VR
(まるで豚じゃないか……)
帰宅してリビングのドアを開けた途端、俺は思わず溜息をついた。
ネクタイを外しながらとりあえず、つけっぱなしのテレビに視線を逸らす。しかし怖いもの見たさでついもう一度、俺はソファの上に目線を戻した。
そこには、他でもない俺の妻が、鼾をかいて眠りこけていた。むっちりした手足を投げ出し、口を半開きにしたまま気持ち良さそうに熟睡している。リビングのテーブルに夕食の支度もされていない所を見ると、夕方からゴロゴロしていて、テレビを見ながら寝落ちしてしまったのだろう。
一日働いた疲れを引きずって帰宅し、妻がこれでは、どんな男だって浮気の一つもしたくなるというものだ。
(そうだ。俺ばかりが悪いわけじゃない)
俺はたった今会ってきたばかりの、若くて可愛い浮気相手の顔を思い出して一人ニヤついた。いつもは多少の罪悪感を伴って帰宅するのだが、今日はそんな気も起きなかった。
(こいつだって昔は可愛らしかったのに。いつからこんな風になってしまったんだろう)
結婚して二年と十一ヶ月目。結婚式の時、彼女の体重は今の半分とはいかないまでも、三分の二くらいだったはずだ。
どうすれば浮気がバレずに、もちろん慰謝料も払わず、円満に離婚できるか。近頃俺の頭の中はその事で一杯だ。
冷蔵庫に行って缶ビールを取り出し、二度目の溜息をつきながら、俺はソファに身体を投げ出した。
(いっそ事故か何かで死んでくれないかな。そしたら保険金だって……)
「ええ~っ!」
突然テレビから大声が響き、俺は飛び上がった。ソファに深くもたれかかったはずみで、腿の脇にあったリモコンの音量調節パネルを押してしまったのだ。
「つまり場合によっては、命の危険もあるという事でしょうか!?」
テレビの女性コメンテーターが、芝居がかった声で叫んだ。
俺は慌てて音量を戻しつつ、思わず画面に見入った。「時代を読み解く~テクノロジーの光と影」と題されたその番組は、新しいものなら何にでもケチをつける年寄りが好みそうな、最先端技術に毎回アレコレとイチャモンをつける番組だ。いつもならさっさとチャンネルを変えるところだが……。「命の危険」という一言が、俺の興味を引いたのだ。
番組の今日のテーマは、VR――バーチャル・リアリティ、らしい。
「つまりですね、」
テレビ画面では、この筋の権威であるらしいナントカ大学教授ナントカ氏が、女性コメンテーターに説明している。
「人間の脳は、現実でない事を現実だと錯覚する場合があるんです。例えばこんな実験結果があります。囚人に今から死刑を執行すると伝え、目隠しをしてベッドに寝かせる。そして、『今から君の手足に切り傷を作る。傷口から少しづつ出血し、最後は出血多量で死ぬ』と言うのです。しかし実際には手足を軽く引っ掻くだけで、その部分に体温と同じ温度の水をたらし続けます。囚人は目隠しをされているので、騙されている事が分からない。本当に傷口から出血していると思い込む。さて、何が起こったかと言うと、囚人は本当に死んでしまったのです。死に至るような肉体的損傷は何もなく、ただ彼の脳が、『自分は死ぬ』という非現実を現実とみなしただけで……」
「へえ~!」
「それから、医学用語で幻肢と言いますが、事故で手や足を失った人が、無いはずの手足に痛みや痒みを感じるといった症例もあります。こういった例からも分かる通り、人間の脳は必ずしも現実と非現実を正確に認識できるとは限らないのです。そこで今日のテーマであるVRですが、この脳の錯覚という現象を考えてみますと……」
「どういった事が起こり得るんでしょうか?」
「例えば、最近人気のVRテーマパークですね。人気のあるアトラクションの一つに、ファンタジーの世界で勇者になって敵のモンスターと戦う、といったものがあります。仮にですね、貴女がこのゲームをプレイしていて、モンスターの攻撃を受けた瞬間に、現実の肉体に物理的な刺激があったとするとどうでしょう。もちろん攻撃を受けたのはあくまでもVR、ゲームの中の貴女です。現実の貴女の肉体には何の損傷もありません。にも関わらず、現実の肉体に些細な刺激を受けた事で、貴女の脳は錯覚を起こすかもしれないのです。もしも脳が、『肉体に致命傷を負った』と認識すれば……」
「それは怖いですねぇ~! あ、ではここでいったんCMで~す!」
女性コメンテーターが話の長いナントカ教授を強引に黙らせて、画面は洗剤のCMに切り替わった。
* * *
大人気で中々予約の取れないテーマパークの優先招待券を手に入れたと言うと、妻は頬の肉を震わせて年甲斐もなく大喜びした。
