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鈍色の荒野

作者: 初姫華子

 週間の天気予報では週末は最悪だった。


 月曜から金曜まで、晴れたり曇ったりの穏やかな日が続くが、一転して土曜の夜から雨が降り始め、日曜は雨……の筈であった。


 しかし、今日の東京地方の天気は晴。快晴とはいえなくても、陽射しが影を作るくらいの陽気。予報の雨はしばらく来そうにない。


 やはり天気は気紛れで、土曜の雨は金曜に繰り上がり、その分雨は土曜のお昼頃まで降り続いたが、夕方あたりから雨足も途絶え出し、夕焼けさえ見えた。


 彼は今朝、朝一番の飛行機で羽田に向かった。朝靄にけぶる北海道の上空から眺める、霞のように脇を流れていく雲の切れ目から、あの辺りに自分の牧場があるのだろうかと思う間に、飛行機は上昇を続けて雲海を抜け、大地や海は見えなくなる。


 何も、こんなに早く、張り切って上京することもなかったのに。我が事ながら、彼は唇の端で苦笑する。苦笑して、すぐに表情を改めた。


 笑わなくなってどれくらいの時が流れただろうか。


 離陸して直ぐに禁煙ランプが、しばらくしてシートベルト着用のランプが消える。


 彼はサンシェードを下までおろしてシートベルトを緩め、後を伺いながら背凭れを倒して姿勢を崩した。


 本当は機内でもしたいことは山ほどあった。


 胸ポケットにある煙草や、あらかじめ前の座席のマガジンラックに差し入れておいた、分厚い、辞書のような本に手を伸ばして、止めた。


 一旦開いた手帳もすぐ閉め、彼は膝の上で指を組み、居住まいを正して目を閉じた。





 彼の名前は時田怜。


 年の頃はもうすぐ三十の声を聞こうという、気力も体力も有り余ってしかるべき青年期真っ直中にある。


 背は日本人成人男子の平均よりかなり高く、体格も学生のころはひ弱だったが、毎日の肉体労働のおかげか、細目の印象なのにしなやかな筋肉が隠されているのがスーツの上からも伺える。


 肌も髪も日に焼けてぼろぼろ、手はカサカサでひび割れている。


 顔立ちは西欧系のクォーターなので彫りが深く、瞳の色と髪の色が純黒の日本人と比較すると心持ち霞んだ印象を見る人に与える。父が日本人、母が仏系のハーフ。日本人寄りの血が勝り、その分、妹の方に彼の分もまとめて仏系の血が流れているようで、実際のところ、彼女から日本人の要素を見出すのは難しい。


「普通は父は娘に、母は息子により多くの影響を血の上でも及ぼすのに、おかしなものね」

 と妹は言う。


 彼等の両親は離婚し、兄は父のいる日本に、妹は母に付いてフランスへ、お互いの親の母国に暮らしていた時期があったことを考えると、理に適っているとも言えた。


 母が自分の人生を生きることにした時、妹は母の元を去り、もうひとつの祖国、父と兄のいる日本に戻った。


 一時はモデルで名を馳せた容姿を誇る妹の兄だけあって、想像に違わずかなりの美青年だった時期もあった。


 しかし、今、機上の人である彼の顔に、昔日の面影は無い。


 女性を魅惑してやまなかったけぶるような微笑みも今は消え、あるのは眉間から縦皺が消えない、険しい表情をした、年齢よりもきびしい印象を与えるこわい男の顔だった。


 顔は大人になるまでは親の責任。成人してからは本人の責任とはよく言ったものだ。怜は風呂上がりの時、髭剃りの最中、日常何気なく映った己の顔を見る度、思ったものだ。


 正にその通りだと。


 笑うのを止めた時はいつか知っている。


 理由も判っている。


 遡ること今から五,六年前、彼が二十六の時。彼が東京に別れを告げ、逃げるように北海道に来て以来だから。





 彼には漠然とした夢があった。


 彼の父は、実業家として粛々と事業を営んでいたが、彼と妹にいくばくかの資産と、事業で培った人脈と、彼の父に忠実だった人材を残して病没した。


 彼がまだ大学に入るか入らないかの頃だった。


 余りにも急で、急すぎたので、これといった下準備もなく父の跡を継がなければならなくなった彼に、父の椅子に座る気は無かった。


 幸い、忠実な部下は、主亡き後もよほど主人を愛していたのであろう。二代目の不甲斐無さを年齢故と快く受け止め、彼がいずれ社長として君臨するまでの間、事業を守っていくと約束した。交換条件として、怜は名目だけの跡取りとして収益を幾らか懐に入れるかわりに、経営陣が下した方針には口出しはせず、微妙な関係は彼が就職してから後も続いた。


 継承問題で揺れる中、妹が帰国し、公私共々忙しく、自分の立ち位置を忘れそうになる日々の中でも、漠然とした夢だけは仄めいていた。


 社長業を負うのを躊躇わせる夢だった。


 彼には、幼少時より学生時代から社会人になるまでを過ごしてきた親友が何人かいた。


 その中のひとりが、競争馬のオーナーズ・ブリーダーとして業界では一目置かれる人物を父に持っていた。


 保護者に富裕層を多く抱える同級生の身内にも馬主の者は普通にいたので、一般人が考える、娯楽性の高い『競馬』とは違った印象を持っていた。投機目的とステイタスと道楽と、使い古された言葉で言うなら夢。夢を形にしたものを買うのだという考えを親たちが待っていたのかはともかく。普通の子供よりは多くのものを見る機会に恵まれていた怜の目にも、サラブレッドの姿はとりわけ美しいものに映った。


