女神の過ぎた贈り物 2
一章 ハローTHOR
遥か真っ直ぐに伸びる、正門からの路。香り立つ桜並木を新入学生たちがそれぞれの思いを胸に歩いている。
昨今はそうでもないらしいが,四月と言えば入学の時期で、ここ大和高校でも新入生を迎えていた。生徒の自主性を尊重する校風で、それぞれの正装をしていた。
――変わった高校だな。入学式の縦看板もない。
上都由は、延々と続く本講堂への道のりで二年前を思い返していた。
中学三年の夏が終わり、秋が高い空に引きずられてやって来た頃、本格的な受験対策に迫られる中、進学先の事で悩みとは言えない悩みを由は抱いていた。行ける高校がないと言うわけではない。もちろんどこでも選び放題と言うほど立派な成績ではなかったものの、それでも選択肢は人並みにはあった。
取り寄せた幾つもの願書に目を通したが、何か今一つ〈ここに行きたい!〉と強く惹かれる高校がなかったからだ。進路指導の教師に薦められて、二校程入学説明会に行ってみたが、余り魅力は感じられなかった。学校行事やカリキュラムを色々揃えてあるが、ただ揃えただけと言う印象で、インターネット環境完備と誇られても、今さらと言う感じだ。有料ソフトや裏ツールがダウンロードし放題と言うなら話は別だが。
由にはこれと言って将来やりたいと思うものはなかった。両親は留守がちだったが経済的に逼迫した事はない。特に優秀でもないが、卑下するほど成績が悪いわけでもない。今のまま進学して、そこそこの企業に就職して、過不足ない人生を送る。それを嫌と思った事もない。
ただ。
――それでいいのだろうか?
本当に自分はそれを望んでいるのだろうか?
漠然と、だが強い焦燥感の様なものを由は抱えていた。
いつの頃からだろうか、自分を取り巻く環境にへばりつく閉塞感に、チリチリとした苛立ちを感じ始めたのは。図書委員だったとき、非推薦図書だったという理由で置くことが出来なかった数々の本。危険だとして中止された文化祭の手作りゲートの設置。犯罪を犯したものが入り浸っていたという理由で閉鎖された友達とよく行ったゲームセンター。
数え上げればきりがない出来事の数々。一見自由に振舞えるように見える日常生活。だがそのなかで、いざ何かしようとするとかならず起こる、近隣住民や保護者からのクレーム、それにおびえる教職員の消極性によってつぶされていく可能性。自分たちはいったい何者に対して、しなくてもいい遠慮を強いられているのだろうか?
このまま何もせず何も出来ず、ただ老いて消えていく将来。それがどうにも心の奥底に火種として燻り、由を責め苛む。
何かしたい。
だがそれが何であるかわからず、またわかってもどうにもならないものだと思って、成績とも相談しつつ、一応受験する高校を決めていた。
仕事で忙しい父に使いを頼まれたのは、その頃だった。
都内の大学で考古学を教えている由の父は、よくあちこちの古書店に本を注文する。専門分野のせいか、古文書や古い研究資料をよく読むからだ。
新刊本なら総合書店や専門書店で注文すれば大概手に入るが、総合古書店とかマニア向け古書店、〈あなたにだけこっそり教えます〉古書店なんてものが、そうはあるはずもないので、あちこち問い合わせて注文する事になる。(実は渋谷にブルース・リー専門店とか、執念と運さえあればかなり〈来て〉いる専門店に辿り着けるかも知れないのだが、由は知らない)
その古書店に行くには、由の実家のある神奈川県から隣の山梨県まで出かけなくてはならないので、時間が取れない父に代わって受け取りに行く事になった。
その道の途中、たまたま通りかかった所に大和高校はあった。やたら滅多ら敷地が広く、飾り気があるのかないのかよくわからない校舎の数々。よくよく見ると、デザインが校舎ごとに違っている。一応柵はあるものの校庭は丸見えで、一六〇センチ弱と小柄な由の身長ほども高さがない。
どこからでも出入りできそうだな、と考えていると、外に脱出していた生徒の二人組みが柵を越えて戻り、そこを女性の体育教師に見付かって追い駆けっこを始めたのを目撃た。
女の子っぽいと言われる顔立ちのクリッとした丸い目をさらにまん丸くして、その元気な生徒と教師の姿が校舎の向こうに消えるまで見続けた由は、何か楽しくなって笑い出してしまった。
