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 それから想起できるのは、ただ津波だけだった。

 背筋が震えるほどの妄執が伝わってくる――邪魔をする"敵"を排除しようという、感じるもおぞましい瞋恚の闘気が。いったいどれほどの質量があるというのか。上下左右、どの方向をとっても百メートルはあろうかという砲弾の嵐。

 その百万の砲弾が、たった一機を破壊しようと驀進してくる。

 もはや、数刻前までの曇天は完全に覆い隠されていた。視界に入るのは、自分が突破しなければならない不落の壁のみ。

『注目、注目しろぉっ! 突っ込んでいく奴が一人いる、信じられん!』

味方の念波が、錯綜した情報の中に混じり入ってきた。答える猶予も、その必要もなく、彼女はなおも敵弾を回避し続ける。常時の四百倍の処理能力を発揮する脳にとっては、人の発する言葉は蝸牛のようにのろかった。そこから速さを吸収したかのように、全戦闘機群は天を駆ける。

 素子は、刻限の近いことを知るのだ。

首都を消滅させるべく、最悪の兵器が放たれようとしている。

(させない……!)

 最後の一距離、その踏破を目前として。

極大の念波を、幾億もの大気中の粒子を掻き分け、綿毛のように広げる。命令網は、ちょうど生物のシナプス網のように全機を網羅した。それを伝い、さらなる意思が走り抜ける。

 振り注ぐ豪雨に反逆するかのように――四百余の戦闘機は、一弾たりとも被弾しないままに激しく舞い狂う。

葉の裏に安穏と佇み、座して力を失うようなことを良しとせず。

羽の破け去る前に、ひと時といえども地を離れることを祈り。

「目標地点へ到達――」

戦略型の真上。禍々しく聳立する砲台群を眼下に収める。そこに到達した素子は、必要とされる中では最後というべき指令を出した。

「――全機、攻撃開始ッ!」

千を軽く越すであろう砲口から、同数の閃光とミサイルが射出される。任意の地点に着弾させることが可能な、念子誘導レーザー。それに加え、対大型侵略者用の視覚誘導式ミサイルである。レーザーほどの誘導性能はないが、目標に対して極近距離で発射した今であれば、恐ろしく正確に狙いを定めることができる。

感覚器官を激しく揺さぶるほど大量の光条と排気煙。それらが、光彩陸離と迫る迎撃弾幕を、巧みにかいくぐる。

 ――薄く脆き己を知りながらも、蝶というものはひたすらに飛び続ける。そこにあっては、細く小さな胴体こそが大きな羽を動かす力を秘めている。

 それと同じく――恐れを認める心こそが、誰も思いもよらないほどの強さを発揮することができるのだろう。

自分の発想に、素子は背中を押されたような気がした。

うてなに六肢をかける未来を、全体液と内臓を沸騰させようかという気迫に乗せて。言霊あふれる叫びを、雷鳴のように叩きつける。

「切り裂けえええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!」

 大地そのもののように堅牢な戦略型の装甲を、レーザーとミサイルの奔流が打ち砕いていく。

屈曲した数多の航跡。

 ――それは、まさに天上から振り下ろされる薙刀ナギナタ以外の何物でもなかった。


 プロローグ

 

 それから想起できるのは、ただ津波だけだった。

 背筋が震えるほどの妄執が伝わってくる――邪魔をする"敵"を排除しようという、感じるもおぞましい瞋恚の闘気が。いったいどれほどの質量があるというのか。上下左右、どの方向をとっても百メートルはあろうかという砲弾の嵐。

 その百万の砲弾が、たった一機を破壊しようと驀進してくる。

 もはや、数刻前までの曇天は完全に覆い隠されていた。視界に入るのは、自分が突破しなければならない不落の壁のみ。

『注目、注目しろぉっ! 突っ込んでいく奴が一人いる、信じられん!』

味方の念波が、錯綜した情報の中に混じり入ってきた。答える猶予も、その必要もなく、彼女はなおも敵弾を回避し続ける。常時の四百倍の処理能力を発揮する脳にとっては、人の発する言葉は蝸牛のようにのろかった。そこから速さを吸収したかのように、全戦闘機群は天を駆ける。

 素子は、刻限の近いことを知るのだ。

首都を消滅させるべく、最悪の兵器が放たれようとしている。

(させない……!)

 最後の一距離、その踏破を目前として。

極大の念波を、幾億もの大気中の粒子を掻き分け、綿毛のように広げる。命令網は、ちょうど生物のシナプス網のように全機を網羅した。それを伝い、さらなる意思が走り抜ける。

 振り注ぐ豪雨に反逆するかのように――四百余の戦闘機は、一弾たりとも被弾しないままに激しく舞い狂う。

葉の裏に安穏と佇み、座して力を失うようなことを良しとせず。

羽の破け去る前に、ひと時といえども地を離れることを祈り。

「目標地点へ到達――」

戦略型の真上。禍々しく聳立する砲台群を眼下に収める。そこに到達した素子は、必要とされる中では最後というべき指令を出した。

「――全機、攻撃開始ッ!」

千を軽く越すであろう砲口から、同数の閃光とミサイルが射出される。任意の地点に着弾させることが可能な、念子誘導レーザー。それに加え、対大型侵略者用の視覚誘導式ミサイルである。レーザーほどの誘導性能はないが、目標に対して極近距離で発射した今であれば、恐ろしく正確に狙いを定めることができる。

感覚器官を激しく揺さぶるほど大量の光条と排気煙。それらが、光彩陸離と迫る迎撃弾幕を、巧みにかいくぐる。

 ――薄く脆き己を知りながらも、蝶というものはひたすらに飛び続ける。そこにあっては、細く小さな胴体こそが大きな羽を動かす力を秘めている。

 それと同じく――恐れを認める心こそが、誰も思いもよらないほどの強さを発揮することができるのだろう。

自分の発想に、素子は背中を押されたような気がした。

うてなに六肢をかける未来を、全体液と内臓を沸騰させようかという気迫に乗せて。言霊あふれる叫びを、雷鳴のように叩きつける。

「切り裂けえええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!」

 大地そのもののように堅牢な戦略型の装甲を、レーザーとミサイルの奔流が打ち砕いていく。

屈曲した数多の航跡。

 ――それは、まさに天上から振り下ろされる薙刀ナギナタ以外の何物でもなかった。

 

 自分には、どこか決定的に異常なところがある。

 彼女がそう認識し始めたのは、いつからだったろう。彼女自身には、正確な記憶はなかった。しかし、その異常性に悩まされ続け、精神はつねに緊張を強いられていたことは確かである。

 そして今現在も――脳のある一部分を酷使して、彼女は疲労の極に達しつつあった。昔、覚えていた痛みとは違う。ある意味では、心地よい疲労でもあったが。

 『次へいきますっ。6WAY弾毎秒5発掛ける30! これでラストです』

 男性の声が、無線を使って教えてくる。

 言われても、彼女は自分では身動きひとつしなかった。ただ頭ですべき動作を念じるだけでよい。

 半径10㎞四方にわたって、何一つ不純物を含まない広漠とした空間。その中にあって、彼女は一体の戦闘機を操っていた。

 午前2時という、生身の時でも外を出歩きなどしない時刻である。ごくわずかな月明かりのほか、頼りになる目印など皆無であった。

 まして時間と空間の無表情ぶりが双発したとあらば、生じる不安感は無視しきれない。こんな環境では、人間など大海に放り出された微生物に等しいのだから。大空と人間との格差は、それほどに大きい。

 だが、それも普通の人間ならばの話だ。

 (私は……異常よ。確かに)

 自虐と諦観をこめて、彼女は喉の奥で笑った。考えたくなければ、考えなくてもいい。自分のやるべきことに集中すれば、考える暇などないはずだ。

 そんな言葉が浮かんだ刹那、別の物が脳裏に構築されるのを彼女は感じた。何もない空間の膨大な体積が、三次元立体映像となってコックピット上に映し出された。もっとも、いちいちそれに目を向ける必要はない。情報源は、彼女自身なのだから。

 意識を仔細に泳がせ、そして見つける。何もないはずの空間に、自分以外の機影が四つ捉えられていた。いずれも2,3㎞離れて、ほとんど静止状態をとっている。

 台形の翼、一門のターボファンエンジンとその点火状況、6銃身のガトリング式機銃ニ門、コックピットの容積、パイロットの息遣い、そして発射された電波が彼女の機に命中して跳ね返っていく様、それら全てが同時に、瞬時に、きわめて容易に観測される。

 四機の間に電波が行き交ったと思うと、それぞれ加速し始めた。

 いずれも、彼女のほうを目指している。どうも、二十年代以前の旧型機らしい。その航跡は、ごく素直かつ従順である。しかし、速度は彼女の機と大して変わりはしない。一分もすればただちに接近、射撃を始めるだろう。

 彼女の任務は、ただそれを避けるだけ。

 コインを投げて、裏表のどちらかを出す。そんなことと同じくらい簡単だ。簡単なことを百回連続で成功させるには、ただ集中しさえすればいい。

 (これが終わったら、休めるから)

 蝕まれた体を慰める。

 軽蔑の言葉を投げかけるが。

 (気持ちが良いのは、どうせこの瞬間だけよね……)

 彼女は前進を望む。

 そして、白熱を極める思考の波が、頭蓋から迸った。

 大気の奔流が、エンジンに吸収される。内部で起こっている冷却と圧縮という羽交い絞めの過程を、次々と通っていく。

 やがて、空気の圧力が高まった。それらが、エンジン後部から一挙に開放される。推進力を得た戦闘機は、人の触れられない速度で空を駆け出した。

 飛ぶ鳥が羽を舞い落とすように――彼女は余計な情報を捨て去り、重要な情報だけに意識を集中する。

 敵役を務める四機は、すでに数百mにまで接近していた。彼女の機を、完全に射程に納めたらしい。彼女の機をとりまく仮想球上に、彼らはほぼ満遍なく展開している。そして、こちらに突進してきた。

 パイロット達が釦を押すと、八門の砲が一斉に唸った。蛍光塗料を含んだ炸裂弾が、毎秒数百発放たれる。四機合わせて、夥しいとしかいいようのない数の弾丸が襲い掛かってきた。

 彼女の肉体は、微動だにしない。腰掛けたまま、意思だけで命令を伝達する。

  弾幕の薄いほうに向けて、戦闘機は急激に旋回した。発揮された性能は、旧式とは比べ物にならない。目的の方向に向け、稲妻のように角度を変える。

 しかし、それは性能だけに由来するものではなかった。曲がるべき方向が、事前に確信できていること。それも主たる要因である。

 (C機のパイロット。集中力を欠いて、三秒後に射撃方向が揺らぐ。正常な軌道に修正するまで二秒。水平にマイナス七三度、鉛直に一二度ずれる異常軌道)

 まぶたの裏に生じた暗闇。そのことを考え付くことすらせず、彼女は情報を読み取っていく。媒介物などはなかった。直接に、強制的に、既存の物理法則をねじ伏せる無謬の力で、必要なものはすべて充足させる。

 首を指令角度に振るという、無用な行為を織り交ぜながらも。一つの機関を、彼女は演じ続けた。

 (大きく避けるよりも、左翼先端を空隙ホ28765.32に通したほうが……燃費が良い、わね。下がる安全性も、非常に僅少)

 機体前部をほぼ固定させる。後部だけをドリフト状に九〇度ほど回転させ、次の進行方向に向けた。

 一発でも命中してやることはない。とりわけ、一筋の弾線がきわどい位置を通過していったが。

 しかし、どれほどギリギリであろうが、分子一粒まで正確に同じ状態を無数に反復、体験していれば、そんなものは造作なく切り抜けられる。この訓練で放たれた全ての弾丸を避けきり、彼女はなおも命令を下していく。

 戦闘機のこうした制御で、脳が受ける過負荷はそう通り一遍のものではなかった。そのせいか、激しい訓練を続けていると、数十秒が数時間に感じられることはザラである。一日のうち最後の訓練ともなれば、なおのこと。残されたニ一秒の間、彼女は全力をあげて励んだ。そこで流れる時間は、膠のように引き伸ばされ、それでもなお濃厚に粘ついていた。