「計画」の準備は上々だ。オークションで大枚をはたいてチケットを手に入れ、事前に何度か足を運んだ。目的のアトラクションも実際に体験し、敵のモンスターの攻撃パターンなどを頭に叩き込んだ。
この計画の素晴らしいところは、失敗しても何のリスクもないという点だ。俺がするのは、冗談めかして自分の妻を軽く小突くだけ。何の罪もない。妻にも、俺の意図は気づかれずに終わる。
上手くいかなかったとしても、それはそれで仕方ない。推理小説の犯人のように綿密な計画を立て、リスクを覚悟で目的の人物を殺害する。そういう強い意思は、俺にはなかった。死んでくれればラッキー、くらいの気持ちだ。
だけどもし上手くいったら、それは……。そう、「不幸な事故」なのだ。警察にも誰にも、俺が意図してやったのか、それとも単なる悪ふざけから起きた事故なのか、判断する事はできない。
やってみない手はない。週末、俺は妻を連れて意気揚々とVRテーマパークに向かった。
* * *
「きゃああああ!」
甲高い声で笑いながら、妻は作り物の剣を振り回した。案の定、さっぱり敵には当たらない。
「やだあ、これカワイイ~」
いい歳こいて可愛こぶりながら、子犬ほどの大きさのモンスターに向かって適当に剣を振るっている。いつもならイラつくところだが、今日の俺はそれどころじゃない。狙っている瞬間は……、もうすぐだ。
そら来た。レベルの低いモンスターを相手にはしゃぐ妻の背後に忍び寄る影。このエリアで出現する強敵、「ニンジャ」だ。
この敵キャラクターは決まってプレイヤーの背後を取り、急襲するのだ。アトラクションの下見をした時、俺も何度かやられた。
俺は視界を覆うVRグラスをそっと外した。ファンタジー世界の風景は突如として消え去り、アトラクション体験用の殺風景な小部屋に俺と妻がいるだけだ。様々なVR用機材に身を包んだ妻は、何もない場所に向かって奇声を上げ、腕を振り回している。
ゲーム内の様子は、見学者用に備えられた壁のモニターで見る事ができる。モニターの中では、「ニンジャ」が、妻の背にあと一歩という所まで迫っていた。その時、野生の勘だろうか、妻は急に振り返った。だが手遅れだ。手にした武器を振りかざすニンジャ――。
ザシュッ。ゲーム内と俺の脳内で、効果音が響いた。タイミングは完璧だった。妻は驚愕の表情を浮かべ、真っ直ぐ俺を見つめていた。俺は一瞬ゾッとしたが、すぐに思い出した。VRグラスを付けた彼女の瞳に映っているのは、「ニンジャ」だ。俺じゃない。俺は息を呑み結果を待った。ナントカ教授に祈った。どうか上手くいきますように――。
一瞬の後、妻はその重たい身体をくねらせて床に崩れ落ちた。
* * *
呼び出しボタンに応じて駆けつけたスタッフ相手に、俺は精一杯、動揺する夫の役を演じて見せた。
「救急車お願いします! 急に倒れて……」
慌てて部屋を飛び出して行ったスタッフの背後で、俺は思わず笑みをこぼした。
(お前を殺したのは「ニンジャ」だ。俺じゃない。だから恨まないでくれよ……)
妻の顔を見下ろし、心の中で呟く。
(これで、ほとぼりが冷めたら……。いや待てよ。せっかく自由の身になったのに、何もまた一人の女に縛られる必要はないか)
いつスタッフが戻って来るか分からないので、真面目な顔を作ろうと試みるが、これからの生活の事を思うとニヤニヤ笑いが止まらない。支給されるであろう生命保険の金額を、頭の中で計算し始める。
その時ふと、耳元で何か音がした。軽い頭痛を覚え、俺はこめかみに手をやった。
ジジッ、ジジジッ……。何か電子音のような耳鳴りがする。視界に一瞬モヤがかかったようになり、立ちくらみがした。
「何だ……? あっ」
何気なく、倒れている妻に目をやった俺は、思わず声を上げた。
そこに横たわっていたのは、もはや魅力を失った妻ではなく――新婚当初のスリムで美しい妻だったのだ。
「な、何だこれは。どういう事だ!?」
訳が分からず、俺は呆然と妻を眺めていた。
そのうちに、始めて彼女と会った日の映像が鮮明に頭に浮かんできた。休日の大型ショッピングモール。俺に向かって微笑む彼女。たった三年前の事なのに、懐かしさが胸にこみ上げる。
(ああ、俺は……)
思い出した。あの日、俺は一目で彼女に恋をした。彼女こそ予め決められた運命の相手だと、俺にはすぐに分かった。彼女を幸せにするために俺は生まれてきた、彼女のためなら何でもしよう、と胸に誓った。
(俺は、なんて事を……)
それほど愛した彼女を、俺はこの手で殺めてしまったのだ。
ジッ……! ジジジジジッ!
