砂時計
上から落ちるのは生の時間
下にたまっていくのは死の時間
上の砂が全部落ちたら死の時間
でもそれで終わりじゃない
全部死んだら またひっくり返せばいいんだ
そうしたらまた生の時間は動き始める
永遠に生は死で死は生でその繰り返し
だって 生の時間を落ちるのも死の時間にたまるのも
まったく同じ砂の粒なのだから
「ねえ、お母さん、何かお話して。」
「どのご本がいいの?」
病室の隅の棚に置いてある絵本を何冊か娘の亜里砂に見せた。でも、亜里砂は首を横に振る。
「それ全部読んだもん。ご本じゃなくて、お母さん何かお話つくってよ。」
確かに、見せた絵本はどれも3回は読み聞かせたことがある。亜里砂の入院は予定よりも長引いていて、付き添いの私が読み聞かせる本のレパートリーも底を突いていた。いつも面会時間になると、3階の病室に行く前に1階の売店で新しい絵本を買うのだけれど、もうその絵本も買い尽くして、病室の棚に売店とそっくりそのままの絵本コーナーができていた。
亜里砂の毎日は、検査とその検査の順番を待つ長い暇な時間がすべてで、唯一の楽しみが絵本だった。絵本を読んでいる間は、嫌な検査も忘れられるし、パジャマの代わりに純白のドレスを着ることだってできるし、自由に外を走り回って草花とたわむれることだってできた。小学校に通うことのできない亜里砂にとって、絵本の中の人たちは一緒に旅する仲間であり、ちいさな秘密を共有するような友達でもあった。
「じゃあ、お母さんが小さい頃におばあちゃんから聞いた不思議なお話をしようかな。聞きたい?」
「聞きたい!」
窓から差し込む夕日に染まる亜里砂の顔がパッと華やいで、その瞳の奥に輝かしい光が宿った。この顔だ。お話を始めたときだけ亜里砂は活き活きとした表情を見せてくれる。このときばかりは、私も娘が病気であることを忘れてしまう。
さて、こんなにかわいいい娘にお話をせがまれた私が思い出したのは、子供の頃に母がよく話してくれた昔話みたいな話。だけれど、はじまりの言葉は「むかし、むかし、あるところに」ではなくて、「昨日の昔か明日の先に」だった気がする。細かいところはうろ覚えで、でも、確か砂時計みたいに、なくなったらまたひっくり返す話だった。少し哀しい話だったかもしれない。何で今こんな話をしようと思ったのかよく分からないし、うまく話せる自信もない。でも、お話の中で私が迷子になったら、亜里砂がきっと希望の光へと導いてくれる。なぜか、哀しいだけの話にはならないという変な確信があった。私は、亜里砂の枕元にあるパイプ椅子に腰掛け、都会をすべてオレンジ色に染める夕日を背にしておごそかな口調で語り始めた。
昨日の昔か明日の先に、海の中にぽつんと浮かぶ、ちいさな島がありました。その島には、ちいさな村がありました。そこに住んでいる人は50人足らずで、みんな顔見知りです。仲良く畑を耕して、野菜をつくって暮らしていました。でも、村人の仲間はそれだけではありません。村の周りは、手つかずの森が広がっています。そこに住む木々たちは、小鳥や動物たちがパーティーをするための木の実をたわわに実らせます。そして、その木の実の分け前を人間もいただくのでした。人間たちは、動物たちとも仲良しです。動物たちは、よく村近くの川のほとりに出かけてきて、気持ちよさげに水浴びをしています。中でも、シカやシマウマたち、ウサギたちは常連で、たまにクマたちも遊びに来ます。森に十分すぎるほど豊かな食物が生い茂っていますから、誰も畑を荒らすことはありません。生きる者たちは、みんなこの川辺に集まって太陽の下で語らうのでした。この川の水は、森の奥深くからわき出たしずくたちが、一粒一粒集まって村のある平地を探検しながら、海に向かう途中でした。この島では、水のしずくたちまでもが語らいに参加するかのように歌い飛び跳ねます。
