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「あれ、連隊長……?」

 『すまん、再び伝達すべき事項ができあがったのでな。貴官らに下す懲罰を思い出したのではない。そういちいちおびえた顔を見せるな、仁尾上等兵』

 千里が、恥じ入ったように顔を伏せる。

 が、連隊長は微笑むことすらしない。むしろ、さっきよりも厳しい表情をしていた。空間のどこか一点を、瞳で睨みつけている。

 「それで、用事とはなんでございましょう?」

 『大海上で、いままでにないほど大量の敵に動きがあることが確認された。敵の個体数は千を軽く越している――そのすべての進路はわが国だと予想される。およそ四十個戦隊を割き、やつらを迎撃することが決定した。おおよそ一週間後の予定だが、しかし予定は予定に過ぎん』

 「四十個戦隊……それでは、国内のほぼ半数の部隊を動員するということですか?」

 マリイが血相を変えて訪ねた。

 『そうだ。それに加え、通常パイロットによる早期警戒管制機も出撃する――それはともかく、今の今まで極秘事項だったからな。貴官らに明かすのも初めてだ』

 隊長は、重要な勅命を読み上げる時のように、荘厳に息継ぎをした。誇らしさと冷徹さを帯びた声音が、第五戦隊への命令を伝える。

 『イナキ。作戦名は"イナキ"だ。今後の通達にも耳を傾けておけ、蝶たちよ。貴官らの働きを期待している』

 詩的な表現を使うガラの人間ではないことを理解しているようで、連隊長は自嘲ぎみに笑った。ごく軽い敬礼をして、再びスクリーン上から消え去る。

 それをよそに、素子は別のことを考えていた。

 (すべきことが、これほど多いなんて)

 達成できないような課題が次々と自らに課せられていく。それを、敏感に察知していた。

 連隊長に答えなけれいけないこと、必滅すべき新たな敵、前代未聞の大規模な作戦。 

 (そして――)

 素子は、誰にも見えない自分の心だけを、大きく振るわせた。記憶の糸を引き出された時のように、感傷的になっていくのが分かる。今は、それが恥ずかしくはなかった。情けないとも思わない。

 それだけが、彼女の支えだったのだから。

 (お父様のこと)

 彼女は、未だに自分ひとりをその身に抱いている。

〔戦隊を戦隊に変えます↓〕

 最後の休日を迎えたが、素子はあまり心の平穏を得てはいなかった。

 はじける焦燥を必死に無視している。気を紛らわせるためには、素子は絶えず何か別のことをしていなければいけなかった。

 亜熱帯の灼けるような日差しと、浅く澄んだ海面は、強烈にその存在を周囲に知らしめていた。だが、海辺に遊びにいくほど気楽にはなれない。第一、第五戦隊の面々は、素子以外の全員が勤務中である。戦隊を構成する全員が一度に休むと、有事の場合危険になるから、ということらしい。

 そういうわけで、一緒に過ごすことのできる仲間もいない。素子は自分の個室の中で、過ぎ行く時にひたすら身を浸していた。

 やることがないわけではない。

 情報通信端末をチェックすると――驚いたことに、本国にいるワーリャから手紙が届いていた。まず、その従兵のけなげさに驚く。ほとんど毎日、それらを素子に送っていたようだった。よほど、素子のことを思っているのかもしれない。 

 (可愛い子)

 素子は苦笑した。

 月の大半を占める勤務日には、手紙をチェックしている暇などない。そのせいで、手紙は数十通溜まってしまっている。返信が来ないのはワーリャも分かっているのだろう。だが、それでも少し哀れを催す。

 その手紙の一つを、電子入力で開封する。

 モニタの画面上に、ワーリャの書いた手紙の本文が広がった。文書作成ソフトを使っているらしく、字の誤りはとくにない。しかし、文章の使い方は稚拙と言わざるを得なかった。

 おかしなところで点や丸が入るという基本的な誤りを含めると、それはもはや暗号に近い物へと変貌していた。ワーリャの中では、立派な手紙だったかもしれないが。

 現在では、人間同士の戦争は世界のどこでも一応行われていない。が、もしそんな戦争下でこんな物が送られてくれば、素子は暗号を受け取ったスパイとして処刑されていただろう。

 しかし、実に頭を捻って文面を練ったということは、容易に想像できた。

 なかなか一生懸命じゃないの――そんな感想を覚える。

 次の一通、また一通と読み進むうち、少しずつ時間は潰れていった。それらをすっかり読み終わるころには、昼過ぎになっていた。

 ベッドの上で、素子はうつぶせに横たわる。

 もはや、暇つぶしの手段もない。磁石に引き寄せられる金属のように、考えることは自然とある一つのことに収束していく。

 父親のことに。

 (お父様……いま、一体どこに居るの)

 シーツを両手できつく握り締める。そして、自分の胴体の方に手繰り寄せた。父の胸が、そこにあるように感じる。そう感じるだけで、あるはずはないのに。

 頭を――深く沈めていく。肋骨を砕かれ槍をつきこまれた人間の胸のように、枕が大きくへこんだ。

 父親は失踪している。

 素子は才能を認められて、高校を出ると同時に軍隊に加入した。いままでとは百八十度異なる生活は、とても言葉で表せない苦しさがあった。

 しかし、父が期待していることだからこそ、父に求められていることだからこそそれに耐え得たのである。

 父は著名な研究者であったため、その謎の失踪はすぐさま公共の電波にのることとなった。いくら軍隊生活中でも、流石にその程度の情報は入ってくる。

 これ以上ないというほど、心の支えになってくれた人が居なくなる。それを知らされた時のことを思い出して、素子は心臓が抉り出されたような不快感を覚えた。

 その時以来、何かがおかしくなってしまった。全てが狂ってしまった。時計の針のように、そのときのずれは少しでも――時が経つに連れ、徐々に狂いが大きくなっていく。

 (もう、限界なのかしら。私)

 毛布を被り、彼女は更に縮こまった。周囲の気温は高いので、それは大変な暑苦しさをもたらす行為だった。

 何かが凍てついてしまいそうで。頬を流れていく汗の不快感に耐えつつ、素子は呟いた。

 誰にも聞こえない、自分だけの呟きを。

 (おまえ自身の戦場を戦い抜け、素子)

 蘇る父の言葉に、彼女は全力で聞き入った。素子は、自分で言ったことを自分で聞いているのだった。だが、そんなことはどうでも良かった。父が言っていることを、聞き逃したくはない。

 眼の奥に、マグマのような熱が走る。

 それは、波紋のように広がり――脳を、瞳を、灼熱が走り抜け、神経が苦痛にのたうつ。それをどうしようもない。

 首を切り落とされた人間のように、素子は五体を細かに痙攣させた。巨大な痛みに叫びや動きを与えることなく、静かにではないが、素子はじっとそれに対抗し続ける。

 (戦い抜く……戦い抜くって、何をよ。こんなの……戦えるほうがバケモノよ)

 顎の力でそれを噛み砕こうとしたいのか、素子は自分の歯が信じられないほどきつく締められるのを感じた。それだけ巨大な頭痛を、それで紛らわせようという体の本能的な反応なのかもしれない。

 マグマが、眼球から対外へあふれ出した。涙という、不定形な形をとって。それらは、押しつぶされた枕に灰色の染みを作っていく。染みは、ひたすらに拡大する。

 (でも――)

 塵の山に叩き込まれた小動物のごとく、素子は傷ついていた。痛めつけられている。

 それが、いつもと違っている部分があった。

 (まだ戦ってない、逃げてるだけ。私は)

 何も考えられないほどの頭痛に苛まれ、彼女はいつも気絶したのか睡眠したのかはっきり分からないくらいだった。


 本当に、異常と正常の瀬戸際ではあったが。どうにか、ゆっくり考える余裕はあった。

 頭から足先まで、体を震わせる。なんとか耐えることができそうだ。

 (次の作戦で、学べるのかしら。どんな気持ちを持つべきなのかを)

 父の気持ちを想像する。彼なら、きっと聞けば教えてくれたに違いない。自分の命と、他者を守ることで犠牲になること――その間で、どうバランスを取っていくかということを。


 素子がそんな疑問を持ちもしないうちに、父はどこかに去ってしまった。 

 世間的な見解では、素子の父親はすでに故人であると見做されている。それは、素子自身が死を宣告されているのにも似ていた。

 父のことを思い出す。言っていたことだけでなく、口調、身振り、表情、息遣いまで、脳細胞にこびりつく限りの記憶を動員し、父を脳内に再構成していく。戦闘機を操るように、できうる限り本物に近い父の姿を再現するのだ。

 彼なら、なんと言うのだろう。彼は、どんな気持ちで素子を戦いに挑ませたのだろう。父は、素子のことをいつも気にかけていた。時に、執拗でうざったく感じるほどに。

 その娘に命を賭けさせる時、父は何を願ったのか。

 答えは自明の真理として、素子のすぐそばにあるようにも感じられた。同様に、推測力にぽっかりと穴が開いて、とても分からなくもある。素子は、そう思った。

 頭を撫でてくれ、そして駅のホームからいつまでも手を振っていた父。それと、いつもどこかうつむき加減だった父。

 ――思い出したくない。

 その言葉が、何故か浮かんできた。

 (そこまで悲しんでいる? ……お父様が嫌いなの?)

 素子の中で、一時の安らぎが復活してゆく。不可解な気持ちに、蓋をかぶせる。一時しのぎでしかない蓋を――。

 自分の腹の上にシーツを掛け、素子は泥のような眠りに落ちた。

 

 夢の中で――素子は、常人には見ることの叶わない物を見ていた。正確に言うならば、彼女が自ら望んだのではない。超能力が、勝手に発動していたのだ。

 能力を酷使する生活が何年も続いていたため、脳は疲弊している。したがって、訓練以外のときに超能力が自然発動するのは、本当に久しぶりのことだった。

 乱舞する映像の中、素子は当事者と観察者の双方になることを繰り返していた。

 どういう意味を持つのか分からない、小さな夢が。雪のように降り積もっては融けていく。

 暗い道の上に、素子は立っていた。

 雪の一粒が、彼女の頬に触れる。暗中で拡散しきった視力は役に立たない。雪の伝える未来を、素子は幻視した。

 人がうずくまっていた。

 肩を震わせ、顔を両肩の間に沈めている。

 まぎれもなく、泣いているのは素子自身だった。

 その表情を窺うことはできない。思うさま感情を垂れ流す自分自身の姿を、素子は視続けた。欠如した距離感が、じれったいほどにゆっくりした速度であぶりだされていく。

 泣いているのは、未来の自分――素子は、深まる雪の中でそれを悟った。

 

  『大海上に集結した敵の個体数は、ニ万を突破した……二時間あまり前に更新されたばかりの情報だ。これからさらに敵が増える危険性もあるが』

 モニタ上の槇嶋連隊長は、低い声音で状況を知らせた。

 連隊長の声を謹聴しているのは、ブリーフィングルームに整列したオペレーター達、そして八十人あまりのナギナタ達である。白い軍服、そしてその中身の人間が規則的に整列する様は――彼らが近い将来命を失うことになるかもしれないとしても、実に冴え冴えとしたものだった。

 イナキ作戦に抜擢され、本国から輸送された四十個戦隊である。彼らが一同に会していた。

 普段なら、ナギナタの内の誰かが出撃していることが多い。ある地区の戦隊全員が顔を合わせる機会すら、したがってほとんどなかった。

 しかし今回は違う。

 嵐の前の静けさのように、侵略者たちは一時的に積極的な動きを止めていた。これから大進撃を始める準備であることが疑われる。そのタイミングに合わせて、こちらも大規模な戦力を投入し迎撃しきろうという戦術であった。

 その直前にあたり、作戦に参加する全ナギナタが一度集められたのである。前向きな気風と肉体的な強さをもった若人群のみならず、小学生程度の少女や、初老に差し掛かった男性なども散見された。無論、全員が軍人である。

