彼はなぜ妖怪を愛するのか?
京都の街に来て初めての夏。聞きしに勝る夏の暑さに辟易しながら、人の波を躱して歩く。
大学からの帰り道で考える。
かの文豪は言った。
「京都に住もうと思つたのは、京都といふ町に特に意味があるためではなかつた。」と。
自分も同じく、大学に通うためという以外に京都の町で暮らす理由はなかった。小説や映画に憧れてた訳でもなかったし、文化的な遺産への興味も人並み以下であった。
親元を離れたくて、半分逃げるようにこっちへ越してきただけだった。
右京区の閑静な住宅街の一角、古びたアパート、メゾン・ド・カープの101号室はそんな僕の無味無臭さを表した閑散とした部屋になるはずだった。
少なくとも大学の入学当初はそう思っていた。
鍵を開け、ドアを引き、玄関を見回す。そこに一つ、目に留まるものがあった。
「おい卒塔婆を玄関に立て掛けるんじゃない。」
他人が聞いていれば、耳を疑うような言葉の組み合わせだが、現に卒塔婆が玄関に立て掛けてあったので注意しただけだ。
「一昨日からそこにあるでしょ?」
リビングから出てきた女性は、壁にもたれながら無遠慮に欠伸をしてずるずると洗面台の方へ消えていった。
彼女は葉山夏樹という。「ゴーストバスター」ときな臭い肩書きを持つ彼女は、しばしば我が家に不法侵入し、曰く付きの遺品や仕事道具(いかにもな御札から本格的な工具まで様々)を持って来ては置いて帰るを繰り返している。
彼女が言うには、文化的にも機能的にも優れた霊的アイテムなのだとか。しかしその有難い品々も、家に置かれている間は粗大ゴミと同列でしかないので、自分としては片っ端から処分したいところだ。
「それよりスーツなんか着てどうしたんですか?」
先程から気になっていたので夏樹さんの私物、もとい粗大ゴミの片付けをしながら聞いてみる。常にジーパンとシャツで大学生みたいな格好をしている彼女がスーツを着ているところなんて初めて見る。
「ああ、ちょっと集まりに顔出して来たんだ。」
洗面台の方から返事がかえってくる。
「香織さんに呼ばれてたやつですか?」
「別に呼ばれてたわけじゃ無いんだけどね。気になることがあったから行ってきただけ。」
「鞍馬のところは誰が来てましたか?」
すこしだけ間があいて洗面台から夏樹さんが出てくる。
「ちゃんと十代目が来てたよ。それとこれ。」
夏樹さんから茶封筒を受け取る。
「もしかしてお給料ですか」
珍しいこともあるものだと、皮肉っぽく言う。
「おいおい、バイトなんだから給料ぐらい出るだろ。」
夏樹さんがキョトンとした顔で答える。
「三か月ぶりですけどね。」
「うちは出来高払いなの、それより電話みたいよ。」
夏樹さんが指さす先では、確かに赤色のスマートフォンが着信を表示していたが、直ぐに消える。
「帰るときは鍵掛けていって下さいよ。」
そう釘をさしてマートフォンを手に取り、再び街に出る。
「若いっていいわねェ。」
夏樹さんのやけに小母さん臭い声が聞こえた気がした。
仁和寺の方向に向かって歩き出した僕は、並木の葉桜を目にとめ立ち止まった。
青々と茂る葉桜たちはこの暑い京都の街に慣れているみたいで、ただ涼しげに葉を揺らしている。
その木影を通る時、僕はこの街に来た頃のことを思い出していた。