 芝が敷き詰められ、緑の絵の具一色で描き上げたようなターフの上を馬が走る。鞍上の騎手が纏う勝負服の華やかな色彩と相舞って、彼の心の中に焼き付いた映像は、心の奥底にぱらぱらと、小さな、マツバボタンの種のような粒だったけれども根付く種子となって植え付けられた。


 時を経て、自分が見たサラブレッドという種類の馬は、競馬というギャンブルの中で走り、一片の紙切れを屑同然にも何万何十万もの金にも変える生き物で、自らの意思ではなく走らされているのだと知った。


 人間がそうさせているのだと。


 三つの祖先から生まれたサラブレッドは、人の介入なくして今の姿はなかったのだと。


 速く、少しでも速く、少しでも長く走れ、体躯は見るからに素晴らしい、優れた生き物を作ろうとした人間の純粋な気持ちもあったことだろう。否定はできない。


 でも、算盤ずくの欲が多く絡んでいる。


 美しさは脆さにつながる。


 人に養われた動物は自力で生きていくことはできない。その最たるものがサラブレッドではなかろうか。


 儚さが彼の心を捉えた。


 一頭でも多く、儚い夢を手にしてみたい、オーナーになりたいという気持ちが芽生える。


 大学を卒業後、一般商社に就職して社会人になった彼は、忙しさの中に身を置いた時、ふっと逃げるように夢想に耽った。


 亡き父の事業を、ゆくゆくは継ぐための修行の一環で就職した自分。仕事は順調、人間関係もこなせている。順調に敷かれた道を歩く自分。


 が、人生はこのレールで本当いいのか、と自問を繰り返す。


 目まぐるしく過ぎる日々の中、すっと入っていける心の逃げ場所が、北の大地で馬と共に生きる自分の姿だった。


 夢を持つのは良いことだ、と言う。


 何故なら、達成された時に夢は膨らんで次の夢を育むから。


 しかし、繋がるにしても無埋がありすぎるだろう?


 怜はすぐに妄想を片隅に追いやり、日常へと戻っていく。


 今の居場所で学ぶことは多くあり、知り合う人も類を呼ぶ人種。商社勤務の経験は後々の自分にプラスになるだろう。


 次のステップヘの足がかりとして。


 と思ってはいても、やはり、本心からの言葉ではないのだろう? と問い掛ける自分もいる。


 日本有数の生産牧場のオーナーである父を持つ友人が、時折妬ましくなる。怜の夢に理解を示す友人とは、自分と彼の立場が逆だったら良かった、とよく談笑した。


 友人は軽い話の種のひとつぐらいにしか捉えてはいなかっただろう。けれど怜は違っていた。半分以上は嘘ではなかった。


 友人は父の跡目を継ぐ気はさらさらなく、さっさと別の職に就いた。


 手の内に持つものがある者ほど、惜しげもなく捨ててしまえる。選択できる身にあった友人が、どれほど羨ましく思えたか。


 自社の行く末に責任を負う未来が定められている怜には、彼の身軽さが信じられなかった。


 友人が捨てたものを、怜は望んでいたから。世の中はままならない。


 おそらく友人は、怜の表にできない嫉妬心など思う術もなかっただろう。


 本心を伝えたことはなかったから。


 二十代は人の往来が激しい。


 様々な人が怜の前を通り過ぎ、霞め、しばらく留まっては去っていった。


 怜も同じように去ったり歩み寄ったりした。


 男、女、子供に大人。遊びの戯れも中にはあった。


 恋もいくつか。


 ひとつぐらい、胸に痛みを覚えるものがあってもご愛嬌だろう、たかが恋、女のことにかかずらわっているのはバカバカしい。


 怜は努めてそう考えた。愛嬌ではすまない痛手を被ったものも中にはあったのに、彼はそう認めたくなかった。


 ひとり、忘れられない女がいた。


 彼女は彼に、初めての情事の夜に部屋へ落としていったイヤリングの片割れをそのままにして、彼の手の届かないところへ行った。


 彼女の存在は、彼の中に少なからぬ疵をこしらえた。





 怜がそれまでの生活を捨て、北の大地に生きる決心をしたのは、仕事も順調に運んでいた最中の事。


 親の跡目を継がなかった友人の父君と、出先でばったり再開したのをきっかけに、物見遊山気分で父君の経営する牧場に逗留した。


 初めて見る牧場の熱気は、都会育ちの彼には大層刺激的で、身中に晴れやかな、少年めいた高揚感が沸いてくる。


 頭の中でぱちぱちとそろばんを弾いた。今の自分なら、牧場の経営はできなくても、馬主にはなれるかもしれない。指南役には恵まれている。資金も十二分に在る。今の会社で出世するのも悪くない。親の会社経営も控えている。


 強欲なのはわかっている、けれど、何か足りない。満たされない思いを晴らしてくれる、何かがほしい。


 ここに答えがあるのではないのか?