 十歳未満、および七十一歳以上の人間は流石に法律上の制限があるらしい。だが、年齢的に適合しかつ能力を持つものなら、誰でも戦いに借り出さざるを得ない戦況なのだ。

 その事実を憂うよりも、むしろ敢然と迎え撃つかのように、連隊長は声を轟かせた。

 『それよりは、敵の斉進を警戒すべき状況だ。貴官達は、その侵略者どもを叩き潰さねばならん』

 連隊長の怒号に、素子はただ直立不動の姿勢を保っていた。指一本、動かそうとも思わない。

 肩の震えが止まらないのだ。

 体のどこか一箇所でも動かしてしまえば、それをきっかけに震えが体全体に流れ出しそうだった。

 眼を背けてしまいたい感情は、しかし決して消えない。死という最大の虚無をちらつかせながら、刻々と現在に近付く未来を忘れることができなかった。

 『敵の侵攻を許すな、一体たりともだ。決して我が首都を奴らに拝ませるんじゃない。故国のため、人類のため、我々は死を恐れず戦う。分かったかっ!』

 「了解!」

 第一区の第一、三、五、六戦隊、さらに第二区第一、四、五戦隊など、この場に集う全戦隊員が一斉に敬礼を行った。清冽かつ凄烈な斉唱が、空気を痛いほどに振るわせる。

 『全イナキ統合戦隊、戦闘準備にかかれ。出撃は十五分後だ、もたもたするなっ』

 「了解!」

 八十人余が吼え、そして滝が流れ落ちるかのような急速な移動を開始した。自らの操る兵器を求めて、飛行場に殺到していく。第一区第五戦隊の四人も、全体の流れに従い、駆け足で屋外へと出て行った。

 正確には、イナキ作戦の間だけ、第一区第五戦隊という名称は廃止される。大規模な作戦にあたっては、各戦隊を有機的かつ分業的に運用するため、独自の名称が設けられるのが常である。臨時の編成変えとも言える。

 かつての第五戦隊には、『イナキ第十七統合射撃戦隊』の名が与えられていた。

 その仰々しい戦隊名にも、そしてイナキ作戦そのものにも、素子はある種の感情を覚えていた。頬の上に、常に静電気が流れているかのような緊張感である。

 駆け足のままで、戦隊は飛行場に到着した。すでに、整備兵の慎重な手が戦闘機の点検を終えている。後は戦闘機の脳髄とも言うべきナギナタ達が乗り込むのを待つばかりであった。

 「戦いが迫っております故、長ったらしい話は止めにいたしましょう。では、皆様――勝利を!」

 正代が凛々しい敬礼で、戦隊の士気を高めた。

 「了解!」 

 素子、神名、千里も――その全員には、程度の違いこそあれ一様な精神の高ぶりが見られた――返礼を返す。そして、全員が各々の戦闘機に向かって散った。

 (ぜったいに戦い抜く。それで見つけるの……)

 軍服の胸の部分を握りつぶす。自分の動揺を、自分自身から隠すかのように。

 素子は梯子を上って『揚刃』に乗り込んだ。様々な計器類の作動と、手動チェックを次々とこなしていく。実戦に入ってから間もない素子だが、訓練は重ねてきた。途中でつまずくこともなく、作業は終了する。 

 「こちら第十七統合射撃戦隊来須。機体チェック照合願う」

 『こちら第七十三整備小隊、了解した。直ちに照合を開始する――』

 無線の向こうから、専属の整備兵の声が現れる。

 『――オールチェッククリーン。繰り返す、オールチェッククリーン。任意発進可能状態。――せっかく魂込めて整備したんだから、アンタさん死なないでくれよ。頼んだぜ』

 「当然よ」

 素子はそう答える。

 が、死なないという確信などあるはずがない。今は、言葉どおりになることを信じるほかなかった。 

 それ以上は無駄口を叩かず、素子は無線通信をうち切った。

 (実戦が私に語るもの。それを見つけにいくほかないの。お父様の言ったことも、きっと分かる。分かるはず)

 萎縮と孤独の中、芽生えた雄雄しさに素子は全てを預けた。自分の命も。

 と、その時正代の命令が戦闘機内に響き渡る。

 『戦隊長より第一七統合射撃戦隊へ。総員、念子管制を起動せよ。繰り返す、念子管制を起動せよっ』

 『了解っ』

 素子は、真っ黒い念子コードを電子兜に突き刺した。コードの先端は、こめかみの接続孔を通して脳に直接接触する。コードの脱落を防ぐため、兜から覆いを下ろして固定した。

 たちまち、電子と念子の流れが、人体と機械のインターフェース上で交錯する。二つの流れは、濁流のように素子の体と戦闘機のコンピュータを駆け抜けた。

 構築されてゆく精細な情報の建造物を、素子はその身に宿す。

 自分の体が跡形もなく融かされ――そして再構成とともに、大空に羽ばたく羽根が与えられる。自らの皮を引き裂き、抜け殻を残して飛び立つ蝶のように、素子は涼やかな心地よさを感じていた。

 『離陸せよ!』

 正代の命令と同時に、素子は脳内の操縦桿を力の限り前に倒す。戦闘機は速度を得て、飛行場を滑走し始めた。

 第十七統合射撃戦隊、そして全イナキ統合戦隊のPCFが巨大な滑走路の上を次々と行進してゆく。数戦隊ごとにかたまっては、PCF群は出撃した。その影が、空をちらちらと通って去っていく。

 時が来て、素子機も空へ駆けていった。

   

 普段とは違う圧倒的な安心感、連帯感もまた生じていた。今回、群れを形成する蝶はほんの一個戦隊ではない。四十もの戦隊、故国の保有する対侵略者兵力の半数が同時に航行しているのだ。このような機会はごく稀である。


 個人念波の探知が届く数十キロの範囲に収まる形で、大量の固体が寄り集まっている。大洋をその身に孕んだ大空が、新たな命を宿したかのように。

 『連隊長より、全イナキ統合戦隊へ――時間だ。所定の方角へ分散し、敵への迎撃体制を取れ。全体指揮も継続されるが、これ以降、原則として各統合射撃戦隊、統合偵察戦隊、統合突撃戦隊指揮に移る。健闘を祈るぞ』

 槇嶋連隊長の後に、さらに無線連絡が続く。誰もがぴりぴりしているせいか、言葉には焦燥も含まれていた。

 『こちら、統合オペレータ三木島。侵略者は、ほぼ予想通りの時間で我が国へ向けて進路を取っていることが確認されました。統合偵察戦隊の各早期警戒管制機は、引き続き敵の接近を警戒してください』

 若い男性オペレータが告げた。

 『敵の構成は――八峠谷基地のロングレンジレーダーによれば、突撃型"ACCURST"、爆撃型"METEO"、迎撃型""、重突撃型""を中心に、少数の偵察型"SNIFFER"、空母型"DOLDRUMS"を確認。しかし、先日初めて確認された超音速型"SPEAR"の存在する可能性も視野に入れています。"SPEAR"に関しては、PCFのサテライト機能の使用が有効と推測されています。その際は、随伴空母"白鷺"、"蔓"、"唐薙"所属の無人戦闘機を指揮下に入れることを許可します。速やかな連絡を願います』 

 ああ、あの針のこと――素子は記憶の糸を辿った。針型の敵は、念子誘導レーザーの集中砲火のみしか撃墜する方法がない厄介な敵であった。もし再び戦うことがあれば、今度は取り逃すわけには行かない。でなければ、再び首都に大きな被害が出てしまう。素子は、その任務の難しさを思って気を引き締めた。

 (課題を、一つ一つ解決していかないと)

 様々な壁に、素子はつき当たっているといっても良かった。

 その壁を越えなければ、また少なくとも壁に圧倒されてしまえば、また多くの被害が出る。人名も数多失われる。

 地球というスケールの大きな物、それを守っているという実感は、まだなかった。しかし自分の行動遺憾によって、故国の被る損害が左右されることもありうる。数億の人々が、ナギナタに望みを掛けている。

 自分の心という小さな問題が、羽虫のように飛びまわって素子を刺し続ける中でも、やはり果たさねばならないことがある。

 と、考え事への深い沈降が、無線通信によって中断された。

 『こちら戦隊長。所定航路に進撃いたします。第十七統合射撃戦隊、続けっ』

 『了解っ』

 返答した後、素子は慌てて機体の進路を直前のものから反らした。雛鳥のように、正代機の進行方向へ続く。

 (危ないわね。考え事するのはいいけど、指示を聞き落としたら洒落にならない。とにかく、仕事に集中……!)

 乾いた衝撃音が鳴る。

 頬を手のひらで軽く叩き、素子は気合を入れなおした。

 

 濃灰色の霧が、海を、大気を覆いつくしている。

 海上を流れるのは、遠く本国の付近から流れてきた暖流。その上を、分子一粒にいたるまで動きが緩慢になった冷気団が浮遊してゆく。

 視界が悪いことはナギナタにとっては全く苦にならない。念波がつかえるのだから、当然だった。盲目でナギナタとなっている人間も、とある基地には存在しているという。

 大気の冷え具合は、やや体にこたえる。が、支給された軍服の保温性は抜群なので、任務に支障をきたすほどではない。

 そのような補助物資の質はやたらと充実しているのだ。現在、世界中で種種の資源は枯渇の一途を辿っているが、それでも戦闘員の絶対数が少ないため、軍事関係の物資はまだなんとかなっているらしい。

 (ありがたい……)

 南の島からいきなりこんなところに遠征するのは、あまり健康にいいとは言えないだろう。血の巡りが悪くなっていそうな二の腕を、素子はしきりにさすった。

 陽光を隠しつつ、不気味にたゆたう霧の中で、そうでもしなければ自分の強さが弾け散ってしまいそうな気がした。

 すると、マリイからの戦隊通信が入った。

 『こちらマリイ。ずいぶん霧が深いけれど、電波はちゃんと届いている? 隊長さん』

 『特に問題ありません。それで、敵の動きはいかがでしょう?』

 『こっちのレーダーだと……みんなが担当する領域にはいくつか大型が居るわ。質量からみて、おそらく空母型"DOLDRU

LMS"。それと、さらに無数の機影が飛び回っている。総数は五百以上と見込めるわ』 

 「五百……!」

 素子は絶句した。

 途方もない大軍である。その上空母型が存在するとなれば、敵の発する弾幕は相当苛烈なものになることが容易に推測できる。

 以前、突撃型を十数体相手にしたときとは、まったく別の次元の戦闘になるはずだった。

 『一瞬でも気を抜いたら、塵にされてしまいそうですわね』

 神名が、素子の気持ちをほとんどそのまま代弁した。

 『なんか、まだ戦ったことない敵さんがいっぱいです』

 『そう恐れる必要はございませんよ、千里。基本に忠実に、敵弾を回避しつつ余裕を見て撃ち込む方式でいけば問題は生じません。それに、千里も素子も、突撃型はなんなく相手をしておいででした。慎重にやりさえすれば、必ず事なきを得るでございましょう』

 と、千里の声音が少し明るめになる。

 『ほ、ほんと? 正代姉さま』

 『ええ、私が保障します』

 その言葉に、素子は一瞬安らぎを覚えた。

 しかし言ったこととは裏腹に、正代が浅く嘆息する。何やら、憂いを隠し切れないといった様子だった。

 『――と言いたいところではありますが。我が浅見からしても、空母型や超音速型はやや手ごわいと言わざるを得ません』

 『空母型は堅いですわよ。それに、揚刃は小回りは効くけど攻撃力は侵略者には遠く及びませんものねえ……複数戦隊が弱点に集中砲火して、ようやく破壊できるといったところですわ』

 少しばかり面倒くさそうに、神名がぼやいた。

 なかなか気分の悪い話である。暗い見通しをこれ以上聞きたくなくて、素子は別の敵について話題を出した。

 「それと超音速型も……」

 言ううちに、素子は気勢が胸の奥で破裂しそうに溜まっていくのを感じた。

 「あいつ、今度は逃すわけにはいかない」

 素子は、それについては本気だった。全力を挙げてあの"SPEAR"を阻止しなければならない。自分の失態一つで、大きな被害を出したくはなかった。

 「逃したら、また本国に被害が出てしまうかもしれない……」

 しかし、マリイが釘を刺す。

 『あまり熱くならないで、素子ちゃん。あの時はしょうがなかったんだから……』

 彼女は、言葉の端に焦りを滲ませていた。気を遣っているのは、素子にも分かる。

 だが、素子はマリイ以上に感情の置き場を見失っていた。いままで気づかなかった自分の不安定な感情が、吐露すると同時に認識される。

 語気を荒げて、言い放つ。同時に、そんなことを言ったということに素子自身が驚愕を禁じえなかった。

 「しょうがなくありません……私たちが倒し切らないと、また人が死ぬんですっ。私たちは、弱い奴ではいられないんです――それをわかってくれてるんですか!?」

 素子の怒鳴り声に、戦隊通信網にひとときの静寂が訪れる。何の電波も送受されず、居心地の悪さが戦隊を支配した。

 (くっ……私は、なんて口の利き方を)

