整合性のない説明」を垂れ流していた。

 嘘が、嘘だとバレていた。

「アレをアレって?」

 当然の如く、佐々岡さんからの追及が飛んでくるが、俺たち兄弟はアイコンタクトをして、

「「別に、なにも」」

 と、のたまった。

 おおいに怪しまれているのがわかったが、気にせず話を進めてしまいたい。

「とにかく、ヘコんでたのはたしかだけど、そのせいでマユやマコからの連絡を無視しちゃったから。ごめんなさい」

 テーブルに額を付けんばかりの勢いで、謝罪する兄貴。

 胸が痛んだ。代われるなら、代わりたい。

「ずっと無視されるならともかく、こうして理由も説明してくれたし。私たちは別にいーよ」

 またもや軽く流してくれる、佐々岡さん。

 今や俺の手首は、佐々岡さんに対してドリル顔負けに回転しまくっている。

 弟が連れてきた人間に、親身になって協力する。

 友人のために、本気で憤り、早朝から他のクラスに突撃する。

 謝罪されれば、事情を理解してあっさりと許す。

 聖人。この子は聖人だ。

 心身共に美しい、素敵な女の子だ。

 いっそのこと、兄貴と本当に付き合ってもらっても、弟としてはまったく構わない。

「ありがと、マユ。マコ」

 平穏な和解のワンシーン。

 素敵だ。

 平和で、柔和で、穏和。

 世界はこうあるべきだと思う。

「それでね、流哉」

「うん?」

 心がピースフルになっている今なら、なにを言われてもクールに対応できる自信があった。

「サークルさんに、ちゃんと謝ったらね。もう一度お話ししましょうって言ってもらえたの」

「本当に? 最高じゃないか!」

 洋画の吹き替えみたいなテンションで喜ぶ俺に、兄貴も満面の笑みを見せてくれた。

「それでね! ちょうどもう一人、男の娘を探してるって言ってたから、心当たりがあります! って言っておいたの!」

 なるほどね。マコくんが居るもんね。


「だから、流哉! ちょうどいいから、一緒に行こ!」


「……うん?」

「流哉をここに連れてきたのは、流哉がかわいくなるのを、マユたちに手伝ってもらおうと思ったの」

「……うん?」

「オーディションは来週の日曜日だから、ちゃんと時間はあるよ。安心して! 私たちが流哉のこと、サポートするから!」

「……うん?」

 ぶっ壊れたオーディオプレイヤーみたく「……うん?」と繰り返すだけの存在に成り下がった俺。

「え、なに。りゅーやくんも女装したい人なの?」

「そうなの! 昨夜話し合った時に、私も知ったんだけど」

「……うん?」

 そういえば、そんなことを言ったような気がするね。

「まあ、しゅーくんの弟ですしね。ボクは大丈夫だと思うな」

「……うん?」

 俺は、男の娘に興味がある秋月流哉だから。

 元気いっぱい、やる気いっぱいに返事をしなくてはならないのに。

 男の娘になってオーディションを受ける、という突如突き付けられた無茶振りに対して、隠しきれない抵抗感が、クエスチョンマークとなって返事に表れてしまう。

「……どうしたの、流哉? 汗がすごいけど……」

「……ううん、そんなことないよ?」

 自分が、笑えているかわからないけど。

 一応、責任の一端は俺にある(ことになっている)のだ。

「お……俺に出来ることは、がんばるよ」

「うんっ!」

 顔が引き攣っていたかもしれないけれど。

 ちゃんと返事をしただけでも、上出来だったのではないだろうか。


 後戻りは出来ない。

 問う勇気もない。

 だから、進むしかない。


 俺は、男の娘になる。

 男の娘に、なるしかないのだ。

 なるしかない。らしい。


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