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 「すでに、治療開始から一週間経過しています」

 狭い医務室の中、陰気な雰囲気で会話が行われていた。

 早瀬と名乗った中年女性の軍医長が、静かに報告する。神名と正代が、一言も聞き漏らすまいとして耳を傾けている。明日からは、首都防衛のため出撃に出撃を重ねることとなる二人である。激務に突入する前に、すこしでも素子の状態を把握しておこうということになった。そこで、二人は素子の担当医のもとを訪れていた。

 「注目すべき点は……すでにストレス障害が発生しているということでしょう。眠れない、ささいなことですぐにぎょっとするなど覚醒亢進かくせいこうしんの症状、辛い記憶の追体験、といったものです」

 正代が、驚きに眼を見開いた。

 「それほど、素子は酷い状態に置かれている――ということなのでしょうか、早瀬軍医長?」

 身を乗り出し気味にした正代に、軍医長はわずかに微笑を返した。ただし、不謹慎でない程度の注意深い笑みではある。国家の宝たるナギナタが、精神的ショックで寝込んでいるのだ。笑ってもいられない状況だろう。

 「いいえ。私が言わんとするのは、むしろ逆のことです」

 軍医長は、大きな丸眼鏡をちょっとかけ直した。卓上のカルテを取り、注意深げに観察する。そして答えた。

 「すでに発生している、と申し上げましたが……仁尾上等兵が戦死された直後、来須上等兵は意識を失いました。そして覚醒した後に、まさにその直後から症状が発生したのです」

 「それが、一体どうしたんですの?」

 神名が訝しげにたずねる。

 「このような精神的症状は、恐怖体験から一定の期間を置いて、すなわち遅延して発生することも多いのです。その場合、治療までに何ヶ月も何年もかかり、またその道程は多大な労力を要するものとなりがちです」

 "何年もかかる"、"多大な労力"という言葉が、正代と神名の脳内にまとわりついた。一挙に、雰囲気が暗くなる。

 それを急いで打ち消すかのように、軍医長は言葉を続けた。

 「しかし、来須上等兵の場合は異なります」

 その言葉に、二人はハッとした。正代も神名も、申し合わせたように顔を上げる。軍医長の顔を、まじまじと見つめた。

 「彼女の場合、ほんとうに即座に発症しています――これはすなわち、症状が急性のところで踏みとどまり、比較的短時間で治癒する可能性があることを示しているわけです」

 「本当ですの!?」

 「その可能性がある、ということです。しかし、この一週間で私が診た限り――」

 その一瞬の沈黙すら、正代には長久に感じられた。

 「――来須上等兵の症状は、わずか数日間でも改善が見られました。とんとん拍子で上手く治っていくとすれば……一ヶ月ほどで、軍務に復帰できるようになるかもしれません。もちろん、上手くいけば、の話ですが」

 軍医長は、最期に慌てて付け足した。おそらく、二人の表情が突然明るくなったのを見て、変な期待をさせてはならないとしたのだろう。

 それは二人にも分かっていた。しかし、予想していたよりは遥かに良い状況である。我慢できなくなり、神名は正代の方に向き直った。

 「アタクシ、実のところ素子はもう戦えなくなってしまったのかと思っていましたけど……そんなことはなさそうですわね。本当にホッとしましたわ」

 「幸運なことです……しかし、素子がこうなってしまったのも、私たちに責任の一端があるのです」

 真剣な面持ちで、正代が言った。

 そして、軍医長に向けて軽く頭を下げる。軍医長の足元を眺める姿勢になりながらも、正代は引き締めた眉根を崩さなかった。

 「そこで、軍医長。お願いがあるのです。私たち二人は、明日からもうここに来る暇もなくなってしまうのですが――」

 「? はい」

 話題が突然変わったため、軍医長は不思議そうに相槌をうった。

 そこを、更に神名が続ける。

 「アタクシたち、素子に何かできることはありませんか?――ほら、アタクシたちは、いまこの場しか素子と向き合う暇がないでしょう? 千里が亡くなってから、素子はずっと人と会えない状態でしたもの。彼女と合うどころか、話もしていないのですわ」

 「聞き及んでいます。しかし――」

 たちまち、軍医長の表情が曇る。

 「それは……」

 「不可能なのでしょうか?」

 「いえ……ただ、病気を治すには踏むべき手順というものがあります。彼女の場合、まず恐怖体験を思い出させるものを視界から除いてあげることが必要なのです。その上で、すでに自分自身が安全な環境に居るということ――食事や睡眠など、生きるために基本的なことが満たされる環境にいるということを、体で理解させなければなりません」

 「つまり、アタクシたちは」

 「あなた方は、来須上等兵に戦争のことを思いださせる原因となりかねないのです。彼女の回復を願っていらっしゃるならば……今は、黙って見守るにとどめておくのが賢明でしょう」

 「そう、なのですか」

 正代が、無念の吐息を吐き出した。眼を下に伏せる。そのために、物憂げな黒髪が顔にかかって、正代の見た目を幽霊のようにした。期待が外れて落ち込むのも、無理ない状況であった。

 ひょっとすると、もう素子と永遠に別れることになるのかもしれないのである。

 正代はもちろん全力をあげて侵略者を駆逐し、生き残るつもりだった。地球を守るには、生き残って戦い続けるしかない。

 だからといって、必ず生き残れるなどと甘ったれたことを考えているわけではなかった。

 (せっかく、二人の部下を一斉に失うことは免れましたのに……なんという皮肉でしょう)

 しかし、私情を挟む余地はない。今は、素子の事情を最優先にする時だった。

 苦汁を飲むような心地がする。が、正代は耐えながら告げた。

 「そういうことでは、是非もございませんね。私たちは立ち去ることに――」

 言いかけた時、神名が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。あごをわずかに上げている。

 いかにも高慢そうな態度だった。正代は、気分を害すというよりも、神名の行動の意味がよく分からなかった。とりあえず、神名が注目して欲しがっていることだけは察する。一応、問いかけた。

 「何か言いたいことでも、神名?」

 「ホホ、すぐ諦めるのは貴方の悪い癖ですわよ正代。なに、簡単なことですわ。直接会えないのならば――」

 芝居がかった、深みのある声色。麗しい見目のせいで、そういううそ臭いところも似つかわしく見えるのが不思議だった。

 自分の世界に入ってしまったのですね。――正代は、ため息を隠した。神名には、そういう癖があるのだ。

 「手紙を残していけばよいのです! ある程度回復すれば、素子も読む余裕ができるでしょう。そして勇気付けられること間違いなしですわ――自分を残して出撃した友の手紙を見てね。ああ、なんて美しい友情……これこそ、肩を抱きたい戦友というものですわ!」

 若い女とはいえ、ナギナタの一員たる者がこれほどおきゃんな一面を持っているとは思わなかったのだろう。早瀬軍医長は眼鏡を必死に直しながら神名を凝視していた。

 しかし、一片の関心が沸き起こってくる。

 (手紙、ですか)

 気の早いことに、正代はしたためるべき言葉を思い描き始めていた。

 というのも、神名の瞳が微かに揺れているのを見て取ったからだった。

 涙だろう。

 眼の端に、透明な液体が溜まっている。ほんの少し、眼を凝らさないと分からない程度。

 素子を案じての涙だと、正代は察した。泣いていない自分が、薄情者のように感じられる。

 (明日からは、自ら命を捧げに行くというのに……いいえ、それだからこそでしょうか)

 その時になってから戸惑わないように――正代は、今は自分の気持ちに率直になった。微笑み、そして得心の息を漏らす。

 「手紙ですか。……彼女に伝える手立てとしては、一考の価値がありそうですね」

 

  

 粛々と、微塵ほどの容赦も見せず――侵略者軍団は首都へと侵入していた。

 すでに流れ込んだ爆撃型"METEO"の大群により、ありとあらゆる種の建築物が瓦礫の山に変えられている。もちろん、焦土と化したのはまだ首都のごく一部分でしかない。それに、ナギナタの獅子奮迅の活躍もあり、反撃が全くできなかったわけではなかった。しかし、敵の驚くべき物量は、ナギナタを飽和状態にするのに充分であった。八峠谷に戦力を残しておく余裕もなくなり、全兵力が迎撃に参加することとなる。

 国内最大規模、そして全世界でも屈指の充実した広さを持つ八峠谷飛行場。そこには、作戦に参加する兵器群がいまや遅しとばかりに出撃の指令を待ち構えていた。

 三七式念子管制戦闘機『揚刃』百六三機。

 00級制空随伴空母『』、『白鷺』、『蔓』、『唐薙』。

 ××級制空支援砲撃艦『』。

 ::級制空支援砲撃艦『』、『』。 

 四二式自動衛星戦闘機『揚刃擬』五九機もまた、空母の腹の中に艦載機として収められている。

 幾百ものデルタ翼が規則正しく連なり、地面を絨毯のように舐め尽している。まるで、無数の蝶がそこに留まって羽を休めているようでもあった。

 その軍の全容、もはや管制塔からでも一望できないほど巨大なものである。しかも、戦闘に参加する兵力はこれらわが国籍の部隊だけではない。

 [国名列挙]など、ナギナタに参加する多くの主要国からの応援が、各地の基地に駐屯している。首都方面に向かって、彼らはすでに進発しているはずだった。それに対して、八峠谷基地は戦場となるであろう首都の一部分である。ここに出撃準備を完了している部隊が、最後発の部隊であった。

 浅い南海のように、澄んだ光がふいに戦闘機群に差し込んだ。

 雲間の一部が、晴れたらしい。太陽光が、八峠谷じゅうの地面に存していたはずの影を次々と制圧していく。

 加えて、一陣の微風が吹き流れた。兵器群を掠めて横切っていくそれが、雲の位置をずらしたようだ。

 一連の自然現象が、合図のように働くこととなる。

 突如、全戦闘員とオペレータの耳に、電波の受信を知らせる低い機械音が鳴った。続けて発せられたのは、我が国ナギナタの臨戦司令部の長、連隊長の槇嶋寅の声だった。いつも以上に、彼の声は厳粛かつ重い雰囲気の響きが含まれている。

 『残された時間は寡少であるため、訓示は総員機上の状態で行うものとする』

 雷鳴のような轟きのせいで、基地中が一挙に静まり返った。

 『聞けっ』

 通信電波を受け取っている全ての者たちが、連隊長の言葉を緊張も交えて聞き取ろうとしている。

 単なる命令としての言葉ではない。軍務中であるため多少規制がかかっているものの、彼の言葉は世界中に電波を通じて放送されているのだ。

 そして、硫酸のように強く耳を熱する演説が始まった。

 『私の指揮下にある諸君。しばし耳を傾けろ、いいか! 私がこの場に言葉を告げる理由は、諸君の尊い精神を諸君自身の間に普遍化するためであり、その精神が望む世界の姿を実在化するためであり、そしてその精神を残し伝えるためである。この地獄のごとき戦争が始まり、すでに二十年以上が経過して来た。だが、それでも我々ナギナタの戦士の間、この気高い精神は失われることなく連綿と継続している! その精神とは何なのか。戦争の場に身を置いてきた諸君自信が、一番痛感していることだろう。しかし、私はいま一度この場でそれを述べることとしよう。その機会が訪れていることに、無上の喜びを感じている! 自身にとって価値あるものを捨ててでも、人類にとって価値あるもの、加えて人類そのものを守り抜こうという精神だ。火急の危機訪れる時節にあって、これほど必要とされる心の持ち様は存在しない。諸君がそれを巧みに装備していること、心より慶賀の至りである。だが、この説明だけでは、到底足りまい。さらに言葉を付け加え、人類の誇りかつ名誉たる諸君の心のうちを明らかにしよう。人類がこの星を訪れてから、数万年の月日が流れている。この深宇宙に創り上げた住居"地球"に、我らの祖先たちは、高度な文明を築き上げた。その時から洗練と淘汰を重ね、我らの文明はかつて予想し得ないほどに高度なものとなっている。諸君の武器となる戦闘機に始まり、我らの軍事力はその文明の精華である! だが、人類の平和を脅かす侵略者は、我らを根こそぎこの地球上から絶やそうとしているのだ。そのようなことは、決して看過できない! 我らは、この敵を滅ぼす責務を、決して忘れはしない。そのためにどんな代償をも厭わない苛烈な精神こそが、諸君らの持つ最大の兵器である。よく考えろ、諸君よ。このような危機の時代にあって、それに対抗できる力を持った人間はわずかしかいないことを忘れてはならない! 大半の人間は、例え戦いたくとも、その力を持つことがないのだ。しかし、諸君らは実に幸運である――幸運が諸君らの味方だった。諸君らを創りあげた人々に、感謝するがいい! 諸君らの持つ力は、あまりにも希少であり、同時に希望を人類にもたらす!』