 『来須素子訓練生。夜間任務終了を確認した』

 無線を通じて、オペレータの声が響いた。        

  泡のように、飽和感が続々と生まれてくる。それに耐えながら、彼女――来須素子は肢体をぐったりと椅子に投げていた。とても動く気力がしないのだ。

 『相変わらず、この程度では完璧な成績だな』

 「……有難うございます」

 唇をなんとか動かし、素子は返答する。大仰な動作をしているわけではないのだが、それでも体力が奪われるような感覚が走った。あらゆる動作が、ブリキ人形のようにぎこちなくなっている。

 『護衛機とともに、直ちに基地へ帰投。翌日まで待機せよ』

 「了解」

 『もう日付は変わっているけどな』

 言い訳のような台詞を残し、オペレータは無線を切った。

 (これでも朝6時起床だったわね、確か)

 素子は嘆息した。ただし、ごくささやかに、である。泥のようにまとわりつく疲労を、これ以上刺激したくなかった。

 (人使い荒いわね)

 素子は、眠るように目を閉じた。

 飛行機の操縦は、今は電子回路が肩代わりしてくれている。なので安心だった。

 とはいえ、寝入ってしまってはまずい。したがって、まどろみの境地に自分の意識を固定する。このまま本格的に睡眠することを、本能は望んだ。だが、あくまでそれは拒まなければいけない。

 (仕方ないことだけど)

 敵役を務めていた四機は、彼女の機に先行している。彼らは現在も手動操縦のはずだ。それでも、飛行機の航行にはほとんどブレはない。パイロット達は彼女の訓練に付き合ってくれたにもかかわらず、そう大きなダメージをうけていないようだ。もちろん、これは素子の推測ではある。さきほどまでのように、周囲の情報をむりやり奪い取っているわけではない。

 (継続は力なり、ってやつかしら)

 彼らの体力に、賞賛と羨望を覚える。彼女一人だけ、その体力がなかった。

 それが必ずしも必要とされるわけではない。

 (まあ、私は……)

 雑音を故意に、脳裏に響かせる。頭から掻き消してしまいたいもの――そんなものは誰でも持っている。

 そのはずだった。

 (……もう十分過ぎるほど力を与えられてる、わけ、だから。よしとしましょう)

 深い吐息の中、彼女はひとり納得した。

 ちょうどその時、再び無線が通じる。電子兜から、赤い光とノイズ音が発せられた。声の主は、護衛機のパイロットである。

 『愛州さん、お疲れ様でした』

 そのパイロットは、まだ若いと思われた。というのも、声にまだ張りがある。

 「お疲れ様」

 『毎日相手をしていますが。何度見ても、我々には捉え切れない素早さですよ。いや、感服するばかりです』

 声が上ずっている。希少な人間に話しかけているから、だろう。

 「それは私もよ」

 思ったことを隠さず、素子は口に出した。そのつもりだったのだが。

 意味が通じないようだった。先刻までの饒舌さにも関わらず、パイロットは口を詰まらせる。

 (またやってしまったみたいね……)

 通常のパイロットからしてみれば、素子はまさに雲上人らしい。だが素子とて、人の心を読めるわけではない。だから確信はないのだが。

 ともかく、素子が彼らに感心するなど、考えられないのだろう。

 パイロットは、素子の発言をなかったものとして話を続けた。

 『近く、最終試験だとか聞きましたが?』

 「そう」

 必要はないのに、素子は小さく肯いていた。

 『是非、頑張って下さいよ。本物のナギナタとの訓練を担当したとなったら……我々としても非常に光栄なことですから』

 パイロットは一気に言ってのけた。声音からも、彼の興奮が伝わってくる。

 それほど、自分は期待されているのか。このパイロットに。のみならず、この時代に生きる人々全てに。

 (本当に?)

 素子は自問した。しかし、自分に答える前に、相手に答えを返してしまう。

 「期待してるといいわ」

 無線というのは、音しか拾ってくれないのだが――それでも、パイロットが一挙に歓喜に満ちていくのが察せられる。

 (また……)

 舌に刺すような苦味を覚える。

 彼女は、床のほうに目を移した。薄い灰色のバイザー越しに、自分の下半身が窮屈そうに腰掛けているのが見える。

 吐き気を抑えるため、何でもいいから言葉を発した。

 「ついでに言っとくけど……苗字単体で呼びかけるのは止めてくれる? 変に聞こえるのよ」

 その時には、もう無線は切れていたのかもしれない。

 (我慢して。基地に着くまでは)

 彼女はひたすら、自分を封じた。

 

 寝床の上で、素子は密かな嗚咽を漏らす。肉が融けるほどの痛みが、喉に走った。激痛を和らげようと、彼女は胎児のように丸くなる。

 何度となく嘔吐を繰り返していた。そのせいで、ただでさえ消耗した体力がいっそう減衰している。

 (あなたは)

 吐くものが無くなったので、吐き気そのものは薄れていた。その隙を見計らい、彼女は口の中に物を押し込んだ。

 数種類の錠剤である。市販の栄養剤と、医者から渡された薬の二種類だった。職業上、とくに飛行に影響を与える恐れがあるので、飲み忘れるなと厳命されている。

 しかし、元を断つことがもっとも手っ取り早いと、医者は語っていた。

 (あなたは……)

 闇に閉ざされた個室。

 水道管の中に、水が渦巻ている。その重低音が、しつこく部屋に響いていた。

 素子は、それ以外の情報を遮断しかった。出来る限り、そうしようと努める。しかしノイズの奔流は、とうに神経から決壊していた。

 (どれだけ脆ければ……あなたは気が済むのよ。馬鹿……)

 一際大きく、喉が鳴る。

 鳴き疲れてか、彼女はそのうちに眠りに落ちた。日が昇るまで目は覚めず――悪夢もまた、同様に居座っていた。


 総合評価は96.5、という数値だった。

 反応速度、操縦の正確性、戦闘情報確認の頻度と恣意性、射撃の命中精度。その他、様々な項目に軒並み95以上の数値が付されている。

 とりわけ異常なのは、敵弾回避率。

 "100"という、得られる中では最高の数値が与えられていた。要するに、敵弾完全回避、無被弾ということである。

 国軍の一般隊員と同様の評価基準のため、素子が高い数値を弾きだすのは当たり前といえば当たり前だった。しかし実際に事実を数値で見せられると、素子はどうしても納得せざるを得なかった。自分の希少性というものを。

 「ご主人様……どお、でした……?」

 勝手に覗きこんでいない、というアピールだろう。従兵のワーリャは、数mはたっぷり離れて立っている。箒を握ったまま、素子を見つめていた。人形のように純白で美々しい顔を、涙さえ伴う不安の歪みが台無しにしている。

 「今から見るところよ――」

 その呼び方は止めろ、と素子は言いかけた。だが、待ち受ける徒労を予期し、中止する。今まで何度注意しても、治らなかった。今回もそうだろう、と彼女は確信したのだ。

 彼女は、封筒からもう一枚の紙を取り出す。

 コンピュータ処理のため、「空軍総合戦闘実技試験」の評価紙は薄っぺらく作られていた。だが、この紙は異なる。資源不足が叫ばれる昨今であるのに、やたら上質な紙が使われていた。

 ("通達"――)

 素子はその紙に記された文を黙読した。

 ("来須素子訓練生。貴官は本日付で、航空防衛機制ナギナタに異動となる。ついては、貴官は三階級特進で上等兵に任命される。荷物をまとめて、本日14時に司令部へ出頭せよ。詳細を通達する。貴官の今後の活躍を祈る"か)

 素子は一声も発することなく、思考に沈んだ。寝床に腰掛け、片手で頭を抱える。

 (やっぱり、こうなった。前に言われた通りだわ)

 両頬を軽く掴み、半ば無意識に口のほうに引き寄せた。

 (わたしは本当に、戦場に出ることになる。それも前線の真っ只中に、盾として……)

 謙虚も皮肉もなく、素子は自分の力を推し量った。自分が任務に耐えうるのか、それは判然としなかった。

 (自分で決めたことよ。怖がっても遅い)

 眼球を虚ろな空洞としながら、素子は独り言のように考える。

 戦闘機に関しては、多少の自信はある。戦闘そのものは一応こなせるはずだった。

 (問題は、私自身のことよね……)

 肌を撫でつつ、手で頭を抱える。素子は、自分自身にさえ頑なになっていくのを感じていた。

 「あの……だいじょぶ、ですか」

 黙した素子の傍らに立って、ワーリャが言った。語尾の発音がたどたどしい下降調だったので、自分に聞いていると気づくのが遅れる。

 その言葉を一語ずつ解釈し、ようやく意味を汲み取った。

 「……ええ、ええ。大丈夫」

 素子はなんとか答えた。前傾姿勢を元に戻す。ワーリャのほうを見ないまま口に出した。

 「どうやら、私はナギナタに配備されるらしいわ」

 「ナギナタって……」

 年端のいかない従兵は、いったん言うのを止めた。何か、口に出すのを憚ることのように。

 幼い体型に似合わない軍服の袖を、くしゃくしゃに握り締めている。

 「悪魔から……まもる……人たちです、よね」

 「そうよ。まあ、せめてあなたの家族の仇くらい、とってこれるといいけど」

 素子は、自分を静めるように、ゆっくりと言った。

 「実際にやりあってみなければ分からないわね。どうなるかは」

 「でも……でも」

 ワーリャは言いかけて、また中断した。舌がもつれたのだろう。暗褐色の瞳をさらに潤ませ、彼女は続けた。

 「ご主人様……死んじゃったらやです……」

 言い終わるや否や、ワーリャは大粒の涙を頬に流す。声こそ上げないが、泣き顔は悲惨だった。

 仰天して、素子は立ち上がった。中腰になり、従兵に話しかける。

 「止めなさい。私が泣かせたみたいに思われるわ」

 苦慮のため息をつきながら、素子は片手を伸ばした。従兵の頭に、手のひらを置こうとする。

 「ごめんなさい……だって……」

 「あなただって、軍人になるのでしょ――」

 だが、隔たりを残したところで、素子は体を固めた。

 泣きじゃくる少女を前に、視覚が閉ざされたかのようになる。頭の中以外、全てが凍りついた。

 (私は、いったい資格があるの? この子を慰めることの……)

 個室の中には、間違いなく二人がいる。

 しかし素子は、急速に一人だけになっていった。弧絶が真空のように、指先に横たわっている。

 (たとえ叱ったとしたって、そんなの同じことだわ)

 疑わずにすむのなら、そんな風に疑いたくはなかった。しかし、どんなに思考を止めようと努めても、全くの無駄に終わった。火が燃え広がるように、問いが拡大してゆく。

 (わたしは、自分を殺してしまわないかしら。でも考えずにはいられない……いられないわ)

 叫びを催すほどの昂ぶりが、徐々に脳に這い上がってくる。

 伸ばしたはずの手が、ゆっくりと後退し始めた。むしろ、の方向へ向かう。患部の覆いに備えるように、頭の方へと。

 (わたしに、この子との違いがあるの?)

 ヒステリック、という言葉だけは――彼女は当てはめたくはなかった。紐一本でぶら下がるかのような、危険な保持だけが残される。

 それも、今にも引き裂かれそうだった。

 (誰か……教えてくれない……?)

