女神の過ぎた贈り物 5
第四章 藍月
「ばかもんっ!」
路からの知らせを受けて駆けつけたオーウェルは、無事を確認して胸を撫で下ろすと、辺りをはばからずに一喝した。それだけではおさまらないのか、ベッドから起き上がっていた二人を前に延々と説教が続けられる。
英語日本語ごちゃ混ぜになって意味はわからないが、自分たちの身を案じ、本気で怒っている事がひしひしと伝わって来て、由は怒られているのに何だか嬉しかった。
二人は奇跡的に打ち身とかすり傷程度で済んだが、様子を診ると言う事で、総合病院並みに設備の整った医務部のベットルームで一泊する事になっていた。
ちらりと、隣の幸を見る。悲しげに、だがベットにいながらも背筋を伸ばして、オーウェルの言葉を聴いている。耐えている。いや、何かと葛藤している。そんな風に由には観えた。
「戦闘部隊と戦うなど、二度とせんでくれ。THORは壊れても直せる。が、人間はそうはいかん。若い者が命を落とすのは、もう耐えられんのだ」
オーウェルが言葉を詰まらせた。
「済みません……」
由は猛烈な罪悪感に襲われて、頭を下げていた。
「申し訳ありませんでした」
幸も深々と頭を下げた。
「だが、THORを奪われずに済んだ事には感謝しとる。ありがとう、おかげで大変な事にならずに済んだよ」
オーウェルは表情をゆるめると、二人に礼を言った。
「あの……」
由は聞くか聞くまいか迷った後、持ち続けていた疑問を口にした。
「あの工作部隊、学校からTHORを盗み出すのに銃まで持ち込んでいました。まるで軍事機密を略奪するように」
「いやそうではない、が」
オーウェルは考えを巡らせると、付き添っていた路を見た。路は小さくうなずく。
「一応の事なら」
「そうだな、ある程度までは知る権利が君たちにはあるな」
オーウェルは改めて二人に向き直ると、極力専門用語を使わないように話し始めた。
「モータについて、君たちはどの位いの知識があるかね?」
「物理の授業で習った事くらいです」
由が答えた。幸は黙って聞いている。
「現在、エレクトリック・ビーグル(EV)に使われているモータは、大雑把に分けて三種類ある。直流分巻き型、交流誘導型、交流同期型だ」
医務室が、何か重要な講義を行う講義室のような雰囲気になった。
「モータの構造は大体わかるかな? ラジコンに使われている物と大差はない」
オーウェルは講義をしている時のように、二人の前を行ったり来たりしながら話す。
「簡単に言うと、回転させられる軸があり、それには磁界を発生させるコイルが取り付けられ、それを、これもまた、磁界を発生させるコイルが巻かれている外枠が取り囲んでおって、それらに電流を通し、反発・吸引によって軸を回転させる。回転させる軸のコイルと、囲むコイルを直列につないだものが直巻き、並列につないだのが分巻きだ。これは直流モータだな。誘導型は、コイルに相当する磁界源を電磁石で作り、同期型は永久磁石で作る。この二つは交流モータだ。このうち有望視されとるのが交流同期モータだ。理由は《最も効率がいいから》、これに尽きる。ここまでは良いかな?」
「はい、大体は」
ここまでは教科書やテレビ、新聞での知識で何とかわかる。
「だが何れも、根本的な問題は解決できておらん。材質の内部抵抗により発生する熱損だ。だが、これを限りなくゼロ近づける技術がある」
そこでオーウェルは言葉を切った、暗に答えを求めるように。
「超電導、ですか?」
そう答えた幸の瞳に、軽い驚きの光が広がっていた。
「そうだ。だがこれにも問題がある」
「温度……」
オーウェルはうなずいた。
「超電導。つまり、内部の電気抵抗がゼロになる現象は材質にもよるが、セ氏マイナス一四三度以下の極低温で起こるとされていた」
今度こそ本当に、幸の大きな瞳が更に大きく見開かれる。
「常温で実現したのですかっ」
「そうだ。C60(フラーレン)と言う、大型炭素クラスターの応用でな」
「……どうなるの?」
由が幸に、ささやくように聞く。世界の頭脳と学年トップの頭脳、その二つと自分を比較するのもバカバカしいが、ひどくデキの悪い生徒になったような気がして羞恥心が刺激される。
「エネルギー効率が、最大一〇パーセントも上がるの。そうなれば、エネルギー問題、環境問題、それらに関わりのあるもの全てが解決される」