 時、あたかも春。


 人生設計を考え直していた怜の元に、知らせが届く。


 銀行の行員が、妻共々惨殺される事件が起きた。


 二才になったかならずの子供を残してふたりは逝った。


 後にわかったことでは、妻の胎内には新たな命の芽生えがあったという。


 犯人は、約束手形を二度まで焦げ付かせ、行員が勤めていた銀行に取引停止された経営者。


 「あの男がいけないんだ」


 取調室で、経営者は叫んだ。


 「あと数日待ってくれたら、資金は何とかなるかもしれないから、とあんなに頼んだのに。あの男は信じちゃくれなかった。会社は人手に渡った。家も売った。家族は妻子共々どこかへ雲がくれ、ばらばらになった。あの男が、家族と会社を奪ったんだ。あいつが首を縦に振ってくれさえすれば」


 自分本位だからあれもこれも失うということを、この経営者は知らない。滅びるならひとりで滅びればいいのに。


 怒りを持って拳を握って振り上げても、下ろす先がない。


 殴りたいのは、殺した男か? 殺された男か?


 拳に血が滲むほど壁に打ち付けて、怜は思った。


 都会には思惑が溢れている。その中を泳ぐ己が快感だったが、全てが色褪せて見える。どれほどのことだったと。


 立回りばかり上手くなっても何の悦びもない。


 殺された銀行員は、彼の少年期から学生時代を共にした数少ない親友。


 怜が望むものを捨てた友人は、彼が持つ嫉妬心に気づきながら向き合って話すことはなかった。


 二才の子を残して腹の中の子供と一緒に夫と逝ったのは、怜にイヤリングを残して去った女。道ばたに咲く野花のような、どこにでもいるような女性だった。


 その彼女を、ゲームをするように翻弄し、奪った。一歳下の後輩を。親友が心を寄せ、彼女も彼を慕っていたのは傍目にも明らかだったから、欲しかった。


 親友を恋しがっているのに口に出せず泣く女を抱くのは快感だった。飽きた頃に雑草のように捨ててやろうと思ったが、恋する者同士は収まるところに収まり、捨てられたのは怜の方だった。