 反語としての疑問を、素子はつぶやいた。

 その時、扉をノックする硬い音が突然に響く。素子は、一気に現実に戻ってきた。ワーリャの肩が、大きく震える。

 答えないでいるうちに、二度、三度とノックが重なっていった。

 「いないか、来須上等兵? 少将がお見えだ」

 男の将校の声が告げる。

 慌てて、素子は返答した。

 「ここにいます……在室ですっ。お入りください」

 素子がそう言うと、幾人かの気配が去ることなく部屋に入ってきた。

 男が四人。

 暑いというのに、帽子を被ったままの男が一人。少将にして、この基地の総指揮官であった。その後ろに、高級将校が三人、金魚の糞のようにつき従う形である。

 部屋が窮屈だとでもいうように、少将はじろりと壁をにらんでいた。

 素子は指先でつついて、ワーリャに行動を促した。自身も直立不動の姿勢をとり、右手で敬礼を行う。

 遅れて、四人の軍人も答礼した。

 「上等兵。通信は届いただろう――ところで、何かトラブルでも?」

 少将が口火を切る。瞳を腫らしたワーリャを、胡散臭そうに視界に入れていた。

 「い、いえ。この従兵はこちらのことですので、お気になさらず。……それで、通信は確かに頂きました」

 「ふむ、確か呼び出したはずだったか。だが、少し時が空いたから直接寄ることにした」

 「それは……」

 返答に迷い、素子は少将から目を逸らした。高官と言葉を交わす緊張感はもとより、さっきまでの嫌な浮遊感が、まだ消えていなかった。

 「感謝いたします」

 どうやら、もう少し感激しなければいけなかったらしい。高級将校の一人が、気炎を上げた。

 「おい、少将閣下に対して失礼だろう、君!」

 「黙っていろ」

 当の少将が制すると、将校は大人しく黙り込んだ。

 少将は、かすかに忍び笑いを漏らして言う。

 「来須上等兵。そう硬くならなくともいい。貴官と私との階級差は甚だしいが……どちらかと言えば、むしろ貴官のほうが国家の役に立つようになるかもしれぬのだからな」

 「……有難うございます」

 「成人もしていない小娘に幅を利かされるのは癪だが……貴官には、それだけの力があるのだ。存分に振るってくるがいい」

 「了解しました」

 緊張だけに由来する口下手ではないのだが。あえて何も言わず、素子は返答した。

 「本題に入ろう」

 一拍置いて、少将は命令を続けた。

 「お膳立ては全てしておいた。本日二十時発の空軍機に便乗し、貴官はナギナタの本部――すなわち、首都方面八峠谷基地へと向かえ。今後の詳細は、あちらの責任者が話してくれるだろう」

 「分かりました」

 硬い表情を取り戻したまま、少将は敬礼した。

 「では、貴官の上に武運あらんことを」

 「少将閣下も」

 素子は答礼した。数秒間そのままの姿勢を保って、軍人たちに相対する。

 敬礼を終えると、その一行は踵を返した。そして、個室から立ち去っていった。

 (武運……か)

 小康を得て、素子は腕を下ろした。困惑気味のワーリャを近くに寄せ、腰を下ろす。ワーリャはどうやら、緊張に支配されるうちに泣き止んだようだった。

 言葉の掛け時と見て、素子は言う。

 「簡単に泣くもんじゃないわよ――臆病者と思われたくなければね。分かった?」

 半ばを、自分に言い聞かせた。

 従兵は感じ入ったようにうなづいた。気性が素直なのだろう。目を十分こすった後、悲しみの抜けきれない微笑を見せた。

 「はい……ご主人様」

 「分かればいいわ。さて……」

 自分と彼女が持ち直した。そのことに安堵しつつ、素子は体の向きを変えた。

 手始めに、壁際に放り出されていた下着を手に取る。もはや洗濯する暇もなくなったので、それはそのまま鞄に放り込んだ。そして従兵に声をかける。

 「あなたも、荷物をまとめておいて。夕食が終わったら、すぐに発つわよ」

 「あの、ご主人様……」

 従兵が遠慮がちに言った。

 「何?」

 「わたし……一生懸命、お祈りします……ご主人様のこと」

 それが、ワーリャの精一杯らしかった。彼女が頼りになるとは思わないが、少なくとも支えてはくれる。素子はそう感じた。

 なるたけ平静さを保ちながら、素子は答える。

 「ええ、是非。お願いしとくわ」


 "航空防衛機制"ナギナタ。

 即座には意味を図りかねるその枕詞には、人類とその文明の生存に資するため、冷徹かつ精巧な兵器の一部品たろうとする忠烈な意思がこめられているという。

 その正体は、侵略者に対抗するために設けられた防衛組織である。しかも万国共同の超国家的組織であって、特別な才能を持った優秀な戦士のみがそこへの入隊を許可される。戦士たちは各国軍を助け、人々の命と富を奪うという敵の罪を、戦場での縦横無尽な演舞によって強制的に贖わせる。

 それらの戦士には、世界の大衆と政府から、常人には望みえぬほどの尊敬と名誉が与えられた。

 そしてまた、同時に下賜されるものがあった。

 自らの天寿を全うせず、必ずや蒼空の下でその生命を散らすという至高の特権である。

 (そんなに甘美なもの……じゃない。当事者になってみれば)

 素子は、肩に食い込んでいた鞄を抱え直した。そして、いま一度嘆息する。

 ナギナタに対する世間の評価とは、大体そんなところであった。その評価が間違っているとは、素子は思わなかった。むしろ、当たっているとすら感じていた。

 だからこそ、素子は自分の運命を恐れている。それに身を任せてしまえるなら、これほど楽なことはないのだが。

 今まで数時間、素子は機上の人となっていた。その時から、何百回とこんなことを考えては、封殺して堅く錠を下ろしている。もう考えまい、という決意だけを残して。

 そういった無意味な繰り返しは、体を疲れさせていた。

 そして、ナギナタのお膝元――首都の舗装された大地に降り立ってからも、それは同様だった。

 (今にわかるわ。どんなものなのかは……) 

 数名の案内者に連れられ、従兵一人を伴って。素子は基地の廊下を進んだ。

 やがて、一際大きな円形の壁にたどり着く。どうやら、その中はかなり大きな部屋になっているようだ。職員やら軍人の往来が激しいせいか、扉は見当たらない。壁に開いた大きな空洞を通り、自由に出入りできるらしい。

 「ここが当基地の司令室です。ただ今、連隊長のところへお連れいたします」

 案内者の言葉に、素子は会釈を返した。

 入り口で従兵を待たせておいて、その巨大な部屋へと進入する。

 国にあるナギナタの施設としては、最上級に位置する八峠谷基地。その中枢部をつかさどる空間に、いま自分がいる。

 素子は、自分の身長が縮んだのかと思った。

 そんな錯覚を起こすほどまでに、司令室は莫大な容積をほこっていた。特に、縦にかなり長い。十mはあろうかという巨壁に、無数の電子機器――ケーブル、汎用モニタ、レーダー用の円形モニタ、立体映像投射機、照明などが設置されている。加えて、入り口から見て真正面には、潤いを与えてくれそうな唯一のものが掲げられていた。

 すなわち、刃のように尖った光輪をまとう蝶の羽根。具象化されてはいるが、中々写実的である。ナギナタを象徴する、公式の紋章であった。

 素子はしばし、呆然の体にとらわれていた。

 広大さだけで比べるなら、大空のほうがよっぽど勝っている。大空など、素子にとっては庭のようなものだ。

 素子が驚いたのは、これほど大量の人工物が海のように集まっていることだった。それら全てが、一つの目的のために作り上げられ、集められている。どこまでも強靭な、浅ましいとも言えるほどの人の意思、その片鱗を垣間見た気がする。

 一つの装置としての司令室に、人々がそれを守り、利用するようにして存在しているのだった。

 「強い……」

 感嘆のあまり、賛辞が喉から溢れ出た。

 案内者が、不思議そうに振り返る。それを無視してでも、素子は司令室を眺め回さざるを得なかった。

 行きかう人々は、軍服と階級章を私服のように着こなしている。座ったまま無線通信を行うオペレータ、急ぎ足で用を足しに行く従兵、立ったまま話し合う高官――その人々の間には、ある特異な雰囲気が横たわっていた。すなわち、一片の緊張感、というものである。

 今この瞬間、ただちにこの基地が虚無に帰したとしても――悄然と抵抗を開始し、力及ばなければ退き、そして再び立ち上がってやる、とでもいうような。

 (こんな風になれっていうの)

 自分は場違いだという思いを、素子は禁じ得なかった。少なくとも、今の自分では。

 いまにも、煩悶の連鎖に立ち返ろうとするが――。

 案内者の声が、それを阻止した。

 「連隊長閣下、来須上等兵をお連れしました」

 案内者は、三人の人間に向けて敬礼していた。

 三人の一人、非常にがたいの大きな男が答礼を返す。と思うと、大きな男は即刻素子の方に向き直った。節々の目立つ腕を掲げ、敬礼してきた。素子も答礼する。

 (この人が、連隊長……?)

 「貴官が、来須素子上等兵か」

 男は、劇に出演したら映えそうな、低い響きの声で聞いてきた。しかしそれより何より、声が大きいという印象が、先ず強かった。

 「その通りです」

 「先んじて名乗らなかった非礼を詫びよう。私は、八峠谷基地の司令官にして、我が国ナギナタの連隊長、槇嶋寅という者だ」

 その連隊長の顔に、素子は何か引っかかるものを覚える。どこかで見かけた覚えがしたのだ、遠い昔に。

 記憶の糸を手繰っていく。

 「貴官、ひょっとすると私の顔ぐらいは見たことがあるのではないか」

 男は太い眉を曲げながら言った。

 探求の末、答えが意外なところから導かれる。

 「そうだ、テレビで……」

 囚人と変わらないような、軍人の生活に突入する以前のこと。素子がまだ学生の時、この連隊長を眼にしていたのだ。新聞やテレビなどのメディアに露出した彼の姿を。それ以降は、訓練に没頭する多忙な日々だったため、ついぞ世知を深める機会がなかったのだ。

 連隊長という階級は、あくまで言葉の綾に過ぎない。

 それは、指揮する兵士の少なさに拠るだけだった。その役職は、実際は極めて重要なものである。一国の防衛を一身に担うという、重責が課せられているのだった。

 そういうわけで、防衛に関する話題が取り上げられると、時に記者会見などに連隊長が登場する機会もあった。その時に、素子は彼を見かけていた。

 「恐らく、そうだろう」

 連隊長は腕を組んだ。満足の笑みを浮かべて、うなづいている。

 「なら、話は早い。私が、何をするための人間かは、おおよそ分かっているな」

 「ええ。一応は」

 「それでいい。人というのは、徐々にでも分かり合っていければいいのだからな。良い第一印象は、そのまま保存すべきだ」

 返す言葉が見つからず、素子は気の抜けた返事をする。

 「……そういうものですか」

 「左様。……まあ、私はこれくらいでいいだろう」

 連隊長は向き直った。

 「さて、これから貴官と深く関わることになる、もう二人の人間だ」

 ごつごつとした手のひらで、連隊長は脇に立っている二人を示す。

 二人の内、女性の方が一歩前に出た。

 薄い金色の髪が、肩をかすかに撫でている。彼女はすらりとした動きで、右手を額にかざした。大人っぽい、しっとりした雰囲気を漂わせた女性である。素子に微笑を見せながら、言ってきた。

 「私は、マリイ=グラフ。あなたのオペレータを務めることになってます。よろしくね」

 素子は、慌てて答礼した。

 「よろしくお願いします」

 媚を売り過ぎない、感じの良いウインクを残して、マリイは下がった。次いで、最後に残った男が一歩前に出る。

 眼鏡の奥から、悪意のない少々気弱そうな目が覗いていた。視線を合わせながら、男は敬礼する。

 「僕は篠崎宗太郎です」

 言うべき事を忘れてしまったかのように、宗太郎は頭を掻いた。

 「えーっと、あなたも知っているとは思うんだけど。……ナギナタの仕事っていうのは、案外戦うだけじゃないんだ。TVやら新聞やらラジオやら広告やらポスターやら、そういったものでの宣伝にもわりと借り出されたりするんだよ」

 結論から言えばいいのに、と素子はじれったさを覚えた。

 「こう言うとあなたは心外だろうね……けど、一種のモデルだとか、アイドルみたいな一面がある。それだけ英雄視されてるってことなんだ」

 だが、今のところ素子は謹聴の姿勢を崩さない。

 自分の頼りなさを言葉で補いたいとでも言うように、彼はしゃべり続けた。

 「で、最近はそれに伴う事務作業が結構膨大になってきててね。それを処理するために、僕のようなマネージャーがいるというわけなんだ。これから、キミの行く戦隊全員の事務を担当することになると思う。円滑にやっていけることを願うよ。どうぞよろしく」

 「説明、ありがとうございます」

 心中で胸を撫で下ろしつつ、素子は言った。

 「いやなに、分かってくれたら幸いだ」 

 さらに一言付け加え、宗太郎は一歩下がった。

 全員が敬礼を解き終わったところで、連隊長が再び場を仕切る。

 「よし。これで紹介は済んだな」

 すると、彼はまじめな顔つきになって言い始めた。

 「さて……ただ今から貴官の戦いが始まるというわけだ。そこで、一つ聞いておかなければなるまい」

 真剣な言い口である。素子は、何か嫌な予感が漂うのを感じた。

 咳払いを一つした後、彼は口を開いた。

 「全ナギナタは、どんな逆境にあっても、最後まで死力を尽くして戦う義務がある。たとえ、空中で無残に砕け散ることになっても、な。貴官にその覚悟はあるだろうな? 防衛のために、自分を犠牲にする覚悟が。加えて、自分を機械の一部品と認識する冷たい意識が――無論、そう簡単に代替の効かない部品だがな」

 そう問われて、素子は返事に窮した。

 (何ですって……今のいままで、私が考えていたことじゃない)

 こめかみ、脇、背中、腿――その他様々な体の部位から、嫌な汗がどっと噴き出てくる。軍衣にたちまち熱がこもり、それが発汗をさらに推進していく。

 焦燥感が、とめどなく生まれていた。

 (どう答えればいいの。無難に返事をする……?)