更に歩くと校門があった。入り口と出口を分けるように石碑が置かれ、校訓が刻まれている。そこにはただ一文だけ。
【持ち入るべくは夢と意思。置き去るはそれ以外】
と書かれていた。
志望する学生は、夢とそれを実現させようとする意思だけを持って、我が校に来なさいと言う事だ。
なんて思い切った学校なんだろう。ぐちゃぐちゃのらくら、自分たちの都合の良いようにわけのわからない理屈こねたがるこの時代に、これだけ明快な教育目標を掲げた学校も珍しい。
気持ちよかった。そして受験する事を決めた。
入学はあっさり決まってしまった。何の事はない、試しに応募した推薦入学で合格してしまったのだ。持ち前の律義な性格のため、オーバーワーク気味に受験勉強をしていた苦労がスカッと無意味になってしまい、「日本の受験制度って何なんだー!」と、未だに結論の出ない問題に内心で抗議した由だったが、嬉しい事は嬉しい。微妙に引っかかる嬉しさではあったが。
正門前から始まる赤レンガを敷き詰めた路、その両側に続く桜並木を抜け、やっと掘り下げ式の中央広場へ出た。
今、由が歩いている、敷地の中を一直線に伸びる路は〈日根通り〉と呼ばれる校内のメインストリートで、入学式が行われる本講堂まで続いている。
大和高校の敷地は円と台形とをくっ付けた、大昔の鍵穴のような形をしている。
正門、正式には〈御中門〉と言う名称が付けられている門は国道前の台形地域の底、中間点にあり、日根通りはそこから円形地域の中心へ一直線に伸びている。中央広場こと〈中邦広場〉は台形地域のほぼ真ん中にあって、御中門からここまで一〇分近く歩いていた。が、まだまだ本講堂はその姿を見せようとはしない。
道のりは遥か遠く、険しい。
無駄に広い、とは在校生がよく口にする評価だった。敷地と路は使い放題とも言っている。が、都心の狭い、屋上にプールどころか運動場の一部があるような学校からすれば、夢のような話だろう。
中邦広場は敷地を掘り下げて、一段低く造られている。底まで石段が続いていて、その上を橋を渡すように日根通りが伸びている。路の下側にはステージ状の石台が造られているので、屋外コンサート場として使える。文化祭の時などにぎやかになりそうだ。
由は受験を決めた時から、「どこまで敷地が続いてるかわからないくらい、広い学校だな」と不思議に思っていたが、その理由が入寮時にわかった。
大学部である大和大学が、山一つ挟んだ所に新設されたキャンパスに移転する事を期に、空いた敷地を利用して創設されたと言う事だった。どうりで広いはずだ。補足に、高校と大学は一部施設を共用出来るように徒歩十五分ほどの専用路で結ばれている。
大学、高校共に広過ぎる敷地内の移動を考慮されてか、一二五CC以下のバイク、スクーターの利用が認められているのが珍しい。
ただし校内の交通規則は外より厳しく、違反五回で停学プラス補習、一〇回で退学だ。ま、年度ごとにリセットされるが。なお、違反のたびに切られる黄色の違反証は別名、〈自由へのキップ〉と呼ばれている。自由には責任が伴うものである。
「そこな路行く別嬪さん、ショートが似合う美人さん、小柄で可憐な佳人さん。ちと場所をたずねたいのじゃが」
随分芝居がかった物言いで、由に声をかける生徒が現れた。童顔で、本格的に女顔の由に気付いていた近くの女生徒が、ケラケラと笑い出す。
由は眉間にしわを寄せて、極最近知った声の主に振り返った。
「……小館、念入りに比喩しなくても聞こえてるよ」
女顔の自覚は思いっきりある。取り立ててコンプレックスと言うほど気にはしていないが、時々冷やかされる事があった。目いっぱい顔をしかめても、可愛らしい女の子が困ったような表情をしている、位にしか思われないのも含めて煩わしいと言えば煩わしい。
中学二年時の文化祭、クラスの催し物は演劇だった。題名は〈革新解釈版ロミオとジュリエット〉。配役についてはプライベートに抵触する事なので、差し控えさせて頂きたい。
小館言とは、一昨日に寮の部屋で顔合わせした。身長や体重は平均くらい。物腰は柔らかく、愛想もある。唯一つ、フレームレス眼鏡の奥、切れ長の目は笑っているように弧を描いている。俗に言う〈ニコ顔〉と言うヤツだ。
お互い丁寧な挨拶と握手をすると、たっぷり十二畳はある部屋に、手分けして荷物を運び込んだ。