 彼女を失った喪失感は自分でも呆れるほど大きなものだった。


 何故なのか、自分でもわからない。


 手元から離れて始めて気付かされた恋。


 けれど、もうどうすることもできない。


 親友も彼女も死んだ。


 怜は、衝動的に僅かな身の回りのものを携えて北海道へ飛んでいた。


 二度と東京へ戻るつもりはなかった。





 身を寄せた先は、死んだ友人の父親が経営する牧場だった。


 客人にはやさしい現地の人も、いざ居着くとなるといろいろ不都合が出てくる。


 鳴り物入りで北海道入りした怜は、過去に接した人達から打って変わった扱いを受けた。


 ヨソモノのシロートに勤まる仕事じゃない。


 いくらオーナーのお声掛かり、息子さんの友人だと言ったって、たかが知れている。


 ひょろっとした女みたいな顔の男に力仕事ができるかね。


 綺怜なオフィスで、伝票にサインでもしてるのがお似合いだ。


 口に出して言う者、言わずに態度で示す者、無視する者、様々な好奇の目に晒されても怜は終始無言だった。


 言いたい者には言わせておけばいい。


 自分がスタートラインから恵まれているのは良く分かっている。だからその上に胡座をかくことなく、地道に基礎を固めることからすればいい。


 新参者はいつだって孤独だ。


 自分は元から孤独を好んできた方ではなかったか。


 慣れている。


 でも、ここに住まう以上、それではいけない。


 自分の場所を作らなくては。


 その為にも、ここにいる人々に自分の事を力で認めさせなくてはならない……。


 心の奥底に、彼等と自分は違うと思う、優越感があった。


 幹部級のポストを用意されても受けず、彼は馬丁の仕事を黙々とこなした。


 朝は夜明けと共に始まり、夜の九時には床につくような生活。


 馬を相手にする仕事はほとんどが肉体労働だ。それに北の寒さが加わる。


 日夜の労働はひ弱だった彼の体に逞しさを与えた。


 鋭く人を射るような目付きは息を潜めた。


 洗練された都会的な身のこなしは実務的なものに変わる。


 彼の回りに張り巡らされていた華やかさのベールが一枚ずつ剥がれ、最後に、容易に人を寄せ付けない目をした寡黙な男が残った。


 微笑むぐらいのことはあっても声を出して笑わなくなった。笑えなくなった。


 オーナーの目を盗んでしかけられる従業員たちの苛めに耐え、無視に耐え、仕事に耐え、時は過ぎて行く。


 緊張の日々の中、日に日に大きくなる子馬たちの存在には助けられた。


 馬の親子は仲が良いと言うが、文字通り子馬は母の側を離れない。


 おぼつかない足取りで母の後をひょこひょこ付いてくる。


 異様に伸びた、節だらけの四本足の上に申し訳程度の胴と首と、大きい頭。


 一見するとどの子も同じようだが、体の色も違えば、星の位置も違うように体格も違うものだ。


 当歳馬の体には馬の将来が詰まっている。この骨張った体が大きくなり、肉が付いていく。筋肉はごまかせても骨格は変えようがない。


 競走馬であることを忘れて眺めると、彼らの睦まじさは、微笑みを誘うと同時に、胸苦しさを彼に与える。


 子を慈しむ母。子に何かあれば馳せ付けて子を守る母。


 教えられたわけでもないのに我が子への愛情を注ぐ姿。


 自分は母に愛されていたのかと、朧になった母の像に、怜は問い掛けた。


 あなたは物言わぬこの動物がわが子に寄せるような愛情を、私に、妹に、注いでくれたのだろうか、守ってくれたのか。


 僅かな記憶から、母の愛を見つけるのは難しかったから。


 遠く離れた今でも、僅かでも我々兄妹を思い出してくれることはあるのだろうか。


 遠い目で辺りを眺める彼の側には、いつも決まった栗毛の子馬がいた。


「またお前か」


 彼は手を伸ばす。


 その手に誘われるように来る子馬。


 彼は手をしゃぶる子馬の鼻面をもう片方の手で撫でて、思慕を打ち消す。


 聞いたところでどうなる。過去は戻せない。


 自分は母からも父からも独立した。


 これからはひとりで立って生きていく。


 自分の子別れは、母と離れ離れになったときに終ったのだから。


 そう、終わったのよ、と告げるように母馬が彼の前に立ち、子馬と彼の間に頭を割り込ませる。


 私の子供よ。もう返して頂戴ね。


 そう問い掛けるような眼差しを彼に向け、馬の親子はいつも彼の前から去って行った。




 春まだ浅い北の地で束の間の夏は過ぎ、駆け足で秋が近付いて来る。


 秋は子別れの時期だ。


 今年の春に生まれたばかりの当歳馬は半年と母の側にいられない。母と子は離れ離れになる。


 子馬たちはサークルの中に一塊にされ、途方に暮れる。


 母たちは子を探して啼く。


 子も母を求めて啼く。


 啼いて探して求めて、次第に母も子もお互いのことを忘れ、自らに課せられた運命を受け入れていく。


 母はまるで子供などいなかったようにいつもの生活に戻る。


 子も仲間と身を寄せ合い、グループを作り、群れ、遊びの中で次第に順列が出来て上下関係が形成される。


 上に立つ者。従う者。輪に入れずひとり置かれる者。拙い中にも彼らなりの社会が出来上がる。


 怜が、オーナーから何度目かの呼び出しを受けたのは、ちょうど子別れが完了した頃だった。


 再三再四、怜が身を寄せている牧場のオーナーより、下働きではなくもっと上、実務的な仕事を手伝ってほしいとの申出を受けていた。その都度断りを入れていたので、今回もその話の蒸し返しかと、客間に入った彼を待っていたものは違っていた。


「馬を持つ気はないかね」


 開口一番にオーナーは切り出した。


「馬ですか」


「そう、馬だよ」


「私が」


「君がだ」


「いずれはこちらほどとは言わないまでも、自分で牧場を持ち、馬主も兼ねたい希望はあります。でも、今すぐにはとても……。

 私には経験がない。知識もない。牧場を持とうにも土地がない。買う資金も満足とは行きません。第一、馬主になろうにも、今の私は無職に近い。審査は難しくて競馬会は私を通しはしないでしょう」


 怜は苦笑混じりに言った。


「いつまでも下働きばかりしているわけにもいくまい」


 反論しようとする怜を片手で制して、オーナーは静かに言った。


「私は、今年の当歳馬は、自分名義で持つのはやめたのだよ」


 オーナーは、自分の息子と同じ歳である目の前の青年に語り掛けた。


 自分は三人、身近な者を亡くした。


 ここを継ぐはずだった息子と嫁、日の目を見ることのなかった孫を。


 子馬が誕生した時期に世を去った三人の為に、喪に服していたいのだ、と。


 すでに人手に渡る約束になっている馬はいい。買い手のない子も直に受け入れ先が決まるだろう。


「一頭、どうしても手放したくない子がいる。その子を、君に貰って欲しいのだ」


 提示された子馬の名を間いて、怜は驚愕した。


 いつも彼の側に来ては砂糖をねだっていた子馬だ。


 母系父系共に申し分のない血統で、目の覚めるような栗毛を持つ牝馬だった。


 その年生まれた子の中でも特にオーナーに目を掛けられていた、正式な名前のない彼女は、皆から『お嬢』と呼ばれていた。


 繁殖に入ったばかりの肌馬から産まれた子は一般に優秀で、彼女も例に洩れず、すでに腹の中にあった時からかなりの引き合いがあったという。


 牝馬の前にあっても臆することなく、当歳馬の中では早々とリーダーになっていた。喧嘩をけしかけられても負けない気の強さと、伸びやかな骨格、柔らかい筋肉。素人に近い怜の目から見ても、将来有望で、中央競馬に出るのはもちろんのこと、かなりグレードの高いレースでも耐えられるのではないか、賞取りを目論んで配合されたと一目で分かるその馬名を前に、怜はあわてて首を横に振った。


「私には過ぎる馬です。彼女なら、億単位の金を積んでも欲しがる人がいくらでもいるはず。はい、そうですか、で頂けるものではありません。私には用立てできる資金も、彼女を受入れる牧場も、厩舎もない。お受けできません」


