【2】泉視点
気だるい五限を終え、放課後。
研究室に寄ると兄さんはおらず、玲さんだけが残っていた。
夏至は過ぎたが、まだ落日には遠い。
窓辺で光を浴びながらこちらを振り返る白衣姿は寂しそうで、美しく。
兄さんの所在を訊くと、そのままの意味での深窓の令嬢はさも気にしていないかのように、失恋の意を口にする。
実際、それほど気にしていないのだろう。
玲さんの兄さんへの気持ちは年々、おぼろげで曖昧なものになっている。
気にしていることがあるとすれば、俺がどう反応するか。
大人になっても続く関係だからこそ、どこまで甘えていいのか分かりかね、気遣っている。
でも、もっと落ち込んでくれていい。心配をかけてくれていい。
だから兄さんをずっと――いっそ一生、盲目的に好きでいてくれと思う。
俺以外の二人が高二に上がったとき、三人の中で初めて、兄さんに彼女ができた。
意外というわけではなかったが、玲さんじゃダメなのか、と思った。
玲さん本人は自覚していなかったかもしれないが、玲さんは昔から、兄さんのことが好きだったのだ。
俺たち兄弟で玲さんの、そういった話をしたことはない。
でも代わりに、兄さんから「彼女ができた」と聞かされて。
次の日に玲さんの、諦めの混じった切ない表情を見て。中二の俺に芽生えたのは焦りだった。だから、
「兄さんのことが好きなんでしょう。応援、しますよ」
そう言って、彼女を糸でくくった。
素直でものわかりのいい玲さんは、気付いた恋心にそっと蓋をして、忘れるつもりだっただろう。
自然に始まって終わる恋もあると、綺麗に諦めて、いずれは他に目を向けて。
そんなことはさせられなかった。
「男女の仲なんて一瞬ですよ。諦めるなんて勿体ない」
いつか玲さんの想いに気付いてくれるだろうから、一緒に追いかけましょう、と。
今よりもずっと幼い自分が言った言葉だが、その気持ちはなおも変わらない。
あれから八年。俺は何度も何度も玲さんを励ましては、兄さんへと背を押している。
諦められては困るのだ。
玲さんが兄さんから目を逸らせば、俺だって視界に入らなくなる。
だから俺は、玲さんが離れていかないように、隣でそっと手を伸ばして。
その向きを兄さんへと正してやる。
今晩は失恋を引きずる玲さんを慰めなければと、カジュアルジャケットからスマートフォンを取り出す。
和食かイタリアンか。たまには軽いフレンチもいいなと思案しつつ、昨日できた彼女に断りの連絡を入れて、玲さんとも会話して。
自分は他人の心の機微に聡いほうだ。
それは相手が玲さんならばなおさらで、事実、本人よりも先に兄さんへの恋心に気付いている。
もちろん、それからの気持ちの変化だって知らないわけじゃない。
でも、それでも。
玲さんもまだ、この失恋ごっこに付き合ってくれるらしい。
メールの送信後に顔を上げれば、玲さんは白衣を脱いでいた。
シンプルで上品なブラウスとパンツの組み合わせに、やはりフレンチにしようと脳内で決定する。
「仮に泉の言う通りになったら、私が義理の姉になるわけだけど。私でいいの?」
「ええ」
全く知らない男のものになるくらいなら。
「いつか義姉さんって、呼ばせてくださいよ」
趣味全開でお送りしました。
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