 槇嶋連隊長は、後ろ髪を引かれるかのように黙り込んだ。が、それと人々が認識する暇も与えず、更に次句を紡ぐ。

 『いま、戦況は急激に悪化している。敵はいままでとは比べものにならない規模に膨れ上がり、今まさにこの地を蹂躙しようと迫っている。しかし、どれほど暗い絶望にあろうと、どれほど辛い艱難であろうと、それでも我らは人類の刀、人類の持つ唯一の武器である。我らの戦いでこの星を永続させられるかが、いま試されている。諸君がいま佇んでいるその土地も、勇敢な兵士の尊い命によって贖われたものだ。それは我らの戦利品であるが、しかしそれを所有することは日に日に危うくなってきている。死者が生命を捧げたこの星だ、次にそれを守らねばならないのは我ら生者である。兵士たちがここで散らした命を忘れてはならない。そして、我ら自信がここにその命を与えなければならない。全世界の死者が高潔に推進させてきたこの戦争、この大部の戦争を、我らが手で終わらせるのだ! 犠牲者の戦いを無駄にしないため、彼らの示した理想にいっそう近付く。そして、それに到達するのだ!』

 息継ぎを挟む。

 『総員、復唱せよっ!――』

 演説の終幕を匂わせている。同時に、軍人らしい力強さの込もった言霊が、連隊長のもとから溢れる出ているようだった。

 『"我らは、航空防衛機制ナギナタ!"』

 基地中の軍人たちは、連隊長の声に敏感に反応した。背筋を定規のように伸ばし、よく通る声を出せるように口腔を大きく広げる。その条件反射は、厳しい反復訓練の賜物だった。ナギナタ全体が一つの有機体を形作っているかのような、一斉なる動きである。

 『我らは、航空防衛機制ナギナタ!』

 電波としても、空気の波としても――何万人という将兵の気合が、首都を揺るがすほどの勢いで拡散してゆく。軍人たちの鼓膜は裂けんばかりとなり、更なる緊張感が生み出された。

 『"我ら、人類とその文明の生存に資せんとす、冷徹かつ精巧な兵器の一部品たらんとす! "』

 『我ら、人類とその文明の生存に資せんとす、冷徹かつ精巧な兵器の一部品たらんとす!』

 『"我ら、地球防衛に忠烈な意思を燃やさんと欲す!"』

 『我ら、地球防衛に忠烈な意思を燃やさんと欲す!』

 『"我らの蒼空を奪還し、命を継承せんことを欲する!"』

 『我らの蒼空を奪還し、命を継承せんことを欲する!』

 基地内部のあらゆる部屋、飛行場に居並ぶ戦闘機、制空艦の一機一機にいたるまで、闘魂としかいいようのない激烈な感情が爆発している。ただし思うに任せた発露ではない。気高い誇りと気概を秘めた、人々の美しい意思が現れていた。老若男女一人一人の軍人が、横隔膜を限界まで伸縮させ、言葉を放つ姿には。

 そう、彼らはこの上なく美しかった。美しいという言葉が、決して揺らがない。それは主観に左右されるような不安定なものではなかった。万人、万象に通ずる不朽の真理とでもいえるものが、ナギナタが示しているものであった。例えどんな陵辱を受けようとも、穢れることはない。

 社会を守るために精魂を尽くす行為は、常にたたえられなければいけないものである。

 何故なら――いくら進化しても、人間が生き物である限り、種族として生き続けようとする意志が生じて当然だからだ。

 ――そういった理論が存在していた。どこからともなく、いつのまにか。はっきりと、言葉で意識されているとは限らない。しかし、この演説を聞き取る全ての人々の脳内に、それは展開されている理屈なのだった。

 純粋に命を守ろうとする、本能の要請と理性の意義付け。それらを経て、もはやナギナタ達にはなんの迷いもなくなっていた。

 『――諸君は死にはしない。どのような形であれ、諸君は生命を保ち続ける。その原理が分かっただろう! 恐れを捨てろ!』

 『うおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオォォォォォォッッ!』

 天を切り裂く。

 けたたましく雄雄しい咆哮が、人の口を通って衷心から放たれた。

 例え、どれだけ真に迫った演説が行われたとしても。未だに、迷いを捨てきれないものも存在している。しかし、戦おうという意思すら持たない人間は、間違いなく一人もいなかった。いまのナギナタには、誰でもそう断言できるほどの強い意欲があった。それが、身のこなし一つに至るまで現れている。限界まで息を引き絞った声、正した姿勢、きつく結んだ唇、鋭い眼光――戦いに赴く人間の姿は、それほど凛々しく、悲痛であった。

 『第二次イナキ作戦、本日今時を持って発動する。総員、出撃せよ!』

 『了解ッ!』

 風が巻き起こる。自然の風ではない。

 無数の戦闘機や制空艦よりの排気である。形成された突風は、埃を散らしながら、鉛直に、水平にと、四方八方に駆け抜けた。

 隊列ごとに分かれた戦闘機の群れは、戦隊単位で固まっている。数秒おきに、次々と一個戦隊が空へと舞い上がった。その間に、制空も次々とエンジンを加熱させる。早くも、数隻の制空艦が垂直に浮かぶ。そして、戦闘機にやや遅れて巨大な鋼鉄の体躯を前進させていった。

空を圧しながら。唯一つの意思――戦場で死に、そして生きること。それを果たすために。幾人もの戦士を構成単位として、ナギナタは戦場へと駆けた。

 

 全ての終わりが、眼と鼻の先にまで近付いているのかもしれない。それでも、人間とは単純だった。しょせんは、生きている限り動物であることを辞められない。それは、例え友人が戦死した直後であろうと、数多の同僚たちが死に身を晒していようと、全都民が自宅ごと命を失うか疎開するかの選択肢を迫られている時であろうと――あてはまることだった。

 胃袋に食べ物を入れなければ、苦痛にのた打ち回ることすらできはしない。そう考えられるほどには、素子はまだ病に負けてはいなかった。

 従兵をお供にして、個室を後にする。軍人はほとんど全員がなんらかの職務に追われているため、こんな病棟内でも場末の廊下には誰も居なかった。基地付属病院の職員ですら、ほぼ半刻おきに送られてくる傷病者や戦死者の処理でてんてこ舞いになっている。無理もない話だった。

 (静か……)

 精神病系の患者を収容する病棟に対して、労力を割いている余裕はナギナタにはない、それは分かっていた。

 (厨房に誰もいないってことは、ないわよね)

 数日の闘病により、素子の精神状態はやや改善の状況を呈している。おかげで、多少であることが許可されるまでになった。

 だが、ほとんど十日ぶりに病室を出たというのに、言葉を交わす相手すらいない。もちろん、呼べば看護兵の一人くらいは、病室に直接赴いてくれたはずである。だが、今日は自分から食事を受け取りにいく気になり――気がつくと外に出ていた。が、その甲斐もない。そのため素子は、一抹の孤独を感じた。顔を伏せる。しかし、ふと関係ないことが思い浮かんだ。

 (いつも、こんな感じだった?)

 自分に問いかけた。軍人になる前の、市井の生活を送っていたころの思い出を辿る。

 寂寥感は、微笑に変じた。意外にも、頬の端がかすかに持ち上がる。止めようと意識しても、止められない。そんな感情が涌いてくるということに、素子は時の長さを悟る。特異な力に覚醒してから、おおよそ十年。

 年経た大人にとっては、大した長さの時間ではないかもしれない。しかし、素子にとっては人生の半分である。

 (思えば……人生の半分ぐちゃぐちゃ悩んでいたのね。よく我慢したほうだわ……)

 従兵の控えめな足音が、消えることなく聞こえている。彼女に、素子はいまの自分の顔を見せたくはなかった。というのも、素子はいまさぞ奇妙な表情をしているだろうから。細めたまぶたが、喜怒哀楽のどれを示しているのか。素子には、分からなすぎた。

 なんでこんなに早足になっているのかも、また分からない。従兵がついてこれなくなることも、頭では分かっていても体が無視していた。歩幅は広げず、足を踏み出す回数のみを上昇させる。

 素子は、今のところ戦線から離脱している。だから、ナギナタとしての責務を果たすことができようはずもない。敵の大軍を殲滅することに集中している軍人たちに、構ってもらえると思うほうがお門違いだ。 

 「ワーリャ」

 「は……はい!」

 思わず、素子は従兵を呼んでいた。遅れがちだった従兵は、ついに付属病院の内規を破って廊下を小走りする。

 「少し聞きたいことがあるの。けれど、その……少し、あなたの傷を抉ることになってしまうかもしれないんだけど」

 「ひッ」

 "抉る"という単語に反応して、ワーリャは小さく喉を鳴らした。猫に追い詰められたネズミような声である。素子は、ちょっと毒気を抜かれた。

 「言葉通りの意味ではないわよ。あなたに、嫌なことを思い出させてしまうかもしれないってこと」

 「ご、ごめんなさい……でも……ご主人様が、仰るなら……大丈夫です」

 「……そう。では」

 納得いかないまでも、素子はうなづいた。そして、ワーリャに尋ねる。

 「聞かせてもらうわね。あなたは、ご両親を失った時……悲しかった?」

 刹那、従兵は体を強張らせた。小さな紅い口が半開きになる。答えにくそうに肩をすぼめている。

 やはり聞いたことが悪かったかと、素子は思った。が、質問を取り消そうとする前に、ワーリャは答える。

 「あ、その……は、い……」

 消え入りそうに言う彼女は、肩幅をすぼめて床を眺めている。やはり、あまり思い出したくないことだったようだ。素子は、誤魔化すように作り笑いを浮かべた。

 「いえ、答えられなければ構わないの。ただ、私もいま、とても悲しい……から。あなたほどではないのかもしれないけど。ただ、参考にしたかっただけなの。ごめんなさい」

 素子は、率直に告白した。

 ワーリャがやはり黙ってしまうかと、素子は思い込んでいたのだが。意外なことに、ワーリャはそっと首を横に揺らした。 「いいんです」

 言って、ワーリャは自分の小さな手の甲をじっと見つめた。が、その眼は何も映していないように虚ろである。ゆっくりと、記憶を辿っているようだ。

 「わたし……しなかった、から」

 「……え?」

 聞き返す。興味のほうが先に立っている。慮りを欠いていることに四割がた気づいてはいたが、素子はそれを無視してでも答を急かすことを選んだ。

 ワーリャは、顔を上げた。だからといって、素子のほうを見るわけでもない。廊下の向こうへと、ただひたすらに視線を集中させている。

 「助けようと、して……」

 素子は、一心に聞き入った。羊の体毛のようなワーリャの頭髪が、不安定揺らぐのを眼にする。

 「何かできた、のに……わたしは、なにも……しなかった……です……」

 そこが限界だった。

 素子は、我に帰る。自分の行いを振り返り、そして過失を悟った。ワーリャに聞き入るあまり、ことここにいたるまで思い至らなかったのである。

 「ありがとう、ワーリャ。もういい、もういいわ」

 中腰になり、素子はワーリャを抱いた。

 彼女の体は、それと分からないくらい小刻みに震えていた。触れなければ分からないくらいの、小さな震えだ。いくらなんでも責任を感じる。素子は、できる限り柔らかい声音を用いた。諭すように、なだめる。

 「もういいのよ……もう、充分聞かせてもらったから。無理やりこんなこと言わせて、すまなかったわね」

 「はい」

 ワーリャは、何も逆らわずにうなづいた。

 彼女が、自分の過去を語ったことは、これまであまりなかった。少なくとも、素子にそう詳しく話してくれたことはない。素子が知っているのは、ワーリャの両親が戦災で亡くなったということだけだ。しかし今回は、素子が止めなければ話してくれたのかもしれない。だが、言わせることはできなかった。何故なら、自分が同じことをされたら――きっと嫌だろうから。加害者にならずに済んだ。

 海面から顔を出したかのように、素子はふっと嘆息する。いつのまにか、呼吸もおろそかになっているようだった。

 それほど、同じ体験のことが聞きたかった。自分と似たような体験を聞いて、辛さが少しでも免れることを願っていた。

 「そう、とっても辛い」

 素子は小声でつぶやいた。聞かせるつもりはなく、まったくの独り言である。ワーリャの悲しさが乗り移ってきそうで、それを振り払う意図だった。が、言葉にだすことで返って感情が輪郭を持ってしまう。

 どうしても、千里のことを思い出さずにはいられない。ワーリャは、今でもまだ傷の癒えないほどの打撃を被っているようだ。そんな彼女の体験と、自分自身の体験とを重ね合わせてしまう。

 千里。

 それ以外にない。

 「あの……?」

 気がつくと、ワーリャが素子の眼前に回りこんでいた。どうやら、考えに没頭して立ち止まっていたらしい。

 「ああ、いえ、もういいの。でも、気が向いたら……いつか話して頂戴ね」

 大蛇に巻きつかれたように、心臓の辺りが傷む。素人目に見ても、心臓が悪いのが原因でなくて、精神的な原因があるというのは明らかだった。

 そんなことはおくびにも出さない。軍衣の胸ポケットの辺りを押さえつつ、素子はぎこちなく笑顔を取り繕った。

 「ご主人さま……」

 ワーリャは、ぽつりと囁いた。感謝しているとも見えるし、あるいは素子を慰めようとしているのかもしれない。が、どこか煮え切らないようなワーリャの表情は、素子の理解を阻んだ。

 お互いに手を出しかねて、二人はちょっとその場に立ち尽くす。

 (こんなもの、)