第一印象はかなり良かった。癖のある感じではないし、礼儀も身に付いている。だが、由が荷物の整理を終えてほっとした頃、小館が目の前に歩み寄って来た。
突然半身に構え、ガバッと腰を落とすと行き成り口上を始めた。
「お引けえなすって、てめえ生国とはっしますは東京の八王子――」
素人とは思えないドスの利いた話し方。突然の事にびっくりして目を白黒させる由に、お構いなしにまくし立てる。由が我に返った時、小館は何事もなかったように立っていた。いや、ニコ顔をニヤニヤさせている。まったく同じ表情なのに、何故か由にはわかった。
「き、君は……」
やっと由が口を開こうとすると、「なーんちゃって」と舌を出した。
からかわれたと気付いて憤慨する由に、小館はしれっとして言うのだった。
「ジョークはコミュニケーションの潤滑油と、偉い哲学者が言ったとか言わなかったとかどっちかだとか」
今一つ、二つ三つ性格をつかみかねる由だった。
そんな小館は入学式の今日、寮の自室で由が目を覚ました時すでに居なかった。一足速く本講堂へ向かったと思っていたが、今ここに居ると言う事は、どこかに寄って来たのだろう。
「どこに?」
「ちょっと入学式に」
「違うっ。朝、食堂にも来なかったでしょ?」
「寮の食事は、でえりけいとなぼくの口に合わなくてね」
「どこのお坊ちゃんなの君は……」
「実を言うと、フィリピンはミンダナオ島の大地主が実家でね。
思い起こせば八九年前、折しも大戦真っ只中、我が曾祖父――」
「で、本当のところは?」
小館は、七星と印刷されたビニール袋を、愛用の3WAYバックから取り出した。
短期間の中に、付き合い方だけは長足の進歩を遂げている由だった。何か嫌だ。
「入学式にコンビニ袋持参……」
「ま、風変わりで良かろう」
「君が言うの?」
「最近そこはかとなく、ルームメイトからの偏見を感じる」
「昨日、知り合ったばかりじゃないのっ」
日根通りをまたぐように建てられた本部棟を抜け、更に新入生の行進は続く。本講堂と言う名の天竺への道を、由は改めて志そうとし、すぐに躊躇する。
「この路って、一体どこまで続くんだろう」
「人生ある限り果てしなく、〈みち〉とはそう言うものらしい」
「あのね……」
「本部棟の所でちょうど半分だよ」
「まだ半分!? って、敷地内の地図全部覚えてるの?」
「選択授業の取り方で、あっちこっち行く破目になりそうなんでね」
大和高校は、かなり自由度の高い授業選択制を採用している。御中門近くの一般授業棟と、最も奥にある理化学実験棟までは、校内専用自転車でも一〇分は掛かってしまう。
「小館は免許取ったの?」
「とーぜんデアル」
意味なく偉そうに胸を張る小館。
大和高校は、山奥を切り開いた所に立てられているので、最も近い市街地へ出るのにも足が必要になる。在学生は大半が中型二輪免許を取得する事になるのだ。そうしないと自転車を使う事となる。片道一〇キロ、ダイエットには最高だ。そのせいか何なのか、自転車部は全国大会に毎回出場する強豪だ。あと、その他の部活に触れておくと、科学部にはソーラーカーや電気バイクを作っている半があり、二五CC以下専門とは言え二輪部なんて言うのもある。
多彩を極める部活動も大和高校の特色の一つで、大学部との交流も盛ん。と言うか、高等部の連中がそのまま進学して行くので、ほとんど身内状態だ。凄く羨ましい一面のある学校なのだ。自分も通いたかった。
「ミヤコは?」
「考えてる。校内は自転車でもいいとして、外出の時を考えるとね、買出しの時とか不便だし。でもね」
「経済的な理由かい?」
「じゃなくて、事故の事を考えるとね」
「まあ、取れない責任に限定されるのも、一つの生き方ではあるね」
何かポロっと哲学的な事を言われて、由はキョトンとしてしまった。
「あ、本講堂が見えて来たよ、マンセーっ!」
立ち止まった小館の指差す先に、縦に潰した円筒形の巨大建造物が姿を現していた。
〇〇〇同志を称えつつ、一人万歳をしだした小館を引っ張るようにして、由は本講堂へ急ぐ事にした。
「良かったよ、巨大な像はなさそうで」
神殿に辿り着いた巡礼者のように、新入生が入場して行くのが見えた。
やっとこ本講堂に辿り着くと、由と小館は息を整えた。御中門から実に一時間の道程を走破した事になる。