 しかし、それは一体どういうことなのか。自分の運命を、そう簡単に、適当に受け答えしてしまうということは。

 それは決してしてはいけないことのように、彼女は感じた。それでは、今までの苦労を踏みにじることになってしまう。

 「この崇高な見識を持っていない者は、決してナギナタに加わることは出来まい。ナギナタの掲げる目標は、半端な意思では到底達成できんからな。軟弱な奴は邪魔なだけだ。言っておくが、冗談で聞いているのではないぞ。俺は常に本気だ。どうだ、来須上等兵?」

 (できない。とても肯定はできないわ……)

 素子はこぶしをきつく握り締めた。自分が軍隊に求めていた理想――それを、よく考えなければならない。死の免れない戦場に出ること、それに何の意味を見出しているのか。どんな価値を認めているのか。

 (何故こんなことを、私は最初に考えておかなかったのかしら。いや、ひょっとしたらずっと考え続けてたの?)

 果てない疑念に、自分が飲み込まれそうになる。毎晩迎える暗闇と同じような、底のない疑念に。

 だが、否定した。

 (いいえ……)

 思考力が完全に侵される前に、素子は踏みとどまった。爪先立ちするように、瞳を大きく見開く。そうして、戦わなければいけない相手を見極めることを、彼女は欲した。

 連隊長が、沈黙の内に彼女を睨んでいた。そろそろ答えを返す時だろう。

 (しっかりすべきよ、来須素子。決めることくらい、誰だって出来るはず。よく考えないと)

 意を決して、素子は連隊長を見返した。彼の眉間に、いまはまだ控えめな皺が寄っている。

 「連隊長。その質問の答え、考える時間をくれませんか」

 その言葉を聴く前後で、連隊長は微動だにしなかった。ただ、素子の瞳をずっと睨んでいる。こちらの心を見透かそうとしているようだった。

 沈黙は、意外に早く破られた。

 「勝つ見込みはあるのか。上等兵」

 目を逸らしたくてたまらない――そんな欲望を感じながらも、素子は必死に連隊長を睨み返した。

 「……分かりません」

 お互いの意図を、お互いに読みあう。そんな無意識下の争いを経た後、連隊長は縦に首を振った。

 「良いだろう。では、答えを考える三日の猶予を与えよう。三日後のこの時刻に、またここに来い。その時には、必ず答えてもらう」

 連隊長は、容赦なく踵を返した。

 「答えられないか、負けるかすれば――俺は、即座にお前をこの基地から叩き出してやる。そのつもりでいるがいい」

 それ以上何も言うことなく、連隊長はその場を立ち去った。

 残り二人は、しごく戸惑っていた。素子を気にかけるように、何度も振り返る。だが結局は、仕方なく連隊長に従って去っていった。

 「戦えば良いんですね……」

 この場にいない誰かに、素子は告げた。

 自分自身を征服する方法を考えながら、彼女は司令室を後にする。

  

 

 翌朝。

 素子は、昨晩から一睡もしていなかった。一心不乱に考えを重ねていた――自分の過去のことを。 

 

 いつから、その特異な性質を身につけたのか。まったくの謎だった。

 しかし、記憶にある最初の"異常"は、すなわち小学校での出来事である。

 科目の中の一つ、算数のテストが行われていたとき、素子は見ることが出来るはずのないものを見た。

 その一つは、"テストの答案"だった。自分で問題が解けたということではない。ただ、それが頭の中に見えたのだ。付随して察せられたのは、その答案がその時にはまだどこにも存在していない、ということだった。筆跡からして、教師がその答案をテストが終わった後に作るのだということが察せられた。

 しかも、異常な認識物はそれだけではなかった。

 不正行為をしている級友が、机の中で蠢かせている手。諦めた目つきで、時計を見上げる顔。必死になって、隣席の答案を盗み見ようとしている者の姿――。

 それら全てが、全く同時に見えたのだった。しかもその間中、素子は自分のテスト用紙に目を釘付けにしていたにもかかわらずだ。

 何故そのようなことが起こるのか、当時はまったく分からなかった。ただ、血も凍るほど恐ろしかったことを、素子は覚えている。

 幻覚を見ているのではないか、発狂したのではないかと思ったからだ。

 しかし、さらに不思議なことがあった。

 そのようにして視えたことが、すべて偽りなき真実であると、いつのまにか確信できたのである。今になって考えれば、それは本能のなせる業だった。ともかく、そう思えるようになってからは、恐怖はだんだんと減少してくれた。

 ただし、入れ替わりに別の気持ちが芽生える。

 (当然、そんなものが見えたのは私だけ……)

 自分ひとりだけが、様々なことを見知ることができる。そして、誰とも共有することができない。異常な事態を、自分ひとりで受け止めなければならなかった。

 それは、小学生には苦しいことに違いなかった。だが、誰にも話せることでなかったので、彼女はだんまりを決め込んだ。その上、元々あがり症でもあった。

 素子は、次第に他人と距離を作るようになって行く。

 誰かと親しくなることはあっても、親友と言えるまでになることは皆無だった。どの他人にも理解されないというのは、とても寂しいことには違いなかった。

 そうして、彼女が16になった年。その夏の初めごろ、素子はまだ学校にいた。

 徐々に戦況が悪化し始めたことが、原因だったのかもしれない。ナギナタに入隊する素養を持った人間を、世界中で血眼で捜索し始めた時期だった。

 学校には、いわゆる健康診断という行事が存在した。その初夏は、ちょうどその健康診断が学校で行われた。

 その中には眼下検診、すなわち目に異常がないかどうか確かめるための調査も含まれている。他の無数の学生たちと同様、素子もその検診を受けた。 

 自分の三つ前に並ぶ人、二つ前に並んだ人、そして眼前で診察を受け終わった人にも――特に異常は発見されなかった。目に病気を抱える人の割合は、そう多くない。退屈が当たり前であるかのように、診察の時間は流れた。

 自分もその流れに乗っているのだと、素子は何の根拠もなくそう確信していた。

 しかし、実はそれが全くの大間違いだったのである。

 素子の眼球に、とある"異常"が発見された。そして、病院にいかなければならないことになったのである。

 それがある経験につながるとは、当時の素子は露ほども思っていなかった。

 

 そこまで思い返して、さらに続きをなぞろうとするのだが。

 素子を邪魔するかのように、個室の扉が叩かれていた。

 「ワーリャかしら」

 寝床から、ゆっくりと――さすがに、全く睡眠しないのは体にこたえた――身を起こす。が、自分で扉を開きに行ってやる気力がない。

 「どちら様?」

 素子は聞いた。壁越しに、女性の声が返事をしてくる。

 「マリイです。少し用事があるんだけど」

 やけに気さくな感じのする物言いだった。

 (マリイって……あ。昨日の、オペレータの人か)

 「どうぞ」

 素子が許可すると、マリイは直ちに入ってきた。悪意のない微笑みを見せている。

 「こんにちは。今日もいい天気ですね」

 「そうですね……」

 言葉につまり、素子は下を向いた。

 (何でこんな時に来るのかしら……)

 素子の困惑など歯牙にもかけず、マリイは言った。

 「ちょっとお目に掛けておきたい物があるんです。今、お時間いいかしら?」

 「……ええ」

 「それはよかったわ。じゃ、ちょっとついてきてくれる?」

 告げて、マリイは背を向けた。

 (……私が悩んでるのを、察してないこともないだろうし)

 素子は、心中でぼやいた。

 彼女の人柄はまだ未知だったが、とても性格の悪い人種には見えない。わざわざ邪魔をしに来たはずはなかった。

 (まあ、行ってみましょう)

 マリイの背を追って、素子は個室を出た。

 

 連れてこられたのは、戦闘機の格納庫だった。

 格納庫とはいっても、そこらへんのものとは規模が違う。この基地の司令室とは反対に、横と奥行きが広い構造となっている。

 何人もの整備士や技術者が、忙しげに動き回っている。彼らを邪魔することないよう、地上数メートルのところに空中通路が設けられている。二人は、そこを訪れていた。

 マリイの後姿を見ていると、素子はふと昨日の司令室を思い出した。

 「あの、篠崎さんはどうしているんですか?」

 「彼はね。彼は今、他の子たちの仕事で忙しくしてます。新戦隊を発足させる準備だとかで……。何をやってるのやら、私にはさっぱりわからないんだけど。あんな面倒そうなことがよく出来ると、いつも思ってるの」

 マリイはシャイな笑みを見せた。

 彼女ほど人当たりのいい人間に、素子は会ったことがなかった。しかし、その人格をたっぷりと賞味する気分にはなれない。

 「新戦隊って……」

 素子が入ることになるはずの戦隊のことを言っているのだろう。

 だが、今のところ"戦況"は不利であった。よってそんなことを聞いても、一層ため息が煽られるばかりだった。

 「そこらへんの仕組みは熟知できてる?」

 素子の目を覗き込みながら、マリイが聞いた。

 聞きたくない話題を出され、素子は顔を背ける。自分の無知さ加減を恥じたように見えればいいが、と彼女は思った。

 「いえ、正直よく分かりません。いままで訓練だけに専心してたもので。休む暇がなくて、調べる機会もなおさら」

 「それは気にしなくても大丈夫。でも――」

 マリイは言いかけると、姿勢を崩した。手すりに背で寄りかかっている。天井を見上げながら、彼女は続けた。

 「そんな実用的なことを話して、今あなたは耐えられる? ええっと、最初に聞いたほうがいいかとも思ったんだけど。それでも、ちょっと外に連れ出してあげたくなっちゃって。ごめんなさいね」

 素子は目を逸らしたまま、黙っていた。自分の真下にある戦闘機を無心に見続けるが、その映像は頭に入ってこない。

 (私の考えてることを、この人は分かるの? そうだとしても、この人に代わりに戦ってもらうことは出来ない……)

 マリイの慧眼には驚きではあった。しかし、その目の前の人物に過度に頼るわけにも行かない。内心の苦しみに蹴りをつけられるのは、自分だけなのだから。

 毅然とした自分を主張したいというだけの動機で、素子は答えた。

 「別に平気です」

 「そう。じゃあ、話すわね」

 一応、その虚構を尊重してくれるということらしい。マリイは笑うことはせず、ただ無色の皺を額に寄せた。

 「一戦隊の構成は、ほぼ四人ね。で、スケールの大きい方から言うと、まず基本的に一国には一連隊が配備される。連隊の規模は様々だけど、わが国のはだいたい九十前後の戦隊から成っているわ。普通の軍人さんに比べたら、笑っちゃうくらい少ないの」