 心肺蘇生を施すかのように、素子はさらに強くみぞおちを指で押し込んだ。胸骨が緩やかに圧迫され、体の奥に沈む。骨の厚さのせいで、心臓の鼓動はあまり感じられなかった。

 ひょっとすると、自分はあの時死んでしまったのではないか――そんな虚構が、虚構であって欲しい想定が、電流のように素子を襲う。死者に引きずられているようだった。

 ただの死者なら良い。しかし、その死者は、素子の過失の手になり殺された。

 引かれる後ろ髪を振りほどけず、素子はつまるところ悩みを絶やすことができないでいないる。ほんの一瞬の不注意で、千里を死なせた――そんな恐怖体験の強烈なフラッシュバックは、頻度、強度ともに弱まってきてはいた。それでも、だめだった。弱酸のように、自らの毅然さを溶かす苦しみを除くことができない。

 (私たちが味わってるの? ほんとうに、私たちが……私たちみたいな、人間が……)

 素子は、心のどこかで知っていた。なのに、そのとある事実をきっちり考えること、今まで避け続けてきたのである。避けて来たということすら、素子は意識していなかった。しかし、今になって、それが神経の深層から取り出される。

 (弱い……私も、この従兵も)

 孤独であり続けた学生時代も、いまに比すれば平和で安穏な生活を送ることができた。軍人になってから体験した、鬼のような訓練も、消耗するのは肉体だけ。精神を病むことはない。あるいはあったとしても、それは仮定の上に立てた仮定に恐れおののくようなものだった。あらかじめ色々と知りすぎて、いらないことにまで神経を使っていたように思う。それを良かれ悪しかれ乗り越えてきた今となっては、もはや思い出にもならないくらいだった。

 そのどんな記憶上の苦しみよりも酷な釘が、素子の心深くまでつらぬく。

 胸の鈍痛が鋭いものへと変わっていく。素子は、いっそうきつく拳を体に当てる――それでも痛みは引かず、前かがみになる。ワーリャが、こちらを心配して何度も口をぱくぱくさせているのが分かった。しかし、それにもかまっていられない。

 事実を受け入れられない自分もまた、嫌で嫌でたまらなかった。

 (私たちは弱いから……)

 頭の上にもやがかかったように感じる。いつまで経っても強くなれないことが、彼女を責めていた。

 そのせいか、注意力が散漫になっていたらしい。

 突如、質量の大きな物体が素子に激突した。

 「ッ!?」

 神経的な苦労のせいか、素子は最近かなり痩せてきていた。そのせいで、体が脂肪のクッションを失っている。そんな素子の体に、衝撃は直接に響いた。思案に暮れていたところを横にぶつかられたため、上手く受身をとることができない。かろうじて、手だけ床に着ける。

 体を横たえたまま、素子は静止した。同時に、素子にぶつかってきた物もまた同じように動きを止める。

 それは、人間だった。

 「痛た……」

 声に覚えがあり、素子は即座に視線を向ける。

 「マリイさん!」

 素子は叫んだ。オペレータのマリイが、体育座りのような姿勢で座っている。どうやら、偶然にも出くわしたということらしかった。彼女は背中を打ったようで、背骨のあたりをしきりにさすっていた。

 「どうも失礼しました、急いでいたので――って、え?」 

 眼を白黒させ、マリイは素子の顔をまじまじと見つめた。何度か眼をしばたかせ、そして手で目じりをこする。どうやら、こちらが誰か分かりかねているようだった。

 なお僅かの逡巡を重ねた後、ついにマリイは口を開く。

 「素子ちゃん、なの?」

 「そうですよ、マリイさん。お分かりにならないんですか?」

 素子の軍医についた埃を、ワーリャがせっせと払い落としている。それをひとまず度外視して、素子はマリイに疑問を呈した。

 「ううん、そうじゃなくて――」

 言うと、マリイは上体を素子の方に乗り出した。紺色の袖から伸びたマリイの手が、素子に伸びる。素子に触れようとしていることは分かった。

 そうでいて、同時に触れるのを躊躇うかのように指が内側に曲がり、猫の手のようになっている。

 逆らう理由もなく、素子はマリイに触れられるに任せた。頬に、その手が当たる。

 「こんなに痩せて。顎も尖っちゃって、まあ」

 素子の顎の輪郭を、マリイは指の腹でなぞった。骨と薄皮一枚隔てて、マリイに触れられている。ひとしきりなぞると、マリイは手を離した。そして、指先をじっくりと観察する。

 「肌のツヤもなさそう……って、これは今は誰でもそうかな?」

 あくまでも漠然と、疲れたようにマリイは笑った。

 突きつけられた表情に、素子は勝手に傷つく。そう、誰も心から笑えるはずもないのだ。この状況下で――。

 「マリイさん」

 「うん?」

 マリイは、やはり大人だった。そんなことはおくびにも出さず、ただ毒気のない笑顔を見せてくる。

 「その、軍務のほうは大丈夫なんですか? こんなところで――」

 わざわざマリイが付属病院にいるということは、間違いなく素子に会いに来たということだろう。素子はいぶかしんだ。嬉しくないといえば、それは嘘だったが。

 「役に立たない私のところに、足を運んでもらっても……私は」

 「大丈夫よ。連隊長から許可を頂いてますから。ほんの二、三時間だけどね」

 「連隊長?」

 わけが分からず、素子は首を捻る。なぜ多少の暇をもらうのに、いちいち連隊長が登場するのかよく分からなかった。

 「連隊長が、そろそろだと仰ってね。あんな人だから、人の気持ちなんて分かってないんじゃないかなんて思っていたけど……やっぱり流石だわ。彼の予想通りに、あなたはもう出歩ける位に回復しているんだから……」

 苦笑を浮かべつつ、マリイはつぶやいた。そして、今度は明らかに素子に向けて言う。

 「ちょっと、一緒に来てくれる? 素子ちゃん」

 「えっ」

 素子は、片足を後ろに下げた。思わず、さらに後ずさりしてしまいそうになる。

 (何なの、この感じ……?)

 振り子のように、心が不安定に焦れた。これは胸騒ぎだ――と、素子は確信する。念波による時空を越えた知覚か、それともただの勘か。自分に起こる不幸なのか、もと巨視的なことか。いずれにしても、良くないことの起こりそうな気がした。

 「……伝えないといけないことがあるの」

 

 『第十一偵察戦隊より各員! 前方の敵個体数は一万以上、接触まで残り十分ッ』

 その報告に、正代は息を呑んだ。

 「信じられませんね。この数」

 いまや、念波の射程範囲に入った敵影を察知できるほど彼我の距離は縮まっている。できうるならば、こんなものを知覚しないで済むのが一番だった。

 しかし、敵の大軍は現実に存在している。

 乱れそうになる精神を集中する。眼を細めた。電子兜の隙間からごく少量の光が差し込む。しかし、それすら捨て置いた。

 非常に稀な光景が、念波を通して伝わってきたからである。

 『おい、これを見ろ! これって、もしかして』

 『なんつうでかい質量なんだ。こいつは……』

 偵察戦隊の会話が、念波に乗って伝わってくる。普通、単なる会話は念波に乗せないのだが、頭に血が上っているとついそれを忘れてしまうということもありうる。今は、まさにそういう状況と考えられた。  

 町一つ分ありそうな大きさの物体が、突如出現する。その物体があまりに巨大なため、空中に地面が現れたかのようだった。空母型の侵略者も数機、近くに展開している。しかしこの巨大な物体に比べれば、その規模は段違いだった。

 円盤のような体から、無数の棘のようなものが突き出ている。どうやらそれは、砲台らしかった。

 (あんなに大量の砲撃を、一度に喰らったら……末恐ろしいことになりますね)

 正代は戦慄を覚えた。

 『正代! あいつはまさか……』

 神名の念波により、彼女の切羽詰った気分が伝播された。

 「はい」

 神名は、ゆっくりとうなづく。そうでいながら、彼女はその敵についての情報を探り出していた。いや、その敵はあまりに知れすぎていて、思い出すための努力もほとんどいらないような状態だった。かつての訓練生時代に、教本で敵のデータを見たこともある。が、それよりむしろ世間一般のメディアで流された情報のほうが記憶に新しい。文学表現じみた、敵データの列挙が思い出された。その一部を引用して、正代は語った。

 「そのもたらす損害が、ある一個の戦場の内には収まらないことによる名称。軍需産業施設や軍事基地、流通機構の破壊は人類の戦争遂行能力を弱体化させ、その他産業施設、住居空間、自然環境の破壊が国民生活自体を極めて低い水準にまで貶めてしまう侵略者。侵略者入寇より、すでにいくつかの国を完全な焦土と化してきた最悪の敵――で、ございます」

 『確認された中で、最大の侵略者……あれのことでしたのね』

 神名は、声の震えを隠しきれていない。

 彼女がさらに言葉を続けようとする前に、今度は全体通信が入った。

『戦略型""の出現を確認! 』

 その報告が出るや否やパイロットたちの念波が一斉に放たれた。知らされた事実に驚き、その感情の揺らめきが念波を促したようだ。石を投げこまれた水面のように、空が波紋とざわめく。

 しかし、表立って取り乱したような感情をあらわにする者もまたいなかった。

 『うろたえるんじゃないっ! 接近される前に、全力で叩くぞ!』

 天地に遍き神々もご照覧あれ――と、口承詩に出てきそうな解説文が、正代の脳裏に招来した。予想外なことには、正代は武者震いを起こした。体の揺れに応じて、軍服の白色もまた振動する。桜のように、可感領域の端でちらちらと白色が舞った。

 名状しがたいパトスの波にさらされ、正代の下から言葉にならない言葉がほとばしる。

「ああ、戦いを……これほどに熱く……!」

ただの感動という言葉では安過ぎる、荘厳なその囁きと、連隊長の命令はほぼ同時だった。

 『連隊長より全支援砲撃艦へ。目標は敵戦略型。全艦、主砲射撃よぉいっ!』

 魂も燃えたぎるように、連隊長が吼える。

『了解!』 

 命令を受けた制空支援艦の群れは、砲塔を即刻回転させた。その方向は真東――首都に向けて進軍してくる侵略者を迎え撃つ形である。

各制空艦から通信の電波が放たれ、そして別の制空艦に回収されていくのが分かった。程なく、全艦において砲撃の合図が示された。

『長距離弾幕戦闘、開始せよッ』

『撃て!』

『撃てぇッ』

『てッ』

 その瞬間、正代の脳に烈火が走った。傍で知覚するのも耐え難いほどの爆音が、大空を席巻する。正代は、感覚をその音源に向けた。

最新鋭支援砲撃艦から放たれた亜音速核磁気振動弾頭が、真っ直ぐに敵へ向かって飛行してゆく。総計で五発。彗星のように、弾頭から白煙が尾を引いている。

人類史上最大の空中戦闘の火蓋が、切って下ろされたのだった。


その広大な空間は、どこか不気味な空気を漂わせていた。

「私、基地で一番大きい部屋は司令室だと思っていました……」

素子は、その一瞬だけは忌まわしい記憶からは解放された。それだけ、何か人に与える印象の強い空間だったのだ、そこは。マリイは、なんでもないふうに答える。

「ここは、本当の意味で特別な研究施設なのよ。本来なら、私でなく槇嶋隊長が全て伝えてくれるはずだったんだけど、この戦況じゃあそんな暇もないしね」

八峠谷基地の真下に位置する、この場所。本来は岩盤がそこを占めているはずであり、素子もまたそう考えていた。しかし、実際には人工の空間がそこには位置している。とにかく横幅と奥行きが広いその地下空間には、何か用途の知れない機械が大量に設置されている。しかし、それでも機械を置いておくには広過ぎる空間だった。  

機密の関係で、従兵はここには入れないという。よって、素子の傍らにいるのはマリイだけだった。そのマリイは、地下の湿気に当てられでもしたようにどこか険しげな表情をしている。

黙っている彼女に、素子は耐えかねた。問いかける。

「あの、ここで一体何を……?」 

 「……まだ、私たちは入り口のところにいるの。だから、ここで引き返せば何も見ないで済む」

薄暗がりの向こうにあるマリイの金髪は、真っ直ぐに垂れるだけだった。彼女は素子の質問に答えず、そして素子と目すら合わさない。

(なんなの……何か変だわ。マリイさんも、この場所も) 

 部屋そのものは整備されており、機械の配置も整頓されたものだった。しかし、廃屋のような得体の知れなさがまず鼻につく。

「ヒントをあげる」

今度は、マリイのほうから語りかけた。

「あなたがまだ病気から立ち直れないうちは、こういう話はできなかったから、今さら言うことになってしまったんだけど……ところで素子ちゃん、不思議に思ったことはない?」 「何がですか」

「あなたの所属する、第一区第五戦隊について考えてみて。どこか、おかしいところがあるとは思わない?」

「……え?」

脈絡のないマリイの言動。素子は、大いに困惑した。

(おかしいところ……いきなり何?) 