まだ、今一つ由にはピンと来ない。
「そうね、例えば車。世界中のエンジンがモータに置き換えられたら、それだけで地球温暖化や排ガスでの環境汚染が解決してしまうわね」
「それって、世紀の大発明になるんじゃあ……」
目と口を見開いて驚く由を見て、オーウェルは笑った。
「それはいささか大げさな表現だが、それに近いものはあるだろうな」
だがすぐに、怒りとも悲しみともつかない影で瞳を曇らせると、つぶやくように言った。
「だが、それを狙う輩が現れる。なまじ警戒を厳重にすると、逆に狙われ易くなると思い、大和高校へ持ち込んだのだが……」
オーウェルに見られて、路は肩をすくめた。
「まさかそんなものが、何の変哲もない高校の資材倉庫に置かれているとは、誰も思わないだろうと博士がね。で、俺も同意したんだが、この有様さ」
「あの手のハイエナどもは、どこからでも情報を嗅ぎ付けて来て湧いて来る。今回の事でよくわかった。研究の自由度が損なわれないようにとフリーに近い警備体制にしていたが、やはりキッチリとしたガードが必要だとな」
そこで突然、オーウェルが二人に頭を下げた。
「君たちにも迷惑をかけた、すまなかった」
由はうろたえてしまった。ひどく罰当たりな事をさせているような気がする。
「とんでもありません」
さすがに幸も恐縮する。
迷ったものの、どうしても気になって由は恐る恐る聞いてみた。
「THOR はどうなるのでしょうか」
「すまないが、ここからは君たちにも言えないんだ。また一般人を巻き込む事態は、絶対に避けなければならないからね。博士」
時計を見た路が、オーウェルをうながした。
「安心してくれ、利益しか頭にないような連中には、絶対に渡さん」
そして去り際に、「またまた妙案が浮かんでな」と悪戯っ子のように笑いながら、ベットルームを出て行った。
それがあまりにもオーウェルらしかったので、由は思わず吹き出してしまった。ふと、幸を見ると。
絵画のように少しうつむきながら、憂いを秘めた瞳の奥で、オーウェルの言った事について思案しているようだった。
前々から感じていた幸に対する疑念が、急速に形になって行った。
翌日、医務室から開放された由は、すぐには講義に出席しなかった。生まれて始めて。しかも、あまりに多くの事を一挙に経験したので、頭も心も整理がつかないからだった。
由は一週間の休学届けを出すと、実家のある八葉市に戻っていた。
市の中心にある市立博物館。おそらく当時の市長の思いつきでデザインされた、ギリシャ風の本館。レプリカの粘土板やレリーフが展示されたシュメール文明のコーナーに、由の姿があった。
小さい時から由は、よくここに来ていた。父の書斎で見つけた本の、興味を惹かれた遺物を実際に見てみたいと思った時、よくここに来て展示物を見ていた。もちろん、半分以上は実物ではないが、精巧に作られたレプリカは、十分に雰囲気を伝えてくれた。
でも今、それらが入れられた展示棚の前に立つ由は、ぼんやりとした目を向けていた。時間が経つにつれて、あの時の記憶が呼び起こされ、恐怖心と妙な高揚感が広がって来る。
何に巻き込まれたのか、何をしてしまったのか。ただの高校生が、銃を手にした工作部隊と渡り合うなど正気とは思えない。
でも、そこに何かがあるように思える。
でも、それが何なのか、今の由にはわからない。
ルームメイトの、深く美しい横顔が脳裏に浮ぶ。ここにいながら、別の世界で生きているような幸。そこには自分の求めるものがあるかも知れない。
そんな思いに囚われてしまう自分は、どうかしてるんじゃあないのか? とも思う。でも、頭から離れない。
戦闘の事ではない。THORの事でもない。幸そのものの事でもない。
日常の中にはない。
自分の中にある衝動を、形にできるところ。幸を通して、そういう世界が見えたような気がする。
唐突に、父の友人だった風変わりな探険家の言葉を思い出した。
中学生の時、ドキュメンタリー番組を見て、シルクロードを旅したいと考え、相談してみた事があった。学校や費用の事を考えると、悩んでしまう。どうすれば良いのか? そう由が言うと、その探 検家は由の目を真っ直ぐに見て答えた。