道理で前日寮長が、「寮からだと安心してぎりぎりに登校しない方がいいぞ。今頭の中で考えている時間があるな? それの五倍はたっぷりかかると思え。大和高校は自由だが、甘い所ではないからな、常識は通用しないぞ」と入寮挨拶で警告していたわけだ。
上級生に促されながら、「フウッ」とか「ハアッ」とか「ちくしょうっ!」「バカヤロー!!」「北の士官学校かここはっ!?」と口々に吐き捨てて新入生がドアを潜って行く。
由と小館も続こうとドア前の階段に足をかけた時、突然一台のオフロードバイクが新入生の列に乱入して来た。
〈カワサキKDX125〉。今は珍しくなった2ストロークエンジンのマシンだ。
KDXの走る先々で、新入生の悲鳴やら歓声やらが上がる。マフラーを始め、あちこち手を加えられているらしく、ノーマルではあり得ないダッシュ力と旋回力を発揮して列の隙間を縫って行った。
更にKDXは、びっくりして立ち止まった、車道を歩いていた女生徒たちの前ギリギリを横滑りしながら避けて行く。そのリヤシートには一本の幟が。
【二輪部に入って、君もライディングを極めよう!】
「うわっ、ドリフトしてるよ。目の前で見るの初めてだ」
「っていいの、校内だよここ!?」
由が驚いていると、早速校内放送が入った。
『風紀委員より通達。校内では五〇キロ以上での運転は禁止されています。校則総会で決まっています。こら加瀬くんっ。二輪部の部長でしょ、あなたはっ!!』
「……だって」
「若さ故の暴走、ライブ版だね」
KDXは、アッと言う間に最後尾の彼方へ消えて行った。あんな猛スピードで走り抜けたら、宣伝にならないような気がするが。と、KDXが消えた先から、一台のクラシカルなスクーターが現れた。
乗っているのは少女らしい。洒落たイタリア製のヘルメットから零れる艶やかな黒髪が、風に棚引いている。シールド越しに見える顔立ちも、大きな瞳の猫目が印象的で、中々に麗しい。
「べスパのビンテージ50Sだね」
特徴的な丸っこいデザインのスクーターを見て、暢気に小館が言う。
遅刻しそうになってスクーターで来たようだが、ちょっと様子が変だった。
「何だろ、後ろ気にしてるようだけど」
突然脇道から物凄いスピードで、さっきのKDXが曲がって来た。その後ろに数台の白い〈スズキRG125Γ〉が迫っている。風紀委員で組織された交通隊だ。仕方なくべスパの少女は、脇に寄った。
KDXは一瞬でべスパをパスして、最後尾を歩いていた新入生をローリングしながら避けて行く。
少女のベスパが新入生の最後尾に辿り着いた時、交通隊が殺到して来た。KDXを停めようとクラクションを鳴らして、それが逆効果になっている事にも気が付いていない。まずい、全員頭に血が上っている。
べスパの少女は、まだ新入生が何人も路上を歩いているのを見ると、今度は中央に進んだ。クラクションを鳴らしつつ左手を振って、交通隊を停めようとする。だが、頭に血が上った交通隊は、スピードを落とさない。
「まずいっ!」
由は、後先考えずに駆け出していた。
べスパの少女が、なおも必死になって停めようと声を上げた時、前に出た一台が新入生を避けようとして、ライディングを誤った。少女のベスパと進路が交差する。少女が投げ出された――。
そこへ、猛然とダッシュする小柄な人影、由だ。自分に向かって宙を舞う少女を受け止めようと、無我夢中で腕を差し出す。が、慣性質量に敵に回られ、道脇に茂る芝の上を少女を抱えたまま一〇メートルもぶっ飛ばされた。
芝の切れ目で止まった時、先に気付いた少女が身を起こして、由から飛び離れる。
「ミヤコっ!」
珍しく、青くなった小館が駆け寄って来た。
胸を押さえて咳き込みながらも、起き上がろうとする由を、少女が制した。ヘルメットを投げ捨て、由の胸や東部を触診すると、ほっと息をついた。
「良かった……」
心なしか、声が震えている。
抱きとめた時に少し胸を打ったが、どこにも強い痛みは感じられなかった。由は横になったまま、慣れた手つきで自分を診た少女に興味を覚えて眺めた。やや上背はあるが、大きな瞳の猫目と黒く艶やかなストレートヘアが似合っていて印象的だった。
「君は、大丈夫なの?」
宙を舞ったと言うのに、すぐさま起き上がって由を診た少女に、やや驚きつつ小館がたずねる。
「ええ、完全に庇ってもらったから、打ち身一つないわ」
「よ、良かった」
落ち着いた由が、体を起こしながらつぶやく。