 即座に、後悔が素子を責め苛んだ。

 マリイに一切悪意のないことは分かりきっている。少しでもこちらを慰めようとしての言葉だろう。それを、短絡的な怒りから乱暴な言葉で返した自分の幼稚さが、ありありと示された心地がする。

 素子は、自分で生んだ沈黙を、自分自身で破った。

 「ごめんなさい、マリイさん。私、つい嫌な言い方をしてしまいました……」

 マリイは、ふっ、と小さく息を漏らす。どうやら、微かに笑っているようだった。しかし笑い声を発することもない。素子の気持ちを、彼女は考えているのだ。 

 『いいえ、構わないわ。でも、あなたがそこまで思いつめていることには気づけなかった』

 馬鹿にもせず、叱り返すこともせず、マリイは真摯に言葉を紡いでいる。子供を諭す母親のような優しげな声音から、それと知れる。

 『戦闘の前だというのに、気持ちを乱すわけにはかないものね』

 マリイが言葉を積み重ねてゆく。そのたびに、素子の心臓がずしりと重さを増していった。

 (いったい、どれだけ馬鹿なのあなたは……駄目だわ、自分を見失っている。他人に八つ当たりなんて……こんな時に、正気の沙汰じゃない)

 素子は猛省の渦の中で自らを萎縮させた。

 しかし、マリイは気にしない様子で言ってくる。もはや、素子の恐縮ぶりを全く考慮に入れていないようだった、

 『そういうところが、あなたのいいところなのよ。素子ちゃん……』

 「え?」

 『聞こえなかった? あなたは、すぐに自分を客観視できるってこと。それはもう、一つの才能だわ』

 この状況で褒められても、素子は素直に喜べなかった。今はただ、自分の幼稚さが身に染みている。

 「それは……ありがとうございます」

 ただ答を返す必要に迫られて、素子は礼を述べた。

 『いいのよ、今はそれでも』

 いつか聞いたようなことを――。

 今度は小さく笑い声を乗せて、マリイは言った。

 『さて、もうそろそろそちらの偵察戦隊が敵影を捉えるころだわ。通信を切るわよ――みんな、死なないでね』

 『当然でございます、マリイさん。私の隊からは、戦死者など一人も出さぬ所存ですゆえに』

 『そうなることを祈っているわ』

 と、見送りの言葉を送ってから、マリイは通信を切った。


 マリイの真意は掴みきれなかった。だが、きっと大規模な作戦に赴く素子たちの精神状態を、良いものに保とうと必死なのだと見当をつける。

 (私は、迷惑を掛け過ぎている……)

 言うことは励ましだったものの、マリイの言葉には一抹の憂いが含まれている。素子は、それを聞き逃さなかった。それだけに、自分の感情をコントロールできない自分が、とんでもない愚か者のように思えた。

 腫れ物をそっとしておくかのようなマリイの態度が、正しいとは分かっていても、自分の身勝手とは分かっていても――悲しかった。


 『素子……色々と気持ちの整理がついていないようですわね』

 神名が、普段とは違う柔らかな調子で語りかけた。

 気を遣わせてしまっていることに引け目を感じつつ、素子は返事をする。それだけでも、胸が締め付けられる思いだった。

 「すみません、こんな時に雰囲気を悪くするようなことを言って。私のことは……私のことは構わないでください。今回の作戦を成功させることのほうが重要です。そちらに意識を集中しないと」

 気持ちの整理がついていないといえば、確かに素子はそういう状態だった。

 考えるべきことが多すぎて、パンク状態になっているのかもしれない。

 (自分で取り乱すだけならいい。隊の皆に迷惑を掛けてはいけない。それは、絶対に駄目)

 『謝罪を容れましょう。しかし、今はあなたの言う通り――作戦遂行に全力を挙げるのがあらゆる点からして正しいものと、私は信じます』

 『しかし、アタクシは必ず素子のメンタル面も考えるつもりですわ。もちろん、生きて帰っていたらの話ですけれど。たっぷり相談に乗って差し上げますから、せいぜい覚悟しておくんですわよ、素子?』

 神名がいたずらっぽく言う。

 「神名……」

 素子は、彼女の気遣いに感激の念を覚える。そして礼を述べようとした、その時だった。突如として、別の無線連絡が飛び込んできた。どうやら複数の戦隊に向けて一度に送られる拡張戦隊通信らしい。

 『第四統合偵察戦隊より、第六分隊全機へ! 本機のレーダーが敵影を察知しました。現在、詳細を解析中』

 早期警戒管制機を要する偵察戦隊からの情報だった。

 八峠谷基地の大規模レーダーは、射程が広いものの正確さに欠ける点がある。それに対して、レーダーによる敵探索を専門とする航空機のそれは、かなり確実な情報をもたらすことが多い。

 素早い状況判断が可能になることは、とてもありがたかった。

 が、別の思いも、素子に生じてくる。

 『詳細が判明! 我々の対すべきは、突撃型三百、重突撃型ニ百、爆撃型五十――』

 兵士の報告が重ねられるに連れて。

 異物を次々に体内に埋め込まれていくような、気味の悪い感覚が内臓に広がっていった。凶器を筋肉の隙間にねじ込まれるような。

 『――更に、空母型を確認! その数……六。六機です!』

 報告する声音は、空気を引き裂くような悲痛なものへ変じていった。

 無理もなかった。

 にわかには信じがたい規模の大部隊である。数戦隊の連合程度で迎撃しきれるか、疑問を持たないではいられない。

 素子は密かに歯噛みした。

 『たいそう熱烈な歓迎ではありすが……存分にお礼を差し上げることができますね、素子?』

 「……当然」

 正代の茶化したような声を聞くことも、もうしばらくはないのだろう。

 未来予知を行ったわけではなく、ただ直感で、素子はそう悟った。


 硝煙と油の臭いだけが、空間の支配者となっていた。霧の立ち込める空中舞台に、君臨するのはそれしかない。

 念波のもたらす未来の姿と、自身の戦闘機の巧みな機動が、素子の生命を数分先まで永らえさせる担保となっている。それはいつ崩れるともしれないものだった。

 わずかな命の綱を、ただ楽天的に受け止める他ない。

 「念子誘導レーザー、撃つ!」

 獣の本能そのままに、素子は咆哮した。

 双子の命が、すべり出るかのように。二対の紅の光が生みだされる。素子の明確な意思を代行し、光はある地点に殺到した。

 ちょうどよいことに、複数の重突撃型が密集するタイミングを発見している。その時点、その地点へと、明確な意思を秘めた光が薄明かりを突貫してゆく。

 侵略者の塊に、集約された光が衝突する。

 爆鳴が、水風船のように炸裂した。

 空気の波が拡散し、そして素子の揚刃に衝突する様がありありと知覚される。戦闘機だけでなく、空気中のあらゆる粒子もまた揺さぶられていた。戦闘機械の発する断末魔の叫びは、けっきょく非常に大規模なものなのだ。

 それは、知覚を邪魔するだけだった。敵の数を減らした感動を、味わう余裕がない。

 素子は戦い続けた。機械のごとく無感動であろうと努めながら、またそうなれるよう祈りをも込める。

 と、視角を介さない空間情報が、素子の意識に飛び込んできた。

 あまりに新鮮な、吟味するのに一苦労を覚えるほどの細密な情報群である。

 経験したことのない砲撃の雨が、台風のもたらすそれのように広範囲を擦過している。素子機に当たる恐れのない弾丸は意識から除外する。分析するに足る脅威だけを、素子は熱心に分析した。

 幾百もの光弾の未来が、戦闘機の外から帰ってきた念波により導き出された。その軌跡が、全て揚刃の横を通り過ぎ去ってゆく――そのビジョンを実現するため、とるべき最適な軌道を見出さねばならない。その作業は、今度は量子電脳がほとんど行ってくれる。

 (大丈夫……避けきれる。いえ、絶対に避けきる!)

 イメージの中にあるアクセルを、素子は望みを秘めて踏み込んだ。

 クイックターボエンジンが、わずかな蠢動を匂わせる。とした瞬間、機体は即座に加速した。思い定めたものと、寸分たがわぬ方角。

 蟷螂のごとく繊細に狙いを定めつつ、揚刃は同時に弾丸の雨の洗礼を受けた。

 『十六、十七、十八射撃戦隊、一斉に放てッ』

 戦隊指揮を執る、第十六統合射撃戦隊長の声が耳殻に木霊した。

 無線通信、ではない。

 距離さえ近ければ、念波をPCF間でやりとりすることが可能だ。それにより、ナギナタ同士はほとんどテレパシーに近い形で意思を伝え合うことができる。

 その利点を存分に生かしているということだろう。一斉射撃命令が下った。その砲火を受けるに値する目標に向けて。

 無数の小型侵略者が、目障りに飛び交う――そのヴェールの最奥に、目標はあった。

 巨大な質量を誇る兵器が、不気味に鎮座している。

 玉乗りの玉が五つ、環状に連なった形をした、見るも奇怪な存在。全長百メートルは下らない、尋常ならざる大きさ。

 空母型"DOLDRUMS"である。

 「撃つ!」

 宣する。

 素子機も含めて、合計十二機が空母型に接近していく。距離が一定に達したところで、その全機がレーザーを浴びせかけた。

 いくつかの光線は、雑魚に阻まれた。だが、大半は当初の予定どおり空母型に突進する。

 命中した。

 空母型を構成する複数の球に、爆風と衝撃が襲い掛かる。真っ黒い煙が、空母型の表面を舐め始めた。それと共に、異様な凶声が響き渡る。

 まるで苦悶にのたうつ生き物のような、悲痛な叫びである。空母型が発している、音らしい。悲鳴かどうかはともかく、侵略者が傷を受けると、特徴的な音を放つことがある。

 (この音も、その類かしら……だったら、効果があったってこと……!)

 自分の乗り込む戦闘機よりも、何十倍も大きい敵――それに打撃を与えたことに、素子は興奮を覚えた。生き残り、敵に損害を生じせしめる。 それに勝る存在理由は、ナギナタにはない。

 『いいぞっ。よし、第八、九、十突撃戦隊、突撃だ! ヤツを一思いに爆散させろっ』

 『了解っ』

 途端に、三隊の戦隊が空母型に猛突進した。射撃戦隊は、突撃戦隊にまとわりつく敵を撃ち落し、援護に徹する。

 もう、いったい累計で何機撃墜したのか分からなくなっていた。

 一機、また一機と、侵略者を屠りながら、素子は微かな高揚を覚えた。

 (戦う……戦える。これなら、充分……!)

 素子は、言いつけに従わない子供のように、恐る恐る息巻いた。調子に乗るのことが、まだ恐ろしくもあった。

 しかし、実際に調子に乗る暇は与えられなかった。

 『いや……待て。突撃隊、待て! 空母型が攻撃態勢に移る兆候がある。すぐにヤツから離れるんだ!』 

 指揮官が素っ頓狂な声を上げた。水を差された不満と、気合を入れなおせた喜びと。そして現在の状況とを、素子は意識に上らせる。

 (攻撃態勢ですって……)

 一瞬で興奮状態から覚醒する。軽くナイフを突き立てられたような、恐ろしい寒気が背中に走る。それは腕と足の指先にまで伝わった。

 血が流出しているかのように、素子は体中を震わせた。

 そのことについて、訓練中の座学でも聞いたことがある。だがなにより、その状態は分かり易い情報の肉付けを得て、未来にあるはずの景色を素子にさらしていた。

 空母型が猛烈に回転し、まるでドーナツのように見えている。しかし、内実はそんなに心楽しませるものでもない。

 外郭から無数の光弾を放出し、ある一つの平面をほとんど隙間なしに埋め尽くしている。 

 そういった光景が、ほんの十秒もしないうちに訪れるようだった。

  『まずい……指揮を各戦隊に戻す! 避けることに集中しろッ』

 それを最後に、戦隊長の声が途切れる。代わりに、戦隊長の正代が念波を飛ばしてきた。

 『皆様、あれに巻き込まれたらひとたまりもございません。大きく回避いたします』

 ごくわずか雲間にのぞく太陽のほうへ、正代機が急激に旋回した。素子、神名、千里もそれに続く。

 各戦隊は、ばらばらの方向へ回避行動を行い、敵の狙いを混乱させようとしている。蜘蛛の子を散らしたような逃げ方ではあったが、しかしそうでもしなければ安全を確保できないのだ。

 進路を邪魔していた迎撃型数機に、素子は機銃を浴びせかけた。穴だらけになった侵略者は、瞬く間に爆発する。そうしてこじ開けた通り道を、素子は必死に通り過ぎた。正代機の移動速度が速い。うかうかしていると置いていかれそうなほどだった。今にも暴発しそうな恐怖に抗いつつ、素子はひたすらに無心でいるよう努める。が、巨大な空母型の動きは、それを許さなかった。

 (なんて……数なの!)