「本当にそんな事を思っているのかな? 本気で思っているなら、悩んだり考え込んだりする前に行動しているはずだよ。理由があるからやるとか、ないからやらないとかじゃあない。やっているんだよ。一も二もなくやっている。そう言うもんじゃあないのかな。どうすれば良いのかなんて、本気で物事に取り組んでいない奴のセリフだと俺は思うぜ」
THORに飛び乗った。幸の背に、夢中でしがみついていた。気がついたらそうしていた。逃げ出せば済んだのに、そんな事は考えもしなかった。そうしたい、そうしなければと思う前に、体が動いていた。
自分がそんな無茶な事をする奴だと、初めて知った。自分が自分を知らなかった。その衝撃に打ちのめされていた。わからなくなった。自分も、自分の信じていたものも。
ただ。
幸の、鋭い瞳の煌きと、「乗って!」と叫んで差し出された手だけが、強烈に、はっきりと脳裏に焼きついている。
古代の人物画を浮き彫りにしたレリーフが収められた展示棚。その前の手すりを掴む手に、知らず力が入っていた。ふざけながらそばを通った子供が、接触して行った事にも気付かない。今更ながら見たレリーフの人物画は、ただ黙ったまま由を見詰め返している。
急に由は、レリーフに触れてみたい衝動に駆られて、手を伸ばした。冷やりとした透明アクリルの感触に遮られる。
――割ってしまおうか。
それはやってはいけない、やれないはずの事だった。でも、そうしなければレリーフには届かない。しばらく触っていたら、警備員に注意されてしまった。
立ち去る前、由はもう一度レリーフを見た。触れてもいないのに、感触が指先に残っているように思えた。
JR八王子駅周辺から伸びる国道一六六号線。それを北へ数キロ上ると、遠くからでもわかる真っ白いビルがあった。五階建てで、二~三階がインターネットカフェになっている。この辺は大学が多いので、店内は学生の姿が目立つ。
「幸ちゃん、久しぶりだねぇー」
入って来た幸を見つけるなり、店長の速水がどんな時でも変わらないのんびりした声をかけて来た。
幸はここをよく利用していて、速水とは顔なじみだった。先に料金を支払うと、速水に顔を寄せる。
「あの画像ファイル、どうでした?」
速水は、目にかかりそうなくらい長い前髪をかきあげると、にっこりと笑ってVサインを出した。
「最っ高ぉー」
三〇才独身、元自衛官の隠れた趣味については、各自想像して欲しい。
答えた速水は、何かに気付いたようにじっと幸を見詰めると、小首を傾げた。
「どうかしました?」
見詰め返す幸。
「ううん。何かかるーく失恋でもしたのかなーって思ったの」
幸は視線をそらすと、「今更そんなの」とつぶやいてカウンターを通り過ぎて行った。
二階の窓側、丸テーブルを仕切って置かれたパソコンの前に、漆黒の艶やかなストレートヘアに、赤いベレー帽を乗せた幸が座る。
白いブラウス、赤いベスト、赤いチェックのロングスカート。黒い編み上げのブーツは軽く組まれている。近くにいた客たちから嫉妬と羨望、欲望の眼差しを向けられるが、気にせずキーボードをたたいてあるホームページを開いた。
〈BACK TEMPLE〉と言うそのホームページは、このままでは教会をテーマにした個人サイトに過ぎない。
幸は腕時計を見た。軽量型のドイツ製。スイスの影響を受け、数々のグランプリに輝く名品を生み出した工房、クロノスイスの一品だった。いくつもの文字盤が組み合わされ、日本時、世界標準時、月の満ち欠けなどがわかるようになっている。
年・月・日・時・分・秒を二回づつ書き込み、腕時計の秒針が〇秒を指すのに合わせてエンターキーを押す。教会の画像をアレンジしたページの画面が消えた。
すると――。
消えたままだった。ただ黒い画面が映っているだけ。
幸はカーソルが点滅するだけの画面に、構わず自分だけが知っているパスワードを入力し、質問を書き込んだ。
〈Q/紅いショットガン、もしくはそれを使っている者の情報〉
途端にデータ表示された。
このサイトこそは、ある特殊な仕事を生業とする者たちだけに、アクセスを許された情報提供用のホームページだった。
幸はデータに目を通したが、既に知っているものばかりだった。だが、最後の一文に目が吸い寄せられる。
〈――TENDER CRIMSONは現在、協会の依頼により活動中。コンタクト不可能〉
――協会が?