「本当にありが……」
とう。と言いかけて、初めて由を正面から見た少女が、言葉を飲み込んだ。
「どうしたんだろう?」と首を傾げたまま、由はゆっくりと立ち上がった。
受け止めた胸と、吹っ飛んだ時打った腰は少し痛むものの、人一人、それも投げ出された少女を受け止めて打ち身くらいで済んだのは、ワールドカップのチケットが手に入ったのと同じくらい運がいい。下手をしていたら、見ず知らずの女の子と天国へ初デート、と言う事になっていたかも知れない。
その間、少女はずっと由を見つめていた。
「怪我がなくて良かったね」
背の高い少女を見上げながら言うと、思わず見つめ合う形になる。
うろたえ視線を外す由。はっきり言って経験がない。
少女の方も下を向いてしまっていた。
「そ、外街幸です。ありがとう……」
それでもやっと、か細い声で礼を言う。
そのほほが、立ち並ぶ桜の花弁と同じ色に染まっていた。
最新の、病院並みに設備が整えられた医務部で検査を受けた由は、先に終えて様子を見に来た幸と共に、待合室で眼光の鋭い紳士の訪問を受けた。六〇代で一九〇センチ近い長身、イギリス製のスーツを見事に着こなしている。校長の基だった。
基の視線を受けた由は身じろぎできなくなってしまった。腹の底まで見通され、竦み上がる自分を自覚する。
「命を粗末にするものではない」
由は思わず、「すみませんっ」と頭を下げた。あの時は仕方なかったとは言え、考えてみると軽率な行動だったかも知れない。検査の間に保健の黒旗先生から、大問題になるところを基校長の尽力で収められた事を聞いていた。二輪部の部長や、交通隊のメンバーも退学だけはされなくて済みそうだった。
基はふと表情を和らげると、「無事で何よりだ」と言い、「無茶をするなとは言わないが、安易に無茶をするのは愚かな事だ。わかるね」と諭した。
もう一度、由は頭を下げた。姿勢を正して、静かに聴いていた幸も頭を下げると、基は待合室を後にした。
医務部から解放されると、由と幸は、これから最低でも一年間は過ごす〈総合科1―O〉の教室に向かった。総合校舎の一年棟に入り、教室のプレートを確認しながら廊下を進む。
ビックベンで有名なイギリス国会議事堂に代表される、ゴシック様式のデザインが取り入れられていて、中は教会の様だった。
太い柱が普通の建物より遥かに高くアーチ状に伸び、より光を多く取り入れたいのか、柱と柱の間隔は本来のゴシック建築の物より広く開けられていた。その一本一本に、簡素だが上品な彫刻が施されている事に気付いて、由は少し驚いた。最近の建築に、こんな手のかかる造り方をした物は少ない。柱の間にはめ込まれた窓も、本来の物より高く広い。だから廊下は丸見えで、だいぶ遅れて教室へ向かう由と幸を、気付いた新入生たちが好奇の目で見る。
恥ずかしくなり足元を見てしまう。初日からあんな騒動に巻き込まれたのだから仕方がない。
不思議なのは隣を歩く幸で、物静かに歩いているものの、好奇の目に動じた様子はない。基校長の前でも、あれだけ大胆な行動を取った割りに弁解など一切しなかった。思わず言い訳をしようとした自分とは豪い違いだ。
何とはなしに幸を見る。目が合ってしまった。
その幸が微笑む。妙な居心地の悪さを覚えて、由は前を見てしまった。我ながら小心過ぎるとは思うが、生来の気性は変え難い。
由は、医務部で話した事を思い出した。
「由ちゃん、て呼んでいい?」
何時もなら絶対に拒否していた。唯でさえ小柄で女の子っぽい顔立ちなのだから。でも、あの時は何故か「う、うん」と頷いてしまった。
「由ちゃん?」
いつの間にか〈1―O〉に着いていた。正しく内側へ開くドアのノブに手までかけながら、ボヤっとしてしまった。
軽く力を込めて開く。予想通り、一斉に視線が殺到する。
「交通隊に立ち向かった子よ」「あの子、あんなに小さいのによく受け止められたわね」「わたし見てなかったの~」「映画みたいだったぜっ」「愛のダイビング!」「武道館でパペットマペットのライブってどうよ?」
途端に騒ぎになってしまった。かなりばつが悪い。
クラスのざわつきが収まって来ると、由は雰囲気が悪くはない事に気が付いた。陰にこもったひそひそ話しや嫌味な野次がない。
後方の席に知った顔を見つけた、小館だ。手を振っている。敬礼し出した。三三七拍子?