髪ごしに、素子は自分の頭皮を掻き毟った。だが、髪が指先に無駄に絡みつくだけで、新奇な発想など出てこない。

 「強いて言えば、我が国で一番新しい戦隊だということ……ですか」

自分でも的外れな感じはした。マリイに笑われるかと素子は予想するが、それは外れる。素子を見ずに、マリイは答えた。彼女の軍靴が、カツンという音を立てて床に落ちる。

「……完全に方向が違っているというわけではないわ」

 口惜しそうに、マリイは目を細めた。馬鹿を相手にして嫌気が指した――ということではないにしても、明らかに彼女は何か伝えたがっている。それができずに憤っているようだ。素子にではなく、マリイ自身に、だろう。何故なら、マリイは素子を睨むこと一つさえしてこないからだ。彼女の目は、いまや行き場を失って遊泳している。

「あなたが自分で気づけば……別にこの先を見物する必要はないの」

「いったい、何なんですか? 私には、まったく――」    

何か思いつくところはないかと、記憶を探求するうちに。素子は、一つのことを思い出した。それは首都第五戦隊とは、直接関係ないことだが。

「こういう場所……この部屋のような場所、見たことがある気がする」

二人の立っている場所から、二百メートルはあろうかというところに扉がある。

(いつ、見たの。覚えていない……けど覚えている。ここにいたことを)

突発した既視感。その前後の記憶は――そんなものがあるならば――全く欠落している。いつどこで、どういう経緯でこんなじめじめしたところに来たというのか。自身の歩んできた道のりに、盛んに問いかける。だが、素子は矛盾を解消する術を手に入れられない。分かるのは、ここに来た時の断片的な記憶のみ。

(あの扉――)

遠くにある扉を、彼女は確かに見たことがあった。確信する。

「どうしたの、素子ちゃんっ?」

肩が、揺すられる。虚ろな両目に宿った景色が、左右にゆがんだ。

正気に戻る。マリイの金髪が、さらりと目の前の空間をを撫でていた。体がそんな位置関係にあることに、違和感を覚える。

素子は、床に膝を着いていた。そこで、初めて気付く。自分は、前のめりに倒れかけていたのだと。

 興奮したように、マリイは声調高く問いかけた。

「ひょっとして、何かを――見たの?」

「見えました……この場所が、少し見えました。だけど私、こんなところに来たことないはずなんです」

「見えたのは、それだけ?」

「……はい。すいません」

初めて目撃するマリイの迫力に、素子は謝ってしまう。

「いいえ……」

マリイは、またも視線を外した。泥濘に沈み込むかのように、肉体の動きを止めている。よほど複雑な事情があるのだと、素子は予想した。

 「……記憶が……まだ?」

マリイは簡潔に問いかける。しかし素子に、というわけではなさそうだった。ぶつぶつと、さらに幾言かを重ねるマリイ。やがて、顔を上げる。

 「もう少し、もう少しだけ言わせて……考えてみて。あなたの戦友を。不思議に思ったことはない?」

マリイは、素子の顔を見続けた。

「正代さんと、神名さん――そして、あなたの出自よ」

「出自? それが、何の関係があるんです……それがこの場所に関わるっていうんですか?」

「お願い……お願いだから、今は私の言うことを聞いて欲しいの。どちらにしても、いつかは分かることだから」

必死に懇願するマリイに気圧される。何かただならぬものを感じ取り、素子はマリイに従った。

「はい。正代は、二之宮家というところの出身。二之宮家は……政治の世界に強い影響を持っていて……でも、正代は傍流の出だからそういう世界に行くこともなかったとか……」

彼女がいつか自分で語っていたことを、素子は復唱した。

「神名の苗字は、香坂……それで、そこは大きな財閥で。大企業を経営していて……正代は、本当は社長の娘なのに……」

確かに、何か解しかねるものが見え隠れしている。

「……念子管制を使えたから、彼女は……ナギナタに入隊した」

マリイは、少し満足げにうなづく。

「最後に……あなたはどう?」  

不可解な冷感が、素子の体をまさぐった。絡まった糸の結び目を解いて、そして再び結ぶ――しかし、その繋ぐものは数刻前とはまるで違うものだった。

「私は、おとうさ――」

素子は言い直す。

「――私の父は、医者だった……それと同時に、研究者でもあった」

「超域脳生理化学研究所、のね」

マリイは口を挟んだ。なぜ彼女がそんなに父について詳しいのか分からない。素子は不思議に思って、首をかしげた。

それ以上は素子に言わせたいようで、マリイはまた押し黙る。仕方なく、素子は続けた。 「はい……父はそして、念子管制の基礎理論を完成させた。それをもとに、最初の念子管制戦闘機がほぼ二十年前に開発されて」

「そうね。さて――」

マリイは、言いたくなさそうに口をつぐんだ。まるで、何か命令に反抗するかのように歯を食いしばる。目じりに痛そうな皺が寄っていた。

やがて、彼女は息絶え絶えになったように、途切れ途切れの言葉を紡ぐ。

「政界に根を張る一族……複合企業を傘下に納める大財閥……そして、決戦兵器を創りあげた現代の救世主。こういう社会的な力を持った立場のほうから、立て続けにナギナタとなり得る人材が輩出されている。しかも、同時期に。能力者の生まれる割合は、一般人に対して実に百万分の一程度と、低いもの。それなのに……これは、普通に考えておかしなことだとは思わない……?」

言い切ると、マリイは栓が抜けたように肩を下に降ろした。何かに失望したらしく、彼女はそうしてだらしなく体を緩めている。      

一体何が、それだけ彼女を落胆させているのか――そして、彼女が何を言ったのか。素子は事細かに思案をめぐらした。

そして、ある結論に達する。 

「な……!」

舌の上から、言葉が滅び去る。

うなだれるマリイを前にして、素子もまた体を硬直させた。

「まさか……でも、そんな馬鹿なことが……」

硬くした体を柔軟にすることができないまま、素子はマリイに詰め寄った。膝が上手く曲がらず、つんのめる。まるで、マリイを突き倒すかのように倒れこんだ。両腕が、マリイの両肩をのけぞらせる。

マリイは、倒れずに素子を受け止めた。

「もう一つ、嘘をついていたわ」 

素子をもとの位置に戻しつつ、マリイは小さく囁く。

「私は、本来はオペレータではなかったの。でも、一時的にそうならなければならない必要が生じた」

「どんな必要……ですか?」

いつか、誰かからも告げられたような台詞。素子に嘘をついたのは、マリイだけではなかったはずだ。また別の位相にある時間からも、それに関する強烈な既視感がもたらされている。

父と同じだった。

「私の目的は、被験体の事後観察と研究継続。そのために、私は超域脳生理化学研究所から一時的に降りたのよ。いつもあなたたちのすぐ近くにいる必要があったから」

震え声で、マリイは言葉を止めない。止めたくても止めることは許されないかのような、矛盾と戦う真に迫った言葉。しかしその闘魂も、素子にはほとんど伝わらなかった。

信じられないような真実が、マリイの手になり厳然と現れ出るのを見て――素子は、ただ頭を真っ白にした。 

マリイもまた、嘘をつき続けていたのだ。父親と同じように――そうした理由すら同じくして。

「"人工超能力者試験戦隊"、すなわち首都第五戦隊のあなたたちを観察するためにね」


『腰抜けは邪魔なだけ。追い出されたくないなら、歯ぁ食い縛って戦いなさい!』

『了解!』

また、別のところでは。 

『撃てっ、怯むなぁ!』

『一匹も逃すんじゃないぞッ。殺し尽くせっ』

闘争本能剥き出しの様々な叫びが、念波となって死地を駆け巡る。

長距離支援砲撃は、一定の戦果をあげたものの、しかし敵に与えた損害は予想以上に低いものであった。敵の発する防御弾幕によって、弾頭が撃ち落されてしまうことが多い。状況を好転させる見込みのないまま、ついに敵の群れと接触が始まっていた。直接の屠りあいという、最も過酷な戦闘パートだといえる。 

眼前に次々と躍り出る雑魚も、いつもより処理し難い。こちらの注意が薄くなっていそうなところに滑り込んでは、粒子弾を叩き込んでくる。もはや直接相手をしている敵が二十以上に達したため、正代はさすがに一抹の恐れを感じる。それを紛らわす意味もあり、味方に注意を促した。

『神名、気をつけて下さい。雑魚だけならまだしも――』

正代は、無意味に顔を上げた。

ほんらい、島というのは海にあるはずだろう。それが、空に浮かんでいる。島ほどの大きさでないとしても、すくなくともそれは小さな町の面積くらいは軽く越えるほどの大きさであった。そのために、太陽光がすっかりさえぎられ、戦場の一区画のみが暁のように薄暗くなっている。それほど桁外れの質量を誇る戦略型を、正代は見出す。まぶたをしかめ、表情で最大級の憎しみを表現した。

『下手をすると、あれに刈り取られますよ』

戦略型は、全身に備えた砲台から滝のような弾幕を投射している。ほとんど常時撃ちっぱなしの粒子弾に加え、随時レーザービームをパルス照射。雪崩のような弾幕で視界と処理能力を奪い、光の矢で精密に狙撃する。実に巧妙な戦術である。空中を自在に駆け巡るナギナタを、一体でも多く破壊しよという魂胆だろう。その上、多種類の型で混成団を組んだ小侵略者が突っ込んでくるとあれば、いくらナギナタといえど持てる余裕などありはしない。

 神名も、正代と同様らしかった。

『残念ですけれど……今は冗談を言うこともできませんわ!』

天敵に襲撃された虫のように、神名の揚刃が弾かれたような機動を見せる。上北西に突進していたところ、一瞬にして移動方向が上南東へ変わる。発煙部を自在に稼働させることが可能な、クイックジェットエンジンの勲功であった。

今まで正代の居た空間に突撃型侵略者が突っ込んでくる。が、ちょうど戦略型の放ったレーザーがそれを誤爆した。小気味の良い破裂音を伴って、突撃型が塵と消える。

 その爆風は凄まじいものであったが、しかし二機はそれに逆らわなかった。むしろそれに流される方向に、機体を加速させる。二機が離脱した空間には、瞬く間に粒子弾が殺到して眩く輝いていた。

しかし、どれだけ回避しても――敵の弾幕は途切れることを知らない。常に脳をフル回転させ、揚刃を縦横に機動させなければ、その瞬間をやり過ごすことすら不可能だった。

「くぅッ、小癪な……!」

正代は、苦悶の声を発した。上方に回りこもうとしている迎撃型を、間一髪で撃墜する。

正代に限らず、交戦中のナギナタも全て似たような状況であることが窺われた。つまり、

生死の瀬戸際をひしひしと感じている状態である。狭くはない戦場の全域が、戦略型の発する弾幕に支配されていた。

 『総員、突っ込みすぎるな! 自分は被弾せず、敵を一匹ずつ破壊することを優先しろ』

連隊長が指示を飛ばす。現実的な命令とはいえ、必ずしもすぐに命令どおりにできるというわけもない。これほど弾丸が密な状況だと、戦闘機を安全に切り抜けさせられるシナリオというのは大変限られたものになり、そして要求される技量もまた大きくなる。望みどおりに進撃転進するのは、もう言うまでもなく難しいものだ。

 (仮に……切り抜けたとしても、果たしてあれを破壊することが可能なのでしょうか)

正代は、絶望じみたことを考え付いた。戦略型の支援がある状況では、勝ちは覚束ない。

(あの戦略型を倒さない限り、どうしても後手に回ってしまうようでございますね……)

 しかし。戦略型に太刀打ちする方法は、とても見出せない。

「いったいどんな手が――」

隊長としての矜持もあり、そこから先は口にしない。

(――あるというのでしょう?)