 「それは……素養を持った人間がとても少ないということですよね」

 "空軍総合戦闘実技試験"の結果を踏まえつつ、素子はマリイに確認した。

 「ええ。もちろん、それはそうなんだけど」

 マリイは、自分の顎に指を押し当てた。 

 「あなたたちの乗る戦闘機は、とってもデリケートでお金と手間のかかる娘なのよ。"ナギナタはまず国家予算を防衛せよ"、なんて風刺も一時期あったくらい。今じゃ、世論は絵に描いたように真逆だけど」 

 そして、指を空中に転じさせる。指が指し示す階下には、一機の戦闘機があった。

 素子は、それにじっと見入った。

 というのも、その戦闘機は他の機と比べて異彩を放っているからだ。整備のされ方が、信じられないくらい厳重なのである。

 翼や胴の一部が取り外され、すぐそばで点検に回されている。これはまだいい。

 そして、コックピットの部分から何十本というケーブルが延びていた。ケーブルの他端は、周囲の機械に接続されている。

 機械を弄っている者も含めて、その戦闘機は合計して百人にも達しようかという整備士が担当しているらしい。あまりに密集しているので、格納庫に何か巨大な蟻の巣が形成されているようでもあった。

 賞賛と見える笑みを、マリイは蒸気のようにはかなく浮かべる。そして、その兵器の型番を暗唱してくれた。

 「三七式念子管制戦闘機――"揚刃"。あなたがたのお友達ね」

 素子は、そのアゲハとやらを穴の開くほど見つめた。

 その名の通り、翼が鎌のように鋭く尖っている――というわけでもない。むしろ翼は非常に小さいものだった。敵の弾丸を回避するため、それが適した形なのだろう。

 「念子管制戦闘機、つまり"PCF"を一機製造するのには、かなりの手順を踏まないといけないの」

 いかにも憂いを含んだかんじのため息をつきながら、マリイは言った。

 「まず、超能力を持った人間を見つけ出して、最低限の技術を刷り込んでパイロットに仕立て上げる。その次になって始めて、パイロット一人一人に合わせた念子管制機構を作るわけ。これがまた大変で……」

 一度にしゃべりきれないので、マリイは息継ぎをはさむ。 

 「パイロットが予知した周囲の空間と近傍の時間――その状況を電子情報に変換して、最適な値を割り出す装置。これはコンピュータなわけだけど、完全な正解を出そうとすると幾らなんでも計算に時間がかかるでしょ? そうしたら肝心の瞬間が過ぎ去ってしまって、折角した計算が無意味になってしまうことが多いの。特に、空戦は少しの差が大きい影響を生むこともあるしね。だから、虱潰しの計算をする普通のコンピュータではだめなんです。適当にアタリをつけて、無秩序に調べてはまた別の可能性に移るっていう、ファジイな思考法をするものでないと」

 素子は、そう知識が深くはなかった。なので、コンピュータの思考形態の話など、あまり馴染みのない話題である。そんなことを問題にしている人々がいる、あるいはいたということが、自分の無知さをまざまざと告げているようだった。

 ただし、コンピュータという語を抜きにすれば、あるいは分からなくもない。そういった物に、実際に何度も身を委ねたせいかもしれなかった。

 「分かります。何となく……体で理解できる、というだけですけど」

 「パイロットは、別にそれくらいで十分よ。私だって、そこまで詳しいわけじゃないです。ただ――光の速度で迫ってくるレーザーを避けきるにはこの機構が必須、とかね。そういうことが分かってれば、いいと思うの」

 マリイは続ける。

 「って、このまま全て解説してたら日が暮れそうだから止めるけど。とにかく、パイロットを含めて戦闘可能なPCFを一機つくるには、小国の国家予算なみの費用と、年単位の時間がかかるわけね」

 自分がそこまで投資の対象となっているとは、素子は考えたこともなかった。その巨大さに、少々身の程を感じざるを得ない。

 「そうなんですか……」

 「そうなのよ」

 二人は、まさに話題に上っている戦闘機を遠く眺めた。

 (なぜ、そんなに私に期待するの)

 誰といいようもない、世間一般というものに向けて素子は問いかける。

 (素養はあるけど……それだけでは、どうしようもないのに)

 答えは、自ずと明らかだった。いつもの癖で、素子は頭を抱え込もうとする。しかしちょうど、他人の前であることを思い出した。

 だが癖は、すっかり素子の中に根を張ってしまっていた。

 そのせいだろう。わずかな無意識に乗じて、手のひらは上に上がろうと狡猾に蠢いている。

 「なぜ、あなたがそこまで期待されているか分かる?」

 顔を素子に近づけて、マリイは聞いた。ちょうど自分と同じことを。

 こう何度も考えを見透かされると、マリイと思考回路が似ているのか、それともマリイがこちらに巧妙に合わせているだけなのか、分かりにくさを感じる。

 「それは……それ以外に期待すべきものがないからではありませんか」

 「つまり?」

 「え? その……立ち向かう手立てが、私たちの他にはない、から……」

 「それが分かってるなら――」

 マリイは、咎めるような調子で答えた。

 「いえ、お説教じみたことは止めましょう」

 だが、すぐに柔らかい口調に戻った。そのまま微笑んで、告げる。

 「あなたは、悩んでるのね。その地位にふさわしい力が、自分にあるかどうかということを。言いたくなければ、言わなくてもいいんだけど」

 「……」

 素子は黙り込んだ。魂の底まで見透かされていることを、知ってはいる。それでも、体裁だけは守りたかった。自分自身に対しての、口に出すのも嫌になるようなちっぽけなプライドというものを。

 素子は、手すりの上に両腕を敷いた。そこに、顎をすっぽりと埋める。

 「私は、何も素子ちゃんに――こう呼んでもいい?――押し付けたりするつもりはないの。それでも、知っておいて欲しいことがある」

 いつにない、追い詰めるような調子でマリイは言った。

 どんよりと、目線を降ろして――それでいて、素子はマリイを無視していなかった。むしろ、入念に聞き入っていることに、素子は自分で気がついた。

 「あなたは強くなりたいんでしょう……でもね。人には強さなんて、もともとないものよ」

 傾けた背中を元に戻して、マリイは立ち上がった。手すりに腕だけでつかまり、まるで素子がいないかのようにのろく歩み始めた。素子の痛々しさをそっとしておこうという配慮だろうか。

 だが、それを無視して、素子は急に頭を上げた。

 (何言ってるの? 強くなれないだなんて……そんなことがあっていいはず……)

 素子は物言わぬ魚のように、無音の反駁をする。盲目であるかのように目が細くなり、その苦しみを注ぐためにマリイの方をにらんだ。

 しかし、それを言葉に出すほど気丈にもなれない。

 マリイはそんなことを気に留めもせず、自分の言いたいことを言い続けた。

 「分からない? 人の心そのものはずっと弱いまま。強く見えたとしたら、それは強い振りが出来るだけの話だってことが」

 半歩、一歩と、次第に隔てを重ねていく。マリイの声は、だんだんと音量を失っていった。

 しかし、どれだけ洗っても落ちないほころびのように、彼女の言葉は、素子の中に波紋を生じさせていく。

 「考えておいてとは、言えないようね。少し残念」

 薄もやのように静かな、遥かな言葉が素子に掛けられた。

 「でも、そう……頭に入れておいてもらえればいい。あなたが、それを自分でどうにかするのが大切なんだし……」 

 いつの間に移動したのか、マリイは既に素子のそばにいなかった。彼女は、ちょうど素子と反対側の空中通路にいた。二人の間には、何もない空間が漂っている。決して目覚めをもたらすことなく。

 「あなたと会うのが遅くなかったことを祈ります。さようなら、素子ちゃん」

 マリイは、素子の答礼を待ちもしなかった。

 置き去りにするというよりは、むしろ使命を託すかのように。背を向けて、彼女は立ち去っていった。

 「何を考えろって言ってたの?」

 素子は立ち尽くす。

 マリイと話す前よりも、いっそうわけが分からなくなっていた。

 許容量以上の標的を示されたように、頭がうまく整理されていない。考えれば考えるほど、手がかりや足かせが体にまとわりつくように感じる。

 (人は強くなれないって……それは、あなたの思想じゃないの)

 素子がそこまで、自分に確かめた時。

 突如、こめかみの部分に激痛が走った。赤熱した釘に貫かれたような、凄まじい不快感に襲われる。頭蓋を通って痛みは頭を覆いつくし、そして内部に浸透していった。

 「ぐぅっ……」

 高さと低さの入り混じった呻きが、飛び出してくる。

 それは、経験したことのない症状だった。本当にだれかに攻撃されているのではないかと思い違うほどに、信じられない刺激量である。

 我慢することなど一瞬も考え付かず、素子は頭を両手で覆った。力を加え、握り、またさするものの、何の効果もない。

 足に力が入らない。膝から地面にくずおれていく。

 (今は、確かに……だめかもしれない……けど、ずっとこのままでいるつもりは、ない)

 そうして抵抗を試みる。だが、意思は無意味に拡散していった。

 たまらず四つん這いになる。それでも痛みは引かず、素子は横向きに倒れた。体が地面につく前に、意識は失われていた。


 医者の検診によると、素子の頭痛にはいろいろと原因が考えられるらしい。念子管制を使用するに当たっての脳への膨大な負担がひとつ。

 特殊な素養があるとはいっても、人間の脳は本来そういった能力に対応した構造になっているわけではない。不自然な力を使えば、どこかで反動が来ることになる。

 しかし、それだけではない。ここまで酷い痛みが生ずるのは、別の原因もあった。

 (こんなになっても、まだ答えが出せないの?)

 素子は、ベッドの上で動けないでいた。

 倒れてから、通りすがりの軍人が医務室まで運んでくれたらしい。そのときから何時間も経過し、もはや真夜中になっていた。だが、頭痛は収まりきってはいなかった。脳を直接削り取られるような感触が、目覚めてからずっと続いている。

 (それとも、もう考えたくないの……?)