由は小、中学校を普通の公立校で過ごしたが、それとは明らかにノリが違う。
うん、いい学校かも知れない。
初日から騒動に巻き込まれてちょっと先行き不安になったが、考えすぎだろう。
「上都くんと外町くんね」
教室の前の方から小さな女の子が、〈とととっ〉と音響効果が付きそうな感じで近寄って来て、二人の名前を呼んだ。
中学生、いや最近は頓に発育がいいので小学生かも知れない。小さな丸顔で首筋くらいのボブカットが愛らしい、ちっちゃな縫いぐるみのような印象。でも、何で小学生がこんな所にいるんだろう?
「大変だったわね、大丈夫? 気分が悪くなったら言ってね」
しかも、自分たちを気遣う様な事を言っている。
「席はくじ引きで決めているのって、あと二つしか残ってないけど。はい」
紙で作った籤まで差し出した。
あれ? いつの間にかクラスが静かになっている。
由は女の子に向き直ると、疑問を口にした。
「君はどこの子?」
瞬間、クラスの空気が爆発したように、笑いが巻きおこった。
「う、う、う、上都くんっ」
事態が飲み込めない由は、軽く袖を引っ張られて幸を見る。
「たぶん、担任の先生だと思う」
由は一人絶句した。再び爆笑が起こる。
目に薄っすらと涙まで浮かべて抗議する女の子、担任の碑之本美呼先生に、「済みません、失礼しましたっ」と平謝りして、やっと許された。途中、ミコ先生が「もうすぐ大台なんだからっ!」と口走って、本気でクラスを固まらせたハプニングはあったものの、何とか席に着く事が出来た。
由はつい、「ふうっ」と大きく息をついてしまう。
まだ正午、入学して半日が過ぎただけなのに、ひどく精神的に消耗したような気がする。例えるなら、市営地下鉄上大岡駅から伊勢佐木長者町駅まで、弟のカワサキZZR400を押して歩いたのと同じ位、精神的に疲れた。あの時は死ぬかと思った。
再びクラスメイトから笑い声が上がる。もはや何も言う気がしない。
もう一度ため息をついて顔を上げる。と、強い視線を感じた。右隣を探るように見る。廊下側の席から、ショートカットの女生徒が由を見ていた。
幸くらいの長身、モデルのように均整が取れたプロポーションの美少女だ。が、そんな外見より、小さな顔の瞳に、一〇代とは思えない意思の光が宿っていて、強烈な印象を焼き付けられた。見返したものの、ホームルーム中に話しかけるわけにも行かず戸惑いを見せると、その女生徒は興味を失ったのか、ミコ先生の話に集中してしまった。
何となく気落ちした由は、自分もそれに倣う事にした。
ホームルームが終わると、由は購買部棟で幸と別れた。横浜にある名店有隣堂並に書籍を揃えた書店があると、ホームルームで知ったからだ。中に入ってみると想像より遥かに大きく、以前から欲しいと思っていた考古学の本が学割で手に入った。
由の唯一の趣味らしい趣味は考古学で、ダイレクトに父の影響だ。
二割ほど安く買えてホクホク顔で寮に戻って来た由は、自室である〈SF36〉号室の前に着くと、呆然と立ち尽くした。天井にまで届きそうな荷物の山、山、山。
は、まだいい。それを甲斐甲斐しく運び込んでいるのは、居るはずのない知り合いだった。それも極最近知り合った。
「あ、由ちゃん」
「? ? !?」
状況が飲み込めない。何で外街さんが男子寮にいるんだ? しかも、自分の部屋に荷物を運び込んでいる。
固まったままの由に気付き、手を止めてやって来た。。
「入寮が遅れちゃったけど、今日からよろしくね」
そう言って頭を下げる。
「でも信じられないっ。大事故になりそうだったところを助けてくれただけじゃなくて、同室にもなれるなんて! わたし、感激しちゃって――」
そこで我に返った由は、思わず声を張り上げた。
「じゃなくて! 何で外街さんがこんなところにいるのっ!!」
今度は幸がキョトンとした。
「何でって、私ここの生徒だから」
そう言って、携帯が義務付けられている学生証兼用のIDカードを見せた。
【外街幸
学籍 普通総合科一期生
本籍 東京都世田谷区北沢×××―××―×
生年月日 20××年 12月 24日
性別 男子 】
……男子?
「おとこぉっ!?」
この日、何度驚愕の声を上げた事か。一体どうなっているんだ、この学校は!?