が、察されていたらしい。

『戦略型侵略者を破壊した例は、世界中でも一つとしてないはず。倒せたとすれば――それは戦史に残る革命になりますわね』

 神名が、感情を押し殺した冷たい声で言い放った。

 

人工の硝子檻から、五体をずり下ろした。外気に晒されたことすらない柔肌を、床に直に触れさせる。

が、そうなる前に、彼女はすくい上げられた。何にか、は分からない。ただ大きく暖かい何かに、そっと支えらて――。

今になって、そんな記憶が蘇ってくる。ただ、それが限界でもあった。

(私は生まれてきた。お母さまのお腹ではなくて――あんなところから)

あの地下室の扉の、向こうで。かつて、そんなことが行われていたのである。

『念子管制機構は、来須博士の父親の代で大枠は完成していたらしいの。ただ、知っての通り――』

無線通信で、マリイが解説を加えてくる。

素子は、荷物の中から戦闘機搭乗服を引っ張り出した。焦らないようにと勤めながら、それでも素早く身を翻す。

傍らに控える小さな人影に、素子は振リ向いた。ただし、首から上だけ。

「じゃあ……行ってくるわ」

「ご主人様……」

 もっと何か言いたそうに、しかし言葉にならないといった様子で、ワーリャがそこに立っている。

すこし対応に困って、素子は自分の髪を手櫛で梳いた。

「私がいなくても、取り乱しては駄目よ。私はもう――」

「……ぅ」

「――今回は、必ず戻ってこれるとは言ってあげられないけど」

静かだった。

素子が予想していたよりも、遥かに穏やかなものだった。声もあまり立てずに啜り上げている。けれど、ワーリャの体は、雛鳥のように揺れていた。

彼女の思わぬ毅然さに、素子は心から感心した。羨みすら感じる。

「……御守りが……あります、ように……」

 両手を握り合わせ、ワーリャが祈る。表情を隠すように、頭を下げていた。

「ありがとう」

もっともっと、言いたいことはある。これまで仕えてくれたことに対して、何か伝えてあげたいことがたくさん心に溜まっていた。一人の人間としては。

それでも、後悔なく戦場に行けるように、というワーリャの心遣いを無碍にしたくはない。

素子は、片手を前に伸ばした。

 少女の頭は低い。なので、その頭頂に触れることができる。柔らかく張った髪の中に、素子の手のひらが沈んだ。

笑顔を向ける。

「この先、戦況はずっと厳しくなるわ。あなたも気をつけて……殺されないで、生きていられるように」

「はい……ご主人様」

「それでこそ、私の従兵よ……じゃあね」

手を離し、そして左右に振る。

ワーリャの濡れた視線を感じてはいたが――素子は断腸の思いで身を翻した。  

『特殊な素養を持った、非常に稀少な人間にしか扱うことができない兵器だった。そんなものでは、実戦の趨勢を変える力を持つことはない』

「……はい」

自室を出て、廊下を渡る。素子は、頭の半分ではまるで聞いていなかったが、もう半分でなんとか聞き取っていた。

『その唯一にして最大の欠点を、来須博士は克服しようとしたのよ。簡単に言うならば――進化の過程の中で、人間が失ってしまった超能力発現遺伝子を再び人間に埋め込んだ。もちろん、品種改良なんてのんきな方法ではない。あなたは、受精卵であった段階で母親の子宮から取り出されて、その遺伝子を注入された。そして、生まれながら兵器としての役割を担ったの……』

マリイは言いにくそうに、しかし言わないで済ませることを厭う克己を垣間見せながら言った。

『あなたにこの事実を告げるのは……あなたが何か大きな試練を乗り越えた時。そうしてくれと、博士が希望していてね。だから、私も連隊長も黙っていたの。これは、すでに起こってしまったことだから。変えることは誰にもできない。けど、あなたが誰をどれだけ恨むのか、それはあなたに委ねられてる』

淡白な声音で、感情を交えず告げられた真実。マリイは、確かに後ろめたさを覚えているのだろう。明晰だが、明朗でない彼女の声音からそれが知れる。

『素子ちゃん……』

顎の筋肉が凝縮し、奥歯が捩れた。

結局、ずっと嘘をつかれていたのである。父にも、そうでない人にも。すんなり許せるはずもない。 

しかし、自分の好悪を越えて優先すべきことがある。

歩幅をいっそう狭め、その代わり歩数を上げて。無用なものを視界から遮るように、素子は目的地への距離を狭めていった。

「父は……もっと何か、言っていませんでしたか」

電波が、波形を変えない。素子は、答を待った。

そのことを、マリイが意図的に答えないようにしてようだった。理由はわからない、しかし――。

推測を重ねる前に、マリイは答えてきた。

『今のあなたに、これを伝えるべきなのか……私は分からないのよ。博士は、確かにいつも言っていたけど』

「……そうですか」

素子は、軽く首肯した。

「父は、何か言っていたんですね。私に伝えることを」

『……ええ』

「分かりました。もう、それでいいです」

無線の向こうで、マリイが絶句した。唾を飲み込む音すら、聞こえてきたような気がする。

『そんな……でもそれでは、私たちはあなたに甘え過ぎに……! 今でさえ――今でさえ、女の子一人に厄介ごとを押し付けているのよ。これ以上は――』

「では、甘えていてください」

率直に言い放つ。冷笑もなく、静寂の上を綱渡るように、密やかな声で。

『!』

「父は、私の存在をいつも認めてくれていた。父の言ったことはすべて理解しているつもりです。ここで教えてもらわなくても、きっと私はもう知っている。それに――」

喉を絞り、更なる一言を告げる。

「父の考えることなんて……私が分からないわけはずないんです。あんなに分かり易い、単純な人なんだから」

かすかに笑みを漏らす。そう笑っても要られない状況のため、本当に控えめだった。

『分かったわ……そうさせてもらう。素子ちゃんの言っていることを、こちらは尊重する――さぁて、それはそれとして』

「はい?」

『最後にもう一つ、付け加えないといけないのよ。あなたには選択権がある。"精神的外傷"を負ったままで、引き続き病院に収容されるか。それとも――"快復"して、戦闘に復帰するか。そのいずれかを』

マリイがそういい終わる頃には、すでに装備品の着装は完了していた。

最初から、答は決まっている。でなければ、なんのためにワーリャと別れを交わしたのか分からない。

軍靴で階段の一段目を叩き、身を乗り出す。基地の外に併設された飛行場に、彼女は入った。 

「戦います」

遠い昔に、誰かに教えてもらった事――。

 条件反射のような即答。素子は、当然すべきことをした満足感に身を包んだ。

『……ありがとう。本当に』

マリイが感謝を述べた。

「やらなければならないことですから」 (2009/3/25~)

「それが貴官の答なのだな。来須上等兵?」

突然、野太い声が割り込んだ。しかも、無線よりの声ではない。それは、素子の真後ろから聞こえていた。あまりに聞き覚えのある声に、素子は素早く振り向く。

「今まで、散々悩んでいたようだが。もう、それは克服したということか?」

軍服をまとった肉の塊がそこにある――と、思えるほどに筋骨隆々とした男が、それを告げている。

「連隊長っ!?」

「案ずる必要はないぞ。戦闘の指揮は一時部下に預けてある。今は、貴官と話をしたいと思ってな」

「はい……」

素子は今まで、なんとなく連隊長に会うことを恐れていた。戦友を死なせた上に、情けない精神状態に陥って、見せる顔もなかったのである。そもそも自分が悩むので忙しかったので、彼のことを思い出すことも少なくはあった。それでも、無意識のうちに彼と話をすることも顔を合わすことも裂けていたのだと気付く。

 いつの間にか、素子は頭を下げていた。連隊長のズボンの裾が一瞬だけ視界に映じ、そして消える。

「申し訳ありませんでした」

「……何について謝っている?」

「それは――」

言い淀んだ。思い出すことが、まだ素子にしこりのような圧迫感を残している。折に触れて、刺激を再開してくるような。

自身の胸を掴み、素子は答える。

「不注意によって仁尾上等兵を死なせ……その後長期に渡って戦線を離脱した罪です。私は、いぜん連隊長に申し上げました」

顔を上げる。せめて、この眼光だけは見せ付けてやろう――そう思って、素子は連隊長を睨めつけた。

「このようなことにならないように、成長してみせると。しかし、それは結局達成できませんでした……そして、自分だけでなく周囲の人に取り返しのつかない迷惑をかけてしまった。ま覚えば、本当に軽はずみな言葉でした」

「ふん、何かと思えば……馬鹿を言え。貴官の言葉など、最初から信用しているはずがない。調子に乗って甘ったれていることにも気付かんガキの言葉など、危うすぎて話にならん。そう言ったはずだ」

「は……」

「貴官をそれでも戦列に加えたのは、単なる博打だ。そういう意味では……そうだ、博打は大外れだったということだな。今までのところ」

一瞬にして言い負かされ、そして会話の主導権を握られた。これが生きてきた年月の差というものなのだろうか――素子は痛感し、またたじろぎもする。

「しかしな」

多少、彼の声の調子が柔らかくなる。彼の罵声を聞きなれた人間でなければ気付かないような些細な変化だったが、素子はなんとか察知した。

「うわべの言葉遊びは信用できない。が、"実際に経験したこと"の裏づけがあるなら、それはいつも一考の価値があるものばかりだ」

「経験?」

「そうだ。担保としての事実だ。言葉の上で翻弄されるのとはわけが違う。現実を土台にした重みというものが見える。貴官は、仁尾上等兵を――貴官の言い方で言えば"殺した"。加えて、貴官はそれを飲み下さずに深く考え続けたわけだろう?」

「そう言ってよいのか、分かりませんが」

「そういう言葉を吐けることこそが、証になる」

連隊長は、ひとり納得したように腕を組み、うなづいている。

「そうして何はともあれ、貴官は戦うことを選んだ。逃避ではなく」

「その通りです」

「貴官の意思を信頼しても構わない段階に達していると、私は判断する。したがって、貴官の復帰を歓迎させてもらおう」

「ありがとうございます」

やや落ち着いて、素子は胸を撫で下ろした。

「そこでだ。もはや聞く必要はないのだが……しかし、聞いておく価値がある」

「は?」

「これは、私の純粋な興味から聞くことだが。構わなければ、答えるがいい。貴官は何のために戦うというのだ?」

連隊長は、特に厳しい顔つきをするでもない。それが今までとは違った。今までは、詰問やら追求をするように容赦がなかった。今は、それがない。

 ただ、ごく普通に聞いてくるだけ。それは、彼が素子を兵士として、そしてナギナタに所属するに足る人物として認めたことに由来するのかもしれなかった。少なくとも、素子はそう思いたかった。

(もしそうなら、感謝します……)

彼にそう言うのは癪なので、口には出さない。そして、頭の片隅に素子は答を作り上げはじめた。

何故、戦うのか。何をよりどころにして戦うのか――ずっと分からなくて、考え続けてきたことだった。そういうことに答えておかなければ、本当に戦場を生き残ることなどできないだろう。現に、自分はたまたま生きているが、代わりに千里は死んだ。

答えなければいけない。

(答えましょう。今こそ)

自分に向けて囁く。そして素子は、ゆっくりと瞳を閉じた。視覚でなく、感覚そのものですらなく、自分の奥底からそれを導くために。

「私が戦うのは」  

精神をすり減らしてまで、考え続けたことの成果か。

彼女の頭に、突如一つの答が去来した。それは、彼女がまったく思いついたことのない発想だったが、しかし思いつく可能性があってもおかしくないものだった。 

「戦うことができるのは――」

まったく新しい切り口の考えに、新鮮な驚きを感じる。

素子は、いつからか微笑んでいた。犠牲になった者に対して失礼で不謹慎だとも思ったが、しかし苦しみから脱却した開放感がそれを上回っていた。

瞳を開く。

素子は口火を切った。眼の前の連隊長に向けて、だけではない。無線を通じて聞いているはずのマリイにも、そしてこの場にいない正代や神名、この世からいなくなった千里、そして父親に――そして、全世界の人々に向け得るほどの確固とした気概を込めて。

「――そんな理由なんて、何もないからです」

言いながら、その真実の響きを素子は体中で感じ取る。一秒、一瞬ごとに、その確信が深まるのが分かった。興奮のあまり、体の芯が熱くなってくる。まるで、寒中水泳をしたかのようだった。

違った答を予想していたらしい連隊長は、さすがに不可解そうに眉をひそめた。

「……いったいどういうことか?」

「今この時まで、私は色々な理由を考えてきました。でも、どの理由も私にはしっくりこなかった。自分で言うのも変ですが、あんなに悩み続けても駄目だったんです。どの理由も」

素子は、その無用な苦しみに哀愁を感じて、首を軽く横に振った。階段の下にある舗装された飛行場の地面を、その味が分かりそうなほどに凝視する。 

「どこか不注意になっていて……そのせいで、千里を殺してしまって。でも、今になってようやく分かったんです」

連隊長が、聞き漏らすまいとしてか顔を素子のほうに近づけるのがわかった。

「私はずっと弱いままなんです。昔も、今も、そしてこれからも。私は、そんなに長く生きているわけじゃないから……私が弱いだけなのか、人間ってそういうものなのか、分かりませんけど。でも、私の心は強くなれない。強くなった振りすらもできない。だから、後からどんなに格好の良い理由をつけたとしたって、そんなものでは強くはなれないんです……私のせいで仲間が殺されたり、人が死んだりするのは怖くて、とても嫌です――」

外した視線を――少しずつ、変えてゆく。正面に。

「――私は、自分が死ぬことが本当に怖い。どんな理由をつけたって、怖くなくなることはないんです。自分の命は、それだけ大切なものだから」

 「しかし、それを越えるというのが軍人たる――」

「まだ話は終わっていません。私には、そんな格好をつけた、薄っぺらい、思慮の欠いた理由なんていらない」

いつしか、彼女は力強く語っていた。こんな啖呵を切る能力が、自分のどこに備わっていたのか、素子には考えつかなった。少なくとも、戦う理由――それが存在しないことに気付いた今でなければ、そんな力は素子にはなかっただろう。

 「それでどうやって戦うことができるというのだ、来須上等兵?」

「……簡単です」

 素子は、剣を引き抜くように言葉を選んだ。

「どれだけ怖くても、やりたくないことであっても……私が戦わなくて、誰が戦うというんですか? 侵略者に立ち向かえるのは、私たちナギナタだけです。だから、自分の弱さだって認めて、たとえ強くなくたって戦わなければならないんです。戦わなかったら地球はお終いなんです――だから、弱くても戦える。弱くても、立ち向かっていくことはできるんです」

「……」

連隊長は答えずに、体を硬直させた。少しのけぞることすらしている。

「私は……戦う前に逃げ出したりはしません。もう、何があったって戦います。地球を守りきるまでは……」

素子の中で、強烈にリフレインする言葉があった。  

父の言葉。戦い続けろという、父の言葉。そう言った意図は、素子の知るところではない。しかし、父が背中を押してくれたおかげで、どんな勇ましいことでも言うことができたし、どんな大見得を切ることもできた。その言葉の重さに、新たな恐れを抱くこともない。