村人たちの家は、その川の下流にありました。家といっても寿命をまっとうした太い老木で造った丸太を組み合わせて、中にわらを敷いただけの簡単な小屋でした。でも、夜に寝に帰る分には事欠かないし、昼間は川辺で過ごしていましたからなんの問題もありませんでした。一番真ん中にある大きめの家は、村のオサとその奥さんの家でした。オサは腰が曲がって杖を突いているもののすこぶる元気で、「まだまだ若いもんには負けんぞ。」と言って前歯のない口をいっぱいに開けてガハガハ笑っています。彼のくちぐせは「よしよし、けっこうけっこう。」で、何があっても陽気に笑っていました。その笑顔はお天道様みたいに明るいので、村人は「おてんとじい」と呼んで慕っていました。おてんとじいは、毎朝必ず挨拶回りに出かけます。村人は朝早くから自分の畑に出ています。この村では、めいめいが担当の野菜を育てていて、収穫すると他の家にお互い配りに行きます。そして、村人たちはそれぞれの家ごとに担当している野菜の名前を屋号にして呼び合っていました。川の上流の方から順番に、ニンジンさんち、ジャガイモさんち、タマネギさんち、キュウリさんち、キャベツさんち、ナスさんち、ホウレンソウさんち、カボチャさんち、トマトさんち、コメさんちの10の家があって、それぞれだいたい4~6人くらいの家族が暮らしていました。おてんとじいは、この一つ一つの畑を見て回って、村人たちを「よしよし、けっこうけっこう。」としゃがれた声で労うのです。それから、おてんとじいは森深くに入っていきます。そして、森の最も奥深くにそびえる樹木のオサ、杉の木様の足下で、森の動物の代表であるバンビ、しま子、うさ吉、くま助の話に耳をかたむけて「よしよし、けっこうけっこう。」と笑うのです。この島の人間と森の生き物たちがこんなにも親しいのは、おてんとじいがその交流を欠かさないからなのでした。
この村には、もう一人絶対に忘れてはいけない人がいます。それは、おてんとじいの奥さんです。この奥さんは、村人から「月の方」と呼ばれています。太陽みたいに活発なおてんとじいとは対照的に、月の方はめったに外に出てきません。あまり社交的ではありませんが、村一の美人でスタイルもバツグンであることはこの村の人ならだれでも知っています。けれども、月の方はオサの奥さんだから、土いじりなんかしないで家にいられて肌が白いだけだと月の方をよく思わない人もいました。それでも、月の方の悪口を口に出して言う者はいませんでした。それは月の方が作るお菓子はおいしくて、月の方の作る薬は重宝したからです。月の方は、村人が持ってきた野菜や動物たちが集めてきた木の実を使って、よくケーキを作ります。中でもニンジンケーキは絶品でした。そのケーキはおてんとじいの朝の挨拶回りでよく村人や森の動物たちに振る舞われます。でも、毎日ではありません。月の方は難しい性格の持ち主で、機嫌がよくないとケーキを作りません。また、月の方はおてんとじいが森から持ち帰った薬草で薬も作りますが、これも機嫌がよいときだけでした。村で薬を作れるのは月の方だけです。だから、もし子どもが風邪を引いたり病気にかかったりしたときに月の方の薬がほしい人は、月の方を怒らせてはいけないのです。けれども、実際には村人が月の方を怒らせることはほとんどありませんでした。そうです。いつも地雷を踏むのは、他ならぬおてんとじいなのです。陽気なおてんとじいは、時間を守るのが苦手でした。といっても1分や2分遅れたからといって月の方は怒りません。おてんとじいは、昼には帰ると言っておいて日没近くまで帰ってこないことがよくありました。それから、月の方が持ってきてと頼んだ薬草を忘れてきたりもします。これでは月の方が怒るのも無理ありません。村人たちや動物たちは、おてんとじいが長居しそうになると「月の方が怒りますよ。」と言って帰るように促すのでした。いつの間にか、この「月の方が怒りますよ。」という文句は村中に広まって、お母さんが子どもをしかるときにも使われるようになりました。そのおかげで、子どもたちは月の方を恐れるようになってしまいました。子どもたちは、オサの家の前を通るときには背筋を正して静かに通るようになりました。その様子を家の中から眺めている月の方は、なんとも言えない複雑な表情をしていました。