 独楽のように回転し始めた空母型は、無数の光弾をばら撒き始めた。ある平面上が、完全に弾丸に覆い尽くされている。ししかも回転軸は時々刻々と変化していき、弾の軌跡も複雑になびいた。まともに突っ込んでは、いくらナギナタでも避けようがない。

 全戦隊が、追いすがる弾丸の壁からただ真っ直ぐに逃走していく。

 (私たちが、まるで虫みたいじゃない。規模が大きすぎるわ)

 素子は、胸中で吐き捨てた。

 たしかに、細波に揺られる虫や木の葉のように、ナギナタ達は翻弄されている。死と隣り合わせの状況から逃れる術もなく、まして攻撃に転じる隙も見当たらない。

 発狂しそうなほどに――脳髄が怪しげな振動数で胎動し始めた。それに対抗するため、素子は強く自分を戒める。堤防の決壊を食い止めるというのは、まさに今の素子を形容するにふさわしい言葉だった。

 『素子、落ち着いて。冷静にならなければ、犬死するだけですわよ!』

 どうやら、素子はいつの間にか感情剥き出しの念波を放ってしまったようだった。その念波を察知し、心配したのだろう。神名の忠告はありがたかった。とはいえ、神名の念波にも、やはり幾分かの負の感情が混じっている。

 こんな状況で、眉一つ動かさない人間などいない。ほのかな共感に慰めを、素子は見出した。

 「はい。分かりました。大丈夫です……何とか、大丈夫ですっ」

 正気を保つ。

 進路を安定させ、正代戦隊長の後ろに随伴する。均整と協力がふんだんにとれた魚の群れのように、戦隊全員が――。

 「――全員?」

 素子は、抱きたくない疑問を胸に生じさせてしまう。

 正代に続いている戦闘機が、三機しかない。残り一機、すなわち千里機がいないのである。

 素子は、自分の顔面が瞬く間に蒼白に変じていくのを察知した。直ちに、戦隊長に向けて念波を放つ。無論、異常を知らせるためである。

 「正代隊長! 千里が……千里が隊列から抜けています! 一体どこに居るのか、分かりませんっ」

 『まことですかっ? 千里、応答を願います。今すぐ、応答をっ!』

 常に落ち着いた口調の正代だったが、今回ばかりは焦りを隠していない。

 戦隊長ですら、まだ千里の不在に気づいていなかった。

 (だったら、まだ千里は近くにいるはず)

 探索のための念波と――そして千里の発した念波が帰ってくるのが、ほぼ同時だった。

 『ああっ……あ……ちさ……と……千里、です……』

 不自然に途切れ途切れな声。

 それはほとんど、怯える子供の発するそれと同一だった。

 異常はそれだけではない。

 千里機が、隊列に大きく遅れている。戦闘機の速度が、微妙に低下しているようだった。旋回方向もわずかにずれていて、どんどん戦隊から離れているのだ。

 『落ち着きなさいませ、千里。一体どうなされました!』

  正代の問いは、無言の言葉で答えられた。千里は何も言わなかったが、彼女の精神状態が念波に乗って伝わってくる。

 「うッ!」

 あまりに酷い感情の乱れに、素子は思わず苦悶の声を上げた。

 千里の心は、千々に乱れている。日常生活では陥りようのない、恐怖に由来したパニック状態と見受けられた。人間の凄惨な死体を眺めたかのように、素子は眼を覆いたくなった。しかし、念波は五感に関係なく、無情にも脳に直接入り込んでくる。

 とんでもない、手の付けようのなさそうな負の感情に、千里は見舞われているのだ。どう対処すればいいのかわからない。素子は頭が真っ白になりそうだった。

 正代も千里の異常に気がついたらしい。彼女は甲高く指令を出した。いつもの典雅で艶っぽい響きが、その声色から失われている。

 『とにかく、冷静におなりなさいな! あなたの揚刃を、もう五度上昇させて……私の後ろについて、隊列を元に戻すのですっ!』

 『ふぁ……あ……う、』

 赤ん坊のように、いやむしろもっと悲痛で、原始的で、意味を成さない呟きのようなものを、千里は口から吐き出してゆっく。

 そして――。

 『い……いや……いやアアッ……こないで……こないでええええええええええええッッ!』

 半身がはまりかけていたが、とうとう全身をどっぷりと混乱に漬からせてしまったようだった。千里は完全に狂乱状態となり、何かに対して恐怖の叫びを上げていた。

 (死の……恐怖!)

 素子は確信した。

 自分自身、その陥穽に抗い続けてきたのである。まして、今までの数分のうちに、戦況が刻々と激変していた。千里はそれに耐えられなくなったのだと、推測はつく。

 しかし、のんびりと考察を加えている余裕はなかった。千里機は、既に回避能力を失いつつある。いつ敵弾に砕かれ撃沈するとも知れない。神名も、正代も同じことを考えているらしかった。

 『千里、お願いだから……お願いだから落ち着くんですのよ!』

 神名がむなしく吼える。が、それはもはや千里には届いていないようだった。なおも千里は、体の一部が千切れ飛んだかのような悲惨な叫びを上げている。

 『し、し……死にたくない……死にたくないよおっ……いや……イやああああああああアアアアアアアッッ!』

 それを耳にして、素子はもう我慢ならなくなった。念波を介して、千里に思いっきり大声で命令する。

 「千里、しっかりしてっ! もっと速く揚刃を動かすのよっ。あなたは――」

 ――死にたいの?

 と、言いかけて。

 素子は、それ以上口に出せなくなった。

 どれだけ他人が語りかけても、もう千里の耳には入っていかない。それがはっきりしたのである。自分の経験から、素子ははっきりそれと分かった。

 狂気に近付いた人間に、言葉では伝えられない。少なくとも、短期で相手を元に戻すなど不可能だ。

 案の定、素子の中途半端な警句にも、千里は反応を見せる様子がない。千里機は相変わらず、むしろ今までより酷く機体の安定を損なっていた。

 常態に復帰する様子がない。

 (千里は……千里が、殺されてしまう……!)

 戦友の死を――覚悟できずに、素子は拳をきつく握り締めた。手の甲を突き抜けようかという握力を、指先に込める。それでも、何の解決にもなりはしない。

 無力を厭うように、素子は背骨を捩じらせ、前のめりになった。念子コードが、束縛する蜘蛛の糸のように頭部に絡みつく。

 「千里を助ける手は、何かないんですかっ」

 尾翼の右から数センチところに砲弾を通しながら、素子は問いを発した。

 『だけど、あの様子じゃ……』

 神名が、絶望したようにつぶやく。

 "だけど"という、否定を導く言葉が憎らしくなる。反論するかのように、素子が口を開くが。その前に、無線通信が鳴り響いた。

 念波による意思伝達ではない。ということは、戦隊以外の人間による通信だということである。

 ガガガガ、というノイズ音。

 その後に、憂いと快さのこもった声がレシーバーから流れ出た。

 『打つ手ならあるわ、神名さん』

 素子は、驚愕に肩を震わせる。

 『諦めるのは早いわよ』

 「マリイさん!」

 『打つ手って……一体何をどうするって言うんですの?』

 期待半分、疑い半分といった調子で、神名がたずねる。素子も、疑いがないわけではなかった。どんな言葉をかけても、 もう千里には届かないというのに、これ以上何ができるというのか。できることがあるとしても、素子には想像もつかない。

 『まさか……あの手を使えと?』

 正代が慄きを隠しきれずに、声を震わせる。

 マリイはにっこりと――微笑んだかどうかは分からなかったが、その言葉であらゆる疑いを払い落とした。

 『考えていることは同じよね、戦隊長さん? この局面では、脱落しかけた味方の機に対して、サテライト機能を使用する。というのがナギナタの軍則よ。あなたたちの誰かに、千里ちゃんの揚刃を遠隔操作してもらうことになるわ』

 思いもよらぬ解決策である。

 涼しい言い様をするマリイだったが、だからといって素子はそれに感化されることもできない。念波によって瞬時に意思伝達することになれていたので、そうできないもどかしさも加わり――素子は、兜の裏面についているレシーバーを耳に思い切り押し付ける。

 数方向から包囲しようと侵略者が散開を始める前に機銃を叩き込み、コンピュータの照準管制機能にほとんど負担を掛けることなく破壊する。その間にも、滝のような砲弾を回避し続けた。

 頭頂を地球の中心に向けながら、素子は尋ねる。

 「機外からの念波は、受け付けないはずでは?」

 PCFの操縦は、能力者の脳から直接念子を流して行うのが最善である。

 しかし、念子は念波よりも、ましてや電波よりも遥かに伝導性が低い。そうでなければ、わざわざ頭蓋骨に穴を開け脳と機械を有線接続する必要などない。

 サテライト機能を使い、他の戦闘機を遠隔操作する場合は、念波を使わざるをえない。その操作性は、念子によるものより遥かに劣る。それでも、ノーマルな空士の操縦には遥かに勝る。

 その念波が通じない可能性を、素子は示唆した。が、マリイはあっさりその難題を切り抜ける。

 『オペレータ権限で、誤作動防止用の念波遮断装置はカットできる。そのことを言っているんなら、ね。でも、千里ちゃんの方は、ちょっと話が別』

 マリイが話す間にも、千里機の挙動が不安定になっていくのが分かる。進路がそれるだけでなく、機体そのものも小刻みに揺れている。どうやら弾丸を回避することはまだできているようだったが、いつそれができなくなってもおかしくない。

 (早くしないと、千里が限界だわ)

 『……千里ちゃんが、自分の念子管制を解くことも出来ない状態ならば、彼女の意志力を上回る意志力を念波に込めないといけない。でないと、外部からの念波はやはり通用しないの。著しく精神を消耗することになってしまうけど。上手くいったら、味方の空母に収容してもらえばいいわ。こちらからすぐに要請をしておくから、また連絡をするわね。千里ちゃんも……あなたたちも、生きて帰ってこれるよう祈っているわ』

 マリイは、辛そうに告白する。ただでさえ過酷な戦場に居るというのに、これ以上の負担を兵士に強いることを躊躇しているらしい。

 『それでも、他に仕方がございませんね。ナギナタは、所属する一人一人が大変重要な戦略的価値を持っている。精神を疾患したくらいで、貴重な人員を黄泉に持っていかれるわけにはゆきません』

 深い疲労を漂わせて、正代は言った。

 さらに続けるには、正代といえど心の準備が要ったらしい――しばしの沈黙の後、たいそう真に迫った調子で命令を発する。

 『来須上等兵、貴官に仁尾上等兵の救出を命ずる。直ちに隊列を離れ、目標地点に迎え!』

 その言葉を待っていた素子は、

 「了解しましたっ」

 喉の奥から、渾身の叫びを放つ。

 (千里を助けるのよ。気合を入れないと、来須素子)

 自分も、千里と同じようになっていた可能性が充分にある。それを思っては、素子は千里の状態を人事とは思えなかった。戦おうという気持ちも恐怖の前に無力と変ずる人間の弱さを、責めることはできない。

 ならば、フォローするのみだ。

 自分がパニックになったかもしれないという、ありえた道筋。それへの贖罪の意味をもある。

 念ずる力に、揚刃は答えた。

 急激に、機体の向きが変わる。座席も激しく揺れ、素子は九十度回転した。目線を天空に向ける。重力の向きが変わったため、血の流れに普段とは異なる加速と減速がかかり、眼の奥が血潮の塊に満たされた。

 『本来なら私が赴きたくはありますが……隊長の身ゆえ、持ち場を離れるわけにもゆきません』

 正代の念波が、残り香のようにつかみ所なく伝播される。

 『素子、どうかご理解を。そして、必ず千里を救って下さい……一人の人間としても、切にお願い申し上げます』

 それだけを願って、念波は消え失せた。互いに、自身の仕事に集中しようという意味だろう。素子は、こっくりとうなづいた。

 そして、猛る。

 (欲しいのよ、私は……欲しい。冷静で、柔軟で、何事も恐れない――)