 怜は机に額をこすりつけるように頭を下げた。


「金で売り払えるものならとうの昔にしている。自分で決めたことだから、翻す気は毛頭ない。しかし」


 机を挟んだ向かい側で頭を低くしている怜に見えるよう、血統を記した紙を差し出し、オーナーは一点を示した。


「何故、私が彼女を他の人に渡したくなかったか、君なら分かってもらえると思う」


 オーナーが語る終わりの方の言葉は怜の耳に届いていなかった。


 指し示された一点、そこには彼女が産まれた日が記されている。


 彼女の誕生した日は、友人親子の命日だった。


 三人の命を奪った日に産まれた将来を約束された牝馬。


 死と誕生。


 怜の脳裏に、『お嬢』の姿が映る。


 まだ怜の身長には届かないその頭をもたげて彼にじゃれつく彼女。


 染みひとつない栗毛を弾ませて走る姿の清々しさが迫って来た。


 彼女は、三人の命を吸い取って天から遣わされた生き物なのではないか。


 他の誰でもない、怜の為に。


 人生には努力よりも運に左右される部分が多い。


 より多くの物語と、運、不運を集めた馬ほどさらに輝き、強くなれる筈。


 垂れた頭を更に深く下げ、怜は肩を震わせた。


 これは避けられないこと、必然ではないか、と彼は自分に問う。


「引き受けてくれるだろうか」


 遠くで声がする。


 怜は言葉では応えず、頷いて了解の意を示した。




 オーナーの元を辞去してすぐ、怜はお嬢の馬房に足を向けた。


 日はすでに傾いて、空には星が瞬いている。人の気配に気付いて、馬が嘶く。


 何頭目か馬の前を通り過ぎ、正式な名前が登録されていない、母の名の後に生まれた年が記されている札の前に立った。


 柵の向こう側で、藁がかさこそと音を立てる。小さくお嬢は鼻を鳴らした。


 彼女には噛み付き癖がある。後ろ足で人を蹴飛ばす仕種もする。


 人見知りもする。


 気性の激しさは諸刃の剣だ。


 彼女はまだ幼い。


 彼女の父方か母方かのずっと遠い祖先同士の血が、激しさと炎の闘争心をもたらした。


 彼女がこのまま成長し、おとなになり、様々な訓練に耐え、細かくなっていく篩いに残れれば、何代前かの父祖たちが、彼女を助け、導くはず。


 いつまでも札の前から動かない怜に、お嬢は柵から頭をひょいともたげて彼を見つめた。


 私はあんたなんかお呼びじゃないわ。


 彼女はそう語っているようだった。


 二重の瞼の奥に濡れて輝く漆黒の瞳は、優しくも厳しくもある。


 生を受けて半年と経たない当歳馬なのに、半端な人間では彼女の迫力に気圧されてしまう。


 唯一、厩務員以外でお嬢が慣れた最初の人間が怜だった。


 怜は彼女の鼻面を撫でた。


 彼女に触れている手に覚えがあったか、最初、うるさそうに首を振ったお嬢は、匂いを嗅いだ。


 怜はジャケットのポケットから角砂糖を一粒探り出してお嬢に差し出した。お嬢は目を細めて彼の手ごと砂糖にむしゃぶりつき、なくなった後も名残惜しそうに怜の掌を嘗め続ける。


 舌の感触の暖かさは生の温もりだった。


 怜はそっとお嬢の首に腕を回した。


 私の馬だ。


 怜は思った。


 全てのサラブレッドには可能性がある。


 しかし全ての馬が頂点を極められるわけではない。


 海のものとも山のものともわからない原石たち、しかし怜の中ではお嬢を腕に抱いた時、可能性が確信に変わった。


 お前は、私のものだ。


 他の誰のものでもない。


 お前は必ず他馬を圧倒する存在になる。


 私がそうさせてみせる。


 怜の人生の流れはこの日を境に変わった。


 彼は夢の現実へ向けての一歩を歩み出したのだった。




 お嬢は、母の名プラス誕生年ではなく正式な馬名で呼ばれるようになった。


 レイグラス。


 怜は、自分の名を彼女に授けた。


 レイ、には光という意味もある。ターフの上を駆け抜ける一条の光となるように、との願いを込めて。


 そんな走りを彼女に期待した。


 しかし、いざ馬を持つとなると、怜には資格がない。一定の収入もなく、日雇いに近い身分の彼にはレイグラスを持つのは難しい。


 また、人の口には戸は立てられない。誰もが去就を見守っていた、希望の星だった彼女だけに、噂はファーム内に広まっていく。


 いくら亡くなられた坊っちゃんのお友達だからって、甘いにも程がある。


 何も素人に譲らなくったって、お嬢ならいくらでも買い手がつくはずだ……


 怜は再び、オーナーの招きを受けた。


 ふたりの意見は一致している。


 これ以上、ここに留まっている理由はない。


 新参者が叩かれるのは当然だが、いつまでも一方的な言われ方をされる筋合いもない。


 怜は今ではお嬢を手放す気は毛頭ない。


 しかし、彼女とここを離れて路頭を迷うわけにもいくまい、どうすれば……。


 「過分な申出と、怒らないでもらいたい」


 登記簿のコピーを怜に渡してオーナーは言った。


 「私のような規模の牧場があると、小さなところは淘汰され、自然、私の元に集まって来る。その内のひとつだ。君には必要だが私には魅力もない」


 もう引き返すことはできない。


 背水の陣をひくとはこのこと。


 怜は、顧みもしなかった自分の会社を担保に、レイグラスと牧場を手中を収めた。





 葉っぱを散らすようにして渡された牧場は、息子夫婦へ身代を譲り渡した老人の家族経営で、オーナーとは旧知の間柄とのことだった。


 小さいながらも一通りの設備が整っている。


 オーナーなりの気遣いなのは明白だった。


 持ち主だった老人ではこの規模でも治めていくのが難しく、息子夫婦がいるにしても人手が足りない。家族が食うには困らないが、人を雇えるゆとりがない。


 しかし、小粒ながら子出しのいい肌馬を何頭か抱えている。土地も手を入れれば幾らでもいい牧草を用意できた。ポテンシャルはなかなかのものだった。


 彼にとって何といっても有り難かったのは、牧場の人達が、怜を偏見の目で見ない、口は悪いが率直で温かい人達だったことだ。


 あそこのオーナーが勧める人に悪い人はいない、私たちは馬と一緒にいられれば、よそに行かずにすむのならこんなに嬉しいことはないのだから、と、怜を受け入れてくれたのも助かった。