この事件は、予想以上に奥が深いかも知れない。幸の鋭利な感が、そう告げていた。
一週間後、由は実家から直接学校に行った。講義室に顔を出し、姿のない幸の事をクラスメイトに聞くと、あれ以来幸も休みがちになっているとの事だった。
もし来たら、放課後総合校舎G棟の屋上へ来るよう伝えて欲しいと頼んで、由は屋上に向かう。
総合校舎は主要五科目などの一般講義を行うところで、G棟はF棟、H棟と並んで学内西地区では最も高い建築物だった。地上二〇階、地下三階。ゴシック風の装飾が施された、高層ビルと言ってもいい建物だった。
屋上広場、尖塔と尖塔の間から由は学内を眺めていた。不思議と、こうしていると落ち着く。
何時間経っただろうか、空が暗くなり始めている。
依然として混乱している頭の中は少しも整理できていない。疑問は膨れて行くばかりだ。ただ時間が経って、自分がそういう状態だとわかるくらいには落ち着いて来ている。
ざっと、強めの風が吹く。
手摺の向こうへ飛び出すような感覚に襲われ、少し足が震えた。
――でも、嫌いじゃあない、この感覚。
「由ちゃん」
後ろから声をかけられ、振り返る。硬い表情の幸が立っていた。いつもの華やいだ雰囲気が影を潜め、冷徹な闘気のようなものが滲み出している。
二人の間に張り詰めた空気が流れた。
数瞬の沈黙が流れ、由は一つ頭を振ると口を開いた。
「この一週間色々考えたけど、多分ぼくが何をやっても君には通用しない。巧妙に聞こうとしても、あっさりかわされると思う。だから、単刀直入に聞くけど」
妙に咽が渇く。
「君は何者なの?」
幸はゆっくり瞳を閉じると、やがて口元を綻ばせた。
更にゆっくりと瞳を開いて、由を観る。
暗くなった空に、青白い光を放つ月が浮かんでいた。孤高に気高く、冷徹で貪欲な。
その、月のような笑み。
以前一度だけ見た、でも、その時より遥かに深く、勁い。
ぞくりと、体の中心を何かが走り抜けた。浮き足立つ自分を何とか踏ん張らせて、由は続ける。
「初めて乗ったTHORを自在に動かし、オーウェル博士と対等の知識を持つ。工作部隊を前に怯みもせず、最新機器を揃えて使いこなしもする。そんな普通の高校生、いる訳ない」
由は全身に力を込めて、言い切った。
「いいの? それを聞いたら、もう戻れなくなるわ」
更に由は、肚に力を込める。
「少なくとも普通の生活には」
覗き込むように、幸が問う。
「それでも?」
今自分は、平凡な日々と非凡な日々の境にいる。引き返せばおそらく、何もない平穏な日常に戻れるだろう。
外は、夜の喧騒に包まれているのに、妙に静かだ。
心臓の鼓動だけが聞こえる。
背中に、手すりの冷やりとした感触が広がった。
風が吹いた。強く、体が流される。
よろけるようにして、半歩踏み出して止った。
思わず差し出していた手を、気付くと幸が握っていた。真っ直ぐ見つめる瞳に、魂までも吸い込まれそうになる。
無意識に、答えていた。
「聞きたい」
その時の笑みを、由は生涯忘れないだろう。別世界への門を開く運命の使いがいるとしたら、こんな表情を浮かべるのだろうか。
別世界への使いが、幸の声で語り始めた。
「考古学を知っている〈あなた〉なら、聞いた事があるはず。
どんな専門家よりも広い知識を持ち、
どんな探検家よりも深く自然を知り、
どんな兵士よりも生き残る術に長け、
どんな状況でも決して諦めない。
ただ一つの目的のために、あえて死地に飛び込んで行く。その正体は親友、恋人、家族にさえ決して明かさない」
ふっと幸の、瞳の光が和らいだ。
「〈あなた〉ならいい。わかるわね?」
確かに由は、そういう者たちがいる事を知っていた。その職業、いや既に業と言ってもいいそれを生業とする者たちは、一般に知られているような生易しい人間ではない。
ありとあらゆる物を利用して、全ての敵と戦い、生き残り、目的のものをその手に入れる。地球上で、最強の生物。
「トレジャー・ハンター……」
幸は口元を吊り上げるように、一層笑みを深めた。
後に戻れないところに足を踏み入れた事を、由は自覚した。