もう何も恥じることはなくなり、素子は姿勢正しく直立した。

何物にも負けない、という自信はない。しかし、負ける前に戦いを放棄することは、今の素子にはありえなくなっていた。天を仰ぐように上体を張り、彼女は連隊長の返事をまった。

「……そうか。貴官は、そのように考えるということか」

「はい」

「私は、貴官よりは長い間戦ってきた。しかし、貴官のような覚悟を持ち切れたこともないし、そういう人間を見たことがない。正直言って……」

連隊長は、被っていた軍帽を片手で取り去った。それを小脇に抱え、彼もまた居住まいを正す。

「正直言って、私は貴官がうらやましい。それほど若い純粋な意思、久しぶりに思い出させてもらった」

まるで、"若気の至り"とでも言い出しそうな文脈に、素子はやや不満を感じた。が、彼はそんなことは言わない。

「来須上等兵。その意思、ならば持ち続けるがいい。それは貴重なものだ。何物にも勝る兵器だ。失うことは許されんぞ。貴官が"蒼空に散る"時まで、な。それができたなら――」

 素子が持たない力を秘めた戦士の目で、連隊長は素子を見ていた。そして彼は、めったに出さない褒め言葉を発する。

「――貴官は、最高の戦士だ」

 素子は、一縷の得意を覚える。連隊長には見えないように、こぶしをぎゅっと握り締めた。

(やっと、この人に言い返せたわ……ずいぶん、遅れてしまったみたいだけど)

そんなことは表に出さず、彼女はただ答えた。敬礼を行いながら。

「その名にふさわしくなるよう、全力で精進します」

「うむ」

連隊長もまた、敬礼を返す。

「貴官が寝込んでいる間にも、ナギナタは戦い続けている。そして、何人もの犠牲者を出した。その埋め合わせをしなければいかんぞ。来須上等兵、直ちに出撃せよ。第十七統合射撃戦隊に復帰し、首都を侵略者から守れ!」

「了解しましたっ」

叫び、素子は素早く体の向きを変えた。階段を降り、飛行場を駆け出す。ただ一機、残された揚刃が佇んでいるのを見つける。

 (待たせたわね。いま飛ばしてあげる)

もはや、何も躊躇する必要はない。恐れがあったとしても、戦うことがそれに立ち向かう唯一の道だった。

(正代、神名……私、すぐに行くから)

念波を発するように強く念じて、素子は戦場へ向かった。


神というものが存在するのなら。

マリイは、地下室のなかでひとり跪いていた。素子のために、祈らずにはいられない。

(虫が良い話だけど、本当……)

自分と同じ、ヒトの体の中に――人工的に遺伝子を埋め込み、特殊な能力を発芽させる。自然の摂理を犯すような、そんな鬼のような所業をやってのけた人間の祈りが、通ずるとは思われない。

(来須博士……あなたも、こんなことに耐え切れなくなって……?)

しかし、素子の戦線復帰が、こうも都合よく進展していくのは、まるで何かの天佑のようにすら感じる。つい、柄でもない希望を、マリイは抱いてしまった。

(素子ちゃん、お願いだから……生きて帰ってきて……!)

まるで、マリイの願いの成就を予言するかのように。床の上に、一通の手紙が置かれている。正代と神名が、素子にと書いていたものだった。

素子に、それを見せた。しかし、彼女は言ったのである。

『帰ってきてから、見せてもらうことにします。それまで、マリイさんが預かっていてください』

素子の、生きようという強い意志が感じられた。弱さを自覚した末に、にじみ出てくるる強さという物の。

彼女を助けるため、そして見届けるため。マリイは祈りを止め、地下室を後にした。


00級制空随伴空母『黒烏形こくうぎょう』司令室。

艦内点検の要員の一人は、異常があることに気がついた。制御コンピュータのモニタに、真っ赤な文字が躍っている。何か、不測の事態が発生したのだ。

彼は、反射的に腰を椅子から浮かせた。穴が開くほどに、モニタを注意深く観察する。

「これは……?」

艦が、敵の奇襲を受けたというわけでもない。何か、緊急の対処を要するものではなさそうだったが。それでも異常は異常である。おそらく、コンピュータの誤作動か、あるいは艦に命令を下す人間のミスに由来すると考えられる異常だった。

彼は、大声で報告する。

「報告、報告! 本艦制御機構に異常発生っ」

「いったいどうした!?」

艦長が振り向く。

「戦闘機格納庫の発進口が、命令ないまま開放されています……アッ、完全に開放されました! 制御プログラムの異常と考えられますっ」

「なにぃっ!? くそ、おい整備班! 直ちに異常個所へ向かい、原因の特定を――」

と、艦長が言い終わらないうちに、さらに横から口を出す者がいた。通信兵だ。

「艦長、味方空母から緊急連絡ですッ! "ワレ甚大ニ故障セリ、直チニ後退スル"、とのことですっ」

「馬鹿者っ、きさま新兵か!? どの艦からの通信なのか、最初に言わんかっ」

「それが、その――」

通信兵は口ごもる。そして、驚愕の事実を伝えた。

「全制空空母から、同様の通信が……!」

敵の襲撃でもないというのに、このように異常が続出している。とても考えられない状況であった。艦長は、何が起きているのか推測することもできなった。

「何だと……一体、何が起きているというんだ……!?」


断末魔の叫びをあげる暇すらない、迅速な破壊。その存在を示す轟音が、音として出なく、念波によって素子に伝えられた。基地から出て、戦場に到達する間、ほんの数十分ほどしかないというのに。そのわずかな間にも、戦死者が出ていることが窺われる。

 戦略型""。

念波によって、その他を圧する凄まじい戦闘能力が伝わってきた。ナギナタ達を、木の葉でも散らすように吹き飛ばしている。

 (あれを倒さない限り……こちらは戦力をすり減らすだけだわ)

素子は冷酷な現実を再確認した。これ以上の損害は、ナギナタの長期的な戦力不足に繋がる。しかし、だからといって簡単に退却できる状況ではない。何しろ、ここは首都の上空なのである。海上の辺境にある基地とは違う。ここをいたずらに放棄することは、ナギナタの総意が望まないところだった。

倒さねばならない。

(私に……私にできるかしら? あんな敵を倒すことが……でも、できなかったとしても、やらなければいけないのだわ)

そうこうしているうちに、素子機は戦略型の射程圏内に入った。粒子弾の波を掻き分け、折に触れて突進してくるレーザーをかいくぐる。

(チャンスは少ない……けど、倒すことはできなくても、損害を与えることができるかもしれない)

敵に向かって突進して行こうとした時――念波通信が伝わってきた。

『素子!? 素子ですのっ?』

それは、神名だった。ずいぶん久しぶりに、その声を聞いたような気がする。

「ええ……遅くなってごめんなさい」

『よくお戻りになりましたね、素子。お待ちしていましたよ』

「ありがとう、隊長」

戦略型の周囲を飛び回るナギナタ達の中に、素子は二人の姿を発見する。今まで戦場を支えてきたせいか、心なしか彼女らの戦闘機の動きは鈍い。まだ十分戦えるレベルではあるが、しかし疲労の色が見えないといえば嘘になる。

(二人とも、戦っていたのね……)

素子は、口惜しさに歯を噛みしめた。これ以上、二人に負担をかけたくはない。

「二人とも……手紙、有り難うございました。でも、実はまだ読ませてもらってないんです」

『え、どうしてですの?』

「読んでしまったら、その……どうしても、感傷的になってしまいそうで」

言い難いことではあったが、素子は正直に告げる。

「この戦いから生きて返って……そしたら、読ませてもらうことにします。本当に、感謝します」

心の脆さを知った今となっては、それを恥ずる必要もない。

『ま、そういうことならしかたないですわね。しかし、けっきょく読まないなんてことは許しませんわよ、素子。お分かり?』

「ええ。もちろん」

神妙にうなづく。神名は満足したらしく、愉悦の表情を浮かべた。

『さて、話が終わったところで……そろそろ戦闘に戻りますわよ』

『ともに参りましょう、素子』

正代が呼びかける。素子は、それに応じて答える――

ことはしなかった。

「残念ですが……それはできません」

平静を装って、素子は言った。

「私は行かないといけないんです。多分、一人で。そうしないと、無用な被害が出てしまいます」

『なっ……いったい何のことを言ってるのです? 一人で、何をするおつもりですか!?』

「あの戦略型を破壊しない限り、私たちはここで何の損害も敵に与えられないまま、いたずらに戦力を消費することになる。連隊長に教えてもらったけど……すでに三十機以上の揚刃が撃墜され、しかも生き残っているナギナタも疲労が著しい。一気にあれを排除し、敵を後退させなければ――早晩、この国は侵略者に焼き尽くされてしまう」

素子は、言葉とともに念子を生み出した。制御回路を通じて、それが戦闘機になだれ込む。

「一つ、お願いがあります」

刹那、エンジン部のファンが竜巻のように回転し、揚刃に推進力を与える。

素子は、実戦では一度も使用したことのない機構の起動を命じていた。 

通常では考えられないほど大量の燃料が、一度にエンジンに流れ込む。すると、排気ノズルの近傍に設置されたアフターバーナーが活動を始めた。

 それは、排気に含まれる空気を強制的に回収し、再燃焼させるという暴力的なシステムを持っている。

槍の様に尖った排気の流れを自らの後方に残しながら、揚刃は戦術機動を開始する。すなわち、すぐには減速できないほどの高スピード帯に突入することを意味していた。

「戦略型が破壊されたら、すぐにこの場を離れてください。爆風に巻き込まれるかもしれませんから」

『素子、あなた戦略型に突っ込むつもりなんですの?』

「……大丈夫です。死ぬつもりはありませんから」

 燃料の消費は尋常でなくなるとはいえ――アフターバーナーを起動することにより、一時的に超音速飛行をすることが可能になる。実質上は、緊急時以外に使用することはなかった。

今は、まさにその緊急の時と言える。戦略型による都市破壊砲撃が始まろうとしているのだから。一瞬の遅れが命取りになる、ということもあるかもしれない。

「また、すぐに会いましょう。二人とも」

有無を言わさず、一言だけ投げた。機体を包み込み始めた衝撃波を貫通し、その念波は伝達されていく。

二機の揚刃をその場に残して、素子機は激戦区への突入を開始した。


『連隊長より、全制空空母へ告げる――』

混乱渦巻く制空艦隊に、場違いなほど落ち着いた無線連絡が届いた。全五機の空母は、伝わってきた電波にすぐさま返答しようとする。

『こちら"白鷺"《シラサギ》! 全空母部隊に誤作動が発生しています! 侵略者側のジャミングの一種である可能性が……!』

『その話をしようと考えていたところだ。現在、本部から貴艦たちを遠隔操作させてもらった。敵の撹乱電波は確認されていない、安心しろ。時間的に切迫していたため、連絡する猶予がなかったことを詫びておく――』

彼が告げるとともに、制空空母の群れにさらなる動きが起きた。

開放されたハッチから、次々と漆黒の影が飛び出してくる。まるで蛾のようにも見える、小型の戦闘機である。

四二式自動衛星戦闘機『揚刃擬アゲハモドキ』であった。

機内にコックピットを設ける必要がないため、通常の戦闘機よりも小ぶりかつ機動性に優れている。その特色を遺憾なく発揮し、衛星戦闘機は移動し始めた。その機首は、ある一方向を指している。

戦場の中心部である。

『戦略型の砲撃が始まろうとしている。あれを止めなければ、首都は廃墟と化すだろう。その前に、全戦闘機による突撃を敢行する――引き続き、全空母は戦闘不能機の回収に努めろ』

黒い奔流が確実に前進してゆくのを目の当たりにし、各空母はなすべきところを知らなかった。


閃光と爆炎が、可感領域のいたるところで炸裂している。まだ昼間だというのに、煌々と光とともす夜の首都が思い出されるほどだ。あの爆発一つ一つが、無限の殺意を秘めた砲弾の咆哮であり、もしくは撃墜された機体が死に際に放つエネルギーであるのだ。

まさに地獄だった。

都市の上空、ほんの千メートルほどでその地獄が展開されている。じかし、今後の趨勢いかんによっては、今度は地上が地獄と化すのだろう――。

素子は、煙たい空間に神経を集中してゆく。巨大な円盤状の戦略型。その下部から、一際大きな筒のようなものが、地上に向けて伸びている。

それこそが、開戦いらい幾多の人命を奪ってきた最悪の兵器――都市破壊砲であった。

(撃たせるわけにはいかない……)

素子は、椅子にもたれかかっていた背を起こした。体を伸ばし、戦略上の天王山とも言うべき局面に向かう心の準備をする。

(けっきょく、最後まで……消えないのね。こういう気持ちって)

連隊長の前で、あれだけの覚悟をしめしておいたことに、少しばかり後悔する。いくら自分の脆弱さを認めるとは言っても、やはり素子はどこか期待してしまっていた――というより、夢想していた。