 レイグラスのことはあまねく知渡っており、生産者は元の牧場でも、帰って来る先はうちの牧場だ、と素直に喜んだ。


 馬主の「ば」、牧場の「ぼ」の字もわからない彼にとって、この上もない師になる彼等の温情ほど有り難いことはない。


「とかく、新しいことを始めるには困難が付物と言う奴で。しかも、あんたは余所から入ってらした新参者、大きな顔をしてもらっちゃ、古くからいる人間が面白くないのは当たり前、それも自分たちより見てくれの良い男が。もっと面白くないですな」


 老人は枯れた声で笑った。


「でも、大成するのはよそから来た畑違いの者が多いものですよ、古くからいる儂らみたいな輩は、頭が固い。きのうと同じことを今日も明日もしちまうんですよ。でも、あんたは違う。儂らでは恐ろしくて出来ない冒険も出来ちまう。新しい風は、外から吹くように出来ているんですかな」


 厩舎から馬たちを放牧に出して手をふと休めた時や、夜、彼用にあてがわれた宿舎で書き物をしている時、ふっと不安になる。


 毎日が馬たちの世話に費やされる日々。


 ひとつの夢が叶う度に次の夢が膨らむ。


 膨らんで、幸せな筈なのに、孤独でたまらなくなる。


 自分は独りなのだ、と。


 孤独を好んだ自分が。


 心境の変化が聞いて呆れる。


 この道を歩む時、彼はひとりで未知の世界に飛び込んだ。確たるもののない世界。明日はどうなるかわかったものではない。いくらひとりで成功を確信していたって本当は怪しいものだ。


 もし、思うような結果にならなかったらどうするのだ。


 レイグラスが血統倒れの走れない駄馬になることだってありうる。


 牧場だっていつ人手に渡るか知れない。


 そうしたら、どうする?


 自分が信じられない。


 私は重大な過ちを犯しているのではなかろうか、と。


 今の彼は自分だけではなく、複数の人生に関わっている。


 素人の彼の好きに任せてくれる牧場の人たちや、勝手に会社を担保にした怜の後事を二つ返事で引き受けた人達。


 ひとりでは事を成し遂げられない。多くの人の手が必要だ。


 自分は変わらなくてはいけない。


 緊張の日々だけが続く。


 どんなに強い意志を持っていても、時には糸も緩む。


 地の底から湧いて出てくるような不信感を胸に抱いて身を横たえる時、不安を具現化するように彼の前を通り過ぎた女達が現れる。


 一様に彼女たちには顔がない。うっすらと汗を浮かべた滑らかな肌の持ち主だったり、髪の美しい娘だったり。ふくよかな肢体、細い腰、胸に抱き留めた女の感触が蘇る。


 身元に引き寄せ、俯いた顔を上げさせると、のっぺらぼうの顔には目鼻がついている。一見するときつい、地味な印象のある女。あっと見る間にその顔は、若いままに世を去ったかつての恋人、友人の妻となった女になる。


 怜の元を去った頃のままの姿で、彼女はするりと怜の腕から零れ落ちる。


 腕を伸ばそうにも重くて上がらない。


 長い髪をくゆらせて彼女は怜から離れて行く。


 声を出そうとした瞬間、恋人の幻影は笑い声と共に去り、笑い声は馬の噺きに変わった。


 彼の弱きを蹴散らすように現れるレイグラス。


 蹄を鳴らし、栗毛の馬体が彼の前に立ちはだかっている。


 二重の賢しそうな瞳は、真っ直ぐ怜を見据えていた。


 あんたなんかおよびじゃないわ。




 貰い受けた日、彼に向けた瞳でレイグラスが怜の夢想を中断した。




 あたしは誰の力も借りないで一人で立っているのよ、弱い男なんて目じゃないわ。




 口があったら言い兼ねないそんな風情でお嬢が怜の前に立ちはだかった。


 あ、と声を出して怜は目を覚ました。


 朝と呼ぶにはまだ早い時間、室内は暗く、寝台から身を起こして額を押さえる。


 汗で湿った夜着ごと冷えた身体に身を震わせ、肩を抱いて、煙草に火をつけた。


 一口だけ燻らせ、紫煙が暗い室内に流れるに任せる。


 かつて自分は、細く、形が良く、手入れの行き届いた育ちのよい男の手を持っていた。


 無骨な太い指をした親友とは真逆だった。


 その友人は、命のやりとりをする家業を、手を汚す仕事を厭い、数字を扱う業界を選び、顔が見えない相手を顧客相手に金のやりとりをして殺された。妻子とともに。

 生活感が希薄で綺麗な世界で生きるに相応しいといわれた自分が、今は土にまみれ、素手で汚物に触り、生体の世話をし、血にまみれ、死体を葬り、潰す馬を処分場へ送っている。


 生の息吹を間近に感じる、今の方が何倍も生きている気がする。


 友人に面と向かって訊いたことはなかったが、おそらく、彼は自分の父親のように生産馬の生殺与奪に関わりたくなかった。成功する馬はほんの一握り、淘汰される生き物が大半の世界に身を置くのが耐えられなかった。