 もはや、それは妄執の域に達していたかもしれない。

 それでも、心の中で言わずにはいられなかった。どうしても手に入れることができないとしても、誓わないよりは誓ったほうがましだった。自分の求めるものを見定め、素子は――こういう時こそ冷静を保ち、独りごちる。

 「――強い心を」

 中途半端な角度に飛行していたせいだろう。ついに、敵から格好の獲物として認知されたようだった。正十二面体の形をした多数の重突撃型""が、千里機のほうへ突進していく。が、千里が蹂躙されるのを眺めるつもりは、素子にはない。

 はやる願いを抑えきれない子供のように、素子はエンジンの出力を完全に解放した。

 

 マリイは、つとオペレーティング(ry ※伏線に使ってください、もっと前にずらしても良い

 

 弾丸の応酬は、ほんの一分にも満たない短時間で終わりを迎えた。

 その戦果は決して悪いものではなかった。にもかかわらず、素子は憎憎しげに舌打ちする。憎悪が狭い機内に満ちた。 

 「私としたことが……」

 尾翼の上部に、わずかな被弾を受けてしまったのである。

 といっても、重突撃型の放つ光弾にまともにぶつかれば、戦死はほとんど免れない。そうではなく、光弾が脇を掠めた時、わずかにかすってしまったのだ。

 損害としてはごく軽微で、飛行できなくなるなどということはない。だが、破壊された部分は滑らかな形状を失っている。そのため、どうしても余計な空気の対流を生じさせてしまうだろう。そうなれば、多少運動性能が落ちるのは必至だった。

 (自分で感じてるより、かなり精神を消耗しているのかもしれない。慎重にならないと)

 心臓の部分に片手を当てて、自分自身を戒める。同時に、素子は深呼吸して気持ちを落ち着けた。

 (よしっ)

 侵略者の残骸を避けつつ、素子機は千里機に接近した。暴走を重ねる彼女の機は、一直線の航路を辿っていたとはいうもののかなりのスピードを出している。念波を効率よく伝えるには、なるたけ距離を詰めることが望ましい。

 (手間取らせないでちょうだいよ、千里)

 祈るような気持ちで、素子は念波による通信を行う。

 「聞こえる、千里!? 悪いけど、今からあなたの機を操らせてもらわないといけな――」

 とまで言ったところで、素子は言葉を絶った。代わりに、絶望しかけの声が絞り出される。

 「酷い……」

 千里に近付いたことで、彼女の精神状態がより鮮明に伝わってくる。

 実際に命を賭している今だからこそ、千里の状態を素子は理解することができた。昔の素子ならば、この気持ちは理解できなかったろう。

 命というのは、人にとって何にもまして尊いものだ。それを奪われそうになった時の反応というのは、恐ろしいほど一途で、必死で、痛々しくて、しつこくて、妥協がない。

 命への執着にとらわれた彼女は、もはや完全に精神力を使い果たしているようだった。

 直線距離にして、数十メートル程度しか離れていないところに、千里は居る。念波を放って、素子はそこにいるはずの彼女を覗き見た。

 ぐったりと、力なく、千里は座席の背もたれに寄りかかっていた。背中にほとんど力が入っていないようで、体全体が重力にしたがってずり下がっている。彼女の小ぶりな肩は背もたれの半ばほどまで落ち、尻はいまにも座席そのものから脱落しそうだった。口は開け放しになり、涙や涎が垂れ流しになり、何の心配事もなさそうだった明朗な一少女の顔はどこかへ消え去っている。それは、精神的に荒廃した人間の顔にすぎなかった。

 素子は、さらに念波を放っては情報を受けとる。

 座席の下、床の表面に液体が撒かれていた。はっきりとは分からないが、薄く色の着いた液体が――。

 (千里……)

 呼びかけが、心の中ですら止まる。素子は、それが何なのかを悟ってしまった。

 床を浸している液体は、千里の尿だった。恐怖のあまり、その部分の筋肉が弛緩したということらしい。戦闘機搭乗服の、下半身の部分が液体に浸されている。地の白色に、不自然な黒さが加わっていた。

 「お願い、千里……聞こえているなら、念子管制を解除して。そうでないと、あなたを傷つけないといけなくなる」

 恐怖のあまり失禁することは、ありえないわけではない。だが、それ以上千里の姿を見ることもできなくなった。素子は念波を断ち、観察を止める。言葉だけを送って、彼女の返答を待つ。

 「千里……私は、あなたと揚刃の繋がりを無理やり絶たないといけない。でも、そんなことしたらあなたの念子が行き場を失う」

 精一杯、千里に語りかける。だが返事はない。

 「そしたら、あなたを気絶させてしまうの。だから返事をして。お願い」

 言い終わっても、やはり千里はしゃべらなかった。不気味な沈黙が続く。時間の余裕はないというのに。今、侵略者から不意打ちされれば、まずいことになる。

 たっぷり十秒は待った後、素子は諦めた。千里は完全に放心状態になっているようだ。答えることもできないくらいに。

 千里機の管制を奪うため、念波で向こうの機械に干渉しなければいけない。

 「千里、まだあなたは戦えるから。生きていかないといけない。こんなことしなきゃいけないのは、そのせいなの」

 うつむいて、素子は謝る。

 「ごめん、なさい……」

 戦友の傷ついた姿に、そして自分のしなければならないことに、素子は深く罪を感じた。電子兜の裏側に、手を差し入れる。眼を手の甲で拭って、微かな涙を飛ばす。

 精神を集中し、ただでさえ消耗した意思を振り絞る。

 特大の念波を、素子は放った。

 千里機に接近したそれは、念子管制機構の中枢に進入する。千里と揚刃の間にある、電子と念子の流れに干渉し、それに衝撃を加えた。

 千里の戦闘機とのつながりが深いほど、それを破壊するのは難しくなる。抵抗も当然大きい。坂道を登る自転車のペダルのように、念波を送り込むことそのものが多大なエネルギーを要する。

 先に根を上げたのは、千里のほうだった。

 向こうの機械の情報処理系に多大な負荷を与え、パンクさせた。機械が破壊されたことで、千里の頭から伸びる念子コードは何も輸送しなくなる。コンピュータとの接続が突然絶たれることになった。それにより、千里の脳内の環境が激変する。 

 念子によって広範囲の空間を捉えていたのに、それが突如失われる。代わりに、五感が千里の周辺のわずかな領域だけを感知した。準備体操なしに運動を始めたようなものである。千里の脳の視角野、聴覚野、運動野、体性感覚野が強いショック状態となった。あらゆる感覚を一時的に喪失させてしまう。

 千里の体は完全にマネキンと化した。一層力を失って、砲撃を喰らったコンクリート塀のようにくず折れる。

 それでも、失われたのは感覚だけだった。千里の意識そのものは、まだ残存しているはずだった。極めて残酷なことではある。意識はあるのに、何も感じ取れないというのは。

 (これが決まりだから、躊躇してはいけなかったの。悪く思わないで、千里……)

 何度も何度も、素子は胸中で謝罪した。伝わりはしないのに――自己満足と、素子は知っている。それでも、自分がこうなっていたかもしれないと思うと、素子は止めることはできなかった。


 空母型は、およそ一千秒周期で発狂攻撃を停止する性質がある。

 そのタイムラインまでを生き延びたナギナタたちは、離散状態から再び集合状態へと移った。

 二人の欠員を抱えた第十七統合射撃戦隊――すなわち、正代機と神名機もまた健在であった。半減した戦力を補うように、二機は目標の近くへと馳せる。

 「なかなか、しぶとかったですが――」

 戦隊長として、指揮下に入った隊員一人に指示を出す。が、改まった正代の言葉は、その神名によって遮られた。

 『あら。アタクシのことを言ってるんじゃありませんこと?』

 いかにも、余裕綽々といった態である。

 それはたのもしくもあった。だが、無駄口を叩く規律の乱れを厭って、正代は怒った振りをする。

 「私語を慎みなさい、香坂上等兵――油断なさっていると、足元をすくわれますよ」

 『あらあら。一体、どこの誰が油断したって言うんですの。アタクシはいつだって真剣ですわ、隊長殿』

 言葉遊びを誤魔化すように、神名が言った。同時に、彼女の乗る揚刃が速度を上げる。真剣さとやらを、これみよがしに見せ付けているようだった。やがて神名機が、正代機にほとんど並ぶ。

 『二人抜けた分、アタクシたちの腕前でカバーするんですわ。正代。そちらこそ用意はできて?』

 神名の言いように、正代は苦笑した。彼女がそれほど平静であるというのは、正代には驚きだった。

 自分の表情を自在に操ることに、正代は長けている。それでも、不安に揺り動く心の細波には、対処のしようもない。部下が二人も戦線を離脱するという、初めての不足の事態を経験中なのである。確かに、健全な心の反応だった。しかし兵士たるもの、弱気を見せてはならない。戦隊長という地位であれば、特にそうだった。

 「……私も、まだまだということでございましょうか」

 『え?』

 正代はかぶりを振った。

 「いいえ、なんでもございません」

 否定し、正代は前を見据える。一応、まだ誰かが戦死してしまったわけではない。戦死者を決して出さない――閲兵式でああも大言壮語した以上、部下が死に近付く状況を、正代は可能な限り避けたかった。

 が、今回のことは仕方がなかった。パニック状態になった千里を放置しておくほうが、よほど危険である。それでも、素子独りに護衛を頼んだのは、やや心残りだった。

 「目の前の敵に、全精力をかけなければなりません……」

 独りごちてから、正代は視線を転じた。

 視線とはいっても、兜に覆われ隠された瞳には、何も映ることはない。念波だけを頼りにして、正代は目標物にフォーカスを合わせる。

 一時的に回転を止めた空母型"DOLDRUMS"は、ただじっとしているわけではなかった。

 五つの球体に、それぞれ亀裂が入っている。あっという間に、その亀裂が拡大していた。

 『あそこから、敵が出現してくるわけですわね……せっかく大量に潰したっていうのに、また補充されてしまいますわ』

 神名がわずらわしげににつぶやく。

 彼女の言葉どおり、その亀裂は敵の発進口となっていた。空母型の内部に収納されていると思われる、小型の侵略者の出入り口になっているのである。

 ばこん、という音が聞こえてきそうだった。

 発進口が完全に開放される。するとたちまち、大量の黒い影が発進口から吹き出してきた。突撃型、重突撃型、迎撃型などの侵略者である。それら大軍が出現する様は、まるで悪魔の群れが地中から湧き出すのにも似ていた。

 「さて、そろそろでしょうか。三下共が拡散する前に叩かねばなりませんゆえ……」

 巨大な空母型と、その周囲を羽虫のように回転するナギナタ達を、正代が注視した。

 ちょうどその瞬間――第六分隊長の指令が伝わってきた。彼もちょうど、正代と同じことを考えていたらしい。

 『今がチャンスだ! 全突撃戦隊、突撃しろ。とつげきぃッ!』

 『うおおおオオォォォォッッ!』

 指令というよりは、単なる掛け声に近い。 

 その掛け声と共に、いくつかの突撃戦隊が再び強襲を仕掛ける。揚刃の出せるほとんど最高と思われる速度で、ナギナタ達が空母型に迫った。機の先端部から機銃が乱射され、進路を邪魔する侵略者が次々と爆散している。

 空母型の発進口が開くというのは、小型の敵が一気に増えてしまう危機的な状況でもある。しかし、逆に唯一の好機でもあった。

 そのタイミングを充分に掴んだ突撃命令である。正代は、ようやくあの邪魔な空母型を破壊できそうであることに満足した。

 「行きますよ、神名!」

 『了解ですわ』

 二機は、一挙に加速した。突撃戦隊を追うようにして、空母型に接近する。

 正代は、小型の侵略者たちに照準を向けた。

 「我らの平和を奪った悪魔共! 抜け抜けとこの地球を訪れたこと、後悔させて差し上げますっ」

 機外に備えられた二門の銃身が、厳しい反動により振動する。無数の銃弾が、侵略者の装甲を貫く。衝撃に耐えられなくなった敵が数体、たちまち爆発した。

 二人が、さらなる戦いの演舞に突入しようとした――が、それは思わぬ邪魔によって中断される。

 思わず肩を飛び上がらせるほどの、爆音。あまりに激しい騒音のせいで、エンジン音、銃弾の飛翔する音、自分の息遣いや心臓の鼓動までもが、一時的に掻き消される。

 地の果てまでも響くような大爆発である。

 正代は、空母型に意識を集中させた。それは、空母型が起こしたものだった。複数の球体が完全に破裂している。爆炎が広がって、生き残った球体も間もなく連鎖爆発を起こした。巨大な空母型が、ついに最期を迎えたのである。