けれども、今この島におてんとじいの陽気な笑い声や月の方のひっそりとたたずむ姿はありません。それどころか村人が一人、力なく横たわっているほか、命ある者の姿はどこにもありません。この村人は川の中流に住むナスの家の主、オーウェンです。オーウェンの妻はルカ、娘はエレナといいます。この村では珍しい3人家族、力を合わせてナスを育てていました。でも、その彼の家族も汗水流して働いた畑も、やはりどこにも見当たりません。この島は一面荒れた砂地がただただ広がり、もぎ取られたような木の根の跡がところどころに残っているだけです。この島に一体何が起きたというのでしょう。村人たちと豊かな自然はどこに消えたのでしょう。ナスのオーウェンは空っぽの大地に転がり、涙も涸れ果てた瞳で空を眺めながら、平和で活気あふれた村とそこに訪れた地獄の光景を思い出していました。
俺の精魂込めて育てていたナスは、女房のルカが一番好きな野菜でした。川の水で冷やすと生でも美味しいとルカはいつも言っていました。でも、幼いころのエレナは、ナスが好きではありませんでした。エレナにナスの美味しさを分かってもらおうと思ったルカが、月の方のところに相談に行ったことがありました。月の方はその相談に快く応じてくれてナスのゼリーを作ってくれました。そして、エレナと仲のいい動物たちも呼び集めて、ナスゼリーパーティーを開いてくれました。その日は、月の方も機嫌良くオサの家の前でゼリーを振る舞ってくれました。ナスの紫が、太陽の光を浴びて光っていました。エレナが一口ほおばって顔をほころばせたのをよく覚えています。そして、その顔を見たルカも月の方もほほえみました。そこにいたすべての者が朗らかな気持ちになった一日でした。それから、エレナはナスのとりこになって、誇らしく畑を耕すようになりました。そして、月の方とも仲良くなって、他の子どもたちがおそるおそる通り過ぎる中、エレナは堂々とオサの家に遊びに行くようになりました。「家内はエレナが遊びに来た日は機嫌がよくて、よしよし、けっこうけっこう。」と、おてんとじいが、いつだかの朝の挨拶で俺に話してくれたことがありました。
それもこれも今となっては遠い昔の話です。エレナも妻のルカも、おてんとじいも月の方も、村人たちも森の動物たちも、みんなみんなもういません。この島に今生きているのは俺、ナスのオーウェンただ一人なんです。
それは先週のことでした。今年は雨が全然降らなくて、畑はからからで川の水もひからびそうでした。こんなに雨が降らなかったことがあっただろうかと村人は不安がって、おてんとじいのもとに集まっては話し合っていました。俺の家のナスもひからびる寸前でした。森の動物たちからも、森の草花が枯れ始めていると知らせが入って、さすがに「よしよし、けっこうけっこう。」と笑っていられなくなったおてんとじいは、急に雨乞いをしようと言い出しました。困ったときの神頼みってやつです。でも、この島では神様なんて信じられていません。そもそも雨乞いをどうやってするのかみんな知りませんでした。それでもみんな、大の大人も一生懸命に踊り狂いました。俺もナスのために必死で踊り狂いました。それから3日後の昼下がりだったと思います。待ちに待った雨が降りました。でも、それは恵みの雨にはなりませんでした。雷を引き連れた土砂降りが3日間も休むことなく続いたのです。森の木々たちは根っこを広げて必死に踏ん張りました。でも、ついに限界が来て押し流されて俺たちの住む方に押し寄せてきました。おてんとじいを筆頭に、みんなみんな必死に逃げました。けれども、川の水は氾濫し、家は流され、村人も動物も次々に死んでいきました。