 素子は、深く目を閉じた。

 (でも、考えるのを止めたら、死んでるのと同じだわ)

 暗闇の中、見えるものもない。

 おかげで、思考は深淵を漂っていながら、それでも澄んでいた。はっきりと、積み木のようにひとつひとつ積み重ねていく。

 (まだ死なない……死にたくはない)

 そういった根源の欲望まで動員し、素子はどうにか正気を保っていた。

 (じゃあ、考えましょう。もう……私はとても駄目かもしれない、けど)

 掛け布団の下で、素子の肢体は寒さに打ち震えた。気温が低いはずもない。それでも震えたのは、体の心から湧き出る冷えのせいだった。

 自分が静かに干からびていく。そんな妄想を振り払い、素子は自分の胴に腕をまとわりつかせる。

 (ああ……苦しい、苦しい……)

 徐々に頭痛が勢力を盛り返してきた。

 それに伴い、正常な思考力は蒸発していく。その進行を、もう止められない。経験上、身にしみて分かっていた。

 何もかもが、嫌悪の対象となっていく。

 戦いのことや世界の危機、軍隊、自分とともにいた人達、そして自分自身も。

 (やっぱり決められない。答えは出せない……)

 素子は、軽々しく自分を捧げられるほど献身的ではなかった。

 ただ恐ろしかった。

 強さというものがうらやましい。あまりにも高貴すぎる自分の命を、喜んで差し出すことなど自分にはできない。素子はそう感じた。おぞましいという感想すら覚える。

 捲土重来の痛みに対して、身動きがとれず。

 夢とも現とも知れない理性の支流を、素子は自ら絶った。 

 

 広すぎる空漠の中に――たった一人だけ。

 仲間を持たずに、素子は立ち尽くした。

 (あれね)

 三日前に連隊長に言われた時刻に、彼女はまた司令室を訪れていた。間もなく、見覚えのある大柄な男を見つける。こちらに背を向け、誰かと話していた。マリイも脇のほうに控えていたが、篠崎といったマネージャーはいない。人数が少ないからといって、こんなことが話しやすくなるわけでもないが。

 とっくに意を決したはずだった。

 とにかく、答えるべきことを答える。素子はそのつもりだった。

 (やれるだけは、やってみましょう。私は嘘は言えない……だから、結局なるようにしかならないもの)

 三日間の憂鬱と煩悶で、素子の体はどこか調子が狂っていた。ただ体力が減少したというだけでない。

 一歩前に踏み出すたび、徐々に歩幅が短くなる。体全体がどうにも重く、あまり動く気になれなかった。動けないというのではなく、動かしにくいのだった。

 それにもかかわらず、距離は確かに縮まっていく。

 やがて、声をかけても良いところまで近づいた。

 (さて……)

 素子はすでに、心の準備を終えていた。覚悟はなく、諦めがついたということでもない。ただ言わなければならないことを整理した。

 ちょうど、連隊長は会話を終えたようだった。相手をしていた人物が立ち去る。

 「槇嶋連隊長」

 苦痛の呻き以外の言葉を発したのは、およそ一日ぶりだった。そのせいか、声はひどくくぐもっている。

 にもかかわらず、連隊長は振り返った。

 目が合う前に、素子は敬礼した。

 「来須素子上等兵、出頭しました」

 マリイがちょっと微笑んで見せたが、むしろ目を逸らした。素子は樹のように直立する。

 連隊長は、咎めるように眉をひそめた。短く答礼してから、口に出してきた。

 「来たか」

 筋肉で固まった上体を、彼は憤然と反らした。不満を隠そうともしていない。

 「お前が来ないことを期待していたのだが……そうか、来たか」

 こちらの気勢をわざわざ削ごうとしているのかもしれない。

 が、素子はそんなものには動じなかった。彼女が恐れるものはそう数多くはない。その代わり、恐れればそれが大きく膨れ上がってしまうのだが。

 怯まず、答えもせず、素子は前を見据え続ける。

 「目を見れば分かる。そいつがどういう心持でいるかは、な。特に弱者だ」

 まさに素子を脅そうとしているらしく、連隊長は凄みのある声で言った。 

 「弱い奴ほど、虚勢を張りたがる。特に目の動きだ。誤魔化そうとして、目を飾る」

 刃物を突き立てるがごとく、連隊長は一言ずつ言い放った。一片の容赦もない、凄まじい言い様である。

 暗に、素子に告げていることは明白だった。


 だが、それが分かったとてどうしようもない。出来る限り気に留めず、素子は言った。

 「本題に入っていいでしょうか」

 冷ややかな声に、連隊長は動じもしなかった。先に喧嘩を売ったことくらいは承知しているらしい。憮然と腕を組み、答える。

 「いいだろう。言え」

 「はい」

 素子は大きく、といっても傍目からは分からないように息を吸った。

 (あれだけ悩んでも駄目なら、もうなるようにしかならないわ。言うべきことを言うしかない……)

 そして、事前に準備しておいた言葉を述べ始める。

 「防衛のために自分を犠牲にする覚悟があるか、私情を捨て去り全体のために戦う覚悟があるか――おおむねそういうことを、連隊長は私にお聞きになった。それでいいでしょうか」

 目を閉じることなく、直立不動の姿勢で、眼球だけを動かす。腰掛けた連隊長に目線を刺した。

 だが、それはまったく影響をおよぼしてはいないようだった。 

 「それで間違いない」

 「はい。私は、答えを出す時間を頂きました……」

 まぶたを閉じ、寝言のように答える。ただし、意識と夢の狭間から奏でる声だった。

 「結論から言うと、答えは出せませんでした」

 瞬間、周囲の空気が凍りついた。

 芝居か、それとも真の怒りか。言った途端に、連隊長の目元の皺が生き物のように動いた。頭に血が上ったか、顔がだんだんと赤みを増している。いまにも素子の首根っこを掴みかねない様子だった。

 主導権を奪われないうちに、素子は続けた。

 「私は、軽々しく自分の命を捨てる気にはなれません。だから、自分を犠牲にすることは、いくら考えてもまっぴらです」

 素子は、凛とした風を必死に装った。

 「私は自分に嘘をつけません」        

 徐々に、だが確実に語気を強めていく。

 「私はそれでも、ナギナタを去るつもりはありません。それどころか、立派に戦っていく――そういうことができるつもりでいます。自分の命を投げ打つことは、戦うのに必要と思いません。連隊長とは意見が違うみたいですが……」

 「うむ。続けろ」

 連隊長は急かした。

 「戦うのに必要なのは、技術です。私がどういう気持ちでいようと、私さえよければうまく戦えるはずです。それと……あと三つばかり、付け足しがあります」

 素子は、尻のポケットから紙を取り出した。折りたたまれたそれを広げ、連隊長に見せ付ける。

 「前の実技試験の結果です」

 当然、素子からは裏になっていて、表に何が書いてあるのか見えない。しかし、見えずとも記憶に頼れば分かった。

 「総合評価は96.5です。それに、素養を持った人間でも被弾ゼロを叩き出すのは難しい」

 ほのかに得意気を匂わせて、素子はいった。

 「世界最高の能力者、アラン=フィールドですら、その数値は98に満たないと聞きました。これなら、私は戦いに耐え得ることは確かじゃありませんか」

 「言っておくが、それは既に拝見したぞ」

 連隊長は、ニコリともせず口を挟んだ。

 「能力を把握せずに、そもそも候補者にするとでも思ったか? おまけに、それは一般のパイロットと同じ課題のはずだ。能力者の間では、もともとたいした差はつかない。それに、その数値がお前より低くとも、勲をあげている者はいくらでもいる。そんなものは、実力の担保にはならん」

 冷酷ないい様だった。

 (思慮不足だったかしら……)

 素子は顔が赤らむのを感じる。それでも、気を取り直して次の言い分に移った。

 「次に。……私という超能力者が存在していることは、すでに社会に知られていることです。私はあの人の――」

 自分の家族を持ち出すことに、ためらいを感じざるを得なかった。情けなくもある。

 唇を閉じ、言葉を詰まらせる。

 しかし、言い出したことには決着を付けなければいけない。素子はゆっくりと告げた。

 「――念子管制技術の創始者、来須博士の娘ですから」

 何年も会っていない父親の名。今はそれを無視して、素子は続けた。

 「今は……戦力が不足しきっていると聞きました。この状況で私を起用しないとなれば、大衆の皆さんはどう思うでしょう。私に費やされた膨大な費用が、全て無駄になったと考えるのでは?」

 「貴様、上官を脅迫するつもりか?」

 堪忍袋の尾が切れたようだった。

 連隊長は、椅子を思い切り蹴飛ばす。死体が墜落したように鈍い音をたてて、椅子が横向きに倒れた。

 そのままの勢いで、連隊長はこちらに詰め寄る。巨体の割には、驚くべき敏活さである。あっという間に、素子の軍服の襟を握り上げた。

 かすかに気道が狭まる。素子は、苦悶の唸りを発した。

 その間にも、連隊長の顔が目の前まで近づいていた。耳を塞ぎたくなるような大声で、怒鳴り散らす。

 「それが貴様の言い分かっ。他人に頼ろうとするな、軍人の風上にも置けん奴が!」

 あまりの大音量のせいで、司令室中が水を打ったような静寂に包まれた。

 流石に失敗したと悟り、素子は言葉を詰まらせた。それにもとより、声の出しようもない。

 「質の低い人間がいるとな、周りもそいつに影響されるんだ。お前の弱さが、お前だけの問題でなくなる。全体に負担をかけることになるんだ!」

 連隊長は、素子を吊るし上げかねない様子だった。

 素子はうつむいた。たまらなくなり、謝罪の言葉を発する。

 「すいませんでした……馬鹿なことを口にしました」

 それでも、司令室は湖のごとく静まり返っていた。そこに素子は、更に数石を投じる。

 「……出来れば、聞かなかったことにしてもらえませんか」

 連隊長は、まぶたを閉じた。肉厚の顔の表面が、老練にうごめく。

 何も言わないので、素子は恐れを禁じ得なかったが――まもなく、彼は口を開いた。

 「いったい、何度猶予を与えさせれば気が済むのだ……だが、まあいい」

 連隊長は、素子の襟首から手を離した。

 わざわざ椅子を立て直してもう一度座る気にはなれないらしく、その場に仁王立ちになる。

 「さっさと最後まで言うがいい」

 素子は、密かに胸を撫で下ろした。

 (危なかった)

 連隊長にを畏怖する気持ちがせりあがってきたが、そんなことはおくびに出さなかった。びくびくした様子を見せたら、それこそつけこむ隙を与えてしまうことになる。弱者の烙印を押され、ここから放り出されるだろう。

 (何とか、入隊を許可してもらわないと……)

 覚悟を決め、素子は言った。

 「これで最後です」

 司令室は、すでに喧騒を取り戻している。が、いまだこちらを熱心に観察している人々もいた。これほどの口論が交わされるのは珍しいのかもしれない。その騒々しさは、素子の責任ではないのだが。

 (どっちにしても、これで言い合いはお仕舞いよ……!)

 祈りと賭けの儀式を同時に執り行うつもりで、素子は最後の仕上げにかかった。

 「今は、命を投げ出す決心がつかない――そういうことを、私は答えました。ですが、まだ続きがあります」

 軍服によった皺を手で直し、余裕を見せ付ける。が、そういったことは全て見抜かれていて、結局逆効果であることを悟り、急いで止めた。 

 連隊長の眉根が、ピクリと動く。

 「今、それがないのは確かです。でも、ずっとそのままでいるつもりもありません」

 少ないと思われる意思の力を、最大限に結集させる。

 この場から逃れたいという安直な欲望に、対抗するためである。自分にほとほと嫌気がさした。だが、それでも自分を前進させなければならない。

 「実際に戦うことで、成長していけると思うんです。今の未熟を補えるくらいに」

 素子は、自身の大胆さに冷や汗をかいた。嘘をついたとは思っていなかった。しかし、声に出してみると、その発言を現実のものにするには、恐ろしく険しい工程を踏まなければいけないことが、本能的に、直感的に察せられたのである。

とりわけ、理想と現実のギャップを考えてみれば。

 ともかく、嘘はついていないという事実だけで、素子は自分の正当さをつなぎとめた。

 と、連隊長が口を挟む。

 「成長、か」

 連隊長が憤怒を面に表していない。そのような状態を、素子はこの日初めて見た気がした。

 吟味に吟味を重ねた後、ついに口を開いた。

 「その意気やよし、といったところか……。しかし、俺は成果の出ない努力には満足せんぞ」

 言って、眉間に深い皺を寄せる。固く結んだ唇の端が、かすかに上がっていた。単なる微笑というよりは、苦笑に近い笑いだろう。

 「そんなことが出来るというのか」

 「最善を尽くします。これならば、何があっても約束出来ます」

 「信頼がなければ、約束は成り立たんよ」

 連隊長は、無情に吐き捨てた。

 「果たして、貴官が信用を示す機会があったか?」

 冷笑に化けさせた顔で、素子を見据えてくる。

 流石に傷ついて、素子はうつむいた。この上、視線を外さずにいられるほど強くはなかった。

 「それは……」

 手のひらをへこますほど強く、こぶしを握り締める。

 それ以上、言うことが見つからない。もはや完全に種切れであった。

 (私は間違ってた? こんなことになるくらいなら、質問なんて適当に切り抜けておけばよかった……。でも、もう遅い)

 自分の決断を悔い、恨み、素子は歯をきつく食いしばった。

 しかし根拠なくとも、自分を否定できない。同じことを繰り返した。

 「私は、出来ます」

 「ふん」

 素子が言い終わらない内に。遮るかのように、連隊長はわざとらしく息をついた。非難げなニュアンスを落とすことはしていない。

 「よくもそこまで食い下がったものだ。だが、もういい」

 その言葉に、素子は息を呑んだ。もはや連隊長に承認されることはかなわず、即座に基地から放り出されるのではないかと思ったゆえに。

 知らないうちに、身がこわばっていた。多分、いままでずっとそうだったのかもしれない。しかし、今それに気づいたのだった。

 (もう駄目……?)