 誰かが生きれば誰かが死ぬ、世の中は均整がとれた天秤のようなもの。目先の生き死にに気をとられた友人はそれに気づけなかった。


 結局、対象が生物であろうと被生物であろうと同じなのだ。


 路傍に咲く小さな花を美しいと思う怜は、下級生の彼女に同じ薫りを感じた。友人を見上げる瞳の素朴さが愛しかった。


 同じ目で自分を見て欲しかった。


 もし、自分がありのままの姿をてらいもなく晒せたら、あるいは彼女を慈しめたら、永遠に失うことはなかったかもしれない。


 雑草を蹴散らすように摘み、奪ったのは自分だ。


 過去は巻き戻せない、けれど、もしかしたら、友人も彼女も喪うことのない未来があったかもしれない。


 後悔だけが残った。


 自分が、東京から逃げた理由、彼女の死が堪えた理由でもあった。


 堂々巡りの自己憐憫を割るように、鮮烈な光が怜を射る。


 曇天の雲間から射す、鈍色の荒野を照らす一筋の陽の光。




 レイグラス。




 私にはお前が相応しい。

 激しい気性を内包する、乾いた、無垢な、冷徹な瞳のお嬢。





 お前を生かせるのは私だけだ。


 泣きごとは後回しだ、耽る過去もいらない。


 私にはお嬢がいる。彼女を檜舞台に立たせられるのは自分しかいないと確信したのではなかったか。





 走れ、誰よりも強く誰よりも速く、誰よりも遠くへ。

 走れ、走れ、走れ!


 たなびく紫煙は夢の中のお嬢と重なり、ふっと掻き消え、あやふやになっていく。


 こぼれ落ちそうな煙草の灰を、灰皿に押し込み、怜は再び寝台に横になった。


 華奢だった自分の手は、今はいくらあらってもこびりついた泥が落ちない、労働者の手になっていた。それも悪くないと思った。





 レイグラスはしなやかに伸びる若木のようにすくすくと成長した。


 人に慣れない強気な所は、裏を返せばひとたび心を許した者への服従に繋がった。


 乗り手を選び、気分が乗らないと走らない。絶対に走らない。


 ぽっくりぽっくり、トレーニングセンターのトラック上を呑気に歩いて、彼女を抜き去る他馬をのんびり見送った。


 かと思えば、いきなり大躯して三才の牝馬と思えぬ足を披露した。

「我が儘で食えない馬ですな」


 レイグラスを引き受けた調教師は、苦笑まじりによく語った。


「美人は苦手ですよ、性格もダメときてはお手上げですな」


 怜は報告の度に、ダメを連発された。


 しかし、言ったこととは裏腹に、愛しそうにレイグラスを見上げる調教師のまなざしを見逃さなかった。


 直接レイグラスを担当する厩務員や助手たちの手応えから、何頭も馬を管理する厩舎で、三才のおてんば娘が他の古馬たちよりも可愛がられているのがわかる。


 全てを預けた厩舎に任せ、怜は天の采配に賭けた。


 強い者には持って生まれた素質と、それを伸ばす力以上に運に恵まれている。勝つ馬はどうあっても勝てる筈だ。


 調教師の指示通りのローテーションは組まれ、レイグラスは走った。


 牝馬に混じり、どしゃ降りの雨の中、ぬかるんだ道を走り、彼女は勝鞍を重ねた。


 新馬戦から始まって、休みを挟みながら順調にクラスを上げて行く。

 レイグラスは本番に強い。パドックでは白けていてもいざ鎌倉になると走ってしまうのだ、騎手にもよるが。


 勝鞍が増えると、にわかに周囲が騒がしくなった。


 牝馬だから、故障無くそこそこの成績を上げたら繁殖入りを……と考えていた関係者たちは方向転換を計ることにする。


 明け四才の早春、彼女の進路は定まった。


 牝馬の好調の波は長くは保たない。


 牝馬と比べると、どうしても早熟で、早めにピークを迎えてしまう。


「走らせたいですね、大きなレースで。お嬢は何かやってくれる、そんな気がしてならないですよ、時田さん」


 雪のちらつく北海道で受けた電話の先の声は言う。


 私はもっと前、当歳馬の頃から、信じていましたよ。


 心の中で呟いて、怜は言った。


「夢を、賭けてみましょうか」


 生きていれば自分の父とそう歳の変わらない調教師に怜は言う。


「お嬢は走ります。芝の鮮やかな東京の二千四百で」


「桜ではなくて、オークスですな」


 牝馬クラシックの二冠目のレースのことを言いつつも、ふたりは全然別なことを考えていた。オークスよりも一週先の、初夏を彩る四才馬最大のレースを。


 桜花賞トライアルを順当に勝ち進み、本線桜花賞でも復勝に絡んだレイグラスは方向転換する。出走権を手中にしつつもオークスではなく、次週のダービーヘ。トライアルレースを使うことなく本賞金と桜花賞三着の実績を頼みに、出走申込をした。


