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第3章:カレンダーの印と、遠い鉄路・ノンフィクション


中学三年生になり、進路の選択を迫られる時期がやってきた。教師からは高校進学を強く勧められ、私自身、学びたい気持ちはあった。だが、進学するということは、あの酒乱の父とさらに三年間、同じ屋根の下で過ごすことを意味していた。


(もう、限界だ……)


私の心は決まっていた。一刻も早くこの家を、この島を離れたい。そのためには就職するしかなかった。父からは「なぜ高校に行かんのか」と烈火の如く怒られ、連日のように殴られた。しかし、私は折れなかった。「あんたと一緒にいるのが嫌だから」とは口が裂けても言えない。咄嗟に口から出たのは、思いもよらない言葉だった。


「俺は、床屋さんになりたいんだ」


理容師という職業に特別な憧れがあったわけではない。ただ、島を出るための大義名分が必要だった。父も最後には諦め、同じ集落の知人の縁を頼って、福岡の理容店で住み込みの修行をさせてもらえるよう取り計らってくれた。


十五歳での住み込み修行。見知らぬ土地での生活に不安がないわけではなかった。だが、それ以上に「あの怪物」から解放される喜びが、私の胸を占めていた。

私はカレンダーに毎日「×」を付け、島を出る日を指折り数えた。親と離れられる日へのカウントダウン。一日が、永遠のように長く感じられた。


孤独な旅立ち


ついに旅立ちの日が来た。

父は餞別代わりに腕時計を買ってくれた。布団と僅かな衣類、そして左腕の時計だけを持って、私は両親と共に船に乗った。

福岡の店に到着し、案内されたのは六畳一間の相部屋だった。二人の先輩と私の三人暮らし。父たちは挨拶を済ませると、足早に帰路についた。


博多駅まで見送りに着いていくと、別れ際、父から一万円ほどを手渡された。それが、不器用な親心だったのかはわからない。

一人残された駅のホームで、私は途方に暮れた。対馬には電車など走っていない。空には飛行機も飛んでいない時代だ。あるのはバスガールが乗るバスと、車も何台か運ぶ事が出来る船だけ。修学旅行以外で島を出たことのない少年にとって、自動券売機すら未知の機械だった。  


駅員に聞き、なんとか切符を買ったが乗り場もわからずやっと電車に飛び乗った。

車窓を流れる見知らぬ景色。次に襲ってきたのは「どこで降りればいいのか」という恐怖だった。ホームの看板に書かれた三つの駅名の見方すらわからず、降りたい駅の一つ手前で慌てて下車してしまった。迷い、歩き、ようやく辿り着いた理容店。そこが私の、新しい「戦場」だった。


喉を通らない食パン


六畳間に三人の生活。私の居場所は二段ベッドの上段しかなかった。荷物を置くスペースもなく、足元に積み上げるしかない。

初めて他人の家で食べる朝食は、一枚の食パンだった。一斤のパンを自分で切り分けて食べる。ハイカラな食べ物のはずなのに、緊張でどうしても喉を通らなかった。


店には、引退した老夫婦から末の娘さんまで、総勢十人の大家族がひしめいていた。その圧倒的な活気に気圧されながら、私の修行が始まった。

初日の仕事は、ひたすらタオルを洗うこと。それが終われば、床に散らばった客の髪を掃き取り、それ以外の時間は、先輩たちの後ろに立ち、その技術をじっと盗み見る。座ることは許されない。


夕食に出されたご馳走も、やはり喉を通らなかった。

夜、一日中立ち続けた足はパンパンに腫れ上がり、熱を持っていた。布団を折り畳んで足を高く上げ、仰向けになる。

身体は悲鳴を上げていたが、心は驚くほど穏やかだった。


(今夜も、あの怒鳴り声を聞かなくていいんだ)


暗闇の中で、私は静かに息を吐いた。もう、服を着たまま寝る必要も、裸足で逃げ出す準備をする必要もない。

四月からは理容学校も始まる。十五歳の春、私の人生は、ようやく自分の足で歩き出そうとしていた。

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