女神の過ぎた贈り物 9
第八章 巴戦
日根通りの並木の桜が、そろそろ散り始めていた。気温も高くなり、木々の香りが春から夏へ移ろうとしている。とは言え、まだ朝はそれなりに涼しかった。
一週間ぶりに開かれた御中門の前、少ない交通量の国道にも、それなりに車を見るようになる頃、一人の女生徒がキャリングカートを引きながら外出しようとしていた。
「平日なのに外出?」
御中門の柱の影から現れた由を認めて、桃沙は足を止めた。目を細めて由を見る桃沙。
「それはすごく危険なものなんだ」
由はキャリングカートに積まれた紅いジュラルミンケースを指差した。
「知ってる」
由を前に惚ける素振りも見せない。由一人位どうとでも出来るという自信か。
「何故!?」
知っていながら何故そんなことをするのか。色めき立つ由。
「仕事だから」
対照的に、クールに桃沙は答えた。
「大惨事になるかも知れないんだよっ!」
薄く笑う桃沙。
その笑みを由は知っていた。分かっている。全て分かっていて、それでもやろうとしている。どれ程の犠牲を、損害を出そうとも。たとえそれが桃沙自身の命であっても、彼女は仕事を完遂させるだろう。
彼女を止めるには、己の行動で立ちはだかるしかない。金、権力、情、他の何物も彼女を止めることは出来ない。
心の奥底から冷え込むような笑み。世界に唯一人となってもやり遂げようとする冷厳な意思。
足が竦む。何という人間と対峙しているんだ、ぼくは。
だが。
由は一歩。
いや半歩。
踏み出していた。
「そう……」
意を決っしてジュラルミンケースに飛び掛る由。
「それが答えね」
桃沙はキャリングカートを引き寄せてあっさりかわすと、由を蹴り飛ばした。
重い衝撃が全身に響き渡る。が、立ち上がる由。
今度は桃沙に向かって掴み掛かる。瞬間、掌底を突き上げられた。続けざま半回転して肘打ち、最後に足をすくわれて転倒させられた。
止めがくる!
だが由の予想を裏切って、それは来なかった。仰向けに倒れた視界の隅に、遠ざかろうとする桃沙の姿が映った。何の気まぐれか、彼女は敵対した由を痛め付けただけにしておいたのだ。或いは相手にもされなかっただけなのか。
無力な自分に、憎悪にも似た悔しさがこみ上げてくる。切れた口の中で血の渋さが広がった。
「動かないでっ!」
立ち去ろうとした桃沙に銃を突きつける者が現れた。由の反対側、柵と植え込みに立ち並ぶ桜の死角から、幸が樹に寄り掛かる様にしてグロック19をポイントしていた。明らかに本調子からは程遠い様子だ。が、銃口だけはピタリと動かない。
「外街……」
「相手が貴方でも、この距離なら外さない」
「そうね」
だがセリフとは裏腹に隙を狙っている。
「そのまま振り向かないようにね、拍さん」
由がやっと気が付いたT・Cの正体を、幸はとっくに気付いていたのだ。
そしてもう一人、また別の声が掛けられた。
「以下同文、敬称略」
由は首だけ動かして後ろをを見た。いつの間にか小館が立っていた。両手に愛用のパイロットジャケットを掛けて隠しているが、グロック26を向けていることが分かる。
「外街程じゃあないけどね」
「そういうこと……」
妙にあっさりと桃沙は諦めた様だった。キャリングカートから手を離し、よろけながら立ち上がった由に渡す。
「二つ聞いていい?」
離れ際、由に質問する。
「私は、どうなるの?」
由は戸惑った。そんなことは考えてもいなかったからだ。ペイレーネユニットを取り返すことしか頭になかった。が、それは当たり前の質問だ。今目の前に立つのは唯の高校生ではない。数々の修羅場を潜り抜けてきたプロ中のプロなのだ。
拘束した方が良いのだろうか?
だが由は首を振った。自分が何をした所で、彼女は平然と突破するだろう。
幸と小館を見る。
幸は、「由ちゃんに任せる」といい、小館は肩をすくめて同意した。
桃沙は引いてくれようとしている。プレッシャーに強い彼女を無闇に奮い立たせることはない。
「何も。それを取り戻したいだけ、それだけ」
「そう」
桃沙は二つ目の質問をした。
「もう一つ、バッテリーはどうするの?」
由は笑った。良い笑顔だった。
「残念だろうけど、オーウェル博士が環境に優しく処理してくれるよ」
ふっと息を吐く由。それが隙になった。
桃沙は一瞬で間合いを詰めると、由を後ろ手に固め、懐から取り出したワルサーP99でこめかみにポイントした。その間〇.二秒。瞬く間の早業に、幸も小館も反応出来なかった。あの時よりもはるかに速い。身体能力の次元の違いに二人は戦慄した。
理解が遅れ、やっと青ざめる由。しかし桃沙が本気ではないことはすぐに分かった。本気ならとっくに射殺されている。
幸と小館は、しかし銃を構えたまま動かない。動けない。
ゆっくりと慎重に離れようとする由。その細いあごを、桃沙はくっと持ち上げた。
「この意味が分かるわよね、貴方なら」
引くのは一度だけ、二度目はない。答えようとして、でも声にならない。それでも無意識に体重が右の足に掛かる。何時でもペイレーネユニットを確保出来るように。
「迷ってる。でも面白いわ、貴方」
そう呟くと、桃沙は唇を重ねた。
種類の違う緊張に体を固くする由。
幸の瞳に暗い炎が灯る。
永く短く。
由から離れると、桃沙は振り返りもせずに外へ消えていった。
由は暫く呆けた様に立ち尽くしていたが、頬の痛みに我に返った。幸が爪を立ててつねっていたのだ。その幸は厳しい表情をで桃沙の消えた方を睨みつけていた。
「これ、彼女の気が変わらないうちに、とっととやっつけてもらおうね」
今度こそ、本当に終わったようだ。由はカートを引きずると、明るい声で二人にいった。
足元で散った桜の花弁が風に舞っている。その中を足取りを確かめながら、由は二人と大学に向かった。