妻も娘も俺の目の前で流されて……俺は何もできませんでした。この島に洪水が起こるなんて、だれも思いませんでした。俺は一人でひたすら逃げ回りました。ただ死ぬのが怖かったんです。涙が止まりませんでした。胸が苦しくてたまりませんでした。でも、その苦しさが、俺が生きていることの証明でした。森のてっぺんまで登り詰めて逃げ切ったと思って振り返ったとき、そこには誰もいませんでした。何もありませんでした。そこはむき出しの大地がむなしく広がる無人島でした。俺はわずかな望みを捨てずに生き残っている者が他にもいないか島中探し回りました。川の河口近くで隣のホウレンソウさんちの奥さんが亡くなっているのが見つかったので土に埋めてあげました。でも、それだけでした。良い知らせは一つもありません。逆に最悪なことがいくつかわかってきました。生き物がみんな流されてしまったわけで、植物も木の実も食べるものがありませんでした。さらに、森が亡くなって水は蓄えられずにすべて流れてしまって、ところどころで乾燥が進んで砂漠ができようとしていました。海の水も流された土砂で濁っていてとても飲めるものではありません。いたるところに死のにおいがします。俺は砂の上に寝転がって天を仰ぎました。もう涙も出ません。人は悲しみの底まで落ちると涙も出てこなくなることを俺は知りました。
「ああ・・・・・・、あの平和な生活は夢だったのかなあ。夢ってどっちが夢なんだ。これは悪夢、そう悪夢・・・・・・。でも現実なんだ。ああ、もうよくわかんねえよ。何もかももう戻らない。ああ、ここがあの川だった場所だなんて・・・。何でこんなことになっちまったんだろう。いや、知ってるんだ、何もかもこの目で見たんだから。エレナはもういない。いないんだ。まったく親不孝者だよ。エレナ、お父さんをおいて先に行かないでくれよ。エレナだけじゃない。なあ、ルカ、おまえも俺をおいていかないでくれよ。村のみんなもなんで先に行っちまうんだ。くま助も、うさ吉も、バンビも、しま子も、なんで俺をおいていくんだ。なんで俺一人生き残っちまったんだ。俺はどうしたらいいんだよー。誰か教えてくれよー。」
大声で叫んでみたけれど、俺の声は空っぽの空と大地にむなしく吸い込まれただけでした。腹が調子外れの音を鳴らしました。空腹で意識が遠のいていきます。どうやら俺ももうここで死ぬんだろうと思いました。
「エレナ…。」
一人、島の大地に横たわるナスのオーウェンのもとに、はるか空の彼方から突然甘く心に響くような女性の歌声が聞こえました。
「我、告げし者、我告げし者。天より出でて伝えし者。終わりははじまり、終わりははじまり、いつの世も、終わりははじまり、終わりははじまり、いつの世も。今こそ扉を開きし時、今こそ扉を開きし時。」
見上げると、神々しい光をたたえた白鳥が高らかに歌いながらオーウェンのそばに舞い降りてくるところでした。彼はついにお迎えが来たのだと思いました。でも、それにしては白鳥の動きが変です。白鳥はまぶしいほどの光を辺りに振りまきながら何か力んでいるように見えます。しばらくして白鳥は1個の大きな金の卵を産みました。そして、自らの仕事に満足したかのように達成感を漂わせつつ、空へと舞い戻っていきました。
オーウェンは意識がもうろうとして何も考えられないまま卵を手に取りました。おそらく、白鳥の歌声もちゃんと聞き取れていなかったことでしょう。彼が卵を手に取ると、また不思議なことが起こりました。卵の表面に小さな穴が開き、そこから少しの水がしみ出してきたのです。彼はなんの迷いもなくその水を飲みました。すると、また少しの水が出てきます。こうして彼はのどの渇きが癒えるまで水を飲み続けました。のどが潤ってひとまず死から逃れられると、今度は盛大にお腹が鳴りました。すると、その音を合図に卵の口がもう少し開いて、中からプリンが出てきました。ご丁寧にスプーン付きです。彼は空腹のあまり一瞬でそのプリンを平らげました。そして、彼が一息つくと、オーウェンが一番聞きたかった声が卵から聞こえました。