 からくも抽選は通り、四才牝馬にとっては過酷と言われる二千四百、牝馬ばかりの東京優駿への出走が決定した。





 怜は何年ぶりかで東京の土を踏む。


 北海道での新馬戦の時以外、彼は直接競馬場へ出向くことはせず、北海道の牧場で夫妻と老人の四人でTV観戦をして済ませていた。


 友人の死後、ついぞ足を向けたことのない土地に足を下ろして、怜は空を仰いだ。


 予報は見事に外れて絶好のダービー日和。そざかしターフの緑が映えることだろう。


 人数を制限しているにもかかわらず、パドックには早くから黒山の人だかりが出来ている。


 本日の主役、二十頭からなる出走馬の入場を今や遅しと待ち侘びている。


 馬主用のパドック席に入ると、一斉に視線が集まって、いつもより多い関係者たちの好奇の視線に晒されても、怜は顔色一つ変えず一点を見据えていた。


 電光掲示板のすぐ後に、トキノミノル像がある。ダービー優勝後、あっけなく世を去った彼は今は銅像となってそこにいる。顔はしっかり西、三冠を果たせなかった菊花賞が行われる京都に向かって。


 人込みに紛れて怜の位置からはどうあっても見えないのに、鈍色の、小さな銅像がそこにあるような気がして、彼は目を閉じた。


 するべきことは全てした。後は神様の気分次第です。


 調教師の断固とした言葉を聞き、怜は思う。


 トキノミノルは死んで伝説になった。


 今日、新しく伝説が生まれる。


 数々の冷笑に迎えられたレイグラスのオッズは二十頭中二十番、つまり最下位。皆はハナから牝馬が勝てると思ってはいない。


 それは彼を見る馬主たちの視線からも伝わる。


 それも今のうちだけだ、怜は思う。


 見るがいい。


 居並ぶ巨星たちの中にあって燦然と輝く、彼女の姿に、皆、驚くことだろう。


 牝馬にひけをとらない、汗にまぶされた馬体は全身たてがみと同じ栗色で、初夏の陽射しを受けて更に明るく、ターフの緑に映えるに違いない。彼女は衆人の注目を集め、男馬を蹴散らし、六枠赤の帽子がゴール板前を駆け抜ける。


 きっと。


 自らの予想とやらを恥じるがいい。


 彼女の姿を一目見れば分かるはずだ。


 強い馬は、牝牝かかわらず走るのだ、と。


 もうすぐ、馬たちが入場する。


 あと少しだ。


 色痩せた鈍色の伝説に色がつき、走り出すのは。


 怜は視線を電光掲示板に移した。


 かすかなざわめきと共に一頭また一頭と馬が引き綱に引かれてパドックに入る。


 数を二十まで数えて、パドックは見ずに怜は単勝のオッズの移り変わりを眺める。


 一瞬、デジタルは動きを止めた。


 馬は周回している。


 各種オッズが一斉に動き出した。



 怜は三枠6番に集中する。


 視界の下の方に、尻尾に赤いリボンを結わえた彼女が入って消える。


 怜の口元に、ここ数年浮かんだことのない笑みが仄めく。


 6番のオッズはぱらぱらと下がり始めた。


後書きという名のあがき


イタい。

20代の自分はホントにイタい。


最後は浸りきってるし。


ホント、イタいです。


過去の自分はとてつもなく恥ずかしい、

その20代の自分が

20代の男を書いた、

唯一完結している作品です。


勢いに乗って、下書きなしで数日で

ワープロでがーっと打ち込んだ記憶があります。

乗りに乗ってるのはよくわかるんだけど、

やっぱりイタいです。いろいろと。


今回、それなりに完成してますので

イタいまま出そうかとも思ったのですが、

誤変換とか誤読もちらほら。


(打ち出し文をOCRを使って読み込みました。

 昔のソフトを使ったきりの当方、

 あまりの使えなさに期待してませんでしたが

 新聞の読み込みには使える、かなりの精度だと聞きましたので

 スキャナにバンドルされてるソフトを使ってみました。

 一頃より実用に耐えるのにはびっくり。

 似た意味不明な漢字になっちゃってるところはご愛敬。

 明らかに変な字があったとしたら、

 当方の誤変換かOCRの読み込みエラーです)


場面展開が独りよがりで再読しても

誰が何をどーしてるのかわかんないよ、

ってところが散見されましたので、

つじつまが合わないところだけ手入れしました。


これを書いた当時、JRAでバイトをしてまして、


 発表時期が桜花賞前になったのはホントの偶然。

 (2012年4月)

 クラッシックレースが目白押しの時期ですね。

 忙しかったことを思い出します。


いろいろと業界筋のお話を聞く機会に恵まれました。

また、宮本輝氏の優駿が映画化された時に

原作を読んでますので(映画は見てないんだな)

かなりかぶれて書いたんではないでしょうか。

と推察します。


今読むと、競馬用語とかローテーションとか。

さーっぱりです。

モデルにしてる牧場とか馬もいるんですけど

そうだったっけ? ってな感じで、

きれいに競馬、忘れちゃってます。

書いた当時は新馬は3歳。

ダービー等の新馬クラシックレースは4歳。

当時は数えで馬齢を重ねてましたけど、

今は国際基準に合わせて変わったんですよね。

ですけど、あえて書き換えてません。


これを書いた当時、

全てをうっちゃって逃げる男の挫折って何だろう、と

アホな頭で考えて、

どうしても思いつかなくて結局、

ぼやかして煙に巻いていました。


今もよくわかりません。


本作はこれで完結してますので

前も後もありませんが、

別の形で何か書ければいいなと思っています。


ここまでのご拝読、お疲れ様でした。

そして、感謝いたします。


過去の遺産を発掘して発表は

もう少し続きそうです、

書き方思い出したところなのに

忘れちゃうのも癪なので、

なんとか時間をひねって書く作業は続けたいと思っています。


どこかでお目に留まることがありましたら、

その節は宜しくお願いいたします。


作者 拝

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