 意思が折れていく途中に、それすら遮るかのように連隊長が言った。

 「貴官の処遇は、おおよそ決まった。指示あるまで待機しておけ。が、そう待たせはしない。明朝にははっきりと身の振り方が分かるだろう」

 思わず、素子は訴えた。

 「そ、そんな――」

 その訴えは完全に無視されたようだ。

 反論の隙も、答礼も与えず、連隊長は立ち上がった。もう何も言わず、あっけなく離れていく。

 「くッ……」

 気がつくと、素子は走り出していた。何をしようというあてもないはずなのに。

 無意識にしたのか、あるいはそうせずにはいられなかった。

 (追い出されたくない……ここから追い出されたら、私にはいるところもない)

 幼少のころを思い出し、胸が痛むのを素子は感じた。身の置き所もなく、たった一人でいるしかなかったことを。

 命を捨てるのも恐ろしかったが、それと同じくらい独りの味はおぞましいものだった。もう、そういう状態に陥りたくはなかった。

 程なく、連隊長に追いつく。手のひらいっぱいを使っても包みきれないほど筋肉質の手首をつかみ、引き止めた。

 「待って下さい、まだ話があります!」

 実際には話すことなどないのに、どこからそんな言葉が出てくるのか――分からないまま、それでも素子は連隊長に詰め寄っていた。崖を這い登るかのように、岸に這い上がるかのように、後先など考えず本能に任せた必死の縋りである。

 虫に刺されたほどにも感じないというのだろうか。

 連隊長はうるさそうに振り返り、目を細めてにらんだ。この上なくいやったらしいものでも目撃したかのごとき、嫌悪の情を露にしている。

 「黙れ、いい加減にしろっ。貴様の言い分は終わったはずだ。嘘を吐くな、このメスガキが!」

 口角泡を飛ばすほどの轟々たる調子で、素子を怒鳴りつける。先ほどまでとは趣を異にした、完全に侮辱のみを目的とした言葉だった。少なくとも、素子にはそう思えた。

 そう言われても仕方ない。

 「っ……」

 反論の糸口すらつかめず、素子は顔を下に向けた。情けなさから、とても相手をまっすぐ見詰めることは出来ない。

 ほとんど殴られることすら覚悟して、素子は身を固め、歯を食いしばった。

 が、それは杞憂だった。

 怒りに猛る猪のような足音を立てて、連隊長は司令室から出て行ってしまった。

 その部屋の軍人や職員から不信と憐憫の眼差しを受けながら、素子は動く気力もなく、しばしその場に立ち尽くしていた。

  

 地中深く潜ってゆく螺旋階段のように――数え上げれば切りのない、声なき叫びと音なきもがきを、素子は発していた。夜を徹したそれを受け止めたベッドは、握りつぶした皺と、種種の液体の痕に、呪われたように彩られている。

 素子はベッドにうつぶせになり、顔を深く埋めていた。その姿勢で息を吸い込むため、何度も喉を詰まらせそうになっている。だが、本当はそうなることを望んでいるのかもしれない。

 (そうなるなら……勝手になればいい……)

 身じろぎする気力も、ましてや立ち上がる気力もなく、呪詛を吐き続ける。

 素子は、完全に自暴自棄となっていた。心が乱暴に研がれ、嘆きとともにやり場のない絶望感と無力感が生まれる。これを自傷と言わずして何と言うのか。素子は問う力を持たなかった。

 不透明な果てない海に侵されていく。延々とそればかりを、素子は繰り返していた。

 「あの……ご主人様……」

 と、素子を呼ぶ声がする。ワーリャの声だった。

 従兵というのは奴隷ではないので、夜は上官の前から退いている。朝になり、たった今その上官の部屋に来たのだろう。素子は顔を伏せていたので見はしなかったが、明らかに困惑した調子ではある。

 しかし、わざわざ上体を起こす気にもなれない。素子はくぐもった声で従兵に命じた。

 「しばらくそっとしておいて。……出てきたばかりでなんだけど、もう下がっていいわ」

 「でも……」

 従兵が不安げに身じろぎするのが分かる。そこにとどまっていたいらしかった。

 昨日の出来事のせいで、素子はいままでにないほどとげとげしくなっていた。すばやく身を起こし、単純な感情に任せて怒声を発する。

 「下がっていいと言ってるでしょ。早く出て行って頂戴……出て!」

 その金切り声が、個室中に響いた。おそらく、隣の個室にも聞こえただろう。

 そんな自分のヒステリックに、素子は我ながら愕然となった。

 (これじゃまるで、子供じゃない。当り散らしたりして……)

 自らの弱さを再認識し、素子は胸が悪くなる感覚を覚えた。ともかく、泣きそうに瞳を細めているワーリャに、あわてて取り繕った。この少女に醜い精神の有様を見せ付けるのは、酷に過ぎる。

 「いえ、ごめんなさい。すべて私のせいよ。あなたは悪くない」

 素子は言って、羊毛のように柔らかいワーリャの髪を乱した。

 「けれど、今はひとりにしておいてくれないかしら……」

 先ほどよりは弱い言葉を選ぶ。

 が、ワーリャは首を横に振った。

 「でも、あの……お手紙が……」

 そして、片手に握った封筒を素子に差し出す。どうやらショックのせいで握りつぶしたらしく、ややつぶれていたが。

 「あ。手紙、だったのね。何か早とちりしていたわ」

 そう平静を装ってはいたが、心中では不安が波濤のように荒れ狂っている。

 連隊長の言っていた『身の振り方』とやらが、この手紙に書かれているのだろう。昨日からシミュレートし続けた状況が現実に再現される感覚は、念子管制を使用する際のそれに酷似していた。あまりにも確かで、どんなに不安定でも信じられそうな、知らせの招来に。しかし、外面が似ているだけで本質は天と地ほどに異なっていた。

 (これで、本当におしまい……)

 そう短くはなかった軍人生活、そしてナギナタに所属した一週間に満たぬ短い期間に思いを馳せる。しかし、思い出は今何の役にも立たなかった。封を開ける手の動きを鈍らせるばかりで……。

 そうして手紙を開き――そこに書かれた文面を、素子は目の当たりにした。


 「オールチェッククリーン。発進許可を求める」

 にじんだ視界が、震えるほどの歓喜を染み込ませていく。両の眼から、熱のように、全身へと。

 見えにくくとも、素子は不十分を感じることはなかった。むしろ、故郷を訪れたかのように満ち足りている。

 座る場所がある――ただそれだけのことで。

 『許可を与える』

 無線を通じ、オペレータのマリイが許可を出した。

 刹那、右手を壁の方に伸ばす。リズミカルに親指を振っては移動させ、ずらりとならんだ釦を次々と求める方向に倒していく。

 最後に、頭の方に手を伸ばした。

 そこでは、幾本ものケーブルが幾重にも折り重なり、頭を覆う電子兜に接続されている。頭をわずかに身じろぎさせるだけで、それらが風に吹かれた植物のように揺り動いた。

 兜の側面に付けられた、ある重要な釦を倒す。

 途端に、低い虫の羽音のような音が機械から鳴り響いた。念子管制機制が作動する音。機械の呼び声に応ずるように、素子の脳からはある物が湧き出し始めた。

 現代科学では解明されない粒子――念子である。正確にいうならば、粒子という表現も誤っている可能性もあった。それは大気中に、障害物に妨げられず浸透していく力もまた、持っているからである。従来の意味での粒子に、そのようなことを期待することは出来ない。

 何にせよ、それは泉のように豊かに湧き出した。素子の後頭部に人工的に穿たれた接続孔を通して、それが電子兜、ケーブル、戦闘部の機械部へと送られる。

 素子の命令を含んだ念子の奔流が、戦闘機に命を吹き込んだ。

 機体のあちこちに装備されたクイック・ジェットエンジンが稼働する。全てが機体後方を向き、そして熱を持った大気を雄雄しく放出した。

 『カタパルト機動完了――』

 機体が六十度ほど傾く。前方に雲を臨み、射出機による後押しを待つだけの状況だった。

 『発進十秒前……九……八……七……』

 いとわしい染みの掃討された空に、麗たる蝶の羽ばたきを素子は夢想する。

 (あなたは、そんな風になりたいの?)

 空も自分も、いまだそれほどに美しくはなかった。しかし、自分だけは、美しく思える瞬間もある。もっぱら、素子の能力ではなく戦闘機の性能により感じられるものだが。

 『六……五……四……』

 マリイの読み上げを意識して、素子は目をそっと閉じた。すでに働いた念子の波が、あらゆる情報を伝えてくれている。視覚は要らない。

 (なら、なれるでしょう。でも、もっと訓練を積まなければね)

 念子と意思だけを友として、素子は暗闇を見据え続けた。

 『三……ニ……一……』

 季節の訪れを悟る虫のように、素子は加熱する念子に動力の蠢動を命じた。

 『発進せよ』

 エンジンの推力と射出機よりのガス圧で、機体はレールの上を滑り出す。ほんの一瞬の間にスピードが上昇した。

 (やっぱりこれは、懐かしい……)

 戦闘機が力を得、実際に空中に飛び立つまでのわずかな時間。それは確かに短いけれども、しかし爽快だった。

 素子は身震いする。

 その瞬時の恍惚を吐息に込め――遠くを目指して、戦闘機と共に虚空に飛び立った。


 連隊長から送られてきたあの通達には、気が狂いそうになった。


 まず、それを開封するまでの懸念が一つ。あれだけ本気で悩んだことは、素子にもあまり経験がなかった。

 数年前、戦線が大幅に後退したというニュースを聞いたことがある。その時ですら、今ほど悩みはしていない。

 軍から"即刻解雇される"というのは、実は素子の思いこみだった。連隊長の脅迫的な言い方を聞けば、そう思い込んでしまっても元々無理はないのだが。

 「あのゴツい男、人が悪いわ……」

 極めてささやかな罵倒語を、素子は口にした。もちろん、無線に音を拾われないような小声である。

 結局、素子は解雇を免れて、今現実に戦闘機をあてがわれている。連隊長も、本当に人の言うことをまったく聞かないというほど頑固ではなかったらしい。素子の言い分を、多少考慮に入れたということだろう。

 しかし、あくまでもその譲歩は多少のものでしかなかった。

 実際にナギナタに入隊を許可するのに、さらなるハードルが与えられたのである。迷いを抱いている人間を、タダで戦場に送り込むわけにはいかないという説明がなされた。

 それは納得できるし――。

 その上、素子はいま血気に溢れている。収穫したての果実のように、つつけば汁が噴き出しそうなほど。解雇という事態を免れた所為かもしれない。

 いわゆる、希望というものに溢れているのである。他人にそんなものが訪れたら、素子は大げさと感ずるに違いなかった。しかしこと自分に関する限り、人は客観的に判断できなくなってしまうらしい。一時的な精神の高揚であるということを、知識で知っていても体は聞きもしなかった。

 (まあ、気を入れすぎないように……)

 ふと、素子は念子の流れに自分の意識を向けた。

 可感圏内の端――すなわち自機の十㎞ほど前方に、戦闘機が一機出現している。近未来予知機制はまだ起動していないので、その戦闘機の存在をあらかじめ知ることはなかった。まさに、今この瞬間の邂逅である。

 自由に方向を調節できるエンジン部、弾丸を避けやすい小型の翼、機体背部の特殊兵器射出口など、素子が訓練で戦ってきた旧型機とはどこか異なる。まったく別の運用思想にもとづいて作られている、ということが否応なく窺えた。

 ("揚刃"……)