 発進口の内部は、空母型の装甲が薄くなっている唯一の場所だった。そこにミサイルを放つことによって、空母型に甚大な被害を与えることができるのである。

 『オーーーーーホッホッホッホ! 突撃戦隊の皆さん、上手くやったようですわねぇ。これでようやく、目障りな粗大ゴミが一つ消えましたわ。あぁ、愉快愉快!』

 どぎつい哄笑を、神名が放った。

 それをたしなめることもせず――むしろ、正代もまた顔をほころばせた。今回ばかりは、嬉しさを押さえることはできない。これほど大規模な会戦で戦果を収める機会は、流石に頻繁にあるとはいえないからである。

 「やった……あの巨大な敵を、我々がやったのですね」

 正代は、思わず軽いガッツポーズをかます。人体大の破片と化して、周囲を舞っていく空母型の成れの果て。その中で、ナギナタ達はしばし勝利の達成感に包まれた。

 そして――その雰囲気は一瞬にして打ち砕かれる。

 無情な無線連絡により、再び気合を入れなおす機会が訪れたのだった。早期警戒管制機からの通信である。

 『こちら、第四統合偵察戦隊! 残敵が続いて進撃してきますっ……方角は東北東――』

 兵士の声に、怯えが半ば見え隠れしている。こっちにまでパニックが伝染してきそうで、正代は思わず耳を塞ぎたいという衝動に駆られる。が、その欲望を押さえつけた。情報自体はありがたいので、何とか謹聴する姿勢をとる。

 『空母型が、合計五機! 小型の数は――ちくしょうっ、数え切れないじゃないか! おい、さっさと計算を済ませろ!』

 兵士が怒鳴り散らす。その兵士が再び報告に移る前に、今度は第六分隊長が横槍を入れた。

 『総員、通常レーダーを併用しろ。まだ念波では捉えきれない距離にいるようだ』

 正代は、片手を電子兜に伸ばした。戦隊長の言葉に従い、電子レーダー機動釦を倒す。たちまち、機体から電波が発生した。電波は光の速度で四方八方へと突進していき、念波の射程範囲外へ消える。それと同時に、物体に衝突した電波が一瞬で帰還してきた。それらの電波が機体に吸い込まれる。

 脳内映像の焦点が徐々に収斂され――やがて完全にピントが合う。

 「これは……!」

 正代は愕然とした。どこからともなく物質的な圧力を感じて――そんなものはあるはずないのに――歯の根が震え、顎が音を発する。

 敵を示す赤点が、レーダーの外縁部に点滅していた。びっしりと赤い輝きが集中し、帯状の赤い壁になっている。

 正代すら経験したことのない、現実離れした規模の敵軍であった。それを前にして、対するほとんど全てのナギナタ達は激戦の到来を確信した。

 

  二機の揚刃を一度に操ることで、素子はさらに能力を酷使せざるを得なかった。

 人間の脳はコンピュータと異なり、二つの作業を同時に行うようにはできていない。よって、衛星機が増えるたび操縦に掛けられる一機当たりの時間は少なくなる。

 その状態は、想像以上の困難を生じさせた。

 (このままじゃ、持たないわ)

 発狂攻撃を開始した空母型からは大分離れたものの、小型の侵略者はまだ無数に空中を飛び交っている。何回目になるか不明瞭だったが、素子は追っ手を相手にしていた。

 複数の迎撃型""が発する弾丸を、素子は避ける。

 大型の粒子弾の数が、尋常ではない。火砕流のような勢いで無数の弾丸が次々と素子機と千里機の隣を通り過ぎていく。しかし、それらはほとんど狙いをつけずにばら撒いている弾丸に過ぎなかった。

 数秒おきに、こちらを直接狙う弾丸を吐き出してくる。不規則に発射されるそれを避けようとして、規則的に発射されたバラマキ弾に撃ち落される――それは、ありえなくはないシナリオだった。

 散弾銃のように迫る狙撃弾を 回転で回避し、素子は迎撃型の下部に回りこんだ。千里機も、同時に迎撃型の上方に旋回させる。迎撃型の、突起一つないつるりとした表面装甲が視界に入る。粒子弾のシャワーが即刻射撃方向を変えてゆくが、それに追いつかれることはない。

 二方向から、同時に機銃を放つ。

 装甲を貫かれた迎撃型は、一秒ごとに増していく衝撃に振動した。瞬きする間もなく、揚刃より二周りは大きい機械が猛烈な熱風を伴って四散する。

 多少ほっとする素子だったが――。

 (く、うぅっ、頭が……い、痛い……)

 声は出ず、苦痛だけが突如発露する。

 (そろそろ、限界、だっていうの……)

 長時間の戦闘と、千里の念子管制回路への強制干渉。加えて、衛星機の操作。それらのせいで、素子は精神的にも肉体的にも極限状態に近付きつつあった。疲労にせかされ、呼気が荒くなる。素子は犬のように口を大きく開いて、むさぼる様に呼吸する。

 しかし、休んでいる暇はなかった。

 (ゆっくりしていて……撃墜されたら、元も子もない。早く、逃げるべきだわ)

 限界までの距離を引き伸ばすように、素子は心を奮い立たせる。絶対に、こんなところで力尽きるのはごめんだった。

 (大丈夫……お父様は、きっとどこかで見てくれている。私のことを……)

 本当は、声に出して言い聞かせたかったのだが。呼吸が続かず、発生に余計な空気を割いている余裕がない。唇を動かすだけで、素子は我慢した。

 (戦えと、お父様は言っていた……負けては、いけない……)

 自分を見守る父親の存在。それは虚構なのかもしれない。

 しかし、素子はそれを杖とした。

 焼け爛れたような痛みの繁茂する神経を通して、素子はなおも念子を送り込む。迎撃型の忌まわしい破片を避けるように、可能な限りの速度で離脱した。

 『素子ちゃん、用意ができてるわ! "唐薙"が西南西三十㎞の位置まで接近してる』

 マリイの声は、久方ぶりに快活さを取り戻している。言葉の内容のほうも、どうやら吉報と言ってよいもののようだ。安堵のあまりみぞおちに手のひらを置く仕草が、急く呼吸と脈拍を抑えるそれと一致した。

 「了解……しました」

 『今の進路で、随伴空母に向かえば問題ないわ。敵影も、見た限り疎らみたいだしね。ところで――』

 言いかけたマリイを、素子は遮った。

 「千里は、もう限界のようでした。念子管制を解除する力も残っていなかったみたいで……操舵権を、強制的に奪わざるを得ませんでした。空母に乗ったら、すぐに衛生小隊に診せます」

 『そうだったの……どうか、千里ちゃんを無事で連れてきてあげて。素子ちゃん』

 「はい。空母との接触まではわずかですから、もう大丈夫とは思いますが」

 精神力の疲労が限界に近付いていることは、おくびにも出さない。素子は、マリイに心配を掛けたくなかった。どうせ言った所で、戦場から離脱する時はすぐ来る。空母に接近を要請したこと以外に、マリイに出来ることはないだろう。

 「それでは」

 『ええ。武運を』

 マリイが無線を切った。静寂が、戦闘機の中に訪れる。

 素子の頭が、重心を移動させた。傾き、低く掲げた手のひらに額が収まる。流れ出ていた冷や汗が、手のひらに触れた。視界は開かないまま、眼だけを床に向ける。

 極度の疲労の中、自分の体もまた酸に侵された様に弱っていく。油断していると、そのまま眠りに誘われてしまいそうだった。

 (馬鹿、こんな時に。あと少しなんだから、なんとか――)

 ――頑張りなさい、と。

 自分の尻を叩こうとした時。

 大脳から発される念子の量が、いきなり半減した。炎天下の砂漠から水中に移ったかのように、脳を蝕む痛撃が、いくぶんかでも軽くなる。

 「えっ」

 不思議に思い、素子は声をあげた。何故、いきなり負担が軽くなるのか。周りにすでに敵はなく、敵群の複雑な動きをトレースしていたわけでもない。そのようなきつい仕事を終えて念子の量が少なくなるというのなら、素子にも分かる。が、なんの前触れもなかった。

 (一体、何が?)

 耳の奥の鼓膜が、信じられないほど激甚な衝撃に揺さぶられる。

 「あ……ぐうっ」

 鼓膜に激痛が走った。その大地震のような振動のせいで、鼓膜が完全に破れたらしい。耳に針を差し込まれたような、狂おしい痛みに、素子は両耳をふさぐ。が、手のひらは、電子兜に阻まれむなしく止まった。

 「な、何なの?」

 もはや聴覚が働かない。だが、素子はパニックに陥らなかった。念波を増強し、周囲の状況を察知する。

 空気は、まだ信じられないほど激しく揺れている。その中を、泳いでいくいくつかの物体が見て取れた。ラグビーボールを二つ、横に連ねた形の物体が。

 それは、紛うことなき侵略者だった。

 (偵察型"SNIFFER"、いつのまにこんなところに?)

 ほんの数体しか、偵察型はいなかった。ナギナタ一人が対するには、手軽過ぎる敵の数である。

 しかし。

 まるで凱旋するかのように、大きなカーブを描いて逃げようとする偵察型。それを視たことで――素子の時間は、完全に停止した。

 爆音の震源地。津波のように、揺れる大気。

 (あ……ああ……)

 千里の心痛が、その身に乗り移ったかのように。素子は、声にならない無意味な叫びを発した。天に開いた門を仰ぐ亡者のように、吹き飛ばされた意思の残骸だけで物を言っている。何か、意味を持つことがない。

 夥しい金属の破片が、素子機のちょうど右上の空間に浮いているのだった。

 偵察型侵略者は、通常の電波レーダーに映らない光学迷彩を施している。であるから、察知するには念波を使うほかなかったのだ。素子が気を抜いていたその一瞬、念波へ向けた注意が薄れていたその一瞬に、偵察型は近付いてきたに違いなかった。

 「う、そ……で……しょ」

 無数の金属片が、血飛沫のように素子の視界を満たす。何故、流出する念子と流入する電子の量が減ったのか、ようやく判明した。

 衛星機を操る負担が、なくなったせいだったのだ。今頃になって、知覚だけはしていた念波を、素子は時間差で認識している。偵察型の放った粒子弾が、千里機のコックピット部分に命中し。強化硝子が、炎を放つ暇もなく気化蒸発した。装甲、機関部を構成する金属もまた、次々と昇華していった。

 「い……や……」

 ほとんど横たわっていた千里の体は、皮膚、骨、内臓を次々に曝し、崩壊していく。

 千里の顔は、大きく開いた口の部分が最も脆くなっていた。

 脆くなった部分を境にして、彼女の頭が真っ二つに裂けているのである。

 可憐だった少女の――あの千里の顔を支配しているのは、腰が抜けるほどに恐ろしい苦悶の表情であった。死へと引きずり込まれ、最後に受ける断末魔の苦しみをまさに体現している。

 肌が引き剥がされた。そのところで、気化が一気に加速する。

 ぶにゅッ。

 絶対に聞きたくない音が、その存在の承認を無理やりに素子に迫る。

 腐りきった柘榴の中身のように、千里の顔だったものは変形していく。組織の残された部分が、フィラメント状に連結している。しかし、数秒もその構造を保っていることができない。粘性を持った糸状の肉片は、次々と引きちぎれていった。

 赤黒い体液らしきものが、盛んに吹き出ては蒸発する。

 腐乱死体の表情よりも、事故で頭を持っていかれた者の表情よりも、千里の顔だったものは凄絶な様相へと変じた。

 二隗の肉は、ついに単なる炭素片にまで堕ちた。

 暗黒色の粒子が、視覚で捕らえられなくなるまで細分化される。そして、爆風の中に散乱した。

 癒しようのない、とりかえしのつかない記憶が、いまこの瞬間、素子の脳裏に刻み付けられていた。素子の表の意思に反し、むごたらしい脳内映像は何度も何度も反復された。一瞬のうちに何百回と、それが反復されているのである。死をもたらす可能性、そして死そのものへの恐怖心を植えつけるため、本能の命ずる作為だった。それにより、神経伝達の効率が異様に高まっている。とっくの昔に閾値を突破した刺激の連射は、素子を発狂するほどまでに追い詰めた。