「お父さーん。」
それは、死んだはずの娘エレナの声でした。オーウェンは耳を疑い、ようやく不思議なことの連続に気がつきました。
「お父さん、聞こえる?」
「ああ。エレナ、無事なのか?どこにいるんだ?ルカは?みんなは?この卵はなんなんだ?」
「もう、お父さん落ち着いて、順番に話すから。えっとね、無事って言うのかわかんないけど、みんな死んでるんだけど、みんな元気なの。お母さんも一緒にいるよ。島の地下にみんないるの。動物たちもみんな元気。でも、ここは時間が止まっているみたいに何も育たないし、新しいものは何も生まれないの。死んでるから食べ物には困らないんだけど寂しいところなの。しばらくそこにいたらね、上の方から白鳥が飛んできたの。お父さんのところにも飛んできた白鳥ね、それで、生き返ってお父さんに会いたくないかって白鳥が聞くから、あたし会いたいって言ったの。そしたら、白鳥は他のみんなにも生き返りたいかって聞いたの。そしたら、みんなうなずいたの。そしたら、白鳥はこう言ったの。よく聞いてね。今生きているのはオーウェンだけ。彼に伝えなさい。彼にはあなた方を生き返らせることができる。彼に森の一番奥にそびえていた杉の木様の根元近くの扉を探させなさい。その扉を彼が開けば、あなた方は生き返れます。でも、急ぎなさい。杉の木様の根っこが完全に朽ちてしまえば、その扉は開きません。さあ、私があなた方とオーウェンとをつなぐ卵を彼に届けましょう。彼を応援するのです。さあ、この聖なる卵で何か美味しいものをつくりなさい。きっと彼の力になりますから。って白鳥は言って飛んでいったの。お父さん、わかった?扉を探して。おてんとじいが雨乞いをしたことをずっと後悔していて、最近笑わなくなっちゃったの。また生き返ったらみんなで畑やって、あたしはお父さんとお母さんとナス作って。そしたらまた、おてんとじい笑うかなあ。」
「きっと、笑うよ。わかった。お父さん、扉を探すから。」
「お願いね。あっ、さっきのプリンちゃんと味わってくれた?ずいぶん食べるの早かったよね?あたしとお母さんと月の方とが白鳥からもらった卵で作ったの。」
「美味しかったよ。元気が出た。エレナありがとな。」
こうして、俺はエレナがくれた希望を胸に扉を探して歩き始めました。
「亜里砂、今日はここまでね。もうお母さん帰らなきゃ。ちょっとかなしいお話だったかな。」
「かなしいお話じゃないよ。オーウェンがみんなを助けてくれるんだから。もう少し聞きたいな。扉は見つかったの?」
「さあ、どうかな?」
「砂時計みたいな話なんでしょ?だったら扉を開いてひっくり返さなきゃ。」
亜里砂の中で、この物語は希望の物語として映っていたみたいだ。私は少し安心した。だが、実をいうと、私は話の途中から亜里砂の頭の中をのぞきながら話しているような不思議な感覚がしていた。ナスのゼリーを作った話も、打ちひしがれたオーウェンの心情も、卵の中からプリンが出てくる場面も、私の母から聞いた覚えはないのだから。亜里砂は初めて聞いた話のはずなのに、私が話す半歩前がみえていて、無言のうちにその光景を私にみせてくれているような気がずっとしていた。そして、私はふと思う。砂時計みたいに絶望から希望へ転じる話だと、声に出して亜里砂に話したっけ?と。
「亜里砂は鋭いね。また明日お話しようね。今日はもう寝ないと、明日も検査あるでしょ?」
「うん。」
検査という言葉を耳にした亜里砂は現実に引き戻されて、その顔に一瞬だけ暗い影をのぞかせた。でも、すぐに影を心のポケットにしまい込んで、私の顔をじっと見た。
「おやすみ、お母さん。」
面会時間終了を告げるチャイムが鳴った。
「おやすみなさい。」
私は笑顔をつくって、そっと亜里砂の蒲団を直して病室を出た。
つづく