 つい先日、マリイに教授された型番を反芻する。

 (他人の視線で見ても……確かに綺麗ね)

 優美なフォルムを備えたその戦闘機は、紛れもなく素子の乗っている機と同型であった。建造と整備に莫大な労力を要する、贅沢な機体。翼が小さいため、蝶というにはややスリム過ぎる。慣れたその姿を、今ここで見間違いようもなかった。

 『素子ちゃん、聞こえる?』

 マリイが通信を入れてきた。

 「聞こえます、マリイさん」

 『よろしい。さて、今から模擬戦闘をやることになります。相手になってくれてるのは、あなたと連隊を組む予定の一人よ。素子ちゃんが勝って、入隊が許可されたら――後で近づきになっておいてね。これから仲間になるわけだから』

 「はい。勝てれば、の話ですけど……」

 と言って、素子は脳に軽く意識を集中した。意思の力を電子兜に送り込み、指向性ある波の形に練り上げる。

 念波である。念子が波のような性質を持つように変化した物だった。

 念子は、特殊な技術の施された導線しか伝わっていかず、機体の管制にのみ利用される。

 一方で念波は、大気中を比較的遠くまで伝わることが可能である。しかし減衰が激しいので、探知可能な領域は100㎞にも満たない。1000㎞単位を長躯することも少なくないナギナタに、これは十分な距離とはいえなかった。したがって、長距離の探知や本部との連絡などは、伝統的な電波を使っている。

放射された念波が目標に到達すると、不可解な現象が生ずる。

 電波の場合、手に入れた情報を引き渡すには、当然電波が来た道を戻るということが必要である。念波の場合、特異なことに、この行程は必要でない。

 波が目標に到達した瞬間、まさにその瞬間に、情報が念波の発信者のところまで一瞬でテレポートするのだ。

 必然的に、光の速度よりも早く情報が伝わるということになる。この念波と電波、それぞれの情報伝達のタイムラグを利用したのが"近未来予知機制"である。

 生物の超自然的能力と、現代科学技術文明に対し、素子は深い感謝の念を抱いた。その恩恵に与るため、まさに念波を放とうとするが――。

 『あと注意すべきなのは、今回は未来予知を使ってはいけないということなの』

 突然の警告だった。

 ちょっと呆気にとられて、素子は目をぱちくりさせた。放ちかけた念波を慌てて止める。 

 「な、何故ですか?」

 『いえね。ちょっと考えてもらえば分かると思うけど……ナギナタ同士、お互いに相手の行動を予知しあったらどうなると思う?』

 「あっ」

 素子は小さく叫んだ。

 「相手が予知することそのものが、未来に影響を与えてしまう。だから、正確に未来を知るには、自分はもう一度予知しなければならなくなる。同じことが相手にも言える――そういうことですか」

 『その通り。いたちごっこの予知しあいになって……しまいにはコンピュータがパンクしちゃうのよ。だから予知は禁止ね』

 「禁止……」

 素子はオウム返しに答えた。

 慣れた便利な道具を使えないと言う状況に、素子は愕然とせざるを得なかった。

 自分の頭を使わなければいけないということに気づく。特に奇抜な対策があるわけでもない。

 素子は急速に心細くなった。

 (これなしで大丈夫なの、私?)

 のろのろと電子兜に手を伸ばす。あるコンピュータのスイッチを、おもむろに落とした。

 「まあ、しょうがないです」

 『そうなのよね。今日は我慢して頂戴ね』

 少しばかり弾んだ声で、マリイは告げた。どうやら、この状況を楽しんでいるらしい。

 (こっちは必死だっていうのに……)

 『さて、そろそろ始めてもらいます』

 人事のように気楽な調子である。そしてもう付け加えることはせず、マリイは無線を切った。

 (いい気なもんね)

 素子は、軽く毒づいた。が、愚痴を聞いてくれる相手もない。そもそも――軍人生活に入ってから、そんな相手はほとんど一人もいなかったということに気づく。

 いつもなら、いちいち自分を傷つけている所だった。しかし、今はとてもそんな余裕はない。被弾を抑えるには、自分の判断力だけが頼りになる。雑念は消しきれないけども、とても邪魔だった。

 (うじうじするのは後にして……)

 まだ見ぬ敵との戦端を開くため、戦闘機に対して前進の意思を送る。

 だが、敵の方が一足早かった。

 もう一機の"揚刃"が、三時の方向から視界に侵入してくる。

 (手早いわ)

 素子は無言の賞賛を送った。しかし、それ以上の感想は持たない。

 迎撃の方向に向けて、機体を滑らせる。ほとんど真正面と言っても良い角度から敵に接近してゆく。

 両機の間に、火花がほとばしった。もちろん、実弾ではなく塗料弾だ。しかし素子は、実弾であるかのような圧迫感を感じる。

 念波が、弾丸の数、方向、速度などを極めて正確に捉えている。その情報にしたがって、機体を微調整する。

 機体は錐揉み状に回転し、弾丸は翼の部分に命中することはなかった。戦闘機の横を、弾丸が掠める。

 いつもならコンピュータがガイドしてくれるため、完全に"手作業"でやるのは慣れているとは言い難い。ほんの少し思考が乱れたとしたら、弾丸の群れる空間に横合いから突っ込むことになりかねなかった。その事実を、素子はいたく不気味に感じる。

 その時、頭蓋の芯の部分に鈍い痛みが走った。昨日までいやというほど訪れた、あの頭痛の名残らしい。

 「痛ぁっ!」

 頭ががくんと下がる。

 歯を万力のように締めて、少しでも痛みを緩和しようとした。だが、それは気休めにしかならない。涙を誘うほどの痛みが継続している。

 操舵にまわしている意識の流れが不安定になった。痛みへの心的反応が、たとえ一瞬でも指令を中断してしまう。その空隙の時間に、機体は重力に引きづられた。翼が、水平の安定状態に近づく。

 「しまった……」

 激痛の井戸の底から、素子はむなしくうめいた。

 予想と異なる位置に存在してしまった翼に、弾丸が数発命中した。

 鋲が金属にめり込むような音が、機体の後方に去っていく。 

 それが実弾だったとしても、撃墜されるほどの量ではなかった。この程度なら、損害は軽微といえる。しかし、頭の痛みはどうしようもなかった。多少痛みの潮は引いたが、まだじわじわと神経が刺激されている。

 刃が緩やかに尽きたてらるような感覚だった。

 (このままだともっと被弾してしまう。短期決戦でいった方がいいかもしれない)

 大人しくやられるつもりはなかった。嬲られてばかりでいては、こちらの評価が下がるだろう。第一、素子の気性に合わない。

 新たな意思の灼熱が生まれる。

 炉から抜かれた剣で示すように――素子は、それを電脳に刻み付けた。指令は、電脳を経て戦闘機の機関に伝えられる。

 わざと適切なタイミングを遅らせ、敵の方へ弾丸を放った。弾丸が到達する直前に、敵機は向きを変える。先端を常に素子の機に向けた状態で、衛星のように回転した。

 鮮やかな回避である。

 そのまま後ろを取ろうと言うのだろう。ある位置までくると、敵機は直進しだした。

 コンピュータで再現された空間情報内を、敵影が擦過してゆく。こちらの斜め前から、真横、そして後方へと。申し分のない挙動だった。自分がこれだけの機動が出来たとしたら、自分を褒めてあげるだろう、と素子は思った。

 だが同時に、首筋に寒気が走る。恐ろしさから来る悪寒だった。弾丸を放たれることよりも、自分の入隊を阻まれることへの恐怖だったが。それが鋭い刃物へと変わる前に、手を打たねばならない。

 「お見事……」

 素子は独りごちる。

 弾丸は回避されたが、目当ては達成されていた。敵の動きをかき乱すという、最初の目当てが。

 敵機と同様、素子も戦闘機を旋回させた。ただし上方にである。敵機の後ろに回り込むつもりはない。

 というのも、お互いに後ろの取り合いになっては面白くないからである。空中で無意味に連星を演じるのは馬鹿らしくもあったし、勝利できるか否かが全くの賭けになってしまうからだ。すなわち、人の技量が勝敗に反映されにくい。

 素子は、顎を望む方角へと振った。

 戦闘機が急旋回、いやむしろ、ブーメランのように回転する。戦闘機の先端が、真下に近い方向へ向いた。そして、その先には敵機がいる。

 "彼女"は、こちらに銃を向けようと躍起になっていた。

 それは、今にも現実となりそうであった。

 「させないわ」

 彼女の見えない操縦者に対し、素子はそう宣した。

 刹那、戦闘機を敵に向けて突進させる。先ほどと同じ、前進しながらの射撃である。こちらの危険も大きいとはいえ、命中させ易い戦法のはずだった。

 ナギナタならば、それでも軽く回避してしまう。敵弾回避に特化した性能を考えれば、当然ともいえる。

 しかし、それに異を唱えてもよいだけの条件を積み上げた。

 残り数秒も続かないだろうが、敵はやや混乱状態。重力加速度も味方につけている。その上、敵は急な方向転換が得意ではないようだった。まるで、旧式の戦闘機の醜い動きを引きずっているようでもある。操縦に慣れた者でなければ気づかないような小さな弱点だったが、こちらに有利な材料には違いない。

 全身全霊をあげて、素子は弾丸を撃ち込もうとする。

 が、頭皮から深くない部分で、違和感が沸き起こった。

 (またなの……!)

 強烈な痛撃が、素子の頭をねじ上げた。

 再び頭痛が訪れたのである。思わず頭を抑えたくなり、手を電子兜の隙間からそこに差し入れようとした。

 だが、素子は理性で押しとどめる。

 (まだよ。あなたが来ていいのは)

 操縦に及ぼす悪影響を、単なるぎこちなさのみに限定する。そのために、素子は苦痛を捻じ伏せようとした。

 (今は――)

 逆に、苦痛に捻じ伏せられそうになる。それでも、素子は折れなかった。

 「今は……あなたが、負けるっ!」

 いつの間にか、叫んでいた。

 素子の咆哮とともに、弾丸が空気を貫く。今にも衝撃波の域に達しそうな重奏を、激しく奏でていた。

 敵機は、ようやく制動を取り戻していた。敵に睨まれた草食動物のような、驚きと冷え切った恐れが、念波が伝わってきた。機械を通して増幅されたのではなく、どうやら操縦者が思わず放った物のようだった。感情の残滓がかすかに窺える。

 しかし、操縦者は避ける技術を持たず、時間も与えられなかったらしい。

 自分が食らうと考えたら、身ぶるいが走る。それだけの数の弾丸が、敵機に命中した。弾が、衝撃で炸裂する。大いに目立つ紅色の塗料が、敵機を血の様に彩った。動脈が切り裂かれたかのような、大量出血である。

 これは、かなり評価が高いはずだった。

 案の定、素子が何か次の行動をしようとする前に、無線のノイズ音が鳴る。

 『揚刃Aは撃墜、と結果が出ました。勝負あり』

 マリイの声が響いた。やはりどことなく面白そうだったが、しかし今回は多少の喜悦が含まれている気がする。

 『来須上等兵の勝ちよ!』

 告げる彼女に、素子は安堵していた。

 痛みの種を抱えてはいる。それでも、敗北しなかったことを素直に喜ぶことはできた。自分の実力が、同期にも劣らない。そのことを、実際に証明したのだから。

 (もう、痛んでもいいわよ。好きなだけ……)

 素子は、そう思う気になった。

 だが、体というのは天邪鬼なのだろうか。いざ痛んでよいとなると、あまりに容易に痛みが勢いを枯らしていく。

 残った痛みにも、今までとは違った気配が感じられえた。

 乳歯が永久歯の圧力で不安定にぐらつくかのように、痛みの消えうせる予兆が感じられたのである。今は、その最後の炎が燃え上がっているように、素子は思った。

 根まで達した養分が、病を駆逐しつつ上昇している。

 そのようにして、ここしばらく絶えてなかった開放感を。素子は、存分に堪能した。

 (ほら、やっぱりなんとかしてみせたでしょう? お父様……)

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