【1】玲視点
金曜日、午後六時。
研究室にゆるゆると入っていた風が、わずかに涼を含みはじめる。
盛夏に火照った肌には嬉しいけれど、それで心も少しは凪ぐかと言われれば、そうでもなく。
授業を終えた学生たちの若々しい声が聞こえてくる。
ふと気になって窓の外を見やると同時に、入り口でドアノブが回る音がした。
「終わったら連絡ちょうだいね、泉くん」
「ああ。USBにデータ移すだけだから」
「玄関で待ってる」
背後で囁かれるやり取りに振り返ると、開いたドアの前で視線を交わす一組の男女が目に入った。
ここに卒業研究に来ている泉と、女子の方は今日初めて見る子だった。
泉に向かって朗らかに笑う彼女の、デイジー柄のミニワンピースが眩しい。甘い彩色をなびかせ、彼女だけが部屋を通り過ぎると、泉は軽く見送ってからドアを閉めた。
「玲さん、お疲れ様です。兄さんは?」
「葵なら五時には帰ったわよ。……彼女の誕生日、なんですって」
できるだけ含みを持たせないように言ってみたものの、それを聞いた泉は「あちゃー」と言わんばかりに眉根を寄せ、前髪をかきあげた。
「大丈夫ですよ。今回はちょっと、長いですけど」
「そういう泉は相変わらず短いわね?」
週明けと違う子。
そう言ってからかうように半目をつくると、泉は気まずくなるでもなく、真っ直ぐに視線を返してくる。
「先日の子にはふられたんですよ。さっきの子は昨日から――なんというか、成り行きで」
それは実にあっけらかんとした口調で。
来る者拒まず、去る者追わず。いずれにせよ、相手そのものに興味はないのだろう。
「……この女泣かせ」
「みんな向こうからなんですけどねー。正直、責められる理由が分かりません」
嘘を付け、と思う。
泉が他人の心の機微に聡いのは昔から。
それは幼馴染の私がよく知っている。
「兄さんのことが好きなんでしょう。応援、しますよ」
泉にそう言われたのは私が高二のとき。
葵への恋心を自覚して、すぐのことだった。
同い年の葵と、その弟で三つ年下の泉。
彼ら兄弟とは家が近く、小学校に入る前からよく遊んでいた。
幼い頃の縁は切れず、高校や大学、はては研究室まで同じとくれば自分でもいい加減、とは考える。
腐れ縁ではない。そう呼ぶには、少々積極的が過ぎるのだ。
私と――この場合は泉もだろう。
嗜好が似ていて、志した道が三人同じだったことは本当だ。
でも、そこに下心が全くなかったと言えば嘘になるわけで。
「もうとっくに今日の研究分、終わってるんでしょう。飲みに行きません?」
「さっきの子はどうしたの。待たせてるんでしょ」
「明日にずらしてもらいます」
その言葉に罪悪感などは微塵もなく。
軽いタッチでスマートフォンを弄り出した泉に、だから長続きしないのだと思わず溜息が出る。
本人も分かっててやっているだろうから余計タチが悪い。
そして、それをたしなめる言葉を口にせず、白衣を脱ぎやる私も、きっと。
「仮に。私が葵を諦めたら、泉はがっかりするんでしょうね」
「……玲さんの一途なところには、昔から好感を持ってますけどね」
泉はいつも手を変え品を変え、永年失恋中の私を励ましてくれる。
感傷の味はいつしか薄れていて、沁みるのは泉の隣の、居心地の良さばかり。
こんなものを失恋と呼べるのかどうか、もう自分だって分かっていない。
でも、それでも。
泉を気落ちさせたくなくて、私は一途のふりをする。
「いつか義姉さんって、呼ばせてくださいよ」
とっくの昔に終わった恋。
すでに塞がった傷跡は、なおも優しく舐め続けられて。
そうして与えられる甘い余韻から抜け出せずに、私はただ無気力に――惰性的に、なにかにとらわれている。