部屋の中では、荷物運びを手伝っていた小館が転げ回って爆笑している。
「う、嘘だっ。だってこんなに……」
「こんなに?」
「きれ……」
由はパニクって、誤解されるような事を口走っていた。
まずいと思って幸を見る。紅くなってうつむく、どう見ても飛び切りの美少女に、鼓動が速まってしまう。
――何でぼくも赤くなってるのっ。
自分の心理状態がわからなくなって動揺していると、ちょんちょんと小館につつかれた。
「ちみちみ、知り申さなかった。あっち系の人だったのか」
「違うっ、ぼくはノーマルだっ!」
「わたしだって!」
幸の発言に今度こそ本当に混乱して、由は見つめてしまった。真剣な表情からは、冗談を言っているようには見えない。
小館も首をかしげた。
「何か基本的な認識に、かなりのずれがあるみたいだね」
荷物もそのままに、一度三人は部屋に入った。クッションにお茶まで出して、しばしのQ&A。結果、由はノーマル、小館も左に同じ。それはいい。
幸についても確かめてみる。と、これも基本的にはノーマルな事がわかった。
納得いかない由が、「じゃ、その服は何なの?」と幸の着ている部屋着を指差す。
「これ? 普通の服だと思うけど」
そう言って動き易いように着替えた、銀の刺繍があしらわれたプルオーバーを触る。色はネイビーブルーで、下も同色のスパッツ。
「女物でしょ、それっ」
「好きな色なの」
つまり、男としての認識は一応ある。
では、何で一応かと言うと。
「似合うし、デザインがいいと思ったから」
好きなもの、気に入ったものの方が常識よりも優先されると言う事らしい。純粋と言うか、素直と言うか。多少癖はあるものの、困るような性格ではないようだ。
由は自分の誤解にほっとした、いろいろな意味で。
が、小館はふと何かに気が付いて、再び幸に質問した。
「基本的に、恋愛の対象は女性と」
「うん」
チラッと由を見て聞く。
「じゃあミヤコは?」
「……き」
「ちょっと!」
「ここら辺が微妙なところだねぇ」
「言ってる事が矛盾してるじゃないかっ!」
必要以上に動揺して、声のトーンが跳ね上がった。
「由ちゃんは別、別なのっ。初めてなのっ!」
幸も興奮してしまって、再びうつむく。そのまま上目使いに由を、じーっと見つめる。
その視線にうろたえまくって、由は思わず後ずさった。
なんとも妙だが、微笑ましくも初々しい二人に、小館の細い目が一層細められてしまう。
「小館っ、黙って見守らないでよ!」
でも、一番どうしていいかわからないのは、由自身だった。好、嫌、相反する要素が複雑過ぎて、どう整理すればいいかわからない。何より、他人のストレートな感情を向けられたのは、これが始めてだった。
「由ちゃん……」
由には、幸が何かを訴えかけようとして、でも何故かそれを圧し止めているように見えた。この新たな友人は、自分とはかなり違った価値基準を持っているらしい。でも由は、その性格自体は嫌いなわけではなかった。
ただ、気持ちがついて行かないのだ。
自分の中で、幸をどう位置づけていいのか、容姿を含めてどうしても男友達と言う風には見れない。
由は、混乱している頭を冷やそうと、無言で廊下に出た。
が。
すぐ、飛び込むように部屋に戻って来た。
「由ちゃん!?」
青い顔で廊下を凝視する由。
行き成り、ヌッとタイヤが現れた。溝の深いオフロードタイプのものだ。
SF36号室の前で停まったそれは、一見三輪のオフロードバイクに見えた。でもよく見ると、所々ハリウッド映画に出て来るメカのようなものが取り付けられている。ホイールに伸びるスイングアームの各部に間接があったり、ハンドル周辺には何が表示されているかよくわからない液晶ディスプレイが取り付けられたりしていた。妙な事に、エンジンらしいものは見当たらない。
「な、な、な」
何をしているんですかっ、と言おうとしたが、驚いて声にならない。由たちの部屋は六階なのだ。
乗っているのは、ハーフメットにゴーグル、乗馬ズボンと言う古式ゆかしいファッションに身を包んだオーウェルだった。
気付いた寮生がわらわらと集まって来る。その寮生たちに、「ちょっとお邪魔するよ」と言いながら、入り口の前でしりもちをついていた由に向き直る。
「幸は居るかね?」
ゴーグルを上げると、オーウェルは片眉を上げてたずねた。
「オーウェル博士!」
いつの間にか荷物の陰に隠れていた幸が立ち上がる。降りる博士に手を貸しながら、挨拶した。
「聖少女的少年、元気だったかね?」