おかしな耳鳴りはだんだん強くなる。まるで俺の胸に突如湧き上がってきた後悔と罪悪感とに呼応しているようだ。
その時だ。
「痛ぁ……」
呻き声を上げ、妻がムックリ起き上がった。
「…………!!」
俺は言葉を失った。ああ、神様というやつは本当にいて、俺の願いを叶えてくれたんだろうか。それともただ、ナントカ教授が大げさな事を言っていただけなんだろうか。そうだ。ナントカ教授は、そういう結果になる「可能性もある」と言っていただけだ。
「だ、大丈夫か!?」
俺は慌てて妻を抱え起こした。
「もぉ~。頭打ったじゃない! 転ぶ前に支えるとかしてよね、気が利かないんだから」
今までの俺だったら腹を立てていたに違いない、彼女の言葉。しかし今の俺は、思わず微笑んだ。そうだ、こんなワガママなところも、可愛いと思っていたんだ。
「なーんか、調子悪いなあ、もう……」
彼女は俺の想いなど夢にも知らず、独り言を呟いている。
ジジジジジジジジ……
「あ、やだ~。変な音してるじゃない……」
彼女は乱暴に俺の手を取ると、掌にあるコントロールパネルを開いた。
<エラーコード:0018 誠実パラメタの値が不正です。カスタマーサービスにお問い合せ下さい>
コントロールパネルには、そうメッセージが表示されていた。
ジジッ……ジジジジッ……
ああ、良かった。俺は本当は彼女を世界で一番愛しているんだジーージーージーー……いや俺は何を言ってるんだ。さっさと死んでくれれば保険金でジジッ……ああ大切な俺の妻、生涯を共にすると誓っジジジジジジジジジこの豚め、少しは身なりに気を使うとかジジッ……ジジジジイィィィッ……
俺はどうしたんだ。さっきまで殺そうとしていたのにこんな一瞬で愛情が戻ってくるなんておかしいジーーージーーージーーー……
<愛情機能が正常に動作していません。強制終了します>
電源が落ちる直前、俺の耳に、妻の最後の言葉が届いた。
「あーあ。やっぱ買い替え時かなあ」
―― ピピッ ブツッ
* * *
「この製品のリチウム電池は特殊な物でしてね、まあ三年くらいが寿命なんですよ。古くなって電圧が上がらなくなると、愛情機能なんかは真っ先に不安定になるんですよねえ」
契約書をチェックしながら、店員はエミにそう教えてくれた。だがエミの興味はもう、たった今乗り換え手続きをしたばかりの「新機種」に移っていた。エミは適当に相槌をうちながら、買ったばかりの新しい端末をいじくり回し、手続きが終わるのを待っていた。
ようやく作業を終えた店員がエミに尋ねた。
「ええと、『コレ』はいかが致しましょう。こちらで廃棄しますか」
エミは、カウンターの片隅に佇む「ソレ」にちらりと視線を投げた。「ソレ」は今は電源を落とされ、瞬きもせずに立ち尽くしている。こうなるとただの人形と変わらない。
「ええ、お願いします」
エミはそう答えた。
「かしこまりました。では……」
店員はまるで音楽家がピアノを奏でるような手つきで、電卓を弾いた。
「本体価格と事務手数料、それと下取り廃棄手数料、あんしん保険をお付けしてこちらの金額になりますが、ただ今当店の十周年記念キャンペーン中ですので2%割引が適用になります。それと『3ねんdeおトク割』、『機種変更サンクス割』、シルバー会員割引とリチウムイオン電池リサイクル料を割引させて頂いて、お会計はこちらの金額になります」
店員は早口言葉のように捲し立て、エミに電卓の数字を見せた。
エミは手首に埋め込まれたICチップをレジカウンター上にかざし、会計を済ませた。店員は手早く読み取りを終えると、「ありがとうございました!」と、わざわざカウンターから出て来て深々と頭を下げた。
歩き出したエミに、たった今契約したばかりの「新機種」が優しく微笑みかけ、紳士的な態度で彼女の荷物を引き受ける。エミも思わず笑顔を返した。
(ちょっと高いから迷ったけど、思い切って機種変更して良かったなぁ。やっぱり最新機種だけあるよね、前のやつより若くてイケメンだし。ハズバンド型で一番人気だって店員さんも言ってたし、使いやすそう)
買い物に満足したエミは、新機種と共にショッピングモールの量販店を後にした。