 「いやあああああああアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァッッ!!」

 地の果てから起こり、天まで突き通すような、凄まじい絶叫。

 残酷なことに――。

 失った聴覚でなく、念波だけがその絶叫を彼女自身に伝えていた。  

 

 「敵の数が予想以上だっ! 全イナキ統合戦隊に告ぐ――総員、退却しろ。繰り返す、総員退却だ。このままでは被害が甚大になるぞ、速やかに基地に帰還しろッ」

 槇嶋連隊長が、声高に命令する。それにしたがって、人類側の戦闘機は次々と転進し始めていた。当初、二万と予想された敵固体数は、鰻上りに上昇を続けていた。最終的に、現時点で確認できる敵の総兵力は十万に達している。

 侵略者との戦闘開始以来、一度も知られていなかった桁外れの大軍勢へと膨れ上がっているのだ。その全てが、本国へむけて進路を取っている。その中途に立ちはだかるナギナタ達を、押し返しながら。

 本国の所有する、三百六十機あまりの念子管制戦闘機全てを迎撃に投入したとする。単純計算でも、敵を全滅させるには一機あたり三百近い侵略者を相手にしなければならない。外国に援軍を頼んだとしても、彼我の兵力差を克服するのはほとんど絶望的だった。

 いままでの二十年は、たんなる前哨戦で――連隊長は恐ろしい推測を展開した――今この戦闘から、ようやく本格的な侵攻が始まったのではないか。

 それは、あながち虚偽とも思えない。というのも、敵の数が過去の戦史にはない桁外れのものなのである。

 だとすれば、これはもはや歴史的大事件であった。この戦いが、人類瓦解の第一歩として記録されるのかも知れない。

 麻痺しかけている感覚中枢というのは、無感動だが便利でもある。大敵に立ち向かう痛みに浸り続ければ、誰でもこうなるものだった。槇嶋連隊長は、表情一つ動かさないまま考える。

 彼は、命令を発した。命令を受ける相手は、司令室に居るわけではない。連隊長の、完全な独り言になっている。

 そんなに気の利く力を授かったならば、人の心くらい読み取ってみせろ――理不尽と知りつつも、連隊長は鼻先で笑った。

 「早く眼を覚ますがいい、来須上等兵……そんなに、奴の娘を名乗りたければ」

 

 パトカーのサイレンのような警告音が、闇に包まれた都市を馳せ回っている。耳を劈くような大音量の、空襲警報である。都市に住む全員が、その警告音を恐怖と絶望を交えて聞き取っているはずだった。

 永遠の生すら時に求める人間ならば、ごく自然の反応である。そうでなくとも、死神と毎晩添い寝をすることには、首都の市民達はまだ慣れてない。

 基地内通信が、壁にあるスピーカーから流れ出た。

 『灯火管制、灯火管制!! 全戦闘員は、直ちに第一種防空態勢に移れ。一匹でも多く、あの悪魔どもを叩き落すんだっ』

 非戦闘員たる彼女のすべきは、速やかに避難することだけだった。だが、上手く歩くことが出来ない。

 激震する大地は、ワーリャの小柄な体躯を数センチあまり上下させる。弾き飛ばされまいと、彼女はベッドの足の部分にしがみつかねばならなかった。最大限の握力を込める。それでも、ちょっとでも油断すれば怪我をしてしまいそうなほどの揺れだった。

 「ご主人様……ご主人さまっ……」

 振動に次ぐ振動に、ワーリャはただ怯えることしか出来なかった。

 爆弾が落下する、口笛のように高い音。さらに、立て続けに砲撃の音も聞こえている。八峠谷基地に配備された対空砲が、侵略者を撃墜しようと奮闘しているのが窺える。

 怯えることしかできない、はずだった。しかし、今回ばかりは怯えよりも責任感の方が勝っている。

 「ご主人さま、起きて……おきてください……!」

 喉を意識的に震わせて声を出す。そして、ワーリャはベッドに縋って立ち上がった。そのベッドの上に横たわる人を、彼女は激しく揺さぶる。

 ワーリャが付き従う対象、すなわち主人である来須素子がそこに寝ていた。寝ているという表現は、かならずしも適切ではないかもしれない。素子は、睡眠薬によって無理やりに昏倒させられているのである。ワーリャの主人は、もはや独力で眠りに着くことすらできない状態に陥っていたのだから。

 主人の体を、こんなに乱暴に扱うのは初めてだった。それでも、自分の主人だ。放置しておくわけにはいかない。

 「起きて、くださ――」

 その瞬間、大規模地震が起きたかのように、部屋全体が激しく振動した。ほとんど経験したことのないような強制する力によって、ワーリャは吹き飛ばされた。たたらを踏むが、とても持ちこたえられずに地面にしゃがみこむ。

 侵略者の爆撃によるのだろう地鳴りは、さらに継続した。絶え間ない振動のせいで、立ち上がることもできない。

 あまりに過酷な環境は、ワーリャに過去の記憶を想起させた。

 「父さま、母さま……助けて……助けて、よぉ……」

 太ももまで床につけて、ワーリャはへたりこむ。そこから立ち上がることができない。どうがんばっても、足に力が入らないのだった。

 「ご主人……さまぁ……」

 絶望に打ちひしがれ、ワーリャは主人を見上げていた視線を落とした。顔を下に向ける。こんなにも恐ろしく、身も凍るような思いを、何故自分が経験しなければいけないのか。それも、一度のみならず何度も何度も。自分が相対するにはあまりに巨大で理不尽な世界と、それに虐げられたこと自体に、深い憤りと、無力感と、失望を感じる。

 ワーリャは、涙腺の奥がウォッカでも飲んだように激しく焼きついているのを知った。諦めて泣き出そうと――。

 ――した、ちょうどその時。部屋のドアが開かれる。まるで、蹴破られたかと勘違いするほどの激しい開け方だった。

 「来須上等兵、ご無事ですかっ!?」

 女の看護兵が一人、血相を変えて現れる。どうやら、この危急の時に当たって駆けつけてくれたらしい。非常な早足でワーリャの方へ近寄ってきた。

 「従兵の方ですね。どこかに怪我はありませんか? あなたも、来須上等兵も?」

 ワーリャの頬に涙が流れているのを察して、看護兵は口調を柔らげる。従兵であるのに主人に危険を知らせることすらできないワーリャを、責める気配は決して見えない。

 「ううっ……ひくっ……ありま、せん……だいじょうぶ、です……」

 敵味方の砲声が鳴り止まぬ中、相手に聞こえるように、ワーリャは必死に声量を張り上げた。それに伴い、泣き声も増幅されて追唱される。

 「さあ、早く地下壕に非難しましょう。ここは少し危険ですから」

 「でっでも……ご主人様が……起きて、くれない……んですっ!」

 ワーリャは、涙ながらに訴えた。

 「そうですか……では、私が来須さんをおんぶしていきます。行きましょう。ね?」

 看護兵は、優しく微笑んだ。彼女の言葉どおり、素子の体は看護兵の背中によって運ばれていった。時折の轟音が、薄暗い廊下を揺さぶる。無力な蟻のように、一行はただ地下壕のほうへ進んでいった。

 以前の素子は、いつも毅然としていた。そんな過去の主人からは、全く想像出来ないことだったが――他人に抱えられた素子の体は、あまりにも弱弱しく儚げだった。

 まるで、羽を濡らした蝶のように。

 ワーリャのそんな考えを察したかのように、看護兵は告げてくる。その声には、患者の病状を憂う者の嘆きが大いに含まれていた。

 「この方には、まだ休息が必要なんです。いつもそばにいるあなたなら、分かるでしょう?」

 「は、い……」

 「じゃあ、早く休ませてあげましょうね」

 「分かり……ました……」

 ワーリャは、しゃくりあげるように答える。

 無力な自分にできるのは、主人の無事を祈ること。ただ、それだけだった。

 

 首都八峠谷基地、戦隊作戦室。

 三人の人物の間で、命令の受け渡しが行われている。

 「敵の規模が、ここにきて急激に増加した。そのことによって、作戦は敵の殲滅ではなく、損害を最小限に抑えられる範囲での迎撃に主眼を移された。つまりは、持久戦に持ち込んだというわけね」

 マリイは、腕を腰に当てながらため息をついた。

 「一週間前、ナギナタ全部隊は真丘諸島基地から完全に撤退。真丘諸島は敵の手に堕ち、侵略者に本土爆撃の足がかりをくれてやることになってしまった……しかし、無理に踏みとどっていれば、そのぶん余計な損害が増していたでしょう。それを防ぐためには、撤退は止むを得なかった。」

 整列するイナキ第十七統合射撃戦隊のメンバーたちは、直立不動でその作戦概要を聞いている。

 しかし、戦隊とはいっても人数はたったの二人であった。隊長である正代と、神名の二人だけ。傍から見れば不気味とも思えるほど、二人の背筋はピンと伸びている。ほとんど頭がぶれず、いかにも熱心に聞き入る態度だった。

 が、彼女らは単純に見たままの心理状態などではいまい。そんなことは、マリイにとっては簡単に分かった。

 「ナギナタに消耗戦は許されないの」

 当のマリイも、職務に支障をきたさないギリギリのところで、なんとか冷静さを保っている状態である。他人を責めることなどできない。彼女らも必死で抗っているのだ――今にも泣き崩れてしまいたくなるような、心の動揺と。

 「――というわけで、あなたたちには連日出撃してもらうことになるわ。この国の首都が、焦土に変えられてしまうのを防ぐために。どうやらこれからは、休日なんて絶対に取れなくなるそうよ。とりあえず覚悟を固めて、出撃命令が下るまで待機しておいて」

 「了解!」

 神名と正代が、同時にマリイに答礼した。その仕草は、軍人としてとてもサマになっている。贔屓なしで、マリイはそう感じた。心の乱れを、必死で隠そうとしているのだろう。

 二十年以上前の世界では、この二人のような年頃の人間が、ここまで狂信的に、あるいは真摯に、自分の立場に沿って振る舞おうとする光景は、なかなか見られなかったに違いない。過酷な環境は、これほど人間というものを変えてしまうのだ――平和な時代の記憶を、マリイは持っていた。なまじそれを持っているだけに、人間の適応力というものが痛いほど脳裏に刻まれる。

 不必要なまでに、肩に力を入れて。表情に何も出さないよう努めて。それはとても、とても悲惨な光景だった。

 「指令の伝達は、これで終わりね」

 敬礼を解く。

 マリイは、背筋に物差しを入れたような堅苦しい姿勢を解いた。常ならば、さらに相好を崩して労いの言葉一つでもかけてやるところである。が、それよりも優先して言っておかなければならないことがあった。

 二人の隊員も、それと察したらしい。普段は温和さと自信を漂わせている二人の表情が、見る見る内に強張っていく。まるで、死刑を宣告された被告人のようだった。

 「さて、正代さん、神名さん……どうか、お悔やみを言わせて頂戴」

 一呼吸置いて、マリイは続ける。言うたびに、二人の肩が――そして、自分の肩も不可避的に細かく揺れた。 

 「本当に、本当に残念なことと思っている。身命を賭して地球を守る兵士としても、一人の女の子としても……彼女が亡くなったことは、私たちにとって大きな痛手だわ」

 激戦の渦中にいる軍人の身ゆえに、彼女の告別式にも、葬式にも参加することはできなかった。侵略者の来る心配のない地域で、すでに盛大な国葬が執り行われた後である。死者へのけじめより、生者を守ることに神経を使えということだろう。

 「仁尾千里上等兵は……千里ちゃんは、戦死した」

 冷厳な事実を、マリイは言いたくないながらも言わざるを得なかった。わずか十六歳の少女が、肉の一欠片、骨の一本すら残さず、残虐なやり方で殺されたのである。人類を生かすため、その身を省みず戦ったせいで。