「はい。いつ来日されたのですか? 頂いたメールには一言も書かれていなかったのに」
オーウェルは、三輪バイクのシートをポンポンとたたく。
「この〈THOR〉の開発に、急遽呼ばれてな」
大柄だが、流麗な幾何曲線と直線で構成されたカウルで覆われ、モーターショーのコンセプトバイクのように見える。
メカに興味があるらしい幸は、くるりとTHORを観察した。
「可愛い乗り物ですね」
「可愛いのかな?」
「このゴッツイのが」と素直な感想をポロッと口にして、「あ、いけない」と取り繕う由に、オーウェルは苦笑した。
「イッツァ、エキサイティング!」
時々よくわからない事を言うのは、小館のいつもの事だ。
「バイク型ロボット、ですか?」
足回り、タイヤを支える部分を覗き込んでいた幸が、顔だけ上げてたずねた。
「被災地活動用の〈Three・wHeel・Off・Road・motorcycle(=三輪オフロードバイク)〉でな、各ホイールが可動フレームで接続されていて独立して動く。まあ、確かにバイク型ロボットだな」
色々見ていた幸が立ち上がって、THORのハンドルに手を添えた。
「とても興味深いです。気に入りました」
「ハッハッハッハッ」
お前さんなら、そう言うと思ったよ。と愉快そうにオーウェルが笑った。メカ好き同士でしかわからない、共感と言うやつだろう。
一段落着くのを見計らって、つつつ、と小館が進み出た。
「失礼します。私、小館と申しますが、もしかするとラウル・パーシバル・オーウェル博士でいらっしゃいますか?」
小館の丁寧な物言いに、オーウェルもノリよく身を正した。
「私の方も失礼した。いかにも。肩書きだけはご大層なものが、くっついとるがね」
小館と由を交互に見る。
「そちらは幸の語学友かね?」
「はい。で、こっちが」
由を前に引っ張り出す。
「は、始めまして、上都ですっ」
余り年配の知人が居ない由は、緊張気味に挨拶した。
「最近の若者にしては、きちんと挨拶が出来るとは。ポイントの高い友人だな幸」
「博士も、そうお思いになります?」
「お気に入りかね」
茶目っ気たっぷりに片眉を上げるオーウェル。
「はいっ」
実に嬉しそうに答える幸だった。
一人オーウェルについて知らず、居心地の悪い由が小館を突っつく。
「なにっ、このお方を知らない!? あー何と言う事だ!」
「う……」
わざとらしく大声で嘆かれ、由は赤面した。
「君のあまたあるある欠点は、別の見方をすればチャームポイントと言っても差し支えないけど、これだけはいただけない。最悪だ。ものを知ろうとしない態度は人生の大損失だ。時は金なりだ。小人は養い難しだ。立派な大人になれない。なんて事だ、かわいそうに」
いつの間にか気の毒な人にされてしまい、由は憮然とした。
「ノーベル賞を袖にした科学者、と言えばわかるね」
由は以前見たニュースを思い出した。
「確か受賞を断った会見で、〈学問を志す者の精神は、自由である事が望ましい。如何なる権威にも偏らないくらいには〉と言って辞退したんだっけ」
そのニュースは覚えていた。古い考えかも知れないが、普遍的な意志を内包した、芯のある言葉だと思って記憶に残っていたのだ。
「何だ、よく知っているじゃないか」と、小館は一くさり文句を言った後、付け足した。
「言ってみれば、研究者の手本、研究精神の具現者だね」
「そんな偉そうなものではないよ、私は。まあ、頑固なのは認めるがね」
外見はまったく似ていないのに、基校長と通じるものがあるように、由には思えた。それは、尊敬と言う念を抱かせる。
「博士、今日は?」
「ちと大学の研究室が手狭になってな。高等部に場所を借りたんでこいつを持ってきたんだよ。それに、基や幸の顔も見たくてな」
「校長先生とお知り合いだったのですか?」
幸には初耳だった。
「腐れ縁と言うやつだよ。まあそのおかげで、これを置かせてもらえるのだがね」
オーウェルは由たちと、しばしのティータイムを楽しむと、寮を後にした。
THORがどうやって階段を降りるのか興味津々で見ていた由たちは、三つのタイヤつきスイングアームで器用に降りて行くのを見て、目を丸くした。
「歩いて降りて行ったな、バイクなのに」
最後まで見ていた小館が、珍しく普通の感想を口にした。
「外街には、凄い知り合いがいるんだね」
「みんな、博士みたいな人ばかりだといいんだけど」
そう答えた幸の横顔が、遥かに大人に見えたのは、由の気のせいだろうか。