恐れを知らずに刃を振るい続ける、戦士。今の素子でも、とてもそんな存在に似ているとはいえなかった。

(いいえ……きっといないんだわ、本当は。そんな風になれる人なんて、世の中に居ないんだわ。人間なんだから、恐れることがあって当たり前)

本当に、すがすがしい気持ちだった。胸のつっかえが取れたように、返って無駄な憂いもない。あるのは、ただ純粋な恐ろしさ――死にたくないという気持ちだけ。

弱さを抱えながら、それでも戦う。それでいい。そんなことしかできないのだ。人間というものは。

「ふ……あははは……」

可能な限り声を押さえつつ、素子は忍び笑いを発した。

「何を今まで、私は悩んでいたの……本当に、バカみたい」

どれだけ、大層な理屈や感情をこの身に溜め続けてきたのだろう。その淀んだ歴史が思い起こされるようだった。今は、そんな悩みなど吹き飛んでしまっている。

爽快だった。

『連隊長より、全統合戦隊へ告げる。 これより、全衛星機を使用した戦略型への集中攻撃を開始する。総員はぎりぎりまで敵の雑魚を散らし、突撃する機のために道をこじ開けろ。その後、今から六十秒経過した後に、全速離脱するんだ! 繰り返す……』

あと、わずか六十秒かそこらで、戦闘は終わるのだ。どのような形の終末になるとしても、それは確実である。

最後の最後まで、自分に向き合い続けよう。恐怖し続けよう――素子はそう思った。死と身近に付き合うのは、その短い間だけ。そのあとは、再び安らかな生の世界に戻る。

実際に戦死するつもりなど、素子には毛頭なかった。

『素子ちゃん、聞こえる? "揚刃擬アゲハモドキ"が、そちらに集結しているわ。もう察知できるんじゃないかな……?』

連隊長に続き、今度はマリイの知らせが入った。

 「見てみます」

 マリイの情報に従って、素子は可感領域の縮尺を伸ばした。

すると、空中を流れる真っ黒い川のようなものが知覚できる。水源は、制空艦隊の展開している方向にあるようだ。 

戦闘機の群れ。一つ一つの機は、素子の乗る揚刃の全部を握りつぶしたような形をしている。もともと戦闘機史上に燦然と輝く珠玉の傑作と称された揚羽だが、その衛星機はさらに小さかった。

「見つけました。総勢――」

『四百機以上ね。未出撃の機体をすべて動員したから』

「四百……ですか?」

マリイは、いつもの調子を取り戻したようにいたずらっぽく返事をする。

『心配要らないわ。あなたの念波容量は、本来それだけのを機を操るだけの容量が備わっている。遺伝子レベルでね。努力でどうこうして到達できるような段階は越えているけど、逆に言えば先天的な能力さえあれば必ずできること』

素子は、変な味のする唾液を喉の奥に押し込んだ。

「頭では分かっていますが。規模が現実離れしていて、どうもイメージが……」

「大丈夫なのよ。貴方に埋め込まれた遺伝子の発現因子の中で、最たるもの――それは、精神的な不安を取り除くこと」

確信をこめて、マリイが告げる。

「自分の寄るべきところを捜し出し、精神的に安定した時、その遺伝子のスイッチは

完全にオンになるの。あなたの今の状態は、間違いなくそれに合致している。だからこそ、あなたが戦略型を破壊する鍵になり得るのよ」

「それは、分かってます」

「今のあなたほどの能力を備えているものは、おそらく地球にほとんどいない。念波の処理能力は、従来に比べて桁外れになっているはずよ。万が一、無理だった場合は連絡してくれればいいけど……そういうことはないでしょう」

マリイの言葉が進展するうちにも、衛星戦闘機が素子の方にいよいよ接近してきていた。

 黒い竜巻に周囲を取り囲まれる形となる。まるで、魚の一匹になって深海を進んで行くかのようだった。太陽光が遮られ、すくなくとも視覚では外の世界が見えない。それほど戦闘機の層が厚いのである。

「衛星機と合流しました。これより、サテライト機能を使用し、全機を支配下に置きます」

『了解。こんな言葉で、あなたへの罪を消そうというわけではないけれど、でも言わせてね。これは、あなたなら絶対にできることよ。できないはずがないわ、生物学的にも――あなたの強さを見てもね。自分を信じて』

「……ありがとう、マリイさん」

『あなたは、本当は独力で気付いていたのかもしれないわね。弱さを認められることこそが、人の持ちうる最大の強さなのだって――』

それは、まるで独り言のように聞こえた。実際に、マリイはもう無線を切ったと思っていたのかもしれない。

彼女に倣い、素子もまた低くつぶやいた。自分の耳に届く前に消えかねないほどの、虫のような小ささ。怨言ではない、ただの事実。

その言葉を粉のように散らす。

「戦う機会もないままだったら……私は強さなんて持たなかった。でもそんな強さ、戦わなくていいなら、そもそも要らない……かもしれない」

「今から、初めて終わらせるつもりだから……戦いを。私にはまだ、分からない」 

もとから存在しなかったように、未練なく。捨て去った言葉を惜しまずに。

素子は、服従を求める強固な念波を脳内で練り上げた。

「もうすぐ、分かるはず」

コンピュータの補助に従い、自在に統御できる適切な質を保ちつつ――念波を放つ。

念波衛星サテライト機構、起動ッ!」

真水に絵の具を垂らしたかのように、彼女の意思の力が広範に拡大した。常人ではありえない、直接の影響を対外に及ぼす精神力が、素子自身によって感じられた。

揚刃擬は、次々と彼女の支配に服していく。

(これが――)

やがて、全機が飲み込まれる。

(信じられない。なんて……なんて、すごいの、これは……!)

単純計算で、従来の四百倍以上のスピードで情報を処理していることになる。霹靂のような突然のブレイクスルーに、素子は瞳を瞬かせた。あまりに激しく能力が開拓されたためか、強烈な頭痛に見舞われる。が、素子の興奮はそれを克服するのに、およそ充分だった。

『そろそろだ……総員、離脱せよ! 戦略型から離れるんだっ』

血臭が漂ってきそうなほど厳しい声音。連隊長のその命令によって、ナギナタ達が一機また一機と戦略型から距離を取り始める。

見れば、戦略型の都市破壊砲には発射の兆候が現れていた。

大気に触れても霧散しないほどの異常な高温を保っていると思われるプラズマ球が、細長い砲塔の先に宿っている。発するエネルギーも、尋常でないらしい。その部分が地上の太陽のように、瞳を灼く輝きを放っていた。念波を使っての知覚出なければ、本当に直視することもできなかっただろう。

悩む時間など、そもそもない。

むしろ、激流と化した時間感覚に飲み込まれてしまいそうだった。そうならないように、素子は一石を投じる。

「全機、全速前進!」

自らの搭乗機を含めて、四百あまりの忠実な兵器たちに、彼女は意思という名の動力を与えた。戦略型と同様とはいかないはずだが――印象としてはそれほど大きい総量を誇る戦闘機群が、一斉に進発する。一個の大陸のような戦略型をさして、その隔たりを縮めていく。

今まで、敵の注意をひきつけていてくれたナギナタ達が離脱したことで、それは自然と素子の方に向いた。

おそらく、こちらの四百という数よりは遥かに多いであろう小型侵略者軍団が迎撃してくる――ということはなかった。

「えっ?」

あれだけいた小型侵略者は、ほとんど見えなくなっていた。念波を働かすと、それらが素子から見て戦略型の裏側の方に滞空しているのが分かる。

「何をやっているの……?」 

まるで、激しい攻撃から身を隠すように。こちらの攻撃力を測っている、ということもないだろう。

そこまで考えて、素子はようやく悟った。何も、こちらの攻撃から身を隠すとは限らない。戦略型の砲撃を恐れているのだ――。

念波によって、彼女は近傍の未来を幻視する。

「そう……そう簡単には通してくれないってわけ?」

冷笑まじりに、素子は言う。そして、目標到達地点までの距離を瞬時に割り出した。

(およそ、千メートル)

 複数のベルトを締め直し、兜を頭に、体を椅子にいっそう強く固定した。訪れるであろう衝撃と振動とに備えるためである。より深く、戦闘機と一体になったような心地を覚える。

貪欲にも、素子はその感覚を機外にも拡大させた。

「ついてきなさい」

空中に列した四百以上の衛星戦闘機に向けて、一斉に念波を放つ。全衛星機は、素子機に追随するように加速を開始した。まるで、四百余機で一つの戦闘機を形成しているかのよう。

単細胞生物から多細胞生物に進化したような、今までにない新鮮な感覚が素子の脳内を貫いた。四百の子機が捉える視界、その機体の置かれている状況、進むべき方角と速度――気の遠くなりそうな多量の情報が、それでも問題なく素子の把握するところとなる。

全機が、戦略型めがけて突進する。

(できた。本当に、こんなことが私にできるなんて……ここまできたなら、あとはあれを壊すのだけが義務)

 素子は、自分の力を信じたかった。それでも、確実にできるなどとは思えない。

「あと一つ、越えればいいだけなの。やるしかない……!」

もっと深くまで見通すように、素子はまぶたを限界までねじ空けた。

叫ぶ。

「あと七百……短距離弾幕戦闘、開始っ!」

戦略型の全身に備わった砲台から、無数の粒子弾による集中砲火が開始されていた。ナギナタ達が戦場から離脱し、目標が素子だけになったためだろう。文字通り、全砲がこちらに照準を合わせている。 

 それから想起できるのは、ただ津波だけだった。

 背筋が震えるほどの妄執が伝わってくる――邪魔をする"敵"を排除しようという、感じるもおぞましい瞋恚の闘気が。いったいどれほどの質量があるというのか。上下左右、どの方向をとっても百メートルはあろうかという砲弾の嵐。

 その百万の砲弾が、たった一機を破壊しようと驀進してくる。

 もはや、数刻前までの曇天は完全に覆い隠されていた。視界に入るのは、自分が突破しなければならない不落の壁のみ。出来なければ、蒼空を漂う塵の一つに――無に、素子は帰す運命なのだ。

(あと四百っ!)

『注目、注目しろぉっ! 突っ込んでいく奴が一人いる、信じられん!』

味方の念波が、錯綜した情報の中に混じり入ってきた。答える猶予も、その必要もなく、素子はなおも敵弾を回避し続ける。常時の四百倍の処理能力を発揮する脳にとっては、人の発する言葉は蝸牛のようにのろかった。そこから速さを吸収したかのように、全戦闘機群は天を駆ける。

 『あんなにいる衛星機を、たった一人で……すごい、すごすぎるわよ!』

『やってくれ、アイツを叩きつぶしてくれぇっ、頼む!』

『神話だ……これは神話だ……こんなこと、ありえない……!』

「あと百うぅっ!」

肉体の制御方法を忘れ――声を放ったつもりでも、喉がかすれて声にならない。素子は、ほとんど完全に精神世界に埋没していた。一寸でも遠くまで飛ぶために。

 素子は、刻限の近いことを知るのだ。

戦略型の備えた都市破壊砲が、いよいよその輝きを増していた。首都を消滅させるべく、最悪の兵器が放たれようとしている。

(させない……!)

 最後の一距離、その踏破を目前として。

極大の念波を、幾億もの大気中の粒子を掻き分け、綿毛のように広げる。命令網は、ちょうど生物のシナプス網のように全機を網羅した。それを伝い、さらなる意思が走り抜ける。

 振り注ぐ豪雨に反逆するかのように――四百余の戦闘機は、一弾たりとも被弾しないままに激しく舞い狂う。

葉の裏に安穏と佇み、座して力を失うようなことを良しとせず。

羽の破け去る前に、ひと時といえども地を離れることを祈り。

「目標地点へ到達――」

戦略型の真上。禍々しく聳立する砲台群を眼下に収める。そこに到達した素子は、必要とされる中では最後というべき指令を出した。

「――全機、攻撃開始ッ!」

千を軽く越すであろう砲口から、同数の閃光とミサイルが射出される。任意の地点に着弾させることが可能な、念子誘導レーザー。それに加え、対大型侵略者用の視覚誘導式ミサイルである。レーザーほどの誘導性能はないが、目標に対して極近距離で発射した今であれば、恐ろしく正確に狙いを定めることができる。

感覚器官を激しく揺さぶるほど大量の光条と排気煙。それらが、光彩陸離と迫る迎撃弾幕を、巧みにかいくぐる。

 ――薄く脆き己を知りながらも、蝶というものはひたすらに飛び続ける。そこにあっては、細く小さな胴体こそが大きな羽を動かす力を秘めている。

 それと同じく――恐れを認める心こそが、誰も思いもよらないほどの強さを発揮することができるのだろう。

自分の発想に、素子は背中を押されたような気がした。

うてなに六肢をかける未来を、全体液と内臓を沸騰させようかという気迫に乗せて。言霊あふれる叫びを、雷鳴のように叩きつける。

「切り裂けえええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!」

 大地そのもののように堅牢な戦略型の装甲を、レーザーとミサイルの奔流が打ち砕いていく。

屈曲した数多の航跡――それは、まさに天上から振り下ろされる薙刀ナギナタ以外の何物でもなかった。

分厚い戦略型は、光と物理の刃に晒される。やがて、その下部まで刃が貫通し切った。

刹那――見たことのないほどの爆風が、巨大な敵の体躯に炸裂する。まるで、恒星の死滅だった。寄せ返す爆風は、また癌細胞のように別の部位に転移してゆく。渇望していた未来が、その場に示されていく。