 マリイとて、自分が軍人の端くれではあると自覚していた。軍隊では、親密にしていた仲間が死体になって帰ってくるなど日常茶飯事である。

 それでも、どれだけ頻繁であっても――自分が担当した兵士の戦死に慣れることは、マリイは決してなかった。

 その都度、人が死ぬことの遠大な痛みを、これでもかというほど深く味わなければいけないのだ。

 「千里は、戦ったのだと思いますわ。そして、戦いの結果として……負けた」

 神名が口を開いた。口調こそ普段と同じでも、その言葉からは覇気が失われている。金髪の先端が、神名の肩をしきりに擦っていた。

 「アタクシたちは、千里のようになってはいけないんですわ――」

 自分で言っておきながら、神名はとっさに視線を反らした。まだ強がっているのかもしれない。わざと勇ましいことを言っているように、マリイには聞こえた。

 やがて顔を伏せて、神名は完全に黙り込んでしまう。

 「神名にだけ、汚れ役を押し付けるわけにはゆきませんね」

 正代が、横合いから口を出した。正代も正代で、やはり声が沈んでいる。

 「私たちは、千里のことを忘れることは決してないでしょう。蒼空に散った戦士として」

 戦死したナギナタに対してよく使われる常套句を引用しながら、正代は述べた。

 「ですが、彼女を悼むあまり任務に支障を出すつもりも、またありません。あってはならないのです。ただでさえ、部下ひとり満足に守れない愚鈍を晒したというのに……」

 珍しく正代は、怒りとも嘆きともつかない大粒の不満を、彼女なりの静けさと共に吐き出していた。

 「ですから、冷たい言い様ではありますが……千里のことは、いまは忘れなければいけないと思います。彼女を思うあまり、作戦に支障を来たしてはなりません。それこそ、千里の遺志に悖ることと思います」

 考えに沈むかのように、正代はしっとりと瞳を閉じる。眠るように長く――ということはないが、まばたきと呼ぶには長すぎた。

 三人は、重苦しい雰囲気の中黙り込んだ。言うべきことが見つからないという理由もあるだろうが、その沈黙はやはり、考えるべきことの広さと深さによるものだった。

 マリイですら、千里のことを考えるのを完全にストップすることなどはできていなかった。どうしても、彼女の死に様を想像してしまう。

 (辛かったでしょう……怖かったでしょう……千里ちゃん)

 どれだけ深い感情を、死者に抱いたとしても――。

 いまはしかし、まだ生きている人々にその気持ちを向けなければいけない。死者をこれ以上出したくないならば。そのためにできること、果たすことは、いまだ可能性を残した人々の中にこそあるのだから。

 「確認しましょうか。いま私たちがしなければならないのは、死に物狂いでこの首都を守り抜くこと。任務を遂行して、首都の人々を一人でも多く救うこと。それに――」

 マリイが言いかけるが。

 途中で、神名が口を挟んだ。そういえば彼女は、ずっとそれを気にしていたのだ――マリイは思い出し、そして納得した。

 気遣う側の神名ですら、ここまで動揺している。ならば、気遣われる側は、一体どれだけの心労を抱えているというのだろう。それが癒える道程の険しさを知っているかのように、神名は華の消え失せた渋面を作った。

 「素子は、まだ戦うことができるはず。一刻も早く、彼女を立ち直らせることですわ」

 希望は、あるのかもしれない。そう無言で確認しながら、三人は心でお互いにうなづきあった。

 

 夢の中では、時間の経過を測ることができない。主観的な時間の早さは、主体の状態により自在に変幻してしまうものだった。それも、大抵は都合の悪い方向へと。

 生まれてこの方、味わったことのない長久な時。抜け出すこともできず、抜け出す気力をも失わせる牢獄の中――素子は、種々のことごとを責め続けていた。

 足りなかった鍛錬、欠けていた集中力、油断、取り消しようのない事実、取り戻しようのない価値、運命――無数の単語が、ネガティブな心象と共に素子を波状攻撃している。

 煩雑な思考の深淵に、素子は漂っていた。無力な木切れが、津波に翻弄されるかのようである。

 自然、あの時の光景が蘇ってくる。

 揚刃が、敵の射撃を喰らって爆発し。操縦者たる千里の体が、激しい熱と衝撃に晒されて朽ち果ててゆく様が。

 ――防げた。

 深海魚のように、人間にはありえぬ広角で千里が口蓋を開いた。その口から、不気味な声が発せられる。少女らしく純粋な、いつもの千里の声ではなかった。グロテスクに歪められた、獣とも魔物ともつかない背筋の凍るような叫びである。

 夢であることは分かっている。分かっているはずなのに。それが現実でない、と否定することができない。著しい責任感のせいで、冷静な判断力が麻痺していた。

 ――防げた防げた防げた防げた防げた防げた防げた防げた防げたああああぁぁぁぁぁぁぁッッ! あなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいであなたのせいでええええええええぇぇぇぇぇぇッッ!

 肉がぼろぼろと削げ落ち、次々と体積を減らしていく。その千里の顔が、剥き出しにした白目を破裂させながら迫ってきた。その腐食した面に視界が覆いつくされる前に、素子は腹の底から叫んでいた。 

 「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいっ! お願いだから、許してえッ! 許してよ、ちさとおぉぉぉぉッッ!」

 その声が酷い苦痛に満ちていたので、素子は自分で驚愕した。誰かに腹を殴りつけられたかのように、まぶたをカッと見開く。

 視界には、くすんだ天井と蛍光灯が映っているばかり――恨みと呪いを満載した亡者の顔など、どこにも存在しない。

 素子は、ベッドの上に横になっていた。彼女は、自分の叫び声で目を覚ましたのだ。

 (夢よね……)

 素子は、あらためて自分を見下ろす。

 頭は、ベッドの上からはみ出ている。行き場を失って、壁に沿って頭が直立していた。まるで、何かから後ずさりして逃げ場がなくなったようにも思える。

 髪の毛にはもともと天然パーマがかかっているが、その事実を差し引いても乱れ過ぎていた。一本一本ばらばらになった毛が、肩に、胸部に、顔にと、あらゆるところに張り付く。

 布団、寝巻きにもまた、猥雑な折れ目と皺が刻まれている。

 さらに悪いことに、素子は口をずっと開きっぱなしにしていたらしい。口の内側が砂漠のように乾ききっている。水分が失われたせいで、喉も酷く痛んだ。

 (……私は、)

 まるで、死人だった。素子は、生き延びたはずであるのに――何のためにそこにいるのか、分からない死体だった。

 (私は、どんなに責められてもしょうがない……たとえ、この場でナギナタを辞めさせられても、何も反論できない。そうする方法なんて……それに……)

 そうする気力もない――と、思ってしまうほどには、素子は打ちのめされてはいなかった。しかし、逆に言えば素子に残されたのは、そういった根拠のない執着のようなものだけだった。

 「……く、ぐっ」

 いままで積み上げてきた自信や手ごたえが、ほとんど跡形もなく消滅してしまっている。一体、何のために戦ってきたのか。精神を酷使し、肉体を極限にまですり減らしてきた。広く世界中の期待や、連隊長とマリイなどの上官たちの忠告や、神名と正代の立派な生き様や――そして、父親の遺した言葉を信じて、修養と訓練とを行ってきたのではなかったか。自らが携えるはずの刃に、研鑽と彫琢を加え続けてはこなかったか。

 それなのに。

 一瞬の不注意を犯すことによって、貴重な戦力でもありかけがえのない戦友であったはずの少女を、むざむざ鬼籍に陥れる。成し遂げたことといえば、そんな大罪でしかなかった。

 馬鹿げている。

 もはや、何の意味も見出すことができない――自分が、こうまで戦いにこだわることの意味。何故、こうまで戦い続けなければいけないのか、もう素子には分からなかった。

 もともと、その答を知っていたはずはない。その問いには、もう遥か以前に答えておかなければならなかったのだ。戦友を殺すという途方もない罪を、負債として背負い込む。そのことにより、不可避の問いを再び切迫した形で意識したのである。支払うには高すぎる代償だった。自分の心がけ次第で、その問いには無償で答えておくことができたかもしれない。そうすれば、もっともっと自分は強くなっていたのかもしれない。

 「ふっ……う……馬鹿……」

 千里を、殺さずに済んだかもしれないのに。

 (あんなに酷いやり方で、殺して……あなたは何なのよ……一体何をやっているのよ)

 刹那、素子の頬に生暖かいものが伝った。

 大量の鼻水が、徐々に鼻腔に満ち始める。鼻呼吸をすることができず、素子は息苦しくなった。口のみから息を吐き、そして吸い込む。荒い呼吸が、いっそう惨めさを煽った。

 「うぅ……う……」

 苛立ちたくなるようなむず痒い感触が、顔の上を這っている。ほんの一刻の間さえ、それを野放しにしておくことは躊躇われた。素子は、手の甲で頬を乱暴に擦った。

 静かに流れる涙のほんの一部が、手にまとわりつく。生暖かく、とても気持ちが悪い。

 (情けない。なんて、情けないの……現実逃避の、馬鹿……戦う理由に、きちんと向き合ってこなかった……そのことの罰? これは)

 幼児のように、感情をさらけ出して泣いている。その事実がまた、涙腺をさらに刺激していた。

 (向き合わなかった? ……こんなに苦しんでいるのに……こんなになっても……まだ向き合ったことにならないなんて……なんで私が悪い……ことになるのよ……酷すぎるじゃない、のよ……)

 油断も隙もなかった。

 素子は、自分の考えたことに自分で驚いた。こんなことをちょっとでも考えついたということが、信じられなかった。本当に信じがたい、身勝手な考えだと感じる。素子の弱さが、千里の死を招いたのだ。それは絶対に変えられない真理だった。敵味方に分かれて殺しあうことに、奇麗事など存在しない。一人の弱さ、一人の不注意が、部隊そのものを全滅させることもある。防衛軍事学の講義で学んだ、初歩の初歩たることばだ。

 平和な時代に生まれていれば、咎められることもない悩みかもしれない。それほど余裕のある子供らしい生活を、条件さえ違えば送れたかもしれない。事実、軍隊に入る前は――平和ではなかったかもしれないが、それでも生き死になど意識することなく生活していたではないか。

 が、それは虚無に等しい妄想だった。巨大な外敵にさらされたこの地球上に、もはや夢を見ていられる場所はない。

 人々を、国家を、地球を守るなどという、一介の少女が放つには重すぎる大言壮語。素子はそれを、高く謳い続けるしかない。逃げずに立ち向かえば死ぬかもしれないが、戦える者がそうやって弱腰に逃げ続ければ、人類は早晩滅亡する。どの道、死ぬことになるのである。

 何日もベッドに横になり続けたせいだろうか。両脚は、まるで油の足りない機械のように硬直していた。その足の甲の部分に、涙がポツリと落ちる。

 自分の意思では、止められなかった。肘で膝を抱え込み、背中を丸める。顔を伏せて、素子は涙を抑え続けた。

 いくら泣いても、泣くこと自体が涙を誘うので、泣き終わらない。

 ふと、千里の笑顔が思い浮かんだ。死に行く時の苦悶の表情ではない。ただ、微笑む千里の虚像が、脳裏に揺れている。

 思いの行き着く先は、変わりようがない。

 素子が千里を殺した――殺したも同然だった。彼女を永遠に失わせたのは、素子なのだ。少なくとも、素子はそう考えざるを得なかった。

 (もっと早く、戦場から脱出できていれば……いいえ、あの時私が気を抜きさえしなければ――)

 「うう……あぁっ」

 雨のように、素子の目から一際激しく涙がこぼれ出た。空しい感情が、勢いを増しながら素子の内側で渦巻いている。

 (どうしたらいいのよ……教えて……教えてよ、お父様っ!)

 死者への呼びかけもまた、空しくうごめいた。

 その時、素子は気づく。

 このように筋道立てて悩むことも、今の自分にとっては大変な骨折り仕事なのだ――はっきりと、考えがそこまで及んだ。わずかな時の間だけ、台風の目のように訪れる平穏。そのかりそめの平和が、終わろうとしていた。

 (だめ……だめよ、こないで……!)

 瞬間、素子は脳の中に眩い光が爆ぜるのを察した。

 千里が――千里が死んだときの、一連の哀しく忌まわしい記憶が、突発的に蘇ったのである。

 氷が融け崩れるかのように、砂粒へと変ずる千里の脆い顔が。――熱い鉛を注ぎ込まれたかのように、素子の頭部に内なる衝撃が加わった。

 指先が震え、服を掻き毟る。少しでも苦痛を癒そうと、布団を頭から引っ被った。それでも、発作はまったく収まらない。寝台の底にむけて、爆弾のような痛みを抱えた頭を素子は打ち付けはじめる。鈍い音が幾度も響き、意識が揺らいでゆく。それでも、記憶を止めることはできない。

 素子は、再び叫び出していた。 

 「うあああああああああああああああああアアアアアアアアアアアッッ!」

 悲鳴は、病室の外までゆうに届き、わずかな間の後に軍医が泡を食って駆け込んでくる結果となった。

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