第12章:行き場のない地面に、足を下ろす
対馬に戻って、私はあらためて自分が中卒であることを突きつけられた。
仕事を探そうと職安へ通ったが、掲示板に並ぶ求人のほとんどに「高卒以上」の文字があった。
レンタカーの洗車。
おしぼりの配達。
弁当の配送。
これならできる、そう思った仕事を窓口に持っていくたび、同じ言葉が返ってきた。
「条件が変えられないので、紹介できません」
業者に問い合わせてもらうことすらできなかった。
毎日通っても、やりとりは変わらない。
自営業しか知らず、雇われたことのない私にとって、それは想像以上に重たい現実だった。
条件が緩い仕事は、肉体労働だけだった。
だが、身体を使った仕事の経験はなく、糖尿病で体力もない。
それだけで、面接にすら至らなかった。
大型免許があれば、と何度も思った。
だが、低血糖による意識障害の危険があり、運転の仕事も選択肢から消えた。
その間、妻が働いた。
弁当の配達。
物産店の店員。
ほか弁屋のアルバイト。
それで何とか食いつないでいたが、月に一度、二人そろって通院がある。
診察代と薬代で、平均して三万円。
貯えは底をつき、このままでは病院にも行けなくなると感じ、市役所の福祉課を訪ねた。
話し合いの末、生活保護を勧められた。
奇しくも、毒父と同じ制度だった。
生きるために、他に道はなかった。
ようやく息がつけると思った矢先、妻に新たな病が見つかった。
左耳の下に、こぶのような腫れ。
検査の結果、今のところ悪性ではないが、放置すれば悪性化する可能性がある。
神経が集中する場所で、手術は難しいという。
長崎大学病院から専門医を呼ばなければ手術はできず、時期も未定だった。
急を要する状態ではない。
そう告げられ、私たちは待つしかなかった。
生活保護を受けながら、私は実家のある集落の土地を片づけ始めた。
畑を持つ親戚の車に便乗し、荒れ果てた敷地へ向かう。
毒父は酒を飲むだけで、何年も手入れをしていなかった。
三世代が暮らしていた場所には、本家とは別に二軒の空き家が残され、今にも崩れそうだった。
ショベルカーを借り、解体した。
家屋には長年絡みついたカズラが大木と繋がり、簡単には倒れなかった。
丸一日かけて、ようやく二軒を崩した。
翌日からは瓦礫の片づけだった。
燃えるものは燃やし、太い柱は畑の隅へ運ぶ。
すべて、二人きりの手作業だった。
草が伸びれば除草剤を撒き、草刈機で刈る。
それを、何度も繰り返した。
ときには数日分の食料を持ち、天井の抜けた家に泊まり込んだ。
すべてが片づくまで、半年近くかかった。
敷地がようやく、元の形を取り戻した。
『その間も一週間に一回に頻度で職安には通った。
相変わらず紹介してもらえる仕事はなかった。』
その話は、老人ホームにいる毒父の耳にも入っていたらしい。
病院で顔を合わせた際、見に行くよう勧めたが、父は頑なに拒んだ。
相談なく家を壊したことが、気に入らなかったのだろう。
妻が診断を受け一年近くが過ぎ、やっと手術日が決まった。
二週間の入院予定。
そのタイミングで、私にも糖尿病の教育入院を勧められた。
一人で過ごすより、その方がいいと思い、入院を決めた。
妻の術前検査が終わり、翌日が手術という日の早朝。
午前六時ごろだった。
看護師が、慌てた様子で私を起こしに来た。