「かっ……」

水分を失い、舌はからからに乾燥していた。まともに発声もできない。

(勝った。私は)

疲労のせいか、可感領域のあちこちが欠損していた。それでも、敵の死に様は明らかに確認できる。

素子機を飲み込みかねないほど、火の玉が危険に拡大する。かたや、かつて戦略型だったものはそれに完全に包み込まれていた。

(死ななかった……)

興奮を隠そうともせず、素子は涙と念波を同時に溢れさせる。

四百あまりの衛星機とともに、全速離脱を敢行しながら――素子は子供そのままに咽び泣き続けた。


とりどりの花が目に付く美景が、本来ならあるべきだった。しかし、それは想像の大気の中へ花びらと散る。

耽っていた空想から、正代は現実に戻ってきた。

多量の砂埃を含んだぐ風が、身辺を通り過ぎていく。目をしかめ、たなびく髪を片手で押さえ込んだ。

「とても、美しいとは言い難い景色でございましょう? 残念ながら」

いたたまれなくなり、正代は本音を漏らした。対して神名は、珍しく控えめに答える。

「……そうですわね。しかし、この戦いで最も激しい爆撃にさらされた土地にしては、まだましと思えませんこと? ここにはまだ、舗装の下の土壌が残っている。基盤岩石まで掘り起こされずに済んだんですから、いずれは復興できますでしょ」

「前向きですね」

「正代がネガティブなんですわ」

腰に手を当て、言い捨てて。神名は周囲を見回した。神名も、それにつられて顔の向きを変える。

砕けたビルの屋上が、地面に突き刺さる。瓦礫の山が、ほとんど完全に地表を覆いつくしている。遠くの方には、建造物が健在で被害も少なかった地域も見える。しかし、ここ数キロ四方ほどは、もはや完全な焦土と化していた。きっと、救助の手の及ばなかった市民の亡骸も、瓦礫の中には多く残されているに違いない。

 悲惨、の一言に尽きた。

「この土地の他にも、戦火を免れた地域だって多くありますね……そう、やはり廃墟も、我らに残されたものなのでしょう」

「当然ですわ。ナギナタが守り抜いたものですもの。それだけの価値がなければ、困りますわ」

憮然と、神名が腕を組む。

正代は微笑もうとしたが――チクリと胸に刺さる針を感じて、それを取り止めた。

とても、笑うにはきつすぎる現実が脳裏に去来したからである。都市が廃墟と化した計り知れない損害と、その他に。

「……参りましょうか」

前方を、そっと指さす。

野外に急ごしらえされた献花台と、それに群がる人々が見える。もうずっと前のことのように感じる閲兵式のときよりは、遥かに少ない列席者だった。今日は、特に故人と親密だった者に限定した葬儀だという。というのは、死による社会的影響が大きすぎるため、瑣末な関わりの人間をいちいち呼んでいては大変な数になってしまうから、とのことだった。そのせいか、放送関係者と思しき者の姿も、まばらにしか居ない。

軍服と同じような漆黒の喪服を、ざらついた空気にさらし――二人はその献花台のほうへと向った。堅い雰囲気の場に赴くという理由もあり、正代は普段流れるに任せている黒髪を纏めている。一歩を重ねるたび、その量ある髪の房がいちいち哀しげに背中を叩いた。

彼女らと同じく喪服を着用した人々の間をすり抜け、二人は献花台の上に立つ。すでに、黄や薄紫などの色彩にそれは覆われていた。華やかではある。しかし、それとの対比によりいっそう哀愁が沸き立つようでもある。

花々に覆われた下に、棺が一台。埃っぽい風を防ぐため、その周囲にはしきりが設けられている。

血色を失い青白く、しかし絶望や執着の色もまた見えない。辛酸の極を味わった苦労人にも、戦局を逆転させた英雄とも思えない。こめかみにある、禍々しい念子コード接続孔さえ除けば――十九歳の少女の、あどけなさすら匂う顔に過ぎない。

息を引き取った素子の体が、そこに横たえられていた。

二人は中腰になり、それぞれ手に献花台に手を伸ばす。握った花を、そこにそっと置いた。神名は紅いカーネーション、正代は黄色い大菊。その二輪の重みがさらに、素子の肉体だったもの上に加わった。

彼女が危険な状態であることは、最後の戦闘のすぐ後から知らされていた。

戦略型の消滅により、侵略者軍団の一時撤退が開始され――敵の激しい圧力は、しばらくではあろうけども和らいだ。加えて、追撃を加えることにより、首都の安全ばかりか重要拠点となり得る真岡諸島の再確保にも成功したのである。

侵略者に対する我が国の攻勢をきっかけとして、世界各地に駐屯するナギナタによる戦略的大反抗すら計画されているという。素子の働きによって、戦況は革命的なまでに変わったのである。

そのため、二人は出撃する機会もなかった。それを幸いとして、正代と神名は病床の素子に付き添うことを続けていたのだ。

念子と念波の激しい使用が、命取りになったのだという。

「……正代」

神名が呼ぶ。何故だか、彼女の呼び声には力強いアクセントが含まれている。どこか、非難めいていた。

「なんでしょう」

「まさかあなた、自分ひとりに全てを負わせるつもりではいませんわよね」

「な、何を突然……」

正代は、意識しないままに視線を外す。その仕草があからさまなものであることに、彼女は自分で気がついた。取り繕う術もない。図星だったのだから、当然だった。

 「……往生際が悪いですわ、隊長ともあろうものが。まあ、その立場をあなたは意識しすぎなんですわね……すぐ荷を自分で負いたくなるんですもの」  

神名は、肩を縮ませた。

「やはり、そう見えますか」

「ええ、悪いけど、まるでマゾヒストに見えますわ。そうですわね……やはり、素子のように――」

神名はうつむいた。

その視線は、素子の安らかな寝顔の方を向いている。葬儀屋の腕が良いであろうことを差し引いても、彼女は真に平穏な表情だ。

それを視界に納めて、神名は流石に気丈さを損じていた。途切れがちに、続ける。

「――自らの持つ弱みを、見極めることから……始めれば良いのだと、思いますわ」

神名の言葉に、乗せるように――。

正代は、懐からさらに一つの品を取り出した。花の群れを掻き分け、それを素子の死に装束の懐に挿し込む。

それは、正代と神名のしたためた手紙だった。生前、衰弱してゆく精神にあっても、素子はそれを見て喜んでくれていた。素子に捧げるほか、使い道などはない。ならば、素子の体とともに灰と化すのがふさわしいだろう。正代は、そう感じた。

「的を射た忠告、感謝いたします。その正しさ、素子が身を持って示してくれたのですから……」

その感謝が、無意識のうちに音頭取りに等しくなった。が、意識的なそれを正代は執り行う。

「敬礼っ!」

正代も、神名も、素子に向って一斉に黙祷を捧げる。それは、ただ瞳を閉じて俯く種のものではない。しっかりと素子を見つめながら、最敬礼を行う。戦死者に対しては、これほどふさわしい祈りはないだろう。

敬礼は、たっぷり数十秒は続いた。

正代と神名が献花を終えたことで、どうやら個人単位での死者との面会はすべて完了したらしい。

二人が野外席に戻ったところで、葬式が次の段階へと移るようだ。

これもまた、臨時に設置された大型スピーカが起動する。何台かの報道カメラが注視を厚くし、居並ぶ参列者は姿勢を正した。 

流れるメロディの渦中。

二人は、とりあえずは最後の会話を交わす。歌を歌い始める前の、腹から息を出すわけでない最後の発音だった。

「どうやら、私たち文才も持ち合わせているようございますね……天は二物を与えず、とよく言いますが」

「……作詞家の方に、すいぶん手直しして頂きましたわ。あの手紙に記した歌、そのままではありませんわよ。それをお忘れ?」

「いいえ」

一単語で、正代はあっさり口をつぐんだ。

慣れない髪型のポニーテールが、はためいていたが。それを、手のひらで包んでを押さえる。

 逡巡の末、正代は胸中を明かした。

「私としたことが――単なる強がりでしたね」

その言葉を最後として、メロディが一挙に流れた。上昇気流を思わせる高らかな響きが、どんな念波よりも確かに伝わってくる。

葬式場に連なる人々は皆、歌い始めた。神名と正代も例外でなく、大声を上げる。軍隊式伝達方法として以外のそれを、二人は久しぶりに発していた。死者を悼むことで、生者を慰める歌を通して。



扉をくぐり、マリイはそこに足を踏み入れる。純粋に科学者として入室するのは、一体どれだけ久しぶりのことなのかほとんど思い出せないくらいであった。

薄明かりに照らされた室内は、大量の機械で覆われている。まるで、蟻の巣だった。

意味のないことをしようとしている――そうと悟りつつも、マリイは前進していく。

すると、白衣の研究員が振り返り、マリイに敬礼を行った。答礼し、そしてたずねる。挨拶もなく、ただ事務的な口調で。

「経過はどう?」

「はッ。現在、胞胚の段階に達しています。遺伝子改変は、滞りなく終了しており、その点については問題ありません。成長促進剤も正常に効果を及ぼしているようです」

「遺伝子異常のチェックは? 羊水の水質は? 神経細胞の様態キャプチャは?」

矢継ぎ早に質問を浴びせる。

「すべて手抜かりありませんが……」

「お疲れ様、それならいいのよ。あとは――」

さらなる質問攻めに、研究員が身じろぎした。しかし、マリイには何か問うつもりはない。

「――そう。少し席を外してもらえない?」

「は……」

「仕事を取り上げるつもりじゃないの。ちょっと、なんていうか、気持ちの問題でね」

「……了解しました。では、しばらく出ていましょう」

職分を侵すことを、拒絶はされなかった。ほっとして、マリイは片手を上げる。

「恩に着ます」

扉のほうに研究員は向かい、やがて退室した。それを尻目に、マリイは視線を変える。

変えた視線の先。

博物館の文化財のように、周囲を幾重もの強化硝子に覆われている。その守りの中心部に、巨大な試験管が据えつけられていた。ひと一人が入ることのできそうなほどの巨大さ。

天井から伸びた幾本ものチューブが、試験管の上部に接続している。まるで、植物のような様相を呈していた。一方、その内部は水で満たされている。透明に近い、薄い尿のような液体。

外部に対しては堅固、そして内部に対しては柔軟を保つ、考えうる限り最高の恒常性保持機構だった。

「あなたを」

マリイは、囁いた。独りごとではない。あくまでも、相手に向けた言葉を。

硝子に指先が触れ、そして設置面積を広げる。冷え切ったその硝子に、手のひらの温度が奪われるのが分かった。

「衰えさせない。そんなことは、私たちがさせないわ。必ず、超再生を繰り返してゆく命なの、あなたは」

今のところは、混じりけ一つない液体の、流れを見て取ることはできない。ただ、そこにじっとあるだけ、のように見える。

そして、その中に要るはずの、異質な存在を――単なる液体とは比べ物にならないほど複雑で有機的な存在を、まして見えるはずはない。しかし、その命は紛れもなくそこにいる。幾多の人間が、長い時間と高いコストを費やした作為の結晶である、それが幻のように消えてしまうなど、ありえないのだ。

「これは――私の言ったことじゃないの。私は、伝えることを頼まれただけ」

聞こえるはずがない。聞こえるということの定義上。しかし、聞こえなくとも分かってくれるかもしれない。

試験管に浮遊しているはずの生き物は、そういう存在なのだから。

「あなたは……なんどでも蘇る。たとえ、なんど敗れてもね」

他人の言葉を伝えると同時に、マリイはそれにそぐわない感覚の興りを感じた。マリイも、何か言うべきことがあるかと問われれば、伝えるべきことと同じことを答えたに違いなかった。そういった、確信めいた推測。

空気と、硝子と、液体と――それらの波より他に、伝わるものがあるのだろう。確認して、マリイは相好を崩した。

硝子に映った自分の顔が、笑っているのが分かるのだ。

「決して滅びない。必ず蘇って……生き続けるのよ」  

人は誰も、自分の心理を分析することはできないという。それが嘘八百なのだと、マリイは悟った。

「そして――」

 克服するのに、無限の時間が必要だとしても。それでも、前進することこそが正しい。

自らを苦しめ続け、末に自分を捧げた素子の生き方を――また、彼女の娘とも姉妹ともつかない、未だ生まれない者の未来を見つめ、マリイは保護者のように柔らかく囁いた。

 自分にでなく、言葉を待っているはずの、相手への囁きを。

「戦い続けるの」

マリイは、もう一方の手で目頭を押さえた。まるで、素子の生涯を追って体験するような心地になる。

(こんな気持ちだったの? 素子ちゃん……)

伝えるどころか教えられて、マリイはそのままを口にした。

「全ての敵を、滅ぼす時まで……ね」

 素子にとっては、荒んでも、また敗れようとも構わないのだろう。

そこに、戦い続ける意思があるのならば――。

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